55.妖しきノスフェラトウ、血の盟約は深紅に染まって……
金色の瞳は女豹と呼ぶにはあまりにも神々しく、その容貌は女神と呼ぶほど尊くはなく逆に禍々しい。そして、その唇は吸血鬼と呼ぶには魅惑的過ぎた。
身じろぎも出来ぬまま俺の頭に浮かんだのは、いつかネメシスに聞いた異世界のカクテル……ブラッディ・マリーって真っ赤な酒だったが、何故か心底呑んでみてえって思えるほど咽喉が渇いていた。
思えばこのとき既に、用意周到なカミーラの術中に填っていたのかもしれねえ。
「待ち焦がれたぞ……此方には未来予知と予言の能力があり、自分自身の行く末も分かって仕舞う」
「だが其れ故に分かり切ったレールの上を、ただなぞって行く生涯だった……御役目と思えば我慢も出来たが、其れも長きに渡ればちょっと違った考え方もつのると言うもの」
カミーラが言った、56億7000万年の言葉が頭の中でリフレインしていた。途方もない話には、何処か現実感が無い。
無い筈なんだが……ベルゼブブの悪魔の囁きが、ぐっと信憑性を帯びてくる。
「変節漢と誹られようとも、レールを外れてみたいと思う程になった……其れを可能にするのがお前だ、全ての理屈をくつがえす特異点にして、運命の軛を喰い破るアウトサイダー」
話しているのは古めかしい時代のアルメリア大陸共用語で、何処かアクセントに訛りがある。
こちらをじっと凝視するモニターの中のカミーラに、一見澄んで見えるが、その金の瞳に揺れる狂気を見た気がした。モニター画像の筈なのに、その視線に射貫かれて金縛りになった気がしたのは、果たして俺の思い込みだっただろうか?
それとも妖艶な吸血姫……その血塗られたような紅い唇から漏れる言葉はすべからく、絡め捕られた犠牲者を惑わす為の狂人の振りをした甘言なのだろうか?
初めてまみえた、“夜の眷属”を統べるカミーラと言う存在に、まるで魅せられたが如く目が釘付けになっていた。
かろうじて踏み止まれたのは、常に優先する俺の行動原理、俺の人生を滅茶苦茶にしてくれた悪どいエロ豚共への完膚無きまでの復讐と言う、金科玉条があるからだ。
「ひとつのビジョンが見えた……56億7000万年の後、この世に君臨するは魔族サイドが魔神王、百の召喚術と千の武技、万の神聖術と無限の黒魔術を操る古今東西無双の終焉最強神だ」
「……魔神王の名をソランと言う」
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仕入れた木箱ごと、ダンパー付きの時間停滞冷蔵ストッカーに放り込んであったスパークリング・ワインを1本抜き取って、アザレアさんの病室を見舞った。艦は作戦行動中だが、暫く抜けるとネメシスに後を託してきた。
水中用のホリゾント・ドローンや転移型のフローティング・センサーを大量に射出して警戒しているが、こちらから攻勢に討って出る訳にもいかず、様子見だ。
艦内設備は全てがコンパクトにレイアウトされているが、無補給航海に耐えられるよう各種サポートは充実している。運動不足になりがちな艦内生活を補うような多機能エクササイズ・マシーンを完備したトレーニングルームや、なんならリラクゼーションを兼ねたエステ・サロンまである。全自動外科手術室を持つ緊急集中治療室は、日用品ストッカーの奥に在った。
「快気祝いって訳でもねえが、酒はご法度かな?」
いつものようにお道化て見せたくても、この時点で俺にはもう笑うこと自体が不可能になっていた。
ありとあらゆる魔法的精神攻撃を無効化する鉄壁のカウンター・マインドマジック、イコール究極のサイコアタック・キャンセラーのスキルと引き換えに、俺が笑うことはこの先未来永劫、永遠に無くなったからだ。
だが大体、ビヨンド教官に言わせると俺はいつも顰めっ面だったらしいから、大した違いは無いんじゃねえかと思いたい……まぁ、希望的観測だろうが。
「面と向かって顔を合わせるのも恥じ入るほど、お見苦しいところをお見せしました」
矢張りこの人は心が強い。詫びの言葉の割りには、しっかりと俺を見つめ返す表情に萎れた曇りは一片も無い。
低反発抗菌マットレスの無段階角度調整治療ベッドは、ネメシスが言ってメディカル・センターの標準装備にしたものだ。メシアーズに任せておくと、何処も彼処も機能一点張りになって仕舞う。
即効性の人工抗体と栄養剤、強化ビタミン剤のスペシャルカクテル輸液の点滴はもう外れていた。混濁したままの彼女が体液喪失や、循環器系低下に陥らない為だったが、過保護って訳じゃねえがちょっと遣り過ぎだったかもしれねえ。
凛と居住まいを正した彼女の手許には、食べ終わった治療食のトレーがあり、ベッドのコントロール・イクイップメントが片付け始めるところだった。
「メディカルのペースト食じゃ味気ねえだろう、後で海鮮風のお粥でも持ってくるよ、確か乾燥アワビの好いのがあった」
「いえ、お気遣いなく、もう平常に復帰出来ます」
「……心は折れていません、ただ」
そう言って色艶の戻った髪を手櫛で梳かしながら、少し言い淀んだが、一度も目を伏せることはなかった。
決して痩せ我慢で強がってる訳じゃない……その芯の強さは本物に思えた。
アザレアさんの強さが何処から来るのか……人生の辛酸を舐めたお陰なのか、元からなのか、この人の胆力は生半可じゃない。
何故なんだろう、不思議な人だ。
「アンダーソン様のお側に居る為には、わたくしはもっと強くあらねばならないと思いました」
「何か……強くなる方法があるでしょうか?」
この人に前向きな願いがあるのなら、俺はそれに報いなければならない責任……いや、違うな、俺が叶えたいと思っている。
所詮この世はゲスな女と間抜けな男、裏切られる者と裏切る畜生で成り立っていると決めつけてきた俺がだ。
「手っ取り早いのはパワード・スーツとか、身体強化魔術とかだろうが……まぁ、一緒に考えていこう、アザレアさんがアザレアさんである為に、俺は協力を惜しまない」
「安直に力を手に入れるのが望みではないのです、ただこの先アンダーソン様の道を共に歩もうと思うと、わたくしはあまりにも弱過ぎる……そこに思い至りました」
「ですがなんの精進も無しに手に入れるのは、ちょっと違うとも思うのです」
本当に律儀だな、この人は……幾らでもズル出来るのに、態々正攻法を選ぼうとする。これで俺の金玉を触ろうとしたりしなけりゃ、もっと好いんだが。
「変態で最低でした」
「洗脳というよりは暗示のようなものかもしれませんが、決して無理矢理レイプされた訳ではなく、自ら進んで犯されました」
「わたくしの犯してきた背徳行為の数々は、色気違い、淫乱と一口で語れるほど簡単なものではないのです」
そう言って語り出すアザレアさんの瞳には、洗いざらい告白しようと言う強い意志が読み取れた。
「修道女になろうか悩んだ時期がありました……でも、スケベで愚かなわたくしの頭の中はいつもいやらしいことで一杯です、貪るような乱交輪姦の快楽が忘れられない変態女が女神様の膝元に傅く訳にはまいりません」
「ハーレム専属の避妊の呪い師のお陰で妊娠だけは免れましたが、そんなことで蹂躙される快楽に溺れ捲った罪が軽くなるような……そんな生易しい過ちではありませんでした」
オートマトンになったメディカルルームの検査キットが、自動自走でベッドの傍らに来ると酸素濃度などの基礎バイタルを計る他に、何種類かの検体採取を開始して、最後に音波や素粒子磁力線の透過撮影をするのに多腕マニュピュレーターで、アザレアさんの療養着を脱がしに掛かった。席を外そうかと言ったら、もうそのような未通女でもありませんからと、やんわり同席を容認された。
変わらず毅然とはしていたが、その時の笑顔だけ心なしか寂しげだった。裸体にセンサー端末を張り付けたまま、語り続けた。
その全てを諦めた後のような微笑みが、錯乱したアザレアさんを発見したときの非道く饐えた生臭い匂いを思い起こさせた。その悲しみを伴った強烈な匂いが記憶にあって、何故か胸が締め付けられる。
匂いも記憶に残るのだと、思い知った瞬間だった。
「自分がこんな、自ら望んで痴悦に堕ちるような、変態セックス好きな女とは思いませんでした」
魅了・催淫に取り憑かれてとは言え、行き着くところまで行ってしまった肉交尾の罪を心から嫌悪しているのだと、悔いているのだと、そしてそのことを俺だけには知っていて欲しいのだと、アザレアさんは繰り返し訴えた。
「ハーレムの中では、メイド達を中心に幾つかのグループセックスのサークルが出来ていました、勇者が遠征で留守にするときに互いの肉体を貪って楽しむのです……つまり、四六時中本気汁を垂れ流して罪深い行為を繰り返していたのです」
「何本ものペニスを銜え込んで、ヨガり狂いました」
「犯した過ちは一度や二度ではなく、相手も一人や二人ではないんです、まるで悪魔崇拝のサバトのように、男も女も見境無く一度に何人も相手にしました、インモラルであればあるほど快感は増していくのです、大勢で見せ合いながら股間を濡らす陶酔を今でも夢に見ます……歴史に名は残さずともれっきとした大罪人、死して尚地獄の業火に灼かれることでしょう」
「もっと長く、もっと激しく、もっと深い間断無い絶頂を望んで何処までも堕ちて行きました、本当に気が狂いそうな快感が押し寄せて理性は吹き飛んで仕舞うのです……一体あれから何年が過ぎたでしょうか、わたくしの肉体に注がれ、受け入れ続けたザーメンや体液がまだ残っているような気がして、今でも死にたくなるのです」
「正気を取り戻した後、おかしくなっていました……婆やに引き取られてからも半分は鬱状態でした、貴方様と言葉を交わすようになってから初めて再生の努力を、本気で考えるようになったのです」
このような惨めな告白話は既にご存知かもしれないし、繰り返せば諄い話かもしれない、また聴いていて気持ちの良い話でもないが、もう一度わたくしの口から直接、お伝えして措きたかったとアザレアさんは話を締め括った。
カミーラとやらが用意した3番目の罠、“飢餓”にまんまと引っ掛かり、精神力に秀でた俺とネメシス以外は過去の罪に苛まれる地獄を見た……錯乱したアザレアさんは自らの股間に両手を突っ込んで、無茶な手淫に没頭し続けた。
裂傷や擦過傷、炎症まで起こしていたアザレアさんの女性自身は、その場で俺が治癒したが、大事を取って艦内の乗務員区画の緊急治療施設で安静に養生して貰った。
「仕込まれてしまった身体は今ですら、アンダーソン様とのセックスに溺れたいと言う疎ましい願望に囚われています……この瞬間も突き挿されたくて、太くて逞しいものでズコズコ掻き回されたくて疼いているのです」
「スケベ汁にまみれて、アンダーソン様の熱くてドロドロした濃厚ザーメンを奥に出されたくて、堪らないのですっ!」
「嫌われると分かっていても、普通じゃない変態なセックスを望んでしまうのです!」
「時々襲って来る淫らな性衝動が脳を蕩かすとき、下半身に直結された妄想がありもしない男根の感触を思い起こさせるのです」
「……ですが、強くなると言う目的が出来たこれからは、また少し違うかもしれません、情動が和らぐような気がするのです」
正直者だな、一点の曇りもなく自分の恥部を告白するこの人に俺は正面から向き合うと決めた筈だった。
気付いているのか、アザレアさん、普通の婦女子は悲壮感漂う顔付きで、そんな露骨なことを口にしない。
しかし相変わらず俺の考えてることに敏感に反応する鋭さは、驚異的だな……それも恋するが故なんだろうか?
ちょっとだけ、面映ゆい。
俺はただの復讐に狂う無頼漢、世の道理と言う理不尽に抗いここまで来た。それ以上でもなければそれ以下でもねえ……皆んなの想いに応えられる筈もねえと思ってはいたが、例え薄汚れた過去があったとしても、今のアザレアさんは大切にしたいと思える程に俺のことを慕って呉れている。
娼館で抱くお姐さんや小母さんとは訳が違う。
例え、魅了・催淫に縛られることが無かったとしても、浅ましい乱交の経験を経て来なかったとしても、きっと将来の何処かで芽生える淫猥な好き心は、波風無い結婚生活でも家庭や子供を顧みずに不倫や愛人関係に奔って身を持ち崩し、退廃的な人生に不慮の最期を迎えたかもしれない……そう、アザレアさんは自らを卑下して、断じた。
果たしてそうだろうか?
下種勇者に見初められることが無ければ、自分達の中の背徳に興奮する嗜癖に気付くことは無かったんじゃないのか?
世の尻軽女達を呪い、一人でも多くの肉欲に支配される愚かな女を不幸のどん底に叩き落す為に総てを掛けた召喚勇者……その毒牙に掛かった哀れな犠牲者が皆んな、軒並み阿婆擦れビッチのどうしようもない糞売女だったとは思えねえ。
例えば幾ら良妻賢母の良識ある女でも、信仰に生きると誓い、肉の欲望を封印した筈の修道女でさえ、女と名がつけば邪淫が一欠片も無いなんてことは在り得ねえんじゃねえのか?
それをして罪に問うのは酷ってもんじゃねえのか?
勇者の下種ハーレムの痛ましい犠牲者は皆自業自得、十把一絡に一律同情の余地は一片もねえのか?
例え邪まな想いがあったとしても、魅了・催淫の状態異常さえ無ければ、女として最底辺と迄は揶揄されなかった筈だ。
勇者の眼に留まりさえしなければ、生涯を良き妻、良き母親として過ごせた筈の犠牲者も居たんじゃねえのか?
それには、なんの救済措置も無いのか?
そうじゃねえだろう、と俺なんかでも思う。
多くの女が亭主や恋人、婚約者、許婚を捨てて、爛れた愛欲生活に溺れた。魅了が解けて正気に戻ってみりゃあ、筆舌に尽くし難い遣り方で伴侶を裏切り、仕出かして仕舞った罪に途方に暮れる女ばかりが残ったと聴く……寧ろ、根っからの色狂いは少なかった筈だ。
だがその色欲地獄の坩堝での体験は強烈で、もう普通の生活に戻るのは難しいとさえ言われている。手酷く分かれた男達と元鞘に収まれるかは、本人達の努力次第だろう。
俺には到底真似出来ねえが、自分の愛妻や彼女達が嬉々として不特定多数と交わるさまを見せ付けられた男達に、許せる度量があることを唯々祈るばかりだ。
だが、それもどうでもいい。俺には俺の復讐がある。
俺には決して許すことは出来ないだろうから………
負の連鎖を望んだ下種勇者は、刺客と化したアザレアさんの腹違いの実の妹の手に依って、爆殺と言う無残な死に様を晒した。
お蔭で俺は勇者のギフトに打ち勝つ為に、血の滲む努力で身に付けた数々の人外の力が、殆ど意味の無いものになっちまった。
ただ、女への復讐を生き甲斐に東奔西走する俺は、勇者の思惑通りに負の連鎖を引き継いでる訳じゃねえと思いたい。
ニホンと言う国で女に裏切られたトーキョウ・トキオは、異世界召喚されたシェスタで女と言う女を不幸にするプロジェクトを始めた。
同情に価するかは分からねえし、理解もしたくねえ……だが、俺には奴の私怨に巻き込まれた犠牲者が、全く無関係の縁もゆかりもねえ第三者だってえのが気に入らなかった。
“勇者憎し”が最初に有った。
だが、奴は手の届かないところに行っちまった。
稀代のサイコ・パス勇者が何を考えていたのかを知ったのは、奴の残留思念からだ。残留思念に詫びられても、何も心は動かなかった。
俺の復讐対象は永遠に失われた。
いや、まだドロシーが残されている……魅了・催淫の呪縛から解放された今、あいつは俺のことをどう思っているんだろうか?
例え泣いて許しを請うても、苦悶に歪む長い長い断末魔を嘲笑うのは決定事項なんだがな……あいつの涙に絆されるぐらいなら、そしてそれが人として淋しいと思えるぐらいなら、俺は最初から復讐に狂ったりなどしない。
額に汗して働くのは決して嫌いじゃなかった。
生まれた村で、一生グズで鈍間な木樵を続けている筈だった。
飼い馴らされた羊のままで好かった。
そうはさせてくれなかった運命ってやつを呪っても、今更どうにもならねえ。勇者亡き今となっては、少なくとも世の中の誰とも利害は一致しない。
復讐心に駆られて奈落へ一直線の生き方を選んだせいで、無自覚なまでに己れの命に未練が無い。だが俺に付き従った奴等を道連れにしたくはなかった……最近はそう思えるようになった。
怒り以外の感情を捨てた俺にとって、喜びも悲しみも滑稽で無駄なものだと思っていたが、誰かを守りたいなんて考えること自体どうかしている。
「女が、色欲の煩悩に囚われ易い者と、上手に付き合っていける者のふたつに分けられるのだとしたら、わたくしは間違いなく色と欲にまみれた駄目々々な女の方でしょう」
だからこそ強くなりたいのだと、己れを変えたいのだと、アザレアさんは真剣に願った。
最早、貴族の御令嬢と言う出自とは大きく掛け離れた願いだった。
「少しでも前を向いていたいのです……幸せになる権利なんて、もうわたくしには毛程も残っておりません、それでも俯かずに顔を上げていたいのです」
そう言って微笑むアザレアさんの笑顔には、不安と一抹の寂しさと怯えと、そしてそれを上回る覚悟が複雑に綯い交ぜになっていた。
「この時代、貴族の令嬢は政略結婚の道具でしかない、己れの才覚で我が道を切り開くのは難しかろう、また大方がそのようなものだと自らの在り方を疑ってみることもない」
「アザレアも勇者の毒牙に掛かりさえしなければ、普通に貴族同士の婚姻をし、奥方として下位貴族の社交に努めておったじゃろうて」
一回犬に噛まれたのは目を瞑れても、痴情に溺れ続けたのはアザレアさんの不幸だった。
……それより最近の寄生先だった俺から一言いわせて貰えばだな、艦内ルールとして食事の用意はセルフだから、トレーの代わりに黒漆の折敷を手に完全鮮度維持の食品ケースから自分の分を取り出すのはいいとして、箸を口に咥えたままなのはやめろ、ネメシス!
「多くが男性優位社会のイデオロギーの中にあって、過去に女系家長制度の文明が無かった訳ではないが、まぁ、現実的には困難であろう……男女機会均等の思想が台頭するのは、随分と先になる」
「女が自由に生きようと思えば、世の潮流とは真っ向相反する生き方を選ぶのは必定……あれには、その強さもある」
俺が用意した今日の賄いは、鯛の松笠造りと鯛飯、吸い物椀は鯛の蕪蒸しと水菜、海老真薯の炊き合わせと鯛尽くしだった。
侵攻作戦中の厳戒態勢で、造り置き用スチーム保温フードケースの取り置きとは言え、こんだけの献立を手際よく準備出来る俺の段取りと腕前を褒めて遣りてえ。
煮え花、炊き立て、造り立てを出すのが懐石料理の真髄とは言え、ほぼ遜色ねえ。
「世の中の価値観に個人が迎合する必要など、更々無いが……お前とかかわってしまった以上、あの娘にも腹を括った覚悟があった筈なのだ、だがカミーラの攻撃が内に抱えた醜い欲望……本人も隠しておきたかった肉欲への想い、その実態を暴き出して仕舞った」
「アザレアが初めて力への渇望を願い出たのなら、吾も何某か協力を惜しまん……吾は、あの娘が気に入っておる」
狭い艦内だから仕舞えと言ったら、自由に出し入れ出来る天使のように見事で、そして邪魔な羽を背中に格納して腰掛けるネメシス相手に、相伴してるのか給仕してるのか分からねえ状態で相対していた。
飯を喰いながら、カミーラの次の攻撃……4番目の試練は何かと言う予想を訊いてみたが、いつの間にかアザレアさんを今後どう扱えばいいのかって、人生相談になっていた。
最速で残りの罠を打ち破りたいのは山々だったが、それでもなお思った以上に躓いた現状にイラついた俺は、ほんの少しばかり慎重になっていたからだ。
脱線した話かもしれねえが、アザレアさんの真っ直ぐな想いに応えたいってのは、俺の残り少ない僅かな人間性の部分で琴線が引っ掛かるが故だ。
「吾とカミーラの関係はちょっと一口では語れんと言うか……」
話はネメシスと、嘗ての命令系統での上官、今まさに対峙したカミーラとの経緯になった。先程のモニター上での邂逅が気になって、問い質したからだ。
「カミーラだけは、吾の本質……前世の記憶を持った異世界からの転生者が真の正体じゃと見抜いておった、吾が己れの傘下から去るのを黙って見逃がしたが、今も昔も何を考えておるのか良く分からん奴じゃ、おそらくセルダンにも吾のこと、報告しておらんじゃろう」
「同期の中でも、カミーラと吾はお互いを理解していたと言うか、それ故に深く踏み込まず、尊重し合っていたと言うか……微妙な関係じゃった」
カミーラは古い時代の言葉に郷愁を覚える質らしい。セルダンでさえ滅びた母国のヒュペリオン語を捨てざるを得なかった長き星霜に少しでも抗っていたいらしいのだと、ネメシスは擁護した。
「フッ、だからこその今は廃れたアルメリア大陸共用語じゃ……おかしな奴じゃろ?」
「還りたいと願って200万年を彷徨い、叶わぬまま未だ望郷の念覚めやらず、吾乍ら業の深い魂じゃと思うておる」
土瓶で熱い出汁を飯椀に注ぎながら、ネメシスは珍しく己れの昔話を語り出した。前世の……こことは違う世界で生きた記憶だ。
「この漁師風の鯛茶漬けは絶品だのお、胡麻味噌と卵の黄身の風味が、なんとも言えぬ旨味を出しておるわ!」
喋りながら掻き込むので飯粒が跳んでくるぜ、ネメシス……黙ってりゃ、悪魔か天使かって程、女神様も吃驚で裸足で逃げ出す程の、人間離れした絶世の美女だってえのによっ!
何十万年か振りに肉体を得たネメシスは、長い寄生時代に味わえなかったリアル味覚の食事と言う快楽を取り戻さんと、殊更食べ物へのこだわりがあるようだった。
大体が、こいつは食事の経口摂取に限らず、必要なエネルギーを補充する手段をいくつか持っている。なのに、三度三度の食事を人並み以上にお代わりする大食漢振りを発揮する。あまり大声じゃ言えねえが、どうやらトイレで排泄する感触さえ楽しみで仕方ねえようだ。
シーサペントのトイレは完全防音だが、出てきたこいつの顔が上気してたりするのは完全に意味不明だ。
あらぬ連想をするからやめてくれって言っても、我関せずだった。
「高校生の頃だろうか、親が事業に失敗しての、外食産業のチェーン店だったが、外資系の大手が攻勢を掛けてきたアオリを喰らった」
次の災厄とやらに備えて厳戒態勢を取りつつも、交替で食事休憩を取ることにした。第二艦橋のモニタリングルームには、既に現場復帰したビヨンド教官と、艦の制御中枢が当直している。シンディも一緒に詰めている。俺やネメシスは不眠不休、給水さえしなくても戦闘を続行出来るが、シンディ姫達はそう言う訳にもいかねえから、厳戒態勢下用の短サイクルで食事や睡眠を取らせた。
……今は俺とネメシスがミール・コーナーで相談事をしながら、飯を喰ってるって訳だ。
シンディは精神的なケアは別にして、思ったより軽傷だった肉体損傷は完治している。自室で休ませても良かったが、独りにしておくのはよくないだろうと、ビヨンド教官に面倒を任せた。
少し一緒に暮らして分かったが、馬鹿正直で鈍臭く、不器用なところは昔の俺に似ているかもしれない。それ故に、周囲の悪意に翻弄され貧乏籤を引くタイプだ。“勇者、絶対”のプロパガンダに塗りたくられたシェスタ王朝の犠牲者の一人、と言えなくもねえ。
一応マナーや所作の淑女教育は為されていたが、社会情勢や語学、王朝史、経済学、王室典礼などの座学知識は通り一辺倒のものだった……つまり王家の一員としては爪弾きだ。
事実、元首一族と侯爵位以上の令息や令嬢、大司法官、行政府宰相職等の重鎮の嫡男達、つまり国の要人の子息が幼稚舎から通う、自動的に優位な婚約を結べるスカラシップ制度のあるシェスタの王立貴族院カレッジに、入学を果たしてはいない。
判官贔屓かもしれねえが、雛を守る親鳥のような保護意欲を搔き立てられるって話をネメシスにして、実験モルモットみたいに使い捨てにしねえでくれって頼んだら、何故か目を細めて生温かく笑われた。
元居た世界に還る方法を求めて、召喚能力を有するシンディを攫ってきたのはネメシスだ。
「都内のお嬢様学校に在学していたが、学費が払えんで退学せざる負えんかった……家族はバラバラ、当然、家政婦なども解雇してしまったし、屋敷も抵当に入り、夜逃げ同然に辿り着いたのはド田舎のバラック同様の賃貸家屋だ」
「トタンの波板を打ち付けただけのあばら家での、郊外なのに水道はカルキ臭かった」
「夜学で大学検定をパスして、どうにか地方の三流女子短大に潜り込んだ、風俗紛いの店で学費を稼いで……工面で遣り繰りし、頭金だけ溜めて購入したサスのへたった軽自動車で田舎道を通学したのも懐かしい思い出じゃ」
「エアコンが壊れたボロい中古車両なのに、結構長く乗った」
「ガソリン代が捻出できんでのお、友達と近くの団地の駐車場に忍び込んでポリタンクでかっぱらってきたりしておった」
「普通の女子大生は、そんなことするのか?」
「後にも先にも、吾ぐらいのもんじゃろお……外から閉じた給油口を開けてゴムホースでガソリンを抜き取るのには、ちょっとしたコツがあっての」
「それが、なんで俺達の世界に来たんだ、召喚か?」
「知る筈もなかろ……平凡なエレベーター・ガールだったのに悪友のカナコがシャブ中になっての、華僑系マフィアと南米の犯罪ゲリラの抗争に巻き込まれて可惜若い命を散らした、パルコじゃパルコ、知っとるかっ?」
お前、香の物を摘んだ箸で人を指すのはやめろよ。
止まらなくなりそうな、従って途轍もなく長くなりそうな話を、俺は途中で遮った。
「思い出話はまたの機会でいいか?」
「……七つの厄災、次の予想はつくか?」
俺は、当面の危機が回避出来る、或いはより少ないダメージで切り抜けられる為の情報が欲しかった。
カミーラの試練とやらは、俺達の予想を超えて過酷なものだった。
偶々かもしれねえが、アザレアさんやシンディを巻き込んで、取り返しの付かないことになりたくはねえ。もっと二人を強化しなくちゃならねえが、今この場では無理だ。
「次はおそらく、“殉教”だ……」
「“殉教”? ……何故だ、何か根拠があるのか?」
「オールドフィールド公国正教の開祖が残したとされる聖典に、人類の原初的魔術の手引きとなった異端の書、“黄金の夜明け”と言う幻の原典があった……後世には手写本しか残らなかったが」
「たかだかオールドフィールドの布教は4000年、吾等の方が遥かに古い、しかれどその聖典、魔術指南書たる“黄金の夜明け”の第七章“堕天の黒荊十字の書”には、女神に反逆するゴグマゴグとの争いが描かれ、終末の黙示録が予言と言う形で綴られている」
「七堕天使の吹く喇叭が、七つの厄災をこの世に連れてくるという諷喩と言うかアレゴリーでの……一番目の喇叭は“封印”を解き、異界にありし魑魅魍魎の諸々を地上に解き放つ、とされる」
「後世の宗教学者が様々に諸説の解釈をしたが、未だに何を示唆するのか本当のところは分からぬ」
蛸と夏野菜のマリネをつつきながら、公国正教の外典について語るネメシスは、いつになく……いや、おそらくいつも以上に真剣な眼差しだった。神の如き叡智が理性を失うことはこれっぱかりも無いと信じちゃいるが、神経の図太いネメシスには珍しく目が座っている。
「二番目の喇叭は、あらゆる荒ぶるものを“闘争”の渦へと巻き込んで、世界中の海の三分の一が血になる」
「三番目の喇叭が響き渡ると、天からニガヨモギと言う“飢餓”の元が降り注ぎ、地上には罪の意識にのた打ち回る亡者が溢れると言う」
聞いたことの無い話だった。
「そして四番目の喇叭は、“殉教”と言う生贄を求めて死神の大鎌が地上を席巻する」
“殉教”と名付けられた厄災がどう言う罠なのかまでは予想出来ないとしつつ、神秘学にこだわるカミーラがオールドフィールドの外典に傾倒していったのは、ある意味分かるような気がすると言った。
「セルダンの率いた陣営は魔素応用学の研究者が少なかったが、魔族の生命ツリーの出発点となった使役獣に使われた魔素吸収素体の確保には成功していた……専門外だから為し得た独自の成果は、別働隊“夜の眷属”チームに埋め込まれる魔核に結実している」
「カミーラ配下のワルキューレが操る魔術の数々は、それ故特異にして至極強力なものばかりだ、セルダンですらその進化は予測していなかったと思う」
俺は考え事で頭が一杯だったが、膳を片付け、折敷に漆椀や瀬戸物を模した器を重ねて自動食洗器に突っ込み、ネメシスが喰い散らかしたテーブルに軽くダスターを掛けた。
流石に和食器の数々は入手が難しく、ネメシスのイメージをもとにメシアーズが成形したものだ。
「ところでの……吾の前世、異世界での両親は信心深い良民じゃなかったが、おそらく浄土真宗だかが宗旨だったと思う、だから元居た世界の最大宗教派閥とされたキリスト教と言う宗派のバイブルなぞ中身は知らんかったが、新訳聖書と言う聖典にある“ヨハネの黙示録”に似たような七つの封印と七つの喇叭に関する啓示が記されておる……不思議な話だと思わぬか?」
そう投げ掛けて、隣り合う喫茶コーナーで水出し玉露の甘みを味わいながら、このちょっと意地悪そうな偽物天使は、じっと俺の眼を覗き込んだ。
緑茶も途中の寄港地で買い付けたものだ。
「カミーラの目的はなんだ、俺を待っていたようなことを言ってたが、なら何故すんなり会おうとしねえ?」
「こちらの力量を見せろってことか?」
俺は煙草が吸いたくてイライラしていたが、我慢するのにコーナーに設置されたスナックの販売機と言うかディスペンサーからチョコレートバーを取り出して包装紙を毟っていた。
ネメシスが面白半分にメシアーズにオーダーしたものだが、チューイングガムやシリアルバー、キャンディー、キャラメルの製造法から自販機擬きのベンダーの構造設計やら広範な情報が必要な筈なのにネメシスは苦も無く実現して見せた。矢張りこいつの知識量は眼を剥くものがある……俺が醤油の醸造ひとつで四苦八苦してたのは一体何だったんだって思える。
訊いたらネメシスは、永久記憶とやらの能力持ちだそうだ。
***************************
「チャンスかもしれん……」
“ブレイク・アウト”と名付けた作戦会議室で、今後のコンセンサスを取る為に全員で自己肯定をアピールするブレーンストーミングの最中だった。望むと望まぬとにかかわらず、俺の復讐の道行きに道連れになったメンバーだったが、命を繋ぎ止める為には戦列に参加すべきか否かを問うていた。
突然のけたたましいシーサペント号の制御中枢の警告と共に、天井から無数の映像モニターと付属のデジタル計器が降りて来る。
確認出来たのは海中から浮き上がってくる一人の女だった。
ニンフのような白皙の美面、水中だからそう見えるのかは分からないが、溶けるように揺蕩う深緑色の美しい髪をしていた。
だが、その大きさが尋常じゃねえ。
「巨大化している?」
ビヨンド教官が戦慄するまでもなく、その女は見る見る内に身の丈実測100メートルを超え、200メートルを超え、まだ大きくなり続けている。モニターの俯瞰が追いつかない程だ。
「これが四つ目の試練、“殉教”か?」
「……間違いない」
ものに動じない筈のネメシスが、炯々と瞳を輝かせスクリーンに見入っていた。
「何がチャンスなんだ?」
異変の相手方を確認した途端に、ネメシスが呟いたのを俺は聴き洩らしちゃいねえ。
「彼女の名前はペナルティ・イスカ、贖罪と断罪を司どる魔女だ」
「“夜の眷属”に所属したワルキューレ、嘗ての轡を並べし吾が同僚じゃったが、魔界に渡り狂化を繰り返すうちに自我を失った」
赤黒い鱗か結晶のようでもあり、甲殻類のチキン質外骨格を思わせるようにも見える部分的な外皮が、胸、腹、肩、脛、前腕部、頭頂周りを覆って、さながら軽鎧かプロテクターのようだった。
「巨大化はイスカの能力の一端に過ぎぬが、周りのエーテル、素体や物質、他人の魂魄、なんでも見境なく取り込んで己れの肉体と化す悪食の化け物染みた能力だ……理論上は何処までも無限に大きくなることが出来る」
「金剛力も同じ理屈だ、あらゆるエネルギーを取り込み、或いは質量を分解してでもパワーの源を得る、こちらも上限設定は無い」
「百万人力だろうが、一千億人力だろうが、思いのままだ」
なんだそれ、どう言う反則だよ!
深海の水圧を物ともせず、巨大な身体を苦も無く操って、剛性を持った抜き手で進んで来る姿はまるで、怪物級の鱏か鮫を思わせた。
両手には、なんだろう……ハルパーと言うよりは、深紅の月鎌に似た湾曲した刃の短鎌をそれぞれに携えている。
刃鎌の二挺遣いなんて珍しい武器だ。
「イスカの“クリムゾン・サイズ”は因縁を絶つ……この世の生命あるものの現生との繋がりを刈り取る」
「およそ“殺す”と言うことに懸けて、イスカの右に出る者は無い」
そして言われなければ気付かなかった彼女の額に蚯蚓腫れか肉芽のように浮き出る象形文字らしきものが、遥か昔のヒュペリオン公用語で“有罪”の意味だと指し示した。
「チャンスだ、吾の知る限り戦闘力だけならイスカはワルキューレの中でも5本の指に入る……“ローバー”のスキルは今、存在自体を奪えるまでにランクアップしている筈だ、奪った存在を他者の実体に丸ごと上書きし、合成し、定着させるのもまた可能な筈」
「賭けの要素はあるが、今のイスカに明確な自我は無い、然すればアザレアの意思が勝る筈だ!」
迫りくる“殉教”の災厄を目の前に、正確にネメシスの意図を汲み取った俺は、たっぷり3秒ほど逡巡と葛藤に費やした。
「何を思い悩む、所詮この世は一天地六、出たとこ勝負の儚さがあるばかりだ、覚悟を決めよっ!」
金色の絹糸のように繊細な輝く髪がブワッと天を衝く気配に振り向けば、げに恐ろしげな美しい夜叉はこれ以上無いとばかりに柳眉を逆立てていた。
ネメシスの叱咤が俺を突き動かした。
次の瞬間、艦内から短距離転移で海中に躍り出ていた。
容積を押し除け飛び出した水中に、水圧も、塩分濃度も、水温も、無呼吸さえも俺を阻むものは無い。
(出来るか、メシアーズ!)
(……01000111、可能)
俺の意図を正確に読み取ったエルピスの置き土産は、実体化している“救世主の鎧”ごと、瞬時に異次元化する被膜のような絶対シールドで包み込んだ。
俺は猛烈なスピードで体細胞を増殖させ、俺の肉体を構成するプロポーショナルそのままに巨大化していく。敵方の巨大化とは違うプロセスかもしれねえが、俺なりの対抗策だ。
大きくなればなる程負荷が増す部分がある筈だから、機能はより高性能なものに置き換えていく……骨格は硬度と粘りを出すチタンセラミック系合金、血流、リンパ、循環器系と全て外的要因に対抗する強度を持たせ、心筋を含むあらゆる筋肉を高効率のものに置き換える。
細胞のひとつひとつが強化された強化体、これならいける。
極め付けは脳細胞だ……通常人の100万倍はあろうかという大きさの大脳はニューロン信号を加速させている。今この瞬間、俺は掛け値なしに正真正銘の神だった。
メシアーズは俺の巨大化に完全にシンクロして、“救世主の鎧”の装甲を目にも留まらぬスピードで補完していく。
俺の顔面左半分を覆う仮面……使ったことは無いが数多くの攻撃ガジェットが内蔵されている多機能モニタリングセンサー・インターフェイス……それは“救世主のパワードスーツ”たるメシアズ・アーマーの試練にケロイド状に灼かれた顔を補う為、置き換えられたものだ。
同じように大きくなったそれの全能感に酔っていた。
信じられない高性能だが、矢張り機能は大きさに制限される。巨大化したセンサー・インターフェイスは、全天全方位半径50キロの全事象の有象無象の情報を俺に押し付けてくる。
遥か北、フリーズランド上空10000メートルにある“風の臍”の中の浮遊城“ウルディス”をもピンポイントで捕らえた。だがカミーラもさるもの、中に侵入しようとした途端に遮断された。
敵方に見合う体格に換装するのに8秒を要した。
補足している方向に、理力で一直線に突進した……水中に打ち出された弾丸の初速程はある。
肉眼で視認する距離で、俺はイスカと言うワルキューレのバックを取るべく短距離転移を掛けた。相手の挙動に何か仕掛ける意図を読み取り、相殺効果のカウンターを放ちつつ一瞬で背中から組み打つ位置に出現する。
間髪入れず立ち技の羽交い締め、フルネルソンを極めつつ、両脚の外掛けで相手の下半身をホールドする……ここまで身体強化無限、反射速度強化、時間流加速、限界突破天界モード、武技必中と何重にも重ね掛けしている。
(熱い抱擁を楽しんでくれ……)
通じているかは分からなかったが、一応紳士らしい一言は大事だ。
あぁ、ここが海中じゃなきゃ、耳に吐息のひとつも吹き掛けるとこなんだが………
組み付いたまま、俺は猛然と海面を目指して上昇を始める。
重力反転反発の常識を無視した浮上速度は、相手の鎌に依る反撃さえ封じた。
幾多の魔術攻撃が相次いで放たれるが、次々と術式無効化で解体していく。イスカとやらいう巨大な女の攻撃は、何ひとつとして俺には届かない。
100万年以上を生きたワルキューレの、膨大な記憶を読み取っていた。流石に刮目するようなドラスティックな生き方をしている……与えられた使命に忠実にオー・パーツを探索し、魔族の勢力が創る固有結界、“魔界”にも潜入して情報を得ようとした。
だが魔界に立ち入るには、魔族・魔物の精神を正確に模さなければならない。その為にこの女は狂化と言う方法を使い過ぎて、その度に自我が失われ、遂には抜け殻になった。
だがおかしいな、やがて訪れる事態を見越してエゴとパーソナリティがバックアップされた筈だが………
流氷漂う海原に、爆発するが如き勢いで壮大な水柱と轟音と共に躍り出る。あまりの大きさに周囲の海面が引き寄せられた。
組み付いたイスカごと、そのまま空中に引き上げる。
(惜しみなく愛は簒奪する、ローバーッ!)
踠く余裕も無く、巨大イスカは光の粒子となって俺に吸収されていった。俺はワルキューレの一柱をものにした。
***************************
「大丈夫のようです……わたくしはわたくしのままです」
浮上した巨大海蛇3号の甲板に戻ってきたアザレアさんは、巨大化から復帰した通常体で体組織の変化した特殊装甲を解除したら無防備な全裸だった。
タユタユ撓む大きなオッパイに平静を装っちゃいるが、実は目のやり場に困る……洋上から上がって来たので濡れた髪や真っ白い肢体から水滴を滴らせているのが妙にエロい。陰毛の薄い恥部まで丸見えだから、少しは隠して欲しい。
それにしても貴族の令嬢にあるまじき、丸くて形のいいとんがり巨乳と括れた胴のコラボレーション―――最強か!?
前から思ってたんだが、肌色の乳首は色素が薄くて乳暈が大きいのが、なんかヤらしいな。
(スケベ……)
傍らにいるネメシスが、俺にだけ聴こえるよう脳内に話し掛けてきやがる。
「うっせえよ!」
こいつが俺に悪霊として取り憑いていたときの癖で、つい口に出して反駁して仕舞った。
「「……?」」
なんのことか分からないシンディとアザレアさんは不審そうに見てきたが、付き合いの長いビヨンド教官は何等かの遣り取りを察した気配だった。間抜けな掛け合いに、いい加減俺も慣れないと駄目だな。
「いや、なんでもねえ……それより寒くねえか?」
能力を合体したアザレアさんが尋常じゃない頑健な身体を手に入れてると理解しちゃいるが、北極圏の水温は結氷温度か氷点下、大気中にあれば更に風が体温を奪う。
「問題無いようです」
寒風吹き荒ぶ北の海に、寒々しい裸のまま、もうビクともしない強健な肉体を手に入れたようだ。体温調節をしてるのだろうか、薄く湯気が立ち昇って見える。
「……ソラン、念の為メシアーズにモニタリング装置を取り付けさせよ、腕輪か何かアクセサリーの形がいいだろう」
「腐ってもワルキューレ、遅効性の精神支配ナノマシーンを内包しておらんとも限らん」
リスクを充分に説明した……他人の存在そのものを上書きして能力を得る二重存在の危険性、自我を逸失してるかもしれないが刷り込まれている存在理由の上位互換、表層ペルソナを乗っ取られないまでも個性が融合されて別人格になって仕舞う可能性、その他起こり得るかもしれない数々の望ましくない変化……だが、それらの技術的医学的オピニオンを十二分に理解して、それでも遣るとアザレアさんは即答した。
結果、戦闘モードに移行しない状態でのアザレアさんは愛らしい容貌も、おっとりした性格も何ひとつ変わらなかったので、文字通り肩の荷が降りたようでホッと一安心した。
海中で戦闘モード移行の実験をするのに、耐寒スーツや装備の革鎧を脱いで下着だけになった……最も顕著な能力、巨大化を試してみる為だ。多分、着ているものは引き裂いて仕舞う。
貴族の子女には珍しく、何処で覚えたのかアザレアさんは水泳も達者だったので足から海面に飛び込むと少し離れて50倍程に膨らんで見たが、赤黒い結晶のようなもので構成される外皮装甲は何故かアザレアさんの姿のまま巨大化すると、露出の多いビキニ・アーマーそのものだった。
理力のようなもので海面から浮き上がると、巨大なオッパイが凄まじく自己主張している。化粧は剥げてしまったが、綺麗な歯並びも木目細かい肌も、下から見上げる鼻の穴も綺麗なもんだ。
感嘆の声と共にシンディが手を叩いていた。
実際に撃ってみるのは控えたが、高威力だと分かっている数々の攻撃魔法も問題無さそうだった。
「ドライデッキのシャワー室が一番近い、潮水を洗い流すといい」
甲板に上がってきた等身大のアザレアさんに促した。
「……付着した塩分も、不純物も分子分解して仕舞いましたが?」
貴族の令嬢は絶対にしないだろうヘアスタイル、ボブカットのような短髪にしたブロンドを手で梳いていたが、既に乾いて見えた。
矢張り、力を得る、知識を得ると言うことは何も彼も以前と同じようにはいかないのだろう。
「だからと言って何時迄も裸で居ねえでくれ、幾ら人外になったとしてもアザレアさんはアザレアさんだ、もっとこう、恥じらいを持ってだな……」
不道徳が大手を振って闊歩してるような俺が、人並みな小言で説教しようだなんてチャンチャラ可笑しかったが、この時の俺は気が付いていなかった。
「……女として見て頂けるのですね、嬉しいです」
ニッコリ笑う笑顔は、嘘偽り無く心の底からのものに思えた。
恋人が寝取られた境遇に諦めることなく、敢然と勇者への復讐を誓った俺に、アザレアさんは自分の不幸を嘆くばかりだった己れを初めて顧みたんだそうだ。姦通をしてしまった女と、女に裏切られた寝取られ男……一見理解し合えない程に、まるっきり逆の立場だったが、逆境に抗って見せた俺に、勇気を貰えたと、前を向いて進める道が見えたと言った。
俺は何がなんでも、この人を守り抜かなくちゃならねえ。
「次が来るぞ、五番目の試練は“荒廃”じゃ」
ネメシスの喚起に、あれからまたカミーラの暗号メッセージで四番目の“殉教”と五番目の“荒廃”を受け取ったのを思い出す。
カミーラの精神構造が如何なるものか理解しかねるが、己れらの部下や同僚を使い捨てにするのが極ポピュラーな遣り方だったら、あまり積極的に知り合いになりたいとは思えなかった。
用意された災厄にワルキューレ自身を投入してきた謎が残ったが、今のところ罠の兆候はなく、お気楽ながら戦力の増強に俺達の意気は上がっていた。
「あっちじゃ」
ネメシスが指し示すまでもなく、悪意ある気配があれば俺は自動索敵が出来る。遠視で海上を迫りくる船団を捕えていた。
「馬鹿なっ、あの旗印は“世紀末の海水虎団”!」
同じような遠隔視魔術で敵方を視認した教官が、叫んだ。
「なんだ、その大層な名前は……知り合いか?」
「いや……海水虎と言うのは南方の海洋民族の言葉で鯱のことだ」
信じられないものを見た反応で、教官は返した。
「以前、冒険者の自治領都市ピューリンゲン・ノローナに所属した大規模クランだった奴等だ、海事専門の冒険者達で構成された武闘派集団は海魔の討伐クエストや魔族海域を航行する商船団の護衛などを仕事にしていた……だった、と言うのは然程遠くない外洋を航行中に忽然と消息を絶ったからだ」
「海難事故で6隻もの船団が、一人の生き残りも無く消えた、とは考え難く、当時誰もが首を捻ったが……魔族との敵対に、そう言った不思議な最期もあるかと納得し、忘れ去られた」
「人間様の人情が紙風船な話で、胸が痛むなあっ!」
皮肉屋の俺は心にもないことを口走っていた。
冒険を商売にして、いつしか冒険で命を落とす泡沫にも似た連中の人生に想いを馳せ、薄情を嘆く……なんてことは全く無く、頭から傭兵紛いの破落戸と決めて掛かった。
「奴等の犬歯と青白い肌を見よ……昼間も活動可能なハーフ・ヴァンパイヤ、間違いなくカミーラの眷属に堕している」
いよいよ吸血鬼の本領発揮って、直接の眷属の参戦を見抜いたネメシスは、ここからはカミーラの本気度が違うと言った。
薄々そうじゃねえかと言う気配は感じていたが、吸血鬼擬きの幽霊船団か……相手の意図が分からなかった。正可に同胞の殺戮に俺達が躊躇するとか思ってねえよな?
「船速は然程速くないが、500体近くの準吸血鬼の集団は舐めて掛かれば、ちと足を掬われるかもしれぬ」
何事にも的確な状況分析を怠らぬネメシスにそこまで言わしめるなら、見た目に騙されるなってことだろう。
「苦手な詠唱がちっと手間取るが、神話級滅却魔術の一発でも落としてみるか?」
完全記憶のお陰で殆どの超威魔術は無詠唱で撃てる俺が、詠唱を必要とする真・神級魔術でも、真言を形にして放出出来る今なら神威として放てぬものは無い。
「………」
沈黙するネメシスに違和感があり、訝んだ。
「なんだ、何か問題があるのか?」
「開戦の“封印”、毒の相克を示唆した“闘争”、同行メンバーの精神の脆さと増幅された罪悪感への抵抗力を量られた“飢餓”、そして命を刈り取る者への接見だったろう“殉教”と、今迄用意されてきた障害には全て何等かの寓意が感じられる」
「五番目の試練は“荒廃”……心が荒廃するかは分からぬが、おそらく吾等に同族を手に掛ける覚悟があるかが試される」
「なら問題ねえだろう、俺には見ず知らずの人間を殺めずに擱こうなんて倫理観は欠片も残ってねえ」
「試されるのはお前や吾ではない」
そう言ってネメシスは、アザレアさんを振り返った。
「……分かりました、ふつつかですが初陣を賜ります」
言わんとすることを正確に読み取ったアザレアさんは、またもや即答で、単身討って出る覚悟を見せた。
「大丈夫か?」
今まで他人に手を上げたことさえないだろうアザレアさんに、吸血鬼擬きとは言え、もと人間を屠るのは重荷に過ぎる。
「遅かれ早かれ越えねばならない道ならば、今を措いて他にありませぬ……泥を被る、血にまみれる覚悟が無くて、如何にしてアンダーソン様の隣に並び立てましょう?」
「お前の思い切りの良さは、お前が誇っていい美徳だ」
あまり褒めることをしないネメシスには最大限の賛辞なのだが、アザレアさんに通じたかどうか?
ネメシスは思念で、正確な敵方の位置情報をアザレアさんに伝えたが、それはまだ50海里も先だった。
行きますと一言残して、シャワーも浴びずにマッパだったアザレアさんは弾丸のように空を駆けた。
飛び立つ前に黒い帯状疱疹のようなものが体表を覆ったかと思うと見る間にそれは、黒光りする全身装甲になった。フルフェイス・ヘルメットのようなヘルムが顔全体をも隠した。
「イスカの第一種突撃装備じゃ……あやつ、顔色ひとつ変えんかったの……思い立ったら即行動、お前に似ておる」
教官も含め俺達はそれぞれの遠隔視の方法で、闘いの様子を俯瞰していた。接敵したアザレアさんはすぐに装甲ごと巨大化して船団の真ん中に着水したが、これまた驚異的な大波が魔法で強化されたであろう弩級木造戦艦を、まるで小舟のように翻弄した。
気を利かした教官がシンディの手を握り、強制思念を送り込んで大脳視覚野を共有していた。
いつの間にか巨大な闘神の左右の両手にはイスカの武器、クリムゾン・サイズと呼ばれる二振りの鎌が握られていた。
「謎の失跡をした海洋系大規模クラン、“世紀末の海水虎団”は、構成要員480名からなる規模を誇っていた、しかもその殆どがBランク以上の猛者、前衛を任された突撃右翼と左翼に抜擢された精鋭メンバーはSランククラスがごろごろいた筈だ」
誰にともなく、教官が説明した。
闘い振りを見守る筈が、巨大化した鎌が振られるたびにハーフ・ヴァンパイヤが大挙して灰となって滅ぶさまに眼を瞠っていた。
鎌自体は奴等に触れてさえいねえっ!
「鎌が刈り取るは、この世との繋がりだ……逆にそれは生きている証しと言ってもいいかもしれぬ」
「繋ぎ止めるものが絶ち斬られれば、すなわち死だ」
振るわれるクリムゾン・サイズの威力に、ネメシスが言及した。
ヴァンパイヤの血の眷属は変身能力と悍ましいまでの怪力、ヒュドラの如き再生能力を持ち、ロザリオや聖水に灼かれる、流れ水に弱く陽光を忌避するなどのオリジナルが持つ弱点さえ克服している。
実際の話が、例え擬きが対象の案件でも何処の国の冒険者ギルドも全て“D事案”と呼ばれる天災級Sランク・クエストとして、ヴァンパイヤ・ハンターや退魔士の参加が必須だって噂がある。
相対的に親に劣っても化け物中の化け物と言えるが、それでもワルキューレとの彼我の戦力差は歴然としていた。
***************************
「お前、いい加減自分の髪ぐらい結えるようになれよ」
「王城ではお付きの侍女が遣って呉れたゆえ、妾は自分で結ったことは無かったのじゃ」
「それより、その艦内スーツ好く似合っておるぞ」
巨大化したせいで何処かに千切れて無くなった私服の代わりに、船内支給の汎用スーツを着ていた。地味なオリーブグリーンが有ったのは良かったが、アンダー・シャツなんかは別だがアウターの風合いがラバーともネオプレーンとも付かぬ独特の素材で、防刃、耐火性があるらしいのだが、シャープでマッスルな感じのフォルムが俺にはちょっと格好良過ぎる。
「あの大仰なコッド・ピースより余程いい」
多分王宮だったらそんな不作法許される筈も無いが、元王姫はニッと歯を見せて笑った。
ほっとけや、あの玉袋は俺のお気に入りだったのによ。
てか、褒めるとこ、そこか?
シンディの赤味を帯びたブロンドの髪は解くと、背中の中程以上はあったが、王宮での手入れが良かったのか実に艶々と輝いている。
囚われの貴賓牢でも、扱いは良かったんだろうな。
俺達と行動を共にすれば泥水を啜るような体験だってある筈だ……ある意味過酷な生存環境に、なるべく美容には気を遣ってやりたいとアザレアさんなんかが面倒を見ている。
見取りで覚える“模倣”スキルでは髪結いやレディース・メイドの技を習得してはいないが、賢者のスキルから探り当てた知識から見よう見真似で女の髪を梳けるようになった。
アザレアさんなんかが購入してきた髪結い用の道具を借りて、偶にシンディ姫の髪を結って遣るようになった。
「妾は政争の道具じゃったから、あまり世の中の当たり前を知らぬし、知る必要もないと母上には諭された」
「その方が我が身を嘆かずに済むからと」
鏡の中に映る俺に話し掛けるように、元王姫は訥々と語った。
「母上は側妃じゃったが、妾と同じ貴重な召喚ギフトの血を継いでおられた……宮中では産みの親なのにあまり一緒にすごす時間も多くなく、母娘して似たように籠の鳥の生活じゃったと溢しておられた」
「体のいい幽閉や軟禁と何も変わらない、そうもおっしゃって人知れず涙されていた母上……妾が9歳の誕生日の丁度一月前に、流行り病のシェスタ風邪を拗らせて、身罷られた」
そうだったか、母親は俺が手に掛けた訳じゃねえんだな。
俺は娘の髪を柘植のケア用コームやブラシで整えると、梳き鋏と枝毛用の剃刀で無駄な枝毛を丁寧に削いでいった。大して傷んじゃいないから、これはそんなに掛からない。
仕上げに何種類かのヘアケア用植物油やクリームを、教わった順番で塗り込めていった。高級美容薬剤店で吟味の上、結局店員が勧めるまま買い捲った、アザレアさんなんかの受け売りだ。
フランクリンの組織は、船会社専門の保険債務への課税を見直したり、宗教系の金融業の税率を引き上げ、シェスタの貴族達が自領運営の為に興した無尽講同盟の財閥を解体し、高位貴族の個人資産を没収し、投資されたコレクターの絵画や骨董の類いを二束三文で一旦公庫に買い上げて、それを担保に外貨獲得に向けて動き出した。
徴税局は豪農や豪商の脱税を取り締まる部門の他に、新たに地方領主の適正な税率監査の部門と、男爵、子爵などの下位貴族の奢侈を取り締まる部門を設立して成果を上げている。
内務省秘密警察や王立保安局は懐柔済みなので、国家機密を支障の無い範囲内で切り売りする闇の商売にまで、手を出しているようだ。
今のところ、フランクリン率いる革命組織の活動資金は潤沢で、庶民の税率改革も進んでいるし、余剰利潤で福利厚生部門の更なる充実に着手した……俺達がお零れに与かって、アザレアさん達が旅の備品にと、王室御用達香油店などで予算を気にせず贅沢な買い物が出来る程には儲かっている。
「母上は妾と同じ赤いタイプのブロンドだった……あまりお目通りも叶わなかった正妃であられる第一太后陛下はいつも鬘だったので、ついぞして地毛の色を拝見したことが無い」
王の一族ってやつも、大概だ。
近親婚紛いの婚姻を繰り返してきた複雑な狂った家系の説明にはなんの興味も持てなかったが、家庭教師役の女性近侍から教わった閨教育に王室秘伝の性交体位が74種類もあると聞いて、ちょっと吃驚した。学齢期児童の教育としては如何なもんだろう?
「お前ぐらいの歳にゃあ少し早くねえか?」
「王家は、召喚ギフトの血筋を絶やす訳にはいかぬのじゃ」
「種馬を宛てがわれる前に、陛下からは謹慎を仰せ付かった」
「なるほどな………」
遣る瀬無え話だ。そうやって連綿と勇者を召喚し続けた王室は、矢張り碌なもんじゃねえ……例え何かに呪われていなかったとしたら、俺が直接呪って遣りてえぐらいだ。
梳かした髪を左右の一房、二房選んで素早くロープ編みに編み込んでいく。何回か皆んなの髪で練習させて貰ったから、今はもう手慣れたもんだ。
「お前、睫毛なげえな、なんか手入れでもしてるのか?」
「ん、この間アザレアに睫毛用のブラシを貰った」
「ふーん、まっ精々気張ってやんな」
少女と大人の女の端境で、美顔を磨くのにまるっきり興味が無いと言えば嘘になるんだろうが、身の回りの世話をする内宮付きの上級侍女も居ない今、なるべく不便な思いをさせたくはねえ……だが、自分のことは自分で出来るのが大人の女ってもんだぜ。
「お前のその声も、何かの対価なのか?」
今じゃスタンダードになった俺の掠れ声が気になるらしい。
対価にとネメシスが奪って行ったのは、眠りと瞬きと、咽喉に絡む痰と、そして笑いの、今のところ四つかな?
「……裏切った幼馴染みが俺に唾を吐きかけて、罵倒し続けた時に俺は、胸も張り裂けよと怒号し続けた」
「以来、俺の咽喉は潰れたままだ」
「妾の……せいなのか?」
シンディ姫は、一瞬泣きそうな顔になった
「ん、まあな、そうも言えなくもねえ……でも、まあ最初に出会った頃よりは見直したかもしれねえな、お前が泣いて治せとせがんだプリマヴェーラの娼婦は一面識もねえ赤の他人だった」
「どうしようもなく愚かで汚ねえ一面もありゃあ、無償で誰かを救いたいと願う徳の高い一面もある、ひょっとするとそれが人間ってもんかもしれねえな」
「お前が過去の罪に轉回ち廻った魂の叫びは、確かに届いた」
スタイリングの為に多少毛先を揃えたから、ヘアカットケープを取り去って、仕上がり具合を確認させる手鏡を渡した。
目利きの確かなアザレアさんが買い揃えた、革ケースに戻した錵の見事なダマスカス鋼のカット鋏は全部で7種類もあった。
「俺は誰かを裁定するなんて大それた身分じゃねえ、それこそ目糞が鼻糞を裁いてるようなもんだ……だが、確かにお前の父親、シェスタ・ジェンキンス十三世は俺が無残に殺した」
「断末魔の痙攣さえ情けねえほど弱々しかったが、もし親の仇が討ちてえなら俺がお前を強くして遣る」
「仇は討たない、妾は国王陛下に父を見てはおらなんだし、親子の情も無きに等しい……それがシェスタの王家と言うものだ」
「いいんだな?」
そんな気もしていたが、念押しに重ねて問う俺にシンディはこっくり肯いてみせた。
俺達と一緒に居れば、餓鬼も餓鬼のままではいられねえ。
極端な話、俺は自分自身の復讐さえ果たせたら、この小娘に討たれてやってもいいとさえ思っている……あぁ、後オー・パーツは滅却しなけりゃな。
ゆるふわ風が好みらしいが髪油でしっとりしちまったから編み込んだ髪は貴族風にきっちり形にし、ハーフアップに纏めてアレンジ、今日は買い与えてある、どうやらお気に入りらしい銀の台座にアメジストの髪留めを着けて出来上がりだ。
「今度編み方を一緒にやろう、出来ることが増えると生き方も変わってくる……教官に護身術を習い始めたらしいが、幾ら稽古を真面目にやっても非力な子供にゃあ飛躍的に強くなるのは難しい」
技を身に付ける以前に、生育期途中じゃ体力が不足する。その辺のところは教官も充分弁えている筈だった。
「俺はな、単なる憂さ晴らしでここまで来てるわけじゃねえ……俺には目的がある、伊達や酔狂で強くなった訳じゃないんだ」
「お前……俺が血も涙も無い殺人鬼以外の何かだって、勘違いしちゃいないよな、野盗や狂犬の類いと何も変わらねえ人非人だぜ?」
念の為、言葉にして断わって措くことは大事だ。
「だから望む望まぬとに関わらず、俺達にくっついて来るのは命懸けだ、手前勝手に拐ってきた負い目もある、お前さえよけりゃあ少し魔術の手解きをしてやる……見たところ、どうやらお前には魔術の才能があるようだからな、いいか?」
自然に息をするように魔素の出し入れが出来ている、こいつの素養に気が付いていた……多分、本人は分かっちゃいなそうだったが。
後で照明を足させた、機能一点張りだったドレッサーの鏡の前から振り返るシンディは、黙って殊勝に頷いた。
480からのハーフ・ヴァンパイヤを瞬く間に屠り、6隻の大型木造戦艦をあっという間に沈めてみせた元男爵家令嬢は、艦内で哨戒当直に就いていた。
「アザレアさんは、覚悟のうえで人外になった……幼いお前に今すぐ答えを出せとは言わないが、お前は人を捨てることが出来るか?」
***************************
「お前、洗濯に行くといつも棒アイス銜えてくるよな?」
ランドリー・コーナーには、ネメシスが設置したアイスキャンディのベンダーがある。洗濯係を買って出るのはいいんだが、そのたんびに買い食いしてくるのは幾らなんでも行儀が悪い。
完璧なレディとは言い難いが、それなりに王家の本格的な気品ある作法とマナーが基盤だった筈のシンディが、今じゃすっかり下世話な悪習慣が身に付いちまったようだ。
だってえ、とか言うんじゃねえ。
お貴族様だったから無理もねえが、普通焼き甘栗の皮は自分で剥くんだよ、寄った港街で買えってえから買ったら、案の定自分で剥けねえときたもんだ。
二度と“剥いてえ”、とか言うんじゃねえぞ!
……まぁ、剥いてやったがよ。
「妾のズロース、くんかくんか、する?」
しねえよっ!
何言ってんだこいつ、なんでこう、お下劣になっちまったかな……やっぱあれか、俺達の家庭環境のせいか?
心当たりがあり過ぎて突っ込む気にもなれねえが、誰だこいつに碌でもねえこと吹き込んだのはっ!
それをして親愛の情とは言わねえぜ?
次のカミーラの仕掛けを待って、皆んな第二艦橋のモニタリング・ルームに集まっていた。
“風の臍”があるとされるロンバルト海に浮かぶ永久凍土の島、フリーズランドはもう目の前だ。
「六番目の災厄は“血河”とされている……」
ネメシスが腕組みしたまま俺を振り返る。皆んなモニターに映し出された何千万頭と蝟集する白い獣の、果ての無い戦列を見ていた。
「……それ、最初に聞いたときも思ったが、なんか悪い予感しかしねえよな」
何十と言う計器が、周囲の状況変化を刻々と知らせてくる。
特筆すべき評価値があれば、モニターに注意喚起をテキスト情報で流してくる。海溝の地形図から、海流の流れ、厳寒の海を回遊する生物など諸々の情報が集まってくる。
周囲の天候、電磁波の乱れ、魔素濃度、地磁気や月齢の影響、コリオリ力、音波に電探、気圧に温度変化、赤外線、霊気や精霊力、エレメンタルと言ったスピリチュアルなものまで、兎に角見落しが無いように何も彼もだ。
だがそう迄した甲斐も無く、異変は忽然とシーサペント制御中枢が捕捉する間も無く出現していた。
「雪豹のようだな?」
俺は初見だったが、齢700年分の見聞があるビヨンド教官には既知のようだ。
「なればよ……この地にこれほど大量発生するような餌場も無ければ、獲物も居ない、間違い無くなんらかの増殖魔術で造り出されたものであろう」
至極当然の推論を、ネメシスが口にした。
(……00011101、出現個体数8億5623万423体)
「8億だあっ?」
見渡す限り、人の住まぬ酷寒の離島、フリーズランドの地平を埋め尽くすように溢れ返るサーベルタイガーにも似た白い体毛の魔獣の群れを唖然と見詰めた。
様々なアングルから捕らえた映像は、大小何枚ものモニターに映し出されている。
波打ち際にまで押し寄せたそれらは、島を埋め尽くしていると言っても過言では無いかもしれない。零れて海面に迫り出したところもある始末だ。
実写俯瞰図で全体の状況を把握するまでに引いた映像を別モニターに映し出した制御中枢は、各個体を表すのに赤いドットで示した特大スクリーンを追加で降下してきた。
(……000011100、各個照準完了)
シーサペントの攻撃装備で押し通るか、逡巡する間に敵方雪豹の戦列が次々と罅ぜ出した。
「なんだ、自爆してるのか? こっちは何もしてねえぜ?」
「贄の儀式だな、供物を対価に大規模魔術を発動するカミーラお得意の術式じゃ……昔、よく観た」
ネメシスの説明にゃあ、不安要素しかねえな。
様子を見てると、弾けた雪豹達の血糊というか辺りを真っ赤に染める血流がやがて奔流となり……明らかに尋常じゃない血液の量は、暗黒魔術か何かの禁忌術の類いだろう、濁流となって海へと流れ込む。
それは最早河だった。幾つもの赤くおどろおどろしい大河が大瀑布となって海に雪崩れ込むと、それはその天変地異のような現象からして普通では在り得なかったが、赤黒い大量の血液の水流は海面に落ちると燃え上がった。
まるで湧きだした石油に引火した気化燃焼か、噴火した火山から溶け出すマグマかと見紛うような有様で、酷寒の海はたちまち灼熱地獄に蹂躙されていった。
辺り一面、水蒸気と化す海面は泡立ち、沸騰する大量の水で沸き返り、海上は白い湯気が濛々と天高く立ち昇っていく。
シーサペントが待機する海域まであっという間に、高温に達する。
「ただ座して試練を待ち続けていたと思うなよ」
既に対オー・パーツ対抗用強化ナノマシーンを不可視化位相次元防御シールドで包み、かなりの広範囲にばらまいている。
「メシアーズ、対処を開始しろ」
異次元に構築される、その規模さえ判然としない万能制御型並行演算全能人口知性がオーダーを復唱する。
高性能強化ナノマシーンは、瞬間空間固定の波動を散布し、分子運動から熱エネルギー自体を奪い去り、選択した危険因子をどんどん無害な酸素や水に変換していく。
雪豹の死骸や残滓、燃える血液も、蹂躙されてしまった海水も見る見るうちに分解されて、綺麗に浄化されていく。
全てを押し流し焼き尽くす穢れを如何に防ぐか、如何に清浄に戻すかが試されていた。
六番目の厄災に決着が付こうとしていた。
俄かにその瞬間、特大スクリーンにカミーラが出現した。
妖しいまでに美しい。
……普通にエルピスの回線に入って来れる自体で、もう脅威だ。
「どうやら代償を捧げる原初黒魔術から導き出した此方の秘術ですら、行く手を阻むこと能わなかったようじゃな?」
聴き取りづらい大陸共用語で話し出すカミーラに、目も眩むような黒い魅了と、人外を想わせる美の真髄が在った。
最初に視たときと変わらず、人を食ったような笑みを浮かべているのが癇に障る。蠱惑的な口許は、ちょっと油断すると幻惑されて仕舞いそうな妖しさがあった。
癪だが、カミーラには登場すればその場を支配せずにおかない確かな存在感がある。
「試されるのは好きじゃねえ、こうまでして辿り着かなきゃならねえ理由が知りてえ、返答次第に依っちゃあ全面戦争も辞さないまで、臓腑は煮え繰り返ってる」
「詫びなら後ほどゆっくりと……それよりその船、理論上可能と聴いてはいたが正可に、この目で観れるとは思わなんだ」
「ローター・ムーブメント……何ものにも依存しない永久動力機関を完成させるとは百聞は一見に如かず、聞きしに勝るとはこのことかと承知した、矢張りエルピスは嘗ての総合化学財団首席科学者にして我等が造物主たるセルダンをも凌ぐ」
「神に抗った真の天才だ、心からの崇拝に値する!」
「あぁ、究極のオー・パーツ対抗兵器、エルピスの遺産は今、この男と共に在る」
おい、いずれバレるがこっちからお宝の手の内を態々晒すんじゃねえよ、馬鹿天使!
「その様子じゃと、主任開発研究のマクシミリアンは健在のようじゃの……ちと異世界召喚について調べたいことがあっての」
ネメシスは“還る”と言う自分の目論見に、ウルディスのポテンシャルを当てにしていた。
「運命が選びし適応者……エルピスの遺志がそれを託した」
ネメシスの問い掛けを黙殺し、カミーラは“エルピスの遺産”を正確に言い当てて見せた。
「だが……其の者の中に魔族が高位陣営の気配がある、此方の記憶に間違いなければ其れは八大魔神将が一角、ベルゼビュートが大いなる暗黒の意志に酷似しておる」
「多くのものに取り憑かれし強運の者よ、はよお、此方に逢いに来てたもれ……次が最後の試練じゃ」
「待っているぞ、隔絶された絶対最強神の男………」
それだけ言って、カミーラの通信は切れた。
七番目の厄災は“ハルマゲドン”と銘打って、空から無数のテンタクルスが振って来た。
カミーラのコンタクトが切れてから、ものの数分と経っていない。
巨大な蛸かアンモナイトに似ているが、本体である触手の数は数十本にも及ぼうかと言う異形の怪物、テンタクルスがまるで雨か霰、いや流星雨の如く降ってくる。
その巨体ゆえに囂々と風を捲いて落ちてくる様は、さながらこの世の終わりだ。氷山を砕き、氷河に覆われた陸地を穿った。
折り重なるテンタクルスの山はたちまち層を成し、海を埋め尽くしここいら一帯の地形さえ変えて仕舞うかと思われた。
文字通り世紀末の滅びそのものだ。
ようやっと第一艦橋から肉眼で視認出来るまでに迫った巨大な積乱雲状に吹き荒れる空気の城壁、“風の臍”は不気味な放電を繰り返しながら絶縁不能な高電圧に帯電したまま、更なる高みに遠ざかった。
漏斗雲を残しながら、おそらく雲頂は成層圏に達したのではないかと思われた。
艦艇ごと亜空間次元化して、現実物理界から避難したシーサペントは亜空間波探知機で捕えた浮遊城の真下を目指して進む。
降り注ぐ怪物の雨が視界を覆い尽くし、スポッティングされた空間歪曲レンズ無しでは浮遊城をトレーシングすることは叶わない。
何処から湧くのか、引っ切り無しに落下するテンタクルスが尽きることはなかった。
「招かれているのが俺だとしたら、ここは俺が遣る」
短距離転移で空に飛び出ると同時に、既に実体化してるメシアーズのアーマープロテクトを掘削推進型の飛行形態に変形、無理矢理肉の巨魁の雨を突き進む。
全体を消し去る為に、超重力子反転連鎖浸食魔術を放つ。
(ハイパー・ブラック・ノヴァッ!)
ハルマゲドンに対する最適解は力業……全てを平定する暴威こそが力を制する。用意された罠を上回る力で喰い破って見せることこそ、この場合の完全制覇だ。
ポツポツと細かな空間の綻びが、あちらこちらに火属性の紙魚が燃え広がるように現実世界を捕食していった。
次々と質量ごと空間が消失する悪夢のような現象に、消失した容積分の大気や海水が流れ込む勢いで、周囲が吸引されるような大規模爆縮が連続で起きる。
流れ込む奇妙な轟音が連続して、留まることが無い。
折り重なり堆積し、陸と海を埋め尽くし、今尚降り積もる膨大なテンタクルスごと、海が切り取られた空間ごと消失し、覆われた氷河ごとフリーズランドの大地が消失し、喰い採られ、浸食された物理世界の現実が消失していく。
氷山と海水が惑星規模で見ればほんの少し失われ、この星の水分がごく僅かばかり減った。そして、フリーズランドの海岸線は地図に起こせば微妙に地形を変えた……海流が代わり、何処かの土地で貿易風や偏西風の激変があるかもしれない。
何処かの、流れ着く先の生態系が、致命的なまでに大幅に歪んでしまうかもしれない。
そう思わせる程の、空前絶後の規模の消失だった。
浸食は天を遡り、浮遊城を常に守護し、隠している風の猛威をさえ喰らい尽くした。
剥き出しの浮遊城“ウルディス”は、何百年か振りでその異様な姿を人目に晒した。
……それは奇妙な城だった。それをして城と言っていいのかさえ、迷う程のものだった。
普通、高層多塔構造の場合、尖塔も守閣もバルティザンも天を突くように上に伸びている。
ところがこの奇怪な城は、斜め上も、横にも、斜め下、真下にさえ四方八方に突き出していると言う前代未聞の奇天烈な佇まいだった。
(懐かしいのお、他者を寄せ付けず拒絶するこの奇態こそ、カミーラが居城に相応しい……気を付けよ、変転する複合結界がある)
最初から言っとけよ、出し惜しみしてんのかネメシス!
先行する俺を追ってシーサペント3号は飛行形態に変形、艇内からネメシスが俺にサポート情報を送ってくる。
しかし、複合物理結界……うん、なるほどこれは厄介だな。
打突型飛行形態を解き、結界陣外縁に取り付き、へばり付いた。
数十種類の術式の異なる結界が何重にも張ってあるのだが、その組み合わせがランダムに変わる。つまりひとつずつの結界を術式無効化と解呪で同時に対抗遮断して侵入しようとしても、次の瞬間には組み合わせが変わって阻まれると言う仕組みだ。
だが、この程度の技術ならエルピスの遺産には造作もない。
何しろオー・パーツの発動を、星の裏側からでも瞬時に抑える為に開発されている。メシアーズは使用される250種の異なる術式を全て解析して、250種の対抗遮断を全て同時に発動して見せた。
ニュルンとくぐり抜けた次の瞬間、俺は引き寄せられるように城の外郭に辿り着いた。どうやら人工的に各方位への重力場が発生しているらしかった。
構造材質は未知のものだったが、一瞬の躊躇いも無く振動打突系と浸透頸と、火焔魔人迦楼羅の加護、分子分解魔術の複合技、デコンポジション・インパクトを放つ。
派手に外壁に大穴を穿ち、全てを透過する万能サイトで城内の基本情報を取得すると移動先を点で結び、連続短距離転移を掛ける。
手にはメシアーズに鍛造させたスローイング・ナイフ様のダガーをサーベル・グリップに握る。5次元カッター機能と同時に分子結合を破壊し、各種防護シールドを中和し瞬時に無効化するダガーには理論上、斬れぬものは無い。
教官に教わったサイレントキリング・ポジションで構える……昔、暗殺者養成機関で育成担当をしていたらしい教官の技は、全て引き継いでいる。
目指すは最奥、不浄のカミーラが奥津城だ。
不思議なことに城内は何処も彼処も時間流が夜に設定されていた。
それも満月の夜だ。
辿り着いた“棺の間”には、目指した夜の女王が居た。
これが本来の姿なのか、ネメシスに倍する大きな漆黒の翼を広げていた……それは獣毛に覆われ、大鴉の羽根のようでもあり、また蝙蝠の皮膜のようでさえあった。
いずれにしろ禍々しいものだ。
「数々の非礼をお許しください」
打って変わって謝罪を口にする言葉は、俺達が話すシェスタの現代公用語だ。堅苦しい古代文法は影をひそめていた。
「お待ち申し上げておりました、マイ・ロード……今宵以降、此方は貴方様の忠実なる下僕、朽ち果つるまでお仕えいたします」
棺を据えた、一際高くなった祭壇の上から降りてくるカミーラは、意外にも恭順を告げてきた。
「無条件で服従を誓うと言うのか?」
「此方の条件はただひとつ、此方を56億7000万の彼方までお連れ頂きたい、ただそれのみに御座います」
「此方の血をお吸いなされませ、差すれば貴方様はノスフェラトウが頂点、大いなる力を手にしましょう」
人外の美というのは確かにある。
常人なら一目見て魅了されて仕舞う類いの抗い難い美だ。人間だったら当然あって然るべき一点の瑕疵も無いその姿は驚嘆に値する。
当然だった、人間じゃ無いから。
見たこともない妖艶さは……いや、一人だけ知ってるな。
外観は違えど、同じような無自覚人外の天使擬きが振りまく圧倒的な端麗は、最早重圧でさえある。
この時妖しく光る金色の眼は夜の帳に焚き込められる媚薬効果のある香のように、俺の平静さを奪っていたのかもしれない。
この瞬間、何か術式に墜ちた自覚症状は無かったが、俺は咽喉が渇いて渇いて仕方なく、辛抱が堪らなくなった。
あぁ、血が飲みてえ……心底、不思議と甘美な香りの暖かな血が飲みたくて、飲みたくて我慢し切れなくなった。
なんだ、この気持ちは?
飲みてえ、飲みてえ、飲みてえ、甘い香りの温い、ドクドクと脈打つ、あの赤い液体。
明らかに正常な思考じゃ無かったが、この時の俺にはそれに気がつく余裕も無かった。唯々、吸血と言う欲望に突き動かされていた。
「早まるなソラン、カミーラが浸透催眠の技じゃっ!」
駆け付けたネメシスが何か喚いているが、俺の耳には届かない。
夜の領域の佳人の腕と邪悪な翼に抱かれて、青白く意外と細い首筋に噛み付いていた。
「呑み乾されよ、これで此方と貴方様は死が二人を別つ迄、終生の番いとなりましょう……神聖にて邪悪なる血の盟約が貴方様を史上最強の闇の眷属へと、変えまする」
俺の犬歯に吸血の機能は無い。噛み破られた頸動脈から、真っ赤な血飛沫が跳ね飛んで、辺りを血に染めた。
俺の細胞が隅々まで造り替えられていく。そんな感覚だった。
ビキビキと血管が膨らんで、体表を畝っていく。
今迄にも経験したことの無い、絶無僅有の苦痛だった。
だが俺に耐えられない苦痛など存在しない。何故なら、苦痛こそが俺と生涯を共に歩む親しき知己だからだ。
それは復讐に狂った俺の力、痛みに耐えるとか、無痛化能力とか、神経遮断、ストレス・フリーとか、そんな類いじゃない……ただ目的の為に全てを捨て去ることが出来る。
それが俺の力だ。
俺はなんの為にここまで強くなったのか?
伴侶になる者に裏切られ、復讐こそが全てになった。
俺は平凡な木樵のまま生涯を終え、朽ちたかった。
何故裏切った、ドロシー……魅了・催淫に操られ、他の男に抱かれるのは、そんなにもよかったのか?
お前のせいで俺はっ………!
皆んなが叫ぶ声が聞こえ、カミーラは己れの返り血を浴びた顔と姿で忠誠の誓いに跪き、傍らでネメシスががなり立てていた。
そして俺はまたひとつ、力を手に入れて、またひとつ、人間らしさを捨て去った。
***************************
旧交を温める筈の嘗ての知己同志は、何故か烈火の如く激しく啀み合っていた。
結局、吾が先に唾を付けた宿主じゃ、とか、此方が千年一日の想いで待ち続けたご主人様だ、とか、二人のワルキューレは互いに専有権を主張して譲らず、挙げ句の果てにアザレアさんが愛人宣言したりと擦った揉んだの末、収拾がつかなくなった。
カミーラが回線に割り込んで、事前にコンタクトしてきたのは瞳の眼力で洗脳催眠波を薄く送り続けるのが、どうやら本当の目的だったらしい。微弱な催眠を何回も重ね掛けすることにより、気付かれずに後催眠のような効力を発揮する。
すっかり、して遣られたが、概ね許すことにした。
許すことにはしたが、今度は二人のワルキューレが喧々諤々の内輪喧嘩に口汚く罵り合う始末。
少し頭を冷やせとばかり、距離を置いてワルキューレ達は放って措くことにした。俺達は城内に留まり、俺はシンディ相手に魔法の初期講座を開始していた。
と言っても俺自体が発動句や詠唱の発音とイントネーションが滅茶苦茶な方だから、いきなり無詠唱やイマジネーション詠唱キャンセルの高等技術からスタートだ。
各種の防御結界、魔術結界、身体強化、魔力吸収、魔術反射、火、闇、光、氷、雷、月光、冥府属性のシュート系とブレス系攻撃魔法初級、中級あたりと探知系、隠密系が入門コースかな?
俺は無詠唱前提の優しい先生として、座学半分、実戦半分のスケジュールを組み立てた……何故かシンディには、激スパルタだと涙目で非難されたが。
城の中は胡乱な魔力に満たされていた。どうも精霊に似たスピリチュアルなものだが、遥かに禍々しい。後で訊いたら、“闇の神霊”と呼ばれるエレメンタルの一種らしい。
フリーズランドの一部が消失したことに依り、島の地形が大幅に変わって仕舞った。イコール付近の海流、ひいては北極近くの偏東風を含む気流自体も変化して仕舞う可能性があり、将来的に周り廻ってこの星の隅々にどんな影響が出るのか、はたまた回遊魚などの生態系に及ぼすメリット、デメリットをシュミレーションする為、メシアーズが大量の調査用ドローンを各地に飛ばせていた。
そんな訳で(どんな訳だか知らねえが)、待ち侘びたと公言するカミーラに嘘は無く、俺達は有耶無耶の内に吸血姫の壮麗なる隠れ家で歓待されることになった。
カミーラの浮遊城に滞在して三日目、法王聖庁に奉納されてしまったと言うフリズスキャルブをもう一度生成出来ないものか、ウルディスの城主は試行錯誤を繰り返している。
魔王が弱体化した今(初耳だったが)、最も警戒すべきは女神教大多数波の総本山たる法王聖庁……是が非でも交誼を結んでおく必要があったらしい。
カミーラが開発に成功したと言う光学と音波を主体とした情報収集の全世界俯瞰装置、“ハーミットの水晶”は神の高座と言う形で、随分以前に法王聖庁との裏取引に献納してしまったらしい。
フリズスキャルブと名を変え、今は聖都アウロラの“ディアーナの宝物庫”とやらに収蔵されているのだとか………
ネメシスがカミーラを頼って浮遊城を探り当てたもうひとつの理由こそが、この“ハーミットの水晶”だ。これさえあれば見失った復讐対象であるドロシー達の居場所も立ち所に知れる筈であった。
だが残念ながら無いもの無い。
巨大海蛇3号のシャワー室は清潔だが如何せん狭かった。
浮遊城ウルディスには、アルメリア風古代公衆浴場を模した床暖房のある微温浴室や高温浴室、冷泉プールからなる大浴場があった。
嘗て知ったるネメシスは入り浸っていたが、皆も日に何度も利用してるようだった。混浴にも慣れたが、“乳、揉むか?”、としつこく挑発してくるネメシスがウザくて、俺はあまり利用していない。
奴隷紋を望み、俺に隷属することを願ったアザレアさんの意を汲んで(それが正しいことなのかどうかは別にして)、絶対服従の誓約を示す高度な紋を胸骨の辺りに刻んだ。
カミーラのお蔭でノスフェラトウの頂点とやらになった俺の誓約紋は、単なる眷属契約ではない。
それは俺の“専属”を意味するものだった。曰く、俺の為に生き、俺の為に死ぬ……この盟約の重大さが本当に分かっているのか、アザレアさんは浮き浮きと機嫌が良かった。
百何十万年分ものペナルティ・イスカの記憶を得た身には、また違う感慨があるのかもしれねえが、ノスフェラトウに連なると言うことは、不老不死、無限の再生能力を手にすると言うことだ。
死ねないと言うことが、もしかすると呪いになるかもしれない可能性を、アザレアさんはもっと真剣に考えるべきだった。もっとも、それは俺にも返ってくる呪いだが………
俺は眠らないので寝室は必要なかったが、女性陣は客間をひとつ充てがわれていた。
騒動の時に約束した教官を抱く、と言う言質を果たそうかと思っていたが、どうも俺はこう言った場合のムードとかにはからっきしだ。
俺と教官は丁度、正確に当てないと跳弾しまくると言う無茶な造りの射撃練習場で“大陸救済協会”御用達の銃器を幾つか試射した後、一緒にシャワーを浴びたんだが、二人きりだったから雰囲気も糞も無く単刀直入に“やるか?”、と言ったら随分と悲しそうな顔をされた。
炸薬系の実弾はそれほど多くはなかったが、マズル・フラッシュの排気粉塵を洗い流したいだけだったんだが、ものは次いでと誘ってみたのが駄目だったか?
城内のシャワーやトイレはほぼ男女共用と言うか、“夜の眷属”チームの構成要員は、殆どが女性だったそうだ。
だからウルディスのトイレには男便所にある小便用のあさがおが、ひとつも見当たらない。今は定命のあるメンバーは寿命が尽きて、長寿の者か妖物染みたものしか残っていないらしい……怪物擬きの異形の人外が、普通のトイレを使うかどうかは疑問だったが。
隣国の軍事国家として名高い西ゴート帝国にゃあ銃器産業があるらしいと耳にしたことはあったが、国力の差か、先見の明の差か、近在の冒険者では銃遣いも少なく、火薬激発式の長銃や短筒も目にする機会はあまり多くはなかった。
従って携帯用の銃火器に馴染みは無かったが、人生経験豊富なビヨンド教官は射撃も難無くこなす。見識もそうだが今迄の見た限り、教官ほどのマルチ・パーパス、オール・マイティな人材は見たことがねえ。これまでに幾つかの冒険者ギルドや、盗賊または暗殺者などの非合法犯罪ギルド、傭兵派遣の組織なんかを少しばかり見知っちゃいるが、教官を凌ぐ者をついぞ見たことが無い。
技の多彩さ、器量、スペック、スキルの類い、どれを取っても未だに底が知れねえ。他の大陸の政治絡みの中央情勢やら、末端の暴力組織の暗号符丁迄、広く深く通じている……実際、28ヶ国語ぐらいは言語を操れる筈だ。
伊達に700年を生きちゃいないって訳だ。
……セルダン一党の技術からすれば、現代の銃火器なんざ原始的な火打ち石に毛が生えた程度のものかもしれない。
だが、狙いを付けトリガーを引く一連の動作は同じものだ。なら教官の右に出る者は居ない……一流のガンマンの指導で、射撃、狙撃のコツが分かってくると、つい楽しくて次々と違う銃器を試してみた。
俺は別に銃器マニアって訳でもねえし、シューティング・ジャンキーって訳でもねえが、銃撃ってえのには一種独特の爽快感があるな。
的を照準して素早く撃ち抜くって行為には、対価として瞬きを奪われた俺の眼はもしかしてお誂え向きかもしれねえ。
撃ち捲った内で気に入った多機能ハンドガン、圧縮された加速雷撃や超高熱の火炎放射なんか七つの機能をセレクターで切り替えられる高性能銃と、無反動突撃銃兼用の3点バースト、フルオートを切り替える30センチバレルに電磁レールガン機能と完全吸音サプレッサーを組み込んだサブマシン・ピストルを譲って貰うことにした。
差し替えるバナナ弾倉に似た、各種のエネルギー・チャージパックを一緒にせしめる。
教官は、パンチ力が無限に上がる無弾頭タイプのカスタマイズ・ショットガンが気に入ったらしく、同じように譲り受けていた。
対人制圧戦闘仕様なのに高精度の光学自動照準とアタッチメント・フリーの小型グレネード・ランチャーが付いている。ショットガンなのに有効射程距離が800メートルもあるのは、完全にオーバースペックって奴だ。
ビヨンド教官は最初、俺のデリカシーの無さを嘆いているのかと思ったが、どうもそう言う訳ではなさそうだ。
寂し気な横顔を見ていると、なんか根源的な部分で胸が締め付けられる気分だった。
圧倒される程の見め麗しい見た目は、少し沈んだ気配を纏えばこの世のものではない凄みが放たれていた。
美男美女が多いと言う森エルフ族の中でも特別な血筋だからだろうか、本当に綺麗だ。ただ、その美しさは内側から滲み出てるって言うか、ネメシスなんかの人外の常識外れの美と違って、自生する野薔薇のように生命力に溢れている。
一族の統率者の家系にハーフ・エルフとして生を受け、尚且つ母親の不倫の子であったからか、種族のテリトリーを出奔してからの教官の数奇な来し方が偲ばれた。
母親に生き形見に託された先祖の宝剣、ジャンビーヤと呼ばれる反りの深い短剣は“ゾモロドネガル”と銘ある、神話時代のギフトが封じられた貴重なものだった。
何物にも代えがたい筈の、誇りある民族の神器を、教官はこんな俺の為に差し出した。
「もう二度と……あのように無様な真似はしない」
客間のローテーブルは周りの什器と同じく、華美な癖に重厚さのある装飾に彩られていた。女子の寝泊りする部屋の中程にある喫茶テーブルのような設えまで来ると、教官は一人掛けの椅子に腰掛けた。
おずおずと突っ立ったままの俺を見上げて、衝動的に自分で自分の股間を傷付けて仕舞った詫びと、見放さずに助けて呉れたことに対する礼を改めて口にした。
「死に分かれた旦那は不純、不潔と散々この身を罵った……当たり前だな、娼婦のジョブに取り憑かれている身では結婚生活に向かん、散々悍ましい馬鹿をやった過去を無かったことには出来ない」
「愛のあるセックスなどと、汚れたこの身には最初から望むべくも無かったのだ……インモラルな女が精一杯取り繕って淑女振ってみても、所詮は男の怒張が忘れられない腐れ女陰を隠しようもない」
「エグい交尾が忘れられず、逸物を求めては彷徨いもっとイヤらしいことがしたくて疼いて、牝犬肉奴隷の発情にヌラヌラと濡れて滑る股間をかかえていては、汚れないセックスなどと、どんなに焦がれようとも手にすることは叶わない戯言だ」
正直に言うと、ふとした瞬間に昔を思い出し、平然とした顔をしていても下着をぐっしょりと濡らし、分泌するネバネバしたものが垂れて来て鼠蹊部を始め内股も粗相をしたように汚して仕舞うほど興奮することが、今でもあるのだと教官は告白した。
俺にとって教官は、いつだって凛とした気丈夫な女戦士、分っちゃいてもそんな話は聞きたくなかった。
「抱かれたいと思ったし、お前は抱いてくれると言った」
「だが、お前の陽物に挿し貫かれた途端この身はもしかすると狂ったように激しく腰を振って女の汁を迸らせ、夢中になって間抜けなアヘ顔を晒し、あられもなく見っともないガニ股で逝く下品な痴態と野太くケダモノのように醜い嬌声を見せて仕舞うかもしれないし、我慢出来ずにウンコ穴を自分で弄って仕舞うかもしれない」
「誰よりも自分がよく知っている、底無しの性欲を秘めたこの身の素の正体だ……女として生まれた筈が、いつしか雌豚となってしまったこの身が本質だ」
「例えばお前はこの身が女と股間を舐め合うのや、複数の男に同時に嵌め輪姦されているのを見たいと思うか?」
「いや、あまり興味ねえな」
いや、それよりウンコ穴とか言うなよ。まぁ、言葉を飾らないのは教官らしいっちゃ教官らしいが………
「であろう、そう言うことだ……どうにか抑えていてもこの身がセックス中毒の“娼婦”のジョブ持ちには変わらない、乳首だろうとケツ穴だろうと調教済みのドスケベで、ド変態ド淫乱被虐趣味の肉欲が、普通のセックスに満足出来るかも怪しい」
「自ら望んでジャラジャラと、ニップルピアスや陰唇ピアスを着けていた頃さえあった……所詮この身は女ではなく、肉便器なんだ」
「無理なんだ、何百年もそんなことをヤってきたから……」
思い出は儚く切ないもの、多くはそう言うが自分の記憶には快感の渦に飲み込まれた思い出ばかりなのだと、発狂するほど興奮するので背徳感を誘う禁断行為の数々がすっかり身に染み付いて仕舞い、忘れることが出来ないのだと………
そう言って教官は涙した。先日の惨劇と言い、この人が泣くのは本当に珍しい筈なんだ。トラップ島戦役で俺が暗黒の意志に飲み込まれそうになったとき、エルピスの遺産を手に入れるのに、俺が死の淵を彷徨ったとき、この人は俺の為に涙してくれた。
「お前を生涯裏切らないと誓った言葉に嘘はない、だからかもしれないが今になって、お前に幻滅されるのが急に怖くなった、乳首を尖らせ、興奮しながら股を開いて挿入を乞うこの身の欲情に、お前は絶対ヒイて仕舞うだろう、きっと痙攣して逝き果てる顔は白目を剥いているかもしれない」
「痴呆のように蕩けた顔でお前の勃起ペニスを頬張る姿を見られたくはない、きっとお前はそんなこの身を軽蔑して仕舞う」
「こんな気持ちは初めてかもしれないが狂態を目の当たりに見られるのが怖い……身も心も捧げようと思った相手に、それを見られるのは微かに残る矜恃を引き裂かれるようにつらい」
アバズレの純情女って奴が居るとしたら、こんな感じかもしれねえな……どう言った心境の変化か、完全に拗らせている。
誰を恨むじゃねえが、カミーラの奴が余計なことをしてくれたばかりに両価感情の葛藤が顕在化してしまった。
「……シンディな、あいつにゃあ華がある」
「運命に縛られ、監視され続けた王宮での在り方から解放されて、今初めてあいつは自由になったと言っていた、俺達に拉致されてる身なのにな」
「俺はこんなんだから、日を追うごとにひとつずつ人として大切な何かを失くしていってる」
「自分で望んだことだが、悲しいのか、腹立たしいのか、それすらも分からなくなった」
何を言ってるのか、教官にはすぐにはピンとこないようだった。
「最近な、シンディを見てるとほんの少しだけ心が和らぐような気がするんだ、その気持ちは縋り付きたい程、ほんの少し人らしい」
「生活を……花が綻ぶように、その瞬間々々に生きるってこと自体を楽しんでるあいつを見るのは、俺の救いなんだ」
「教官の救いは、なんだ?」
「……救い?、救いなどとは考えたことが無かったな」
「身体を動かしているとき、クエストに取り組んでいるとき、闘いに没頭しているときは、欲深く罪深い性欲も鎌首を擡げることはないと思う、救いとはちょっと違うか?」
「俺はな、教官がスキルで縛ってまで俺を裏切らないと課した枷があると思えば、教官だけは信じられるんじゃないかってほんの少し踏み止まれた……人間不信に凝り固まっていた、この俺がだ」
「恩を仇で返すなんざ平気の平左で、別に今迄も、これからも、心は痛まないと思っていた……正直、教官が俺を育ててくれたってことに感謝はしていても、以前の俺ならきっと必要とあらば、あっさり切り捨てただろう、間違いなく」
そう言って俺は、教官の前に跪いて、教官の手を取った。
「今は……教官を信じ続けることが、やっぱり俺の救いになってるんだって思えるまでになった」
「なら、そんな気持ちに応える為に、俺は教官のことを終生絶えることなく命懸けで守り抜くと誓う……それが、心の底から大切だと思える者への、何ものにも代え難い、本当の意味での特別への答えだ」
俺がそんなことを口にするとは思わなかったんだろう、吃驚したように俯いていた顔を振り上げた。
「それは、教官の救いになるか?」
ビヨンド教官は、見たこともない心細そうな顔で、唯フルフルと唇を震わせていた。
「戦塵に在るときも、迷えるときも変わらず教官を守り続ける……尊敬と恩義じゃない、愛する者への答えだ」
男と女の身体の関係が総てじゃないし、別に無くても愛の形は変わらない……したくなければしなけりゃ良いし、したくなったらすれば良い、ウンコ穴アクメが好きだと言っても俺は教官を拒絶しない、そうと言ったら行き成り抱き付いて来た教官の締め付けが苦しくて、思わず格闘技の関節技の練習をしてた頃を思い出した。
一度、模擬戦で下から組まれたガードポジションからのチキンウィング・アームロックで腕を挫かれたとき、教官の両脚が胴を締め付ける怪力が半端なくて、身体強化と硬気功を用いていても千切れるかと思ったが、あん時も薄れゆく意識の中で、教官の女としての甘い香りを嗅ぎながら悄然としていたっけ。
得意気にシレっと笑う究極の容姿が、恨めしかった。
だが、確かにあの時、濡れて光るこの人の澄んだブルーの瞳に魅せられていた。
はっと思ったら遅かった。
我を忘れた教官は、唯抱き締めてる積もりなんだろうが、自然と首が締まる、やばいっ、もう声も出ねえ……俺が必死で教官の腕をタップしてる時だった。
(ソラン、済まぬっ、マクシミリアンがしくじった!)
シンディ姫の能力解析に、昨晩からウルディスの施設で実験を繰り返していたネメシスが、今迄に感じたことが無い程の慌てふためき振りで思念を送って来た。
現実世界がぐにゃりと歪んだ。俺達の意識は真っ白い光に溶け込んでいった。咄嗟に反応が出来ないまま、浮遊城ウルディスごと俺達は異世界へと飛び立った。
こことは異なる別の世界、見知った常識の通用しない世界、異世界放浪の長い長い旅の始まりだった。
毎度お馴染みのご都合主義で、アザレアは人外の力を手に入れました
……と言うお話です
てんこ盛りで40000字ちょっとの長いお話になってしまいました
そして岩窟王かロビンソン・クルーソーよろしく、平行異次元世界に飛ばされたソラン一行が漂泊の旅に出ます、有為転変する復讐行の冒険譚はいったい何処に行き着こうとしているのでしょうか?
ブラッディ・マリー=16世紀のイングランド女王、メアリー1世の異名に由来するといわれている/メアリーは即位後300人にも及ぶプロテスタントを処刑したことから、“血まみれメアリー”〈Bloody Mary〉 と呼ばれ恐れられていた/このカクテルはトマトジュースの色と粘性を血液にみたてて、“ブラッディ・メアリー”の名がついたといわれている
スパークリング・ワイン=二酸化炭素を多く含むワインのことで、開栓すると圧力が下がって二酸化炭素が気泡として立ち上る/代表的な物にフランスのシャンパーニュ地方特産のシャンパンがあり、原産地呼称委員会が定めるAOCの認証を受けた、シャンパーニュ地方産の発泡性ワインのみ正式に名乗ることが出来る
ワインは発酵の段階で炭酸ガスを放出するので発酵が終わりきらないうちに瓶詰めすると、瓶の中で発酵が続き、発生した炭酸ガスはワインの中に溶け込んで発泡する
松笠造り=鯛の刺身の独特な調理法で皮の食感、皮と身の間のコクのある旨みが味わえる/皮付きの冊取りの状態で湯煎や直火で炙るなどして、氷水に落とし〆てやると皮目が松笠状になることから松笠造りと呼ばれる
鯛飯=一般的にイメージされる鯛めしは鯛を一尾まるごと飯に炊き込んで作ったものを指し、鯛は臭みを取り香ばしさを出すために予め焼かれ、米飯の味付けには醤油、塩、酒、味醂、昆布出汁などが用いられる/炊飯には土鍋が使われることが多く、炊き上がったら骨を外し、身をほぐして取り分ける/薬味には木の芽や針生姜などをあしらい、湯茶をかけて鯛茶漬けとしても美味
蕪蒸し=卸したり千切りにしたカブを魚等にかぶせて蒸した料理で、蕪は皮を剥いて摺り卸し、まとまるくらいに水気を取り、卵白・片栗粉・銀杏を合わせて使われる
水菜=アブラナ科の越年草で植物学的には、アブラナやカブなどと同種である/茎葉が食用に利用され、食材としての旬は晩秋から冬の11月~3月で、葉が淡い緑色/歯触りの良い食感が良く、味に癖がないため様々な料理に幅広く使われるが、独特のシャキシャキした食感を損なわないため、火を通し過ぎないように調理する
海老真薯=エビの白身を摺りつぶしたものに山芋や卵白、だし汁などを加えて味をつけ、蒸したり、茹でたり、揚げたりして調理したもので、お吸い物やおでんの具にしたり直接薬味をつけて食べるなどする/八百善の四代目当主、栗山善四郎によって著された江戸料理の献立集、「料理通」〈1822年〉によれば玉子の白みだけを加えたものを蒲ぼこ、薯蕷〈やまのいも〉と鶏卵〈とりのこ〉の白みを加えて練ったものを真薯というとされている
懐石料理=茶の湯の食事であり、正式の茶事において「薄茶」「濃茶」を喫する前に提供される料理のこと/利休時代の茶会記では茶会の食事について「会席」「ふるまい」と記されており、本来は会席料理と同じ起源であったことが分かるが、江戸時代になって茶道が理論化されるに伴い禅宗の温石に通じる「懐石」の文字が当てられるようになった……懐石とは寒期に蛇紋岩・軽石などを火で加熱したものなどを布に包み懐に入れる暖房具〈温石〉を意味する/天正年間には堺の町衆を中心としてわび茶が形成されており、その食事の形式として一汁三菜が定着したが、これは「南方録」でも強調され、「懐石」=「一汁三菜」という公式が成立する/また江戸時代には、三菜を刺身〈向付〉、煮物椀、焼き物とする形式が確立するが、正午の茶事懐石の流れとしてはまず手前に利休箸〈両端が細くなった杉箸〉が添えられた飯碗、汁碗、向付を乗せた折敷〈脚のない膳〉が配られる→一献目の酒が出された後、一汁三菜の2菜目に当たる煮物碗が出されるが多くは澄まし汁仕立てである→次に一汁三菜の3菜目に当たる焼物がでるが、煮物椀が客一人一人に配られるのに対し焼物は大きめの鉢に盛った料理〈焼魚など〉を取り回す→現代の茶事では一汁三菜に加え「預け鉢」あるいは「進め鉢」と称してもう一品、炊き合わせなどの料理が出されることが普通で、これも大きめの鉢に盛り合わせた料理を取り箸で取り分ける→小吸い物椀は食事の最後に出される吸物で、味付けはごく薄く、「箸洗い」「すすぎ汁」とも称して、蓋は後ほど酒の肴を受けるために使用する〈食事はここで終わり、以後は盃事となる〉→八寸〈約25cm〉四方の杉の素木の角盆に酒の肴となる珍味を2品、盛り合わせたものでひとつが海の幸ならもう一品は山の幸というように変化をつけるのがならわしであり、正客の盃に酒を注ぎ、八寸に盛った肴を正客の吸物椀の蓋を器として取り分ける→以降、香の物、菓子と進み茶事への流れとなる
鯛茶漬け=鯛飯は愛媛県の郷土料理の一つとして知られるが、地域によって大きく二つの種類に分けられ、 東予地方や中予地方では一般的な焼き鯛の炊き込みご飯を鯛めしと呼ぶが、宇和島市を中心とする南予地方では鯛の刺身を、醤油を主体としたタレに生卵、胡麻、刻み葱などの薬味を混ぜたものに和え、ご飯に載せたものを鯛めしと呼ぶ/古くから日本に存在する茶を使わない茶漬けには、米飯に出汁をかけたものが挙げられるが、この出汁をかけるタイプの茶漬けは特に北越地方で好まれてきたため、出汁をかけた茶漬けには越後茶漬けという別称も存在する
ゴグマゴグ=イギリスがまだアルビオンと呼ばれていた頃の太古のブリテン島に住んでいたと言われる巨人で、「ブリタニア列王の事績」ではゲオマグス〈Geomagus〉と呼ばれた/ジェフリー・オブ・モンマス著の「ブリタニア列王史」では、コーンウォール山の洞窟に棲む巨人達のリーダーとして登場し、ブルートゥス軍がブリテン島に上陸した時、ゴグマゴグ達は全力で抵抗したが最終的にゴグマゴグ一人だけになり、ブルートゥス軍の副将軍コリネウスとの一騎討ちに敗れる
アレゴリー=抽象的なことがらを具体化する表現技法のひとつで、おもに絵画、詩文などの表現芸術の分野で駆使される/意味としては比喩に近いが日本語では寓意、もしくは寓意像と訳され、詩歌においては「諷喩」とほぼ同等の意味を持つ/またイソップ寓話に代表される置き換えられた象徴であり、歴史的にはギリシアにおいて神話上の人物を哲学的に解釈し始めた頃に生まれた概念であるとされる/その後聖書なども同じアプローチで解釈が行なわれた結果、キリスト教神学と中世の実在論哲学においてこの概念は大きく発展した
ヨハネの黙示録=「新約聖書〈クリスチャン・ギリシア語聖書〉」の最後に配された聖典であり、「新約聖書」の中で唯一預言書的性格を持つ書である/キリスト教徒の間でも、その解釈と正典への受け入れをめぐって多くの論議を呼びおこしてきた書物であり、2世紀に書かれたと言われているムラトリ正典目録に含まれており、西暦397年に開催されたカルタゴ会議ではヨハネの黙示録を含む27文書が正典として認められた/聖書自身の自己証言による伝統的な理解では「ヨハネによる福音書」、「ヨハネの手紙一・二・三」、「ヨハネの黙示録」の著者をすべて使徒ヨハネであると考えてきた/西暦2世紀のパピアスは、この書を使徒の作とみなしており、2世紀の殉教者ユスティヌスは自著、「ユダヤ人トリュフォンとの対話」の中で“キリストの使徒の一人で、名をヨハネという、ある人がわたしたちと共にいた、彼は自分の受けた啓示によって預言をした”と述べている/構成として「ヨハネの黙示録」は古代キリスト教の小アジアにおける七つの主要な教会にあてられる書簡という形をとっていて、また子羊が七つの封印を開封する〈6章-8章5節〉、七人の天使がラッパを吹く〈8章6節-11章19節〉、最後の七つの災い 神の怒りが極みに達する〈15章-16章〉と続き、その後の千年帝国の終末論が語られる
ハルパー=古代ギリシアで使用されていた刀剣の一種で刀身が鎌のように大きく湾曲した形状をしており、刃は内側にある/主な使用法は湾曲した刃を引っ掛けて力任せに切り落としたが、ギリシア神話においてヘルメスの武器として度々登場する/鍛冶神ヘパイストスが鍛造したアダマントのハルパーはクロノスによる天空神ウラヌスの去勢、巨人アルゴスの暗殺、英雄ペルセウスのメドゥーサ討伐などに使用され、例え相手が不死の神や怪物であっても効力を発揮したといわれている
コッド・ピース=14世紀から16世紀末にかけて流行した股間の前開き部分を覆うための布のことで、フランスではブラゲット〈braguette〉と呼ばれ、小物などを入れる用にも充てたため日本語では股袋と訳される/16世紀には当時の体型を誇張する風潮から詰め物や装飾が施され男らしさの主張となった……15世紀頃から軽快な服装に人気が集まり衣服の丈は短くなり始め、もともと鎧の下に着る防弾衣だったキルティングを施したダブレットまたはプールポワンと呼ばれる衣装が日常着となったためショースは尻が縫われるようになり、体にぴったりと密着するようになったがショースの前は用便のために縫われないままであったため、コッドピースは必需品となる/ぴったりとしたショースに取り付けられたコッドピースは男性たちが己の魅力を競い合うためのものとなって、色鮮やかなリボンやレースなどで飾られるようになった
ダマスカス鋼=木目状の模様を特徴とする鋼であり、古代インドで開発された坩堝鋼であるウーツ鋼の別称/ダマスカス鋼の名はシリアのダマスカスで製造されていた刀剣などの製品にウーツ鋼が用いられていたことに由来する/異種の金属を積層鍛造して模様を浮かび上がらせた鋼材もダマスカス鋼と呼ばれているが、本来のダマスカス鋼の模様は坩堝による製鋼における内部結晶作用に起因するものである
微小なカーバイド〈Fe3C〉の層からなる模様を特徴とするが、南インドで紀元前6世紀に開発され世界的に輸出された/ウーツ鋼によるダマスカス刀剣の製法は失われた技術となっていて、高品質のダマスカス刀剣が最後に作られた時期は定かではないが、おそらく1750年頃であり、低品質のものでも19世紀初期より後の製造ではないと考えられる/材料工学者の J. D. Verhoeven とナイフメーカーの A. H. Pendray らは現存するダマスカス刀剣を解析することにより、当時の製法を再現する試みを行っている……製法はまず、鉄鉱石に木炭や生の木の葉を坩堝に入れ、炉で溶かした後に坩堝を割ると、ウーツ鋼のインゴットを得る、次にウーツ鋼からナイフを鍛造する、ダマスカス刀剣の特徴となるダマスク模様として炭素鋼の粒子が層状に配列するためには鋼材に不純物として特にバナジウムが必要であったとされる/このことから、ウーツ鋼とダマスカス刀剣の生産が近代まで持続しなかった原因をインドに産したバナジウムを含む鉄鉱石の枯渇に帰する推測を行っている
バルティザン=中世の城や城壁などの建築物で、壁から張り出して上に向かって伸びている小さい塔であり、張り出し櫓とも呼ばれる/タレットの一種で壁から突き出しているものを指し、13世紀中頃から16世紀頃までの城郭建築によく用いられた/特に14世紀以降のスコットランドやイングランド北部で流行した建築様式で、初期の張り出し櫓の中には壁面下方に長く伸びているものもあるが、中世後期以降の張り出し櫓は城壁や城の隅部の胸壁より上に造られた/城を防御する側が隣接する壁に対して援護射撃するための突き出た場所を提供するのに使われた/持ち送り積みで壁面から突出しており、多くの場合は円形断面で、土台がある側防塔やタレットに比して掘削されるおそれがないという軍事的利点もあった
テピダリウム=古代ローマの公衆浴場にあった微温浴室で、床暖房システムの一種であるハイポコーストで熱していた/床や壁に接する部分から人体に熱がほどよく伝わることを特徴とし、ローマの公衆浴場ではテピダリウムはその中心の大ホールとなっていて、そこから他のグループ化されたホールに出入りするようになっていた/入浴者はまずテピダリウムに入り、そこから高温浴室〈カルダリウム)や冷室〈フリギダリウム)へと向かった/大浴場は大理石やモザイクで豪華に飾られて高窓から採光し、貴重な芸術品を飾っていた/1546年、パウルス3世の命による発掘でカラカラ浴場からファルネーゼのヘラクレスなどの彫像、その他多数の宝物が見つかりバチカンやナポリの博物館に移された
カルダリウム=床暖房システムの一種であるハイポコーストで熱した非常に高温多湿の部屋で、古代ローマ公衆浴場の中でも最も高温の部屋/入浴者はその後テピダリウム、フリギダリウムと進んでいく/カリダリウムにはお湯をはった湯船があり、時にはサウナのように汗を流すラコニクムもあった
ガードポジション=格闘技におけるグラウンドポジションのひとつで、仰向けで向かい合った上の相手との間を下の者が脚で隔てていたり両脚で上の相手の胴や脚を絡めている状態をいい、ポジショニング技術における重要な要素である/上級者は上からの打撃をいなすことができる
チキンウィング・アームロック=相手の腕を曲げて体の裏側に捻るダブルリストロック/片方の手で相手の手首を掴み、更にもう一方の腕で“4の字”を作り、相手の腕を絡めながら自分の手首を掴み、相手の手を相手の背後に回すように捻ると、絡めた腕が支点となるテコの原理で肩関節にダメージを与えることができる/下から仕掛ける場合は胴体を両脚でしっかり挟んで腕を背中側に捻り上げ極める
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私、漢字が苦手なもので誤字脱字報告もありましたらお願いします
別口でエッセイも載せましたので、ご興味のある方は一度ひやかしてみてください
短めですのでスマホで読むには最適かと……是非、通勤・通学のお供にどうぞ、一応R15です
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