2〈天霧さつきの場合 一〉
(あ、しまった)
放課後、階段を下りる途中の踊り場に、女子三人……北条時子、東屋愛菜、西村沙希が固まっていた。
東屋さんが私に気付いて残り二人を小突くと、姦しく騒いでいた口が噤まれる。第三者が来たが故ではなく、話題の張本人が来たが故の沈黙。
放課後の廊下に、気まずい空気が流れた。
(陰口言われてたなぁ、これ)
とはいえ、止まるわけにはいかない。
よし、と小さく心の中で己を鼓舞する。隣を歩いていた葉月ちゃんにチラリと意思表示の視線を送ってから、平然と、何も聞こえなかったかのように通り過ぎれば、背中に視線こそ刺されど、それ以上の邂逅は何もない。互いに素知らぬ顔をして、目も合わせずに通り過ぎる。……いや、正確には、北条さんだけ気まずそうに目を逸らしてたけど。
角を曲がり、お互いの姿が見えなくなったころ、葉月ちゃんが溜息をついた。
「ねぇ、あいつら、また悪口始めてるよ。放っておいていいの?」
「いいの、今のは事故みたいなものなんだから。初めからなかったことにするのが一番なの」
少し後ろを歩きながら振り返り、不愉快さを隠そうともしない葉月ちゃんを、言葉だけで押し留める。
向こうが陰口に留めるのなら、それは見なかったことにするのが礼儀というものだ。
自分を嫌っている人達の所へ、わかっていて自分から首を突っ込みに行くのは、それだって突き詰めれば、正義を盾にした自分勝手な行為なのだから。
「同類にはならないぞ、ってこと? でも結局言われっぱなしっていうのは、なんだかなぁ。本人に直接言う度胸もないとかさぁ」
葉月ちゃんは向き直ると、両手を頭の後ろに組みながら、まだ納得しがたい表情で、少し前を行く私へ呆れた声を向けてくる。
明るく、社交的な彼女だけど、どちらかというと喧嘩を進んで買いに行くタイプだから、なお私の考えには賛同しがたいのだろう。だから脚を止めて、感謝を込めて微笑みかける。歯痒そうな表情は、三人組への苛立ちと、私への気遣いが半々でせめぎ合っているのだろうから。
「ん、ありがとね。でも本当に大丈夫」
「……さつきが言うなら、まぁいいけどね」
念押しに屈したように溜息をつくと、葉月ちゃんは歩幅を少し広げ、照れ隠しのように、少し先を歩き始め、私もそれに続いた。
「でも本当、あいつら人の悪口好きだよね」
「というか、三人で集まって内緒話……が好きなんだよ。普通に噂話とかでも盛り上がってるし。この間葉月ちゃんが話してくれた話とかそうなんでしょ?」
「あぁ……自殺ビル?」
葉月ちゃんが持ってくる話は、殆どの場合、他の人がしていた噂話をそのまま持ってきた奴で、井戸端会議好き三人娘は、必然的に情報源になることも多い。
「『上倉町四丁目十二番地にある洞淵ビルの屋上へ、深夜三時十分に男女二人で行くと、女性がその場で自殺する』……改めて聞くと、別に面白みも何もない噂話だね!」
「葉月ちゃんすっごくはしゃいで教えてくれたじゃない。続報がないって愚痴ってたし」
「だから面白みがないのよ。あいつら大抵の話が、一回騒いでそれっきりだし」
今の葉月ちゃんは、彼女達への悪感情で頭が一杯らしい。自分がちゃっかり彼女達を情報源にしている点を無視しているのは、意図的かもしれない。
「あの子達、前は別の子の陰口を叩いてた。そうやってコロコロターゲット変えて、大した気持ちもないのに軽薄に人を傷つけて。だから嫌いなのよ」
「あぁ、やっぱり色んな人のこと言ってるんだ?」
「ほら、さつきのクラスの不良の子とか」
「柊木さんのこと? じゃあなおのこと気にしなくていいよ。本当に誰彼構わず、ただ陰口で盛り上がりたいだけなんだろうし」
変わり者や不良。怖さ、強さ問わず陰口の対象になるのなら、言わぬよう、言われぬようと気を遣うのも馬鹿馬鹿しいというものだ。
「あーあ、いっそあの不良の前で悪口言っちゃって殴られちゃえばいいのに」
「物騒だよ葉月ちゃん……それに柊木さんは、別に不良とは違うと思うよ」
「あら、お友達に優しいのね。でも授業中寝てるし、髪染めてるし肌焼いてるし、いつも一人だし、せっかくの可愛い制服だってメチャクチャに改造してるし、あれこそザ・不良よ。スケバンよスケバン。お父さんが会社をやってるものだから調子に乗ってるのねきっと。さつきも友達はちゃんと選ばないとだめよ」
「いやスケバンは絶対違うと思うけど……。柊木さんはただ勉強嫌いでお洒落がちょっとそっち方面に近いってだけで……。あと会社じゃなくて、ただの商店街の本屋さんだよ……」
「ねぇ」
葉月ちゃんとの会話に夢中になっていて気付けなかった。急に呼ばれて後ろを見ると、まさに話題の渦中の人が。
すらりと背が高く、艶やかな茶色の長髪をなびかせた、モデルのように綺麗な人。
柊木神凪さんが、それはそれは不機嫌そうに、こちらをじろりと睨んでいた。
「さっきからなんか名前呼んでるけど、何。アタシに用でもあんの?」
「別に用なんてないよ。ちょっと噂話してただけ」
葉月ちゃんの喧嘩腰な返答には完全無視。彼女はじっと、私の方を見つめてくる。
怖い。すごく怖い。
不良ではないけど、喧嘩することを躊躇わないタイプの人なのは知っている。だから怖い。
「……そういうの苛つくんだけど。悪口言いたいならさ、直接言ってきてよ」
「あ、うん……ごめん」
自分でもどうかと思う、勢いに押されての変な謝罪だった。
柊木さんは怪訝な視線を向けてきたけど、一つ溜息をつくと、
「……本、届いたから、取りに来てね」
軽く手を振り、改めて振り返ると、柊木さんは私の答えを待たずに、さっさと行ってしまった。むぅ、歩く姿もかっこいい。行動一つ一つに迷いがないから、けだるげに携帯を出す姿まで、テキパキとして見える。
「……ほら、やっぱり不良だよ、あの子」
「言ってること何も間違ってなかったけどね。さっきの葉月ちゃんと同じこと言ってたよ」
「私あんなこと言ってたっけ?」
これだ。彼女と話しているのは嫌いじゃないけれど、結局脳が死んだように言葉が口を衝いて出ていることが殆どだから、真面目な話をするのは馬鹿馬鹿しくなる。
「あーあ、ちょっと気分滅入っちゃった。私図書室行ってくるね。一緒に来る?」
「んー、今日はいいや。早く本取りに行かないとだし」
「そっか」
葉月ちゃんは完全に図書室の気分になったのか、「またね」と手を振ると、身を翻してあっさり離れていった。ああいう切り替えの早いところなんかは、自分のペースを持っているという点で、柊木さんと似ているのだけれど、さっきの様子を見るに、多分気は合わないのだろう。
彼女が曲がり角を飛び出し、死角からきた生徒をすり抜けていったのを見送ってから、息をつき、私は下駄箱へと向かう。
葉月ちゃんの声が耳から消えた時、頭の中に残ったのは、三人娘の言葉だった。ほんのひと欠片。向こうが私に気付く一瞬前に、口にしていた言葉。
「幽霊女かぁ……」
柊木さんの様子を見るに、その呼び名は少なくとも、クラス全体に広まっているのだろう。あだ名にしては可愛げのないそれを一人呟くと、私は軽く頭を振って、脳内からその言葉を追い出した。
★★★★
通学路の途中にある商店街へ足を向ける。
各分野に特化した生鮮食品店を始めとして、布団屋、雑貨屋など、まさに絵にかいたような老舗が並ぶ中に、ファストフードチェーン店や、大手スポーツ用品店の分店などが点在する姿は、所謂昔ながらの商店街が、そのまま時代を取り入れ続けたかのような様相だった。
結果的に都会らしい無機質さは駅前に集中しており、ここ数週間前から出没しているという浮浪者も、そんな生温かさに居心地の悪さを感じるのか、この商店街ではまだ目撃情報が無い。
昔ながら、という点は店同士の絆という面にも強く出ており、近所に大型のショッピングモールを建てる話が頓挫したのは、商店街のメンバーが強く反抗したからという噂だった。そのため上倉町の中では、町の図書館が一番大きな娯楽施設ということになっていたりする。
何度も通り抜けているが、まともに覗いた事のある店は数えるほどしかない。柊木書店は、まさにその数えるほどしかない、行きつけの一つだった。
壊れているのか、開けっ放しになっている自動ドアをくぐると、古い外観に似合わない、白を基調とした、清潔な空間が広がっている。
店舗自体は一階建てで、広々とした店内に、文学小説から漫画、啓発本、受験対策本、レシピ、何種類ものメジャーな連載雑誌などが、丁寧にジャンルごとに棚を変えて置かれている。
大型専門店には流石に劣るが、下手に遠出をせずともある程度の本はここと図書館で揃えられた。
地元密着型ということもあり、取り寄せに力を入れているのも、長続きの秘訣なのだろう。心霊モノの書籍の取り揃えがやたらいいのも個人的には評価点。難点があるとすれば、夫婦経営のため、従業員が店長さん含めて二人だけ、というところだろうか。
新規入荷本がまとめられている棚を見て暇を潰しながら、レジを打っていた店員さん……柊木加奈子さんの手が空いたのを待って、話しかける。
「あの」
「あ、はい。いらっしゃいませ」
「先週、『心霊スポット大全』の取り寄せをお願いしたんですが……」
「かしこまりました。お名前をお願いします」
「天霧です」
レジを出ることなく隣のパソコンを弄り始める加奈子さん。何度取り寄せを頼んでも、私の名前を覚える様子はない。とても美人だ。おっとりとしたご主人とは反対に、自信を感じる笑顔が眩しい。
すらりとしたなだらかな身体つきに合わせた化粧が若作りに映らず、若々しいという印象になるのも、自分を魅せることにまだ手を抜いていないからだろう。一方で誰に対しても丁寧だし、きちんと笑顔を見せてくれるから、私は嫌いではなかった。
受け渡しざまで軽い会話をすることもあった。向こうの反応は大体一律で、「あら、そうなの」だけど。
「……はい、確認しました。今持ってくるので、少々お待ちくださいね」
そのまま後ろの扉を開けて、奥……おそらくは倉庫の方へと引っ込んでいく。一人でも回しやすいよう、動線は纏めてあるらしい。そこまでするなら新しく店員さんを雇えばいいのに。
「実はあまり儲かってない……とか?」
「悪かったね、儲かってなくて」
「わっ!」
後ろから突然囁かれ、思いきり肩を跳ねさせてしまった。振り返ると、柊木さんが腰に手を当て、呆れた視線を向けている。
「あぁ、びっくりした……」
「店の悪口言ってるアンタが悪い。……その独り言の癖、直したほうがいいよ」
「あはは……。柊木さんは、お店のお手伝い?」
「まぁね」
見ると店の制服代わりのエプロンを着けている。前途のように、正式な店員さんは、なお倉庫でゴソゴソやっている加奈子さん一人だけで、柊木さんはあくまで、家の仕事の手伝いをしているだけ、という事らしい。バイト禁止だもんね、うちの学校。
だから店によく出入りする私とは必然的に会う機会があり、顔見知りになっていた。沈黙が私達を包む。そう、顔見知りなので、こうなるのである。
葉月ちゃんはお友達、と言っていたけれど、そんな大層な関係ではない。ただ、お互いの顔を知っているだけ。彼女の家が本屋で、私がそこをよく使う、というだけ。
そりゃあ、柊木さんのことは何となく知っている。
無理に周りに合わせようとしない子で、ちょっと派手な服装の趣味で、でも家の手伝いなんかはちゃんとする子。
けど、それらは他の人達が見てもわかる範囲のことで、それ以外のことなんて何も知らない。聞いたこともない。というか碌に会話をしたことだってない。昨日や今みたいなことは、本当に珍しいのだ。だから、
「……あのさ、あんた、そういう本、よく読むの?」
「え? あ、うん」
まさか柊木さんが世間話をしようとしてくるなんて思ってもいなくて、随分と間抜けな声で返してしまった。
「好きなんだ、そういうの」
「まぁ、うん」
「幽霊とか、信じてるんだ」
「……まぁ、うん」
「そっか」
「うん」
「……」
「……」
……気まずい。
ものすごく気まずい。
懸命に話をしようとしてくれてるけど繋がらない。なんだか会話する前よりも溝が深まっている気さえする。いやというかこれ、ひょっとして私が悪いのではなかろうか。
会話とは互いにしようとしてこそだ。けれど話題を作る方法が私には分からない。よく知らない人に、何を訊けばいいのかが分からない。
いっそ最初から無視してくれれば、こちらだってこうやって気を揉まずに済むというのに、なんて失礼なことさえ思ってしまう。
チラリと彼女に視線を向けると、彼女の方は、私ではなく、私の持つ本を見ていた。
「ねぇ、それ読み終わったらでいいから、貸してくれない?」
「え、あ、うん」
「やった。じゃあ終わったら教えて。メアドいい?」
彼女の場合、私のように気遣いに翻弄されるのではなく、ただ自分の望みを優先して動いている。
その強引さは、今の私にはありがたかった。私のような人間に、気を遣って欲しくなかった。
流れでメールアドレスを交換する。そしてタイミングを合わせたように、加奈子さんが本を持って戻ってきた。振り返ると、柊木さんは用は済んだ、とばかりに、棚の整理に行ってしまっていた。マイペースを極めている。
「ありがとね」
品の受け渡しざま、加奈子さんから話しかけられ、思わすキョトンとする。今日はやけに柊木家の人に話しかけられる。
「あの子、全然友達とかいないから、心配してたのよ。神凪には余計なお世話だ、って言われるかもしれないけど……仲良くしてあげてね? あの子も貴女みたいに、ホラーとかオカルト好きだから。うちの本屋、そういうの一杯あるでしょう? あの子が喜ぶのよ」
多分それ言っちゃいけない奴だと思います、お母さん。
「ほら、前に貴女教えてくれたでしょう? 洞淵ビルの噂話を調べてるーって。あれ、あの子かなり興味を持ったのよ。もしよかったら、今度一緒にそのお話とかすれば、盛り上がるんじゃないかしら」
そう言って一人盛り上がる加奈子さんに、ひきつった笑みしか返せない。この人、名前は憶えないけどこっちが話したことはしっかり覚えてるのか。そしてそれを身内の間に広めることに、さして抵抗がないらしい。更に言えば、今私は身内判定を受けているらしい。
「今後ともよろしくね?」
ニッコリ笑ってくる加奈子さんに、私は結局返事を返せず、あいまいな笑みだけを浮かべた。