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優しい老騎士は邪神を崇める

作者: 五味九曜

 薄暗い、灰色の霧の中のような景色が視界を覆う。目が開いているのか閉じているのかもわからない。頭はぼうっとしていて、身体は重たいようでふわふわしている。


 時折それを自覚することができる、夢という不思議な世界。そのまどろみの中の心地よさに身を委ねる。



『――聞こえますか、老騎士ロデリック』


 美しく澄んだ、どこか妖艶な女性の声。



『聞こえますか。――私はノクシア』



 目を見開いたつもりだが、景色は変わらず灰色の中だ。



『敬虔なる信徒ロデリック、あなたは邪神と呼ばれた私を毎日のように拝んでくださいましたね。その忠義に報いるため、あなたの願いを叶えてあげましょう』



  ◇



 午前2時に日が昇り、午後9時に日が沈む。


 そんな長い長い昼をつくりだした昼の神ディーエを祀る村の小さな教会には、今日も村人たちが列をなして礼拝に訪れている。


 老騎士ロデリックは、切り株に腰掛けながらその行列を見守っていた。


 かつては騎士として名を馳せた彼も寄る年波には勝てず、この小さな村で番兵のようなことをしながら、半ば隠居生活を送っている。


 列に並んで立っているのもこの老体には堪えるので、中に入るのはいつも最後にしていた。



「ロデリックさん、おはようございます」


「ああ、おはよう」


「ロディ爺、腰の調子はどうだい?」


「だいぶマシになったよ。君に揉んでもらったお陰でね」


「ロディさん。畑に獣の足跡があったんだ。魔物かもしれない」


「後で見に行こう」



 こんな老人を慕ってくれるのは、村の者たちはその人柄故だと口々に言うが、ロデリックは彼らの情の深さ故だと考えている。

 穏やかで、親切で、信仰に厚い村の人々を、老騎士は何より愛していた。



「ロディ爺ちゃん。昔は昼と夜が半分ずつだったって、本当?」


 ほっそりとした幼い少年が、好奇心に溢れた目をロデリックに向ける。


「ああ、そうだよ。それで、1年のうちに昼の長い時期と夜の長い時期が交互に来ていたんだ」


「夜の長い時期は、大変だった?」


「まあ……そうだな。その時期は寒いし、夜は魔物が出るから、ワシら騎士は忙しかったな」


「じゃあ、お昼が長くなってよかったんだね。ディーエ様のお陰だ」


「うむ。君にもディーエ神の加護があらんことを」


 ロデリックは少年の頭に、皺だらけの手を乗せる。



 集まった村人たち全員が座れるほど、礼拝堂は広くはない。後ろで大勢の立ち見が並んでいるが、ロデリックには特別に粗末ながら小さな椅子が用意されている。


 若い神官が語るのは、毎回同じ物語だ。



 かつて世界は、昼の神ディーエと夜の神ノクシアの、二柱の姉妹が均等に支配していた。昼と夜が半々に、交互に訪れていた。


 しかし、あるとき姉であるノクシアが支配を広げようという野心に駆られ、妹のディーエから太陽を奪ってしまった。


 薄暗い昼と真っ暗な夜しかなくなった世界で、作物は枯れ、魔物が跋扈し、人々は苦しみに喘いだ。


 戦いの末、太陽を取り戻したディーエは、ノクシアの力を抑え込み、暗くて寒い魔の棲む夜を短くし、明るく温暖で平穏な昼の時間を長くしたのだった。



 この神話が広まったのはつい数十年の間だと、ロデリックは記憶している。きっかけは話の通り、太陽の出ない時期が訪れたことだ。


 夜の神ノクシアも昔はディーエと同等に崇められていたが、それ以降は邪神として人々に憎まれ、神殿や石像が破壊されていった。



「信仰に厚き者は神に救われ、不信心の者は暗き魔を呼び寄せる。偉大なるディーエ神を称え、その光で邪を祓うのです」


 神官は、若者らしい熱を帯びた声を、聴衆の心にまで響かせた。



  ◇



「これは……野犬だよ」


 よっこらせ、とロデリックは屈めていた腰を伸ばし、心配そうに見ていた農夫に声をかける。


「なんだ、よかった。いや、よくはないが……魔物でないなら、まだいい」


「最近は魔物も増えてきたから、気を抜かんほうがいい。昼間でも出ることがあるらしいからね」


「本当に、どうなってるんだろうな。このところ作物の実りも悪い。信心が足りないのか、誰かが邪神でも崇めてるのか」


「……。そうやって人を疑ってはいかんよ」


「おっしゃる通りだ。ロディさん、手間かけさせて悪かったね」


「いやなに」



 強い日差しを受けて、ふぅ、とロデリックは汗を拭う。農夫の言った通り、畑の作物は年々元気をなくしているように見える。


 一方で、子供らは今日も元気に遊んでいる。

 何人かが集まって、木の棒を振り回してはしゃいでいる。今朝方会ったあの真面目そうな少年もいる。


 微笑ましく眺めていたロデリックだが、彼らが叩いている薪のようなものを見てぎょっとした。


 人の顔が描いてあったからだ。



「これこれ、何をしている」


「ロディ爺ちゃん。邪神をやっつけてるんだよ」


「こいつのせいでみんな苦しんでるんだ! 死ねっ!」


 ロデリックは、慌てて大柄な少年の振り上げた棒を掴んだ。


「待て。そんな暴力的なのはいかん」


「どうして? こいつは悪い奴だよ」


 大柄な少年は不服そうにロデリックを見上げる。


「そうだとしても、だ。考えてみなさい。ディーエ神がノクシア神に勝ったのに、どうしてまだ夜が来るんだと思う?」


「まだ邪神が生きてるからだよ。完全にやっつければみんな幸せになるんだ」


「そうじゃない。ディーエ様は慈悲深かったんだよ。たとえ悪いことをしてしまっても、ある程度懲らしめたらそこで許そうとお考えになったのじゃないかな。君たちだって、悪さをしてしまうときはあるだろう」


 思い当たる節があるのだろう、素直な子供たちはうつむいている。


「そういうとき、お父さんやお母さんや周りの人は、君たちを棒で叩いたりしないはずだ。君たちもディーエ様のように、優しい心を持つんだよ」


「……はーい」



  ◇



 午後の8時だというのに、太陽はまだ煌々と輝いている。


 この老体は長い昼にまだついていかれぬようで、カーテンを閉めて日の光を拒絶した。


 一人暮らしで誰も家人がいないにもかかわらず、ロデリックは周りを気にしながらあるものを箪笥から取り出す。


 1体の、小さな石像。それをテーブルの上に恭しく配置する。



 夜の神、ノクシア。



 邪神と成り果て、人々の信仰から排除された哀れな神。しかしロデリックは、そうなる前からノクシア神への深い信仰心を持っていた。


 華やかで騒がしい活力漲る昼間の後の――静かで落ち着いた夜の時間が、好きだった。


「ノクシア様……我らの非礼をお許しください。我らを魔の巣食う闇よりお守りください」


 膝をつき、手を合わせ、目を閉じて、弱々しくも美しく高貴なその石像に祈りを捧げる。



 かつてノクシアは、夜の魔物を退ける守護神だった。今では魔物をけしかける邪神として扱われている。


 かねてより、魔物と戦う騎士として、頼るべきは守護神としての夜の神だった。それは今も変わらない。


 しかし、それが間違いで――凶作や魔物の増加が邪神を崇める自分のせいだとしたら……。ロデリックの心は揺らいでいた。自分はこの村にいるべきではないのかもしれない、とも。



 ああ、ノクシア様が顕現されて、真実を告げてくだされば……。


 そんな荒唐無稽な願いは、ロデリックが眠りに落ちた夜更けに成就することとなる。



『聞こえますか、ロデリック。――私はノクシア』



 ノクシア神がロデリックの夢の中に現れ、姿こそ見えないものの、美しい声で語りかけてくれたのだ。


『敬虔なる信徒ロデリック、あなたは邪神と呼ばれた私を毎日のように拝んでくださいましたね。その忠義に報いるため、あなたの願いを叶えてあげましょう』


 靄がかかっていた頭が回転を始めるが、状況は理解できず、ロデリックはただただ戸惑うだけだ。


「なっ……。お、お待ちくだされ。あなた様は本当にノクシア様なのですか。願いなど、唐突に仰られても……」


『本当です――と言っても何の証明にもなりませんね。あなたの願いを叶えることで、その証拠といたしましょう。あなたの望むものは何ですか?』


「私は……私は、妻にも先立たれ、子供もおらず、後は死にゆく身でございます。望みといえば、この村の者たちがずっと幸せに暮らしてくれること、それ以外にはございませぬ」


『それは……できません』


「な、なぜ!?」


 まさか断られるとは思っていなかったロデリックは、思わず声を上げた。


『私が願いを叶えられるのは、私への信仰を持つ者だけだからです』


 至極シンプルな理由だった。神は信じる者しか救えぬらしい。


「では、近頃の凶作や魔物の害なども……」


『それは私の力及ばぬものです。人々の私への信仰が薄れたことで、もたらされた現象なのですから』


「やはり、あなた様は守護神でいらっしゃったのですね」


『あなたがたの言うところでは、そうなのでしょう。ですが、今の私の力では、あなた個人の願いを叶えることしかできません』


 少なくとも、ノクシアを拝んでいたことは間違いではなかったようで、ロデリックはひとまず安堵した。だが、人々に邪神だという認識を改めさせることを願うのは、今までの話からすると不可能なようだ。


 さて、こんな老いぼれが今更求めるものといえば――



「では、私は――子供を所望いたします」


『それは……自分の子供が欲しい、ということですか』


「ええ。愛する妻はだいぶ前に死別してしまいましたが、子宝には恵まれず……。願わくば、子を育ててみたかったとかねてより思っておりました」


『わかりました。では、そのように』



 ロデリックがその夢から覚めたのは、家の戸をこんこんと叩く小さな音が聞こえてからだった。



  ◇



 客を招いてともに食卓を囲むのは、いつ以来だろうか。


 招いた、というのは語弊がある。「突然家を訪れたどこの誰ともわからぬみすぼらしい子供に、ひとまず食事を提供している」というのが正しい。


 ロデリックの頭に、今朝の夢のことがちらつく。


 子供を所望する、と告げたが、こんなにも早く願いが叶うものだろうか。そもそもあの夢が真実であるという確証はどこにもない。



 7歳前後といったところか。短いボサボサの髪でぼろを纏っているものの、くりくりした瞳が可愛らしい幼い女の子。


 急ごしらえのスープとパンに必死に齧りついており、よほど空腹だったのだろうと伺える。


 食事がひと段落したところで、ロデリックは少女に話しかける。



「君は、どこから来たんだね」


「わかんない」


「お父さんやお母さんは」


「わかんない」


「……名前はなんというんだい」


「わかんない」



 その後あらゆる質問をぶつけてみたが、少女はすべて同様の返答をし、ロデリックの頭を悩ませた。


 彼女には行くあても帰る場所も頼れる人もないようで、複雑な事情があるのか、言葉で説明できないだけなのか、本当に神がロデリックの願いを叶えるために遣わした子なのか、見当がつかなかった。



「わかった。君はしばらくワシが預かろう」


「やったぁ!」


 見ず知らずの他人に対する抵抗感のようなものはないらしい。事情のわからぬ身の上ながら、素直で活発な性格のようだ。


「だが、名前がわからんのでは不便だな。ワシが仮の呼び名をつけよう。うむ……『ノキ』というのはどうかな」


 本当は「ノクシア」と名付けたかったが、周囲の目もあるだろうと神の名をもじったものを考案した。


「ボクの名前、ノキ? いいよ! 覚えやすい」


「それはよかった。よろしく頼むよ、ノキ」


「うん。じゃあ、そっちはなんて呼べばいい? 『お父さん』? 『パパ』? それとも『ご主人様』?」


「最後のだけはやめてくれ! 普通に、『ロデリック』とか『お爺ちゃん』で構わんよ」


「縮めて『ロ爺』ってのはどう?」


「縮めすぎじゃないか」



 人見知りをしないノキはあっという間に懐き、この子は本当にノクシア神に遣わされた子なのではないかと、ロデリックは本気で考え始めていた。



  ◇



 ノキは持ち前の人懐っこさで、瞬く間に村人たちの輪に馴染んでいった。


 大人たちは娘や孫のように可愛がり、子供たちは同い年くらいの友達ができたと喜び、特に男の子の何人かは、身綺麗にしてやったその容姿に心を奪われているようだった。



 一躍人気者となったノキを、ロデリックは遠目に見守りつつ、隣の若き神官に静かに話しかける。


「あの子は神がワシに与えてくださった贈り物なのではないかと思うのだが、どうかね」


「ロデリックさんは信心深くていらっしゃいますからね。しかし、そういう方にこそ、邪は寄って来るものでもあります」


 神官はその話に懐疑的なようだった。


「邪神の手口として知られているのが、『願いを叶える』と言って誘惑し、代償にその魂を差し出させるというものです」


「ほう」


 まさに昨夜の夢の内容とほとんど一致していて、ロデリックは少し身構える。


「その魂は邪神の奴隷となり、二度とこの世に戻って来れなくなるとか。願いというのも、実際はその人の望む形で叶えられることはないといいます」


 ならばノクシア様は邪神ではなかろうな、と改めて確信する。ノキが来てくれたというだけで、自分の願いはほとんど望み通り叶ったようなものだからだ。



「なんにせよ、あの子には関係のないこと。それで――神官の君に頼みがある」


「は。何でございましょう」


「ワシももう歳だ。ずっとあの子の面倒を見られるわけではない。時が来たら、君の伝手であの子を孤児院に紹介してほしい」


「……承知しました。子供は神の子、彼女が幸せに暮らせる場所を探しましょう」


「ありがとう」



 子供など望むべきではなかったかもしれんな、とロデリックは少し後悔する。どうしたって、自分はノキよりも早くこの世を去らねばならない。そんな別れを経験させるのは、酷であったか……。


 然らばせめて、ノキにいろいろなことを教えてあげよう。自分がいなくとも、ある程度独力で生きていけるように――



 だが、その考えは甘かった。


 ノキには本当に、何をやらせてもうまくいかなかった。


 裁縫をさせれば糸がぐしゃぐしゃに絡まった物体を編み出し、料理をさせれば食材を消し炭にし、ペンを持たせれば字とも絵ともつかない意味不明の図形を描いた。


 華奢な身体では無理もないが体力もなく、農作業にもすぐに音を上げるので、ロデリックは得意の剣の稽古をつけることを諦めた。魔法も、子供でも使えるような簡単な術すら扱えない。


 読み書きもできないので学もなく、一般常識すら欠落していた。教えようにも物覚えも悪く、昨日今日で与えた知識がすぐに飛んでいってしまった。



「お爺……なんというか、ごめんなさい」


 ノキは今更他人行儀に頭を下げている。


「いや、いいよ。ゆっくりやろう」


 そうは言ったものの、ロデリックにそんな余裕が残されているかどうか。その焦りがノキにも伝わったのか、小さな顔に切実の色が灯る。


「あの、夜! ボク、夜にがんばるから」


「ならん。ただでさえ夜は短いのだ。しっかり睡眠を取らなければ」


「長いお昼に寝て、夜起きてちゃダメかな」


「ダメだ。生活のリズムが狂ってしまう」


「むぅー……」


 頬を膨らましてすねているノキに、ロデリックは愛しさがこみ上げる。

 そうだ。何も焦る必要ないじゃないか。


「心配するな、ノキ。お前には立派な才能がある」


「何? この可愛らしさ?」


「じ、自分で言うか。まあ、それも含めて……お前はよく人に好かれる。明るく、素直で、優しい子だ。何より、ワシもお前を愛しているからね」


「……お爺、よくそんな恥ずかしいこと言えるね」


「この歳で恐れる恥など、ありゃせんからな」


 顔を赤くして視線を反らしていたノキが、こちらをちらりと見て、ぷっと噴き出した。



  ◇



 教会の前に並ぶ人々を見るのは初めてだったノキは、興味津々にその列を見回している。


「お爺、これは何? 並んでたらお菓子でも貰えるの?」


「ははは。もっとありがたいものが貰えるんだよ」



 人々はいつも通りロデリックに、しかしいつもと違い、その横をうろうろしているノキにも話しかける。


「ロデリックさん、おはようございます。ノキちゃんもおはよう」


「ロディ爺、今度からノキにマッサージしてもらいな。可愛い女の子のほうがいいだろ?」


「ノキ、ロディさんがいてくれるとはいえ、魔物には気をつけるんだよ」


 ロデリックがそれぞれに返事をしている間、ノキはぽかんと様子を眺めているだけだった。


「……なるほど。お爺は村のアイドルなんだね」


「その言い方はどうかと思うが……。皆、優しいからね。このジジイをいたわってくれているのさ」


「でも次期アイドルの座はボクが狙うから」


「なぜ対抗心を燃やしているんだね」



 今度は、あの細身の男の子が列に並ぶ親から離れて駆け寄ってきた。


「ロディ爺ちゃん、この前はごめんなさい」


「いやいや。わかってくれればいいんだよ。ノキとも仲良くしてくれているしね」


「そういえば、ノキもようやく教会デビューなんだね」


「キョーカイ?」


 ノキはその程度の知識もないようだが、友達となった少年は親切に教えてやった。


「神様にお祈りをする場所だよ。みんなが幸せに暮らせますようにって」


「神? 神ならボクも知ってるよ! 世界を創ったのとか、作物を実らせるのとか、死んだ人の魂を連れてってくれるのとかー……」


「へぇ……そんなにたくさん神様がいたんだ」


 確かに昔は様々な神々が信仰され、それぞれの神話が伝わっていたが、ノキがそんな多種多様な神々のことを知っているとは意外だった。


「神に祈るのはいいことだよね♪ ここは何の神を祀ってるの?」


「じゃあ、入ってからのお楽しみにしよう。今のうちに予想しといて」


「えー? 意地悪!」


 少年のほんのり赤らんでいる頬を見て、ロデリックは顔を綻ばせた。



 礼拝堂の中にそびえる大きな石像を見ても、ノキにはぴんと来なかったようだ。


 ロデリックは自分のせいで椅子を確保できなかった彼女を膝に乗せ、問いかけてみる。


「あの石像は何の神様だと思う?」


「えー? 女神だっていうのはわかるけど……」


 石像をまじまじと見つめながら考えあぐねるノキに、正解を明かす。


「昼の神、ディーエ様だよ」


 ロデリックが期待していた反応は、返ってこなかった。



「ディーエ……!!」



 ノキは膝から立ち上がり、驚いたような、絶望したような、どこか憤っているような、血の気の引いた深刻そうな顔で、石像を一点に睨んでいる。


「ノキ……? どうした」


「……。あの神に祈っちゃいけない」


「それは……なんで」


「なんでも!!」


 その大声に人々が振り返り、ロデリックはしまったと冷や汗をかく。



「なんだなんだ」「ディーエ様に祈るなって聞こえたけど……」


「ディーエ様を冒涜したの?」「罰が当たるぞ!」


「あの子、邪教の信徒なんじゃ……」「やめろ、ロデリックさんに失礼だ」


 ざわめきとともに、皆のノキに対する不信感が大きくなっていく気がした。



「ま、待てみんな!! ノキにも何か事情があるはずだ。この子は村の外から来たのだから、この村の基準であれこれと決めつけてはいかん。そうだろう?」


 方々から聞こえていた声はいったん静まったが、懐疑心が消えた様子はない。


「ノキ。説明してくれないか。どうしてディーエ様に祈ってはいけないのか」


「……」


 幼子は苦い表情のまま俯き、沈黙している。


「君個人が祈りたくないだけなのかい? それとも、みんな祈ってはいけないのか?」


「……みんな、ダメ。ディーエに祈ったところで魔物は減らないし、作物も実らない」


「神様に祈るのはいいんだろう? 他の神様なら、問題ないのかね」


「うん、まあ……」


「どの神様なら大丈夫なんだ?」


「――……ノクシア」


 その名を聞いて、皆が凍りつく。



「あれは邪神の遣いだ!!」


 熱心な若き神官の大声を皮切りに、騒ぎが広がった。



「なんてことだ、あんな女の子が!!」「子供を使うなんて、許せない!!」


「魔物の害もあいつのせいか!!」「すっかり騙されたわ……」


「あれは忌み子だ、追放しよう」「そうだ、追い出せー!!」



「静かにしろッ!!!」



 平生は温厚な老人の、雷鳴のように猛った叫び声は、一瞬にして辺りに静寂をもたらした。


「お……お爺? ボクのことは、いいよ。村から出ていく。ここじゃ暮らせないみたいだから……。あの、短い間だけど、お世話に――」


 立ち上がっていたロデリックが鋭い眼差しで見下ろすと、ノキは口をつぐんだ。


「……どこに行くと言うんだ」


「あ、いや……。本当は、帰る場所はあるんだ。一応ね。そこに……戻るよ」


「ワシと一緒に暮らすのは嫌か」


「そういうわけじゃ、ないけど……」



 ふう、と息を吐き、ロデリックは強張っていた身体の力を抜く。


 そうしてぐっと覚悟を決め、一歩前に踏み出す。



「ワシは毎晩、ノクシア神に祈りを捧げていた」



 唐突な告白に、全員が目を見張る。


「今、降りかかっている不幸が邪神の仕業だとするなら――原因はワシにある。来たばかりのノキは関係ない」


「ちょっ……お爺――」


「明日、ワシはノキとともに村を出ていく。今まで世話になった」



 ロデリックは戸惑ったままの幼子の手を引き、教会を去っていった。



「待って!!」


 家路につく2人を呼び止めたのは、今朝ノキと話していたあの少年だった。



「君か。あまりワシらと話さんほうがいいぞ」


「ロディ爺ちゃん、言ってたじゃないか。ディーエ様は優しい心を持っているから、戦いに勝ってもノクシアを許したって。みんながディーエ様を信じているなら、2人のことも許してくれるよ!! 僕、みんなを説得するから……」


 ロデリックは、心優しい少年の頭をそっと撫でてやった。


「そうだな。みんな本当は優しいんだよ。ワシが隠し事をしていたのがいけないんだ。すまないね」


「でも、だって……嫌だよ。行かないで……ノキ……」


 今にも泣きそうなその少年に、ノキは寂しげに微笑んだ。


「……ありがとう。気持ちは嬉しいんだけど……ごめんね? 君の想いには、応えられないと思う」


「……」


「君のことは忘れないよ。大切な――友達、だから」



 ――どの神様でもいい。あの少年の行く先に、幸多からんことを。


 小さな嗚咽を背中で受け止めながら、ロデリックとノキは足を速める。



  ◇



「……本当に、よかったのか? あの子のことは――」


「傷つけちゃったかもしんないけどさ……きっぱり断ったほうが、後腐れなくていい」


 そういうことに関して、ノキは存外大人びた考え方を持っているらしかった。



 旅立つ準備に1日はかかると思っていたが、隠居老人の持ち物で必要なものはそれほど多くなく、すぐに荷造りが完了してしまった。


 着の身着のままで来たノキも同様で、今すぐに出発しても差し支えないほどだったが、その提案は2人の口からは出てこなかった。



「その――お前の『帰る場所』というのは、どこにあるんだ」


 ノキに故郷があるのなら、そこに行くのも悪くないとロデリックは考えていた。


「いや……実はあんまり帰りたくなかったんだ。お爺の行きたいとこ、ついてくよ」


「そうか」



 それきり、会話が途切れる。お喋りなノキが来てから、こんな静けさは初めてだった。


 この部屋はこんなに静かだったのか――ロデリックは新鮮な驚きを味わう。



 ふと思い立って、荷物の中からあるものを取り出した。


「これは何だと思う?」


 ノキはそれをまじまじと見て、首をかしげている。


「わかった。お爺の奥さん!」


「ははは。こんなに美人ではなかったな。これはな……ノクシア様だよ」


「え!?」


 今度はぎょっと目を丸めている。その表情の豊かさに、ロデリックはクスリと笑う。


「言っただろう、毎晩祈りを捧げていたと。まだ昼だが、旅路の安全をお祈りしよう。ほら」


「え、いや……」


 ノキは遠慮がちに目を泳がせている。


「ノクシア様に祈るのは構わないんじゃないのかね」


「他の人は、まあ、いいんだけど……なんていうか……ボクはその、祈っても意味ないんだ」


「意味がない?」


「あの、ボクの――家族とか、みんなそうなんだけど……祈りが通じないの。絶対」


 慎重に言葉を選びながらしどろもどろ弁解しているノキを見て、それ以上追及する気にはなれなかった。


「わかった。では、ワシが祈るのをそこで見ていてくれ」



 いつものように女神像を置き、膝をついて手を合わせ、目を閉じる。


「ノクシア様。我らの非礼をお許しください。我らを魔の巣食う闇よりお守りください。この村に永い平安をお与えください。そして、愛する我が娘に――大いなる恵みと、飢えることのなき糧と、どんな試練にも打ち勝てる強さをお与えください……」



 目を開けてすっと立ち上がり、愛しい娘に目をやったロデリックは、思わずぷっと噴き出した。


 顔を真っ赤にしてうつむきがちに目線を流している、いじらしい少女の姿があった。


「お爺はきっと奥さんにも恥ずかしい台詞で告白したんだ。そうでしょ」


「さて、どうだったかな」



 ロデリックがこの世で一番愛した女性に何と告げたかはもう忘れてしまったが、彼女を失ったときの記憶はなぜか鮮明に残っている。


 重い病を患い、すっかり痩せ細ってしまった妻は、最期にこんなことを言っていた。



「夢にね、神様が出てきたの。お願いを聞かれたから、こう答えたのよ。私がいなくなってもあなたが寂しい思いをせずに、幸せに暮らせますように、って――」



 それを聞いた神が、邪神であるはずはなかった。なぜなら妻亡き後も、ロデリックは優しい村人に愛され、幸せに暮らし――愛しい娘まで迎えられたからだ。



  ◇



 隣で寝ていたはずのノキの気配がないことに、ロデリックははっと焦ったが――見覚えのある灰色の世界に、すぐに状況を察した。



『聞こえますか、敬虔なるロデリック』


「ノクシア様でございましょうか。またお声をかけていただけるとは……。願いを叶えていただき、心より感謝しております」


『……。今宵は警告を伝えるために、あなたの夢に干渉したのです』


「警告……」


 その声からは以前の柔らかいぬくもりは感じられず、張りつめた重々しさが耳に残った。



『明日、あなたの村に大勢の魔物が襲い掛かります』



 ロデリックは、息を呑んだ。


「そ……それは、いつでございましょう」


『かつての日が昇る時刻――ですが、明日は太陽がほとんど姿を見せなくなります』


「太陽が? どうして、また……」


『ディーエは力を使いすぎた。それだけのことです。この夢から覚めたなら、すぐに村を発ちなさい』


 この老体では、以前のようにまともに剣を振るえまい。逃げるほうが得策だ。しかし――


「ありがとうございます。ですが、私は村に残ります」


『……なぜ』


「この村を愛しているからです」


 女神は沈黙した。


「ノクシア様。私のことは構いません、どうか村人と私の子をお守りくだされ」


『……申し訳ありませんが――私は夜の神。昼の世界には、力が及ばないのです。どうか……ご無事で』


「わかりました。お気遣い、感謝いたします」



 そこでロデリックは、不思議な気配を感じた。


 姿の見えないはずの女神が――かすかに、笑ったような気がしたのだ。



  ◇



 がばっと飛び起きたロデリックがまず探したのは、傍にいたはずのノキだった。


 リビングで彼女を見つけてひとまず安堵したものの、その浮かない表情に不穏な空気を感じた。


「お爺……。変なんだよ。外が、空が――」


 窓の向こうを見て、ロデリックは戦慄した。


 どす黒い雲が絨毯のように空一面に広がり、弱々しい日の光はほとんど地上に届いていない。



 夢で告げられた通りだ。太陽が姿を隠してしまっている。


 ということは、魔物が襲っていくるというのも――



 時計の針は、朝の4時を指している。かつての日の出の時刻とは、いつの季節なのかはわからないが、襲撃の時間はすぐそこに迫っている。


 不安そうに小さく震えるその肩に、ロデリックは屈んで両手を添えた。


「ノキ、聞きなさい。この村はもうすぐ魔物に襲われる」


「え?」


「だから、急いで逃げねばならん。いいな?」


「……お爺も、一緒に逃げてくれるんだよね?」


「……」


「お爺……」


「行くぞ」


 ノキの顔は見ずに、その手だけを引いて、ロデリックは外へ出た。



「魔物だ!! 魔物が来るぞ!!」


 すでに村中はパニックになっていて、人々が走り回っている。


「数は!? どこから来る!?」


 ロデリックは村人の1人を捕まえて、鬼気迫る表情で尋ねる。


「とにかく大勢だ! 四方八方からとんでもない数の群れが近づいてくる。逃げ場はない!!」


「そうか……。皆を教会に避難させてくれないか。あそこは石造りで頑丈だからな」


「わ、わかった」


 村人は一目散に走り出し、混乱している人々を教会に誘導し始めた。



「ノキ。お前も避難しなさい」


「待ってよ。お爺は?」


 小さな手をやむなく離したロデリックは、長らく使っていなかった古い剣を取った。



「ワシは騎士だ」



 幼子は、心苦しそうに潤ませた目を向けている。


「……死んじゃ、やだよ」


「これでも昔はちょっとは名の知れた腕利きだったんだぞ? さあ、早く行きなさい」


 ぐいっと目元を拭ったノキが、教会のほうに駆けていく背中を見送る。



 ――昔の話、だけどな……。



 遠くから、地響きのような足音が迫ってくる。



  ◇



 やって来た怪物たちは種類もバラバラで、魔物の見本市かと思えるほどだった。


 四つ足の獣もいれば二足歩行の鬼もいて、大きさも子供のような小さなものから塔のような巨人まで、とにかくあらゆるタイプの魔物が寄せ集められている。



 ――こりゃ、死ぬな。


 ロデリックはそう確信するが、悲しみや恐怖はない。元々老い先短い命、ここで果てても構わない。


 しかし、この衰えた身体でどこまで村を守り切れるかという不安はあった。どうにか自分1人が敵を引きつけ、人々の逃げる隙を作り出せればいいのだが――


 そう上手く事は運ばなかった。


 思うように動かぬ四肢を必死に鞭打って、斬って、斬って、斬りまくった。


 だが、そんな無理が長く続くはずもなく、魔物は絶え間なく現れては老騎士に襲い掛かってくる。



 ――ついぞ、巨人の振り回した棍棒が、老いた身体を吹っ飛ばした。



「っぐ……!!」


 何度も地面に叩きつけられたロデリックは、痛みのあまり動くことができなかった。骨が軋み、ひび割れているような感覚が走った。


 敵の数はほとんど減っていないように見える。あれでは村人たちが避難している石造りの教会も、容易く破壊されてしまうだろう。


 寝ているわけにはいかない。だが、もう立ち上がることもできない。


 ノキの顔が浮かぶ。


 誰でもいい、あの子を守ってくれ。ワシが死んだとしても、誰か……。



「ロディ爺―――ッ!!!」



 村人の叫び声に、はっと目を開けた。


 何人かの足音が地面を伝って聞こえてくる。


「な……なぜここに来た!?」


「あんたを死なせてたまるか!! 畜生、ひでぇ傷だな。とにかく教会に戻るぞ!!」


「馬鹿者、この老いぼれなど放っておけ!!」


「うるせぇ!! みんなあんたを追い出すことを後悔してんだ。ちっとは何か返させろ!!」



 集まったのは武装した村の男たちで、なんとか魔物をいなしながらもロデリックを抱えて避難先に向かっている。


 それはまさしく、老騎士が愛した優しい村人たちの姿だった。



  ◇



 教会の扉は、ロデリックが運び込まれた後に固く閉ざされたが、魔物たちに包囲されて時間の問題となっていた。


 一応の手当を受けたロデリックだが、もはや剣を振るう体力は残されていなかった。



「お爺、大丈夫……?」


「ああ……」


 再びこの愛しい少女に会えたことは幸運ではあったが、燭台の火に照らされたその顔は曇ったままだ。


 石壁が破壊されて魔物がなだれ込めば、愛する者たちは皆殺しにされる。



「ディーエ様、どうかお救いを……」


 誰かが神に祈ったのを、ノキはキッと振り返る。


「だから、ディーエに祈っちゃダメなんだって!!」


 声を荒げたノキは、はあ、と長いため息をつく。



「お爺。あの石像、持ってる?」


 ロデリックはその言葉の意図を汲み取り、すぐに目的の品を取り出した。


「これか」


「そう。ホントにごめんなんだけど、まだ元気残ってる?」


「もちろんさ」


 空元気ながらロデリックが精一杯笑ってみせると、ノキも呼応してか弱く微笑む。



「ノクシアに祈って。もう、それしかない」



 ロデリックは自然と立ち上がっていた。


 よろよろと祭壇まで歩き、ディーエ像よりもずっと小柄で頼りない石像を安置する。


 いつものように、跪いて合掌し、目を閉じて――大きく息を吸う。



「偉大なる夜の神、ノクシア様!! 我らの罪をお赦しください。ここにいる、私の愛する者たちを――魔の軍勢よりお守りください。どうか、魔を退ける力をお与えください」



 声を張り上げるたびに、全身の骨が悲鳴を上げるようだった。が、ロデリックは力強く祈り続ける。


「できれば、みんなにも祈ってほしい。ボクがやっても、意味がないから……」


 ノキは切実な声で訴える。邪神の名におののいていた何人かの村人たちも、2人の真摯な姿勢に心を打たれたようだった。


「……ノクシア様、助けてください!」


 まず、あの少年の声が響いた。それを皮切りに、ノクシアへの祈りの言葉が広がり、教会中を埋め尽くしていく。



 誰もが息を呑んだ。


 ただでさえ薄暗かった外が、完全な暗闇に包まれた。それはまさしく夜の景色で、しかし月や星の光は一切届いていなかった。


 人々がどよめく中、ロデリックは振り返って燭台の明かりを頼りに愛娘の姿を探す。


 ――彼女は、今までの無垢で明朗なものとは対極の、悪魔のように濁った笑みを浮かべていた。



「このときを、待ってたんだ」



 その瞳が紅い月のように怪しく光っている。


 ゆらりと細い腕をかざすと同時に――ロデリックの目先にあったディーエ神の巨像にビシッと亀裂が入り、さらさらと砂になって消えていった。


 誰も、何も言えなかった。



「さて、次は外か」


「ま、待て!!」


 扉に向かっていく少女をロデリックが呼び止めると、赤眼の一瞥がその老体を金縛りにした。


「っ……!?」


「ごめんね。お爺は何するかわからないから。……これ、借りるね」


 自分の背丈ほどもある剣を、彼女は軽々と片手で拾い上げている。



 鐘楼を殴りつけるような轟音とともに、教会の扉が崩れ落ちた。


 そこから見える魑魅魍魎の蠢く地獄に、小柄な娘が剣を携えて真っすぐ歩いていく。


 ぶわっと刀身が空を横切ると、魔物たちは弾かれたように後方に吹っ飛んで行った。


 剣の心得のあるロデリックから見ても、その太刀筋はめちゃくちゃだった。にもかかわらず、化物たちはなすすべなく薙ぎ払われていく。


 その間、空いているほうの左手が黒い霧を纏い、次第に拡大していく。


「消えろ」


 放出された暗黒が、津波のように魔物たちを飲み込んでいった。



「あはははははははっ!!」



 それはもはや一方的な殺戮といっても過言ではなかった。村を襲った脅威はことごとく影も形も残さず消滅し、超常的な力を嬉々としてふるった子供だけがそこに残った。


 驚きで閉ざされた人々の口は、恐怖によってさらに堅くなる。


「ノキ……」


 ロデリックは、愛しい娘の名を呼ぶ。しかし彼女は振り返らない。華奢な背しか見えないが、少なくとも先のように笑ってはいない。


 やがて聞こえたのは、美しく艶やかな女性の声だった。



『――聞こえますか。勇敢なる騎士ロデリック』



 まさしくそれは、夢の中で耳にしたものとまったく同じであった。


「ノクシア様……」


 ロデリックは自ずと膝をついていた。


『あなたに謝罪せねばなりません。確かに私はあなたの願いを叶えましたが――今をもって、それを打ち切りといたします』


「打ち切り、とは……?」


『我ら神々が人の世に顕現することは、本来あってはならぬことなのです。今回は特別の事情ゆえ、でしたが……。私の正体が知れてしまっては、これ以上――』


 その声は石の壁に反響していて、どこから発せられたものかわからなかったが、その主はここにいる人間の1人であると、当の彼女が振り返ったことでわかった。



「――これ以上、下界にとどまることはできないのです。ごめんね、お爺」



 覚えのある、純真で優しい、しかし寂しげな笑顔。


 かの少女はノクシア神の使いではないかと考えたことはあったが、そうではなく――彼女こそ、ノクシア神そのものだった。



 幼い少女の姿をした女神は、ゆっくりとロデリックに近づくと、すっと左手を添えて拘束を解き、同時に傷を癒した。


「あ、ありがとう、ございます……」


「敬語やめてよ。なんか、むずむずする」


「は――う、うむ」


「お爺はいいんだよ。ずっとボクに祈ってくれてたし――まあ、目の前で祈られたときは恥ずかしくて死にそうだったけど。しかも何? あの像。美化しすぎでしょ。人間の妄想力ヤバイっていうか、ある意味罰ゲームだったよね」


 おどけた苦笑に気が抜けたのも束の間、ノクシアは険しい顔で後ろを向いた。


「だけど、あんたらはちょっと看過できない。……よくも、ディーエに祈ってくれたな?」


 静かながら、怒りを含んでいるような調子だった。



「ボクが邪神? ディーエと戦って負けた? それで昼が長くなったとか、そう考えてるんでしょ。今回の魔物もボクのせいって思った? 全部逆だよ。凶作も魔物も、あんたらがディーエに祈ってたせいだ」



 彼女がずっと、ディーエに祈ることを拒絶していたことを思い出す。夜が来て真っ先にしたことは、あの大きな像を破壊することだった。


 ディーエは力を使いすぎた――夢では魔物の襲撃をそう説明していた。


 全部、逆。今回のこともこれまでのことも、ディーエによるものだとすれば――



「まさか……ディーエ神が邪神なのか」



 ロデリックが呟くと、ノクシアは驚いた顔で振り向く。


「……え? いや、それはちょっと、話飛びすぎ」


「む?」


「あれ? ……ああー! ごめん、そうだよね。お爺には夢でちゃんと説明できなかったんだ。1回目は別によかったんだけど、2回目はそのー……なんか、照れ臭くなっちゃって」


 夢でかすかに笑ったような気配がしたのは、そういうわけらしい。


「なんか、怒る気も失せちゃった。天界のことあんまし知られてないみたいだから、最初から説明するね」



 ノクシアが述べた天界の事情というのは、こうだ。


 まず神々は皆、人々の信仰によって「神力」という力を得、さまざまな奇跡を地上にもたらす。


 しかし、近年は人々の信仰心が薄れ、神々の神力が弱まってきているという。


 一方で、特定の神――たとえばディーエのような――には信仰が集中し、神力が衰えていながら司る領分ばかりが増え、過剰な負担を背負うはめになったのだ。



「人間でいうとさあ、給料は減ってるのに仕事ばっか増えてってる状態だよ。今の昼の長さはディーエの力を超えてるの。それでとうとうぶっ倒れちゃって、今日のこの有様だよ。お粥用意してあげたんだけど、ちゃんと食べてくれたかなぁ」


 ディーエとノクシアの間に対立などなく、むしろ姉妹仲は良好のようだ。戦いの神話は、神力の低下で起きた異常気象から生まれたものなのだろう。


「我々はディーエ神に祈りすぎたということか。それで、なぜ魔物が?」


「世界が元々暗闇だったの知ってる? だからディーエは『照らす』っていう仕事が必要なんだけど、夜はいらないから。人間が家ん中で寝てる夜の時間に、余力のあるボクが魔物とかを閉じ込めて、被害を減らしてたのね」


 ちなみに「魔物」というのは、不信心や悪行を働いたことなどで、神々の救済から漏れてしまった魂の成れの果てだと彼女は補足した。


「でも、さすがにこんな短い夜に魔物押し込めるの無理だから。昼に出ちゃう魔物はディーエの担当なんだけど、そもそもオーバーワークすぎて対処しきれなかったんだよ。ああ、作物のほうは――そりゃ実らないでしょ。こんなに環境変わってんだもん」


 つまり、ディーエ神はあれだけ多くの魔物を抑え込んでくれていたということだ。


 ロデリックも村人たちも、それほどの労をかけてしまったことを後悔しているようで、苦い表情を浮かべた。



「まあ、それでボクは考えたんだよ。ボクの信者増やせばディーエの負担減るんじゃね? って。で、ボクのこと拝んでくれてた人のお願い叶えて、評判アップさせよー! っていう作戦を思いついたわけ」


「それがワシか」


 そんな打算的な狙いで声をかけられたのは少し複雑ではあったが、そのような文句が言える立場ではない。


「神力足りるか心配だったんだけど……子供って言うから、ちょうどよかったよ。こんな外見してるの、神力減りまくったせいなんだよね。ウケるでしょ、妹より幼い姉。でも怪我の功名っていうの? 願い聞いた瞬間『これでいいじゃん!』ってなって、ソッコー押し掛けたの」


 どうりで夢から覚めたすぐ後に、願い通り子供が訪れたわけだ。


「まさかこの村のみんながディーエのほう崇めてるとは思わなかったよ。昼の世界のこと知らなかったし、昼ってボク全然力出ないのね。すぐ疲れちゃうし、まぶしすぎて目もあんま見えなくてさ」


 それを聞いて、ロデリックははっとする。


「だから、家事も農作業も勉強もあんなにできなかったのか。それは、すまないことをした」


「いや、いいよ。人間はお昼にいろいろやるのが普通だもんね」


「それでか。皆の祈りの力で強制的に夜にしたのは。あれがお前の本来の力だったのだね」


「そうそう! チョー楽しかったぁ♪ ちょっとやりすぎちゃったかもしんないけどさぁ、人間も夜にテンション上がったりするじゃん? ボクも久々に張り切っちゃって」


 お前が邪神と呼ばれているのは、あの鬼神のごとき戦いぶりのせいではないか――ロデリックは口には出さずに心にしまっておいた。



「――まあ、いろいろ言ったけど、要するに」


 ノクシアは、大きな石像があった場所にぴょんと飛び乗った。


「ディーエよりも、ボクのほうを崇めなさい! ってこと。すなわちボクがこの村の新アイドル!! あ、石像作るなら美人にしすぎないで、恥ずかしいから。ディーエ像も本物と全然違ったし。そこんとこヨロ~」


 神らしくもない夜の神の振る舞いに、かえって人々は肩の力が抜けたようで、顔を緩ませている。


「それでボクを邪神呼ばわりしてたのはチャラにしてあげる。言っておくけど、そもそも邪神なんていないから。神なんて、変なのもアホなのもいるけど、基本いい奴らばっかりだからね」


「そうなのか? 邪神は願いを叶える代わりに、人の魂を奪うと聞いたぞ」


「何それ? もしかしてタナト兄のこと? 違うよ! タナト兄は死ぬ直前の人の願いを聞いて、来世にそれを反映させるの! 魂は死者の国に連れてくんだよ。死の神だもん」



 ロデリックの脳裏に、死に際の妻の言葉が蘇った。


 ならば妻は死者の国へ向かい、どこかで生まれ変わっているということか。もしかすれば、すでにワシと出会っているかもしれないな――



「……そろそろ夜明けだね」


 薄明かりに照らされた時計が、7時手前を示している。夜の神の仕事が長い冬でも、もう日の出の時刻だ。空もかすかに白んできている。


 我が子のように愛した少女は、寂しそうな笑顔をロデリックに向けていた。



 正体が知れては、この世界にとどまることはできない。


 それがきっと、彼女らの背くことのできぬ掟なのだ。



「ノクシア」


「ノキって呼んでよ。この名前、実は気に入ってるんだ」


「……ノキ。ワシは自分の願いを叶えてもらった恩を忘れんよ。たったの短い時間だったとしても――ワシは、十分に幸せだった。ありがとう」


「うん……。ボクも……楽しかったよ」


「神であろうと、普通の子供であろうと、変わりはない。ワシは、お前をずっと愛しているよ」


 頬を赤らめたノキは、潤んだ目を細めて、照れ臭そうに笑った。



「またお爺は、そういう恥ずかしいこと言う!」



  ◇



 ロデリックが、一人暮らしの静けさに少し慣れ始めた頃。


 教会では言いつけ通り夜の神を祀るようにはなったものの、小さな村の信仰では力及ばないのか、以前よりほんのわずか夜が長くなっただけだ。


 その代わり昼に出る魔物は激減して、貴き夜の神はそちらのほうに力を割いているのかもしれなかった。


 寝る前の日課は相変わらずだが、変わったことといえば、本人曰く「美化しすぎ」の像ではなく、あの幼い少女の姿を描いたスケッチを使うことにしたというのと――「むずむずする」という敬語をやめ、フランクな語りかけにしたことだ。


「やあ、ノキ。ディーエ様はお元気になられたかな。そういえば、近々あの少年が神官を志して都に発つそうだよ。お前の話を広めるんだとさ。彼の願いが叶うよう――そうだな……夜ぐっすり寝かしつけてやってくれ。無理をせんようにな」


 そうやって毎晩床に就くと、不思議とよく眠れるのだった。お陰で、肩こりや腰痛も以前より和らいだ気がする。


 強すぎた昼の日差しもこの頃は弱まり、夜は少し冷える。布団を深く被って、眠りにつく。



『――聞こえますか』



 その声音を、いつの間に広がっていた灰色を、忘れるわけがない。


『聞こえますか。敬虔なる信徒――……ぶふっ!! あははははっ!! やっぱダメだ、笑っちゃうよ!』


「気になっていたんだが、その声はなんだ。わざとか」


『神っぽく聞こえるように、頑張ってボイトレしたんだ。ってことで、お久~』


 以前と違って、自分の姿も、声の主である神の――あの愛らしく幼い容姿も、はっきりと視覚に映し出される。


「お爺のお祈り集、いつも聞いてるよ。意外と絵上手くて嫉妬したし。あの子神官になるんだねぇ。いつかボクのスーパー武勇伝教えてあげよう。ディーエなら元気だよ。『お前下界ですっごい美女ってことになってるよ』って言ったら、今度の休暇に美の神のエステ予約してた」


「天界はなんだか賑やかで楽しそうだな。それで? 世間話をするためにわざわざこのジジイの夢に現れてくれたのか」


「あはは、ホントの用事は別。実はパパからお仕事任されちゃって」


「パパ?」


「人間のいうところだと、創造神。やっぱ慢性的な神力不足と信仰格差ヤバイよね~、ってなって。暇になっちゃった神々に指令が下ったんだよ」


「ほう、なんて」


 夜の神は――ノキは、父である創造神を真似てか、咳払いをしてわざとらしく低い声を出した。



「『人々の信仰心を取り戻すため、人間として受肉し、下界に降りて布教活動をせよ』」



 目を見開いて仰天しているロデリックを一瞥すると、ノキは続ける。


「『なお、人間に正体を明かし、協力を要請することも可とする』……だってさ」


「な、なんと! つまり、それというのは……」


「ゴホン。敬虔なる信徒、勇敢なる老騎士ロデリックよ。あなたは私とともに、創造神からの使命を果たすのです」


「それは嬉しいが、いきなりすぎやしないか!」


「てなわけでぇ、今から会いに行くから。夢が覚めるまで3、2、1――」


「待ってくれ、ノキ!!」



 胸部の圧迫感と心地よい温かさに、ロデリックはぱっと目を開ける。


 毎晩見ていたその笑顔が、朝日に照らされて輝いている。



「おはよう、お爺」


「――……ああ。おはよう、ノキ」



 午前2時に日が昇り、午後9時に日が沈む。


 そんな長い長い昼があったことが、昔話として語り継がれるようになった頃。


 ある小さな村の教会では、幼い少女のような女神と心優しい老騎士の像が祀られ、年老いた神官がその物語を人々に毎日聞かせているのだという。

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[良い点] 素敵な世界観と物語でした。 そこに流れる空気を感じられる素晴らしい書き方に、思わず舌を巻いてしまいました。素晴らしいです! ロデリックとノキの二人にニヨニヨさせられました。 ただ、『悪魔…
[良い点]  主人公のロディ爺と、ヒロインのノキたんの組み合わせが最高です。  自分は(少年・少女キャラだけでなく)中年~老年の男性キャラを文章で魅力的に描写できるようになりたいと常々思っているのです…
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