6〈天霧さつきの場合 四〉
少し離れた距離から見上げた洞淵ビルは、両隣の建物と比べて明らかにボロボロだった。建築年数も、中身が空洞になっている時間も、この周辺では群を抜いている。外壁はシダ植物で覆われ、その下にあるコンクリートだって、きっと罅と亀裂で彩られているのだろう。正面から見える窓ガラスは、随所が見るも無残に割れていた。
二車線道路が前を通り、赤らみ始めた陽の光が周囲のビルを照らしているにも関わらず、洞淵ビルだけはまるで光を反射せず、路地裏の一画のような薄暗さを保っている。人の手が入らないと、ここまで劣化するものなのだろうか。
「思った以上にボロボロだね」
「うん、すごくお化けとか出てきそう」
ビルのややはす向かいの位置から、様子を伺うように覗き込んでいた柊木さんの後ろで、同じく覗き込む姿勢のまま頷く。
確かにこれだけ異質な雰囲気を醸し出されると、柊木さんの言葉通り、噂を知らずとも、暗い窓の奥に「何か」の気配を感じそうなものだ。
二人でビルの目の前まで移動し、改めて見上げてみた。
いざ向かい合ってみると、次の瞬間にはこちらに向かって崩れ落ちてきそうで、思わず身構えそうになる。
洞淵ビルは五階建てのオフィスビルで、左右から追いやられているかのような細めな外観から見ても、フロア一つ一つはそこまで広くなさそうな上、更にビルの右側は、箪笥だって持ち運べそうなほどに無駄に大きな折り返し階段が占拠している。私達が立っている一階部分も、店舗を入れたいのか、それとも事務所にしたいのか分からない半端な大きさで、いっそ駐車場にでもすればいいのに、と言いたくなる。
周囲がそれなりに活気づく中で、このビルだけ廃墟になった理由の一つは、間違いなくこの中途半端なサイズと構造だろう。今どき自動ドアもエレベーターもないなんて!
「……中入れないかな」
「立ち入り禁止って書いてあるけど」
「周りに人いないよ」
一階の入り口と、右側の階段には、チェーンで作られた簡素なバリケードがあり、「立ち入り禁止」と記された、プラスチック製の、ひび割れた札が下げられている。が、チェーンは今にも千切れてしまいそうなくらいに錆びていて、力に自信のない私でも、ともすれば引きちぎる事だって出来そうだった。
ジッと、柊木さんが私を睨む。
「あ、いや、冗談だよ、冗談」
「嘘。一人だったらやろうって思ってたでしょ」
「あー……あはは……」
バレてた。気まずげに笑みを返す。柊木さんの視線が痛い。誤魔化し笑いでも耐えきれず、思わず目を逸らしそうになった時、彼女の視線がふと緩んだ。
「……いいよ、行こうか」
「え?」
「忍び込み。一緒に行ってあげる」
柊木さんは周囲を軽く見回すと、私の手を引いて、ビルまで駆けていく。私はというと、呆気に取られていた。てっきり怒られると思っていたのに。
「……ほんとにいいの?」
「何が?」
「え、だって、立ち入り禁止だし」
「いやアンタが言い出したんでしょ……。……もしかしてあれ? アタシが叱るとか思ってた?」
「うん」
柊木さんは、所謂、曲がったことが大嫌いな人なんだと思っていたから。
ハッキリ返事を返すと、柊木さんは少しの間宙を見て、言葉を探るように何度か口を開閉させる。
「……まぁ、そのくらいなら、いいかなって」
結局丁度いい説明がつかなかったのか、出てきた言葉は、とても雑で曖昧なものだった。
けれど、それでも十分に嬉しかった。なんだか私が、柊木さんにとっての特別な人に慣れたような気がしたのだ。
誉められたい。認められたい。けれど期待はされたくない。失敗する私を呆れたように笑って欲しい。成功した私を我が事のように喜んで欲しい。そんな私の我儘な思いを、受け入れてくれたような気がしたのだ。
「あーもう、ほら、行くなら今の内だから……!」
会話を打ち切るようにして、柊木さんは割れたガラス扉をくぐり、ビルの中へ入ろうとする。照れ隠しをしているようで、とても可愛らしく感じた。柊木神凪は、ただかっこいいだけの人ではなかったのだ。
「……?」
と、慌てて追いかけようとして、彼女の様子がおかしいことに気付く。数秒前まで、放っておいたらどんどん奥へ突き進んでしまいそうな雰囲気だったのに、その雰囲気に反して、柊木さんは入り口でピタリと動きを止めていた。なんだろう、怖気づいたわけでもなさそう。私を待ってくれている? 違う。彼女の目は、薄暗い空間の奥を睨みつけている。
「柊木さん?」
返事はない。後ろから覗き込み、視線を追う。
埃っぽい。床に散乱している廃材やらは、後から誰かが運び込んだものだろうか。
田町京香の自殺以来、誰も足を踏み入れてないと思われたが、床には降り積もった埃を踏んで出来た、真新しい足跡がいくつもある。どれも同じ大きさ、形。
その中で一番新しい物を追ってみると、それは部屋の奥へと向かっており……。
「―――!」
夕陽の届かぬ最奥へ向かう足跡は途中で闇に紛れて見えなくなる。
だが足跡の代わりのように、その数歩奥に、人が立っていた。
闇の中に輪郭と、双眸がうっすらと浮かんで見える。周囲の闇に合わせるように淀んだ瞳は、眩し気に細められ、力なく私たちの方を見つめていた。いつからいたのか、どこまで見ていたのか。二人だけだと思っていた世界の中に突然放り込まれた第三者の存在に、私は何も声を出せなかった。
誰も動かない。私は金縛りにあったように、柊木さんは警戒する獣のように、暗闇の人は、長年の雨で練り上げられた泥土のように。数分か、あるいは数秒続いた後、先に動いたのは、泥土だった。
暗闇からのっそりと這うように現れたのは、小太りの浮浪者だった。青白い肌と、気力の抜けた表情からは、年齢を推測することはできない。闇の中から感じたジットリとした視線は、姿を見せてもやはり何処か淀んでいて、まるで幽霊のように佇む姿は、余計に男性の正体を分からなくしている。
浮浪者はそのまま私達の方をじっと見ていたけど、やがて慌てた風に目を逸らし、そのまま私達を押しのけるようにして出て行った。
それが、柊木さんの癪に障ったらしい。
「ちょっと、なんでわざわざぶつかってくるのよ」
いや思わなくもなかったけど、わざわざ言う必要ないんじゃないかな。
浮浪者はもう一度私達の方を見たけど、結局何も言わずに去ってしまった。柊木さんはまだ男の消えた方向を睨みつけている。どう言葉をかけるべきなのだろう。逃げるように視線を奥に向けると、錆びた扉があった。近づいて開けようとしてみるが、鍵が掛かっているのか、ドアノブは廻らない。鍵穴に弄られた跡がある。さっきの人は、ここを開けようとしていたのか。
「……大丈夫?」
「え?」
「肩、さっきぶつけられたでしょ」
もしかして、私にぶつかってきたから、あの人に怒ったのだろうか。
「うん、大丈夫。ありがとう……なんていうか、柊木さんって、すごくはっきりしてるよね」
「なにが?」
「今だって、私なら絶対あんなこと言えないもん。……あぁいや、悪い意味じゃなくてね?」
「だって、ムカつくじゃない。避ければいいのにわざわざ……。多分アタシ達の方が避けると思ってたのよ、アレ」
「いやまぁ、そうかもしれないけど……ほら、行こう。向こうのドア、鍵が掛かってた。あっちの階段からなら行けるかも」
「あ、ちょっと待って」
私が引き返そうとすると、柊木さんはそう言って扉へ向き合うと、手近に落ちていた針金を掴み、徐に鍵穴へと押し込んだ。
「……柊木さん、ピッキングとかできるの?」
「うちの店の倉庫も、こんな感じの古い鍵で、鍵がないって騒いだことが何度かあるんだよね。その時に、お父さんがやってるのを見た程度……っと、よし、開いた」
確かにあまり複雑な作りには見えないけど、そう易々と解錠出来るものなのだろうか。鍵屋の面目たるや。
錆びた扉をギシギシと鳴らしながら開けると、上へと続く階段があった。狭く、埃っぽく、窓からのわずかな灯りしかないそこを歩くのは息が詰まりそうで、自然、二人して黙り込み、最上階の扉を開けて、傾いた夕陽が暗がりに慣れかけていた私達の目に飛び込んできた時に、ようやくほっと一息つくことが出来た。
元々大して高くない建物だから、赤く染まった屋上から見える景色も、夕焼け空より、周辺の赤黒く染まったビル達の方が目についた。さまざまな事務所が入った建物が並ぶこの辺りは、さしずめ田舎のオフィス街、と言ったところだろう。奥には生意気にビジネスホテルまで見えるし。
「道路沿いに落ちた、って話だから、あのフェンスの方だね」
錆びたフェンスの側まで、柊木さんに随行する。フェンスの向こうは、人一人が寝転べる程度の余裕があり、それが下への視界を塞いでいる。周囲の建物も、このビルより高いものが多く、五階建てビルの高さを堪能できるとは言い難かった。ただ単に、ビル風が強いだけ。10月でこの冷たさなのだから、真冬など凍えるのではなかろうか。
柊木さんも同じ思いなのか、なんだか拍子抜けした様子だ。
「案外、ただの事故だったりして」
「え?」
「自殺した二人。ここからの景色だけじゃ、いまいち高いところにいる、って気がしないし。調子に乗ってフェンスを乗り越えてもおかしくないかなって」
そう言うと、柊木さんはひょいと、あっさりフェンスを乗り越え、向こう側へ着地した。
「確かに、ビル風もすごそうだもんね。それか、何か変なものでも見つけたとか? それをよく見ようとしてー…なんて、ありそうじゃない?」
「……変なものって?」
「……UFOとか?」
キョトンとした目で、柊木さんがこっちを見る。一瞬の妙な沈黙の後、
「……っあはははっ、なにそれ……っ、幽霊の次はUFOって……アンタ、本当に好きなんだね……っ」
笑われた。それはもう、とんでもない勢いで笑われた。無性に恥ずかしくなって、目を逸らす。
「UFOだって立派なオカルトだもん……」
「ごめんごめん、いや、笑うつもりはないんだけど……っ」
「まだ笑ってる! 大体こんなところから見えるものなんて、空か建物の外観くらいだよ!」
「ごめん、って……っ、でもさ、なんか、力抜けちゃって……ふふ、UFOか、いいね。アタシはそっちはあまり知らないから、今度色々教えてよ」
それだけで、私の機嫌は急上昇したのだけれど、それがバレるのは恥ずかしくて、しばらくふくれっ面を維持した。尤も、柊木さんはずっと笑っていたから、普通にバレてたかもしれないけど。
結局、屋上から得られたものは、夕焼けに照らされるオフィス街の景色だけだった。諦めて外に出た時、振り返ってもう一度ビルを見上げると、夕焼けにも似合わない暗い外観から、ビルそのものが異世界の創造物であるかのような、不気味な雰囲気を感じた。
★★★★
そして日曜日。
昨日の調査が空振りに終わったので、今日は図書館の日。
普段通りの午前七時に、自室を出て階段を降りると、珍しく両親が揃って、テレビを食い入るように見ていた。
「おはよー。今日図書館行ってくるけど、なんか借りたい本、とか……」
私の声は、テレビの中の女性アナウンサーの読み上げる文を聞くうち、か細く、小さくなっていった。
『―――繰り返しお伝えします。今日午前三時十分頃、上倉町の洞淵ビルの屋上から女性が突き落とされ、死亡しました。
死亡したのは、柊木書店店員の、柊木加奈子さんで、警察は、当時現場にいた、同じく柊木書店の店主、柊木義孝が後ろから突き落としたものとして、殺人容疑で逮捕したと、先程発表し……』
柊木……柊木書店?
聞き覚えのある名前が、記憶と繋がったのは、一分ほど画面を見つめた後だった。
図書館行きは却下された。
図書館は、あの商店街を抜けた先にあるから、と。