夏の少年
生温い空気。むせ返るような腐敗臭。鬱蒼とした、薄暗い密林の中を進んでいく。巨大な葉、毒々しい色の不気味な花がそこら中にある。目の前が開け、大きな濁った川に出た。きっと得体のしれないものが潜んでいる・・・
目が覚めた。額に汗が滲んでいる、熱帯夜だ。ジャングルの夢を見るには相応しい夜である。
ジャングルに強い憧れがある。図鑑でしか見たことのない猛獣、巨大昆虫、危険生物、摩訶不思議な植物、そのほとんどがジャングルに生息している。多くの少年がそうであるように、私もまた図鑑が友達だった。
起き上がって水を飲み、髭を剃り、着替えて外へ出た。今日も暑くなりそうだ。アパートの二階から青々とした田圃が見える。成人して久しいかつての少年は、階段を降り、マイカーに乗り込んだ。
山の上の集落にあるお客さんを訪問した。集落全体が高い木に囲まれ日陰が何とも涼しい。公用車を降りるとセミの大合唱だ。ジージージージー、ミンミンミンミン、交響曲なみの迫力である。庭先に緑色の虫カゴが打ち捨てられていた。中にはセミがギッシリ詰め込まれている。気の毒に、すべて死んでいる。少年にとって昆虫はオモチャだ。いったいどれほどの昆虫が犠牲になるのか、私にも身に覚えがあるだけに、虫カゴの死骸たちに憐れみを覚えた。
用を終え公用車に戻る。フロントガラスにバッタがへばりついていた。こんなツルツルのガラスによく掴まっていられるものだ。このまま発進するわけにもいくまい。捕まえるとものすごい勢いで暴れ、我が手の中から逃れた。大きな後ろ足を一本残して。「ああ、ああ」思わず声が出た。こんなはずじゃなかった。ただ草むらに放そうとしただけなのに。厳しい自然の中で、片足だけになったバッタなぞたちまち捕食されてしまうだろう。仮に生き延びたとして、競争相手に出し抜かれ、子孫を残すことが出来ないに違いない。なんてことをしてしまったんだ。
川沿いの農家のお宅に行った時の事。
見渡す限りの田圃の一角に、トウモロコシ畑があった。かなりの広さでちょうど田圃二つ分はある。小便をするため公用車を降りる。足元からむせ返るような熱気が立ち上る。トウモロコシ畑は私の背丈より高く、身を隠すにはちょうどいいのだった。
ジッパーを下げる。ガサッ。血の気が引いた、少し離れた場所でトウモロコシの茂みから誰か出てきたのだ。それは誰かではなかった。トウモロコシ畑の所有者とばかり思っていた、その姿を見て、血の流れが止まった。シカである。出てきたのは。シカは振り向きこちらをちょっと見た。そのあと億劫そうに、ピョンと跳ねトウモロコシ畑に戻っていった。驚愕した。こんな田圃の真ん中にシカがいるなんて!どこから来たのか?川の向こうは山が連なっている。川を渡ってここまで来たのか。シカは泳いで海を渡るという。川なんて朝飯前だろう。その先にトウモロコシ畑があった。まさに身を隠すにはうってつけである。誤算だったのはマーキング中のヒトがいたことだ。
川沿いの国道を公用車で走る。川の中州にシラサギが立っているのが見えた。川は思いのほか浅いとみえる。シカにとっては泳ぐまでも無いのかも。
先日の大雨の際は、川がかなり増水した。川辺に生い茂った草木が濁った水に飲みこまれた。水面から突き出た枝に、無数のシラサギが止まっているのをみた。ジャングルを流れる川みたいだ、そう思ったものだ。
水門近くのお宅に行った。水門付近は用水路と田圃が複雑に絡み合っていて、湿地帯にいるような気分になる。田圃道から用水路どうしのが交わるところが見えた。その広がった所に、一瞬見えてしまった。水面に一部だけヌッと突き出した何かが。ワニだ!何てことだ。この平和な田舎町にワニが!あの突き出たものが頭だとするなら全長2メートルはある。シラサギなら丸のみ、シカだってバラバラに食われてしまうだろう。いやいや、心配なのは少年たちだ。恐れ知らずの彼らなら、嬉々としてワニにちょっかいを出すに違いない。
大人として町の平和を守らねばならぬ。公用車を停めワニの生息を調査しに行った。もちろん、水面から突き出ていたのは流木だった。確かにワニみたいな形をしている。町の平和は守られた。ジャングルで日々行われる、血なまぐさい弱肉強食の世界を考えた。自分なぞあっという間に弱肉に回ってしまう。生き延びたとしても大変な生活だ。今ではもう、行ってみたいとは思わない。
ピン、ポン、パン、ポン。「熱中症にご注意ください」。どこからか注意喚起が聞こえてきた。街の町内放送が。