10〈天霧さつきの場合 七〉
誰かが、私の手を引いた。
歩道へと引き戻される視界に、私と入れ替わるように、勢いづいて道路へと転げ込むお姉ちゃんの背中が見えた。
その背中が、私が最後に見た姉の姿だった。
耳を劈くブレーキの音が辺りに響いて。
当時の私は何が起きたのかもわからずに、ただ引き戻される時に捻った腕と、尻餅をついた衝撃の痛みに泣き叫ぶばかりだった。9歳になったばかりだというのに、赤ん坊のような泣き方だ。
……否、分かっていたのだ。ただ、認めたくなかったのだ。だから涙で視界を閉じて、泣き声で音をかき消していた。
気が付いたら私は病院のベッドにいて、駆けつけてきた両親は、泣きながら私を抱きしめた。
―――お姉ちゃんは?
父も母も、何も答えなかった。ただもう一度、私を抱きしめた。
姉は、天霧フミは、12歳でこの世を去った。
二人で使っていた部屋は、私一人の部屋になった。二人で使っていた机やベッドは私の物になり、その他のお姉ちゃんの私物は、全部クローゼットの奥に放り込まれた。
父も、母も、姉のことを進んで話すことはしなかった。私がたまに問い掛けた時、問い掛けられたことだけに答えるような感じだった。
気を遣われているのだと感じた。
両親は私のことをとても気にかけた。溺愛してくれた。
後ろめたかった。両親の目が私ではなく、私の背後にいる姉の残像を見ているような気がした。私も、どこからか彼女に見られているような気がして、両親の溺愛を拒絶しきれなかった。拒絶することは、彼女への裏切りに感じられた。
2006年、私が五月の誕生日を迎えたばかりの頃だった。
★★★★
北条時子の友人関係に捜索範囲を絞る、というアイデア自体は、思ったほどの成果は得られなかった。
元々我が校は、柊木さんが不良扱いされる程度には(表向きの)素行が良く、所謂不良仲間、と呼べる類の人種は存在しなかったのだ。一方で三人娘を軸に情報源を探ろうにも、彼女達はおおよそ知り合いと呼べる人間……同級生は当然として、上級生達や、果ては教師に至る、校内全ての人間と友好的なやり取りを普段から行っていて、彼女らがその中の誰から噂を入手したのかは、特定出来そうになかった。
校内に不良の知り合いがいないのなら、校外はどうだろうか。それぞれの下校時の様子を入れ替わりで尾行する。
これもあまりいい結果にはならなかった。ただでさえ今回の件を受けて、生徒達の寄り道が許されない雰囲気にある中で、彼女達は特に周囲……とりわけ私に盗み聞きをされることを警戒したらしく、三人共が学校から家まで、一切口を開くことなく、真っ直ぐに帰宅していた。
そして捜索から三日が経った金曜、夕方。校外での情報収集にも行き詰まりを感じた頃、私と柊木さんの二人は、洞淵ビルの前にいた。現場付近なら何かわかるかも、というのは、彼女の提案だった。一緒に行くと言い出した時は、流石に止めたのだけれど、
「お願い、行かせて。アタシも何かしたいの……最近ジッとしてると、息が詰まりそうで……」
そういわれて、断れなかった。
「……本当に、大丈夫?」
「うん、平気。ごめんね、無理言って」
私は学校帰りの制服姿だったけど、私の隣に立つ彼女は、目出し帽を深くかぶり、マスクで顔を隠し、彼女のサイズに合わせて私が見繕った服を着ていた。何か役に立ちたい、という理性と、人の視線を恐れる本能を天秤にかけた結果だった。
少し離れた距離から見上げた洞淵ビルは、少しも依然と変わらないボロさだった。けれど前に二人で来た時は、青空にも夕焼けにも似合わない暗い外観から、ビルそのものが異世界の創造物であるかのような、不気味な雰囲気を感じられたのが、警察の張った進入禁止の黄色テープと、数名の警察官によって、中はおろか、近づくことすら出来なくなっている状態で見てみると、不気味さよりも悍ましさが勝る。
外壁に赤い血がべっとりと付いているような、被害者の悲鳴が聞こえてきそうな……正体不明なオカルトではない、背筋も震えるスプラッタなイメージが、廃ビルを覆っているように感じた。おそらく、ビルが持っていた噂話が、より間近で身近なものになった事で、私達の中に、好奇心と恐怖心以上の嫌悪感が沸き上がっているのだ。
最初の内は野次馬やマスコミもいたのだろうけど、今では人通りはほとんどない。
「一応会社のビルみたいなのもいくつかあるのに全然人が来ない……避けてるのかな」
「……仕事場の近くで人が死ぬとか、普通は嫌だろうし……」
柊木さんの声は沈んでいる。
過去二件の事故の時は、現場周辺から得られたと思しき情報は載せられていなかった。目ぼしい話が聞けなかったのか、それとも誰も応じなかったのか。想像でしかないが、恐らく後者なのではないかと感じられた。好奇心とは対岸の火事を見るようなものであり、とりわけ田舎町ともなると、自分に被害が及びかねないほど近くで起きたものからは、むしろ離れようとする意思があるのではないだろうか。
学校の生徒が柊木さんを遠くから観察しようとするように。不良グループが二件目の事故以降、このビルに来なくなったように。私が、このビルへ嫌悪感を覚えているように。
ひょっとしたら、この周囲の人間も、度重なる死人に嫌気がさして、他所へ行ったりしているのかもしれない。
「どうしよう、中は入れそうにないし……見張りの人に訊いたら、何か答えてくれるかな」
「……無理だと思う」
「だよねー……」
柊木さんの顔色もあまりよくない。やはりこの場所に、いい感情は抱いていないようだった。
「ちょっとリフレッシュしようか、喫茶店かどこか入らない?」
「喫茶店なら向こうに小さいのがあるけど……お金大丈夫?」
「大丈夫、お小遣いは結構貰ってるから」
柊木さんの手を引いて、一旦その場を離れる。これ以上彼女に無理をさせても、あまりいいことはなさそうだった。
角を曲がり、ビルの姿が見えなくなった時、
「ちょっと、そこの子! ねぇ、ちょっといい?」
見知らぬ女性の声が呼ぶ声がした。見るとスーツ姿の一人の女性が、横断歩道も無視して、半ば駆け足でこちらへと近づいてくるところだった。
「ねぇ、その制服、上倉高よね? ちょっと話を聞きたいのだけれど」
「あ、えっと」
しまった。この人マスコミだ。あるいは雑誌記者だろうか。あれ、記者もマスコミでいいんだっけ。油断していた。マスコミ騒ぎは一段落しても、出遅れた人はいたんだ。あぁもう、なんで制服のまま来ちゃったんだろう!
マスコミのお姉さんは片手で慣れたように小さな機械を操作する……多分、録音機だ。言葉が纏まらない。あぁ、うぅ、と、否定も肯定も出来ずにいる。見知らぬ相手からの経験のないアプローチに、対処法が分からない。柊木さんも、顔を逸らすのに必死で、身動きが取れずにいる。
「ごめんね、別に難しい事じゃないの。ほら、このビルで起きた殺人事件のことなんだけど、聞いてるでしょう?」
「ど、どうでしょう」
「例の本屋さん、あれからずっと閉まっていて、娘さんもいくらチャイムを鳴らしても全然出てくれないのよ。最近じゃ別の場所に寝泊まりしてるのか、気配すらなくなっちゃって……」
ビクッと、横で柊木さんが震えた。彼女の目の隈を思い出す。同時に、自分が女性へ抱いていた不安と恐怖が、苛立ちに切り替えられていくのを感じた。
この人が、彼女を怯えさせた要因の一つなのか。
「教員達が見張っているせいで学校には近づけなくてね……ねぇ、貴女。柊木神凪さんって、今どこにいるか……」
「知りません」
自分でも、驚くくらいそっけない声だった。顔も知らぬ相手を追う女性は、一瞬キョトンとした顔をしたけど、
「そっか、じゃあ仕方ないわね。なら、学校で今どんな話してる? 何でもいいのよ。流行りだったり、噂だったり。ほら、そっちの子も、貴女はどこの学校?」
経験の差か、それとも歳の差か。女性はすぐに立ち直り、質問を重ねてきた。
「行こう、さつき」
耐え切れず私の手を掴み、柊木さんが引っ張る。
すると女性記者は、反対の私の腕を掴んで来る。
「ごめんなさい、知りません、何も知りません……!」
「そんなこと言って、興味はあるんでしょう? じゃないとこんな所、わざわざ来ないもの」
「―――っ」
一緒にするな! 思わずそう怒鳴りそうになった時だった。
「おい」
私の後ろから、声が聞こえた。女性記者の顔が一瞬ヒクつく。
「いい大人がガキを追いかけ回してんじゃねぇよ」
ガキ? 私のこと?
振り返ってみると、男性がいた。二十より少し前、と言ったところだろうか。私達より頭二つ分は背が高く、上下を簡素なスウェットでまとめ、その上から季節に似合わぬ派手なシャツを纏っている姿は、常に威嚇を周囲に振りまいているかのようだった。私のすぐ後ろまで近づいていて、その目は険しく、女性記者を睨んでいる。その顔に既視感を覚えた。ふと腕が軽くなる。女性記者は曖昧な笑みを浮かべていた。
「少しお話を伺おうと思っただけです」
「嫌がる奴の腕を掴んでまでか」
「足元も見ずに後ずさりするんですもの。転びそうで危なっかしくて、思わず手が出ちゃいました」
「お前ずっとこの辺りうろついてるだろ。目障りなんだよ」
「貴方は何なんですか? この子の知り合いなんですか?」
「関係ねぇだろ」
「人を呼びますよ」
不愉快そうに顔をしかめる男性。女性記者の笑みが勝ちを確信したように歪む。自分の正当性を声高に叫ぶのは、彼女の方が慣れていそうだった。
年上二人に挟まれ、所在なさげな私達。女性の方が目には優しいけれど、あまり見たくなくて、男性の方に視線を向ける。
知り合いではない。始めて見る顔だ。なのに奇妙な既視感がある。どこかで会ったのだろうか。女性を威嚇するその姿と雰囲気が、私の中にあるどこかの記憶を刺激する。
そう、雰囲気だ。女性記者を睨みつけるその表情に、覚えがあるのだ。相手の不都合を見透かすような目。警戒と嘲りを混ぜ、訝し気に睨んで来る気配はまるで……。
……まるで?
「あの……」
二人と、柊木さんの訝し気な視線が私に移る。彼の目を直に見て、既視感はより明確に感じられた。
そうだ、彼の雰囲気は、私を叱った人によく似ている。そう思ってみると、表情にもどこか面影があって。
「もしかして……北条さんの、お兄さん?」
根拠のない言葉だったけれど、彼の私を見る目は、驚いたように見開かれ、その発想が正解だったと、口ほどに物を言う目で教えてくれた。
★★★★
「アイスコーヒー。お前は?」
「あ、同じのを」
不良と女学生のトリオをじろりと見つつも、店員は何も言わずに頭を下げて奥へ引っ込んだ。夕方という時間帯にも関わらず、店内は閑古鳥が鳴いている。現場近くに好んで来たがる客がいないからか。あるいはそもそも流行っていないのか。
「……あの、さっきは、ありがとうございました」
「ああいうのは無視すりゃいいんだよ。オドオドしてたらどんどんつけあがる」
席に座ってから、北条司さんはずっとスマホを弄っている。視線はこちらに向かないけれど、声色は心なしか、女性記者を相手にしていた時より穏やかだった。
「天霧さつきって言ったな」
「え、あ、はい」
「制服でトキと同じ学校だってのは分かってたが、連れだとはな」
「あはは……」
表情がヒクつかないよう気を付ける。彼女の友人だと名乗ってしまったのは、間違いだっただろうか。知り合い程度で留めておくべきだったか。いやでも、そうでもしないとこの人私の話聞いてくれそうにないし……。
柊木さんは相変わらず黙りこくっている。というか、司さんの方を見ようともしない。それでいいと思う。向こうも深入りしようとはしてこないし。
「なんであそこにいたんだ」
「殺人事件のことを、調べてて」
「チッ」
不愉快そうな舌打ちと共に、司さんが動く。一瞬胸倉でも掴まれるのかと身をすくませたが、煙草を取り出しただけだった。それもこちらを見て、また舌打ちをして戻したけれど。
「……まぁ、野次馬もほどほどにしておけよ」
彼の視線は、私を咎めるようだった。あの時の北条さんのように。
「私からも、訊いてもいいですか?」
「なんだ」
「司さんは、どうしてあそこに?」
ジロリ、とまた睨まれる。その目はさっきよりも険しい。
「なんでそんなことを訊く」
司さんにとって、私とさっきの記者は、似たようなものなのだ。外から無遠慮に中を覗き込もうとする野次馬。私の肩を持ってくれたのは、妹の同輩だから、というよしみに過ぎない。
けれど、一方でその反応は、一つの可能性を示唆していた。
「一年前も、あのビルから女性が飛び降りてます」
「……」
「その時の目撃証言を探してるんです。司さん、ひょっとしてその時、現場にいたって言う人達の一人じゃないですか?」
北条時子の兄、北条司。彼が一年前の飛び降り自殺の目撃者であるなら。噂のラインは繋がる。
「だったらなんだ」
その目は冷たく、あの女性記者を見た時のものに変わりつつあった。口を止めちゃだめだ。隠し事をしてはいけない。そう直感した。ギュッと、スカートの裾が握られる。柊木さんが私を見て、小さく頷いている。ごめんなさい、柊木さん……!
「彼女が……柊木さんが、事件の真相を知りたがってるんです。どうしても、教えてあげたいんです」
司さんの視線が彼女へ移る。
「……柊木って、あの夫婦の関係者か」
「娘です」
その一言で、私と、柊木さんの事情を大まかに把握したらしい。司さんは目を伏せ、長いため息をついた。この人は、悪い人ではない。見知らぬ私を助けてくれる。煙草の煙を吸わせまいとしてくれる。そんなこの人なら、大事な人を二人失い、憔悴した中で、マスコミや野次馬の視線から逃げながら、少しでも真相を知りたいとあがく彼女のことを、哀れんでくれないだろうか。
店員が持ってきたコーヒーを一気に半分飲んでから、司さんは口を開いた。
「なんで一年前のことを調べてる。何か関係があるのか」
「あのビルで人が死ぬのは、今回が三回目です。過去のことが、今回の事件と関係があるかもしれないんです」
司さんは訝し気だけれど、続きを促してくれた。私の視線に気付いて、柊木さんが慌てて口を開く。彼に委縮していたのだろうか。
「お父さん……ずっと、殺人を否認してるんです。自分は覚えがない、って。あのビルには、死んだ人の幽霊が憑りついてて、それが人を殺しているって噂があります。……お父さんはその幽霊に唆されたんじゃないか、って……」
「幽霊、ね」
「オカルトなのはわかってます。でももしそうなら、警察じゃ絶対に分からないから」
「だから自分で動いてるって訳か」
「はい」
司さんは、窓の外を見つめていた。その内心はうかがえない。信じてくれただろうか。いや、信じてくれないまでも、少しでも、こちらに協力する気に、なってはくれないだろうか。彼の視線が、再び私に移る。
「……もう一つだけ聞かせろ。なんでお前はそこまでしてやるんだ」
「友達だから、です」
真っ直ぐ彼を見据える。それは理屈もなく、確信を持って言える。私のスカートを掴む手が、ギュッと強くなった。
司さんは私をじっと見つめ返す。無言の時間が続く。
ダメだろうか。私が冷や汗をかき始めた時、脱力するように、司さんが溜息をついた。
「……確かにトキには、俺が話した。他の奴らは関わりたがらねぇし、知らねぇ奴に話す義理もなかったが、かといってずっと黙り込んでるのも、おかしくなりそうだったんだ。口の堅い友達にしか言わない、なんて言ってたが……妹相手だからって本気にするもんじゃねぇな」
気まずかったけど、目を逸らしてはいけない。
「……で、何が聞きたいんだ」
「一年前のが、本当にただの自殺だったのか、です。何か妙な事とか、ありませんでしたか?」
「妙?」
「死亡した田町京香さんや、その時近くにいた橋川守さん。二人の様子に、おかしいところがあったか、とか……田町さんが自殺した理由の心当たり、とか」
「なんか別の事情の心当たりでもあるのか」
「幽霊の仕業かもって思って」
「幽霊? なんだそりゃ。京香は幽霊に殺されたってのか」
口調がどんどん強くなっていく。視線に怒りが込められている。そんなふざけた理由があってたまるか、と。
けれど、それは最初だけだった。ふざけんな、ともう一度呟くと、司さんは力が抜けたようにその場に項垂れてしまった。
「それを調べてるんです。橋川さんと、田町さん。お二人のことで、何か知ってたら」
「しらねぇ」
突き放すような言葉だった。
「本当に知らねぇんだ。わからねぇ。なんで京香は飛び降りた? そんなの俺が聞きたいくらいだ。あいつは自分のことを何も話さなかった。仲間だと思っていたんだがな。自分のことを話さねぇ奴だと思ってたが、死んでみてから驚いたよ。
俺達の誰一人、あいつの実家の場所も知らなかったんだ。遺体も気が付いたら無くなってた。実家の連中が引き取ったらしいが、病院や警察に詰め寄っても、俺達みたいなゴミには何も教えてくれねぇ。当たり前だ、こんなロクデナシに、自分たちの居場所なんて教えたくねぇだろうよ。
何も知らねぇ、何も……。ただ分かるのは、あいつは自殺をするような奴じゃなかった、ってことくらいだ」
司さんの態度は、友人を失ったこととは、また別の無力を嘆いているように見えた。
「……田町さんって、どんな方だったんですか?」
「大人しい奴だったよ。ふらっとやって来て、退屈だから仲間に入れて、とか抜かしやがった。つっても、別にそれ自体は珍しくねぇけどな。不良なんてやってるやつは、普通に生きるのが退屈だったり、嫌になったりしたのが大半だ。俺達はただ好き勝手やりたくてつるんでたが、アイツは……なんか、現実に失望した、って感じだった。俺達が馬鹿やってるのを見てクスクス笑ったりしてたけど、どこか冷めててな。たまに一緒に騒ぐこともあったが、それでも時々、ふっと我に返るみたいに、つまらなそうな顔を見せてた」
「それは……」
その印象は、なんだかチグハグだった。自殺なんかする奴じゃない、というけれど、むしろ退屈だから、という理由で簡単に自殺しそうな、そんな子に聞こえる。私の疑問を司さんは察したらしい。
「いいや、断言できる。いつだったかな……橋川が酔った時に言ったんだ。「生きてても何も面白くないし、さっさと死んじゃおうかな」ってな。あいつは酒に酔うといつもそういうことをぼやくから、俺達はまた始まった、っていつも通り笑ってた。でもその時は京香が一緒にいてな。そしたら橋川の奴にマジで説教を始めたんだ。「死んだってなにも面白い事起きないよ」って、いつになく真面目な顔して。……あいつは世の中をつまらねぇって思ってるけど、それは死んでも同じだと思ってたんだ。そんなこと考えてるやつが、わざわざ自殺するとは考えられねぇよ」
だとしたら、彼女が飛び降りた理由はほかにある、ということになる。心理的な物ではない、別の何か……。
「お前が幽霊の仕業かも、って言った時、馬鹿馬鹿しいとは思ったが……その方がしっくりは来る」
「田町さんと仲がよかったんですね」
「そういうわけじゃねぇよ」
そう言いつつ、バツが悪そうに目を逸らす。
「橋川さんの方は?」
「あいつは分かりやすい奴だよ。聞いてもいないのに自分からちょくちょく話していたからな」
また少し、司さんの雰囲気が変わる。呆れるような、吐き捨てるような言い方からして、橋川守という男に対する印象はあまりよくないようだった。
「親も教師も自分のことをわかってないとか、自分のことをわかってくれるのはここだけだとか、つまんねぇことばかり言う奴だった」
「どういうきっかけで出会ったんですか?」
「京香が死ぬ一年前くらいに、新庄がどこからか拾ってきたんだ。橋川は仲間に入れて貰えたって思ってたみたいだが……実際の所、単なる暇潰しだったんだろうな。トロい癖にやたらプライドが高かったから、見下すのに丁度良かったんだ」
司さんによれば、彼がいたグループの元締めである新庄という男は、そうやって気まぐれに、下っ端としてこき使えそうな人間を連れてくるのだそうだ。根拠のない自信や、認められないことへのコンプレックス。そう言った、少し甘い顔を見せるだけで崩れそうな脆い牙城で身を固めている人間を探り当てるのが、うまい男だったという。
嘲笑うための、暇潰しの対象。あんまりな扱いだ。
司さんは私の視線を感じて、バツが悪そうに目を逸らす。
「どうでもいいと思ってたんだ。仲間に加わる気にはなれなかったが、だからって庇おうとも思わなかった。大抵のやつは自分が馬鹿にされてるって気付いたら出て行くから、橋川も同じだろうって思ってた。でも、あいつは出ていかなかった。それどころか、新庄達が話しかけるたびに嬉しそうにしてやがった。今まで人に褒められたことが無いって言ってたから、「あいつら」のやっていた程度の遠回しな揶揄でさえ、気づかなかったんだ」
「田町さんも、その「揶揄」に参加してたんですか?」
逸されていた目が、不愉快そうにこちらへ向き直る。
「……あいつらは、そう思ってたみたいだけどな。俺にはそうは見えなかったよ」
明らかに、機嫌を損ねていた。わかりやすく、まるで子供が拗ねるような、これまでとは打って変わった感情。一周回って、踏み込むことに躊躇いはなかった。
「好きだったんですか? 田町さんのこと」
「殺すぞ」
「ごめんなさい続けてください」
踏み込むのはやめにした。けれど、司さんの、橋川守に対する奇妙な態度には合点がいった。どうでもいいやつ、から、目障りな奴、にランクアップしていたわけだ。
もう話してくれないかも、と思ったが、しばらくこちらを睨んだ後、また口を開いてくれた。
「気に入らない奴だった。何も出来ない癖に、俺より馬鹿な癖に、「あいつら」にコケにされてるような奴の癖に……」
そんな気に入らない橋川守が、田町京香と屋上に行き、そして田町京香は飛び降りた。
納得など出来なかったのだろう。自分が悪からず思っていた相手が、するはずのない自殺をした。しかも自分が良く思っていなかった相手と一緒にいる時に、だ。
「……事故だ、とは思わなかったんですか?」
「当然思った。だから橋川に何があったか聞きたかった。京香が死んだ時、現場にいた橋川はすぐに警察に連れてかれた。結局自殺、って事で間も無く解放されて、実家に連れ戻されて、それっきりだ」
「一度も、それから会ってないんですか?」
司さんは首を横に振る。
「何度か、家の前まで行ったんだがな。あいつの両親がやたら世間体にうるさくて、俺なんか相手にもされなかった。……ただ、一度だけ、あいつと話す機会があった。インターホンを鳴らしたら、あいつが出たことがあったんだ。あいつ、訪ねてきたのが俺だってわかってから、ずっと謝ってた」
「……それは」
彼女を止められなくてごめん、とか、そういうことだろうか。
「いや」
司さんは首を横に振る。
「『自分が京香を殺した』って言ったんだ。詳しく聞こうにも、それからずっと泣きっぱなしで、異変に気付いた家族に追い返されちまった」
ガタンと、テーブルが音を立てて揺れた。柊木さんが勢いよく立ち上がろうとして膝を打ってしまったらしい。私も似たような心境だ。状況こそ真逆だけれど、手掛かりとして頼るには充分だ。
「橋川さんのご自宅を伺っても?」
「行ったところで門前払いだろう。ただでさえ実家がマスコミや野次馬を嫌ってるんだ。縁もゆかりもないお前らに付き合うとは思えねぇ」
「彼が外出した時とか……」
「俺も同じことを考えたさ、今日までまだ一度も捕まえられてねぇけどな。やるってんなら止めねぇが、学生身分でどこまでやるつもりだよ」
「出来る限りです」
柊木さんも小さく頷く。具体性のない答えだったけど、司さんはまた溜息をついて、携帯を弄り始める。少しして、一枚の画像を見せてくれた。
「お前ら、多分守の顔も知らねぇだろ。ちゃんと覚えておけよ」
画像は、一枚の写真だった。廃墟の一画で、ふざけ合う不良グループの写真。カメラに向かってピースをする男性、仏頂面で目を逸らす司さん、地べたに座りながらうっすらと笑っている唯一の女性。この人が田町京香さんだろうか。そして……。
「こいつが守だ」
写真の端にいた男性を、司さんが指差す。私達の視線もそこで止まった。
やせ細った、泥のような濁った視線の男。
見るものが苛立ちを抱いてしまうような顔つきをカメラに向けて。
橋川守は、ぎこちなく、笑っていた。




