14〈天霧さつきの場合 九〉
夕焼けが沈みきった頃合いでも、学校の門はまだ開いていた。土曜日でも、どこかの部活が活動しているのだろう。今の私にとっては僥倖だ。
まだ残っている教師とすれ違わぬよう気をつけながら教室に行ってみると、彼女は退屈そうに、私の机に座り込んで、天井を見上げていた。
「葉月ちゃん」
声を掛けると、葉月ちゃんは私を見るなり、パァっと顔を輝かせてきた。
「さつき! どうしたのこんな時間に。なんかあった? っていうか酷いじゃない、全然あれから続報くれないんだもん。お友達にばっかりかまけてたら、私嫉妬しちゃうよ?」
「ごめんね、ちょっと色々ありすぎて……」
「それはわかるけどねー。まぁ、いいよ。さつきのそういう直向きな所、私好きだもの」
不満げな顔から、コロコロとした笑顔へ。
彼女はいつもそうやって、私のことを肯定してくれる。嬉しいけれど、今はなんだか。
「……さつき? 本当に、何かあった?」
笑顔が消え、不安そうに私の顔を覗き込む。そんなにわかりやすかったかな?
「ううん、少し疲れただけ」
「嘘。そんな顔して、それだけなんて言われても納得出来ない。絶対何かあったでしょ。そうやってなんでも抱え込もうとするのは、さつきの為にならないよ。ねぇ、教えて? さつき、一体何があったの?」
彼女が私の手を取る。私の事を、切に心配してくれる。
私は、こんな風に彼女を気遣えていただろうか。
彼女を、柊木神凪を、心から心配したことがあっただろうか。
頬を熱いものが伝う。
気が付いたら、私は泣いていた。
★★★★
「……柊木さんは、お父さんが人殺しをしたことが信じられなくて、それを否定したくて、私に助けを求めてくれたの」
「幽霊を信じてるさつきなら、あの事件が幽霊によるものかもしれない、って信じてくれるから?」
「そう。……でも、私はそれを裏切った」
「……どういう意味?」
「嘘、吐いちゃった」
「お父さんのせいじゃないって言ったこと? そんなのわからないんじゃないっ、さつき達が気付かなかっただけで、本当に幽霊はいたのかも」
二人で机に並ぶように座る。廊下から差し込む灯りが、私達の膝を照らしていた。
「違う。それもだけど、それじゃない」
唇が震える。
「友達だって、言っちゃった。私と柊木さんは、友達だって」
そんなわけがない。そんな筈がないのだ。
「柊木さんと二回目に洞淵ビルへ行った時、喫茶店の場所を柊木さんが知ってて、少しおかしいな、って思ってたの。その前に柊木さん、あの辺りには行ったことない、って言ってたから。それともう一つ、橋川さんの話で、ずっと引っかかってたことがあった」
ポツポツと独白していた、彼の言葉の中にあった違和感。
「誰かが階段を駆け降りる音が聞こえた。って……それもおかしいんだよ。だって、仲間だっていう人達の声は全部下から聞こえてたっていうんだもの。じゃあその足音は誰なんだろう、って……」
屋上へ続く道に、人が隠れるような場所はない。ならば足音の主は何処にいたのか。それは、考えてみればすぐに予想がついた。
橋川守は、屋上の鍵を開けられなかった。田町京香と一緒の時は開けられたのに。
時間が経って手が忘れてしまった? 違う。
すでに誰かが開けていたのだ。橋川守は既に開いていた鍵を弄り、自分が開けたと錯覚したに過ぎない。
足音の主は屋上にいた。あそこなら、夜闇に紛れられる。そして田町京香が飛び降りた時、そのどさくさで階段を駆け降りた。
では、屋上にいたのは誰なのか。
「柊木さんなら、あの鍵を開けられる。あそこにいたのが柊木さんなら、彼女があの辺のことを知っていたのも頷ける」
「でも、それってさつきの考えすぎじゃない? なんでアイツが現場にいた、って言いきれるの?」
「柊木さん、通報者がいた、って知ってた。それに司さんと会った時、ずっとあの人から目を逸らしてた。直前の記者のこともあって怯えてるんだって思ってたけど……」
通報者が第三者であると知っているのは、彼女がその通報者だったからではないか。
司さんに怯えていたのではなく、当時の現場で、彼の顔を見る機会があったからではないか。自分に気付いているのではと、懸念していたのではないか。
そう、考えてしまった。
考え過ぎと言われればそうだろう。推論だ。憶測だ。辻褄が合う、というだけの話だ。
でも、止められない。想像が、思い込みがさらに続いてしまう。
柊木さんが現場にいて、事故を目撃していたなら、私にそれを言わない理由はなんだろう。
言わない理由。
言えない理由。
隠す理由。
柊木神凪はこの事件について無知であり、それをきっかけに私に近づいているのだ、ということにした理由。
その方が、都合がいいからだ。
「柊木さんは、私がどこから洞淵ビルの話を聞いたか知りたかったんだと思う。ひょっとしたら私も現場に居て、見てたんじゃないかって」
「見てたって……飛び降りの瞬間を?」
首を横に振る。
「……柊木加奈子さんの、浮気現場」
橋川宅前で会った女性は言っていたではないか。
柊木加奈子と岸家の主人がホテル街で逢瀬していたと。
柊木さんは、浮気現場を捉えるべく、あの夜、あのビルに忍び込んだのではないか。
洞淵ビルの屋上からは、ホテルの入り口がよく見えた。
柊木さんは、その浮気現場を抑えようとして、偶々事故を目撃したのだ。だとすれば、彼女が私に無知を装う理由もわかる。
私がどこまで知っているのか、カマをかけたのだ。
「もし全てを知っていたなら、私に口止めをしたと思う。……友達なんかじゃなかったんだよ。柊木さんにとって、私はただ、彼女の秘密を知ってる邪魔者だった……」
自分の浅はかさに笑ってしまう。ようやく手に入れた自分だけの宝石は、単なる作り物だった。偽物を黙って愛でていればいいものを、わざわざその正体を探ってしまった。
どうせ本物との区別もつけられない、節穴の目だというのに、一丁前に。
「なにそれ……酷い。それなのに抜け抜けと、事件の真相を調べて、なんて頼んだっての? さつきがどれだけ一生懸命、アイツのために頑張ったと思ってるのよ……!」
隣を見ると、葉月ちゃんは目に涙を溜めていた。涙を溜めて、私のために怒っていた。
「さつき。もうあんな女と関わるのはやめな。いい事ないよ。自分の事を都合よくしか見ないような奴に、好き勝手使われる理由なんてないでしょう?」
あぁ、そうだ。
その言葉が欲しかった。
外から微かに聞こえていた生徒達の声も無くなって。
何もない、誰もいない暗い教室の中、私はまたすすり泣いた。
★★★★
廃屋敷には、柊木さんの姿は無かった。ランタンに灯された部屋は綺麗に片付けられ、掃除までされた形跡がある。テーブルの上には紙切れが置かれ、空き缶で抑えられていた。
『落ち着いたら、また遊ぼうね』
一言だけ添えられた言葉に、喜ぶことは出来なかった。私にそんな資格は無い。無いのだ。
灯りの届かないソファーの隅に座り込む。
暗闇は落ち着く。心が掻き乱されている時は、いつもこうやって暗く、少し寒い場所に身を縮こまらせる。
「まるで鼠ね」
女性の声が耳朶に響く。
静かな声だ。静かで、寄り添うような、貼り付くような、嫌な声。少し顔を上げると、お姉ちゃん……天霧フミの楽しそうな笑顔があった。
「灯りのない場所をわざわざ選んで。隠れたいのか見つかりたいのかわかりゃしない」
にらみ返す気力はない。否、そんな気が起こらない。私にはむしろ、その言葉がありがたかった。
お姉ちゃんが隣に座る。寄り添うように、というより、逃がさない、と迫るように。
「それで?」
「……なにが」
「なんでさつきちゃんは、帰って来るなりソファーの上に蹲っているのかな?」
「ちょっと疲れただけ」
「なら家に帰ったら?」
「少し休むだけだから」
「叱られたいんでしょう」
ジロリと、彼女を睨む。
お姉ちゃんは意に介さず、目を細め、笑みを深めた。
「さつきちゃんはいつもそう。誰かに叱られたい時はウジウジと人前でこれ見よがしに落ち込んで見せる。私が死んだ時も、そうやって蹲って、お父さん達を心配させてたよね。でもそれって、人に嫌われるやり口の筆頭だよ? まぁ、私は優しいから、付き合ってあげる。言ってご覧? 可愛い可愛い妹は、一体何を叱られたいのかしら? 一体何を聞いてほしいのかしら? 大切なお友達の葉月ちゃんじゃなくて、大嫌いなお姉ちゃんに話したいことって、何かしら?」
本当に、嫌な人だ。私の言われたく無いことを、言ってほしいことを、全て見透かしてくる。
けれど、それを待ち望む私がいる。腹立たしさと居心地の良さが同居している。
「……葉月ちゃんに噂の流れを調べてもらって、ネットでも調べて……でも、そこに最初の無理心中は全く載っていなかった。北条さん達も、司さんも、当然知らなかった」
「岸優佳と、その彼氏さんの事件ね。さつきちゃんは週刊誌と新聞の記事を図書館で調べて見つけたのよね。それが?」
「でも、柊木さんは知ってた。加奈子さんから聞いたって。……その時、義孝さんもいたって」
柊木義孝は、自分の身に覚えはない、とずっと訴えている。だからこそ、私達は悪霊の仕業ではないかと考えた。何も知らない人間が、偶々悪霊の標的に選ばれたのではないか、と。
けれど、彼がそもそも噂話を知っていたのなら。
柊木加奈子から、自殺ビルの話を聞いていたのであれば、その行動に裏の意図が生まれる事になる。
「幽霊騒ぎに託けた、自作自演なんだよ、これは。義孝さんは自殺ビルの話を聞いて、それを利用して加奈子さんを殺した」
「……ふーん。まぁ、いいわ。多分に思い込みと憶測が混ざってる気がするけれど、それで? だからってなんで、貴女が落ち込むの?」
呆れ半分な指摘に顔を伏せる。
私はこの件について、完全な外野のつもりだった。それでも友達を助けるためならばと立ち上がった、一人の少女だと。
違った。そんな美しいものじゃない。そんな浅ましいものじゃない。もっとタチの悪い、悍ましい、無自覚な悪意そのものだ。
「私が、加奈子さんに話したんだよ。義孝さんが聞いた噂話は、私が発端なんだよ……」
ネットに、過去二件についての情報は何もなかった。
葉月ちゃんが聞いたのは、田町京香の事件のみ。そこに岸優佳の事件を絡め、呪いだと騒ぎ立てたのは、他ならぬ自分だ。
私が三人娘の話に興味を抱き、あのビルで起きた過去の事件を蒸し返し、それを考えなしに柊木加奈子へ伝えた。
だから柊木義孝は、あのビルで殺害したのではないか。洞淵ビルでは、二人も不審死がいるのだから。それに紛れて殺せばよいと。
そう思わせたのは、そう後押ししたのは、私ではないか。
「ふーん、そうなんだ。なるほどね、だから私の方に来たのね。お友達の葉月ちゃんにそんなこと言っても、貴女は悪くない! って庇われるだけだものね」
姉の声は、愉しそうに弾んでいる。
橋川守は自分の罪を理解し、泣きながらも受け入れた。
北条司は身勝手な行動であることを理解したうえで真実を求めた。
私だけだ。私だけが、自分の罪にも気付かず、無自覚に、浅慮に、善人のつもりで動いていた。
そして誰にも罰せられず、誰にも咎められず、開き直ることも、自分を捨てることも出来ずに、それを彼女達に丸投げした。
「ふふ、笑える話ね。友達の為? 少しでも救いになるなら? 貴女は自分で蒔いた火種が燃え広がる様子を、ただ呑気に眺めていただけじゃない。あぁ、まさに太陽ね。目の前に広がる燎原が、自分の熱で燃え上がっているとも気付かずに、もっとよく見ようと考え無しに近づいていく、無自覚な太陽。呆れるほどの愚か者だわ。でもね、それだけじゃないでしょう? 貴女が追求されたいのは、そこだけじゃない」
「……」
「葉月ちゃんに話したんでしょう。友達じゃないのに、友達だと思い込んじゃった、って。それって、後付けよね? 自分が加害者率百パーセントなのが耐えきれないから、加害者に見せかけるように被害者ぶりたかった。葉月ちゃんまで使って、自分を庇いたかったんでしょう。貴女はそこも叱られたいのね。自分が悪いと思うなら、全てを認めればいい。己の思慮の浅さにこそ咎があるのだと、自分で責め立てればいい。
でも、そんなこと出来やしない。柊木神凪を裏切った自分が許せないのと同じくらいに、自分を裏切った柊木神凪が許せない。相打ちじゃないと気が済まない。自分だけが罰せられるのが納得いかない。加害者の分際で。半端者。半端者。偽悪的にも偽善的にもなれない愚か者。
あぁ、可哀想な神凪ちゃん! よりにもよって、父親が足を踏み外した原因に助けを求めるなんて! 自分の罪を全て受け止め切る度量もない相手に感謝してしまうだなんて!」
両手を広げ、お姉ちゃんは叫ぶ。まるで舞台の演者のように。被害者ぶる私を揶揄するように。
そうだ。その通りだ。私は自分を許せない。
けれどそれと同じくらいに、自分を利用した柊木さんを許せずにいる。
柊木神凪にも罰があれと望む、おぞましい自分がいる。
「……と、こんなところかしら? 悲劇のヒロインって大変ね、自分のやったことでグダグダグダグダ……。それにしても、柊木義孝は何故、わざわざ幽霊の仕業なんかに見立てたのかしら。まさか本気で、それで誤魔化せると思っていたの?」
「……信じて欲しかったんだよ」
「何を? 誰に?」
「わかってるくせに」
首を傾げる姉から目を逸らす。これ以上は、言いたくない。
しばらく黙っていたけれど、姉は興味を失ったように息を吐いた。
「まぁいいわ。にしても、さつきちゃんも成長したわね。ちゃーんと私が言ったこと、分かってるじゃない。自分のやったことを自覚して、理解して、そのうえで、自分に相応しい行動をとったってことだもの。落ち込むことはないわ。身内への弱音くらい、許されるでしょう」
「身内?」
「えぇ、身内。私と葉月ちゃんは、そのためにいるようなものでしょう? 私は、最後まで貴女に全部押し付けた神凪ちゃんが悪い、なんて言ってあげないけれど、葉月ちゃんならそう言ってくれるんだもの。都合のいい話相手がいるって幸せよね」
「いるかどうかもわからないのに?」
お姉ちゃんは、にっこりと笑った。
「いるかどうかもわからないのに。なんの問題があるの? どうせ他の人には話せない。なら私と彼女に話せばいいじゃない。幽霊なら、噂話をよそに漏らすこともないでしょう。貴女みたいに」
お姉ちゃんの声は嘲弄に満ちている。私がそんな風に思ってないことを、そんな風に思いたいのに思えていないことを分かっている。
お姉ちゃんは私の何もかもを見透かしている。まるで私の分身のように。葉月ちゃんも同じだ。その上で二人は、私を責め立て、私を励ましてくれる。
二人とも、私の望むように在ってくれる。
そんなことがあるだろうか。そんな都合のいい人がいるだろうか。
いるのだと、二人は私に微笑む。私だけに微笑む。
誰にも見えない幽霊。誰にも見えないものの実在を、一体誰が証明するというのだろう。
「お姉ちゃん。なんでお姉ちゃんは、ずっと前に死んだのに、私より歳をとっているの? 幽霊って歳をとるものなの? 葉月ちゃんの噂話は、本当に葉月ちゃんが聞いてきたの? 私が盗み聞きしていたのを、自覚してないだけじゃないの?」
天霧フミは答えない。
「教えてよお姉ちゃん。葉月ちゃんは……お姉ちゃんは、本当に幽霊なの? それとも、私が都合よく作ってるだけの妄想なの?」
天霧フミは、
「教えない」
そう言って、愉しそうに嗤った。




