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「まず空木君、パラレルワールドについてはどのくらいご存知ですか?」
蕨はそう切り出した。
「まあ、創作物で見たことがあるくらいだな」
「では、基本的なことから」
蕨は机の上に置いていた白い二つ折りの財布から十円硬貨を一枚取り出し、それを親指でピン、と上に弾く。回転しながら宙を舞うコインを蕨は左手で取って右手の甲に勢いよく叩き付けた。
やけに様になった動きだった。
左手をどけると十円玉は数字が大きく書かれた裏面を向けていた。それを逐人にも見せる。
「例えば今、十円玉は『裏面を向いて』います。でもこれが『表面を向いて』いる別世界もある。簡単に言えば、それがパラレルワールドです」
「ああ」
「十円は着地するまで表と裏のどちらを向く可能性もあり、そして、その可能性はどちらか片方だけが実際に起きるのではなく、世界が二つに分かれて、その両方ともがそれぞれのルートで起きている。私たちは十円玉が『裏面を向いた』ルートにいますが、同時に別の私たちが『表面を向いた』十円玉を見ているルートも存在している。そういうことですね」
「まあ、そのくらいはなんとなく解るさ」
「では、どんな時にパラレルワールドは生まれるでしょうか?」
問いに、逐人は半透明なままの首をひねる。
「どんな時って……、どんな時にでもじゃあないのか? 僕があんたの家に来てからだって、あんたがお茶を『淹れた』か『淹れてない』か、僕がそれを『飲んだ』か『飲んでいない』か、あんたが電話を『した』か『しなかった』か、とかな。そんな明確な場合じゃなくても、歩くのに『右足から出した』か『左足から出した』か、とかそんな些細なことでも良いし、二択じゃなくても……」
「残念ながら不正解です」
蕨は首を横にふった。
「たしかに一般的な解釈ではそれで正解です。科学的に踏み込んだ解釈でもおおむね間違いではありません。しかし、真実はそうではないのです。パラレルワールドは四、五年に一度、後に大きな歴史的変化につながる起点となる出来事が起きた瞬間にだけ生まれるのです」
「大きな歴史的変化…………?」
「これは少ない回数の分岐、限られたエネルギーで世界が多様性を確保するためと考えられていますね。記録によれば、サラエボ事件、キューバ危機、レーガン大統領の暗殺未遂、ベルリンの壁の崩壊などの際にパラレルワールドが生まれています。最近では、私たちが中学二年生の時に生まれましたが、その時は特にこれといった出来事はこのルートではありませんでした。これはおそらく、私たちのいるルートが歴史的な事件が『起きなかった』ルートで、パラレルワールドの方が『起きた』ルートと──」
「待て待て待て待て待て、待ってくれ。分からねぇな。いや、あんたの説明が分からなかったってことじゃあないけどよ、そうじゃなくて、そもそもなんで塔野、あんたはそんなことが分かるんだよ?」
当然の疑問を逐人は口にする。
パラレルワールドとは、この世界──、正確に言えば数あるパラレルワールドをまとめて『世界』、一つのパラレルワールドを『ルート』と呼ぶようだが──、の枠組みの外の話だ。ただの高校生にそんな話をされても、言っていることを信じるのは難しい。
「感覚的なものなので説明は難しいのですが、あえて一言で言うならば、私が『収束者』だからです。収束者はパラレルワールドが生まれる時に一瞬だけ、世界がブレるように見えるんです。私が、空木君がパラレルワールドから来たと判断したのも直前にこのブレを感じたからです」
「世界のブレなら僕も体験したが──、収束者ってのは?」
聞きなれない言葉に首をかしげる逐人。
「私や空木君のような能力者の呼び名のことです。なかなか良い響きだと思いませんか、フフフフッ……」
「うすうす思ってたけど、あんた、いわゆる厨二びょ」
「んんっ」
逐人の指摘を、蕨は咳払いで遮った。
「ああ、どうにも話が大きくなってたが、能力の話をしてもらってたんだよな」
「はい、私たちの能力はパラレルワールド、あるいは、その根源にあるものと密接なかかわりがあるので、まずそちらの話をしているのです」
「根源ね……。ずいぶんややこしい話になりそうだな」
逐人は渋い顔をしながら言った。
「そうですね。パラレルワールドの正確な理解には量子力学の知識が必要になりますし、簡単な話ではありません」
「量子力学か。名前くらいは聞いたことあるが、内容はさっぱりだ」
「今は学問的に正確な理解がいるわけではないので、なるたけ簡単に説明します。知っておいていただきたいのは『コペンハーゲン解釈』についてですが、これも量子の話ははぶいて私たちに見えるサイズで説明しましょう。例えば──」
蕨はイスを少し引いて、もう一度、十円玉を指で上に弾いた。そして今度はそれをキャッチせずに床に落とす。十円玉はフローリングを転がって机の下に消える。
「見ないでくださいね。さてクイズです、今、机の下にある十円玉はどのような状態になっていると思いますか?」
「そりゃあ、『表』か『裏』のどっちかを向いているから……」
二択の問題ではあったが、いくら逐人の能力でもすでに動きを止めた硬貨の向きまでは変えられない。直感で向きを当てにかかる。
「じゃあ『表』を向いている、で」
「はずれです」
蕨は自身も机の下の十円玉を見ないままにそう言った。
「なら『裏』なのか? どうして分かる?」
「いえ、『裏』でもはずれですよ」
「あん?」
「正解は『表』と『裏』、どちらの可能性もある、です」
蕨の答えが分からず逐人は首をひねる。
「……そりゃあ見てない僕たちには、『表』が『裏』かは分からないが、でもどちらかは向いているはずだろ」
「いいえ、コペンハーゲン解釈では私たちが見ていない限り『表』か『裏』かは決まらないのです。誰かが十円玉の向きを確認した瞬間に十円玉の向きが決定します」
蕨はかがんで机の下の十円玉を見、そのまま顔を上げずに、
「今、私が確認したことで十円玉は『表』になりました」
そう言って、十円玉は回収せずに机の下から出てきてイスに座りなおした。
「私たちの常識的な感性では、誰かが見ようと見まいと十円玉が落下して動きを止めた時点で向きは確定したように感じます。しかし、コペンハーゲン解釈では誰かが結果を見るまでは、宙を舞っている時と同じように、『表』と『裏』、どちらの可能性も持った状態だと考えるのです。──どうでしょう、解ってもらえますか?」
「よく解らないけど、まあ分かった。とにかく、誰かが見るまでは、結果が決まっているように感じられることでも、まだ決まっていないと考えれば良いんだな」
実際、極小の世界の量子は観測するまでどこにあるかは確率でしか表せず、観測して初めて場所が確定するという性質を持っている。そして、人間の体も他の物体も究極的には量子でできているので、量子の理屈を目で見える世界に持ってきた蕨の話はけっして荒唐無稽なものではない。
しかし、当然のことながら、逐人も感覚的にはコペンハーゲン解釈に納得はできなかった。誰が見ていなくても結果はそこにあるという当たり前の感覚は簡単には覆しがたい。
だがそれでも、逐人は要点だけつかんで素早く受け入れることにした。量子力学の話だという以上、蕨の言っていることの真偽は本でもネットでも調べれば分かることで、そんなことで嘘をつかれるとは思いがたい。信じる信じないの基準となるものは、自分の感覚ではなく客観的な状況であるべきと逐人は考える。
加えて、自身の能力も蕨の言ったことを信じる後押しになった。
──僕の能力、不幸な方の現象を引き起こす能力ってのは、言い換えれば、起こる未来の可能性を確定する能力だ。塔野の話に当てはめて考えれば、観測する前から現象を確定してるってことになる。反コペンハーゲン解釈的なものだ。きっとそこに意味がある……。
「のみこみが早くて助かります。しかし空木君、ごめんなさい。私は一つ嘘をつきました」
「嘘?」
「本当は、先程見た十円玉の向きは『裏』でした」
唐突で意図の読めない嘘だが、逐人は黙って蕨の言葉を聞く。今までの流れから、その嘘にもなんらかの意味があることは予想がついた。
「でも、もしかしたら本当に『表』だったかもしれません」
再び、自分の言葉を翻す蕨。
「もう一度、コペンハーゲン解釈について考えてみてください。コペンハーゲン解釈に基づいて考えれば十円玉の向きは誰かが見て確認するまで、落下して動かなくなった後も、まだ決まってないことになりますね?」
「ああ」
「では、今、空木君は机の下の十円玉の向きが確定していると言えますか?」
「それは、あんたがもう見てるから……、いや、そういうことか……。」
「気づいてくださったみたいですね」
逐人は得心がいったかのように頷く。
「あんたは十円玉の向きに対して必ず本当のことを言っていたら、僕はあんたの目を通して間接的に十円玉の向きを観測したことになり、僕の主観でも十円玉の向きは確定したことになる」
十円玉を机越しに指さしながら言う。
「でも、あんたは今、嘘をついているかもしれないし、嘘をついていないかもしれない。そして、その状態だと僕にとってはいまだ十円玉の向きは正確に観測できていないことになる。コペンハーゲン解釈に基づけば、それはイコールで僕の主観だと十円玉の向きが確定していないってことになっちまうな」
「そうです。私の主観だと確定しているのに、空木君の主観だとまだ確定していないという奇妙な矛盾が生まれます」
つまりはこういうことだ。
まず、蕨が十円玉の向きを確認する。コペンハーゲン解釈ではこの段階で十円玉の向きは確定することになる。
次に、蕨は逐人にその十円玉の向きを報告する。
しかし、ここで蕨が必ず本当のことを言っている保証はない。
蕨から伝えられた情報が不確定なものだと、逐人の主観では十円玉の向きは確認できていない状態、つまりコペンハーゲン解釈で考えると、逐人のとっては十円玉の向きが確定していない状態になる。
ここで、矛盾が生まれる。
「あるいは、私が必ず正しい向きを言うという保証があったとしても、私が十円玉の向きを空木君に伝えるまでの間に、『ある人の主観では確定しているのに、別の人の主観では確定していない』という矛盾は必ず発生します」
そして、と続ける。
「空木君が十円玉の向きを自分の目で確認して私たち二人の主観で向きが確定しても、また別の誰か──、例えば、鉈橋さんの主観では彼女がここに来て十円玉を見るまで、彼女の中では向きは確定しません。そしてまた別の誰かの主観では──、と、この誰かにとっての不確定はどこまでも続きます」
「そうなると、結局、絶対的に物事が確定した状態ってのはなくなっちまうな」
「そうですね。全てを見渡し、人の主観に依らず事象を確定する神の視点が存在しない限り」
そこまで言って、蕨は机の下の十円玉を拾い、財布にしまった。
十円玉の向きは本当に『表』だった。
「信じられないかもしれませんが、『始原の一』という名の、まさにその神の視点がこの世界には存在しているのです。そして、その『始原の一』にアクセスする力を持つ者こそが私たち収束者なのです」
蕨は言った。
それは、前説明は終わりようやく本題に入れたという調子だった。
「『始原の一』…………」
「これもまた感覚的なものですからね。通常の収束者は能力を使う時に、その存在を認知できるのですが、己が意思でではなく条件にあわせて自動で力が発動する、空木君のようなイレギュラーの『自動発動型』の収束者にはそれはできません。なかなか信じがたいという気持ちは察します」
「それ……、そいつなのか? は、なにをしてるものなんだ」
「なにと言われれば、さっき言った通りです。世界で起きたことを観測し、事象を確定する。確定とはすなわち、そうだ、と存在を決定させるということですね。『始原の一』が観測しているからこそ世界も私たちも存在できているんです。また、パラレルワールドの発生の管理も行っています」
「それは、なんとも壮大な話だな」
「ちなみに、一般的に『始原の一』は意思なき、世界のシステムとされているので、それ、でよろしいかと。まあ、収束者の中には、『始原の一』を人格神ととらえて、宗教組織を作っている人たちなんかもいますが」
自分の持つ忌まわしい能力が、世界の根幹を司るよう存在と関わりのあるものと聞かされ、逐人も少し驚きを持った。
「アクセスってのは? 僕には不幸な現象を引き寄せる能力があるし、あんたには自販機を壊した能力がある。収束者の力ってのはその『始原の一』っての認知できるだけじゃないんだろう?」
「ええ。世界の根幹、『始原の一』を認知できても、収束者は基本的には世界全体やパラレルワールドをどうこうできるわけではありません。実際的に重要なのは未来の事象を確定させる能力、この『確率収束』にあります」
蕨は腕を高々と掲げ、それを机の上にあるアンティークな小さい置時計に向かい振り下ろそうとした────、ところで、机の上の彼女の携帯電話から、夕方に放送しているアニメOPのメロディーが鳴り出した。
中途半端なところで止まった腕で、蕨は着信音の鳴る携帯を掴む。
「失礼、電話してきますね」
「ああ。良かったな、勢いで時計を壊さなくて」
「ええ、良い時計なので私の『スライダー』の確率収束で壊していたら母に怒られていました……。格好つけすぎましたね……」
どうやら、蕨は能力を派手に示したがる癖があるらしい。直刃と対峙した時に自販機やペンライトを壊していたのは威圧の目的だと思ったが、それだけではないのかもしれない。
うっすらと赤面しながら蕨はいそいそと廊下に出た。
それを見送りながら、逐人はすっかり遠いところに来てしまったなと思った。『収束者』、『始原の一』……。当たり前の世界から大きく外れたものの存在を聞き、今までの日常が崩れていくような気になった。
もっとも、『日常』なんてものがいつまでも続くとも思っていなかったが。
「直刃に電話してみるか……」
思い立ち、携帯を出してコールしてみる。不幸な目にあっても壊れないようにと買った耐衝撃仕様の頑丈なスマートフォンだ。途中で蕨が戻ってきてしまうかもしれないが、病院に運ばれたもう一人の自分が今どうなっているかを聞いておくことは必要なことだろう。もしかしたら、自分が『透明化』しているのと同じように、なんらかの変化が起きているかもしれない
数コールで通話がつながる。
「もしもし、あなたの直刃よ」
「変な出方をしないでくれ。この通話はスピーカーモードになってるから、塔野にも聞こえる」
「え? 今なんて言ったかしら? なにかしら? あっ、お腹の中の赤ちゃんのこと?」
「スピーカーモードというのは嘘だが、なぜ発言を悪化させた」
「まさか、逐人があたし以外の女の子の家に行く日が来るとは思ってなかったからね。牽制よ、牽制!」
「意味が分からん……」
「そちらはどうかしら?」
真面目なトーンで直刃は言った。
「ああ、塔野にいろいろなことを聞いたよ。長くなりそうだからまた後で話すが……。そっちは?」
「かなり早く病院には着いたのだけれども、厳しい状態ね。もう一人のあなたは今、集中治療を受けているけど、いつ死んでもおかしくない状態よ」
「そうか」
「困ったものね」
直刃はゆっくりとため息をついた。
「こうしてあなたと話していると、すっかり悲しみ損ねてしまうのよね」
電話越しの声は落ち着いた調子だった。
「大切な幼馴染が今にだって死んでしまうかもしれないのに、ピンピンしてるあなたの声を聞いていると、どんどん実感がうすくなっていく。塔野さんの言う通りなら、このルートの空木逐人は今手術を受けている方なのに、あなたの方がこのルートにいるべき方なんじゃないかって思えてくるわ」
「…………」
「ある種の現実逃避なのかもね。本人が二人いるなんて状況はありえないから、自分に都合のよい方こそが現実だと思い込もうとしている。──でも、実感はなくしても、危機感だけはもっておかないとね」
「危機感?」
「どうしても、二人の空木逐人やパラレルワールドなんて目立つ要素に注目がいきがちだけど、アタシたちを襲った踏板の落下だって十分な異常事態で、そこに人為が絡んでる──、あなたを狙う敵がいる可能性は十分考えられるでしょう」
たしかに、と逐人は思う。説明が途中で途切れてしまったが、収束者には蕨が言っていた確率収束という通常ありえない現象を起こすなんらかの異能があるようだ。ありえない落下の仕方をした踏板にもその力が働いていたと考えるのは妥当だろう。そして、その力を使った敵と呼ぶべき存在がいると考えるのも。
「仮に敵がいたとして、パラレルワールドがどうこうっていうところまで敵の思惑通りかは分からないけど、少なくともあなたがこっちのルートに二人になったところは見られているとは思っておいた方が良いでしょうね」
「とすると、僕か、お前、それかもう一人の僕、あるいは全員がそのまま監視されている可能性もありうるな」
だとしたら、蕨はどうなのだろうか。家がそれなりに近いことを考えれば、たまたま通りがかったということも考えられるが、あまりに都合のよいタイミングでの登場ではあった。
しかし、逐人は理論的思考では疑いを残しつつも直感的には、あの場に蕨が現れたことに関しては偶然だと思っていた。なんというか、そういうタイミングの良さを彼女は持っているように感じるのだ。ヒーロー的とでも言うべきか。
「まあ、あくまで推測なのだけれどもね。あなたがパラレルワールドから来たなんていうのは特に、敵(仮)の意図ではないと、アタシは思うし。あの時、逐人、自分の能力を使ったでしょう?」
「ああ」
「それで、敵(仮)の意図はだいぶ外されているんじゃないかと思う。んっ、そういえばまだ、お礼がまだだったわね。あの時、アタシを庇って能力を使ってくれたんでしょう。ありがとう、逐人」
「別に、当たり前のことをしたまでさ」
柄にもなく好青年的なことを口にしてしまい、気恥ずかしくなる。
しかし、逐人にとって、直刃を守ることは本当に当然のことだった。
「……ひねくれたあなたのことだから、こんなことを言うと嫌がるでしょうけど、逐人は『良い奴』よね。鉤括弧つきだけど。フフッ」
「あん? どこがだよ」
なんだか変なことを言われ、鼻の頭を掻きながら、喧嘩腰をよそおい問いかける。──と、その時、自分の手が視界に入り気が付いた。
『透明化』していた体がほとんど元に戻っていた。
まだ若干、通常よりもうすいが、それでも近くで見なければ普段との差は感じられないほどだ。
「おい! 直刃」
まだ『透明化』について話してなかったが、驚き、直刃に向かって現状を説明しようとする。しかし、
「ごめんなさい。お医者さんに呼ばれたから切るわ。失礼」
そう言って、電話を切られてしまった。
こちらの言うこともろくに聞かずに切られてしまったので、なにか急ぎだったのだろうか?
「おや……、体、戻ったのですね」
通話を終えた、ちょうど良いところで蕨が帰ってきた。
「まだ完全じゃないけどな。そっちはなんだったんだ?」
「……状況はあまり良くないです」
目を伏せながら蕨は言った。
「細かい事情についての説明は後回しです。申し訳ありませんが、決めていただかねばならないことがあります」
「なんだ?」
「私は空木君に、これから鉈橋さんと合流し協力者と落ち合うことを提案します」
「直刃と合流ってのはともかく、協力者っていうのは?」
「現在、私たちの抱える課題は二つです」
蕨は指を二本立てる。
「一つはもちろん空木君をいるべきルートに帰すこと。そしてもう一つは空木君たちを襲った犯人から身を守ることです」
それは直刃とも話したことだった。収束者の力について詳しく知る蕨も、やはり踏板の落下に人為が絡んでいると思ったようだった。
「この二つとも、私たちの独力では難しいことです。協力者が必要です」
「さっきあんたは収束者の中には宗教組織を作っている奴もいるって言っていたが、こういう時に頼れる警察組織みたいなものあんのか?」
「あることにはあるのですが、今はそちらには頼れません。私が提案する当面の協力者は、私の個人的なつながり、清淵高校の生徒会長です」
「は?」
突然出てきた身近な存在に驚きが出てしまう。
直接の面識はほとんどないが、全校集会などで壇上に立っているので顔は知っている。興味がないので詳しくは知らないが、文武両道のエリートで、そこそこレベルの進学校である清淵高校にいるのがもったいない秀才と聞く。
「うちの学校の会長も収束者なのか?」
「はい。私とは収束者同士の交流があります。彼に対犯人の戦力になっていだたこうと思うのですが、いかがでしょうか?」
「いかがでしょうか、って言われてもな……」
正直なところ、情報の不足が否めない。生徒会長についても、警察組織に頼らない理由も聞いてみないと安全な判断はできない。だが、
「まあ、いいや。分かった。じゃあ、そいつに頼ろう」
逐人は素早く蕨に従うことを決めた。
「生徒会長なんてやるような奴と仲良くなれる気はしないが、まあ贅沢は言えないしな。行こうぜ」
そう言われて、自分の提案を受け入れられたはずの蕨は苦々しい顔をする。
「良いのですか?」
「あん?」
「……いえ、そもそも空木君は、いささか落ち着き過ぎではありませんか?」
少しだけキツめの口調で問いかけられて、逐人は身を固くする。
「なんだよいきなり」
「例えば、体が『透明化』しても平然としていますし、私の説明も焦らずに順序良く聞いてくれて……、もっと動転するべきではないでしょうか?」
「すべきって言われてもな」
逐人はなんとか自分の感覚を言語化しようとしてみる。
「なんつーかな、だいぶ慣れてきたっていうか……」
「慣れ」
「ある程度、常識じゃありえないとされていることも実際はあるんだな、ってのが受け入れられてきたし。だから、冷静に対応できるようになってきた……、まあそんなんだな」
逐人はいまいち言葉で説明しきれず、宙を見つめる。しかし、蕨は納得しかねる風だった。
「失礼を承知で言わせてもらいます」
蕨が切り込んだ。
「私は空木君があまり積極的に事態の解決に動こうとしていないのでは、と思っていました」
「ん?」
「空木君の行動は起きる出来事に対し『対処』しようという気はあっても、能動的に『解決』しようとする気がないような……、具体的な危機が迫ればそれを回避するのに、それ未満の状況では、鉈橋さんや私に流されているだけのように感じます」
ジッ、逐人の目を見つめながら言う。
「空木君の立場では、私は完全に信用できる相手ではないはずです。なのに、私の提案に軽々しく乗ってしまっていますし……。正直に言えば、私はあえて情報を減らした状態で空木君に選択をゆだねました。空木君がちゃんと慎重に行動を選択するか見るために」
「それはまた、面白いことをしてくれたもんだな」
「私は空木君を騙すつもりはありませんし、提案を受け入れてくださるのは喜ばしく思います。しかし、もう少し自分から前のめりに平穏に戻ろうとするのが普通なのではないかと」
皮肉も無視して、蕨は正面から言ってのけた。
きっとこの時、蕨は自分が言っていることが失礼であることを承知していただろう。逐人が怒ることも覚悟していたはずだ。しかし、
「あー、そういうのはさ」
逐人は軽い調子でいった。
「なんかさ、いつかこんな風になるんじゃないかって気がしててよ」
顔を真上に向け天井を眺めながら、逐人は語りだす。
「いや、なにもパラレルワールドに来るとかそんなことを考えてたわけじゃないけどよ。別に僕はそんな空想家じゃあない。そうじゃなくてさ、僕には能力があるからよ、いつか取り返しのつかないような、かなわない事態にめぐり合うんじゃないかって、ずっと思って生きてたんだ。だから、今もなるべくしてなった状況って感じで、正直、これ以上はどうとでもなれば良いって気持ちが自分の中にあることも否定はしない」
顔を蕨の方に向き直す。
「もちろん、ちゃんと平穏な生活を取り戻したいって気持ちがないわけじゃない。危険があれば対処はするし、帰れるってんなら僕がいるべきルートとやらに帰りたいさ。だけど、そこに積極性みたいなのを出すのは僕にはできそうもない」
「そうですか……」
悲しそうな目を蕨はした。
「空木君、幸せは」
その瞳に見下すような憐れみはない。やさしく同情するような、そんな瞳だった。
「幸せは、自ら望まない限り手に入らないものだと、私は思います。私はあなたが望まなくても力になるつもりですが、あなた自身が助かろうとしなければ、ハッピーエンドはきっと訪れません」
真摯に逐人を心配するかのような口調で蕨はそう言った。
だが、それに対して逐人は──、
「ククッ、幸せ、ね……」
口元を引きつらせるようにして、笑みをこぼした。
「クククッ! クハッ! いや笑うな」
その笑みに込められたのは、明らかな『嘲り』だった。
「くだらねぇよ」
敵意と怒りを固めたような、低く、低い声で言った。
「なあ、あんた、今日、保健室で、ニヒルを気取った言い方は感心しないって言ったよな」
「…………はい」
「僕はさ、カッコ良く生きることはできないんだ、例えば高校生らしく、全力でスポーツに打ち込んで全国制覇を狙ったり、真面目に勉強して一流の大学を目指したり、あるいはあんたみたいに誰かのために一生懸命になったりとかよ」
逐人は、喉に、いや、胸の中に使えていたものを吐き出すように、語る。
「中学の頃は卓球部だったが、先輩の引退前の最後の大会は僕の能力でミスが増えて、結局、全国大会出場を逃した。清淵高校の受験の日、行き道で事故にあって左腕が折れて、そのまま試験を受けた。大学受験をしたら、今度こそ試験に出られないで勉強が無駄になるかもしれない。他人の事件に首を突っ込んだら、余計に事態を悪化させる可能性の方が高い」
「それは…………」
「僕はカッコ良く生きられない。だったらカッコつけてニヒル気取って生きたほうがマシなのさ。変に幸せなんて期待するより不幸を気取ってる方が辛くないってもんだ」
自分の人生にへたな望みを抱かない。大きな目標を立てるようなことはしない。
そうすることで、期待が外れた時の苦しみを受けないようにする。
それが、諦めの果てにあった、逐人の生き方だった。
「だからよ、僕に幸せなんて期待するな。そういうのはすごく、不愉快だ」
「………………………………」
蕨はなにも言えないようだった。
ハアーー、と息を深く吐いて、逐人はイスの背もたれに深く体を預ける。
そのまま数秒間、まるで眠っているかのように、死んでいるかのように、目を閉じた。
チッ、と舌打ちをする。
「柄にもなく熱くなっちまたな、クソ。で、どうすんだ、まずは直刃んとこ行くのか?」
「…………そうですね。敵の存在を想定するなら、直刃さんに夜道を歩いてもらうよりも、こちらから出向く方がよいでしょう。準備をしますので、少々待っていてください」
ぎこちなさを隠しきれない語調で蕨は言い、そのままリビングを出ていった。これ以上触れるな、という意思を込めて話を元に戻した逐人は、とりあえずは蕨が引いたことで冷静さを取り戻す。
──余計な感情を表に出し過ぎたな……。気まずくなりそうだ……。
やはり、自分と蕨は相性がよくないと再認識する。
とはいえ、蕨から離れてしまうと取る手立てがなくなってしまう。それに、ここまで言っても自分を見放す気がないところを見ると、ひっそりとここから去ろうとしても蕨は追ってきかねない。
見放されるなら、それでかまわないと思っていたが、やはり自分から離れるには理由に欠ける。
結局、逐人はリビングで冷めた残りのハーブティーを飲み、時間を潰すことにした。
わずかなやるせなさだけが胸に残った。