第十三小節 ~Drag'on PAIN(後)『黒』~
遠い、深い意識の底から、ルヴェンはゆっくりと浮上した。
「う……、ここは……?」
重いまぶたを開けると、そこは見覚えのある場所――闇塚の洞穴だった。
だが、先ほどまでの耳を劈く魔物の咆哮や、戦いの喧騒は嘘のように消え失せている。
あるのは、湿った岩肌に反響する水滴の音と、永遠とも思える静寂だけ。
ふと、視界の下方に、優しく揺らめく炎の明かりが見えた。
視線を下げると、自分の体のすぐ傍らで、背中の中腹まで伸びる艶やかな黒髪を持つ女性が、寄りかかるようにして眠っていた。
その姿は、まるで親に甘える子供のように安らかで、どこか神聖な空気を纏っている。
――そこで、ルヴェンは決定的な違和感に気づく。
隣にいる女性が、あまりにも「小さい」。
まるで豆粒のようだ。
いや、それだけではない。見上げるほど高かったはずの洞穴の天井が、手を伸ばせば届きそうなほど近くに迫っている。
「な……何だコレ!? 僕の視界、どうなってるんだ!?」
ルヴェンは慌てて辺りを見回し、自身の体へと視線を落とす。
そこに映ったのは、人間の手足ではなかった。
黒曜石のように光り輝く硬質な鱗。丸太のように太く強靭な四肢。そして、背中から伸びる巨大な翼。
体中には無数の古傷が刻まれ、そこから赤い血が滲んでいる。
「うわ! うわあっぁあ!!」
驚愕のあまり叫び声を上げたはずだった。
しかし、喉から迸ったのは、洞窟全体を震わせる重低音の「咆哮」だった。
ルヴェンの体は、深く傷ついた、伝説の巨竜そのものへと変貌していたのだ。
その咆哮に驚き、傍らの女性が目を覚ます。
彼女は怯える様子もなく、むしろ愛おしそうに竜の太い前足に抱きつき、何かを必死に訴えかけてくる。
「???……?……」
言葉が、分からない。
音としては聞こえるが、意味のある言語として脳が処理できないのだ。
「あの、僕は一体? コレは何ですか? 貴女は……誰……ですか!?」
ルヴェンも必死に問いかける。
だが、口から漏れるのは「グルルル……」という低い唸り声だけ。
人と竜。種の違いという絶望的な壁が、二人の意思疎通を阻んでいた。
…………
しばしの沈黙。
互いに言葉が通じないことを悟ったのだろう。女性は寂しげに微笑むと、傍らに置いてあった古びた壺を取り出した。
中から象牙色をした半固形の液体を掬い取り、ルヴェンの――竜の傷ついた鱗の隙間へ、丁寧に塗り込み始める。
「痛いッ!!」
傷口に染みる激痛に、ルヴェンは思わず身を捩った。
けれど、その手つきはあまりに優しく、献身的だった。
彼女の真剣な横顔を見つめていると、傷の痛みとは裏腹に、胸の奥が温かいもので満たされていくのを感じた。
それは、孤独な魂に寄り添う、無償の愛。
処置を終えると、彼女は地面に横たわるルヴェンの巨大な顔にそっと身を寄せ、硬い頬鱗に優しく口づけをした。
その温もりに触れた瞬間、ルヴェンの意識は急速に安らぎへと落ちていく。
抗えない眠気の中、彼は思う。
――ああ、このまま、この温もりの中で眠っていたい……。
ふと、ルヴェンは周囲のざわめきと、肌を刺すようなビリビリとした殺気で目を覚ました。
平和な静寂は破られていた。
いつの間にか、周囲には無数の松明の炎が揺れ、武装した大勢の人間たちが、ルヴェンと女性を完全包囲していたのだ。
松明の明かりが、竜の巨体を不気味に照らし出す。
人垣が割れ、一人の男が進み出てくる。
豪奢な鎧に身を包み、背丈ほどもある巨大な剣を軽々と携えた巨漢。その全身からは、ただならぬ覇気が立ち昇っている。
男は憎悪に満ちた形相で、ルヴェンの傍らに立つ女性に向かい、何かを激しく怒鳴りつけた。
話し合いの余地など微塵もない。
彼らの瞳にあるのは、異形を屠らんとする「正義」という名の殺意だけ。
ルヴェンは瞬時に悟った。
彼らは自分を――「竜」を狩りに来たのだ。そして、竜に魅入られた彼女もまた、断罪の対象なのだと。
次の瞬間だった。
女性が両手を大きく広げ、ルヴェンと男の間に立ちはだかった。
か弱く、小さな背中。けれどその姿は、我が子を凶刃から守ろうとする母のように気高く、揺るぎなかった。
「何してるの!? 逃げなきゃ! 貴女も殺されてしまう! どいて! 逃げて!!」
ルヴェンは叫んだ。喉が裂けんばかりに咆哮した。
だが、その声は届かない。
男は躊躇なく剣を振り上げ――。
無慈悲な斬撃音と共に鮮血を散らした。
無抵抗の彼女の体が紅い花びらの様に、宙を舞った。
男の身に着けていた紅いマントが返り血を浴びるが、その鮮血をまるで「無かった事」の様に受け止める。
「うわ! うわああぁああ!!」
時が止まったようだった。
ルヴェンの心に、これまで感じたこともない絶望、虚無、そしてどす黒い憎悪が噴出した。
心が、痛い。
肉体の痛みなど比ではない。魂を引き裂かれるような激痛が、竜の胸を貫いた。
「オマエ! オマエらああぁあえええ!!」
赦さない。絶対に赦さない。
ルヴェンは――いや、黒竜は慟哭し、痛みで動かないはずの巨体を無理やり起こした。
怒りのままに巨大な翼を展開する。その風圧だけで、松明の火がかき消されそうになる。
圧倒的な竜の威圧。
包囲していた兵士たちは恐怖に顔を歪め、蟻が巣から逃げ惑うように散り散りになった。
しかし、あの男だけは違った。
鎧の男は一人仁王立ちのまま、不敵な笑みを浮かべ、その口元を装備の蒼いマフラーで隠す。
そして、竜殺しの魔力を帯びて怪しく光り、ドッドッドッと連続音を鳴らす大剣を構え、真っ直ぐに走り込んできた。
次の瞬間、男の姿がかき消えた。
人間離れした跳躍。
男の体は、ルヴェンが今まで見たこともないほど強大で濃密な『闘気』に包まれていた。
空中で大剣を振りかぶり、脳天を目掛けて急降下してくる。
ルヴェンは迎撃しようとしたが、傷ついた体は反応しきれない。
この世界のどんな鉱物よりも硬いはずの竜の鱗が、まるで砂山に杭を打ち込むかのような、手応えのない音を立てて砕かれた。
男の剣は、深々と、無慈悲に。
ルヴェンの眉間の中央へ突き刺さった。
「ギャアアアアアアアガガァアアぁああ!!」
頭蓋を割り、脳を焼き、心臓まで達するような激痛。
視界が真っ赤に染まり、次いで漆黒に塗りつぶされていく。
ルヴェンの意識は、断末魔の絶叫と共に、暗黒の底へと叩き落とされた。
……残ったのは、額に刻まれた消えることのない「傷」の記憶だけだつた。




