62.金魚鉢の中の妖魔大戦に、浄化天使の雨が降る
桑の葉がすべて落ち尽くさないうちは、その葉はつやつやと茂っています。ああ、鳩や、体を壊すから桑の実を食べ過ぎないように、女もまた、男と猥りに交わらないことです。
男が好色なのはまだ許して貰えますが、女が好色なのは弁解することも出来ません――氓:「詩経」国風・衛風より
“白抹香巨鯨13号”の工作室の複雑な作業台で、狙撃突撃多用途ライフルの分解清掃を遣っていた。
完全メンテナンスフリーだし、火薬に依る激発機構は無いから燃焼カーボンがこびり付くことも無く、半永久的に使える。特にクリーニングは推奨されていないが、性分と言うのかどうも定期的に遣っておかないと気が済まない。
分解したスラスター式の可変伸長バレルのライフリングに、高圧エアブラシで素粒子ブラストのスプレーを吹き付けていたところ、ネメシスが遣ってきて酒瓶を1本差し出した。
「どうしたんだ、これ?」
「マッカランのシングルモルト、30年ものじゃ」
「いや、再現能力が半端ねえのは分かるが、なんだってプレミアム・ウイスキーを俺によこすんだ、自分で飲めばいいじゃねえか?」
「……お前が、これと決めた幼馴染に裏切られたのは、悪い星の巡り合わせだったかもしれんが、基本、お前が商売女以外にモテんのはそう言うところじゃぞ」
あからさまに残念な素人童貞を哀れむような、溜息混じりのポーズを取りやがって、本当にこいつは俺のストレス要因の第一位だ。
「女はの、好いた男に贈り物をして喜んで欲しいものなんじゃ」
相変わらず、奇跡のように繊細な美貌は見慣れてはいても心が不安定になる要素満載だ。
その瞳は何処までも碧く、深く沈み、愁いを秘めた眦は吸い込まれるような不思議な磁力があった。
艦内では白い翼は格納したままだが、肩より長い絹糸のような金色の髪は細過ぎるので揺蕩ってすら見える。
「お前が? 俺に……?」
「どうして疑問符なんじゃっ、吾が惚れては可笑しいかっ!」
いや、可笑しかねえが、またなんかブラフかましてるんじゃねえかって勘繰られても仕方ねえ言動してるだろ、日頃から………
「今が大事なんじゃ、今がっ」
「ヴァーチャルとは言え、深い身体の関係になってあれやこれや他人には言えないような恥ずかしいことも沢山した……女とはの、そう言った特別な関係の相手に好く思われていたい生き物なんじゃ」
そんな似合わねえ科白と共に秋波を送ってくるネメシス……自信を以って言えるが、これ程のギャップで俄かには信じ難い雰囲気を醸し出す奴を、俺は他に知らない。
「俺にお前といちゃつけとか、言い出すんじゃねえだろうな?」
「阿呆、こう言うのは距離感が大事なんじゃ、幾ら性愛の相性が好くても年柄年中盛っておる訳にはいかんじゃろ?」
「女はの、大半が性生活無しでは生きていかれん生き物じゃから、厳格な修道院などでも度々不祥事が起こったりする……吾等は性欲もコントロール出来るから封印も可能だが、双方合意の上なら特に問題も無かろ?」
俺が問題にするわっ!
……何百万年と生きてるせいか、ネメシスの考え方はドラスティックに過ぎて参考にならねえ。
大体、女帝、女傑、烈女の例外を除いて種族の平均寿命とか生活環境、医療技術の発達にも因ると思うが、女性の性欲のピークは20から40代、50代半ばで落ち着いて、60にもなりゃあ、セックスなんかしたことも無いって穏やかに猫を被った木訥な老婦人になったりするもんじゃねえのか?
まぁ、200万年生きたり、760年生きたりする奴が普通と違うのは分かるが、うちのメンバーは総じて性欲旺盛……異常過多で一歩間違えなくても色情狂、変態性欲の塊みてえなのは頂けねえ。
相手になる俺がスケコマシの種馬野郎みてえで、涙が出てくるぜ。
「得てして世の女共は好いた筈の想い人と終生の契りを交わす癖に目移りした男と不倫をしたり、若い精力バキバキの牡燕と火遊びしたり、性の不一致などと言って離れて新しいのとくっ付いて、また離れてくっ付いてを繰り返すことさえ珍しくもない」
「無論、無垢ゆえに清廉潔白な者は居るじゃろう、じゃが覚え始めれば女は皆同じじゃ、共白髪の婆さんが他の男を知らない可能性は極めて低いと言っておこう」
「清楚そうに見えても一皮剥けば、と言うやつじゃ」
「世に移ろわぬ愛は無く、間違いを犯さぬ女は珠玉、と言うことかの……悲しいことじゃが、一面真理かもしれんの」
至極、真っ当だ……こいつにしちゃ真っ当過ぎて、却って天変地異が起きやしねえか心配なぐれえだ。
長い付き合いだからこそ、俺は素直に受け取れねえ……嘘臭えし、胡散臭え。自分のことを棚に上げてるのに気が付いてるか?
清楚どころか、頭に輪っかが無えのといつも物騒な装備を纏ってるのを別にすりゃあ、こいつは見た目だけは紛うこと無く、汚れなき天使だ……見た目だけは。
第一、随分と歪んだ一般論だ。
……例えばの話、明け透け下ネタ全開、下世話な猥談が三度の飯より好きな下町庶民の御上さんが、生涯に渡り自分の亭主に操を立てたって話があったっていい筈だ。
今、思いついたんだが、すげえ尊くねえか……それに比べりゃあ、このネメシスはスケベがパンツ穿いて歩いてるようなもんだ。
いや、もしかしたら寧ろパンツも穿かない破廉恥無節操百貨店、淫魔のサービスセール、エロの叩き売り大盤振る舞い、発情した歩く猥褻物陳列バリバリ垂れ流しオンパレード………
「お前……今、すごく失礼なことを考えておったじゃろう、そう言うのはなんとなく分かるんじゃぞ、大体親しき中にも礼儀ありと言うての、夫婦の擦れ違いはそんな些細なことから始まるんじゃ」
「夫婦になった覚えはねええええっ!」
「そんな、ムキになって怒らんでもええじゃろっ」
「大体、世の中の真面目に生きてる全ての貞淑な賢婦に対して失礼ってもんだ、真っ当に伴侶一途を守る貞節な皆さんに謝れっ!」
「……お前、実は隠れ処女厨じゃろ?」
「××××!、×××××××××!」
例によって、生産性の無い罵倒の応酬になったので、口から泡を飛ばす可憐な天使様は、俺にプレゼントを渡しに来たことなどすっかり忘れて、最後は怒り肩で工作室を出て行った。
頭から噴き出す湯気が見えるようだ。
「ひっひっふうぅぅ」「ひっひっふうぅぅ」
ムカムカした俺は、精密篏合電磁ドライバーの作業をするのに気を落ち着かせようと、ラマーズ法の呼吸を繰り返していた。
非破壊オーバーホールを終えたオート・フィッティングの収納式テレスコピック銃床と、狙撃用のリトラクタブル・バイポッドを本体に取り付ける。
差し替えることで様々に強力なダメージも可能にする特殊エネルギーパック・マガジンはグリップより後ろのブルバップ方式だが、他にもこいつは丁度ショートハンドガードの根元の部分で二つ折りになる面白い機構をしている。
パトロール・キャリーのポジショニングで、このⅥ式多用途ライフルも胸前でホールド出来る特殊スリング対応だ……二つ折りのまま携行するタイプなので取り回しが好い。折れている時は安全装置を兼ねたスリープモードだ。
いざという時はワンアクションで伸展する。
作業を終えた俺は、ネメシスが置いていったシェリーオーク・マッカランの封を切った。
変態ネメシスからの貰いもんだとしても、酒に罪は無い。
グラスが無いので、リキッド・グリスを調合する小振りのビーカーを代用した。濃過ぎない琥珀色、どちらかと言うと薄い金色のペールカラーに近い液体は、器の中で輝いて転がり、芳醇な香りを放って俺の鼻を擽った。
美味い、単純に美味い。
色々と異常状態キャンセルの補正が影響して、すっかり酔えなくなった身体だが、ガツンと来る仄かな高揚が心地よく感じられた。
美味いものが素直に美味いと感じられるうちは、俺はまだ人間でいられるのかな?
……多くの者が人生はままならないと思っている。
その中でささやかな幸せを掴み取れた者は運がいい……人生も捨てたもんじゃねえと思える奴は、満足して死んでいけるんだろうな。
俺はどうだろう?
異世界に流されて、ままならねえ運命に癇癪を起して暴れ回って、乱心して、足掻いて、無駄に最強になったが故に無作為に蹂躙し捲って恐れられ、それでも折れねえ復讐と言うたったひとつの妄執にとり憑かれた俺……傍から見りゃあ常軌を逸してるのは分かってる。
だが俺は、復讐に懸けた人生を不幸だとは思っちゃいねえ。
狂人の戯言だと笑わば笑え。
……この先、元居た世界に還るまで何年掛かるか分からねえが、あほシスはあほシスのまま、その倒錯癖は軽くホラーだったりするけれど、エロ教官はエロ教官のままいられたら好いな。
ふと気が付くと、マッカランの瓶には控え目と言うか、目立たないメッセージカードが付いていた。
“お前の願いは、復讐の女神ネメシスが必ずかなえる”
――カードには流麗な字で、短く、そう書かれていた。
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「……この卦は真アルか?」
見たことも無い式占の相を前に茫然と佇み、途方に暮れていた。
白蛇の化身にして符術士の実力者最強集団、符侠同盟“刎頸”を率いる頭目格の一人、白娘子こと白素貞には生まれたときから前世の記憶があった。ここ“華胥”老官台の鵡文過大陸に符術強国“玉蝉”が興る遥か以前にも、白娘子は愚かな女として一度生きていた。
……前の人生で間違いを犯し、為に天寿をまっとうしなかったばかりか、今生ではなんの因果か蛇精に生まれ変わった。
その昔、夫のある身でありながら淇水を渡り、監門を初め誰一人顔見知りの居ない頓丘で、気兼ね無く浮気相手の若い燕と思う存分淫猥な逢瀬を繰り返した。
若い浮気相手は、娘の元婚約者であった。
薬問屋の跡取り息子だったが、店が傾いて婚約話は流れた。
夫は顔回と言い、字は子淵、鄙びた田舎に隠棲してはいたが高名な儒学者であった。
曲阜の生まれで若くして科挙の進士科に登用される程の大変な秀才であったが、宮仕えの同僚達に妬まれて、ある日に毒を盛られてしまう……全ては嫁した後に夫に聞いた話だったが、かろうじて一命を取り留めた夫はすっかり盲従の奉公に嫌気が差し、職を辞して学問一筋に生きようと、林泉に暮らす道を選んで隠遁した。
私は郷里、“曲沃”の郡長官の娘として、顔回様の身の回りの世話係として貧しい侘住まいに通う内に見初められ、祝言を挙げることになったのだが、当時はとても誇らしかったのを覚えている。
倫理を守り欲を滅ぼす儒教思想を実践する夫は、さながら飢えて死ぬるは些事、節を失うは一大事を地でいく清貧の人であった。
儒教の教えでは、子供を作る目的以外の色欲は非常に有害なものとして規定されている。
だが、私は子育ても終わった女盛りの性欲を持て余し、春画や好色本に描かれているような淫らな鶯声燕喘、蝶顚蜂狂の荒淫に耽りたいと次第に思うようになった。
夫が5年の間、家を開ける遊学の旅に出て魔が差した。
嘗て娘の婚約者として親しくしていた李公子と街でばったり出会してみれば、美青年どころか立派な風流才子、見栄えの好い浪子と呼ばれる道楽者に変わって見えた。
声を掛け、懇ろになり、男女の雲雨の情を交わすのに然程手管は要らず、私は瞬く間に李公子の太く長い一物の虜になった。
儒者の妻として品行方正に振る舞ってはいたが、色欲に目覚めて女郎顔負けの淫技を仕込まれてみれば、私は狂ったように腰を振り続けて、夫への罪悪感を省みることは無かった。
街外れの崩れ掛けた城壁に登って、復関の方を眺めては溜め息を漏らした不実な人妻としての日々があった。
男の姿が見えなくて涙を流して悲しんだが、占いの結果が悪くなかったならば荷物を纏めて付いて来て欲しいと請うた男の言葉が忘れられず、旅から戻った夫との閨に涙して、怪しむ夫を誤魔化すのに言い訳が見つからず、疑われずに巧く出来たかは分からない。
夫との生活を捨てる気にはなれないが、幾度となく身体を重ねた男が愛しくて、桑の実を食べ過ぎる鳩に自分を擬えてみたりもした。
桑の葉の落ちる前に、その葉は艶々と輝いている……自分はどうだろう、信じてはいても浪子に弄ばれ、男の房中術に手玉に取られ、やがては捨てられる不安を抱いてはいないだろうか?
貪るように男との情事に溺れて、愛すべき夫を蔑ろに、卑しい土鳩のように痴悦を食べ過ぎてはいないだろうか?
夫を裏切り続ける日々に恐れ慄き、人知れず許しを乞うた。
結局、不実な男の口車に乗って夫婦の絆を顧みず、凄い勢いで抜き挿しされる快楽に満たされていた馬鹿な私は、関係をずるずる続けて仕舞った。
歳若い間男の執拗に蕊を舐るようなねっとりとした愛し方、烏銅鏡と言う鏡張りの部屋で自分達のしてる姿を見ながら興奮したり、また慎恤膠や五石散と言った様々な回春媚薬で四六時中、股間の乾く暇もない程の過激な交合を楽しんだり、美人椅と言う木製の肘掛け椅子や広東膀、硫黄圏、勉鈴と言ったお道具で私を絶頂へと導くものだから、離れたくても最早離れられなくなっていた。
李に言われるまま、李の他の愛人や手付きの侍女達と睦み合ったこともある。李に激しく突かれながら、女同士で口を吸い合い、乳首と蕃登、陰核を嬲り合って獣のように逝き果てた。
抽送されながら舐め合ったり、相手の女の抽送されるところを舐め合ったり、滲み出る淫汁を啜り合ったり、こうした昂る為の実に淫らな躾にいつしか私は怖くなるほど興奮するようになっていった。
絡み合った女達は、皆例外無く頭が変になる痴悦の行為に痴呆染みた表情を晒していた……自分もきっと同じように間抜けな阿呆面をしてるかと思ったら、余計にゾクゾクした。
昇り詰めて頭が真っ白になる本当の絶頂を知ってしまったら、もう亭主とでは本気逝きは出来なくなっていた。イヤらしい変態不倫交尾の方が、絶対に気持ち好いに決まっている。
女陰は鶏冠のように糜爛して、益々夫の怪しむところとなった。
終わりは突然にやって来た。
李公子と素っ裸で縺れ合っている情事の現場に、夫と、娘までが踏み込んで来たのだ。
二人は口々に私の不実を罵倒した。罵り声の交差する中で、初めて私は犯して仕舞った取り返しのつかない罪の深さに怯えて、唯々顔面蒼白に打ち震えた。あられもない淫らな格好を見られたのは、魂が握り潰される程の恥ずかしさと惨めさだった。
許しを乞う涙声は、しかし可笑しな言い訳に過ぎなかった。
やがて私と李公子は全裸のまま、役人に引っ立てられた。
当時、不倫の刑罰は浸猪籠と言い、家畜の豚を入れる竹籠に棒を通して運ぶ入れ物に閉じ込めたまま沼に沈める残酷なものだった。
生まれ変わる時には豚になれと言う侮蔑が込められている。
だが私の郷里には蛇に生まれ変われとする因習が残っていた……執行の朝、獄舎の裏庭に引出された私と李公子は恨みを買った者達の手で、唇の両端を刃物で斬り裂かれ耳許まで斬り上げられる。
まるで蛇の顔のように……李の口を裂いたのは夫だったが、私の前に立ったのは娘だった。
我が子に蔑みの視線を向けられ、唾を吐き掛けられた。
あぁ、私はなんて罪深い。
この子に買った恨みがここまで深かったのを、改めて思い知った。
私が苦鳴の叫びを上げても娘は容赦無かった。
沼に沈められる迄もなく、私は頬からの出血に運ばれる途中で意識は朦朧となっていたが、娘の憎しみの篭った顔が忘れられずにいた。
時は移ろい、夫の生まれ故郷も私が生まれて死んだ土地も全ては寂れ、廃れて仕舞った。
無念があったからか、それとも天帝の与えたもうた罰なのかはいざ知らず、この世に再び生を得てみれば妖蛇の化身と成り果てていた。
刎頸は、今は亡き遥か古代の創設者の志しを受けて、非常に厳しい戒律が敷かれている……逆に言えば、入団に際してはそれだけの確かな高潔さと覚悟が問われた。
高い仙力に恵まれているとは言え、私のような卑しい前世を持つ者がここで人の上に立っているのは成り行きだったが、今度は間違えずに人々の役に立つ生き方をしようと思っている。
罪が帳消しになることは無いが、徳を積んでいけば或いは許されることもあるかもしれない。
少なくとも娘に恥ずかしくない生き方をしたかった。
厳に守るべき局内法度十箇条があり、曰く徒党を組んで弱者を害したり、命を奪うことを戒め、詐術を弄して金品を掠め取るを戒め、力尽くで女を犯すことを戒める。
禁を犯せば、“頸を刎ねられても異存はない”と一筆誓約を入れる。
其れゆえ、団の名前を“刎頸”と言った。
今の統率者は“解字虎豹”と言い、稀代の巫覡にして何度も輪廻転生を繰り返した真の実力者だ。峻厳な男である。
私も蛇精として何百年かは生きたが、果たしてこの男が何千年を生きているのかを知る者は居ない。
敵対した相手の使う符を全て解き明かし、これを封印したり逆に利用するのも自在なことから付いた二つ名を“解字”……永劫に近く、文字通り最強符術士集団“刎頸”の総帥である。
相手の能力を写しとる無敵の羅刹鳥を従え、邪を祓う聖火剣を無数に展開し自在に操る術にもたけている。
刎頸の雷名は天下四十六国津々浦々轟いて、徒賊の集まりとは一線を画しているが、それはこの男に負うところが多い。
符術大国“玉蝉”の影の盟主とすら、一部ではまことしやかに囁かれているが、実のところ歴代の皇帝は“虎豹”の息が掛かっていた。
六壬神課の式盤に現れた、空前絶後の不思議な卦を虎豹に知らせたものかどうか、思い悩んでいた。
占った自分が言うのもなんだが、俄かには信じ難い凶悪な相だったからだ……総帥を含む団の趨勢を担う幹部連を“刎頸五仙”と呼び、その中で私は未来予測の役を割り当てられていた。
見たことも無い強い凶星の炎に焼かれて、“刎頸”が翻弄されて消えてしまう……そんな予言を、果たして忠言出来るだろうか?
「ミス・エレアノール、この辺でもたついているようでは魔丹経絡を制するのはまだまだだよ?」
「シンディ先輩、ミス呼びはやめてください」
「でも君、一人称、“僕”じゃない、妾達が女性敬称で呼んであげないと、いい歳なのに可哀想な僕っ娘になっちゃうよ?」
一時期、揶揄って呼んでたウンコ垂れより余っ程好いと思うんだけどな、一体何が気に入らないんだろう?
「えっとぉ、それよりミス・エレアノール、魔導修行に於ける経絡点穴の三丹田に魔力を巡らす要訣は?」
「……通常、人体には354の経穴と14の経脈があります、ところが僕達、人造パーツに置き換えたオーガノイド体にはその半分もないので短い循環で効率を上げる必要がある?」
「渋々答えるのも、疑問符なのも先生は許してあげるけど、これがネメシス姐さんやカミーラ姐さんなら、愛の鞭飛んじゃうよ?」
「生体に欠損があるのは、陰陽道なんかじゃ却って利点に捉える場合があるけど、妾達の場合は経脈が短い分高速回転が利く……つまり練り上げ易いと言う最大メリットがある」
「もっと頑張んないと、ベナレスからのワイヤレス充電の恩恵に対応出来ないよ?」
取り敢えず、マナのビッグ・バンの為に創られたベナレスの可能性は色々とあるのだが、非常に高圧縮で高密度、強力な無限無尽蔵の魔力の供給が出来るようになった。
ワイヤレス充電と言うのは例えだが、つまりどんなに天災級高位の魔術をバカスカ行使し続けても、魔力切れの心配は要らない。
ただ超指向性の圧縮マナを受動体として充填するには、それなりの素養を必要とする。心の中に築く受信用のバウンス・パラボナアンテナのイメージ確率は必須だった。
「先輩方の教えには諸説あって、どれが正しいのか正直分かんなくなっちゃいます、一体どれが早道なのでしょうか?」
「うーん、いい質問だね、アンネハイネちゃん」
「結論を言うとどれもが正しい」
「仕方ないって言うしかないんだけど、技術体系、論理体系共に学んだ経緯と年代が違い過ぎてるから変遷の誤差はある……それに妾達も終始一貫出来るほど頭脳明晰じゃないしね、昨日は正しかったことが今日もそうとは限らない、だからどれもこれも試して学ぶ」
「なんでも貪欲に吸収する……その中で自分にあったものを選択する、きっとそれが早道かな?」
「誰もがもっと先の自分を探している、妾達も例外ではない、幾らフィジカル面を強化しても、幾らメンタルを鏡岩のように不動に鍛えても、生体である以上は揺らぐよね……でも逆にそれが無いと妾達は人の心を失った、唯の怪物になっちゃう」
「……人は、揺らぐ、それ当たり前」
交代で魔術先達のメンバーが、アンネハイネ、エレアノール、そして蟣蝨のトレーニングを請け負っていた。
符術のエキスパートである黑鏢の蟣蝨には、呪符術の奥深さを改めて学ぶ部分もあったが、それより何より、逆に妾達が操る魔術の多彩さ、無限の可能性に魅せられていた。
寄食するのは、決してご飯が美味しいからだけじゃない……多分。
メシアーズが用意した異空間の中にある、殺風景なオー・パーツ実験用施設の四方を囲んだ不破壊属性材質の壁は、既に悲惨な迄に削り取られていた。
魔力操作の訓練なのに、何故ここまで爪跡が深いのかと言えば殆どはネメシス姐さんやカミーラ姐さんが遣り過ぎるからなのだが、時々アザレアさんが入る。
「“日々これ戦場”を忘れるな……どのような悪環境からでも生還出来る術をこれから身に付けて貰う、有能か無能かも関係ない」
「妾達と共に在るならば、全能のレベルまで必ず来て貰う」
そう言う妾も師匠達から見れば、危なっかしいにも程があるらしいが、それでも世界を相手に単騎で戦争を仕掛けられる程度には強い。
まぁ、それはそれとして、特にエレアノールにはなんとしても即席で奥伝の域まで引き上げて貰う必要がある。
2番目の天臨四神、天界泰山符も、最初の妾の時と同じように持ち主を選んだ。
だが、2番目の符は“胡弓”の姿を模しており、その胴には緻密な呪としての楽譜が神字符となって刻まれていた。
胡弓の“天界泰山符”は音楽の素養のある者を欲した。
そして、どういう訳かエレアノールに白羽の矢が立った。
……しかし、選ばれてはいても、今のエレアノールではどう見てもこれを使いこなせるレベルではない。
この世界でのトップクラス以上に、エレアノールの神霊力操作を鍛え上げるのは、妾達の急務だったのだ。
ESPと言う才能ではまだまだ未知数なアンネハイネの専用強化カリキュラムをメシアーズとエルピスが組み立てつつあるし、斯く言う妾も“勇者召喚”の異能は今のところ並行異世界を渡って行けるたったひとつの可能性だ。
マクシミリアンが作動原理を解明する過程で試して見たいことがあるらしいし、実験は命懸けになるだろう。
「人は揺らぐものだけど、たったひとつだけ妾達には不変の命題が課せられている……妾達はソランに死ぬなと言われている」
「妾達はどんなことをしても生き残らねばならない」
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絶苛島の周囲は禺彊海と呼ばれ、馬灘朝“睡虎”の支配する大洋、華南新海とは隔絶した海域だった。
以前に私が渡ったときは羅針盤を積んだ戎克船だったが、別名死の海域と呼ばれた一年中暴風雨圏の鳥も飛ばない蓬莱海流と言う巨大な潮目を、命懸けで渡って行かねばならなかった。
だがソラン一行の頑健な船は、不思議と全く揺れを感じさせず、凪を渡って行くときの緩やかな上下さえ、毛ほども体感出来なかった。
昔、絶苛島に渡って一旗揚げようとした流れの符術士達、一攫千金を狙う食い詰め者の集団に同行しての航海は、本当に悲惨な思いをした……食料や水は底を突くし、奇怪な壊疽は流行るし、無事に帰って来れたのは、水手や航海長などの乗組員も含めて半数も居なかったのではないかと思う。主な符術士は皆、月琴殿の闇に呑まれた。
それ程、大変な旅だった。
なのに、彼女等が“シーサペント”と呼んだ帆を持たない大型の快速軍船は、時に海に潜り、時に水面を矢のように疾走し、禺彊海に巣食う海魔の類いを一切寄せ付けなかった。
どんな攻撃方法なのか、術式なのかも窺い知れなかったが、海中から襲い来る海獣を次々に仕留めているらしいのが分かった。
大方は海底に向けて沈んでいくのだが、一部の死骸が海面に浮かんで屍肉喰らいの鮫人や海蛭がたかって小山のように畝る様子などが、船の中に居ながらにして見れたからだ。
彼女等がホノグラム・モニターと呼ぶ、空中に浮かぶ無数の巫術鏡のようなものが、海中だろうが何処だろうがあちらこちらの周囲を写し取っていた。
ソラン一行の神のような機械技術とやらには、知れば知るほど吃驚させられることばかりだが、ネメシスという少女が問わず語りに言っていたのは、“雑魚ばかりじゃから、オート討伐モードにしてある”とのことなのだが詳しくは訊き逸れた。
途中、激しく歪んだ狭間、時空の断裂があるから私の“祝詞の法”が役に立てるかと思ったが、“この程度の綻びは誤差の範疇じゃから、自動補正が掛かる……大事ない”とのことだった。
最近分かって来たが、このネメシスと言う一見少女と見紛う女性は信じられないことに、6000年を生きた私よりも遥かに永い流転を経験しているらしい。
……ソランと言う謎の男が連れる女達は、青い目をした者、髪は金色の者が多く様々だが、例外なく美人、美女で、龍山“雷沢”にある太元聖母宮、至尊金女のおわします精霊天帝聖山経に棲み暮らす神仙達ほど背丈があり、すらりとして見劣りしない。
宝石のような群青色の目と、唇は赤い野苺のように濡れて輝き、肩より長い絹糸のような金色の髪はあまりにも細くて、揺蕩うように靄って見える、妖艶さと純粋さが群を抜いているネメシス。
実際、見詰めているだけで胸が高鳴る。
他より少しだけ背が高く手足の長い肢体で、尖ったところの無い細面、金色の髪は皆んなより少し濃い。偶に日の出と共に姿が見えなくなるので訊いてみたところ、彼女の宗旨で朝日に祈りを捧げているのだと教えてくれたビヨンド。
この人はいつも自分のことを、変態絶頂好きの雌豚ド淫乱女と、天上人のように美しく怜悧な顔で被虐的に貶めるようなことを言う。
“ハーフエルフ”と言う種族とのことだが、少し灰色掛かった青い瞳は淡く澄んで、神秘的かつ意思の強さを見せる硬い光を放つ。
無機質な表情には、類い稀な純粋さが隠されているように思えた。
それ故なのか、強化訓練では人一倍無慈悲だった。
いつも焼き立てのスコーンや様々な手造り菓子を振舞って呉れるので、敬意を込めて“アザレア大姐”と呼んでる女性は、まるで出家した僧侶のように気品ある姿勢と思慮深い所作が美しく、金色の髪を短く刈り揃えていた。青い瞳は少し水色掛かって、明るくて、でも毛程の揺らぎも無く真っ直ぐだ。
美少女ネメシスの前では卑猥な下ネタは厳禁だと釘を刺された。
何故と言う問いに返されたのは、収拾が付かなくなるから……と言う簡潔な答えだったが、下ネタと言うのが何なのかは訊き逃した。
一行と行動を共にするようになった最初から、何くれとなく面倒を見て呉れたシンディのことは、“師匠”と呼ぶようになっていた。
充分に桁外れと思うのだが、彼女達の中では新兵だと言うアンネハイネとエレアノールの強化鍛錬に一緒に参加するのに、シンディ師匠は誰よりも熱心に付き添ってくれた。
シンディ・アレクセイ師匠は金色の髪が少し赤味掛かっていて、目は緑掛かった濃い青紫色だった。見た目通り、まだ若いらしい。
骨相的には少し勝気を示す上向きの鼻をしているが、総体的に師匠も他の皆と同じく目を見張る美人だ。紫水晶の髪留めには、信じられない程の膨大な神霊力が込められていた。
「これ以上踏み込めばヤバいと分かっていても、敢えて踏み込むのが妾達、夜の戦士“デビルズ・ダーク”だ」
「だからどんな状況からでも生還出来るよう、自分達を極限まで鍛えておく必要がある」
シンディ師匠は、養成教練の度にそう繰り返していた。
何処か禍々しい妖気が漂う白い肌に、珍しい金色の瞳と深い紫紺の黒髪の、紅い唇は血をなすり付けたように艶めかしい。
言葉少なく、近くに依れば何故か本能的に恐怖を感じるカミーラと言う女……でも、悪寒がするほど美しい。
アンネハイネの髪は燃えるような緋色だった。青緑の薄い透明な瞳は穏やかだが、馴染みのない髪の色と相まって僅かに幼い見た目ながら、咲き誇るような印象がある。
聡明そうな額も愛らしい。
洛墨の東都修文殿で、領侍衛府長官の耶律勝を遣り込めた技前でてっきり歴戦の手練れと思っていたが、彼女達の中ではまだまだ半人前の技量らしい。
少しだけ青味掛かった灰色の瞳はエレアノール、少し険のある眼付きだが他に劣らず美しい。髪の色は六足馬の鬣のような栗毛色だったが、彼女等はブロンズ色と呼んでいた。
……兎にも角にも天界を統べる霊太真西王母の園にも、これ程の美の女神は揃っていない。その権能にしてもおそらく同様だろう。
私も使うが他人の興味を引かないと言う遁甲術式を彼女達も様々に体現していた。認識阻害と呼んでいたが、特に市井に紛れるときは何重にも秘術式を展開するそうだ。
ただ時として彼女達が、恐ろしい暴走一歩手前の酷く病んだ人格破綻の者に見えることがあって混乱する。
それは完璧に感情を抑制出来る筈の私が、恐怖に慄く程だった。
途中、途中で“養成訓練ブートキャンプ”と称して別の空間に連れていかれ、死の淵ぎりぎりの命懸けの修行をするのに訳も分からず付き合わされた。
最初の内は、6000年培った符術の要諦を私に請うような体裁を取っていたのだが、完全に騙されたと気付いた時には既に何も彼もが手遅れだった。
血を吐くような滅茶苦茶な修練と研鑽に何故私までが、と思わなくもなかったが、寄宿する身では逆らいようもない大変な重圧が彼女達の笑顔の奥にひそんでいた。彼女達にはいみじくも、人を甚振って鍛えるのが大好き、もとい、生きがい……みたいな一面がある。
彼女等の中では、神霊力も体力も胆力、経絡を巡らす精度、気力の諸々、全て限界を超え底を突くまで削りきってこそ保有量を増やし、上の段階へと昇華出来ると言った、一種盲目的な信仰に近い観念があるらしかった。
有無を言わせずアンネハイネやエレアノールらと同じ、濃密で非常識な“強化メニュー”とやら言う鍛錬に参加させられたのは、また違った意味で、以前にも勝る過酷で無慈悲な旅だった。
しかし、日に日に私の中の霊力が整っていくのを実感すると、彼女達の遣り方は理に適っているのだと得心が行った。
巫術とは全く違う彼女等の術式、魔術という術理、その美しさと摩訶不思議な可能性に魅せられてもいた。
札符を介さない発動の素早さ、多彩さもさることながら、魔法陣、詠唱と言う呪文を媒介とする神術級超威魔術の強大さは確実に符術を凌駕するのではないかと思われた。
何より、学ぶのが面白くなってきていた。
だが教程の中心は飽く迄も神霊力の底上げを目的として組まれていたので、一教程を終えれば最早ボロボロだった。
一度などは紛れも無く神霊力の限界を超えて、霊力暴走を起こし、肉体自体が霊圧で爆散するという壮絶な死に様を晒したが、すぐさま生き返らされたのは、私に取っても初めての得難い体験だった。
しかし……引き換えに神霊力は飛躍的に跳ね上がったが、もう一度経験したいかと問われても、二度と御免だ。
「妾は蘇生術はあまり得意ではなくてさ、微妙に肉体の再現が違ってるかもしれない」
と師匠は言ったが、気が付けば乳房が一回り大きくなっていたのは絶対ワザとかと思う。
「新しい境地を見る為には長所を伸ばすことを考えるんだ、オッパイは蟣蝨の長所じゃないのかい……?」
6000年生きてきて、とんと胸の大きさが役に立った記憶が無いので、私は激しく戸惑った。
「ネメシスの姐さんに言わせると、蟣蝨のオッパイには愚直さが詰まってるそうだ」
……何を言ってるのか益々分からなくなって、困惑し続けた。
そんな疲労困憊だが己れが高まっていく実感の日々の中、私の楽しみはシンディ師匠に教えて貰ったアイスクリームとか言う氷菓子だ。
濃厚な乳油に卵黄を混ぜ、加加阿や果物、香料などを加えて撹拌したものらしいが、このようなものは神界でも見たことは無く、蟠桃園で供される桃でさえこれほど甘露ではない。
アザレア大姐が、クリームティーと呼んでいるお茶の時間に出して呉れる熱々のスコーンと言う焼き菓子も(クロテッドクリームにレモンカードに黒酸塊ジャム、最近は苔桃のジャムも大のお気に入り)、大好きだったが、何故か気が付くとアイスクリームのベンダーの前に立っていることが多かった。
カップアイスは40種類以上のフレーバーがあったが、私はパッションフルーツと抹茶小倉がずっと気に入っている。
ここにしか棲まぬ原住民の三首人は顔が三つあり、非常に好戦的で外敵を嫌うし、知能は低いが刑天や夸父と言った巨人族が跋扈してると、警戒と迂回策を進言するが、実際に絶苛島に上陸したのは徒歩ではなく、物凄い速さで空中を飛行する幾つかの乗り物だった。
ヘルメットと言う兜を被せられ、シンディ師匠の後ろの狭苦しい席に押し込められて飛び立つ衝撃は腹の中の腑が口から飛び出しそうだったし、外を飛び去る景色は地表も空も上も下も訳が分からず、ぐるぐると回っていた。
右に左に交差し、或いは島の上を円を描くように飛び交いながら、地上を焼き焦がす攻撃を雨霰と降り注いでいく。
仕舞いには天界泰山符が安置されてる“月琴殿”の周囲も火の手に包まれた。島全体が燃え上がる熱波で、上空に気流が渦巻いた程だ。
滅するときに……人に近い妖物なれど、いや、人に似た姿形なれば当然あるべき本の些細な躊躇いさえも、彼女達は持ち合わせていないようだった。
こんなに理不尽な虐殺にも、彼女等は微塵も揺るがない。
絶苛島の地上に生息した生けとし生けるものは、こうして暴虐の前に為す術なく息絶えた。
廟内の仕掛けや、湧いて出る獰猛で厄介な妖物達も瞬殺だった。
月琴殿に安置されている天臨四神は“礼楽の符”……嘗て目にしているが、それは二弦の胡弓の形を模していた。
苦も無く天界泰山符を手に入れるソラン達の実力は、全く以て底が知れない……彼等なら必ず“根元符”に辿り着くだろう。
だが、至尊金女様へ根元符を返納すると言う私の宿願は果たして叶えられるだろうか?
いや、まず十中八九ソランは根元符を自らのものにしようとするだろう……間違いない。そのとき私に抗う術はあるだろうか?
私が身を寄せた静かなる狂気の集団は、その無敵振りは知れば知る程、全能にすら思える。
「考え過ぎじゃないアルか?」
剣と符に依る刺客術の大家、壮年の偉丈夫と言った風采の荊軻は、曲者揃いの一党、“刎頸”の中にあっては裏表の無い人格者として通っている。実際、荊軻の眷属は彼に心から付き従っているし、下部構成員にも慕われていた。
鞣し革のような赤銅色の肌に刻まれた皺が渋みを増した、精悍さの中にも柔和な表情を滲ませる巌の如き顔付きには、さながら燻し銀のような暗殺巧者の矜持が読み取れる。
「吾等、刎頸の実力を知る者は、例え死をも恐れぬ猛者と言えど敢えて楯突こうなどと思わぬ筈アル」
隣に離れて座る禹王広成子はいつもと変わらずに沈黙を守っていたが、荊軻の当然の疑問に同意するよう僅かに肯首してみせた。
表情すら読ませないよう、顔を隠す黒い垂衣付きの竹を編んだ上に毛氈を貼り付けた氈笠を被っている……長い付き合いなのに、未だに得体のしれない不気味な男だ。
何処に暮らし、何処に棲んでいるのかさえ知らない。
近頃ではどんな顔をしているのかも忘れて仕舞った。
“刎頸五仙”の会合の場、渤海竜宮に浮かぶ乾闥婆城で、総帥虎豹達に式盤の凶相の卦を説明していた。
「卜筮を信じて、絶苛島に物見を放ったアルよ……」
「島は灼け爛れて、天界泰山符は無くなっていたアルな」
「哎呀、まっことアルかっ!」
国の符術士団の重鎮、光禄勲の大役にある癖に、刎頸の黄鶴楼に住まう呂洞賓は長い辮髪の辮子を振り乱して、童顔を歪ませた。
「白蛇……真事だとしたら、由々しき事態アル」
「古来、天臨四神が世に出れば天下を乱すこと甚だしとして、三代前に不可侵の約定を交わした筈、符侠連盟が列強の盟主は周知のことゆえ、そのような痴れ者が出てくることも無かたアル」
「……何者アルか?」
永劫の輪廻を繰り返した邪術師にして、巫覡職の頂点“解字虎豹”は流石に泰然自若、慌て騒ぐことも無く私に問い質した。
総髪の美男子と言う風貌だが、実際には不老不死と言っていい。
「式盤の相にては何者とも知れず、昨日ようやっと凶星の在処が知れたところアル」
「足の疾い眷属を見張りに就かせようとした矢先だったが、先程気配が絶たれたアルな」
「……千里の遠見と隠形術に長けた使役霊だったアル」
虎豹、荊軻、呂洞賓、そして未だ黙して語らない禹王広成子は、考えあぐねて、揃って私の顔を凝視するばかりだった。
時は玉蝉歴4803載の春だった。
刎頸の同志が集う乾闥婆城の、虎豹だけが使う太い柱の巡る回廊と祈祷殿などの区域は許された者以外の立ち入りは禁じられている。
だが開放的な造りは開け放たれていて、梅の香りを運ぶ風が特寸の大きな壁代と、それを覆う幾重にも重なる他ではちょっと見ないほど長い金唐錦の几帳を揺らしていた。
誰も何かを決めかねる中、荊軻が口を開いた。
「総帥、ここは一度敵の様子を探るのが肝要かと思うアル」
「身共と白娘子で、その輩を見に行っても良いアルか?」
「任せて良いアルか?」
「無論のこと……良いな、白娘子?」
「道案内は主しか出来ないアル」
私は同道したくはなかったが、自分が持ち込んだ忠言で事態が動いて往かざるを得ない場面で、退くと言えば顰蹙だろう。
荊軻と私は、その足ですぐさま旅立った―――
―――8日後、私と荊軻は少ない手の者を引き連れて鵡文過大陸の屋根と呼ばれる須彌山山脈へと繋がる閻浮提に至っていた。
多分、塔克拉瑪干砂漠を踏破した最短記録だろう。
早駆けの符術式、塞建陀天を召喚すること幾度か、転移の符術を繰り返し、最短で式盤がそれと指し示した世界の脅威に差し迫りつつあった……それは未だ正体不明の、傲岸不遜な侵略者だった。
相手の動きは信じられない程に速く、追い縋るのにここまで掛かって仕舞った。
「須彌山を目指すは、龍山“雷沢”に渡ると言うことアルか?」
「すれば吾等“刎頸”と相まみえるは、杞憂に終わるアル」
「式盤に浮かんだ壊滅相の元凶をここで見逃せば、世界は終わるかもしれないアル、六壬金口訣の凶相は益々のっぴきならなくなて看過出来ないアルよっ!」
「……白蛇が正しいアルな」
須彌山の天空に近い高所にある一大交易都市、拉薩の布達拉宮へと続く公格尔南路は様々な布製品や嗜好品、高級陶器や工芸品を運ぶ商人達の通商路として、大変な賑わい振りだ。
星を渡る霊塔のある須彌山は、幾つかある龍山“雷沢”との通商航路の玄関口のひとつだ。人も物も、溢れ返っている。
麓の街、閻浮提は大陸中の有数の大邑に負けず劣らず広範に広がって商業都市としての威勢を誇っていた。あらゆるものを商う無数の露店ばかりでなく、世界で名立たる商会や商業施設の支店が軒並み覇を競うように、本店よりも派手な店構えで林立している。
利権の調整役をする執政官や領事官が常駐する各国の都督府楼や、派遣された兵隊達の宿舎なども裏通りに控えていた。
中心部では高い建物が密集し、摩天楼の様相すら呈している。
この中から探す敵を見つけられるだろうか?
それとも天地神明の怪異は、おのずと分かるものだろうか?
様々な民族衣装に身を包んだ交易商人の監察を持った隊商が、六足馬や、高山駱駝に荷を積んで連なり、先を急いでいた。
ここまでくれば、旅する馬幇に雇われた鏢客もほぼ役目を遂行出来たと言っていいだろう。商隊の多くに安堵の気配が見て取れた。
須彌山山中に続くは治安の良い、ほぼ一本道で、大変に長く急峻な道だが妖獣の類いも比較的少ない。
「それにしても人が多いアル、閻浮提の“符術武闘大会”、符神祭の時期アルな……うちから」
「刎頸の青年武会からは誰が出ていたアルか?」
行き交う人々の隊列を縫うように避けて、先を急ぐ道すがら思い出したように、毎年開催される年に一度の符術大会に荊軻が言及した。
いつも混み合っている公格尔南路だが、この時期は特に大会の参加者や観戦客でごった返す。
「確か呂洞賓のところの若い弟子が、参加してる筈アル……私の拝師弟子、華陽の実兄だ、初参戦だったか?」
配下の手下を振り向いて問うと、愛弟子華陽は静かに肯いた。
「それにしても人が多いアルな、大会の闘技場に敵は姿を現すであろうか……高位存在なれば、市井の符術大会に興味を示すとも思えぬが、白蛇はどう思うアル?」
「……別に隠れている訳ではあるまいが、奇門遁甲の究極は、例え相手が目の前にいても気配を気取られぬこと、と聴く」
「じゃから、人の集まる闘技場に顔を出さぬ理由も無い、ひとまず会場に行ってみるアル」
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妹の華陽の気配を近くに感じる。
白娘子様のお供であろうか?
閻浮提に何用であろう?
……正可に、符神祭闘技大会の観戦でもあるまい?
刎頸に属する妹を頼って入団したが、呂洞賓様の指導は大変厳しいものだった。もう、8年になるか……俺は未だ青年武会の筆頭だ。
裏切って男と逃げた女房に仕返しがしたいと言う邪まな理由で、強くなることを願った。
そんな不純な志望動機に、頭を傾げた幹部が大部分だったが呂洞賓様に拾って頂いた。
一念欲すれば、才能など無くとも開花することもあらんと思ってはいたが、これがなかなかに難しい。
だが、呂洞賓様は見捨てずにいて呉れた。
回想すれば当時、まだ2歳になったばかりの娘を連れて逃げた女房は、少なくない貯えを搔っ攫っていった。こんな女だとは思っていなかった俺は最初信じられなかったが、血眼になって探し続けた結果、旅の呪術士といつの間にか懇ろになっていたと知った。
浮ついたところの無い、地味で堅実な女の筈であった。
浮気願望があるとも、俺を甲斐性無しと切り捨てるとも思えなかったのだ……だが、事実は事実。
調べれば調べるほど、動かし難い事実として女房が見知らぬ男と情交を繰り返していたと知った……伴った娘の面倒を頼まれた連れ込み宿の下働きの話だと、可成り奔放だったらしい。
我が子を他人に預けて情事に耽るのにも呆れたが、連れ込み宿の人間の話では変態的な交合や嬌態を何度も目にしたと言っていた。
あまり聞きたく無い話だった。
女は分からないと心底思った。
騙されて野垂れ死ぬ行く末しか思い浮かばぬが、どうしてここまで愚かになれる!
娘が心配で稼業も放り出し、気が狂ったように一年間探し回ったが疾っくに隣国にでも逃げたか、杳として行方は知れなかった。
諦め切れずに、旅の呪術士をかたる好玩的人の似顔絵を鏢局の情報網を通じて賞金を懸けたりしたが、捗々しくなかった。
斯くなる上は、他人頼りにせず、自らが探し出す術と復讐の手段を得んと、妹の縁故を頼って“刎頸”の門を叩いた。
しかし妹と違って霊的才能の無い俺は平凡な符術士だ。
未だに失せもの探しの風水符は、中途半端な腕前だった。
予選を勝ち上がった者同士の競技試合は、勝ち抜きだ。
本戦5日目まで順調に勝ち上がってきた俺は、団の面目を背負って此処に在ることを誇りには思っていたが、同時に俺を裏切った女房への復讐を忘れられずにいた。
なんとしても探し出して、裏切ったことを後悔させて遣りたい。
まだ真面に育っているなら、娘を取り戻したい……未だに俺の中の娘の面影は、2歳の可愛い盛りのままだった。
埃っぽい闘技場での今日の2試合目で対峙したのは、あまり見掛けない類いの背の高い女だった。
異民族だろうか、髪は金色で、なんと目は空色とも青緑とも判別が付かない特徴的な色をしていた。
確か名前は、しんでぃだったか?
始めの合図と共に立ち合いが退くと、胡乱なことに女の雰囲気が変わった。いや、おそらくだが、これは周りの者達の意識に遮幕を掛ける術式なのだろう……それを多分、解いた。
美しい女だった。すらりと伸びた手足は、天上人のように嫋やかで且つ撓やかな迄に強靭だ。
決して市井には見られない美形の輝きに一瞬で魅入られていた。
「実戦で符術士と対すれば技量も上がるかと思ったが、どんな闘い巧者が出てくるのか期待してた分、弱っちくて拍子抜けだよ」
「殺気も足りなければ、気概も覚悟も足りない、何より闘いに対する工夫が足りない」
低いのに透き通るように透徹した声音は、短躯の我々民族が放つ、汚らしい言葉の姦しい響きとは天と地程の開きがあった。
気が付けば女の瞳が放つ強く冷たい光が、この女が常人ではない覇者だと語っていた。
何故今まで気が付かなかったのだろう……決まっている、この女が驚異的な技術で数万人の観客の印象ごと操作したからだ。
今まで勝ち上がってきた試合、どれもこれも見たことも聞いたことも無い強大で摩訶不思議な符術で対戦相手を瞬殺してきたのに、強烈に印象に残るべきところ、女の試合を今の今迄忘れ去っていた。
驚嘆すべき妖しの業、きっと彼女は死神を統べる女王だ。
「闘い方とか組み立てるのに必要だって言われて、相手の因縁を見通せる技を少し覚えた」
「志し半ばで死んで仕舞うあんたのことが、本のちょっぴり気の毒になった……誤解しないで欲しいけど、本当に本のちょっぴりだ」
真顔で告げる言葉で、どうやら俺が死ぬのは確定らしい。
不思議と恐怖は感じなかった。彼女の笑顔が寂しげだったからかもしれない。
「ほんの少し前、マクシミリアンに頼んでバージョンアップ版のフリズスキャルブに尋ねてみた……あんたの奥さんと娘さんは、5年前に貧民窟の片隅で亡くなっていた」
「不実な男に女郎屋に売り飛ばされ、瘤付きで客を取っていたようだが、母娘して胸を患ったようだ」
「衰弱して、眠るような最期だったらしい」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
目の前が真っ白になる錯覚に捉われて、反射的に術札を数枚放り上げた。だが、術が発動する前に紙札はことごとく燃やされて仕舞う。
「紙の札は脆いね……奥さんはね、死の間際、何度も何度も謝っていたそうだ、道連れにする娘と裏切って仕舞ったあんたに自分の不明と罪を詫びて」
やめて呉れ、聴きたくない!
「ゆっくり呼吸しなさい、胸が苦しくなるから……粉掛けたスケベ男にのこのこ付いて行った奥さんにも非はあるだろう」
「だが凌辱された事実を告げようとした晩、お前は疲れているからまたにして呉れと、碌に取り合おうとしなかった……次の日から、お前は行商で三日ほど家を留守にした、妻が真剣に悩んでいる告白を聴かずに、すっかり忘れて」
そうだったのか!
だとすれば、責められるのは俺なのかもしれない!
「何処から嗅ぎ付けたのか、間男は亭主が留守なのをいいことに、乗り込んできた……二晩掛けて犯し捲られて、奥さんは以前の奥さんじゃいられなくなった」
「爛れた女の悦びから抜け出せなくなった」
「……それが真実だ」
もう俺は仇討ちどころではなかった。
この世の者とも思えない美女が空中に符式自体を描いているのを、唯茫然と見つめていた。
物質変換の術式だと言われた傍らから、俺の肢体は塩になってサラサラと崩れていった。
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「無体アルなっ、命を奪う必要があるアルかっ!」
華陽の兄を塩の柱に変えられ、堪らずに荊軻が翻筋斗打つように闘技場に飛び出した。先程迄、不干渉術式の結界に侵入を阻まれていたのが突然解かれた。
外界からの干渉を完全に遮断する強力な空間結界術だった。
符神祭の会場を捜索に来て、偶々我等が団の青年武会からの出場者が試合う対戦の場面に出会した。
華陽の兄の抱えた闇と、逃げられた妻の顛末が語られるのが我等にも分かった。義侠の人、荊軻には特に我慢ならなかったようだ。
巌の中に柔和さを湛える荊軻の強面が、今や鬼の憤怒相だ。
「別に構わないけど、命の遣り取りの場に闖入するのは無粋じゃないの? “刎頸”は侠気を重んじるって聞いたけど?」
ことも無げに応える、奇跡のような美の武闘神には揶揄うような気配があった。
「刺客列伝に名を連ねる英雄様は、この程度の理不尽で義憤に駆られるんだ?」
「妾達が最低なのは自覚してる……でも血塗られた肉弾戦の殺し合いに狂喜する文化の習熟度だよ、今更だね」
こちらの素性は知れていると言うことかっ。
兄を殺された華陽を従えて、私も矢面に立たざるを得なかったが、正直この威圧の前に逃げ出したい気持ちで一杯だ。
怖気る心を奮い立たせ、私達一党は闘技場へと降り立った。
周囲への催眠のような意識操作は、私達の与り知らぬ術式だった。
「暗殺符術と言うのが、どれほどのものか教えて呉れるのかな?」
それが解かれた今、目の前の女は仙姿玉質を体現した奇跡と言っていい。溢れ出る生命力にまみれて、女の美しさ、背の高い見栄えの好さは私達、老官台の矮躯民族に拭い切れない劣等感を植え付けた。
女が美しいのもあるが、私達が格段に醜い……その考えに至り、致命的な事実に気付いて仕舞った。
「必殺、剣の舞いを喰らうがいいアル!」
荊軻の暗殺奥伝、柳葉飛刀乱舞の術だ。
敵を切り裂く薄刃の短刀には必殺必中の呪が掛かっており、確実に相手を追い詰め、仕留める。
だが、縦横無尽に取り囲んだ何百本もの黒く塗られた暗殺用の匕首はことごとく撃ち落とされ、塵と消えた。
「何故殺す者の痛みを暴き、抉ろうとするアル!」
「あまいねえ、目新しさが無い……神字は実は、応用、改善、そして新しく創造することも出来る、妾達は符術を覚え始めてまだ2ヶ月だけど、そこまで辿り着いたよ?」
闘いの仙女が繰り出すのは術札にあらず、直接空中に神字符を描き出していく。それも物凄く早い。
見たことも無い複雑な術符は白く輝き、何かを大量に召喚する。
それは地から湧いて出た小山のように大きな虹色に輝く骸骨の姿をした、見たことも無い怪物達だった。広い筈の闘技場が怪物で埋め尽くされる。
「妾達がクリエイト・ゴーレムの魔術で作り出す使役魔だ、符術で魔力……神霊力を全く必要としない召喚獣として強化した」
「触れるものを全部溶かす」
「これなんか、あんた達は知らない符術の筈だ……妾達が新しく創ったものだから」
今は高く宙に浮かんだ不気味な死の女神は、なんだろう布とも鋼ともしれない服でぴったり身体を覆い、黒く光る幾つもの装甲で胸肩、四肢を鎧う特異な格好だった……なんと言うか、効率最優先、着飾ると言う虚飾を一切排除した鋭利なものだった。
「あの男の死ぬも地獄、生きるも地獄の来し方を哀れに思い、せめて苦しませずに葬った、だが真実を知らせずに、本当のことを教えぬまま媵るのが正しいことだと思うのか……それは死に行く者への冒涜に等しいと妾は思うけど?」
「命を奪う必要が何処にあるアルか、たかが競技会で!」
「荊軻とは刺客が本質と聞いたが間違いだったかな?」
「日々是れ戦場……もうちょっと本気で来ないと、直ぐ死ぬよ?」
いけない、荊軻、網が張られている!
回避した先に仕掛けがある!
類い稀なる武神は狡猾だ。既に十重二十重の罠が見えない術式に展開されている。
「グハアッ、なっ、何アルかこれは!」
寸瞬の内に、達人荊軻の両腕が斬り飛ばされていた。
信じられないことに、両肩から飯櫃に切り取られた切り口から無残に血飛沫が噴き上がった。
この出血では霊力が一気に抜け出るし、両腕なくして使える術式は極端に少ない。
「渦巻く空間鎌鼬の術って言うんだけど……昨日創ったんだ」
「戦場で油断する刺客って、哀れだね」
油断も何も無い。最初から我等は絡めとられていた。
次の瞬間には、荊軻はズタズタに寸断されて断末魔を上げる間も無く、一瞬で逝った。
“復た還らずの壮士”と刺客列伝に謳われた当代無双の英傑、荊軻がこんなところで、こんなにも呆気なく命を絶たれた。
目の前で起こっていても、到底許容し難かった。
「無慈悲、傍若無人は妾達の常……強さを追い求めての仕儀と心得て欲しい、敢えて許しを請わぬは詮無きことと承知しているからだ」
それでも追悼めいた言葉を口にする武神には、しかし悔やみの表情は微塵も浮かんでいなかった。
「成る程、易経六壬神課か……未来予測が出来る分、さっきの荊軻っておじさんよりは遣るようだね」
荒ぶる美神の標的は私に移り、射竦めるような、挿し貫き通すような冷酷な視線が私を捉えた。
もう隠す必要も無いと思ったか、霊力の神霊光に包まれていたが目が潰れる程に濃く広範なものだった。これは刎頸どころか大陸一と謳われた虎豹ですら遠く及ばないと思われた。
「ボッチお姉さん……って訳でもないか?」
「皆んなと一歩、距離を置いているように見えるのは……あぁ、成る程、今生では贖罪に生きてる積もりなのか」
見えない包囲網の罠にどう対抗するのか、私は生き残る為には一体何を成すべきか、必死で考えを巡らせていたが、因果を見通せるらしい相手が私の過去を知ったのだと、その短い呟きで悟った。
「妾には理解出来るけど、ソランなら多分許さないだろうね」
「自らの意思で裏切る女を、ソランは一番嫌う」
と、女の動きが止まった。
何かを聴いているような素振りがあった。
「……ソランからの指示が出た、立ち塞がらなければ見逃す筈だったが“刎頸”とは雌雄を決する」
「“玉蝉”の本拠地“琅玕”にはこちらから出向く……白娘子のお姉さんには乾闥婆城とやらにこのこと、知らせる役目を頼む」
それだけ告げると闘技場に溢れた怪物の群れを消し去ったが、既に会場は上を下へ逃げ惑う群衆で恐慌状態に陥っていた。飛び交う悲鳴で大変な騒ぎだ。
独り泰然と佇む闘将は、黙って天空を見上げた。
やがて何かが降りてくるのが見えたが、それは星渡りの天空船をも凌駕する巨大な飛空船だった。肝が潰れるとはこの事だろう。
随分昔に見た白長須鯨、いや多分抹香鯨、に似た造作だったが、明らかに数十倍の大きさに感じられた。
「最強を求めて、日々修羅に成り切る道を探している」
「あんた達から見れば、さぞイカれてるって思うんだろうね?」
そう言い残して、美しい死神は天空へと去った。
ネメシスが交霊術で呼び出した、死んじまった勇者の残留思念が最後に語った詫びのひとことは、“ご免な、木樵君”だった。
仮令心からの謝罪だったとしても、そんなもんで癒えるほど、俺の傷は浅くはなかった。
だがこの世に居ない仇を追っても仕方ねえし、追える筈もねえ。
勇者の地縛霊は霧散しちまった。
となれば残るのは、ドロシーと姉貴と、エリスの3人だ。
こいつらだけは地獄の底迄でも追い詰めて見せる。
それは俺が自らに課した、そして許した唯一の生き甲斐……決して呪詛でも、怨念でもねえ。
約束された可能性だ。
何も屈託が無かったあの頃に戻れるたったひとつの可能性………
俺が望むのはささやかな宿願……つまり俺を裏切り罵ったあいつらを心の底から悔いるドン底まで叩き落して、日々泣き叫ぶ血の苦鳴を見つめ続けることだ。
シンディを抱いた後、“妾を恨んではいないか”と訊かれたことがある……シンディが勇者召喚で、あの下種勇者を呼び出しさえしなければ、俺の人生が狂うことは無かったかもしれない。
それを言うなら、俺はシンディの親どころか血族を根絶やしに、取り巻き一族郎党を皆殺しにして謂わばシンディの血筋、ルーツを奪った。勇者滅却と言う目標を見失った俺の八つ当たりの暴走だ。
だが全ては結果論だ。呪われた運命を知って仕舞えば、全てを無かったことにして最初から遣り直そうなんて選択肢は俺にはねえ……この憤りを手放して仕舞えば、俺は俺でなくなる。
―――「ベナレスが残した自動記録には、あらゆる干渉要素のモニタリングがあって、そこから理論的に辿り着いたのですが……だから飽く迄も仮定の話になります」
「どうも直前の現象として、パラレルフォーン・ミストと名付けた未知の微粒子状因子が大量発生していました」
「……そいつが、異世界へと渡る扉を開く鍵になると?」
「ベナレスとエルピスは、少なくともそう仮説を立てました」
マクシミリアンの研究の進捗具合を確認に行ったときに訊いたが、アンネハイネの世界の先史文明とも言える滅茶苦茶に進化した魔法技術の集大成とも言えるベナレスにも、異世界へと渡る技術は継承されていなかった。
だが訳も分からず所有しちまった脅威の遺産は、遣ろうと思えば大抵のことは出来るんじゃねえかと思える……今のとこ、こいつに懸けるしかない。
それとは別に未知数のベナレスではあったが、実際、出来ることは他に幾らでもある……パラレル・ワールドと言う概念に対応出来ていないだけで、それ以外は万能と言ってもいい。
基本、マナと呼ばれた魔力を収集する巨大な集積システムとしての稼働が本義だが、何しろ惑星大の人工要塞施設だ。
当時の最先端技術は、どうやら俺達が滞在した6大コングロマリットが牛耳っていた今の銀河文明よりも洗練されていた。
ベナレスの表層部分でさえ、超高度文明の産物たる生産ライン、どんなに複雑なものだろうと物質生成から一瞬で望んだものを量産出来る自動ファクトリー群や、もしもの際の迎撃システムとなる銀河間砲撃戦級の巨大な超光速亜空間砲や最早魔法染みた(実際魔法技術の応用だったが)瞬間消滅砲、各種レベルの自動迎撃戦闘機の出撃デポなどが点在していた。
最終兵器のポテンシャルとしては、マナのビッグ・バーンだけではなく、マナを物質エネルギーに変換しての本物のビッグ・バーンを引き起こすことも可能らしい。
しかし、宇宙全体を無に帰して、しかも発生源たるベナレス自体は無傷で生存し続けると言った掟破りの、本末転倒、言語道断な兵器の可能性……自分だけが生き残る無意味で無慈悲な威力が、果たして兵器と言えるかどうかは意見の分かれるところだろう。
当初、ベナレスは究極のオー・パーツ対抗防御機構“救世主の鎧”の制御中枢たるG.L.I、ゴッドレベル・インテリジェンスのメシアーズがコンタクトしたので、俺には概要は報告が入るのだが(なにせメシアーズの本体は、俺が着込んでるアームド・スーツだ)、マクシミリアンの遣り取りはメシアーズの中に溶けた開発者の残留思念、エルピスの意識とリンク出来ているアンネハイネを通じてのものだった。
マクシミリアンは人造の思考感応装置を造り出して、自ら解決策を見いだした。
機械言語で思考するベナレスとの直接の相互理解は、多難を極めたらしいがどうにかこうにか軌道に乗ったらしい。
マクシミリアンがアイディアを出し、人工的に異世界転移を再現しようと試みるプロジェクトと、これから先、サンプリングを繰り返すことに依る多角測量的に現在位置と、もと居た世界の座標を割り出すプロジェクトを並行して進め出した。
後者はオペレーション・トライアンギュレーション・ロケーター、O・T・Lと名付けられた。
旗艦、天翔けるコフィン“バッドエンド・フォエバー”の高速演算ナビゲーションシステム、“天の御柱”の設計思想をそのままに、ベナレスの中に、パラレルワールド・ナビゲーションシステム……とでも言ったものを建造しつつある。
ベースになったのは、平行次元パラレル・ワールドの無次元パラメーター解析ナビゲーション装置で、これは即座に次元転移先を特定出来るものではないが、次元転移を繰り返すことにより、無限に連なるパラレル・ワールドでの現在位置を特定し、割り出す機能に特化されたものだった。
「来週からアンネハイネの、ESP強化カリキュラムが始まるそうですね、何しろゲハイム・マイン初のエスパーですからね、期待されてる分、本人もプレッシャーを感じてるようですよ」
「何を人並みに心配する、マクシミリアン……らしくもねえ」
「……大事に育てるさ、掌中の珠だからな」
口角を上げたマクシミリアンの笑顔は、耳まで裂けた爬虫類顔で、相変わらず何を考えているのか分からない不気味さだった。
もしこいつがロマンティストだって言うなら、世の中のサイコパス猟奇殺人者やシリアルキラーなんかの危ない極悪犯罪者も、全てロマンティストだ。
冷酷なマクシミリアンが共同作業のイニシアティブを執ってるうちは、作業はシビアな迄に効率最優先……センチメンタルな要素なんぞは1mmも入り込む余地は無い。
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「ピッカピカの船だったアル、そっ、それは星渡りの天空船さえ唯の襤褸船に見えた程の私達の知らない……」
「その……なっ、何かだったアル!」
その異常性を伝えきれなくて、私は言い淀んだ。
荊軻が戻れなくなった理由を、相手は全面的に刎頸を潰す積りでやってくることを、辿々しく閊え乍ら説明した。
占星六壬神課の相が敵対すれば手酷く敗退すると指し示していたのに、回避出来なかったことも今度ははっきり伝えた。
手も足も出なかったし、ただ気圧されて竦んでいただけの自分が悔しくて、四途路筋斗な話が上手く伝わっているのかさえ不安ではあったが、何事にも動じなかった今迄の冷静さは既に私には残されていなかった。
臆した自分が許せなくて、慙愧の念が日に日に強くなって行くのも気持ちの混乱に拍車を掛けていた。
だが、あらゆる刺客の呪法に通じ、竈神たる灶神の火を以って鍛えられた千本の命ある匕首を自在に操った荊軻が、全く歯も立たず、苦も無く屠られた。
相手の技量が如何に卓越し、隔絶された域であり、展開される術式が如何に素早く、強大なのかを語り尽くすのに語彙が底を突いて、それでも語り切れなくて、どうしたら敵の実力と恐怖を分かって貰えるのか仕舞いには涙が出そうになった。
禹王広成子が、何か虎豹に耳打ちしていた。
呂洞賓は悲嘆に暮れ、必ずや荊軻の仇を討つと、宮中符術士軍団の招集を掛けるべく玉蝉城に向かった。
「大丈夫アル……白蛇の言うことが信じられぬ訳ではないアル、実際に我等は荊軻を失っている、おそらく対決は組織の総力を挙げて迎え撃つ報復戦になるアルな」
「して、その者共はいつ攻めて来ると言ってるアルか?」
「……こちらの、用意が整い次第と言てたアル」
虎豹は腕を組んで考えているようで、目を伏せて黙考した。
「白娘子、頼みがある……“金魚鉢”の妖術を遣るアル」
「神和ぎの童乱を遣って貰いたいアル」
「えっ、でもあれは身内から生贄を差し出す惨い術式っ!」
「兄を亡くした華陽は、その方の弟子アルな……兄の仇の為、刎頸の危急存亡の為、その身を投げ出すよう説得するアル」
私は暫し迷ったが、愛弟子の華陽を説得することに応諾した。
どうせ何もしなければ、高邁な理想を掲げた最強符術士集団、刎頸はただ滅び行くだけだろう。
敵の勢力は分からぬが、目にした女闘神ただ一人の実力を以ってしても、一枚二枚上手どころか遥かに次元が違い過ぎる。
常であれば絶対に選択しない非情の手段であるが、この時の私にはもう常識で判断出来る理性は残っていなかった。
華陽を犠牲に、もしかしたら相手をしりぞけられるかもしれない僅かな希望を選び取って仕舞った。
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その日の早朝、玉蝉城を頂く帝都、“琅玕京”に、
――巨大な女が降ってきた。
宮城の軍人、三宮六院七十二妃、護衛や侍従官、宮女や宦官は言うに及ばず、城隍廟や文廟、古衙署と呼ばれる役所や様々な官署に出仕する九寺五監の科挙官公吏、役人、市楼と言う雑多な列肆が立ち並ぶ商業地区に暮らす多くの人々が、その上空から落ちて来た巨大な女の衝撃で死んだ。
執金吾、侍中郎と言った官僚、枯魚之肆と言う乾物屋の主人一家、鎧職人の函人の下働き、開業医の巫匠の門下生一同、膨大な数の帝都民が訳も分からず一瞬で死んだ。
まるで天空から飛来した隕石が地面に衝突するような、耳を劈く轟音が長く尾を引いて、この世の終わりを告げるように鳴り響いた。
その地響きは大陸中に伝わった。
やがて降り頻る土砂と破壊され舞い上がる建物の残滓に煙る砂塵を突いて、爆心地のような窪みから身を起こした女は立ち上がると、雲衝くような巨躯は200丈ほどもあろうか?
立ち上がる……その動作ひとつで辺りの大気が気流を巻いた。
ペナルティ・イスカの無限巨大化能力を有するアザレアだ。
全身を鎧う赤黒い外骨格のようなプロテクターと、口許だけ隠すマスクのような面具と一体の、頭部を覆う継ぎ目の無いヘルムは、甲殻類のチキン質の様に体内で生成されるものだった。
庇に隠れて見えないが、額には“有罪”を示すヒュペリオンの文字が刻まれていた。
ペナルティ・イスカの能力は、嘗て“夜の眷属”、ワルキューレ・セカンドの贖罪と断罪を司どる魔女として付与されている。
だが、そんなことを知る者はこの世界には唯の一人も居ない。
左右の手に持った深紅の2本の月鎌を振るうと、単純なウインド・カッターが、その大きさと威力故に深く地面を抉り、何処までも果てし無く地割れを起こした。
泣き叫び逃げ惑う琅玕京の住人は雲衝く巨人の死神が、木目細かい純白の肌と綺麗な歯並び、明るく水色掛かった青い瞳の絶世の美女だとは知る由も無かった。
あまりにも巨大過ぎて、その姿を見ることが叶わなかったからだ。
その日の朝、玉蝉城宮廷の中和殿内部、北東の隅櫓から見下ろす軍機処の広大な武者溜まりに朝廷の軍備、符術士軍団5万3千騎が未明より篝火を焚いて六足馬の轡を並べ、一糸乱れず出撃の準備に余念が無かった。
朝駆けで刎頚の渤海竜宮は乾闥婆城へ至る戦略を指揮するのは、宮廷武官の頂点に君臨する玉蝉朝廷東廠司礼監付き驃騎将軍として目まぐるしく檄を飛ばす呂洞賓だった……荊軻散るの報を受けて、盟友たる呂洞賓はすぐに動いた。
宮中の兵力全てを編成して敵を迎え討つべく、可及的速やかに遣るべきことを遣った。玉蝉の皇帝一派は刎頚と一蓮托生だ。
ぞわりと背筋に悪寒が走って、本能に従って身代わりの符式をただちに放ち、一気に五里程間合いを取った。
「冗談じゃろう……こんなものに敵う筈もないアル」
間一髪、自分だけが突然の凶事から免れてみれば、軍は全滅、皇帝の御座す玉蝉城は跡形も無く消えてなくなった。
呂洞賓……別号を“純陽子”、師は鍾離権であり、刎頚には国家符術省から出向してきている。
終南山で飛剣を飛ばし魔を退治する“天遁剣法”、また雷雨を自在に操る“雷法”の秘術を授かり、道士となったとされる。
洞賓は字である。
だが、国が滅びていかんとする目の前の抗い難い天災級の暴威には唯為す術もなく傍観するしかなかった。
天を衝く巨大な女の姿をした死神は、やがて太陽のように燃え盛る大きな豪火球を幾つも生み出し地上に向けて撃ち放った。
途轍もない高温の火球は地表の泥土をも溶かして溶岩と化した。
熱波だけで周囲は発火し、逃れ難い焦熱地獄に阿鼻叫喚の人々はあまりの絶望に狂いながら、焼け爛れて死んでいった。
しかし呂洞賓には、この暴虐を止める手立ては無い。
「もう、玉蝉は終りかもしれないアルな……せめて刎頸さえ残れば再起の道がある」
突然、乾闥婆城の方角から驚異的と言っても良い猛烈な心霊力が膨れ上がるのが分かった。
―――来たか!
刎頚のみに伝わる伝説の超威儀式符術、呪いの空間詐術“金魚鉢”が間に合ったのだ。
今迄が嘘のように、さしも暴虐の限りを尽くした巨人の姿がまるで幻だったかの如く、見事に掻き消えていた。
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鵡文過大陸では死者を葬るとき、口の中に翡翠の玉を含ませる。
親族達の手で湯灌され、死に装束に着飾った遺体を弔うのに地獄の沙汰も金次第と紙銭を燃やすが、その他にも遺体の口に玉石を入れる、所謂“含玉”と言う風習があった。
再生力があるとされる玉に、死者復活の願いが託されるのだとか諸説あるが、古来ここいらの地方では玉を蝉の形に削る。
兵士達はいつ死んでも良いように、この蝉の形の玉を身に付けて戦った……この国の名が、“玉蝉”となった由縁である。
闘いの中に身を置く者は、すべからく死を覚悟しているものだが、それでも己が身を犠牲にして誰かを助けたいと願う殊勝な者は数少ないと思う。
華陽は自らを犠牲にする名乗りを上げた。
兄の仇を討つ為、刎頸が未曾有の危機を生き残る為……皆迄、説明せずとも心得ていると、迷いの無い笑顔で頷いた。
三日三晩、札堂で上級符術者達が秘蔵の筆で禁術の写符をし、念を込めた。嘗て無い迄に神霊力は練り上げられ、札堂の中心に置かれた金魚鉢に総て注ぎ込まれた。
私が童乱の役を買って出なければ、華陽はその身を犠牲にすることは無かったのかもしれない……禁じられた儀式の生贄は、神和ぎの童乱のごく近しい者でなければならない。
華陽と言う自らを人身御供として捧げられる愛弟子を持った私に、白羽の矢が立ったのは、虎豹がそれと見越してのことだろう。
私は最後まで迷い、そして今も迷っていたが、事の趨勢を止めることは出来なかった。
神霊や精霊を祭祀する童乱の役は、儀式に於いて贄を提供すると定められていた。
禁忌の闇結界術、“金魚鉢”は呪う相手を金魚鉢の中に閉じ込めて永久に責め苛む術式……だがそれには人が変化した真っ黒い珍珠鱗と言う金魚を握り潰し、血肉を“金魚鉢”の水へと注ぐ贄を必要とする外道の術式だった。
手の平には変化の札で真っ黒い金魚と化した華陽が乗っていた。
金魚としては大振りな黒い珍珠鱗は跳ねることも無く、己が役目に殉じようとしていた。
御免なさいと心の中で繰り返し、手の平の上の金魚になった華陽を握り潰す。ニチョっと潰れた肉の感覚が、罪悪感をいや増した。
「華陽っ、貴女の死は無駄にしないアルウゥゥッ!」
口を吐いて出たのは呪文でも真言でもなんでもなく、唯々悲痛な叫びだった……だが、術は結願した。
札堂が霊力の光で満たされていく。
敵の脅威、式盤で事前にそれと察知した琅玕京に降ってくる巨人を金魚鉢の結界の中へと引き寄せることに成功していた。
だが、なんて大きい!
普通、金魚鉢に形成される結界の別世界は、本来ひとつの異界として内包される。外側から見れば呼び寄せられ、封印された者など米粒程に見える筈……それがどうだろう、閉じ込められた女はそれと分かる程にはっきりと見て取れた。
「……成る程、起死回生の一手と言う訳ですか?」
「だが、万策尽きるとも仲間を犠牲にする一手を用いるべきではなかった……最悪の悪手でしたね」
異界と化した金魚鉢に封じ込められた女は、絶え間なく呪詛に晒されている筈なのに、なんの痛痒も感じていない風情で札堂で念を込め続ける刎頚呪術部隊の面々を見上げていた。
きっと物凄い巨体なのだろう……金魚鉢の淵に顔が届きそうだ。
女の言葉は思念となって結界を突き破り、札堂に染み渡った。
「……“常勝不敗”が運命付けられているデビルズ・ダークに牙を剥かねば、この度のこと無かったかと思います」
「玉蝉が滅びれば、この大陸は覇を争う列強の国々により再び動乱の凶禍に見舞われましょう、多くの無辜の民や無抵抗の者達が命を散らす戦乱の世は我等が意図する処ではありませんでしたが、事此処に至っては是非もない」
「あなた方はわたくし達の怒りを買った……さて」
女が分身した。
身を分かつように二つに割れると、互いに欠けた半身を再生するような幻影的な何か……それも見間違いだったんじゃないかと思える一瞬の後に、二体になっていた。
更に別れ、四体、八体と増えていく。
「一応、星を滅べせる程の魔力は充填してきましたが、どうしたものでしょうか、アンダーソン様?」
(何を望む、女、過去の過ちを許されたいとでも?)
女の呼び掛けに呼応した風でも無く突然、頭の中に閃くのは鋼鉄の意思を持った武の獣神、蚩尤そのものが降臨したかと思える衝撃を引き連れていた。
到底抗うことなど叶わない、原初的、本能的に畏れ敬う存在……そんな、稀有な意志だった。
もしかしたら神と言っていいのかもしれない。
その不可思議で不気味な意志は、圧倒的強者にして支配者……この世の誰とて逆らいようが無い。
言葉ひとつで神羅万象、如何様にでもなる……そう思わせるだけの貫目が、その意思には備わっている。
(……世の中は平等だ、お前達だけが愚かな訳でも、俺だけが愚かな訳でもねえ、なら力尽くだ)
(お前達も俺達も、色々煮湯を飲んで今がある……そして、互いに利害が一致しねえ、様々なのっぴきならねえ都合を抱えてる)
(勝った方が正しい……そうやって全てを捻じ伏せてきたのが俺達だと知って呉れてもいいが、その代わり敗者は己れの信念も何も彼も失う……だが、もう退けねえところまで来ちまったようだな)
何処からどうやって来たのか、札堂にその男が立っていた。
身の丈7尺程と大きく、常人ではない。
黒い髪を後ろに細く結び、顔の左半分を面具足で覆っている。
独眼の瞳は炯々と尋常じゃない光を放って冷酷そうに、堂内を睥睨していた。誰も身動きひとつ取れなかった。
本の気まぐれに瞬きひとつで人を殺せる……地を這う蟻を踏み潰しても人の心は痛まない。この場合、我々が蟻で相手は神だった。
「懼れよ、刎頸……“千度負け知らず”の俺達デビルズ・ダークを前にするは、イコール死神の愛撫を受け入れるのと同じこと」
「死を覚悟に退かぬは、己れの矜持に酔っているだけだと何故気が付かぬ……それは未熟ゆえのただの蛮勇に過ぎねえぜ」
「今更遅いが、お前達が探りを入れてさえ来なければ、俺達はただの通り縋りだった」
それは、総帥虎豹に向けて放たれた言葉と分かる。
見ただけで分かった。
この男は、全ての者にとっての確定された死神だ。
「……俺はな、女の浮気とか裏切り、疼いた淫蕩を許さねえ側のスタンスだ、だが立ち塞がらねえなら敵認定はしねえ」
「ただな……仲間を犠牲にする遣り口は断じて見過ごせねえ」
今度は私に向けて放たれた言葉だった。
虎豹と禹王広成子が、挟撃の間合いで符術を撃った。
だが、それは男に届く前に雲散霧消と掻き消えた。
「虎豹は影武者、本物の虎豹はそっちの顔を隠した方だろう」
えっ、何を言っているのだ、この男?
あまりの緊張と恐怖に、私は聞き違いをしたと思った。
広成子が垂衣付きの笠を外した。
「……何故分かたアルね、刎頸の仲間内でも誰一人としてこのことは知らぬと言うに」
「仲間も信用ならねえとは随分と用心深いこったが、生憎と俺は何でも知っている」
えっ、えっ、えっ?
それはつまり、今まで総帥と思っていた虎豹が偽物で、本物の虎豹の実体は、何を考えているのか分からない禹王広成子だったということなのか?
何百年も付かず離れず一緒に居た筈なのに、私の目はまったくの節穴だった。忘れていたのじゃない、覚えていないのじゃない、考えてみれば私は禹王広成子の顔を見たことが無かった。
本物の虎豹だと言う、虎豹と信じていた男と瓜二つの見知らぬ男が傍らに立っていた。
「金魚鉢と言う闇結界の術、虚と実を入れ替えているに過ぎない」
「真っ当な空間創造魔術に比べれば数段劣る」
私達を睨め付けるように視線を巡らせて、私達の輪の中に進んで来る男の足音は、不思議とまったく響かなかった。
胆力に優れた刎頸呪術部隊が、緊張と畏怖に耐えられなくて数多の者が膝を突く。
「……だが、まっ、折角用意して貰った趣向だ、味わってみねえのも無粋ってもんだろう」
「敢えて接待に応じるには、招待した側も楽しんで貰わねえとな」
男の言葉が終わらぬうちに、意識と五感が暗転した。
武力を得手とする刎頚の武闘派精鋭3000の総力が繰り出す符術のことごとくが防がれ、無効化されている。
雷を呼べば真っ黒い深淵の断裂に吸い取られ、爆炎の乱舞を撃てば天から降ってくる颶風の柱に押し込められ、氷の矢襖は光の鞭に薙ぎ払われた。
召喚符術で呼び出した巨大な雀蜂は、更に巨大な迦楼羅に似た猛禽に啄まれ、ならばと蠱毒魘魅に育てた蜈蚣、馬陸を濁流として呼び出せば石化の術で固められた。
相手方術者に対して憑依の術や呪詛の術を試みた同志は、皆一様に頭を破裂させたり、身体ごと水に変えられたり、悲惨な最期を遂げて仕舞った。
苦もなく翻弄された前哨戦に相手の脅威を低く見積りはしなかったが、それでも刎頚には驕りがあったのだろう。自信過剰のツケがこの事態を招いた。
おどろおどろしくも、天から降ってくる声は、ここが我等が用意した金魚鉢の中だと言う。見渡せば、おそらく刎頸の全勢力が呼び寄せられていた。
いつしか、帝都玉蝉城にある筈の呂洞賓も戦列に加わっている。朝廷符術士軍団の招集は脆くも一蹴された。帝都“琅玕”が、見上げる巨人の放つ爆炎火球に燃やされる情景は見えていた。
虎豹の羅刹鳥や聖火剣が斥けられたのと同じく、呂洞賓の天遁剣法もお得意の雷法も全く通用しない。
どうやら我等の空間詐術“金魚鉢”が、虚空を欺くまやかしと気付かれたかして、相手が用意した術式に取って代わられた……と言うより上書きされたと言った方が近いだろうか。
術の本筋を見破り、逆に虚と実を入れ替えただけの金魚鉢を本当の異空間生成の秘術で創り替え、刎頸のことごとくを呼び寄せた。
分かっているのはここが全能に近い御業に依って創られた、ひとつの世界だと言うこと、そして我等刎頸の符術士総てがここに囚われて仕舞ったと言うことだった。
大いなる者は、金魚鉢の中での術比べを所望した。
姿は見えねど天から降りて来るような声が、抗ってみせろと言う。
本気で、必死で、持てる力を振り絞れと叱咤する。
忘れてしまった切なる願い……痛切なる切望を思い出せと、出し惜しみをせず、全てを見せてみろと、命と成長を天秤に掛けて新たな高みに昇ろうとした純粋な大志や野心を己れに問うた輝かしい時代と過去を見せてみろと、進撃を始めた熱く滾っていた頃の想いを見せてみろと、繰り返し繰り返し、何度も何度も言いつのった。
見せろ、見せてみろ、何ひとつ隠し立て無く……と言いつのるのは貪欲な神の好奇心なのか、無慈悲な死神の我が儘なのか、それともいずれにも属さない混沌の幽鬼、全能なる亡霊の唯の繰り言なのか、もう何がなんだか分からない。
見せろ、見せろ、見せろ、見せろ、見せろと連呼する狂気染みた妄執に不思議と呼応するように我等は死力を尽くした。連携も戦略も、術の組み立ても何も無いまま闇雲に、唯々我武者羅に秘術の限りを尽くした。無意識に連動し、時には同調して術を放ち続けた。
誇ってみろよ、ありったけを出し切ってみせろよ、と言う挑発と煽動に、熱に浮かされたように皆、己れの持つ最強の術を繰り出した。
「しっかりするアル、白蛇っ、はくだぁ、っくだぁぁ!」
木霊のように尾を引く呼び掛けに我に返ると、強く掴まれた肩をガクガクと遠慮無く揺り動かされていた。
禹王広成子、いや、本物の虎豹は影武者とまったく同じ顔の造作ながら、影武者とは比較にならないほど老成され、捉えどころの無い印象ながら狐のように狡猾な瞳を細めていた。
禹王広成子、虎豹、どちらが本当の有り様かも分からない。
禹王は古代からの仙人として謎の人物だ。その昔、九仙山、桃源洞の主だったものを導くために下山したと言う。
「神仙伝」にも名を連ねた強力な術者であり、誰もその実力を知らないが、嘗て太元聖母宮の金光聖母を倒し、金光陣を破ったとさえ言われている。まだ鵡文過大陸と玉蝉が、禹州あるいは禹城と呼ばれていた頃の朝廷の創始者、禹王は古代神話あるいは伝説上の人物とすら目されていた。
「視る権能アルな、同じような力を使う手前なら分かる……術の要諦も発動法も、神字も何も彼も、全てが盗み取られる」
「この“暴き出される”結界に囚われているうちは、否応なく手の内をさらけ出すこと、強要されるアル!」
それまでの取り憑かれた焦燥が、嘘のように消えていた。
「反魂殯の法を遣って欲しいアル……」
今、なんと?
「反魂殯の法でいっとき、あれの気を逸らせて欲しいアル、その隙に、この驚異的な結界術の解字を試みるアル!」
「正可、犠牲になった我が弟子、華陽の魂をもう一度もてあそべとおっしゃるアルかっ!」
反魂殯の禁呪は、贄となったばかりの彷徨う魂を媒介にする。
「団の存続の為アル」
「この世に刎頸の統一思想を打ち立てる我等が悲願、我等が誓いを忘れたアルか!」
刎頸は……少なくとも刎頸五仙を始めとする同盟の幹部は、周礼を重んじる仁道政治の理想を掲げる千年世紀聚楽国家樹立の為にと日々奔走してきた。私が前世で裏切った夫、顔回は儒家の人であった。
夫への贖罪の為もあって、夫の成し得なかった理想の世の実現に向けて私は刎頸に身を寄せた。
(足りん、足りなさ過ぎる……畢竟、神的魔術、奇跡とはイメージだ、願いが強くなければ現実改変は陳腐なまでに敗退する、その威力推して知るべし……オーバー・イートを使うまでも無く、模倣のスキルで全て事足りる)
(もっと、お前らの神髄を見せてみろ、お前らが掲げた思想や主張は、唯の絵に描いた餅かっ?)
天から降る声は、刎頸の真ん真ん中の芯を、延いては裏切った夫が是としていた理想を汚され、踏み躙られたように私には届いた。
怒りに目が眩んだまま、衝動的に反魂殯の術符を笄に隠し持った隙間より抜き取った。
死した華陽の魂を触媒に、災厄を振り撒く荒々しくも禍々しい血と殺戮の怪物、迦哩が受肉した。
仲間や召喚獣の死体の死肉からそれは、畝るようにして産まれた。
身の丈三十尺、額にある頂蓮華眼を含め3個の目と4本の腕を持って狂暴な相を剝き出しに暴れ回り始めた迦哩には、しかし確かに華陽の面影があった。
(……虎豹とか言ったな、手段を選ばねえって考えは嫌いじゃねえが、お前の野望の為に犠牲を強いるのはちょっと違う)
(それが“解字”と言う技か、どんなもんかと思って敢えて対峙してみたが……その程度の想いの丈では、弱過ぎて到底届かねえ)
華陽を二度も重ねて犠牲にしたにもかかわらず、盟主虎豹の解字は相手に届いてさえいない。
(神字はコード理論化することで、無限の可能性が展開出来る)
例えば……と言う言葉の後に続いて宙に描き出されたのは、複雑で見たことも無い神字で、見る間に見渡す限りの空を覆い尽くして行った。果てし無く無限に続くかもしれない神字の羅列は、増殖して地平の遥か彼方まで辿り着いた。
(新しく開発した、領域にある対象をことごとく……細大漏らさず魔獣化する符術だ)
その言葉を最後に、理性は蒸発し、関節の節々は軋むように変形して、自分の肉体が悍ましい妖物に変えられていくのが分かった。
(まだ意識があるなら聴け、これからお前達を滅ぼすのは浄化の神聖魔術……その昔、俺に闘いのイロハを手解きして呉れた者が、命より大事だった筈の先祖伝来の宝剣を投げ出した)
(引き換えに手に入れた無限浄化のスキル、名を“燉天”と言う)
朦朧と霞む意識の中、虎豹も呂洞賓も、他の仲間も魔物化しているのか……それを気に病む余裕はまったく無かった。
(空から顔の無い天使が次々と降って来るのは、この世の見納めにはお釣りが来る程、荘厳なものだ……燉天は魔族や魔物のみを選択的に浄化する、瘴気と魂まで丸ごと滅却する真の浄化だ)
濁り、霞み行く思考と感覚の中、見上げる曇り空を光の曼荼羅のようなものが覆い尽くしたかと思うと、光り輝く神々しい姿の何かが見渡す限りびっしりと隙間無く次から次に出現する。
やがてそれらは、間断なくゆっくりと降りて来た。
光背に包まれ、真っ白い鳥の羽を持った清浄なる何かは、見間違いなのか、目も鼻も口も無いように見える。
辛辣で清浄なる気配は、静かに容赦無く悪意ある妖獣、妖魔と言った邪を祓うと、その迫るような神威の有り様から容易に知れた。そして今、私達は忌み嫌われる邪妖に成り果てようとしていた……それの意味するところは、逃れられない死だ、このままでは私達刎頚の総勢は邪鬼変化の類いとして調伏されてしまう。
死の恐怖を目前に感覚が鋭敏になっているのか、時の流れが妙に緩慢に感じられる……空から降る神々しい何かは、焦ったいと思える程に実にゆっくりと降りて来た。
先に到達した羽の一片、光る羽毛が最早誰かも判別出来ない迄に魔物化した者に触れた途端、誰かは光の粒になって物凄い勢いで燃えるように、崩れるように、飛び散って消えた!
あぁ、私達はこんなにも弱く、脆い!
今迄知っていた恐怖とは別の、全く桁違いの恐怖を感じていた。
私の口を吐いた悲鳴は、既に怪物の雄叫びだった。
ギシギシと首が鳴り、両肩は膨れ上がり、骨格の変形に皮膚は破れて硬い鱗が薄皮の下から身体全体を覆い尽くていく。
内側から湧き上がる破壊と殺戮の衝動が、抑えられなくなる。
(短慮だったな……手許に置いた愛弟子は、やっと見つけたお前の前世で娘だった者の生まれ変わりだろうに、お前はまたしても間違いを犯した……優先すべきは刎頸の思想よりも、親を軽蔑せざるを得なかった娘の魂の筈)
(お前は選択を誤り、再び過ちを繰り返した……正しく生きようとしたかはいざ知らず、奪うべきではなかった元娘の命を奪って、人の道を踏み外した)
苦渋の選択だった……秘術の紡ぎ手の大切なものを差し出すが故の禁術……金魚鉢はそれ程の贄を必要とした。
(……華陽はな、偶然にも前世の記憶を取り戻していた、お前は知らなかったが、華陽にとって師匠のお前が嘗ての母親だったと思い出していた)
(知っていながら、知らぬ振りをした)
魂を握り潰されるような驚愕が、人から凶悪な魍魎の類いへと堕ちる意識を僅かに引き戻す。
(前世で母親を断罪したことを、悔いていたからだ)
あぁっ、あっ、あっ、あああああああっ!
前世で嫌われ、蔑まれた娘の魂を見つけ出して大切に育てようと思ったのは嘘じゃない。
長い間流離って、やっと見つけた娘の生まれ変わり、貴女に贖罪したくて手許に置いていた。なのに私はまた、間違いを犯した。
一度目は反省出来ても、二度目は許されない。
私には所詮、人の子の親になれる資格は無い……道徳と倫理を口にし、この世に正しい聖賢王国を築こうとした。
手段を選ばず、目的の為に華陽を犠牲に差し出すなんて、母親が一番遣ってはいけないことだった。
(決して消えない、決して癒えない傷の筈だったが、お前は痛みを忘れた……随分と都合の良い……安い傷だ)
(胸糞悪くて、反吐が出る)
刎頸が滅びるのは、きっと私の許されない過ちのせいだ。
金魚と化した華陽を握り潰したときの、罪悪感にまみれた感触を思い出したのを最後に、私の意識は途切れた。
それが化け物に成り切って仕舞ったからなのか、浄化の秘術に消し去られた為なのかは知る由も無かった。
師匠が死んで呉れと言うなら死んでもいいと思った……今まで面倒を見て貰った恩がある。
ひた隠しにしていたが、生まれ変わる前の世での負い目もあった。
師匠、白娘子様が、幼い頃から貧民街で美人局や枕探しの真似事をしていた私を拾ったのは、どうした気紛れだろうと口にしないながらも以前から不思議に思っていたのだ。
出来の良かった兄は小さな頃に遠い親戚に里子に出され、真面な仕事に就いていた。
凶賊の徒党とは一線を画す武侠の集団、天下に轟く刎頸に入って立派になった私を誇りに思うと言って呉れて、嬉しかったのを今でも覚えている。
その兄が幸せな家庭を築いているものと思っていたが、兄嫁が間男と失跡したの報を聞いて正可と思った。
あまり面識も無かったが、地味で艶めかしさの欠片も感じさせない気立ての好い義姉だった。
そんな義姉が、と信じられない気持ちで一杯になったとき……私は前世の記憶を思い出していた。
この人が何故、と思う衝撃に共通点があったのかもしれない。
私は自分の母親の不倫が許せなくて、父を裏ぎった母亲を豚カゴ沈めで裁いて殺した。恨みを込めて口を耳元まで裂いたのは私だ。
長じて距離を置くようになった母亲が、度々家を留守にするようになって素振りを怪しんだ。
他人に母亲の不義密通を告げ口され、半信半疑で見に行ってみればなんと相手は私の嘗ての婚約者、李公子だった。
付き合っていた頃は、私に甘い囁きで何呉れとなく気遣う黒目、黒髪のキリリとした目許は万人が美男子だと言うだろう型男だった。
だが目にした不仕鱈な光景は、目を覆いたくなるような変態行為に終始した……まるで蛇が絡み合って交尾してるような、身の毛も弥立つ悍ましさがあった。
獣の吠え声に似た嬌声は辺り憚ること無く、もっと気持ち好く、もっとイヤらしく、もっと深く突けと泣いて懇願し、もう夫も娘も愛していない、彼方との激しい交わりだけが生き甲斐だと叫んでいた。
聞きたくはなかった。
白濁した股間を自ら弄りながら、快楽に呆けた顔で男の陽物を浅ましくも夢中に頬張ろうとする色気違いの女が、自分の母親とは信じたくなかった。
小さい頃は、妈妈、妈妈、と懐いた母親があのような生臭い行為に溺れる様は見たくはなかった、知りたくはなかった。
……慎ましいと思っていた母親の、裏の淫奔な顔、家族を裏切り続ける野鄙で好色な姿が目に焼き付いた。
悩んだ末に、私はその足で父、顔回に告発しに向かった。
哎唷、妈妈、私は貴女が憎かった!
こんなっ、こんな母親なら要らないと思った!
全てを思い出した私は、既に悟っていた。
一見天女のような白い肌と美貌だが、良く見れば病的なまでに肌が透き通っている師匠、白素貞様は私の前世の母亲だった。
儒学思想を啓蒙し、世に礼節の国家を樹立しようとの理想を掲げる義士の集団、刎頚を率いる幹部に席を置くのは、誤って仕舞った前世を遣り直そうとしているように、私には思えた。
地方の仕来りで、浸猪籠の刑を受ける者の唇の両端を刃物で切り裂くが、これは近親者の役目とされた。
生まれ変わって来る時は蛇になれと言う呪いが込められている。
私はこの役を買って出た。
母親を沼に沈めた晩は、必死に泣き叫んで許しを乞う母の夢に魘された……同時に幼かった頃の母との思い出、繕い物や蔓籠の編み方を教わったり、毽子と言う蹴鞠遊びや丢沙包と言うお手玉を一緒に遣った、とうに忘れて仕舞った懐かしい記憶を夢に見た。
口を引き裂かれ血だらけになりながら、豚籠に揺すられていく母親は、瀕死の混濁した意識の中、何かを必死に呟いていたが、側に寄って聴き取ってみれば、小青、馬鹿な妈妈でご免ね、と私への詫びを繰り返していた。
結局、父、顔回は悲嘆のうちに程なく憤死した。
母親を手に掛けた忌まわしい思い出に付き纏われる……私の生涯もそんな風だった。
だから師匠から人柱の話を伺った時、これで漸く母親殺しと言う過去の呪縛を精算出来ると喜んだのだ。
兄の仇もあるが、金魚に変えられて“金魚鉢”と言う広域干渉符術の贄に為るとのお役目を引き受けた。
自分の手で殺した母親に、今度は逆に手に掛かる……これで差し引きすれば、勘定は辻褄が合う。
私を握り潰す瞬間の母亲の手は、確かに震えていた。
「自己犠牲など言語道断、以ての外だ……闘う者の心構えが出来ていねえてめえに説教する為だけに生き返らせた」
「二度と死ねねえ身体にする為に、成長過程の奴等の分と取り置きした高性能アームド・ボディの全義体予備プロトタイプに、呼び戻したお前の魂を固定した」
「そこに正座だ!」
訳も分からない大変な剣幕に、思わずその男の前に膝を突いた。
取り囲む女達の中に兄の仇と記憶する者も居たが、正直それどころではなかった。
中心人物と目される片目の男の威圧は神に匹敵すると思われた。
その説教が、延々と脅すように諭すように、兎に角果てしなく延々と続くのだ……居た堪れずに唯戦々恐々と縮こまるしかなかった。
困惑することと、怯えること以外、果たして今の私に出来ることがあるだろうか?
「お前の前世の母親は、お前に免じて魂まで滅却するのは勘弁してやった……己れを虚しくして、三顧の礼で霊界に行って鍛え直して来いと言い含めた、リベンジするなら受けて立つと」
「まっ、もっともてめえの母親が輪廻転生して来る頃まで、俺達がこの世界に留まってるとは限らねえがな」
***************************
物質分解が魔術で可能なら、物質の生成も可能だ。
実際、俺もサンプルさえあれば忠実に再現出来る。
ネメシスにこの間貰ったマッカランのシングルモルトはその情報を解析しきったので、無くなったら幾らでも補充出来る。
だが、大賢者のスキルを持ったネメシスの膨大で正確なデータベースを所持しない俺には、空覚えのものを再現出来る能力はねえ。
だから態度には出さないが、ボンレフ村の雑貨屋で売ってた紙巻用の赤い缶入りの煙草を貰った時は涙が出るほど嬉しかった。
別売りの巻紙とパーマネントマッチまで貰って……このパーマネントマッチの匂いに郷愁すら感じて……俺は心から感謝を口にしようと思っていたんだ。
「じゃが、この商品名“赤雄牛の睾丸”ってのはいただけんのお、ネーミングセンス無さ過ぎじゃ」
俺が愛した煙草の銘柄をけなされて、カチンと来た。
「煩えよっ、ほっとけっ!」
「……お前こそ、毎日俺のところに来て、美少女の生着替えとか称して、パンツを脱いでは見せ付けるように尻を振って突き出すのは良い加減にして呉れっ!」
「ばっ、おまっ、それ内緒にしとけよっ」
「なんですか、それ、“シスたそ”様、そんな羨まはしたないの、わたくし聞いておりません!」
「昔とった杵柄、この身はバナナ切りなど芸が出来るぞ!」
「妾は? 妾のも見て欲しいっ!」
「お前ら、下品なのも大概にしろ、華陽が怯えてるじゃねえか!」
「シンディ、ここで脱ぐんじゃねえっ!」
カミーラの後ろに隠れるように縮こまる華陽が、俺達と同じプロポーションに再生された新しい肢体でビク付いていた。ハイブリット・プロトタイプの複合ナノバイオニクス・サイバネティクスボディは、生前の容姿を復元出来るが、五頭身は頂けねえとプロポーショナルは初期状態のデフォルトのままだ。
早くもエロ話トークで盛り上がる女共の洗礼を受けちまったな。
こいつらにはジェンダーとか、セクシャリティとか、なんかこう、もっとスタイリッシュな趣きはねえのかよ?
乙女っぽくとかは臍が茶を沸かすレベルの論外かもしれねえが、繊細さとか情緒とか期待させて呉れても良さそうなもんだ。
大体ビヨンド教官よう……曲がりなりにもにもあんた、俺が冒険者としてスタートした時の恩師だろう?
先祖伝来の宝刀、ゾモロドネガルって言うジャンビーヤの借りもあるし、人を信じられなくなっていた俺に、それでもと言う可能性を示してくれた……あれがあったから、俺はギリギリ心が怪物にならない一歩手前で踏ん張れてるってのによ、バナナはないぜ。
気を取り直した俺はネメシスに頂戴した煙草を有り難く吸うことにして、最初の一本を巻いた。この感じ、久し振りだな。
よろず屋のメープル婆さんは元気だろうか?
喧しく客を叱り飛ばす俺達の村の名物婆さんから、この缶煙草を買ってからもう何年が過ぎたんだろう?
皺苦茶ババアの怒鳴り声が懐かしい。
……惨劇から開けた朝、村を旅立つ日に、それでも慰めてる心算だったんだろうが、“生きてりゃ、色々あらあな”って言われたとき、巧く笑えなくて、お茶を濁したっけ。
俺が戻る頃には、もう墓の下かもしれねえな………
サブ・テーマに“人妻の浮気”を思いついたときに、若き日のダスティン・ホフマン主演の映画、「卒業」を思い浮かべました
サイモン&ガーファンクルの「ミセス・ロビンソン」のメロディと共に浮かんで消えたあやふやな記憶では、有閑マダム役のアン・バンクロフトが若い男を誘惑するのに一瞬、ヌードを見せていたように思うのですが、定かではありません
結婚適齢期の娘が居るのに娘の婚約対象と不倫しちゃう……人間、衣食住が足りると、情事の快楽に趨るのは男も女も変わらないって考えると堪らなく切ないですね
――文中、詩経の漢詩“氓”から転用した部分があります
マッカラン=2009年スコッチ・ウイスキー規則により定義され、糖化から発酵、蒸留、熟成までスコットランドで行われたウィスキーのみがスコッチ・ウィスキーと呼ばれるが、麦芽を乾燥させる際に燃焼させる泥炭〈ピート〉に由来する独特の煙のような香り〈スモーキーフレーバー〉が特徴/シングルモルトはひとつの蒸留所で作られたモルトウイスキーを瓶詰めしたもの、ブレンデッドモルトは複数の蒸留所で作られたモルトウイスキーを混合して瓶詰めしたものである
マッカランは1824年創業のスペイ川中流域にある蒸留所で、付近は渡し場として交通の要所であった
白娘子=四大民話伝説「白蛇伝」に登場するヒロインで、「白素貞」という化名は清代の弾詞「義妖伝」以降であり、「白娘々〈パイニャンニャン〉」と呼称されることもある/清代の演劇などにおけるその正体は、四川省にある霊山の峨眉山清風洞の霊力を得た齢千年の白蛇の精で、1800年修行し、仙術を会得した/命の恩人許仙に報いるため、白衣を着た美人に変化して彼と結婚して子供をもうける/後に妖魔打倒を使命とする和尚法海に杭州の雷峰塔の下に鎮圧されるが、白娘子の下女である小青は峨眉山にもどり18年の修行を積み無敵の三昧真火を修得し、雷峰塔を燃やし白娘子を救い出す
淇水=河南省安陽市の南西を流れる川で衛河に注ぐ〈出典:精選版日本国語大辞典〉
監門=門番……〔史記信陵君伝〕隱士有り、侯豔と曰ふ、年七十家しく、大梁〈魏〉夷門の監者爲り、公子之れを聞き、往きて請ふ~受くるを肯んぜずして曰く、臣修身絜行數十年、つひに監門の困しみの故を以て、公子の財を受けずと〈出典:平凡社「普及版字通」〉
頓丘=中国にかつて存在した郡で晋代から南北朝時代にかけて、現在の河南省濮陽市一帯に設置された/266年〈泰始2年〉に淮陽郡を分割して頓丘郡が置かれたが、西晋の頓丘郡は司州に属し、頓丘・繁陽・陰安・衛国の4県を管轄した/北魏のとき頓丘郡は頓丘・衛国・臨黄・陰安の4県を管轄した
顔回=孔子の弟子の一人:尊称は顔子、諱は回、字は子淵、ゆえに顔淵〈がんえん〉ともいう/後世の儒教では四聖の一人「復聖」として崇敬される/魯の出身で孔門十哲の一人、随一の秀才にして孔子にその将来を嘱望されたが、孔子に先立って早逝した/顔回は名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めたのでその暮らしぶりは極めて質素であったという/このことから老荘思想と結び付けられることもある/その逸話として「論語」雍也篇などによれば、わずか一杯の飯と汁だけの食事をとり〈「箪食瓢飲」「一箪の食一瓢の飲」〉、狭くてみすぼらしい町に住んだ〈「在陋巷」〉という/「論語」には顔回への賛辞がいくつか見られ、孔子が「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」〈雍也第六、先進第十一〉や同門の秀才子貢が、「私は一を聞いて二を知る者、顔回は一を聞きて十を知る者」〈公冶長第五〉、と述べたことが記載されている/顔回は孔子から後継者として見なされていたので、それだけに早世した時の孔子の落胆は激しく、孔子は「ああ、天われをほろぼせり」〈先進第十一〉と慨嘆した
物語に膨らみを持たせる為、実在の人物の名前をお借りしたが、本編に登場するキャラクターとはなんの関連性も無く、実在の人物像を貶めることは意図していない
曲阜=山東省済寧市に位置する県級市で泗河が東から西へ流れている/伝説では、三皇五帝の内の炎帝〈神農氏〉、黄帝とその子少昊が曲阜の地を都に定めたという/殷の時代は奄国に属していたが、周の武王が周王朝を開いたとき、その弟で建国の功臣だった周公旦がこの地に分封され、魯公を称した/春秋時代の魯に、後年「文聖」「大成至聖先師」と称えられる思想家・教育家である孔子が現れた/彼の思想は後に「儒教」と呼ばれ、中国や東アジアに数千年に渡り重大な影響を及ぼすこととなる
科挙=中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験/競争率は非常に高く、時代によって異なるが、最難関の試験であった進士科の場合、最盛期には約3000倍に達することもあったという/最終合格者の平均年齢も時代によって異なるが、おおむね36歳前後と言われ、中には曹松などのように70歳を過ぎてようやく合格できた例もあった/科挙という語は「科目による選挙」を意味し、選挙とは郷挙里選や九品官人法などもそう呼ばれたように、伝統的に官僚へ登用するための手続きをそう呼んでいる/「科目」とは現代の国語や数学などといった教科ではなく、「進士科」や「明経科」などと呼ばれる受験に必要とされる学識の課程である/北宋朝からはこれらの科目は進士科一本に絞られたが、試験自体はその後も“科挙”と呼ばれ続けた/科挙に合格して官僚となることは本人のみならずその宗族にとっても非常に重要な意味を持ち、「官本位」と呼ばれる権力中心の中華王朝社会では一人の人間が官僚となり政治権力の一部となることは本人だけでなくその者の宗族に莫大な名誉と利益をもたらした/皇帝が直々に行う重要な国事だったため、その公正をゆるがすカンニングに対する罰則は極めて重く動機や手口次第では死刑に処される場合もあった/それでも科挙に合格できれば官僚としての地位と富が約束されるとあって、科挙が廃止されるまでの約1300年間、厳重な監視にも関わらず様々な工夫をこらして不正合格を試みる者は後を絶たなかった/手の平に収まるほどの小さなカンニング用の豆本や、数十万字に及ぶ細かい文字をびっしりと書き込んだカンニング用の下着が現代まで残っている
曲沃=山西省臨汾市に位置する県で、黄土高原の臨汾盆地の南端に位置し、汾河の支流で東の翼城県から流れる澮河が東西に貫く/気候は大陸性気候であり夏は暑く冬は非常に寒い/春秋時代には晋の商工業の中心地であり、都城の置かれた翼城より発達していた
浪子=遊蕩者……〔輟耕録、二十七、唱論〕凡そ唱の忌む、子弟は作家の歌を唱はず、浪子は唱ひて時曲に及ばず、男は豔詞を唱はず、女は雄曲を唱はず、南人は唱はず、北人は歌はず〈出典:平凡社「普及版字通」〉
慎恤膠=伝統的な中国の媚薬の一種で、漢王朝の成帝はこの薬のために欲望にふけって死んだと言われている
五石散=古代中国で後漢から唐代にかけて流通していた向精神薬で、寒食散とも呼ばれる/唐代の医者の孫思邈の「備急千金翼方」巻十五からの出典に拠れば、鍾乳石、硫黄、白石英、紫石英、赤石脂という五種類の鉱物を磨り潰して作られたもので、不老不死の効果や虚弱体質の改善に効果があるとして中国で広く流通した/服用すると皮膚が敏感になり、体が温まってくるが、これを「散発」と呼び、もし散発が起こらず薬が内にこもったままだと中毒を起こして死ぬとされた/散発を維持する為に絶えず歩き回らなければならず、これを「行散」と呼び、五石散を服用した状態で歩きまわる様を呼んで「散歩」の語源となったとされている
美人椅=中国伝統の木製肘掛け椅子で、女性が肘掛に両足を開いて掛けると太股が左右に大きく開き、陰部がすっかり見えるようになる/現代ではさしずめラブホテルの道具であろうか?
勉鈴=女性の膣に挿入して使用する性具で、一説には玄宗帝が楊貴妃と「やる」ために作らせたという/ただし、勉鈴がどのようなモノでどのように使用するのか、そもそもこのような性具が存在したのか、学者たちの間でも意見が割れているが、「金瓶梅」では豪商の西門慶が妻妾との睦みの際に使用するくだりがあり、緬甸〈ビルマ〉の産物で大きさは卵くらい、緬鈴のことだとして「談薈」という本の記述を引用しているが、緬鈴は「熱気を得れば自動」するもので、「之を勢に嵌めて、以て房中の術を佐」けるとあるが、現代のバイブレーターほど過激に振動したかは定かではない
浸猪籠=古代中国とベトナムの社会におけるリンチの一種で、明と清の時代に中国で流行し、主に中国で姦淫を犯した人を罰するために使用された/囚人を竹製の豚の檻に入れ、開口部にロープを結び、吊るして川に沈める/軽度の場合は囚人の頭を水にさらして一定時間浸すが、重罪の場合には囚人は水に投げ込まれ、生きたまま溺死させた/この罰には姦淫を犯すことが豚や犬よりも悪いという趣意が含まれており、輪廻転生は人間としては受け入れられなかった/中国は秦の時代から姦通を厳しく禁じており、その刑罰は去勢、むち打ち、投獄など多岐に渡っている/たとえば、董超は漢王朝の済南の知事だったとき城陽王の娘と浮気をし、3年の懲役を宣告されたが、唐の法律によると姦淫を犯した男女はともに1年半の懲役に処せられ、関与した女性に夫がいる場合、その刑期は半年延長された
刎頸=首を斬ること、斬首/故事来歴では「刎頸の交わり」と言う方が慣例上著名……中国の戦国時代に趙で活躍した藺相如と廉頗が残した故事で、刎頸の友ともいう:「史記」原文には「刎頸〈之〉交」とあり、刎頸とは即ち斬首のことで、「お互いに首を斬られても後悔しないような仲」という成語として用いられる
六壬神課=およそ2000年前の中国で成立した占術であり、時刻を元に天文と干支を組み合わせて占う/時刻から天文についての情報を取り出すときに式盤と呼ばれる簡易な器具を使用することがあり、つまり式占の一種で、六壬式や玄女式とも呼ばれている/月将とよぶ太陽の黄道上の位置の指標と時刻の十二支から天地盤と呼ぶ天文についての情報を取り出し、これと干支術を組み合わせて占う/式占で使用する式盤は天盤と呼ばれる円形の盤と地盤と呼ばれる方形の盤を組み合わせたもので、円形の天盤が回転する構造となっているが、天盤が円く地盤が方形なのは中国で生まれた天円地方の考えに則っているからである/式盤作成において、地盤には雷に撃たれた棗、天盤には楓にできるコブである楓人〈フウジン〉が正しい材料とされている/棗は地の事を知る樹木とされ、雷撃を受けることで天地を繫ぐ性質を持つとされるのと、楓は天の事を知る樹木とされ呪力を有しており、楓で作られた枷のみが蚩尤を拘束できた
三丹田=伝統的に上中下の三丹田説であり、眉間奥の上丹田、胸の中央にある中丹田、ヘソ下3寸〈骨度法〉にある下丹田を指す/上丹田は神を蔵し、中丹田は気を蔵し、下丹田は精を蔵す、とされて狭義には精と気と神は区別されるが、広義には全て同じ「気」である/精・気・神は「三宝」とも呼ばれて「性命之根本」であり、性はこころ、命はからだの意味で「心身の根本」の意味である
胡弓=広義として、擦弦楽器を総称する時に「胡弓」の語を用いることがあるが、一般的にはアジアの擦弦楽器を総称する時に使われ、定義は曖昧である/そのためもあり特に、中国の擦弦楽器である二胡、高胡などを俗に胡弓と呼ぶことすらあるが明らかに誤用/ここでは二胡について解説するにとどめる:中国の伝統的な擦弦楽器の一種で2本の弦の間に挟んだ弓で弾き、琴筒はニシキヘビの皮で覆われている/原型楽器は唐代に北方の異民族によって用いられた奚琴という楽器であるとされ、この頃は現在のように演奏するときに楽器を立てず、横に寝かせた状態で棒を用いて弦を擦り、音を出した/宋代に入り演奏時に立てて弾く形式が広まり、この頃には嵆琴と字を変えて呼ばれるようになった
ジャンク船=中国における船舶の様式のひとつで古くから用いられてきた木造帆船だが、物資・貨客の輸送業務においては19世紀以降蒸気船が普及したことにより衰退した/船体中央を支える構造材である竜骨が無く、船体が多数の梁と呼ばれる水密隔壁で区切られていることによって喫水の浅い海での航行に便利で耐波性に優れ、速度も同時代のキャラック船・キャラベル船・ガレオン船と比べ格段に優った/また横方向に多数の割り竹が挿入された帆によって、風上への切り上り性に優れ、一枚の帆全体を帆柱頂部から吊り下げることによって横風に対する安定性が同時代の竜骨帆船と比べ高く突風が近づいた時も素早く帆を下ろすことを可能にしている
蟠桃園=蟠桃会と言う中国神話に登場する天界の瑶池に住み最高位の女仙・瑶池金母〈西王母の道教における称号のひとつ〉の伝統的な聖誕祭〈陰暦の3月3日〉があり、この頃は陰の気が最も強くなる時期とされるが、蟠桃会の開催の前に瑶池金母が七仙女を派遣し、蟠桃を採取するのが蟠桃園である/天界に実るものとは別に、蟠桃自体は白い果肉と丸く平らな形が特徴的な桃の品種で、果肉は通常の桃よりもかなり固くて甘く、香りが強い/わずかなアーモンドの香りを持つ
クリームティー=英国等の喫茶習慣の一種で基本は紅茶とスコーンのセット、クロテッドクリームとジャムが添えられる/ジャムは通常イチゴジャムであるが、マーマレードや蜂蜜等が使用されることもある/多くの場合、クロテッドクリームはかなり多量につけて食べる
刑天=中国神話に登場する巨人で、「山海経」に拠れば、帝と中原から遠く離れた西南方に位置する常羊の山近くで神の座を懸けて争い、敗れて首級を常羊山に埋められるが、なおも両乳を目に臍を口に変え干と戚とを手にして闘志剥き出しの舞を続けたという
夸父=同じく巨人族で、成都載天という山に棲み、二匹の蛇を耳飾りにし二匹の蛇を手に持っていたという/ある話では夸父は太陽を追いかけて原野を走り、太陽が沈む谷まで追い詰めることが出来たが、喉が渇いていたので黄河と渭水の水をすべて飲み干したとされる
荊軻=司馬遷の「刺客列伝」に描かれた5人の一人で中国戦国時代末期の刺客/燕の太子丹の命を受けて秦に赴き、秦王政〈後の始皇帝〉を策略を用いて暗殺しようとするが、失敗して逆に返り討ちにされた/生還を期さない覚悟を詠んだ「風蕭々として易水寒し、壮士ひとたび去って復た還らず」という詩句は、史記の中で最も有名な場面のひとつとされる
物語に膨らみを持たせる為、実在の人物の名前をお借りしたが、本編に登場するキャラクターとはなんの関連性も無く、実在の人物像を貶めることは意図していない〈以下、人物名称についても同様とさせて頂く〉
広成子=「封神演義」に拠れば元始天尊の弟子で、崑崙十二大師のひとりにして九仙山・桃源洞の主/十絶陣の戦いで他の兄弟弟子と共に西岐を訪れ姜子牙たちに助力し、その際に金光聖母を倒し、金光陣を破っている
禹王=中国古代の伝説的な帝で、夏朝の創始者にして今日の陰陽道の禹歩の創設者/名は文命、諡号は禹、別称は大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓禹光吉は姒、姓・諱を合わせ姒文命ともいう/黄河の治水を成功させたという伝説上の人物/近年の研究では夏王朝創始は紀元前2071年とされる……この二人を合わせてキャラクターを創作した
氈笠=フェルト製もしくは毛皮製のつば広の帽子で、その原型は宋代の装束にあると思われ、中国では元の武官により着用されはじめたが元を打倒した明でも武官の装束として使用され続けた/清が中国全土を制圧した後、満州人の装束が選択されたことから中国では廃れる
乾闥婆城=ガンダルヴァは、インド神話においてインドラ〈帝釈天〉またはソーマに仕える半神半獣の奏楽神団で、大勢の神の居る宮殿の中で美しい音楽を奏でる事に責任を負っている/ガンダルヴァの外見は主に頭に八角の角を生やした赤く逞しい男性の上半身と、黄金の鳥の翼と下半身を持った姿で表されるが、その大半が女好きで肉欲が強く処女の守護神でもある/酒や肉を喰らわず、香りを栄養とする為に訪ね歩くため食香または尋香行とも呼ばれ、自身の体からも香気を発する/その身から冷たくて濃い香気を放つため、サンスクリットでは「変化が目まぐるしい」という意味で魔術師も「ガンダルヴァ」と呼ばれ、蜃気楼の事をガンダルヴァの居城に喩え「乾闥婆城」と呼ぶ
光禄勲=中国の官名で九卿のひとつ/秦において宮殿における脇の門の守衛を管轄した郎中令を起源とする/属官には、大夫、郎、謁者があり、前漢でも引き続き置かれて武帝の太初元年〈紀元前104年〉に、光禄勲と改称された/属官は秦代の3属官に加え、期門、羽林が加えられている
呂洞賓=中国の代表的な仙人である八仙の一人で、号は純陽子または純陽真人とも呼び、或いは単に呂祖とも呼ばれる/民間信仰の対象となり人々に敬愛されたことから、13世紀に元の武宗から「純陽演正警化孚佑帝君」の称号を贈られ、正式な神仙となった/以後の王朝からも神と公認され、道教での普遍的な称号は孚佑帝君と称される/身長八尺二寸〈古代の中国の度量衡は現在と若干違います〉、好んで華陽巾を被り黄色の襴衫を着て、黒い板をぶら下げて20歳になっても妻を娶ろうとはしなかった/俗世の儚さを悟って鍾離権に弟子入りを求めると十の試練を課されることとなるが、これを見事こなした呂洞賓は晴れて鍾離権の弟子となり、しばし修行した後、仙人となった
壁代=九寸八尺の白い綾を七枚横に縫い連ねて上部を袋縫いにして檜の棒を通し、紐で結わえるかS字フックの形をした蛭鉤で長押の釘に掛けて垂らしたもの/蝶鳥か朽木形と言われる朽ちた流木のような形の模様を型染めで表し、裏地は無地のままで表面を蛤の殻で瑩して光沢を出した
須彌山=古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖山で、バラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教にも共有されている/仏教が説いた須弥山の概念は、近世以前の東アジアの人々の世界観に大きな影響をあたえ、頂上にある忉利天と並び、詩や物語の題材となった/5世紀頃までに成立した「倶舎論」によれば、風輪の上に水輪、その上に金輪があるが、その最上層をなす金輪の最下面が大地の底に接する際となっており、これを金輪際という/なお、このことが俗に転じて物事の最初の最後までを表して金輪際と言うようになった
閻浮提=古代インドの世界観における人間が住む大陸で、仏教では須弥山の周囲にある4つの大陸〈四大洲〉のひとつ/四大洲のうち、南に位置する三角形の大陸をジャンブドヴィーパ〈閻浮提〉と呼び、玄奘以降の新訳では贍部洲と訳される
拉薩=古くからチベットの政治的、文化的中枢であった古都・ラサであり、吐蕃王朝やダライ・ラマ政権の時代には首都がおかれた/この古都ラサはチベット、モンゴル、満州などの諸民族から構成されるチベット仏教文化圏の中枢都市であった/チベット語でラは神もしくは仏、サは土地を意味し、「聖地」を意味する
布達拉宮=標高3700mに位置し、7世紀半ばにチベットを統一した吐蕃第33代のソンツェン・ガンポがマルポリの丘に築いた宮殿の遺跡をダライ・ラマ5世が増補、拡充するかたちで建設された/5世が自らの政権の権威確立を象徴するために着工したものと言われる/13階建て、基部からの総高117m、全長約400m、建築面積にして1万3000㎡という、単体としては世界でも最大級の建築物/チベット仏教及びチベット在来政権の中心であり、内部に数多くの壁画、霊塔、彫刻、塑像を持つチベット芸術の宝庫でもある/ポタラの名は観音菩薩の住むとされる補陀落のサンスクリット語名「ポータラカ」に由来する
宦官=去勢を施された官吏であり、古代中国に始まり朝鮮やベトナム等、おもに中国の勢力圏の東アジアに広まった/その原義は「神に仕える奴隷」であったが、時代が下るに連れて王の宮廟に仕える者を「宦官」と呼ぶようになる/刑罰として去勢〈宮刑・腐刑〉されたり、異民族の捕虜や献上奴隷が去勢された後、皇帝や後宮に仕えるようになったのが宦官の始まりである/時期や方法にもよるが、去勢されても性欲は残るので宦官と女官との不義がたびたび起こり、大量の張型が押収されるということが繰り返された/皇帝やその寵妃等の側近として重用され、権勢を誇る者も出て来るようになると、自主的に去勢して宦官を志願する事例も出てくるようになったが、このように自ら宦官となる行為を自宮あるいは浄身と呼ぶ/実際は現在のような医療技術がある訳もなく、去勢した後の傷口から細菌が入って3割近くが死んだとされる/しかし中国諸王朝において官僚は特権階級であったが、貴族ではない庶民階級の者が文武問わず正規の官僚として高位へ登る道は、隋以降に導入された極端に競争の激しい科挙制度〈進士採用試験〉を除くと事実上存在しないに等しく、自宮者は後を絶たなかったという
城隍廟=城隍神を祭祀する為の廟所であり、中国文化では城隍神は都市の守護神で、その前身は水庸神である/城壁と堀という意味での「城隍」という言葉は、後漢の班固の「西都賦序」に見られるのが最初といわれるが、祭祀についての記述はない/「城隍」は「水庸」〈堀と城〉とも称し、農業にまつわる8種の祭祀「八蜡」のひとつとして「礼記・郊特牲」に現れるのが起源という説が有力である
古衙署=本来は平遥古城の西端にある役所群を指す、牢獄や楼閣、警察から納税、裁判までを行っていた屋敷があった
九寺五監=九寺は、秦・漢から宋・元の頃まで、中国の官制において中央政府の事務執行機関として存在した九つの部局のことで、中国では政務を議す大臣である丞相〈漢では三公〉の下部にあって庶務を担当する大臣を九卿といい、それぞれの管掌する官庁の称として寺が使われたことに由来する/「寺」は現代日本語では仏教等の寺院の意味に限定して使われるが、原義は元来役所の意味であり、寺院の意味に使うようになったのが後である/同様に庶務を担当する機関として五監があり、九卿・九寺と並ぶ執務機関であったが、両方とも後の世の三省六部に取って代わられる
執金吾=元々は秦での武官職名の中尉/漢代の警護の武官として中郎令・衛尉・中尉があり、中郎令は皇帝の身辺警護と選抜された護衛官である郎官の統率を司り、衛尉は徴兵制度で集められた地方からの衛士からなる南軍を統率して宮城内の警備を司り、中尉は中央近辺で召集された材官・騎士の軍士からなる北軍を統率して京の巡察・警備を司った/中尉は前漢の武帝の太初元年〈紀元前104年〉に、執金吾と改称され秩禄は中二千石であった
東廠司礼監=成祖永楽帝は靖難の変によって甥である建文帝から政権を奪って北京に都を遷したが、かつて建文帝の側近である宦官たちを内通させて宮廷内の事情を探り出した経緯に鑑みて、永楽18年〈1420年〉に東安門の北に宦官を長とする東廠を設置した/司礼監は儀式の監督者で本来は皇帝の文書、印章、宮殿の礼儀などを担当した者を指す
驃騎将軍=前漢の武帝の元狩2年〈紀元前121年〉に霍去病が就任したことに始まり、元狩4年〈紀元前119年〉には大将軍と同等の秩禄とされた/「続漢書」百官志に拠れば、常に置かれるわけではなく反乱の征伐を掌り兵を指揮するとされ、将軍位としては大将軍に次ぎ車騎将軍、衛将軍の上位に当たる
鍾離権=姓を鍾離といい、名は権である/字は寂道、号は雲房先生、正陽真人とも呼ばれる/もとは漢に仕えており左諫議大夫になったが漢が滅んだ後は西晋に仕えて将軍になった/しかしある戦いで敗れ終南山に逃げ込むも、道に迷ってしまう/山中をさまよい歩いていると東華帝君に出逢い、長生真訣・赤符玉篆金科霊文・金丹火候青龍剣法を授かったという/その姿は頭に二つのあげまきを結い、太った腹を晒したものとして描かれ、暗八仙は芭蕉扇であり、死者の魂をよみがえらせることができるという
含玉=死者を弔うにあたり口に何かを含ませる慣習は新石器時代まで遡ることができるらしいが、蝉の形をした玉は特に「玉蝉」と呼ばれている/蝉は地中に潜り数年経ってから再び地上に戻り脱皮を行う、という生態から「復活」を象徴するといわれ、古代中国人は玉で蝉を作り、それを死者の口に入れることで復活を願った
蚩尤=中国神話に登場する神で、「路史」では姓は姜で炎帝神農氏の子孫であるとされる/獣身で銅の頭に鉄の額を持つといい、また四目六臂で人の身体に牛の頭と鳥の蹄を持つとか、頭に角があるなどといわれる/「述異記」によると石や鉄を食べたとされ、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強く、「書経」では性格は邪であり、その凶暴・貪欲さは梟にたとえられて「鴟義」と表現されたりしており、「反乱」というものをはじめて行った存在として挙げられている/古代中国の帝であった黄帝から王座を奪うという野望を持っており神農氏の世の末期〈帝楡罔の代〉に、乱を起こして兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風・雨・煙・霧などを巻き起こして黄帝と涿鹿の野で戦った〈涿鹿の戦い〉/濃霧を起こして視界を悪くしたり魑魅魍魎たちを駆使して黄帝の軍勢を苦しめたが、この際に方位を示して霧を突破したのが有名な指南車だった
型男=個性的で独自のスタイルや魅力を持つ男性を表し、また日本語の「美形」から派生したものだとも言われる/話し方やものごしが個性的で上品、センスの良い男性を指し、単に「帥哥〈イケメン〉」と呼ばれる男とは区別される
毽子=中国大陸およびその周辺地域〈朝鮮半島、台湾、ベトナムなど東南アジア〉で行われている羽根蹴りゲームの羽根で、ジェンズを蹴ることを踢毽〈ティージェン〉という/ジェンズの起源ははっきりしないが、おそらく蹴鞠と同じ起源をもつものと想像されている/中国ではジェンズが非常に古い歴史を持っているかのように説明されていることが多いが、古い時代の文献は解釈に問題がある/たとえば道宣の「続高僧伝」〈645年〉巻第16習禅に「沙門慧光、年立十二、反蹋蹀䤻、一連五百」とある「蹋蹀䤻」をジェンズのことと解釈すれば、北魏の時代〈5世紀〉からジェンズがあったことになるが、実際には「蹋蹀䤻」が何を意味しているのかは不明である/伝統的には穴あき銅銭に革か布をまきつけて鶏の羽根をさしたもので、羽根は赤や緑の鮮かな色をつけられていることが多く、バドミントンのシャトルよりも頑丈で重い
丢沙包=所謂お手玉だが、投げて相手に打つけるといった遊び方の方が多く、決められたフィールド内で相手に丢沙包を投げ、当たればアウトというのが基本ルール/丢沙包自体は細かい砂、豆、または米を布で縫い付けた袋に密閉したもので5~10 cmぐらい
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私、漢字が苦手なもので誤字脱字報告もありましたらお願いします
別口でエッセイも載せましたので、ご興味のある方は一度ひやかしてみてください
短めですのでスマホで読むには最適かと……是非、通勤・通学のお供にどうぞ、一応R15です
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