第十小節 〜INTO THE ABYSS〜
漆黒の闇に揺れていた二つの光は、古びたオイルランタンが放つ、どこか懐かしく温かな橙色の灯火だった。
不意に、ランタンの持ち主から聞き慣れた、獣の唸りと人の言葉が混じり合った声が響く。
「おーい! その匂い……オルスか!? それにルヴェンじゃないのか?」
「本当だ! 懐かしい匂いがするー!」
その声を聞いた瞬間、オルスとルヴェンの顔から緊張の色が抜け落ちた。
二人は互いに駆け寄り、ランタンの明かりが照らす範囲まで近づくと、その姿をはっきりと認める。
「アズルー! テウロン! ひっさしぶりぃ!」
オルスが先ほどの悲劇を無理やり塗り隠すような、明るく弾んだ声を上げた。
そこにいたのは、風塚の深き森に住まう人狼の兄弟たち。
兄のアズルーは、人間のように逞しい二本の後ろ足で直立している。かつて前足だった両腕は進化し、鋭い爪は残しつつも、器用に道具を扱える五本の指を持っていた。
腰には獣皮を巻き、石器のナイフを二本帯刀している。ランタンの光を受け、身長160cmほどの引き締まった白銀の体毛が美しく輝いていた。
その足元で跳ね回るのは弟のテウロン。見た目は愛らしい大型犬の子犬そのものだが、その瞳には知性が宿り、鋭い牙はすでに猛獣の片鱗を見せている。
ルヴェンたちにとって、彼らは幼い頃からの悪友であり、種族を超えた兄弟だった。
四人はガシッと腕を組み合い、互いの体温と生きて会えた喜びを確かめ合うように強く握ると、パッと離れてニカっと笑い合った。
「えと、兄様達……? その……狼さん……? サンたちは? 言葉を……?」
初めて見る「直立する狼」という異形に、コリアが怯えてルヴェンの背中に隠れ、その衣服の裾を掴む。
ルヴェンは彼女の震える肩を抱き寄せ、優しく語りかける。
「大丈夫だよコリア、怖くない。彼らは友達だ。僕らの大切な仲間なんだよ」
「そうそう! 俺たち怖くないぞー! しっかし、参ったよなぁ……空のあの雲はなんなんだー?」
「そーだよ! おうちが! 僕らの森が燃えちゃったよぉ……」
アズルーとテウロンが交互に嘆く。彼らの住処もまた、無慈悲な光の雨に焼かれたのだ。
その事実が、束の間の安堵に冷水を浴びせる。
「ちょーっと待ったぁ! 俺らも訳わかんないんだって……。俺も、父上を……」
オルスが声を落とし、唇を噛み締めて悲しみを吐露しようとした、その時だった。
足元を揺らせる巨大な地響きと共に、背後の岩盤が崩落する音が轟いた。
それに続き、空気が振動するほどの魔物の咆哮が、闇の底から吹き荒れる。
「ッ!! ヤッベェ! 奴ら入ってきやがった! 逃げるじぇ!」
野生の勘で死の気配を感じ取ったアズルーが、即座に踵を返して走り出した。
「おいー! 置いてくなよー! 君たちの方が足速いんだからぁ!!」
ルヴェンたちは息を切らせ、暗闇の中を疾走する銀色の背中を必死に追う。
彼らが走り去った直後、崩れ落ちた岩の上にロインが音もなく降り立った。
彼は迫りくる魔物の群れを背に、哀れみと諦観を含んだ瞳で闇を見つめる。
「大いなる闇、巨大な力。
行き場を失い、深く、遠く眠りしもの……。
そのもの達の咆哮には、
深淵の悲しみ、痛み……。
永遠に癒されること無く、
永劫の時を彷徨う怨嗟が満ちている……」
ロインがそう唄い終えると同時に、洞穴の入り口から堰を切ったように大量の魔物が雪崩れ込んだ。
黒い奔流が、光を飲み込みながら奥へと進んでいく。
「やばい! やーーばいって! 追いつかれる!!」
最後尾を走るオルスが、鬼気迫る形相で叫ぶ。背後から迫る腐臭と殺気が、肌をチリチリと焼くようだ。
「祠はどこだじぇーーー!?」
先頭のアズルーも焦りを隠せない。
彼は後ろを走る足の遅い人間たちを気遣いながら、片側が切り立った深い崖になっている難所へとたどり着いた。
下が見えないほどの深淵が口を開けている。
――ギギャーーーーー!!!
不気味な金切り声が頭上から降ってきた。
洞穴の高い天井付近から、翼を持つ魔物たちが急降下してきたのだ。
「うわぁああ!!」
先頭の魔物がルヴェンの至近距離を掠めた。
驚いて身をかわそうとしたルヴェンの足が、湿った岩に滑る。
世界が傾いた。その時、一瞬だったが闇塚に蠢く風の音、魔物たちの意地汚い劈く様な声、仲間たちが振り返りながら声を掛ける全ての「音」がゆっくりと、そして「低音化」して聞こえだのだ。
次の瞬間、ハッと時間が元に戻ると、体勢を立て直す暇もなく、ルヴェンの体は黒い霧が立ち込める崖の方へと吸い込まれていく。
「ル……ルヴェェーン!」
「兄様ぁあー!!」
オルスとコリアの絶叫が重なる。
二人は反射的に崖へと手を伸ばした。
だが、その指先が掴んだのは、冷たい虚空だけだった。
届かない。
ルヴェンは暗闇の中へ、木の葉のように転がり落ちていった。
――死ぬ。
奈落の底へ落ちていくルヴェンの目に、一瞬、崖の途中から突き出した鋭い岩の突起が映った。
このままでは胴体を貫かれる。
彼は咄嗟に体を捻り、迫りくる凶器を左手で受け止めようとした。
鈍く、重い音が響く。
鋭利な岩の刃は、防御しようとしたルヴェンの左掌を容易く貫通し、甲の側まで突き抜けた。
「ガッ……、あ、あぁ……うわああぁああああ!」
脳髄を焼き切るような激痛が走り、大量の鮮血が噴き出す。
その衝撃で意識が白く弾けた。
ルヴェンの体は、崖の途中で宙吊りになっていた。
串刺しになった自らの左手だけを支点にして、深い深い闇の上で揺れている。
滴り落ちる血が、見えない谷底へと吸い込まれていった。




