虚構の火
街は大きく、人の波は日に何度となく蠢いていた。その巨大な存在には入る事の出来ない、否、入る事はないと思われていたその僅かな場所、ビルとビルとの隙間から、一つ声が上がった。
「火事だ! 火が燃えたぞ! 誰か、早く! こっちだ!」
これを耳にした者は、その声の主の顔を見ても誰と知覚する訳でも無いのに、皆して足を走らせた。半分は安全を確保するよう逃げるために。しかしその対極ときたら、何を思ったのか、深夜の電球に吸い寄せられる虫たちの如く、態々火の元へと出向くのである。最近、集団強盗事件などという厄介事があったのに。この街も随分秩序を乱されたものだ。各々は心の中で何かを思いながら、声が上がった場所から数人の少年が走って逃げたのを見ては、自分たちが現場に向かっていると確信し、叫び声の主を目的に迷路を走り抜けるのであった。
しかし、どういう訳だろうか。何人もの人が既に、男の顔を確認し終わっている。それにも関わらず、炎を目にした者が誰一人として居ないのだ。肝心の火はどこにあるというのだ。その内、誰かが男に声を掛けた。
「命拾いをされたようで、結構です。しかし、火はどこにあるのですか」
「はぁ。申し訳ない」
「申し訳ないでは、分かりませんよ。もうすぐ消防隊も到着するでしょう。どうぞ落ち着いてお話ください」
「いえいえ。実のところ、皆さんにお集まりのところ、本当に申し訳ない。火事というのは、全くの嘘なのです」
「なんと。でたらめを叫んだというのですか」
これには、取り囲む連中も憤慨した。折角、人が良心を働かせ、加護を与えようと出向いたものを。馬鹿にしている。人の気を欲望するその様は、まさに狼少年そのものだ。自身の魅力じゃ大衆から見向きもされないからと、まさかこの様な手段を使うとは。次に貴様が死線に出くわそうと、誰が駆け付けるものか。口々に、不平の声が漏れ、寧ろその怒りの方が火事よりも恐ろしいものとなった。
叫び声を上げた男は、その薄汚れたワイシャツの襟もとを正し、そして深く息を吐いた。男は足を一歩前に出すと同時に、ズボンに付着した生ごみを払い、そして手を守り抜いた財布に添えた。
「えぇ。えぇ。先ほども申し上げました通り、火事と云うのはでたらめです。しかし、ご覧下さい。私が危険な目に遭っていたのは瞭然でしょう。実のところ、私は火事ではなく、集団強盗の方に遭っていたのです。皆さんも知っているはずですよ。ニュースで大々的に放送された物ですから。見たでしょう。少年たちがここから逃げていく姿を。彼らが私を襲ったのです」
そう言われると、男を取り囲む群れは驚きで目を丸くさせた。そういえば確かに、可笑しな汚れ方をしている。彼の悲劇を思うと、一瞬前に口から離れた罵声が気まずくて仕方がない。しかし、彼の行動にはまだ疑問の余地があるはずだ。
「強盗に襲われたのなら襲われたと、そう叫べば良かったじゃないですか。もう、消防隊が到着しましたよ。聞こえるでしょう、この音を。それに、消防車に惹き付けられて、これからもっと沢山の人がここに集まりますよ」
汚れだらけの男は、肩をすぼめて、そして言った。
「人が集まる。それなら僕が取った行動は正しかったと証明されるものです。集団強盗のニュースで知っているはずですよ。被害者の女性は深夜、住宅地の真ん中で大声で叫んだと言うのに、誰も駆け付けてはくれなかった。勿論です。誰も自分とは関係の無いことで命を落とす危険を冒したくはありません。しかし、火事となれば別です。いつ火が回り、自分の身に被害が及ぶか分からない。それに、火事なら強盗よりもショーとして見応えがありますから。御覧なさい、あなた方自身を。皆さんがお集まりになって下さったおかげで、僕は所持金を失わずに済んだというものです。あぁ、好奇心旺盛の皆さん。本当に感謝しております」
かくして、この物語の教訓というのは、いつ降り注ぐか分からない人災のためにも、より多くを引き寄せる術として、虚構の火を灯す勇気を備えておくべきだ、ということである。