また来年も、新緑の桜の木の下で
毎年たくさんの人を魅了する桜の木には不思議な力があると思う。
海が見える高台の公園。名所と言うには少し物足りないが毎年美しく花を咲かせる桜の樹が一本、公園の隅に佇んでいる。桜の樹の下には小さなベンチが一つあり、花が満開の頃にはいつも誰かが座っている。
朝にはランニングの途中に公園に立ち寄る若い女性が、昼間にはベビーカーを押しながら散歩にやってくる若いお母さんが、夜には缶ビール片手に桜を見上げるサラリーマンが、いろんな人が様々な思いを胸に抱きながら桜を眺めている。
確かにこの公園の桜は美しい。でも、私は花にはあまり興味がない。
花が散り、薄紅色から緑の装いへと衣替えが終わる頃、私は無性にこの公園に来てベンチに座りたくなる。
毎日来る時間はばらばら。ただなんとなく、日に日に青く大きくなる葉を茂らせた桜の木の下で海を眺めていたくなるのだ。花を満開にした木も美しい。でも私が心を動かされるのは、緑の桜の木の下から眺める青い海なのだ。
娘が結婚して家を出てから、私は自由な時間を手に入れた。最初は時間を持て余していたけれど、ここ最近は新しい生活リズムにも慣れてきた。慣れのせいか気がつけばいつも夜になっていて、すごい勢いで毎日が過ぎていく。
今朝はなんだかお洒落がしたくなった。他所行きの服装にいつもより少し丁寧に化粧をして家を出る。近所のパン屋さんでサンドイッチとコーヒーを買って公園に向かう。外で食べる朝ごはん、なんだか洒落た大人の女性みたい。私は上機嫌で公園に向かう。
住宅街の間の緩やかな坂を登り切り公園に到着する。桜の花が散ってしばらく経った公園の中はいつも静かだ。あまりにも静かだから世界にはもう私しかいないんじゃないかとさえ思う。
ゆっくりと桜の木に向かい、その下のベンチに座る。座るのは真ん中じゃなくて向かって右端と決めている。たとえ公園に人がいなくてもベンチを独り占めするのはなんだか気が引けるからだ。
やっぱりここはすごく落ち着く。私は早速朝ごはんのサンドイッチを取り出す。
あれ? タマゴサンドを買ったつもりがツナサンドだった。しかも二つも買ってしまっている。あまりツナサンドは好きじゃないのに。でも買ってしまったのなら仕方がない。私は心の中で舌打ちをしながら包装紙を開けた。
もそもそとツナサンドを食べているとふと横に気配を感じた。
見慣れない二十代ぐらいの男性がベンチの左端に座っていた。デニムシャツに黒い細身のパンツがよく似合っている。でも、いつ座ったのかしら? まったく気づかなかった。こっそり顔を窺うとどこかで見たことがあるような、ないような、爽やかな青年だった。
「おはようございます、素敵な朝ごはんですね」
再びもそもそと海を見ながらサンドイッチを食べていると突然声をかけられた。横を見ると青年がこれまた爽やかな笑顔を私に向けていた。そして羨ましそうに私のサンドイッチを見た。
「おはようございます。あなた朝ごはんは?」
「いやあ、それがまだなんです」
照れるように頭を掻く青年。
ん? もしかしてもしかすると図々しい子かもしれない。でもどうしよう。嫌いなツナサンドはもう一つある。私だけ食べるのはなんだか申し訳ない。でも、コーヒーは一つしか買ってない。どうしよう。
あれ? レジ袋の中を見ると紙パックのコーヒーが二つ入っていた。おかしいな。一つしか買った覚えがないのに。でも丁度よかったかもしれない。私は少し悩んだ結果ツナサンドとコーヒーを青年に差し出した。
「ツナサンドとコーヒーでよかったら……どう?」
「え、いいんですか? ぼくツナサンド好きなんですよ」
「間違って買っちゃったからいいの。私からのプレゼント」
「ありがとうございます!」
青年は嬉しそうに受け取った。青年の嬉しそうな顔を見るとなんだか懐かしい気分がした。
サンドイッチを食べ終えてコーヒーを飲みながら海を眺める。鮮やかな緑の下で見る海はキラキラ光っている。やっぱりこの景色が好きだ。不思議と心が澄み渡る感じがする。
何も考えずぼんやりと海を眺める。ここからの景色に私は今までどれだけ助けられただろう。あまり覚えていないし思い出したくもないけれど、「また来年もこの景色が見たい」そう思う事で乗り越えられた事が本当にたくさんある。
でも、そういえばこの景色を教えてくれたのは誰だったかな……?
「ここから見る海はなんだか気持ちがいいですよね。色んなところで海を見てきたけれど、ぼくはここからの景色が一番好きなんです」
サンドイッチを食べ終えた青年が私に話しかけてきた。奇遇だなあと思いながらもなんて返事をするか考えていると、青年は私の返事を待たずに話し続けてきた。
「あの海の向こうってどうなっていると思います? ぼくは海の端っこは滝みたいになっていて世界が途切れてるんじゃないかなって思うんですよね」
「なにそれ、いつの時代の人よ」
「いやいや、だってぼくは見た事がないんですよ、海の端っこ。地球は丸いってみんな言ってるけど確かめてみないとわからないじゃないですか」
からかわれているのかと思ったけれど青年は真剣な顔をしていた。演技なのか本気なのか私には区別がつかない。
「そうね。私も確かめた事がないからわからないわ。でも私にはそんな事どうだっていいの。私はこの緑の木陰から海を眺める、それができれば海の端なんて滝でも砂漠でもなんでもいいわ」
「そうですか。でもぼくも花が満開の頃よりも今の時期の方が好きですよ。桜の花ってわざと奥ゆかしさを演じている感じがしてあまり好きじゃないんです」
「そんなこと言う人初めて見た。変な人ね」
「いやいや、あなたが人の事言えないでしょう」
「そうかしら?」
私たちは顔を見合わせて笑った。初対面のはずなのにずっと昔から知っている人のような不思議な感覚が胸を満たす。
それから暫く二人とも無言で海を眺め続けた。眺めているとだんだん眠たくなってきて瞼が重たくなっていった。春の日の光が心地よくて私は睡魔に抗えなくなった…………
「……ちゃん。おばあちゃんってば!」
いつの間にか寝ていた私を起こしたのは子どもの頃の娘によく似た女の子だった。
玄関のドアが開く音が聞こえた。様子を見に行くと娘が母を連れて帰ってきたところだった。母はすごく眠たそうな顔をしていて、少しふらついている。
「おかえりなさい、おばあちゃんどこにいたの?」
「丘の上の公園で居眠りしてた」
「そっか……遠くに行ってなくてよかった」
「うん、よかった」
娘は母が靴を脱ぐのを手伝ってあげた後、手を引いて母を寝室に連れて行ってくれた。
娘を連れて実家に帰ると母が出かけていた。母が出かけているのは珍しい事ではない。でも、少し心配だったので娘の奈緒に近所を見てきてもらったのだ。
去年の冬ぐらいから母に認知症のような症状が見られ始めた。何個も同じものを買ったり、買う予定のないものを買っていたり、人の名前が出てこなかったり、大事な事を忘れてしまったり……しっかり者の母には考えられない事だ。
前は月に一度様子を見にきていたけれど、なんとなく心配でここ数ヶ月は週一ぐらいで顔を見に来ている。高校生の奈緒は部活があるから一緒に来たり来なかったりだ。
今日は私の父の命日だ。私が中学生の頃病気で亡くなった父の。でも、きっと母は忘れているのだろう。
母は父が大好きだった。父も母が大好きだった。父が亡くなった時、母はかなりショックだったはずだ。でも私を養うために母は泣き言も言わず一人で頑張ってくれた。
私が結婚して家を出た後、母は仕事を減らしてのんびり過ごすようになった。一緒に住もうと誘っても今の街が気に入っているからと断られ続けた。まあ、母はしっかり者だから大丈夫、そう思っていた。そう思っていたのに……
「おばあちゃん、おじいちゃんの命日って覚えてたみたい」
笑顔の奈緒が寝室から戻ってきた。
「どういう事?」
「だっておじいちゃんが大好きだったっていう公園のベンチにいたよ?」
「たまたまじゃないの?」
「でも、今日はいつもよりお洒落な服着てたよ」
「……そうねえ」
「それにほら。おばあちゃん、ベンチでこれを大事そうに持ってたの」
奈緒が赤いパン屋さんのレジ袋を見せてくれた。そこには空っぽになったコーヒーの紙パックと食べかけのツナサンドが入っていた。
「おじいちゃんってツナサンドが好きだったんでしょう?」
「そうね。おばあちゃんツナサンド嫌いだから買うはずないものね……」
ふとレジ袋の中に入っていたレシートが気になり内容を見る。ツナサンドとコーヒーを何故か二つずつ買っていた。袋の中のゴミと数が合わない。
「ベンチにゴミとか落ちてなかった?」
「え? 何もなかったよ? なんで?」
「いや、なんとなくおばあちゃんが何か落としてるんじゃないかと思って」
「何もなかったよ。食べたゴミもおばあちゃん自分で袋の中に入れたみたいだったし」
「そっか……」
私はそれを聞いてなんだか不思議な気持ちになった。もしかしたら誰かが一緒に食べてくれたのかもしれない。でも、そんな物好きいるだろうか?
「もしかしたらおじいちゃんと一緒に食べてたりして……」
いつの間にか奈緒が私の持つレシートを覗き込んでいた。父が母と一緒に公園のベンチで……非現実的な光景が頭に浮かぶ。
そんな事あり得ない、そんなの百も承知だ。でも、そうであって欲しいなと思う自分がいる。
「そうかもしれないわね」
私はそう言いながらパン屋のレシートをそっとズボンのポケットにしまった。捨ててしまうのはなんだか嫌だったから……
たくさんの人を魅了する桜の木には不思議な力があると思う。
気が付けば自分の命日に好きだった公園に立っていた。そしてお気に入りのベンチに目を向けると何十年ぶりかの再会となる妻が座っていた。
歳のせいだろうか、彼女は私の事に気づかなかった。気づいてもらえない、それは寂しい事だった。でも、再び彼女に会えた事による喜びの方が圧倒的に大きかった。
今日、こうして出て来られたのは桜の木の力が原因な気がする。理由なんてない。ただ何となくそう思うのだ。
来年もう一度こうして出て来られるかはわからない。それに、もし出て来られたとしても彼女ともう一度会える保証もない。でも、もしも願いが叶うなら、来年もまたここで彼女会いたい。そう願うのは欲張りだろうか?
夜の公園で自分の体が薄れていくのを感じながら海を眺める。どうしてだろう、彼女と並んで飲んだ時よりもコーヒーがほろ苦く感じのは。