第十六小節 ~戦いのOVERTURE~
辺りの空気は、先ほどルヴェンが発した咆哮の余韻で、未だビリビリと震えていた。
それは音というよりも、大気を伝う衝撃波となって肌を刺す。
「ル……ルヴェ……ン?」
強烈な耳鳴りに顔をしかめながら、オルスがその名を呼ぼうとした、その刹那。
「ギギシャァーーー!!」
恐怖に駆られた魔物たちが、一斉に悲鳴のような鳴き声を上げた。
彼らは本能で悟ったのだ。目の前の存在を今すぐ排除しなければ、自分たちが喰われると。
四方八方から鋭い爪と牙がルヴェンへと殺到する。
だが、ルヴェンは動じない。
彼から感じられる気配は虚無と憎悪、ただそれだけ。
次の瞬間、彼を包んでいた黒い霧が意志を持った生き物のように背中へと凝縮され、蠢きながら禍々しくも巨大な『翼』を形成していく。
「ウオォオオオ!!」
ルヴェンが獣のような咆哮とともに、両手を天へ掲げ、溜め込んだ力を一気に振り下ろした。
――ドォンッと言う衝撃音の後、世界が、裏返る。
巨大な振動と共に、この空間を支配していた物理法則が崩壊した。
「え……?」
地面にいたはずのオルスとコリア、そして巨大なサソリの魔物が、引力を失ったかのようにフワリと宙へ投げ出されたのだ。
対照的に、空中を我が物顔で羽ばたいていた飛行型の魔物たちは、見えざる巨大な手に叩き落とされたかのように、一斉に地面へと激突した。
熟れたトマトを床に投げ付けた時の様な嫌な音が響き、魔物たちが自重と圧力で圧死する。
「どわああぁああ! とと! 飛んでる!! なんだこりゃあぁ!?」
「え? アレ、私……ええ!? 何ですかこれ!! きゃあああ!!」
無重力の空間で手足をバタつかせるオルス。
その騒ぎで意識を取り戻したコリアも、目覚めた瞬間に天地が逆転している悪夢のような光景に直面し、悲鳴を上げてパニックに陥った。
「グググ……グオオォオオ!」
宙に浮いたまま、巨大なサソリの魔物だけが体勢を立て直そうと藻掻く。
ハサミを振り上げ、全身に闘気を溜め込み始めたが――それは、あまりにも遅すぎた。
ルヴェンが右手を固く握りしめる。
すると呼応するように、黒い霧が彼の右腕に絡みつき、実体化する。それは人の腕ではない。鋭利な爪と硬質な鱗を持つ、漆黒の『竜の拳』だった。
決着は、瞬きする間すら与えなかった。
黒い霧の翼が羽ばたいた瞬間、ルヴェンの姿が音を置き去りにして掻き消える。
異常な速度。オルスの動体視力ですら、彼が移動した軌跡を追うことはできない。ただ、突風が巻き起こり、砂埃が舞い上がっただけだ。
次の瞬間には、ルヴェンはサソリの懐にいた。
漆黒の拳が振りかぶられ、解き放たれる。
拳が岩盤を叩くような重い音。
魔物の胴体が内側から破裂したように陥没し、緑色の体液と肉片が爆散した。
アズルーとテウロンを惨殺した怪物が、たったの一撃。
虫けらのように捻り潰され、絶命した。
「嘘……だろ……? なんだよ、それ……」
オルスは飛沫を浴びながら、言葉を失っていた。
これは剣術ではない。武術でもない。
ただの、圧倒的な「暴力」だ。
その凄惨な光景を見下ろす岩棚に、ロインが静かに現れる。
彼は飛び散る血飛沫を背景に、厳かに、そして悲しげに歌い始めた。
「幕は上がった、戦いの序曲。
復讐の旋律、怒りの律動。
弱き者は喰われ、強き者は嗤う。
理は崩れ、ただ力のみが支配する。
見よ、目覚めし黒き災厄を。
それは救世の剣か、滅びの鎌か……」
そしてロインは魔物の血の雨の中、衣服一つ汚さずゆっくりとリュートを弾き続けていた。
……ドサドサと、狭い洞窟の通路に、かつてサソリだった大量の肉片と体液が雨のように降り注いだ。
「スッゲ……スゲーよルヴェン! オマエどうしたんだ!? メチャクチャ強いじゃん!」
尻餅をついたオルスは、降り注ぐ血の雨を避けながら、引きつった笑みを浮かべた。
腰が抜けて力が入らない足を引きずり、友の元へ這い寄ろうとする。恐怖を誤魔化すために、あえて明るく振る舞うしかなかった。
だが、ルヴェンはオルスを見なかった。
血塗れの中に呆然と立ち尽くしていた彼は、何かの気配を感じ取ったように、ゆっくりと首を動かす。
その漆黒の瞳が、遥か頭上の暗闇――地上へと続く穴の彼方を凝視した。
「グルルルルル……」
喉の奥から響く、不気味で低い唸り声。
ルヴェンは軽く膝を曲げると、弾丸のように跳躍した。黒い霧が彼を包み込み、その姿は闇へと溶けるように消え失せていく。
「おい……ルヴェン? おおーーい! どこいくんだーーー!!」
「兄様!! 兄様ぁああー!」
取り残されたオルスとコリアは、彼が飛び去った虚空を見上げ、限りの声を張り上げた。
しかし、返ってくるのは無情な静寂だけ。
しばらくの間、二人は呆然と立ち尽くしていた。
だが、いつまでもここにいるわけにはいかない。
オルスは震えるコリアの手を引き、重い足取りで歩き出そうとした。
その時だ。
遥か洞穴の奥から、複数の、そして切迫した人の声が聞こえてきたのは。




