第九小節 〜Don't Cry BABY(後)〜
洞穴の入り口は、まるで魔獣の大口のように暗く、冷たい息を吐き出していた。
三人がその闇へ逃げ込もうとした、その時だった。
「サルース、お前も来い! 道幅は結構ある、お前なら通れるはずだ!」
オルスが手綱を強く引く。しかし、今まで影のように従ってきた愛馬は、岩のようにその場に縫い留まり、洞穴に入ろうとはしない。
四肢を踏ん張り、鼻を鳴らし、頑として闇への道を拒絶している。
「おい、言うこと聞けよ!? そこにいても死ぬだけだぞ! 魔物の餌食になりたいのか!?」
オルスは声を荒らげ、祈るように手綱を引いた。だが、サルースはピクリとも動かない。
そのつぶらで濡れた瞳は、怒るオルスを、怯えるルヴェンとコリアを静かに見つめ――やがて、ふいっと背を向けた。
オルスは呆然と目を瞬いた。
理解が追いつかない。その一拍の静寂が、逆に胸を締め付けた。
その視線の先にあるのは、燃え盛る戦火と、主であるレグレントが眠る風塚の方角。
「おい? サルース……? お前、まさか……父上のところに?」
オルスが顔のほうへ駆け寄り、その首筋に触れて問いかけると、サルースは肯定するかのように小さく、けれど力強く嘶いてみせた。
「オルス……。行かせてあげなよ」
ルヴェンが静かに言った。その言葉が、オルスの胸を鋭くえぐる。
「ふざけるな! コイツは……コイツは俺が生まれた日から一緒なんだぞ! 俺の兄弟なんだ! おい、サルース! 俺を1人にする気か!?」
オルスは叫び、縋りつくようにたてがみを掴んだ。
吐き捨てるような言葉の裏には、父を失った直後に、さらに半身をもがれるような強烈な孤独と恐怖があった。
瞳に熱いものが込み上げ、視界が歪む。
サルースは何も言わず、ただ温かい鼻先をオルスの胸に押し付けた。
――行け。お前は生きろ。
そう言われた気がした。
少しの沈黙。
燃える風の音だけが響く中で、オルスは歯を食いしばり、決心の息を吐いた。
その声は微かに震えていたが、もはや迷いはなかった。
「……分かった。死して尚、父上の足になるつもりなんだな? 冥府への旅路、父上を歩かせたくないって言うんだな……?」
オルスはゆっくりと、指一本ずつ剥がすように手綱を手放した。
掌から革の感触が消え、繋がりが断たれる。
「そうか……。なら行け。立派に、立派に果たして来い、サルース!!」
オルスの檄が飛ぶと、サルースは漆黒の上体を高く持ち上げ、夜空を切り裂くような高らかな嘶きを上げた。
それは別れの挨拶であり、戦場へ戻る戦士の雄叫びだった。
まるで、「サヨウナラ、我が兄弟」と言っているかのように。
蹄の音を高らかに響かせ、サルースは火の粉舞う荒野へと駆け出した。
風塚へ、愛する主人の元へ。
その背中に、揺らめく陽炎と共にロインが現れる。
彼は風と並走し、優しくハープを奏でた。
「馬は走る、主人の下に、
死者のツルギと、闇の狩人が蔓延る大地を蹴って。
永遠の眠りの楽園へ、
主を運ぶ最後の翼として……」
歌声が風に溶けた、その刹那。
空気が震え、空を覆う魔物たちの群れが、まるで息を呑むように動きを揃えた。
空を覆う魔物の群れから、無数の光の刃が降り注いだ。
――ドスッ、ドスッ!!
肉を穿つ音が遠く響く。
漆黒の巨体は、幾重もの刃に貫かれながらも足を止めず、最後の力を振り絞って跳躍した。
そして、風塚まであと一歩――主レグレントの姿が見える場所で、巨木が倒れるようにどうっと崩れ落ちた。
その一瞬、サルースの瞳に主レグレントの影が映った。
が、次の瞬間、身体から力がすっと抜け落ちる。
そして……二度と、動くことはなかった。
オルスはサルースが走り去り、稲妻が起こした追い風の中、瞬きもせずに見つめていた。
魂が抜け落ちたように呆然と立ち尽くすその背中は、あまりにも小さく、脆く見えた。
「オル兄様……っ、大丈夫ですか? 大丈夫ですか!?」
たまらずコリアが駆け寄り、彼の胸元に飛び込んだ。
その温もりと衝撃が、凍り付いていたオルスの時間を動かす。
「あ……あぁ……うあぁぁぁぁぁ!!」
堰を切ったように、オルスの瞳から涙が溢れ出した。
彼はコリアの小さな体を、強く、強く抱きしめた。壊れてしまいそうな自分の心を繋ぎ止めるかのように。
「オル兄様、痛い……」
コリアは骨がきしむほどの痛みを感じたが、それを口にはしなかった。
耳元で響くオルスの泣きじゃくる声。震える体。
いつも強気な兄貴分の、初めて見せる弱さ。
彼女は小さな手でオルスの背中をさすり、痛みをこらえて、彼が泣き止むのをじっと待った。
慟哭が響く洞穴の入り口。
だが、彼らはまだ気づいていない。
その背後、どこまでも続く闇の谷の奥底で。
小さな二つの明かりが、ゆらり、ゆらりと揺れていたことに。




