41.タイダル・リリィは赤内障の仮面をはずさない
もう視覚矯正マスクは必要ない筈なのに、リリィは風呂に入るときも仮面をはずそうとしない。何故だと問うてみたら、ヒルデの姉さんだから話すが、素顔を見せるのが恥ずかしいと言う。
こいつは昔からこう言う奴なんだ、蓮っ葉な言動のくせに妙にナイーブなところがある。
「“韃靼人の踊り”が聴きたい!」
超気分屋気質のドロシー様が、船の食堂でタンドールチキンを左手に、芥子菜と羊のサグマトンカレーを頬張りながら、急に奇矯なことを言い出しました。
たまに模様替えをする広々として開放感のある今日のカフェテリアは、エドワード7世風の台所を模していました。白い膠のキッチン家具や彩陶タイルの床、植物をモチーフにした火格子のある暖炉、アール・デコ調のランプシェード、骨董風の額縁やクロムメッキの間接照明風ロングスタンド、背の高い植栽などで、居心地の良い空間を演出しています。
この間まではホテル・ナンシーのメインダイニング風で、少し格式が高かったのです。
私とデュシャンは、本日のC定食、濃厚ラムの骨付き肋肉煮込みにシャンピニオンと胡桃のソースを添えたものと牡蠣のブリオッシュを頂いていました。
ブリュンヒルデ様は最近ハマっているキドニーパイとスタウトビールです。
ステラ様は醤油拉麺を啜っておられました。
最近分かったのですが、ステラ様はラーメンがお好きです。
「“ポロヴェツ人の踊り”が聴きたいんだっ!」
このようにして突然、ごくたまにですがドロシー様の我が儘が始まることがあります。
何でも、昔の修行時代に鬼の師匠様がおかかえになっていた水銀髑髏の室内弦楽四重奏楽団、“ファントム・カルテット”がよく弾いてくれた曲なんだとかで急に聴きたいとおっしゃられても、生演奏は無理かと思いましたが、何故か皆んなで練習すると言う話になってしまいました。
「チェロはステラ姉で決まりね、ヴィオラはあたしに演らせて」
「ヴァイオリンはエリスとマルセル、キキはグランド・フルート、デュシャンはオーボエで、ブリュンヒルデはファゴットだ……将来的にスチールドラムか、ガムラン音楽のボナンとコラボレーションしようかと思ってる」
そう言ってドロシー様は私達に、この楽器構成で編曲した楽譜と演奏スキルをダウンロード? インストール? 兎に角半強制的に付与したのでした。
それまでヴァイオリンという楽器どころか、ク、クラッシック?と言う音楽ジャンルさえ知らないド素人の門外漢も巻き込んで協奏曲とかを演ろうという、神をも畏れぬ所業が始まろうとしています。
私、分かっちゃいました。これは、あれです、ドロシー様が納得するまで永遠に終わらない奴です。
「ねぇ、この楽譜だとさぁ、ヴァイオリン弾きながらコーラスになってるよね……幾ら何でも弾きながら歌うのは無理じゃねっ?」
エリス様に言われて初めて気がつきました。
“乙女達の踊り”の楽章には女性コーラスがあるのですが、この楽譜によると確かに楽器を弾きながら歌う一人二役の無理くり構成になっています。
「何を言ってるエリス、鬼師匠の言葉を忘れたか? “何事も遣る気さえあればできない事は無い”……至言にして単純明快な真理だ!」
あぁ、この無茶振りも知ってます。これは、あれです、地獄の特訓決定コースって奴です。確実に修羅場っちゃう奴です。
単純明快って怖いです!
エリス様に聞いたのですが、お師匠様って人は根性論至上主義を絵に描いたような人で、それを一番忠実に引き継いでいるのがドロシー様なんだそうです。
“ノーキン”と言うそうです。
「あのぅ、遣らなければ駄目でしょうか?」
よせばいいのにデュシャンが無意味な反駁をしてしまいました。
そうそう、デュシャンには先日私がレッ、レズビアンではないかと在らぬ疑いを掛けられて必死で弁明しました。念のため言っておきますが、わ、私は神に誓ってノーマルです。
ただ、気を失って、目覚めるときに女性の腕の中だと多少気持ち好くてドキドキするだけです。変態じゃありません。
「何っ、やなの?」
ドロシー様がこれ以上は無いといった調子で、思いっきり堅い表情をされます。
「めっ、滅相も御座いませんっ、精一杯遣らせて頂きます!」
長いものに巻かれて生きてきたデュシャン、貴女はヘタレです。
私はマルセル、残りの人生をドロシー様のために捧げると心に決めた者……でも、何故か涙目です。
後でお話があります、とドロシー様に冷たい目で告げられて仕舞いました。これはあれです、ご褒美の折檻です!
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怨嗟の呻き声を口籠らせるソランの見ている前でゲスに盛り、散々に打ちのめして置き去りにしたあの日からもう8年近くも経つのだろうか?
極悪非道の勇者が死んで、従者の加護を失い王宮をお払い箱になった。
身の置き所が無くて国中を彷徨った。
肉体に埋め込まれた淫靡さを追い求めるピアスの魔力で悍ましい交接がやめられず、そして生き延びる金欲しさに身体を売った。
出会って救い上げてくれた師匠に、血を吐くような厳しい修行を課せられた。
師匠の命で巡礼の旅を始めた。
嘗ての勇者ハーレムの毒牙に掛かりし女達のその後のリハビリに時を費やした。
私達が手に掛けた多くの無垢な命、水子供養のためにストゥーパを建立した。
師匠は贖罪のために善行を積む旅を、100年は続けろと命じた。
100年なんて長生きする筈も無いと思ったが、色々と事情が変わってきた今日この頃だ。
別に旅の途中で会いに行くことは、止められてはいない。
止められてはいないが、おそらく会えば、ソランは私達を殺そうとするかもしれない。
その時になってみなければ分からないが、ソランの憎しみを受け止めてしまえば多分、私達3人は敢えてソランに討たれてしまう。
贖罪の旅は道半ばにして潰え、師匠との約束は破ることになるが、それも仕方ないかなと思っていた。
だが、色々とそうもいかない事情が出来てしまった。
時は悲しみを癒し、恨みも恩讐の彼方に翳むかもしれないしあるいは翳まないかもしれない、でもソランの場合は恨み抜いて忘れることは無いと、何となく感じる。
裏切った私達に蔑まれた憎しみはくつがえすことも出来ずに、時と共に強く募っているかもしれない。
ソランにとって私は、私達は心や誓いよりも快楽を選び取ったさもしい寝取られ女以外の何者でもなかったし、事実その通りだったからだ。
どうしているのだろうか?
私達の仕打ちに自暴自棄になって、荒んでいたりしないだろうか?
身体を壊したりしていないだろうか?
過去から立ち直り、新しい人生を始めてくれていればいいのだが、無理だろうな……
気にならない筈がなかった。
だが、会いに行くのが怖かった。
遠目に覗いてみることすら、躊躇ってしまう。
師匠のお蔭で、まるで息をするように強くなるためには何でもするようになった。
だというのに、ソランのことを想うとまるで産まれ立ての小鹿のようにオロオロと、どうしていいのか分からなくなってしまう。
裏切ったことを謝罪すべきだった。罪を償うために首を差し出すべきだった。
だが二度と間違えない、道を踏み誤らない魂と使命を得た今は、おいそれと死ねなくなった。56億7000万年、信じている訳ではないが衆生に対する責務がある。
と同時に、ソランに対する負い目は私にとって大切なものなのだ。
逆説的に聞こえるかもしれないが、私が生きている理由と言ってもいい。
ただ、一方通行にせよ、手紙が届いているということは、ソランも生きてはいてくれる筈だった。
どうかソランに平穏な暮らしと加護があらんことを……
使命感が心を締め付けるとき、私は自分の本質を思い出すことにしている。
将来を誓った村の幼馴染みを手酷く裏切り、何十、何百の男や女、獣姦も、時には魔物との異種族姦に身体を開き、淫乱にまぐわった腐れ外道が私の正体だ。
色に狂った発情メスの過去が、私の正体だ。
魅了に操られてとは言え、倣い覚えた快楽に無意識に溺れた5年の歳月がある。
償いのために長い道程を行こうとしている。
異世界からの転生者、ボールドウィン・マーガレットは、この世界に来て一緒になった亭主殿と添い遂げた。その性愛の様は目を見張る程の変態的なものだったが、見事に結婚生活をまっとうしたと言っていいだろう。
下種勇者のハーレムで侍女長をしていたイリアさん……長く寝取られ亭主を裏切り続けたが、最後の最後にコキュと蔑まれた旦那と一枚の絵の中に、永遠に閉じ込められることを自ら選んだ。
今もシェスタ王立美術館特別展示室に掲げられた絵の中に居る。
どちらの夫婦も純愛に殉じたかと言えば、人は首を傾げるかもしれないが、私からすれば素直に羨ましい。
最近は何か情緒的なものが精神安定剤になっている。
音楽の安らぎは心を癒す。
モルヒネのように、鋭く切り込まれた心の痛みを和らげてくれる。まるで麻酔が効いてくるようにじんわりと、心と身体の強張りを解きほぐしてくれる。
嘗て師匠のもと、死線を彷徨うような凄絶な訓練下にあったとき、食べることの他は、唯一の慰撫がファントム・カルテットの弦楽四重奏だった。
今はもう会えなくなってしまった彼等の演奏は、珠玉だった。
また聴きたいと思っても、叶わぬ夢だ。
自分達であの高み迄昇ろうと、無茶な野望を思い付いた。
私の手許には、またもやステラ姉から譲って貰った数多ある何処かの世界の名工アントニオ・ストラディヴァリの手になるヴィオラがあった。
例によって、師匠の謎の交響楽団がメンテナンスしていたものだから、保管ケースは最良の湿度を保つ呪が掛けられている。
よく言われるのは、彼の用いたニスには胴を共鳴させる小さな鉄分が含まれていたというものだが、ジャズがマイブームだった時にウッドベースの塗装を自ら遣り直した経験から職人芸の勘と技には一家言がある……私は自分の腕前を、そう自負している。
ニスの配合を研究している内に、亜麻仁油や椿油など植物系の天然素材に次いで色々と創意工夫と試行錯誤の末、ごく微量のエッセンスと言うか、その収斂性から音を滑らかにする画期的な効果が得られる郭公草石蚕の青い原生種を利用することを思いついた。
だが問題は、原生種が見当たらぬ。そいつは絶滅種だったからだ。
早速、以前に蹂躙してしまったボタニカル・キャニオンの自治領アスクレピオスに強権発動的に問い合わせてみたが、知らぬ存ぜぬの、けんもほろろの返事だった。
まぁ、世界一の規模にして、おそらく最古の“標本室”を土足で踏み荒らした経緯から、無理目な願いではあったが……
私はこれらの知識を、法王聖庁紀元前後に生き、“薬野草處方百科全書”と言う20巻にも渡る大著をあらわした女性の植物学者ヒルデガルド・フォン・ビンゲンという、ルペルツベルク女子修道会の院長だった人物の書き残したものから得た。
彼女の生きた時代なら、確実にある筈だ。
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スキッドブラドニールの理容室は、私とマルセルしかほとんど利用しません。
ドロシー様方は完璧に自らの新陳代謝をコントロールできるので、髪や肌の手入れをする必要がないからです。伺った話によると、食物摂取や排泄さえその気になればストップできるし、現に修行時代に飲まず食わず、眠らずの昼夜無差別行軍演習を何週間もぶっ続けで遣らされたらしいのです。
炭水化物や水分に頼らず、エネルギーを直接摂取するかあるいは生み出す方法を何種類か伝授されているとのことです。
流石に普段からそれを遣ると、まるで雲か霞を食む仙人みたいになって人としての喜怒哀楽から離れてしまうので、遣らないとのことでしたが……
そうそう、キキ様は誰かに連れられてたまにお見えになります。
ブリュンヒルデ様は、その身体の組成から強化有機質半分、人工物半分といったところらしいのですが、あの綺麗な髪の毛は、何に使うのかは教えて貰えませんでしたが、実は丈夫な光ファイバーだそうです。
人間と同じ骨格の他に、皮下脂肪の下にインナー装甲ともいうべき外骨格を備えているので、男からしたら抱き心地が悪かろうと本人がおっしゃってました。一応次世代の人造アンドロイドを産み落とす高性能育成ポッドともいうべき人工子宮を備えていて、受精で妊娠可能だそうです。
人間離れした方々は睡眠もあまり必要ないらしく昼夜分かたず精力的に活動されていますが、ブリュンヒルデ様だけは船内にある軍事スペックのアスレチックセンターと同じぐらいの頻度で理容室に顔を出しています。
私達二人は三日に上げず、過酷な訓練で痛む肌や髪の毛(切り傷程度は治癒魔術で自分で治せるのですが)、ネイルや肘膝の角質などのケアに通っています。
以前のように女を武器にする任務がある訳ではありませんが、女らしさを磨く慣習を何となく続けています。ただ見た目の手入れは、今までは自分達でやっていましたから、エステと言うそうですが、美顔や無駄毛処理のデリケートな部分もシルキー達に色々やって貰えるのですごく楽チンです。
正直、身体が悲鳴をあげる程クタクタになった後はシャワーを浴びるのもつらいので助かっています。
理容室を利用するようになって、髪の毛が以前にも増して艶が出てきましたし肌の張りも違ってきたように思えます。
お洒落さんのマルセルは、こだわりのヘアスタイルを手早く解いて洗髪し、また編み込んで貰えるのに、心の底から感激していました。
キキ様はご自分で編み込むこともできますが、ステラ様に編んで貰うことが多いようです。サイド編みやロープ編み、尻尾のように後ろに垂らすフィッシュボーンなど様々です。
髪の手入れには無頓着だったキキ様ですが、最近はたまにトリートメントに生出になります。大抵はステラ様に伴われてですが、特に嫌がってるご様子はありません。
理容室で使われるヘアスプレーなどは、ドロシー様の意向で天然成分が使用されていますが、完全無香料でもあります。
任務の特性上、きつい匂いを振り撒く訳にはいかないからです。
私物や支給品のほとんどは、付与して貰った収納率最大のイベントリに格納しておくように言われていますが、艦内に与えられた私室は好きに使って良いというので、私はロココ様式の家具達、姿見やドレッサー、長椅子、腰掛、マホガニーの本棚、読書机などでインテリアを統一しています。
壁面の大型モニターは、普段はジムノペディなどのイージーリスニングと言うか環境音楽とやらを流しているのですが、画面は分割された世界中の主要都市50箇所のライブカメラを映しています。
マルセルの部屋をチラッと覗いたら、可愛らしい縫いぐるみと呼ばれるものが(キキ様に教えて貰ってホテル・ナンシーのファンシー・ショップで購入してるそうです)、所狭しと溢れていました。
エリス様曰く“少女趣味丸出し”と言うそうです。
この間などは5日間に及ぶサバイバル模擬戦闘訓練で、ずっとテント泊でしたから戻って自室のベッドに倒れ込む瞬間が至福でした。
―――気になるのは、理容室にブリュンヒルデ様がいらっしゃるときは決まってマルセルが熱い視線を送っていることです。
本人は必死で弁明していましたが、論より証拠で気が付いていないのが不思議なぐらい秋波が駄々洩れです。
私は信心深くも真面目な女神教徒ではありますが、他人の恋路を邪魔するつもりもありませんし、個人的な恋愛感情には理解があるつもりです。
女と女は駄目だと言うつもりもありませんし、ただ節度を守ってお付き合いして欲しいと願うばかりです、えぇ本当に……
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オッパイ女神のガラティアを脅して、3000年の時を遡ってきた。
本来、これ程の時間移動は許されていない。
「絶対、過去に生きてる人間と接触しないでくださいね!」
「禁則を破っての過去遡行、バレたらこの私も粛清されてしまいますっ……のです」
「分かったよ、何度もしつこいなぁ、必要な原生種を採取するだけだって」
ヒルデガルド・フォン・ビンゲンとやらが晩年まで過ごしたルペルツベルク修道院の近くを散策すれば簡単に見つかるだろうとの甘い見通しから、件の修道院があったというキューブリック高地の近くにやって来た。
数万年前の地殻変動でその名を冠するテーブル・マウンテンはすっかり跡形もないが、ここが世界に類を見ない大きな経済都市に発展するなど想像もできない荒地だった。
確か、ここにはブリュンヒルデが幽閉された牢獄の夜叉神峠があった筈だ。
この時代、ここいらは未開も未開、人里離れた陸の孤島かと思っていたが、案外に大きめの集落や宿場町のような人の暮らす地域が築かれていた。
ルペルツベルクは修道院とは名ばかりの、荒れ果てた城塞砦のような場所で、住み着いているのも修道女ではなく、どちらかというとアマゾネスのような女性僧兵達だった。
遠目に覗いても弓矢の稽古や、騎馬掛けの訓練をしていた。
史実に残された記録はどうやら片手間であったようだ。
薬草を採取して暮らす敬虔な修道女を想像していただけに、違和感が否めない。
どうやら院長のヒルデガルドは存命のようだ。修道院の院長とは映らなかったが、それらしき姿を認めた。
(これはっ!)
歴史に名を遺すヒルデガルドが実は仮の姿なのが、一目サーチングしただけで明らかになった。
彼女はワルキューレ・シリーズの一体だった。
バックアップ・スタッフが周囲に居ないか確認したが、どうやら単体のようだ。
ヘドロック・セルダンの影は無いが、油断はできない。
だが一線を外されてしまったブリュンヒルデと違って、他のワルキューレならば大陸救済協会計画の内部情報の片鱗を持っているかもしれない。
予期せぬ偶然の邂逅に油断があった。
こちらの探索プルーブに気が付いたヒルデガルドが、転移して来ようとする予兆が感じ取れたが、敢えて逃げも隠れもしなかった。
直接当たってみたかったのだ。
(ダメ、ダメ、ダメダメダメッ、やめてくださいいぃっ!)
魔導クロノメーターの中からオッパイ女神が制するが、もう遅い。
一瞬で転移してきた相手は、ワルキューレの名に恥じぬように武張って大柄な女だった。
黒尽くめの異様ないでたちだ。
真っ黒い全身鎧はどうやら高分子化されたタングステンカーバイトで出来ているようだ。羽織るマントの素材も強化カーボンナノチューブを線維化したものだ。
目許を隠すように顔半分程も覆うような黒い仮面を着けている。
髪も黒いが肌はやけに白い、小さな唇だけがまるで薔薇のように真っ赤だった。
「「「何奴かっ!」」」
同時に何ヵ国語かで誰何してくる。
「赤内障? 既往症として初めて聞く症状だが、視神経異常はアンドロイド体の仕様ミスじゃないのか?」
「何故それをっ!」
女は刃渡り2メートルもあろうかという漆黒の大剣を構えた。
鞘から抜けないので抜き身のまま担いでいるらしいそれは、光を吸い取るような幅広の刀身がまるで闇そのもののように金属の光沢を持たない。
魔剣の類だった。
「必要な情報は全て頂いた、お前自身が知ってることも知らないことも……例えばその躯体の製造番号や識別コードなど諸々だ」
「……尚更に見逃す訳にはいかなくなった、切り捨ててから身分を探るとしよう」
噴き出す剣気の圧力が倍増しになる。顔を隠してはいるが、女らしい口許が妙に愛らしかった。興味の外なので透視はしないが、きっと素顔は綺麗に違いない。
「大した剣圧だが、まだ足らぬ……一手指南する代わりに、丁度採取済みの青い郭公草石蚕が修道院にあるようだ、そちらを頂いて帰りたい」
右手を前に突き出すと、左脇ホルスターから手の平に吸い付くように“無明丸”が滑り出た。
抜いた途端、私の剣気で辺りは凍り付く程に体感温度が下がって行った。
「師匠譲りの髭剃り用の剃刀を構えるとき、それは私が本気で相手をすると言うことだ、念のため知っておいて貰いたい」
私の言葉を威嚇と見たか、それとも彼我の実力差に絶望を見たか、女が無二無三に踏み込んできた。
振り被り、振り下ろす大剣は、私にすれば心の籠らない手打ちに過ぎない。
真から斬るという気持ちが刀身に乗ったとき、即ちそれは理則を断つ刃になる。
受けもせず体捌きの歩法でかわし、目の前に振り下ろされる大剣を上から斬った。
キンッという澄んだ音色のあと、女の黒い魔剣は真っ二つに切断された。
宙を舞うことも無く、剣身の中程を断たれた片割れは、少し離れた地面に鈍い音と共に突き刺さった。
「お前の剣速より疾く、上から斬って見せた技前、確かにその目に焼き付けたか?」
「驕らぬことだ……タイダル・リリィ、それがお前のワルキューレとしての名前か?」
「良い名だな、覚えておくよ……また会えるといいな」
暫く残心の構えを取っていたが、相手に戦意が無いことを確認すると剃刀を畳んだ。
「所望した郭公草石蚕は頂戴していく」
「会えるとすれば3000年後だが、どのぐらい精進したか相手をするのが今から楽しみだ、是非会いに来てくれ」
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「タイダル・リリィって言うワルキューレと面識があるか?」
チューニングでようやっと正確にオーボエのA〈ラ〉の音が出せるようになったデュシャンを褒めているブリュンヒルデに話しかけた。
「昔の同僚だ……久しく会っていないが、どうかしたか?」
「この間、会った」
「……何処でだ?」
「3000年前のキューブリック高地近くの修道院だ」
「少し情報を得たよ、大陸救済協会はどうやらエルフの王族と同盟を結んだ」
「半分、脅威は去ったと思っている、ナンシーに調査させているがサー・ヘドロック・セルダンが今も生きているとするなら、奴は月面にいる」
「およそチェスや詰将棋などの陣地取りのボードゲームは、定石他のより多く新しい情報を制したものが勝つ、月面に逃げたセルダンが世の中をリアルにモニタリング出来ているとは思えない」
「詳しいことが分かり次第、眷属者連絡会議を召集する」
「それはそれとして、タイダル・リリィには腕を上げたらまた試合ってやると約束してしまったのでな、今何処に居るか分かるか?」
「虜囚の縛に就く前の通話バンド帯はもう放棄されたようだ、こちらのコールに応える者が無い、広範囲サーチングに引っ掛かる昔の仲間も感じられないので、もう死に絶えたかもしれぬと思っている」
「……まるで剣の妄執に取り付かれているようだった、あの女剣鬼が簡単にくたばるとも思えぬが、それとも何処かで燃え尽きたか、いや、あたしと出会っているからにはそれは考えられぬ」
「仕方ない、全域放送を遣るか?」
「“タイダル”……潮の満ち干のように自由に己が剣気を操った、故に付いた呼び名だったが、今も存命だろうか?」
「正しく剣に生きた女だったが……」
「赤内障のことは知っていたか?」
「あぁ、多分心因性のものだろう……魔物どもだけではなく、人も斬り過ぎたと言っていたから、そのせいやもしれぬ」
「絶えず視界に血飛沫が映る、なんて視覚障害は見たことも聞いたことも無いが、不便は無いのか?」
「本人と視覚共有したことがあるが、自分には耐えられそうもなかった、タイダル・リリィの不動の心と魂は信じられないぐらい、誰よりも強靭だ」
「だが四六時中視界が赤く染まるのは日常生活にも弊害が出る、幾ら何でも奴とて戦いから戦いに生きていた訳ではない……本来のあいつの性格は、草花を愛でるのが好きな、優し気なものなんだ」
「だからこその視覚矯正マスクか……完全には補正仕切れてはいないようだったが、あれで良く植物百科全書を著わせたのか不思議でしょうがない」
「血塗られた魔剣使いと植物学者の二足の草鞋は、何処でどう折り合いを付けていたのだろうか、この相反するアンビバレンスのような感情はすこぶる興味深い」
「そこでだ……嘗ての朋輩の意見を訊きたい、彼女は今も変わらずにあるのなら、その境遇から救われたいと思っているだろうか……どうだ?」
「……一概には言い切れぬ、タイダルには求道者のようなところがあった、与えられた障害を克服することが生き様と言うか、跳ね除けて生きるのがモチベーションだった部分もある」
「だが、心の奥底では救われたいと切実に願っている、自分はそう見ている」
「では、また打ち負かすとするか」
「生きているかさえ分らぬが?」
「生きてはいるさ、およそ剣に生きる者、手の届かぬ高みを見てしまったら何が何でも生き残ろうとする、高みに近づくためには泥水を啜っても命を繋ぐ……あたしがそうだから、良く分かる」
「……剣鬼と言う奴は、始末に負えんな」
そう締めくくると、ブリュンヒルデと私は共に何百回目かの音合わせに戻って行った。
各パートの個人レッスンは練習室で個別指導しているが、通し稽古は音響設備の整ったコンサートホール風なスタジオで行っている。
室内管弦楽団だから、それほど大きなものではないが、一応演奏ステージを模してある。目指すのは応用範囲の広いアンサンブル・ユニットだが、“韃靼人の踊り”が完璧に熟せるようにならなければ、次のステップに進めない。
特に厳しいのは、やはりステラ姉だ。
彼女の耳は特別製なので、ダメ出しが半端じゃない。根性無しのマルセルなどは半泣きだった。
ところでチェスとか言うボードゲームはどんなものだと言うブリュンヒルデに、異世界ではポピュラーな遊びだと手ほどきしたら、部品として奇跡的に引き継がれていたヒュペリオン全盛期の電子頭脳を組み込まれている彼女が驚異的な指し手になったのは尤もな話だった。
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主神オーディンを詐称した我等が造物主様は月へと去っちまった。
残されたメンバーに命ぜられたのは、やがて降臨するだろう“天秤の女神”に抗えと言う碌でもないものだ。
あたし等ワルキューレのメンバーも含めて、仲間達は各地へと散って、見事にバラバラになった。
一騎当千のワルキューレ・シリーズも、幾らセルフメンテナンスが存在の続く限り機能するとはいえ、リビルド・スタッフの居る施設を離れてはボディ・ケアは万全とは言えん。
つまり背水の陣だ。これから先、何万年、何十万年もの間、“天秤の女神”とやらが出現するのに徒手空拳で備えなければならないって訳だ。
ド畜生め、ボスの奴はいつもこうだ。
奇跡の天才サー・ヘドロック・セルダンは他に類を見ない緻密な思考の持ち主だったが、同時に異常なまでの猜疑心の塊で鼻持ちならない性格破綻者野郎だ。
予言者の域まで高められた帰納推論法の進化バージョンを駆使した結果得られた結論から、異様なほどに“天秤の女神”という存在を恐れていやがった。
その尋常じゃない恐れから、鬼才にして英俊知嚢の塊のようなボス、主人セルダンは己れのクローン体を幾つも創出した。
そうしたクローン体がそれぞれに独立して、驚異的な終末兵器を創出していった。科学技術の神秘はいつしか禁断の扉を開けるようにして、次々とその存在自体が害悪でしかないようなオーバーテクノロジーの産物を生み出すに至る顛末に相成った。
決して触れてはいけない、いずれもが世界を滅ぼす禁忌に満ち溢れたオー・パーツ達の誕生だ。
意図した物かどうかは分からなかったが、己れのコントロール下を離れて暴走するクローン体がオリジナルの思惑を越えて、宇宙の組成にさえ影響を与える暴威を創り出してしまったのは、明らかに計算外だった。
やがて当初のオリジナルが主宰した大陸救済協会の目的から離脱して、造反したクローン体達はそれぞれがそれぞれに勝手な行動原理で活動を開始する。
だが、当初からクローン体の離反の可能性を考慮していた狡賢いオリジナルのセルダンは、最初からクローン体に時限式の自壊機能を組み込んでいた。
ある程度の成果を生み出すために創出されたクローン体は、その役目を終えて無に帰していく運命だった……勿論、残酷なことに本人達には知らされていなかった。
この惨いやり方は、如何にもボスらしく、いつも徹底している。
事実を知って絶望したクローン体達はオリジナルの無情を恨み、最後には世界を確実に滅亡させる各々のオー・パーツ達を発動させようとさえしたが、結局は思い留まりやがった。
だが、最高傑作をオリジナルに奪還させてはなるものかと各自のオー・パーツを秘匿して銘々に散り、そして死んだ。
結局、それも計画の一環なのかそれとも予期せぬ結果なのか、あたし等には分からぬままサー・ヘドロック・セルダンは月へと逃げた。
それ程までして恐れた“天秤の女神”とはそもそも何者なのか?
あたし等、下っ端には聞かされても居ないし、今更興味も無かったが……
現世をこれほどまでに滅茶苦茶にして、有り得ない悲惨な現状を生んだ、そして下々の衆生の奴等はそれを知らない今と言う事態を招いたセルダンの強迫観念が、首をかしげるほど不思議でならなかった。
全能にして世界の覇者たるフィクサーたらんとした稀代のバケモンは、どうしようもない小心者だったって訳だ。
セルダンが月に去って何万年かが過ぎたが、当時あたしはヒルデガルド・ビンゲンと名乗り好きな植物採取と、何処をどう間違ったのか戦う修道女の育成を森厳に相努めていた。
どう言う訳か昔から草花が好きで、花図鑑のような植物画を見様見真似で沢山描いているうちに、趣味が高じて自分でボタニカルアートの植物図録を編纂しようと思い立った。
都合の良いことに、自分の強化有機質細胞の人工脳と多層構造チップの補助脳は一度見たものを忘れない。図鑑編集には打って付けの能力だ。
一方やがて来たる“天秤の女神”の闘いに何ができるのか皆目見当もつかぬまま、自分を鍛えるのに飽き足りず、敬虔な女神教徒の女達を集めては御飯事のような軍事訓練の真似事をしてみたが、所詮こんなお遊びは子供騙しのようなもんだった。
仲間と離れ離れになって好きな草花の研究に打ち込み出してはみたが、何故か故あって廃棄された古い修道院を引き継ぐことになっちまった。
眼の症状は改善されることはなかったが、セルダンのメイン工房が造ってくれた視覚矯正マスクがきちんと作動し続けてくれたのだけは有難い。
あれは聖都アウロラに法王聖庁が設置され、オールドフィールド公国正教が布教を開始した頃だったと思う。
こいつがもしかしたら“天秤の女神”かと思える程の不思議な女と会った。
最初は微弱な感知波のようなものを辿って不審者を質すつもりだったが、おそらくあいつは自らの威を偽っていた。
そいつは驚くべきことに対精神感応の類に修練を積んだあたしの分厚い心の内側に、難無く入り込んできやがった。
他人が知らねえことをピタリと言い当てやがったからには、まず間違いない。
そして、およそ剣を手挟む奴には似付かわしからぬ小さな刃物を構えた途端、天地がひっくり返る程の剣気が吹き付けて、女の正体が知れた。
あたし等のような有象無象が足元にも及ばぬ、唯一無二の頂点にして真の剣神が、そこに居た。
さながら太陽が間近にあるような、灼け付く程の凄まじいオーラに気圧され、恥晒しなことに、竦んだ。
如何な研鑽を積めばこれ程の高みに辿り着けるのか考えも及ばぬまま、押し寄せる重圧に耐えかねてあたしは打って出た。
全力で振り下ろす我が分身たる魔剣が、受けるでも無く、摺り流すでも無く、上から斬られ真っ二つに折られた。
このことはあたしの剣速など、相手にとっては蝿が留まる程に遅いと言うことだ。
女は3000年後に会うと言った。
剣に生きる者の矜恃として、ただひたすら精進に励んだ。
あの時を境に、結局あたしの本筋は剣士なのだと自覚した。魔法剣士でも聖霊剣士でもない。ただ剣を馬鹿正直に振るうだけの剣士、あの女のように……
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我がアンサンブル・デラシネは練習公演をすることにした。
全世界に向けて言霊のテレパス放送をするつもりだった。嘸かし技前を上げたであろうタイダル・リリィに呼び掛けるためだ。
どうせならまだまだ人前での演奏レベルではないのだけれどいつかはお披露目するのだからと、うちの娘達の初演奏会を思いついた。
恥ずかしい演奏をしたら懲罰だと脅して、スキッドブラドニールの甲板に野外音楽堂を設えた。
私の手には、会心の出来だったニスに塗り直したヴィオラがある。
3000年前の今は入手出来ない、ある植物のエキスを調合した特製のニスは楽器の音色を劇的に変えた。
楽団として音に魔力を籠め、旋律に福音の加護を乗せる練習もまだまだだったが、今回は全世界に向けて、メッセージを送るだけだから善しとしよう。
編曲バージョンAは、フルートとオーボエのコラボレーションから入って行く。
ご多分に漏れず“乙女達の踊り”の楽章をフィーチャーしたパターンで、ここのみを好きなだけ無限にループし、アレンジする構成にしてある。
コーラスは原曲に忠実に、異世界の露西亜語だ。
だが歌の最後には、タイダル・リリィに向けたメッセージを付け足してある。
ものに動じないメンバーが中心だが、あがり症のマルセルとデュシャンが居る。いつになく緊張している彼女等を励まそうと優しく声を掛けたら、余計怖がられた。
ステラ姉が、演奏の開始を目で合図するのに全員が肯いて応えた。
音自体は大音量ではない。
だがステラ姉と私の補佐で確実に、世界に届く。今頃は寝ているであろう星の裏側までだ。
軽く澄んだ音色から、低音を前面に出すチェロのステラ姉とファゴットのブリュンヒルデのパートに変わる。
あぁ、いいぞっ、弾けている。練習の成果が実を結びつつある。
私のヴィオラはほとんど全てのパートにおいて牽引役を果たす……音に言霊を宿している。音念思〈テレパス・サウンド〉と言う技だ。
“待っているぞ、タイダル・リリィ、あたしは此処に居る”と繰り返した。
お蔭で、世界中の人間が、それまで誰も知ることがなかったタイダル・リリィと言う女の名前を覚えた。
今や、世界中の誰よりも有名人だと思う。
私とリリィとの対決とは別に、タイダル・リリィとは何者なのか、と言う論議が暫く世情を賑わした。
剣の道に凝り固まり、血道をあげたが故に血糊を幻視するに至った女、剣の真髄を極め、そしてセルダンに与えられた使命を果たそうと生き続ける女に興味があった。
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折られた魔剣に代わる業物を探して世界を放浪した。
時には魔族領に赴き、時には噂に聞いた古代のダンジョンを訪れ、時には下げたくもない頭を下げてドワーフの刀匠に教えを請うた。
東に荒ぶる皇軍の指揮官が“神斬りの太刀”を持つと聞けば、これを夜討ちし、西に傭兵崩れの神聖騎士が“悪魔払いの聖剣”をたずさえていると耳にすれば、卑怯上等と夜盗紛いに背後を突いた。
だが眼鏡に適うものは手に入らず、結局数打ちのなまくらを次々と遣い潰した。その内、道具にこだわらない剣技を磨いた方が手っ取り早く思えてきたから、現金なもんだ……ボスの下で働いたのが長過ぎて、必要以上に貧乏性に成っちまった。
なまくらに硬化シールドを纏わせ、超振動を与えることにより切れ味を飛躍的に伸ばす技を駆使するようになった。
この技は、すぐに本身が劣化してボロボロになっちまうので、予備を何本も持ち歩くようになった。
刃渡りも、肉厚もバラバラに、背に背負っている姿はさぞかし異様なものに見えただろう……そんな修行の旅だった。
人知れず岩を割り、ドラゴンを狩り、水面に映る月を斬って、己れを鍛える、そんな月日が続いた。
格段に強くなったと誇れる今ならば、あるいはあの日、あの剣神に臆したあたしが今一度、試して貰う場へと立ち出でる資格があるだろうか?
だがきっとまだ足りぬ、まだ届かぬと言う思いも在って、再び練磨へと埋没していく所業を幾度繰り返しただろう。
剣に生き、剣に死するは、剣士の本懐……他に望みとて在りはしない。他に生きる道も無い。
やがて私は一太刀にて、河を両断し、山を削るまでになっていた。
試す訳にもいかないが、体内変換炉のエネルギーを充分に貯留できれば、おそらく星を割ることも出来ると思う。
メッセージを受け取った。
あたしが生きてきた証しが、これで示せる。例え死して尚、あたしがあたしであったことを誇りながら死んで行ける。
だが、此処とは何処だ?
暫し黙考した後、あたしは目指すべき場所を過たず歩き出した。
アンサンブル・デラシネの初演奏から半月ほど経った。
タイダル・リリィがメッセージを正しく理解したら、必ず此処にやって来る。
3000年前に彼女と会った場所……今はすっかり分譲地化されたヤクシャス・シティの郊外、エリート官僚やビジネスマンのベッドタウンになっている。
キューブリック高地の名残りに少しばかり断層が見られる地域に、昔も廃墟だったが更にすっかり朽ち果てたルペルツベルク修道院の残骸が今も在った。
最初の内は、ヤクシャス・シティの騒動で知り合った知己と再会したり、設立した青少年グループホームの具合を見て回ったりしていたが、少々待ちくたびれた。
犯した間違いから大切な筈だった十年来の伴侶を、見事な迄に決定的に失ってしまったリンダさんも、思ったよりは元気そうだった。
ヒルデは三日にあげず会いに行っているようだ……意外と優しいところがある奴だ。
キキは、この地で知り合ったガストンとベティの兄妹達のところに良く通っていたが、職業訓練所の休養日にヤクシャス・シティの水族館に行く約束をしたらしく今日は留守だった。
どうやら修道院跡地に姿を現したタイダル・リリィは、前にも増して異様さに拍車が掛かっていた。
何本もの刀や剣を背に差している姿は、まるで針鼠のような無様な格好だ。
「……ブリュンヒルデ様の匂い、落雷の灼けるような電気の刺激臭に似ています、でも同時に杜のフィトンチッドの匂いが混じっているような」
すぐに人を匂いで分析したがるマルセルが、遠巻きにしたタイダルを評していた。
「おい、唾を吐いたぞ……随分とガラの悪い奴だな?」
「キャラクター設定をした性格設計士チームのひとりが変わり者でな、可愛らしい顔の阿婆擦れを目標にしていたらしい……事実、タイダルは極端な擦れっ枯らしだ」
タイダルがようやっと嘗ての古巣に姿を現したので、ブリュンヒルデと二人で出向いたら、ステラ姉やマルセル達も付いてきた。
草原に吹き渡る穏やかな秋風が、野生のパニカムなどを優しく撫でて行った。
「ひどく荒んでいるようね?」とステラ姉、
「ほんとに人か? 剥き出しの殺意が半端じゃないぞ」とエリスが言えば、
「マナーはならず者以下ですね」とデュシャンが追随する。
「何をごちゃごちゃとくっちゃっべっている? そこに居るのはもしかしてブリュンヒルデの姉貴か?」
斜に構えた女豹の偉丈夫は、以前にも増して性格の悪そうな雰囲気が嫌増していた。ブリュンヒルデと同じぐらいの体格なのに、剽悍で素ばしこそうだ。
「久しいな、タイダル、自分も生きて再び相まみえることがあろうとは思っていなかった……健勝そうで何よりだ」
「……本当に姉貴なんだな、てっきり囚われの身に幽閉されてると思ってた」
「あたしも会えて嬉しいよ……でも、今日会いに来たのは姉貴じゃねえ、そこに居る剣の至高だ」
「3000年前に赤子のようにあしらわれ、以来強い相手を探しては武者修行の真似事などしてはみたものの、思った以上に難敵には相まみえず、孰れも喰い足りなかった」
「矢張りお前だ、名前も教えて貰えなかった至高の剣神……今日こそ雪辱を果たす」
「2週間以上も待ったが、何処で道草を食っていた……ヒルデに聞いたが、お前の飛空の推進機構は摩擦係数をゼロにしつつ、任意に落下引力を発生させるそうじゃないか?」
「……そいつは済まなかったな、途中見過ごしにできないものを見てしまったのでな、よせばいいのに首を突っ込みたくなる性分で随分と割を食っている、待たせちまって悪かった」
「まぁいい、死ぬ気で鍛えた技前とやらを拝見するとしよう、殺す気で来い!」
ストレージから師匠に強請った逸品、この世で最も美しい得物を取り出す。
黄金の戦闘槌は、銘を“黄金の天誅”と呼び、シャフトは撓うよう女神の細腕のように華麗で細く、槌頭はウイスキー瓶程の大きさでピックと八角掛矢のツーヘッド、七つの属性の高位魔力を自在に操る。
「!! 何だっ、それは……剃刀はどうしたっ?」
タイダル・リリィは意表を突かれて混乱している。こんなことで慌てふためく腰の座り方では、3000年鍛えたのは手業で、どうやら胆力は練らなかったようだ。
「お前は勘違いをしている、あたしの本質は戦士、勝ちを得るためなら何でもする、恥も外聞もなくな……」
「土台、師匠から譲り受けたのが何故剃刀だけだと思う?」
瞬動を掛けてタイダルの間合いに入る。私の瞬動は正しく神域の瞬間移動、刹那の遅滞も無い。
同じ刹那のモーションから繰り出されるスウィングは縦横無尽にタイダルを叩き、動きを封じる。
抜いて合わせた両手の剣を折り、更に抜いた剣を次々と粉微塵に破砕する。
師匠直伝の戦槌術は、一騎打ちの接近戦にも対応する。
柄の中ほどを持って体側を回す技、宙返りや体躯をスピンさせながら繰り出す技など多彩だ。
タイダルが背に差した剣は、全て折った。
一応、呷ってみるか?
「こんなものか? 3000年の練達の月日は、お前を寸分も変えなかったのか、鍛錬は紛い物か?」
瞬間、タイダルの単なる敵愾心が克己心に昇華した。
(ここで何も出来ずに屈するは、武士としての矜持に背く!)
彼女の心が、見えた。
タイダルは、爪先や肘関節にある緊急バーニアまで駆使して、一気に間を空ける。最後の一振りを腰から引き抜き、構えた。
多分、全力技を繰り出す心算だろう。
「星割りの太刀っ!」
超加速思考の中で、タイダルの一撃に確かに星を割る威力を見た。
だが、その程度の振り下ろしでは生温く、致命的に遅い。
戦闘槌のヘッドを、常人の眼には留まらぬ速さで六芒星の軌跡に振り抜く。
聖属性の究極技のひとつ、“神聖奔流清濁駆逐”の発動で、星を砕く斬撃は吹き荒れる暴風となって草原を薙ぎ倒し、雲散霧消とパージされた。
全力の一撃が届かず、エネルギー切れとなったタイダルは、膝をついて喘ぐが、その顔からは真っ二つに割れたマスクが剥がれ落ちていた。
口の悪さと、その体躯からは想像もできない慎ましくも可憐な可愛らしい顔をしていた。
「お前が捨てられぬ、お前が生きてきた求道者としての在り方、お前とセルダンの間にある因果を斬った……今、目に血飛沫は映っているか?」
タイダルは返答することも忘れて、静かに慟哭していた。
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決着はあっという間についてしまい、然しもの強化タイプ戦闘アンドロイド、ワルキューレGroupAとか言う剣技に特化されたカテゴリーの癖に、3000年も費やして、尚ドロシー様には届かなかったようです。
口の利き方も横柄だし、態度はガサツで、女の癖にまるで無頼漢みたいで、だけど簡単に負けてしまって本当に格好悪いったら……好い気味です。
あぁ、それなのに仮面の下の顔が無茶苦茶可愛いなんて、本当にズルいです。
何処ぞの国のお姫様のように可憐なお顔は、もう反則です!
これが反則でないのなら、お臍でお茶が沸いちゃいます。
あんなにヨタって、素行も礼儀も最悪で、ガタイも頑丈そうで、だと言うのにあんなに可愛い顔をしているなんて、一体全体なんの冗談でしょう?
これはあれです、前にエリス様が言っていた”ギャップ萌え”って奴に違いありません。
タイダル様に抱き起こされたい……思わず、そう考えてしまった自分が居ました。気絶から目覚めるとき、タイダル様のお顔が私を気遣って覗き込んでおられる、傍らにはブリュンヒルデ様も様子を伺っている、あぁなんて素敵なシチュエーションなんでしょう!
その為には限界を超えた修行もなんのその、追い手に帆掛けてシュラシュシュシュッです。
あぁ、いけません、暴走してしまいました。
泣き濡れた顔もまた素敵です。
私も一緒に泣いてあげます、お慰めします。だから、元気を出して頑張りましょう!
手を取り合って目指す明日はきっと明るい筈です。キャッキャッ、ウフフの薔薇色の未来が待っていますとも!
あぁ、いけません、またまた妄想の世界に行ってしまいました。
踏み込みの際の衝撃で陥没してしまった地面に片足が埋まったままなので、どうやらタイダル様は身動きが出来ないようです。
助け起こすタイダル様に向かって、斬ろうと思えば何でも斬れる、なんて哲学めいたことをドロシー様がおっしゃっています。お言葉ですけど、そんなのは後にも先にもドロシー様だけなので、あまりにも意味不明過ぎて、私が密かに書き綴っている“ドロシー様語録”にも入りません。
「形有るものにこだわるなと、師匠に散々言われた」
「形有るものを斬っているうちは二流、形の無いものを斬れてこそ一流だとも言われた……最近、ようやっとその域に達した」
「深奥義に開眼して、師匠に一歩近づけたと思っている」
「得物にこだわってはいけない、嘗てお前のあの長い魔剣を斬って捨てた技、あたしは例え握っているのが耳掻きであろうとも……同じように斬れた」
う〜ん、至言です。“耳掻きでも、斬れた”は、“ドロシー様語録”に入れる価値があるかもしれません。
メモしておきましょう。
「騙されたと思って、付いては来ぬか?」
こうしてリリィ様は仲間になりました。アンサンブル・デラシネでは重低音のコントラバスを担当しています。
この後、お話がありますとドロシー様から呼び出されたのは言うまでもありません。
エドガー・アラン・ポーの「赤死病の仮面」と言う有名な怪奇小説にあやかって、フレッド・セイバーヘーゲンが自著バーサーカーシリーズの中で「赤方偏移の仮面」という秀作をものにしています[原題と一致しないので、もしかしたら邦題を付けた人のアイディアかもしれません]
兎に角、私もあやかろうと赤内障なる病気を創作してみました
ちなみに緑内障、白内障は立派な目の病気です……緑内障:目から入ってきた情報を脳に伝達する視神経という器官に障害が起こり視野が狭くなる病気のことで治療が遅れると失明に至ることもある
目の硬さである眼圧がその人の耐えられる眼圧より上昇することによって引き起こされる
月イチ投稿も逃してしまって申し訳ありませんが、9月決算月の会社に勤める身で新たな期を迎えるにあたり色々と準備するものがあり、業務繁多にしておりました
ご容赦ください
ブリオッシュ=水の代わりに牛乳を加えバターと卵を多く使った口当たりの軽い発酵パンの一種で、材料が焼き菓子に近いことから発酵の過程を要するガトーの一種とされることもある
名称はノルマン語で“生地を麺棒で捏ねる”を意味する
キドニーパイ=賽の目に切った牛肉とキドニー[腎臓、牛・ラム・豚などが多い]、炒めたタマネギ、ブラウングレイビーで焼かれたパイで、グレイビーは通常、塩味のビーフブイヨンにウスターソース、スタウトビールと黒胡椒で風味付けしたものを使う
ボナン=ジャワのガムランで使用されるインドネシアの楽器で、木製フレームの紐の上に水平に置かれた小さなゴングの集まりで幅は1列から2列
ストゥーパ=サンスクリット語で「高く顕れる」という意味であり仏教の世界観である涅槃の境地を象徴している
ストゥーパが古代インドから中国に仏教が伝来した際は「卒塔婆」と音訳された……もともと仏教の開祖の釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利を納めた塚である
フィトンチッド=微生物の活動を抑制する作用をもつ樹木などが発散する化学物質のことで、植物が傷つけられた際に放出し殺菌力を持つ揮発性物質のことを指す
癒やしや安らぎを与える効果もあり、その殺菌性や森林の香りの成分である
パニカム=長さ60㎝ほどのイネに似た細長い葉を持つキビ[パニカム]属の一年草、繊細で涼しげな穂が花材として使われるスモークグラス、ウィルガツムなどの品種がある
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別口でエッセイも載せましたので、ご興味のある方は一度ひやかしてみてください
短めですのでスマホで読むには最適かと……是非、通勤・通学のお供にどうぞ、一応R15です
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