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終〈柊木神凪の場合〉



 声を掛けたのは、母の方からだったという。


 彼女が勤めていた商社に営業に来たのを見掛けて、一目惚れしたそうだ。


 企業と顧客の間を取り持つ、仲介業者の類い。当時の父は、そんな小さな企業に所属する、唯一の無役職だった。


『いいな、って思ったのよ』


 そう言って微笑んだ母の真意は、今や想像するしかないが、一目惚れ、という言葉に嘘は無かったのだろう。


 仲睦まじい両親だった。娘の身から見て、双方に嫉妬と胸焼けを覚えてしまうくらいに。


 大学時代の先輩の顔を立て、冷遇をあえて受け入れつつも、祖父の死後、書店を継ぐことを即座に決めた愚直な父と、名前すら知らぬ相手にいきなり交際を申し込み、それから二ヶ月も放った後に、昨日会ったばかりかのような感覚でデートに誘う奔放な母。傍目にはお世辞にも似合ってるとは言えない正反対な二人が、食卓や、日常会話や、仕事の合間に交わす視線には、静かな信頼の証が見えた。


 それは所謂新婚夫婦のような一秒でも長く共にあろうとはしゃぐようなものではなく、お互いのあり方を理解し、受け入れる、熟年夫婦のようなものだった。


 己を信じた実直な父を尊敬し、己に準じた自由な母に憧れた。


 あの二人のように、自分に素直に生きようと思った。他人に合わせ、自分を曲げるようなことはすまいと。友人は出来なかったが、家族がいれば満足だった。


 父の声が好きだった。


 母の化粧が好きだった。


 二人が好きだった。

 


 ★★★★



「差し入れの品は何かありますか? ……何も。であれば特に手続きは必要ありません。警察の立ち会いもありません。気になるようなら私も席を外しますから、気にせず話をしてください。と言っても10分程度ですが……」


 指定した時間までまだ少し間があるから、気を落ち着けるといい。そう言い残して、弁護士の男性は一度席を外した。


 一度深く呼吸をするも、あまり効果はない。


 父の顔を見るのは何日ぶりだろうか。


 それほど時間は経っていないはずなのに、もう何か月も会っていないような気がする。それほどにこの数日の思考が濃く、深かったのだろう。


 身に覚えはなく、何も記憶にないという主張を、父は未だに翻していないという。


 呆れと疲弊を隠し切れない弁護士の零した現状に、当り前じゃない。と心の中で小さく毒づいた。


 父は無実だ。


 あの女を殺したのは父ではなく、あのビルに巣食う悪霊だ。


 関わるもの全てを不幸にする悪霊。あのビルで飛び降りた女性も。父も。私も。誰も彼もを巻き込んだ。


 母親の、あの女の姿が浮かんだ。すぐに浮かんだ姿を振り払う。あの女は違う。あれは自業自得だ。死んで当然の女だ。


 じっとしていられず、化粧室へ向かう。洗面台で一度顔を洗った。


 ずっと違和感があった。


 化粧の仕方が違う日があった。


 電話を取った時、たまに一瞬息を潜める瞬間があった。


 「アキナガ」と名乗る人からの予約が何度かあった。けれどアタシは一度も、当人の顔を見たことがない。父も、なかった。


 知らぬふりをしてもよかった。でも母の化粧がいつもと違ったある休日。あの震災の直後の日。


『友人が心配だから会いに行く』と駅へ消えた日。


『今日はお店を閉めるからお前も休みなさい』と父が言ってくれた日。


 気付けばアタシはあのホテル街の近くにいた。この辺りで合い挽きが出来る場所はここしかない。その役目は自分が担うべきだと感じた。父には、友人のところへ泊まる、と言った。


 待ち伏せに都合のいい場所は、なかなか見つからなかった。喫茶店もコンビニも、学生が一人居座るには無理がある。そもそも夜中になれば補導されるのは目に見えていた。


 いつ戻るのか、戻って来るのかもわからない女を待ち伏せするのに都合のいい場所。


 喫茶店を尻目にぐるりと見回した時、ホテルへ続く道の側に、あの廃墟ビルがあった。


 ピッキングで鍵を開け、屋上の隅に潜り込むようにして隠れた。今思えば、疑うを通り越して、あの瞬間には、アタシは確信していたのだ。


 二十時を回った頃、階下で騒ぐ声が聞こえて、ゾッとした。このビルは不良の溜まり場だったのだ。屋上の隅に、小さく隠れるように屈み込んだ。いつ彼らが来るかわからない。鍵をかけ直そうかとも思ったが、音が階下に響くかも知れないと思うと、手が出せなかった。


 凍えそうな寒さの中、暗がりに縮こまっていると、アタシのお弁当を作る母の姿が脳裏に浮かんだ。


 今日は何が入ってるでしょうか? なんて言いながら渡してくる彼女の笑顔がこちらを見る。


 終電が過ぎて暫くして、屋上の扉が開く。必死に息を殺していたら、一台のタクシーがホテル付近で止まった。降りて来たのは母と、知らない男だった。


 アタシの中にあった母の笑顔がガラスのように砕ける。


 裏切られた。


 見捨てられた。


 何かが落ちる音と、騒ぎ声がして、ハッと我に帰る。屋上を見ると、誰かが力無く屈み込んでいるのが見えた。慌てて階段を駆け降りる。バレるかも、などと考える余裕はなかった。


 下に着いた時、誰かの名前を叫びながら、仲間に引っ張られるようにして消えていく男の姿が見えた。


 見られたかもしれない。けれどそれどころではない。見失った姿を追いかけたら。


 背の高い誰かと共に、ホテルに入っていく後ろ姿が目に入った。背後の騒ぎ声など、聞こえもしない、と言うふうに。


 呆気に取られ、写真を撮ることもできなかった。


 フラフラとその場を後にする。その時頭にあったのは、事故を無視してはいけない、と言う場違いな考えだった。父ならそうするだろう、と思っていた。匿名の通報をして、そのまま人気のない道を帰路に着いた。待ち伏せをしたかったが、あの事故の騒ぎに巻き込まれたく無かった。


 父は不在だったが、少ししてコンビニのお弁当を買って来た。帰っていたアタシを見て戸惑っていたが、深くは尋ねてこなかった。母はそれから一時間ほどで帰って来た。態度の端々に、僅かな苛立ちが見えた。


 アタシが問い詰めると、あっさりと彼女は白状した。


『やっぱりね、ずっと同じことをするっていうのは性に合わないのよ。毎日同じ材料でいろんなご飯を作っても、結局その食材自体が嫌になっちゃうでしょう? それと同じ。そりゃあ最初は頑張ってみたんだけど、やっぱりダメね。大丈夫よ、貴女や義孝さんのことが嫌いになったわけじゃないから。ただ、ほんの少し口直しがしたくなっただけ』


 震災で心が不安定になった、とすら言わなかった。


 理解が出来なかった。


 父と一緒にいたいのではないのか。生涯を共に過ごしたいと思ったのではないのか。だから結婚したのではないのか。


 そう言っても、母は困り、呆れたように笑うだけ。


 それが、あの女の正体だった。


 父へ言い寄ったのは、それだけ本気だったから、では無く、ただ単に『その程度のこと』だったから。彼女の自由には、そこに伴う責任が欠けていた。


 嘘つき、嘘つき、嘘つき!


 ずっと一緒って言ってたのに。パパはあんなにあなたのことを愛していたのに。ずっと信じていたのに!


 なのに裏切るの? なのに一人だけ逃げるの? 残された人がどれだけ悲しむかも考えないで。


 愛し合うってそういうことじゃないの? 誰かと添い遂げるってそういうことじゃないの?


 あっさり捨てるくらいなら、なんで簡単に一生を誓い合うの?


 許さない。


 許さない。


 絶対に許さない……!




 顔を洗い、鏡の中の自分を見る。酷い顔だ。こんな姿、父には見せられない。


 父には、浮気のことは話さなかった。


 あの人はまだ、あの女を信じている筈だから。許し難かったが、その想いをこちらが叩き切ることは躊躇われた。


 それからの生活に、何ら変化はなかった。毎日どちらかから弁当を受け取り、学校が終われば店を手伝って、食卓では三人が笑いながら語り合う。


 けれどそこに、アタシから彼女への親愛はもう無い。ただ父を安心させたいが為の、父の居場所を壊したくないが故の笑顔だった。罪悪感は、父の為になるのならと心の奥に押し込められた。嘘とは、誰かを騙すとは、こんなにも簡単に出来てしまうものなのか。


 不意に感じる居心地の悪さは、震災で変わった世情のせいではない。

 

『あのビル、幽霊が出るんですって』


 一年たった頃、彼女が食卓でその話題を出した時、正気を疑った。


 何故蒸し返すのか。何故父の前で話すのか。


 彼女は、まるで罪悪感を抱いていなかった。バレるかも、という不安すらない。何も考えていない。ただアタシが好きそうなオカルトの話だから、というだけで口にしている。


 だがそれよりも気になったのは、幽霊の話を天霧さんから聞いた、という点だった。


 あの事件は結局震災の話題に飲み込まれ、新聞と雑誌が一度掲載した程度だった。ネットにも噂すら残っていない。それなのに何故彼女は知っているのか。


 まさか、あの現場にいたのではないか。


 だとしたら不味い。この女の浮気現場を見ていたのなら。いつか店でそのことを口にするかもしれない。その前に口止めをしなくてはいけない。


 だから近づいた。


 幸い、彼女がオカルトを好んでいるのは知っている。そこをきっかけに話してみようと試みた。


 正直、拍子抜けした。


 学校でも書店でもない場所で会った彼女は、あまりにも卑屈で、その癖馬鹿みたいにこちらの挙動に一喜一憂して。


 説得とか、脅しとか、そういうことを考えていた自分が馬鹿馬鹿しくなるほどで。


 だからだろうか。彼女からホラーの話を振られた時、自分でも驚くほどに饒舌に、自分のことを話してしまった。


 思えば、自分の趣味について語り合える相手などいなかった。両親は理解こそ示してくれていたが、当人たちの食指に触れることはなかった。


 自分以外の人のホラーに対する考え方に聞き入ったことなどなかった。


 洗面所で携帯を取り出す。


 メールの返信はなく、電話をしても繋がらない。


 天霧さんと話せば、父と会う緊張を少しでも緩和できる気がしていたけれど、忙しいのだろうか。


 忙しいのだろう。彼女は、とても優しいから。


 アタシが究明を頼んだ時も、親身になってくれた。アタシの言葉を全て信じてくれた。


 帰ったら改めてお礼を言おう。その時は、お互いの好きなホラーについて、改めて語り尽くそう。


 トイレから戻って間も無く、面会の為に部屋へ案内された。ドラマで見るような、アクリル板で仕切られた先に、父がいた。チラリと横の弁護士を見ると、察したように頷いて、退室してくれた。椅子に座り、向かい合う。


「風邪、引いてないか?」


 向こう側に座る父は。アタシが唯一尊敬する家族は、一言告げて、疲れ切ったように笑った。アタシなんかより、そっちの方がずっとずっと傷ついただろうに。


 話したいことはたくさんあったのに、


「パパ……っ!」


 そこから先は、しばらく嗚咽しか出てこなかった。


 ずっとずっと泣いているアタシを、父は黙って申し訳なさそうに見つめている。言わなければ。何があろうと、これだけは絶対に。


「パパ……アタシ、信じてる」


 アクリルの向こうで、父が目を見開いた。


「だってパパがママを殺すはずないもん。あのビルね、悪霊がいるんだよ。パパ、それに取り憑かれたの。大丈夫、アタシは、パパの味方だから」


 父は許されないだろう。殺人の証拠はすべて彼を示し、それでも自分じゃないと叫び続ける。浮気されたという要素を含めても、罪を認めない悪質な殺人犯としか映らない。


 それでも、私だけは味方でいる。悪霊の仕業なのだから。


 そうだ。そうに決まっている。


 母だけでなく、父まで人の道義に背く人間であるはずがない。


 父は無実だ。たとえどれだけ証拠が出ようが、アタシはそう信じると決めた。そうあって欲しいから。


 父は目を見開いた。何度か口を開きかけ、そして、


「あぁ……ありがとう、神凪」


 そう言って、優しく笑ってくれた。


「いいんだ、いいんだよ……お前さえ分かってくれればいい。お前だけでも、私の味方でいてくれるなら、他の連中の言葉なんて気にならない。お前さえ、お前さえ信じてくれるなら……」



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