蝉時雨
夏になるとどこからか聞こえてくる。
悲鳴のような、歓声のような、どちらとも取れない音の塊。
周りから襲いかかるようにぶつかるその音は、生物学的に考えると仲間同士の呼び声らしいが、こんな雑音とも取れるモノから何を呼んでいるのか甚だ疑問である。
発音体の事情を何も知らないこちらにしてみると、ただでさえ珠粒の塩水が頬を流れ落ちていくことで鬱憤が溜まるのに、ソレに重ねるように耳朶を叩いてくるのは、鬱陶しい以外に思うことなど何もない。
これが落ち着くのはいつ頃になるだろうかと考えながら、学校からの帰り道をとぼとぼ歩く。終業式の早帰りは、有り難いと思う一方で、午後一時の日射のキツさに呻くばかりである。冷房の効いた部屋がなんとも恋しく思われる。
脇に抱えた大荷物は、溜め込んでしまっていた愚かな過去の自分からの贈り物であるが、それらの影響でこの時期の負の要素が、一層その性質を深めているように思ってしまう。そこへ襲いかかる小さな生き物の大合唱に、頭の悪い俺でも、ほんの少し詩的になってしまうのである。
「おっとと…………あ」
雑音まみれの耳に、後ろの方から、車の排気音が飛び込んでくるのが聞こえ、念のため脇に退けようとすると、大荷物に振られよろめく。その先の足元から濁った炸裂音が発された。
反射的に足を持ち上げ、影の中を覗くと、眼球が飛び出し翅がひしゃげた蝉が居ることが分かった。
「うっ…………げぇ…」
気分の悪さに思わず呻いてしまった。いくら鬱陶しく思おうと、一つの命を奪いなんとも思わないほどの俺ではない。
さて、どうしたものか……。俺は空調が激しく効いた自室に一刻も早く帰りたい。しかしこの道の側には偶然街路樹がある。こいつも恐らくあれから落ちたのだろうが、その根本には黒茶けた土があるように見える。
二つの選択肢が与えられる。
踵を返して立ち去るか、それとも土の上に置くとか埋めるとかの、供養的行動をする。
欲求的行動か、倫理的行動か。人間性が問われる二択だ。
そこではたと思いつく。
まず、こんな道の途中で座り込み蝉を供養しているというのは、なんとも邪魔だ。もし俺のように早く家に帰りたく、かつ、蝉に何の思い入れもない人からしたらただの障害物だ。
そして、さらに思いつくこと。
蝉はどっちにせよ助からなかったという事実に気がつく。
地面に落下している時点で蝉社会へのは絶望的であるのは明白だ。過去に家の縁側からひっくり返った蝉を観察したことがあるが、小一時間かけてもその体を起こすことは叶わなかった。思い返すと俺もたいした暇人だが、とにかく足元で尽きているこの蝉の余生はアスファルトでひっくり返って終わりだったはず、ということだ。
「よし、帰るか」
そう言って俺は立ち上がって荷物を背負い直した。
蝉の悲鳴は、夏の熱気を揺らして、俺を責めるように響いていた。




