第二十小節 ~狂者の凱旋曲~
闇塚の洞窟を抜けた先。岩肌がむき出しになった緩やかな傾斜地は、もはや天然の避難広場となっていた。
瓦礫の上に敷かれた粗末な布や毛布の下で、ビルデンの民は肩を寄せ合い、恐怖と混乱のただ中で互いの温度だけを頼りに震えている。
風は冷たく、洞窟の奥から吹き返す湿った空気には、まだ怪異が潜むような陰りがあった。
その中央に、どっしりと立つ巨岩のような男がひとり。
エーウディア=マス=エスメラルダ。
かつて『金剛獅子』の名を轟かせた、ビルデン国最高騎士団長にして、ルヴェンたち兄妹の実父。
年齢を重ねてもなお、鎧の継ぎ目から見える腕や首筋に刻まれた筋肉は鋼鉄じみた硬さを宿し、カールの効いた金髪は風にさわさわと遊ばれても決して弱々しさを感じさせない。
彼の瞳――意欲と闘志に満ちたコバルトブルーは、いまなお戦場の全てを見通すかのように鋭く澄んでいた。
現在はすでに権力を後進に委ね、幼き国王の側仕え――通称『爺や』として政務補助を務める身である。
それでも、戦の匂いが漂うとなれば、彼の中の獅子はいつだって目を覚ます。
その横に控える影は、対照的に細長い。
騎士団副団長、マスカル=アーバスタ。
生家の財力で地位を得た、と陰で囁かれる男で、黒髪の短髪はいつも湿気を嫌うように神経質に整えられ、細身の体は小刻みに揺れ続けている。
彼の視線は常に落ち着かず、何かを疑い、何かを企み、何かを恐れている――そういう“裏”の影が、ふとした仕草に滲み出ていた。
そしてその足元では、小さな手がエーウディアの衣を握りしめていた。
アルフェルスト=ビルデンⅨ世。
弱冠九歳の幼王であり、先代の急逝に伴って即位せざるを得なかった子供。
鼻元に散るそばかすが幼さを際立たせ、赤く泣き腫らした瞳は怯えを隠せず、その身体はエーウディアの脚にぴったりとしがみついて震えていた。
そんな中――誰かが空を指差して叫んだ。
「見ろ! あれは……!」
ざわめきが波紋のように広がり、民衆は一斉に頭上を仰ぎ見た。
闇塚の上空で戦っていたはずのルヴェンが、静寂の中に憎悪を孕みながら地上へと舞い降りたのだ。
彼の周りの風は先程の戦闘の余波か、熱気を帯びている。
その姿は、古い伝承にある『守護竜の奇跡』を思わせた。
竜依戦士――文字の上でしか知らなかった伝説が、いまこの瞬間、実体を得て蘇ったかのようだった。
歓声は瞬く間に膨れ上がる。
「本当に……伝説が……!」
涙を流す者、膝をついて祈る者、手を伸ばし叫ぶ者。
恐怖に凍っていた空気は、まるで氷が割れるように一気に熱を帯びた。
「な、なんだアレは!? おい、部下ども! 早く行って確認してこんか!!」
ただひとり、マスカルだけがその光景を素直に受け入れられない。
彼の声は金属を引き裂くように甲高く、恐怖と嫉妬と焦りが混ざりきった不自然なものだった。
しかし――誰も彼の命令に従わない。
騎士たちは皆、熱狂に呑まれ、伝説の帰還者のもとへ駆け寄っていった。
「爺ぃ……さっきの、すごかった……! どかーんって!」
アルフェルストが涙の跡を残したまま、興奮気味にエーウディアを見上げる。
父として、騎士として、彼は息を呑んだ。
「……は。失礼を、陛下。あれは――私の息子、でございます。まさか……あの子が、あそこまで……」
誇りと、理解を越えた畏れ。
相反する感情が心の中で渦を巻き、口元がわずかに強張った。
説明を続けようとした瞬間だった。
「ウアアァァァァアァァッ!!」
地上に降り立ったルヴェンが、気怠げに垂れていた両腕を――突如、力任せに左右へ大きく薙ぎ払った。
まるで、体内に蓄えた竜の咆哮を外へぶつけるかのように。
『風』が動いた。
しかしそれは、自然の風ではない。
音もなく走る、不可視の暴刃だった。
「ぎゃああああっ!!」
「うわああああああ!!」
ルヴェンのもとへ駆け寄っていた騎士たちが、まるで巨大なミキサーに放り込まれたように細切れとなり、赤黒い断片となって空中へ舞い上がった。
血の粒がほとんど霧のように拡散し、続けざまに雨のように降ってくる。
まるで横殴りの雨だ。
肌に触れるたび、生暖かい液体が身体を湿らせた。
民衆の歓喜は、一瞬で悲鳴へと反転する。
「やだ……やだああああ!!」
「ひ……ひぃっ、助けて……!!」
避難所は混乱を越え、地獄絵図と化した。
嘔吐と泣き声、転げ回る影、逃げ惑う足音が渾然と混ざり合い、洞窟の外にまで響く。
その混乱の中で――
本来なら英雄として迎えられるはずだった男は、血霧の中心で静かに佇んでいた。
ルヴェンはゆっくりと、首をかしげるように周囲を見回した。
瞳は焦点を結ばず、まるで何かに引き寄せられるように。
そして――足を踏み出す。
ゆらり、ゆらりと。
その歩みは遅い。だが確実に、避難所の中心へ向かっていた。




