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夕方の公園を、蕨の乗る自転車と並走する。
顔を隠すために直刃から借りた度の弱いメガネがずり落ちそうになるのを押さえる。同じく直刃からもらった使い捨てのマスクの下から、逐人は蕨に問いかける。
「あとどのくらいで着くんだ、あんたん家まで」
「公園を抜けたらすぐなので……、五分くらいでしょうか」
二人は塔野家を目指して、市最大の大型森林公園である石ヶ丘公園を走っていた。取り急ぎなにが起きたかについては蕨に話したが、詳しく話をするには人目につかずにゆっくりできる場所が必要であり、蕨は自分の家に来ないかと提案したのだった。
地元で見かけたことがなかったので意外だったが、蕨の家は逐人や直刃の家からも自転車で十分そこらの位置にあるらしい。
直刃も一緒に来るように、蕨は提案したが、直刃はもう一人の逐人に付き添うと言って聞かず、救急車を呼び病院に向かった。
「おそらくパラレルワールドから来たというのはあなたの方ね、アタシはあなたが、倒れている逐人の隣から突然現れたのを、たしかにこの目で見たもの。──もっともパラレルワールドうんぬんというのが本当ならだけど」
救急車を待っている時に、直刃の言ったことだった。
「アタシはあの娘の言っていることを七割がた疑っている」
それは高い確率だろうか?
「でも、裏返せば、三割はあの娘の言っていること、片方の空木逐人がパラレルワールドから来たということを信じるということよ。いえ、『あの娘がなにか企んでいるが、パラレルワールドから来たというのは本当』という可能性も考えれば、五割くらいは信じて良いと思っている。そして、全く把握しきれない状況で五割の確率の正解があるなら私は暫定的にそれを信じることにする」
このあたりの割り切った考え方は直刃らしいと逐人は思った。
「もしあなたが本当にパラレルワールドの人間なら、あなたは元のルートに帰らなくちゃならない。それならばますます、こちらのルートの、倒れている空木逐人を死なせるわけにはいかないわ。アタシは逐人と死別するつもりはない」
強い意志を感じさせる口調で直刃は言った。
「とにかく救急車を呼んだ以上、あなたはここに一緒にいてもらうわけにはいかない。どこかに隠れてもらうわ。あの娘についていくか、換言すれば、あの娘を信じるか、それはあなたにまかせる。たしか、あなたのクラスの娘でしょ」
そう言われて、逐人は蕨についていくことを選んだ。蕨を百パーセント信じ切るつもりは逐人にもなかったが、少なくとも同じクラスにいて、蕨が悪意を持って近づいてくる人間には思えなかったから。
「逐人」
別れ際に直刃が言った言葉を思い出す。
「ちゃんと元のルートに帰る手段を見つけなさいね。でないと、向こうの私が悲しむから」
それから、逐人は直刃からメガネとマスクを受け取り、塔野家を目指して走りだした。
「体力、あるんですね、息が全然切れてません」
自転車をこぎながら、今度は蕨が問いかけてきた。
「無趣味だからな。暇つぶしに体、鍛えてるんだ」
まだ自身の能力に抗っていた頃、強い肉体を作ろうと行っていたトレーニングを惰性で今も続けているため、逐人の身体能力はスポーツマン並だ。もっとも、今の逐人には体を鍛えようという意思はなく、なにも考えられないくらい体を酷使するために行っているだけなのだが。
「呼吸を止めて無酸素状態で走ってると意識が飛びかけるんだが、その瞬間はなにも考えないでいられて少しだけ気分が良いんだ」
「えっ? いや、えっ……?」
あれ、引かれたかな? と逐人は戸惑った。少しくらい世間話をした方が後々の会話も捗るかと思い、雑談を行ってみたが、直刃以外に女友達がいない(というか男友達もいない)逐人は自分の会話のセンスがズレているのかどうかが判断できない。
蕨は自転車を止めた。
「一緒に走りたくないと思うほど引かれたのか……」
「いや……、そうではなく、体、が…………」
不思議なものを見るような目を向けられ、逐人は自分の体を見ると、
体が服やショルダーバッグごとうすく透明になり消えかけていた。
「な、にっ⁉」
「静かに」
蕨に口を手で塞がれる。どうやら消えかけていても体に触れることはできるらしい。
「人通りも少ないとはいえゼロではないです。いったんこちらへ」
蕨は自転車を停め、逐人の手を引き、舗装された道から林の中に入って行った。
今日はよく女子に手を引かれるな、と自分の主体性のなさを感じながら逐人は木々に紛れる。
「なんだ、これ……?」
「私にも解りません。消滅しかかっているのでしょうか…………?」
二人でまじまじと観察する。全身が、向こうの風景はぼんやりと見える程度に透明になっている。
「メガネとマスクは透明になっていないところを見ると、『透明化』しているのは空木君の元からの持ち物だけのようですね……」
「悪化はしてないようだな。一定の透明度のまま保たれてやがる……」
観察の結果、現在進行形でどんどん体が消滅しているわけではないことが分かった。
「とりあえずは、これ以上透明にはならないみたいだが……」
「なにが起きているの把握しきれないうちは安心できませんね」
またいつ、さらなる『透明化』が襲い来るか分からない。
次々と起きる異常事態に逐人は徐々にいちいち驚くことに疲れてきた。
「たっく、敵わねぇなこりゃ」
「とにかくこのままではまずいですね。フッと消滅してしまう可能性も否定できないですし……、なんとかしないと」
「いや、当初の予定通り、このまま塔野の家に向かおう」迷いなく逐人は言った。「対処法もなにもかも分からないなら、予定通りに行動した方が効率的だ」
「それは、たしかにそうですが……」
「とはいえ、普通に道を進めなくなっちまった。このまま林の中を抜けるしかなくなったな。もっと透明度が高ければ、人の目からも逃れられるんだが……、このくらいの透明度じゃむしろ目立っちまう。塔野、あんたは自転車で先に行ってくれ。一人の方が目立たず行ける」
「はあ……、分かりました」
蕨は、自分の体が透明になっているなかで冷静にとるべき行動を決める逐人をやや不信な目で見たが、言ってることはそのとおりなので従うことにしたようだ。
「でも、気を付けてくださいね。透明人間は砂煙や雨で居場所が浮き彫りにされるのが鉄板展開ですから」
「なんの鉄板なんだそりゃ……」
それから、公園の出口の一か所を集合場所にして、蕨は自転車で先に進んだ。逐人は人目に気をつけながら、林の中を走る。
幸い、半透明の体は木々の中では迷彩のように機能して、姿を通行人に見られることはなかった。
しばらくして再び合流。
合流した公園の出口から塔野家は本当にすぐで、ひとまず無事に世間の目からの安全圏に入ることはできた。
塔野家は小奇麗な一軒家という外見であった。
「お邪魔します」
「どうぞ」
リビングに案内される。内装は特別な物こそなく、むしろ簡素なくらいだったが、しかし一つ一つの家具が一般宅に浮かない程度の高級感を持っており、親の稼ぎがかなり高いことが窺われる。
クラスの女子の家に招待されてドキドキするどころか、そんなところに真っ先に意識がいっていることに、逐人は自嘲的な笑いがこぼれた。
「どうかしましたか?」
「あー、両親は?」
「父は離婚しているのでいません。母は、これは今後の逐人さんにも関わることなので後で詳しく話しますが、基本的に海外です」
「実質、一人暮らし状態か」
「ええ。母と滅多に会えないのは寂しいですが、主人公的なプロフィールになのは気に入っています」
「なんだそりゃ?」
「さあ、かけてください。お茶を入れてきます」
逐人は言われた通りダイニングのイスにかける。ダイニングキッチンでテキパキとティーカップにハーブティーを二人分淹れて直刃が戻ってきた。
「いろいろあって疲れたでしょう、どうぞ。私は少し電話をしてきます」
「ああ分かった、ありがとう」
蕨は廊下に出ていった。お茶を飲んで一息つく。飲んだものは半透明の体と一体になり、胃の内容物だけがハッキリと腹の中に見えるということにはならなかったにはホッとした。
──どこに電話したか気になるが、今、疑いを示すのは得策じゃないか……。
蕨を信じ切ってはいないので、なんらかの組織や個人に自分を家に連れ込んだと連絡したのでは、と疑いを抱く。
三、四分経ってから蕨は戻ってきて逐人の向かいに座った。
「さて、さっそくいろいろ説明したいところですが……、最初に訊きます」
蕨は逐人の目を正面から見つめ言う。
「空木君がパラレルワールドの人間という話と、私やあなたの能力についての話、どちらから聞きたいですか?」
「能力についてから頼む」
逐人の即答に蕨は眉をしかめた。
「それはなぜですか?」
「たぶんだが、僕がパラレルワールドから来たってのも能力に原因があるんだろ? だったら先に能力の話を聞いた方が、理解が早くなりそうだ」
ハァ……、と蕨はため息をつく。
「普通なら、一番の異常事態について訊くんじゃないかと思ったのですが……」
「そういうものか?」
「…………まあ、良いでしょう。たしかに言う通りです。では望み通り、能力についての話から────」