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第十九小節 〜石狩人〜



 闇塚の上空――そこは、もはや現世の空ではなかった。


 張り詰めた緊迫感は極限まで研ぎ澄まされ、空気そのものが悲鳴を上げているかのように震えていた。肌を刺す冷気は、まるで“見えない捕食者”が息を潜め、こちらを値踏みしているかのようだ。


 その空を覆い尽くすように鎮座するのは、雲が意志ある生命へと変質したかのような、巨大な『魔石の勇者』。


 雷鳴のような脈動に合わせて雲海が脈打ち、中心に埋め込まれた巨大な魔石が、深淵めいた光を鼓動のように明滅させている。


 対するは――地獄の底から這い上がったような漆黒の翼を広げた『黒竜』ルヴェン。


 その姿はもはや人間という枠から逸脱しており、全身を覆う黒い鱗は、闇すらも吸い込むように光を奪っていた。世界の均衡がたった一人によって歪むほどの圧迫感が、ルヴェンの存在そのものから発されている。


 睨み合う空気は、一触即発どころではない。触れれば最後、世界そのものがひしゃげて崩壊しそうなほどだ。


 その瞬間――ルヴェンの背中に、幻影のようにふわりとロインが現れる。


 風に揺らぐ影とも、魂が抜けた残滓ともつかない。その瞳は異様なほどの『虚無』、戦場で彼の存在が一際異質だ。


 そして彼は、空を裂くほどの声で歌いだした。


「狩人よ、そなたの願いは如何程に?

 勇者よ、そなたの欲望は如何程に?

 誰が為に戦い、誰が為に奪うのか?

 先は見出せず、互いの狩りは始まる……

 尽きぬ渇望、終わりなき永劫の戦いが……」


 その唄声は、まるで戦乱の予言書そのもの。

 残響が空を満たし、世界が共鳴するように低く唸る。


 ロインの姿が陽炎のように揺らめき、消え失せた瞬間――世界は弾け飛んだ。


 魔石の勇者を形成していた雲の隙間から、無数の閃光が噴き出す。雨どころか豪雪の如く、白い光の矢が空を埋め尽くし、音速を超える甲高い衝撃音が大気を震わせた。


「ウオオッォォォ!!」


 ルヴェンは喉が裂けるほどの咆哮を上げる。

 広げた両手の前に、漆黒の鱗が波打つように盛り上がると、絶対不可侵のシールドが生成され、迫り来る光の矢をことごとく弾き飛ばした。


 金属同士が擦れ合うような高周波の音が連続し、矢は砕け散って光の粉となる。


 反撃の刻が訪れる。


「ウガアアァアア!!」


 それはもはや、竜そのものの咆哮だった。

 ルヴェンは両手を構えると、空間がねじれるほどの魔力を一気に圧縮する。音が消え、世界が彼の掌だけを中心に沈黙する。


 その中心に生まれたのは――漆黒の炎。


 掲げられるや否や、炎は膨張し続け、あっという間に山ひとつを呑み込むほどの巨大な『黒い太陽』へと変貌する。


 空が悲鳴を上げ、周囲の雲が溶けていった。


 そして、投擲。


 ルヴェンの腕が、まるで世界の重力を断ち切るようにしなり、黒い太陽を放り投げる。


 魔石の勇者は咄嗟に結界を展開した。だが、薄紙だ。


 圧倒的な暴力の前に抵抗は意味を成さず、黒い太陽は雲と結界を貫いて中心部へと突き刺さる。


 ――爆発。


 世界そのものが裏返ったかのような衝撃波が走る。

 胃がひっくり返るような振動が大地を揺らし、視界が灼熱の黒に染まった。


 翼の魔物たちは悲鳴すら上げられず、瞬時に灰となる。雲が吹き飛び、中心の魔石が剥き出しになる。


 その瞬間、ルヴェンは一気に距離を詰めた。


 血と泥に塗れた左手に闘気を収束させ、剥き出しの魔石を鷲掴みにする。


「ウガアアアアアァァァァァ!!」


 黒竜の拳が握り込まれる度、魔石の表面に亀裂が広がっていく。


 そして砕けた……。


 巨大なガラスが粉砕するような音と共に、魔石から溢れていた光は霧散し、魔石の勇者は崩壊する。


 戦いは、あまりにも唐突に終わった。


 ルヴェンは空中でしばし佇んだまま動かない。

 やがて、重く、ゆっくりと漆黒の翼を羽ばたかせ、地面へと舞い降りた。


 土を踏む音は妙に静かで、戦場の喧騒が嘘のように思えるほどだった。


 辺りには焼け焦げた大地と、蒸発した魔物の残骸だけが広がっている。

 熱気と冷気が混じり合い、空気はまだ震えていた。


 しかし、静寂は訪れない。


 彼の瞳には――消えぬ殺意があった。


 胸の奥で脈打つ力は暴走寸前で、ルヴェン自身ですら制御できていないように見える。黒竜の力が血管を焼くように迸り、呼吸するたびに熱が立ちのぼる。


 自分が何者なのか。

 いま何を破壊したのか。

 それすら曖昧になっていくほど、思考が黒く染まっていく。


 そのとき――そっと、風が吹いた。


 優しい風だった。焦げた匂いと血の臭気を押しのけるように、まるで春の初日に吹く柔らかな風。


 耳元で、ロインの声が囁く。


 「ルヴェン、黒竜の覚醒はまだ序曲でしか無い。これから紡がれる組曲のね……。」


 それは、記憶の底に沈んだ小さな声。

 戦いや破壊とは無縁の、あまりにも穏やかな声。


 瞳の奥で渦巻いていた黒い衝動が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。


 気づけば、さっきまで頭上にいたロインの残響が、まだ空に微かに残っていた。歌の余韻が、風に溶けて漂っているようにも感じた。


 ルヴェンは顔を上げる。


 灰と煙に塗れた空を見つめながら――

 鋭い瞳は、まだ狂気と憎悪を孕んでいた。


 闇はまだ深い。


 黒竜の力は、ただ勝利しただけでは収まらない。

 戦いの後こそ最も危うい。


 遠くで、地面の割れ目が小さく震えた。

 その揺れは、まるで大地が“彼を恐れている”かのようだった。


 ルヴェンはゆっくりと息を吐く。


 ひどく長い、獣の呼気。

 その白い蒸気が風に流れ、ようやく空へ消えた。



 しかし、戦場の静寂は語る。

 破壊は終わっていない。

 狩人と勇者の物語は、まだ始まったばかりだ。


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