40.キマイラ! キマイラ! 〈side:B〉
スキッドブラドニールの船内食堂で、本日のA定食ウサギ肉の香草ロースト洋芥子ソース和えを食べていると、同僚のデュシャンが単品の薯蕷蕎麦をトレイに乗せてやってきた。
上に掛かった青海苔と真ん中に乗った鶉の卵がとても美味しそうだった。
「ねぇねぇ、キマイラ・キマイラってとっても可愛らしい兎の格好してるらしいよ」
……先輩、少しはデリカシー持ってくださいと思いつつ、途端に食欲は失せて行くのだった。
赤ん坊として別世界に生まれたときに、他の世界で死んだときの記憶、それまで生きた人生の記憶があった。
おかしな気分だった。
自由にならない嬰児の身体で、成人としての記憶と思考があり、異文化の言語が理解できず、おそらく親だろう人間が覗き込んでくるのに恐怖した。
何が起こっているのか理解できず、最初は自分の身体が身動きできないので縛り付けられているのかと思った程だが、恐怖の中で自分の小さな手の平に気付き、自分がどういう状態なのか悟った……到底信じられなかったが、パニックになりながら、おそらく目が見えているのだから生後4、5ヶ月ではないかと思われた。
やけに煩いなと思ったら自分の泣き声だった。
自分はボツリヌス菌の毒素で、大切な我が子達がバタバタと斃れる中、同じように神経麻痺で死んだ筈だった。
覚醒してつぶさに観察すると、どうも異文化、異文明の世界に生まれたのではないかと思われる部屋の意匠や人々の服装が認識できた。家の子達はどうなったのだろう?
やがて色々と見聞した結果、私はどうやら貴族の家に生まれたようで、耳で学習した言語に依るとゴゴ・ゴンドワナ大陸は永世中立国フレンネルの世襲伯爵位の家系、ラングラー家の長女として第二の人生を得たらしかった。
読み書きは母親の遠い縁戚に当たるフランシーヌ女史が小さな頃の女家庭教師、ガヴァネス役として指導に就いてくれた。
なかなかに教育ママだった母親は小さな頃から婦女子の良識を叩き込みたかったらしく、毎日1時間近くカーテシィの所作を練習させられたのには閉口したが、私はこの世界の常識のほとんどをフランシーヌから学んだ……そう言っても過言ではないだろう。
騎兵隊の百人長をしていた夫を魔獣戦役で亡くしたフランシーヌは子供を授かる前に寡婦になった。だからかもしれないが、フランシーヌが私を慈しむのは、腹を痛めた我が子に対するそれのように感じられていた。
幼い身体の私は自由に外出は叶わないので、館から出ることはまず無く、広い邸宅ではあったがそれが世界の総てだった。
我が家の庭にはブーゲンビリアに似た花があったが、植生は庭園を見ている限りそれ程以前の世界と変わらなかった。ちょくちょく話題に上る魔獣や魔族というのが気になった。
どうも科学技術という点では元居た世界から大きく遅れをとっている生活様式で、下水溝すら整備されていないので館のトイレは汚水溜めに処理されて、悪臭対策に定期的に汚穢業者が清掃や埋め立てをしていたようだ。
我が家の窓ガラスはクラウン法(人口玉吹法)で作られた物がほとんどで、ブルズアイと呼ばれる瓶底のような不細工な物だった。
不思議なことに瓦斯燈はガス管が配備されていて、我が家の照明は蝋燭や魔石の洋燈なんて物と半々だった。台所の鋳物性オーブンもガス仕様だ。ただ麵麭焼き窯は薪だった。
どうもガス管に関しては隣国のディアゴス合衆国連邦と政治取引があって、何かの譲歩の埋め合わせに敷設させたらしい。供給も国境を超えて太いパイプが引かれているらしかった。
このちぐはぐなアンバランスは、フランシーヌを質問攻めにして得た知識によれば先進国との技術格差に因るらしい。父親に強請って出入りの本屋に直接交渉し、各国の知識を得られる旅行記や百科事典のようなものを買い上げた。
驚いたことに他の国には鉄道や火力発電所、銃器産業などがあり、隣のディアゴス合衆国連邦一番の経済都市、ヤクシャス・シティには高層ビルが林立するらしい。
ディアゴスの名は新天地を発見した昔の開拓者から取ったらしいのだが、彼の地の壮大な送電線や変電設備の写真には心躍った。
どうもディアゴス合衆国連邦は、私の元居た世界の超大国、アメリゴ・ヴェスプッチ帝政国家を連想させる。
しかし、何故このようなテクノロジー格差が起きるのだろう?
不思議だった。
もしやすると私のような前世の記憶を持つ者が居て、技術開発に拍車を掛けているのかもしれないなどと推理してみるが、確かめる方法は無かった。
貴族向けに稀覯本を商う業者が持ってきた様々な書籍の美麗さも素晴らしかった。エッチングや活版印刷以外に、どう見てもグラビア印刷だろうと思われる写真が載った本があったからだ。
カメラもこの世界にあるんだと思ったが、これは私の勘違いだと後で分かった。
貴族子女としての礼儀作法をガヴァネスに指導される一方、裕福な家庭の子女が通う特別学級に編入された。
社交界デビューのためのマナーや教養を学ぶコースもあったが、私は男の子達に混じって乗馬や剣術を稽古する武術コースを専攻した。
アラウンド四十女の記憶があるのに、いまさら花嫁学校に行きたくはなかったのだ。この時も親と散々揉めたが、前世の学生時代に培った弁証法とディベートの技術で言いくるめた。
7歳のときだったと思うが、この生まれ変わった世界に魔術というものがあると確信したのは魔術適性を見る授業があったからだ。それまでも会話の端々からどうも腑に落ちないところがあったのだが、初めて合点がいった。
乳母や小間使い、御大層にカール付きの鬘にトリコーヌという三角帽まで被った父親、フォンタンジュ風髪飾りで異様に高く髪を結い上げぎゅうぎゅうにウエストを絞ったパニエ・スカート(この辺の習俗って、元居た世界の中世ヨーロッパ風だった)の母親の話を聞く限りでは、言葉の違いかと思っていたので、精霊とかエレメンタル、魔法詠唱なんて単語はてっきり何かの比喩だとばかり早とちりに得心していたのだ。
魔術の発現には大まかに二通りあるらしくて、原理魔法といって事象法則の理に魔法陣や呪文詠唱を媒体に己れが練り上げた魔力を以って成すもの、そしてもうひとつはエーテル中に存在する精霊の力を借りて成すものがあった。
適性検査を見て素養がある者には、得意とするところを伸ばすような英才教育を施さんとする風潮が我が学院にはあったらしい。適性検査で精霊魔術の才能を見い出された私は、翌週から魔術特進コースに編入された。
授業は新しい世界が次々と開かれていくようで、機械文明テクノロジーの世界で得た常識しか知らなかった私には、全てが真新しい論理で上書きされていく感覚だった。
やがて修練を積んだ私は、周囲の精霊の気配が感じられるようになる。
世界は神秘で満ちていた。
精霊を使役する治癒魔法、回復魔法、浄化魔法、結界術式などを体得し、聖堂会系の聖魔法士として将来を嘱望されるまでになった。
学院が是非にと懇願して全寮制の魔術学部に転籍になった……実家の跡取りは歳の離れた兄が居たので問題は無かったが、娘を溺愛する父上、母上、ラングラー伯爵家の第十五代当主伉儷を説得するのは簡単ではなかった。
まぁ、魔術学部の学部長はガルガハイム魔導帝国の権威ある魔術アカデミーから出向してきている偉い人だったので、両親を説得するのに一役買ってくれた。地方貴族は、絵に描いたように中央の権威に弱い。
前世を生きた社会はその後どうなったのか気になってはいた。知る方法も無いし、戻れるかも分からない。
戻ったとして自分に何が出来るのかもわからない……例え遣り直せたとしても、もっと上手く出来るのかさえ自信も無い。
だけど同じ結果を繰り返すにしても、もしかすれば自分はもっと悔いのないよう頑張れたかもしれないと思うと、矢張り戻れるものなら戻りたかった。
ミドルスクール相当の上の学級に行くようになると、第二次性徴も当に迎えて、この身体の月のものが重くて悩まされたが、それ以上に困ったのが生理前の身体の疼きだった。
健康体なのはいいが、こちらは前の世界で男を知っている身、幼少期を暮らした孤児院では厳格なプロテスタントの教義を仕込まれたとは言え、ソドムとゴモラ並みに乱れた爛熟社会で過ごした大学時代は、散々乱れた性を謳歌した口だ。
実のところ前世の記憶があるとカミングアウト出来ない以上に、秘密にしておきたい事柄なのだが、社会人になっても奔放な下半身事情は一向に治らなかったのだ。
死んじゃう少し前迄も、独身ではあったが自前の孤児院施設で優しい母親を演じつつ、その裏では欲望に正直な、現代人の誰もがそうであるように少し壊れた無責任な貞操観念の、恥知らずで助平な変態エロ女だった。
自分で言ってても悲しくなるが、プライベートでは人一倍性欲が強くて、衝動の赴くまま爛れた淫乱セックスに没頭し、溺れるのが大好きだった。
恥ずかしながら歳が歳なのでガールズバーにこそ行かなかったが、頻繁とは言わないけれど、其の手のサイトで知り合った好き者同志のカップル達とスワップパーティに通ってはバイセクシャルも含む乱交と複数輪姦セックスに明け暮れた過去がある。レズ、緊縛SM、野外マッパでの露出セックス、浣腸、スカトロジー、剃毛、媚薬、ソドミー、肉親が居ないので近親相姦こそできなかったが、汗だくになりながらの痙攣絶頂のために大抵の変態遊びは何でもやった。
コンドームは好きじゃないので、もっぱら避妊薬だったができたらできたで産みたいとは思っていた。前の世界ではシングル・マザーは珍しくなかった。
多分、私はマゾのセックス依存症なんだと思う。勿論それなりに良心の呵責はあるのだが、調教される無節操交尾の無茶な遊びが止められなかった。理解ある伴侶が居ないこともなかったが結婚には消極的だった。次々とパートナーを変える夫婦生活なんて、伴侶に対して不誠実だと思えたのだ。
誓って言えるがハウスの子供達には手を出していない。将来のある幼い子供を意地汚い毒牙に掛けるのは倫理以前に、人間として駄目だからだ。
仕方がないのでマスターベーションで慰めては見たものの、今現在敬虔な女神教徒であるべき自分の立場上、少々後ろめたかった。
元の世界のカトリックにしろプロテスタントにしろ、自涜行為が許されないのは、性交は生殖のために神から命ぜられた行為であると位置づけられているためだ。子作りのためではない手淫は売春などと同様に神の命令に背く行為とされ、非道徳的と決めつけられている。こちらの女神教の理屈は淫らで卑猥なことはやめなさい、と言う至極真っ当なものだ。シンプルで女性らしい教義と言えるかもしれない。
社会通念、倫理上の価値観の違いと言ってしまえばそれだけかもしれないが、こちらの世界の戒律は非常に厳しいものがあり、前の世界の性事情のつもりでいるととんでもない竹篦返しがありそうだった。
心して気を付けておかねばと、肝に銘ずる。
口の端に上せるのは無論、そんな素振りは毛ほども悟られてはならない……私は以前の低俗で融通無碍な社会にあってもどちらかというと、ポルノ・ムービーを地でいくような最低の部類だったから。
一方火照る身体を持て余す物足りなさから、帰省の折に未亡人と言う独り身を囲うフランシーヌに慎重に用心深くだが、それとなく訊いてみた。
ビンゴだった。
貴女にはまだ早いと言いながら、二本あるからと水牛の角でできた陰茎を象った道具を譲ってくれた。
思ったより太くて、ちょっと吃驚だ。
早熟な身体を持て余す、中身はトータル五十近くの、忘れもしない第二の人生十三歳の春だった。
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「過去に大挙して攻め込んで来たのは法王聖庁歴では3935年、今から32年前か……出来過ぎてるな?」
スキッドブラドニールのセカンドブリッジ、戦闘指揮所CICでオッパイ女神のガラティアを問い詰めていた。
魔快速帆船は待機モードの異相亜空間からダーティオールド・タウンを睥睨している。ズレた位相空間は現実世界からの干渉は届かず、眼で見ることも適わない。
ステラ姉、エリス、ブリュンヒルデはマルセル等と共に下船して、現地調査に分散していた。
「いいえ、誓って今回のオー・パーツはヘドロック・セルダンの大陸救済協会のプランとは、何の関連性も無いと断言できます……のです」
ゴージャスで豊かな金髪を靡かせて、相変わらず神話に出てくるようなトーガかヒマティオンみたいな衣装で大きなオッパイをゆさゆさと……まぁ、ゆさゆさはオーバーだが、兎に角揺すってた。
「だっておかしくないか、我等がエンカウントしようとしてるタイミングで、偶然押し寄せようとしてくるなんて、絶対変だろう?」
「ヒュペリオン大聖国が滅んだ大災厄のときに全てが海中に没する中、生き残った第一線級の国立動植物生態研究所のメンバーが、偶然にも兵站用大型貨物輸送機で機材やサンプルの持ち出しに成功していました……のです」
「この者等が後々立ち上げたのが、今は消滅してしまったアミソーダロス複合生物研究機関の前身で、これも禍殃を乗り越えた研究成果の集大成、キメラ生物の実験体が温存されていました」
「彼等と彼等の意志を引き継いだ子孫はこれを核に、使役獣とも魔獣とも違う究極の複合生物を生み出そうとしたのです」
「その試みはプロジェクト、キマイラ・キマイラとして何世代にも渡り引き継がれ、実験体は更に強化され、そして遂に頂点が産声をあげます」
「それだけの剣呑なものが、何故今日まで凶変の傷跡を残していない?」
「生物兵器としての発動キーがあるのです、二重三重に安全装置が設けられるほど、それは危険視されていました……のです」
相変わらず可笑しな蛇足の語尾を連発するので、そのエロい姿形と共に高位時空神という神秘的な立場を台無しにしていた。
艦橋のスピーカーからナンシーが収集しつつ評価した情報を並列処理で報告してくる。
「サマリタン聖公会派の七宝賢聖女が一人だったリスカ・エフドラド・ラングラーがダーティオールド・タウンを目指したのは、アミソーダロス機関第三十三研のラボがあったからです、我等が目指す件のターゲットは彼女が秘匿しています」
「現在ボビー・マギーという偽名を名乗るこの女性の意識下を覗いて、非常に興味深くも珍しい案件が判明しました」
「彼女、リスカ・ラングラーは異世界からの転生者です」
「転生者って、にゃに?」
キキが聴き慣れない言葉の説明を求めた。
お前は食べながら喋るんじゃない!
四角い紙パックを箸でつついてモグモグしているキキを、行儀が悪いぞと睨みつける。口の中のものをごっくんと飲み下して紙パックを後ろに隠した……そんなマナーは身内の前だけにしておけよ。
シルキーに出前して貰ったチャイニーズ・カートンは鮑とポルチーニ茸のバターソテー牡蠣油風味と、鱶鰭餡掛け金華火腿の炒飯だ。絶品なのは分かるんだけどさ……
「はい、彼女には生まれ落ちた時から別の世界で生きた記憶があるのです、しかも前世を生きた世界はここより遥かに科学文明の発達した社会だったようです、航空機の移動手段とインターネット通信網が確立していました」
「ふーん、それはレア・ケースなのか?」
「背景を確認しましたが、今のところ人為的な操作の兆候はありません」
「現段階では偶然の産物とまでは言い切れませんが、極めて稀なケースです……現時点で存命している全世界の人物紹介をあらためて精査中ですが、おそらく彼女も含めて数名居るか居ないかだと思われます」
ナンシーの検索機能はここにきて格段な進化を見せていた。
法王聖庁の“ディアーナの宝物庫”に厳重に隔離・保管されていた全世界を見渡すことの出来る権能の玉座、“フリズスキャルブ”の作動原理をナンシーは解き明かしていたからだ。
これを応用した結果、電子的な通信網など無くとも全人類の思考を瞬時に読み解くことが可能になったのだ。スパイ衛星網と連動した全検索機能システムは最早神の領域だったが、試験開発中だった検索網がようやっと実を結び始めている。
にしても、転生者か……
「それが何故、キメラ体生物兵器などに手を出している?」
「おそらくですが、彼女の前世の死に方に問題があるのではないかと……彼女は嘗て軍事利用のための細菌学者だったようなのです、実は彼女の世界は変異株のボツリヌス菌に因って滅びました、抗体開発が絶対間に合わないスピードで次々と変容していく強化ボツリヌス菌です」
「たった数発の細菌爆弾が世界の命運を変えました、彼女は抗体開発部門でしたが細菌兵器の開発に関与していたようです」
「だから何だ、キマイラ・キマイラを擁して再びこの世界も殲滅せんとするのか?」
「そうではありません、開発コードキマイラ・キマイラ第327号検体の中にある遺伝子情報のひとつ、“カラドリウス”に細菌兵器に対向する可能性を見い出したのです、“カラドリウス”という生物形態は病を吸い取るといった高度な能力を有しており、実際それはあらゆる毒素、伝染病、リケッチアなどの病原体にも有効だとの記録があったそうです」
「ボツリヌス菌毒素を中和するためか?」
「しかし、それを見つけたとしてどうする……もと居た世界に帰る術など無かろうに、それとも帰る方法を見つけているのか?」
「いえ、それはあり得ません……多分、止むに止まれぬといったところでしょう、亡くなった子の歳を数えているのかもしれません」
「魔族の動きが活性化したのは、最近第三十三研ラボが稼働した気配を察知したが為と思われます、遺伝子解析用クロマトグラフィーやセル・ソーサラー、電子顕微鏡の起動に成功した模様です」
そんな古代の研究施設が現存しているのも驚きだが、現役で動くとは馬鹿にできない技術力だ。見上げたもんだぜ、ヒュペリオンの生き残り。
「魔族側にもアミソーダロス複合生物研究機関、並びにプロジェクト・キマイラ・キマイラの何等かの情報が残っていたとみるべきでしょう」
「で、今キマイラ・キマイラは兎小屋に居ると……本当なんだろうな?」
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(何を黄昏れる、エルフの小娘?)
ケルベロス・ドラゴンのプリが、眷族間遠話で心の中に話し掛けてくる。
(……プリには関係ないよ)
(大方、昔手酷く振った牡のことでも考えていたんだろう)
(……………煩いよっ)
(図星か、それで男に済まないと思う引け目から、早々に罪を精算してしまいたい訳だ)
(だがな、例え遠く離れていようと、面を付き合わせていようと、その誠意が通じる通じないに関わらず、赦されるときは赦されるし、駄目な時は駄目だろう)
(近しい者を裏切るとは、そう言うことだ……理屈じゃない、ましてや感情でもな)
(……プリ、あんたに迷いは無いの?)
(何を迷うと言うのか、56億7000万年を付き従うと決めているのに、今から腹をぐらつかせていては、この偉烈は到底成し得ぬ)
(途方もない年月だ、今のままの有り様では居られる筈もない、もしやすると人類はその覇者の座を降りるかもしれない気の遠くなるような時間だ……あるいは我等とて残り得るのは、最後まで付き従うという虚仮の一念、唯それだけかもしれぬ)
(行くと決めているし、それが宿業であろうとなかろうと我の勲しには何の関係も無い、あるのはただ主人への紛うことなき赤心忠誠だけだ)
(ぶれないね……真っ直ぐなあんたが羨ましいよ)
(心が乱されるのは、まだ精進が足りてないからで……)
(黑っ、エリス様に報告があった筈ではないか!)
プリの恋女房、シャルが割って入った。
(ふっ、すまんすまん……こいつを揶揄ってるとつい面白くてな)
(小娘、よく聴けっ、我等が掃討している魔族勢の一角に十三魔賢人なる幹部クラスがおる、八大魔将軍に連なりしこの者等の実力は高が知れているが、シャイターン四天王、虚偽の魔神と呼ばれる奴儕が徒党を組んで、そちらの街を襲おうと動いている)
(それぞれが率いる軍団は、一隊がおよそ20から30万、ここいら一帯の魔族領を総動員しているようです、各方面からこちらを目指しているので、おそらくこの地で総力が集結すると見ています)
シャルが後を引き継いだ。
(掃討は我等混沌勢にお任せください、ただエリス様にはそちらの街に被害が及ばぬよう結界をお願いしたいのです、合流はあと1時間後と測っています)
(分かった、住民に避難を呼び掛けよう)
混沌勢?
そう言えば、ズーロンは陰と陽の2頭で真価を発揮すると聞いたな……まだ見たことは無かったが、どれ程のものなんだろう?
(エリスよ……)
プリが私を名前で呼ぶなんて、初めてかもしれない。
なんかキモいよ。
(そもそも何故詫びるのかだ……良く考えてみるがいい)
(主等の祈りに価値があるのなら、原罪への償いは日々為されているのではないか?)
(それとも祈りに価値は無いのか、あれは……上っ面、上辺だけのものなのか?)
(違うっ、女神への許しを請う祈りは真心からのものだ!)
(ならば何故思い悩む? 許しを請う為の祈りが少しも相手に届いていないからか?)
(祈りは無償であるべきだ、見返りを求めれば、それはもう信心の範疇ではない)
地獄の門番ケルベロスに、信仰の真髄を説かれるとは思ってもみなかった。
(違う……裏切ったのに御免なさいを言わないのは、謝罪が為されないのは、姑息で卑怯だからだ)
(他の誰に卑怯者呼ばわりされても構わないし、許されたい訳じゃない、ただソランにだけは逃げ回っていると思われたくない、知って欲しい……それだけだ)
ドロシーもステラ姉も、気持ちは同じ筈だった。
(いびつに歪んでしまったであろう関係を清算するには、討たれてやるしかあるまい)
(裏切りの代償に討たれるのか、討たれずに56億7000万年を共に目指すのか、それだけの話だ……ただ56億7000万の星霜を歩む、生けとし生けるもの全ての命運が、そして生きた者全ての魂の裁定が、我が主人の双肩に掛かっておること、ゆめゆめ忘れるな)
(……我が主人殿は真っ直ぐに突き進む、周囲に迷いを、弱気を、逡巡を気取られる訳にはいかぬからだ、そのことをよくよく考えてみることだ)
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十四歳の春に転機が訪れた。
全寮制魔術学部での精進は指導教師達の衆目を集めるが、中でもオールドフィールド公国正教の一分派、サマリタン聖公会から派遣されている出張教職員の方々に、私の成績がすこぶる跳び抜けているのを見い出される。
私の此処のところの快進撃は留まるところを知らず、並み居る才能に溢れた同級生を尻目に、歴代の優等生達の残した記録を次々に塗り替えていった。
全回復のメガ・ヒールは無詠唱で熟せるようになったし、その次に練習していた欠損部位を修復するギガ・ヒールの発動にどうにか成功したのは三年の三学期で、史上最年少とか聞かされた。
前の人生では鳴かず飛ばず、しかも人を害する側の研究にたずさわっていた訳で、余人の及ばない能力も嬉しいには嬉しかったが、それよりもまったく真逆の第二の人生、人に癒しを齎らす秘蹟に生きる道を示し、恵んで呉れた神様に感謝だ。
サマリタン聖公会本部に来て聖女養成課程を受けないかという、出張導師の方からの大変有難くも名誉な勧誘のお話を頂いた。
この私が聖女?
前世で薄汚れた軍需産業に加担して世界の終焉に立ち会った、この私が?
人殺しの為の兵器開発に加担していた私が?
自ら股を開いて沢山の男達に跨って行った不仕鱈なこの私が、聖女なんてものに成って本当に良いものかどうか?
悪徳の街で本能の赴くまま、良識をかなぐり捨てては無秩序にザーメンまみれになって、女同士で逝かせ合い同時に何本もの男根を受け入れる下品で刺激的な女の悦びに抗わなかった私……
人知れず呻吟し葛藤があったが、これも罪多き前世を償う神のお導きかと思い、お受けすることにした。実家に事の次第を伝える簡潔な手紙を書き、サマリタン聖公会の聖女布教活動会というところから重鎮のお口添えを頂いた。
私をどこぞの有力貴族に嫁がせて、姻戚関係を盤石にしたかった両親をがっかりさせてしまって申し訳ないが、兄上が居るのだから爵位世襲には問題無い筈なので勘弁して欲しい。私のことは居ない娘と諦めて貰おう。
お誘いのお申し出に従い、私はオールドフィールド公国内にあるというサマリタン聖公会総本山に行くことにした。
すごく立派な七堂伽藍にも感激したが、後に訪れることになった女神教の聖地、法王聖庁の威には比べるべくもなかった(ものを知らないと言うのはこういうことかと思った)。
故郷フレンネルの一領主に過ぎぬラングレーなどは、荘園などとは名ばかりの鄙びた田舎もいいところだった。如何に自分が生簀の中の鯉だったか思い知った。
一度だけお目通りした教皇聖女イノケンティウス二十四世は、とってもお綺麗な方だった。
聖女の修行は単純な魔術修業とは訳が違う。礼拝にしろ、早朝からの奉仕活動にしろ、総て修道女と同じような奉献生活をなぞり乍らの修練だ。
学生生活とはまた違った厳しさがある。
お化粧禁止なのは今までの学生寮と変わらないので問題無いが、お湯のお風呂に入れないのには参った。身体の脂が落ちていない感じが気になって、人一倍水垢離してゴシゴシ擦ったが、不思議と肌荒れしなかったのは何かの加護が付与されていたのかもしれない。
幼い頃とは違う真の祈り、日々禊をし唱えるバハ・スウィーンの聖句(アーメンと同じだなって思うのは多分私だけなんだろう)……本当に敬虔な神との対話は、最初の内こそしんどいが、前の人生も含めて初めて心が洗われていくような感覚があった。
どれだけ罪深いのか、それでも自慰行為は止められなかったが、できるだけ控えるようにはした。
4年修行に耐えて、私は最速で聖女見習いの認可を得た。
更に3年と8ヶ月、聖女と認められるために課せられる托鉢行脚の修行旅を経て、一人前の教会系聖魔導士にしてサマリタン聖公会聖女の位を賜ったのが第二の人生二十三歳の冬だった。
晴れがましい日だったが、雪が降っていたのでよく覚えている。
聖女は各地に散って活動するを常とするが、聖公会本拠滞在中の業務がない訳ではない。日々訪れる信者の方に加護の祈りを与えるのもそうだが、宝物庫の整理を手伝わされたことがあった。
法王聖庁の誇る“ディアーナの宝物庫”ほどではないが、我等のサマリタン聖公会にも収集した秘物やアーティファクトを保管、収蔵する部門がある。
収蔵庫所長のブライアンという男が、私が聖女だと分かっているのに執拗く言い寄ってきて困った。最初は軽くいなしていたのだが、聖公会大司教の甥だというこの男を無下にし続ける訳にもいかなくて、聖堂内に私室を貰っている男の部屋を訪ねることになった。
最近は法王聖庁にさえ性悪説を唱える一派があって、聖職者の姦淫の罪を容認する風潮さえあるのだが、聖女となれば話は全く違う。
聖女は生涯を処女のまま閉じる。そんな額縁の中の絵のような女に興味を持っても、何も実らないのは自明の理だった。
若い頃に奥さんを亡くしたらしい過去を持つ、この大人しそうなブライアンという男にも、その辺の所は充分過ぎる程に良く分かっている筈だった。
間違いがあるといけないので、身の回りの世話をしてくれる見習い神官の娘を帯同した。最も余程の猛者でもなければ一般人がサマリタン派の聖女を手篭めにするなど無理だ。身に付けた護身術は百戦錬磨の剣士を手玉に取る。
この頃になると私は“透徹の魔眼”という鑑定眼の上位スキルに目覚めていたので、紅茶を出して歓待してくれる男を繁々と観察してみた。
「この茶葉はどちらのですか? すごくフルーティですね」
付き添いをお願いした見習い神官は悪びれもせず寛いでいた……些か寛ぎ過ぎの感が無くもなかった。
濃いバーガンディ色の赤髪を引っ詰めにした、何処か少女っぽさを残した娘はティーカップを行儀良く静かに降ろした。
これから男を品定めしようとするのに邪魔してどうする? 周りの空気を察しない無頓着さでは、この娘は早々と地元に帰されるだろう。
割と面長な嫌味の無い顔付きは人の良さが出ていて素直に好感が持てるが、見た目三十五、六(後になってもっと若いということが分かったが)のこの冴えない鰥夫男は私に対して、どうやら純粋に恋をしているらしかった。
聖女の戒律で殿方と添い遂げることは叶わなかったが、前世も含めて、こういう風に真っ直ぐな熱愛の情を他人から向けられたことが無かったので、素直に嬉しかった。
痘痕も笑窪って奴か、顎髭から口髭まで繋がった堅そうな髭は、ヴァンダイクって言うのか、ゴーティってスタイルなのか良く知らないが、固そうな手触りに見えるのが、何か男らしくて素敵だ(この世界でも髭のフォルムに名称が付いているのかは、寡聞にして私は知らなかった)。
栗色の巻いた癖毛とも相性が良さそうに似合っている。地味な僧服を上手く着こなしているのも及第点だ。
質素な応接セットの横に彼の執務机があって、ごちゃごちゃとステーショナリーやら読み掛けの資料やらが散乱していたが、ふと目に付いたものが気になって、見せて欲しい旨を告げた。
初めて訪れた男性の部屋で厚かましい願いをする私に、嫌な顔ひとつせず気さくに応えてくれるブライアンという男……飾らない恋情をぶつけてくる好ましいその人柄に惹かれ始めていた。
私、現世では二十四歳だけど、前の人生では三十八ぐらいで死んだから、トータルすると六十過ぎの婆さん何だけどいいのかな?
とは言え、最近の私は上背と体格の良さと鋭過ぎる眼付きを別にすれば、往年の名女優オードリー・ヘップバーンを彷彿とさせる可愛らしさだったから、自慢じゃないが見た目だけはそこそこ魅力的なんだと思う。
「お目が高いですなぁ、こいつは我が家に代々伝わるアーティファクトで、200万年前に沈んだとされるヒュペリオン大陸の貴重な遺物です」
「ヒュペリオン? オールドフィールド公国史には出てきませんね、確か大ヒュペリオン海という大洋がアルメリア大陸の向こうにあったかと記憶していますが……」
適当に相槌を打ちつつ、その200万年前の遺物とやらが精巧な合金製なのを見て取り、ドキドキしていた。
どう見ても薄型のノート・パソコンのように思えて仕方なかったからだ。その素材から言って原始人の石器時代のものではあり得ない。
透徹の魔眼で見ると筐体自体は確かに200万年以前のものであり、絶対と言っていい程腐食しない未知の金属製で、尚且つ不変化のコーティングが施されているのと、見たことも無い緻密な電子部品で出来ているのが分かった。
この集積回路のナノテクノロジー技術など私の居た二十三世紀の地球にも無かったものだ。
二つ折りに畳まれ、ぴったり閉じた合わせ目は精緻なパズルロックという閂細工になっていて、四、五箇所スライドしたり押し込んだりしてラップトップを開けると、同時に綺麗な起動音が鳴り響いた。
未知のOSがローディングされていく起動画面が液晶モニターに見て取れた。
「おぉおっ、すごい……言い伝えにある通りだ!」
ブライアンと連れてきた見習い神官の娘も近くに寄って覗き込み、目を見開いている。
キーボードに刻まれている記号は、魔刻文字に似ている。
魔法陣や原理魔術の長韻詠唱の主文に使われるのはルーン文字の派生形の古代ゲール語や神聖キリル文字だが、その行間を繋ぎ副次に使われるものだ。魔導書もほぼこれで書かれている。
他にファンクションキーだろうか、アイコンが刻まれた幾つかのキーがある。
マルチスクリーンのようなアイコンを押してみると、忽ちリアルモニターを取り巻くようにスクリーン状の二次元投影ホログラフィーが幾つも出現した。
スクロールを意味する文字記号が空中に点滅するのに、指を添えて下になぞると、レイヤー表示された複合画面が面白いようにスクロールしていった。
すごい技術だ!
ブライアンの家系は遠く遡ると、過去に特殊な生物兵器を開発していた研究機関で主導する立場にあったようだ。もう市井に紛れてしまってその研究成果は何も残っていなかったようだが、200万年に渡って引き継がれた超文明の残滓を私が引き当てたらしい。
何しろ、このノートPCもどきは、その開き方さえ失われて久しい体たらくだった程だ。
暫く私はブライアンの私室に通い、ノートPCもどきに残された研究開発の記録を紐解いていった。そう、驚くべきことに“キマイラ・キマイラ”と銘打ったプロジェクトの目的は、究極のキメラ生物体の創出を目指していた。
そうして生み出された極致、ナンバー327はその身体に320万種程の人造生物兵器の遺伝子情報をゲノムとして保持している。
分子生物学的な異種交配操作で創り出された獣魔の数々は、度々強化種が上書きされ、その一頭でも一騎当千の戦闘力を誇っていた。
研究のアウトラインは理解したが、個々の獣魔兵器の能力レポートは膨大なものがあり、これを読み解くのは相応の時間を要すると思われた。
然るに、肝心な327は今現在、何処にあるのか……パソコンの中には何のヒントも残されてはいなかった。
「あぁ、ピーターなら実家の家畜小屋にいますよ……327番って呼び方が味気ないと思った我が家の祖先がピーターって名前を付けました」
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“黒のクラウディア”と言う符丁で呼ばれるようになって長い年月が経った。
他人の肉体に自分の意識と自我を憑依させて乗っ取る妖魔術の禁術を使い、長きに生き永らえてきたのも任務のためとはいえ、これで三体目だ。
私の家系は代々サマリタン派に仕える、そう言った家系だった。
随分と惨いことではあるけれど、憑依する身体はなるべく死刑囚などから選ぶようにしているので容赦して頂きたい。
憑依した時点で肉体年齢は固定され、歳を取ることはない。
サマリタン聖公会内部監査室の意を受けて、影に暗躍するのが主な職分と言うか仕事になる。
当然、正体を知られる訳にはいかないので擬態も変装も必須だが、久々に僻地での任務なので今は素顔だった。
元は他人の身体なので、これが私の素顔なのかと問われると自信を持って答えることは出来ないが、癖のない濃いバーガンディ色の赤毛と雀斑は、今の私の外見上のチャームポイントだ。
本部の指令で、十数年前にサマリタン聖公会聖女位、それも七宝賢という可成り高い位を返上して出奔したリスカ・エフドラド・ラングラーを追って、ディアゴスのイデルバキア山岳州にあるダーティオールド・タウンという見捨てられた土地にやって来た。
今更ながらだが、彼女が聖女の役を辞するにあたって不正の疑いが浮上してきたのだ。
それはそうだろう、一人の聖女を育てるのに聖公会は多大な投資をしている。普通だったら誓約上、十年は現役聖女として勤めなければならない。
なのに、異例中の異例としてリスカ・ラングラーは、正式な聖女になって僅か三年で退任を認められている。そこに何か作為があった、と思うのが通常だろう。
だが、当時は誰も疑問に思わなかった。
杜撰な話だが、広範囲に影響する精神干渉術が疑われるのだ。
これはとても悪質な行為だ……だから、あのとき私は幹部連に警告したのに、てんで取り合おうとしなかったのは、とんだ間抜け振りであった。
聖女になりたてのリスカ・ラングラーの素行調査を請け負ったのは私だ。
内部監査室の常時業務として、成り立て聖女の日常の動向が本当に聖女に相応しいか見張る……と言うものがある。
身の回りの世話役という身分でもぐり込み、外出先などに同行したし、一時は一緒に生活もしていた。
彼女が時折見せる博識振りや、聖女の癖に自涜行為を習慣にしているなど何点かを怪しんでいた。
決定的だったのは彼女が祈りを捧げるとき、他人には聴き取り難いごく小さな呟きだが、一般の聖句の代わりに“アーメン”と口にしたことが何回か有った。
有り得ない可能性だが邪教徒を疑って色々と様子を見ていたが、その内に収蔵庫所長ブライアン・アダムスキーの館長室での事件が起きる。
アダムスキー殿の所蔵するアーティファクトを見事に操作して見せた彼女には、何等かの秘密がある。
このときの様子は事細かく監査室の上司に報告してある。
―――リスカ・ラングラーの棲家は、すぐに調べが付いた。聞き込みでは一緒になったブライアン・アダムスキーはとっくに他界していた。
然もありなん、ここの環境は一般人が生きて行くには酷に過ぎる。
だが聖女は聖女を辞めても、そのスキルは残る。自身を害そうとする要素から守る、加護が働く。
人参畑の傍らに掘抜き井戸がある。彼女の店舗兼住宅が目の前だ。
位階2の透明化の魔術、スルーで身を隠し、用心しながら近づいて行った。
あれから彼此20年近くになるが、あの女は、今この街で食堂を営んでいるらしい。
井戸には蓋が無く、釣る瓶式の桶という旧式なものだった。
中を覗くと濁った水面が見て取れた。おそらく水質は最悪だろう。
飲料に耐えるかどうかも疑問だったが、元聖女はこれを浄化して使っているのだろうか?
水面に淡く映った自分の顔を見て、何か違和感を感じた。私は透明化の術を発動している、顔が映る訳はなかった!
違う! 私の顔じゃない!
気が付いた次の瞬間には、水面から一人の女が立ち昇るように躍り出てきた。
あまりの異様さにひっくり返るようにして、尻餅を突いた。
仰天した挙句、多分腰が抜けていた。
「サマリタン聖公会の方ですよね?」
鏡面のようにピカピカに光る銀色の鎧に身を包んだ女は、そのショッキングな登場の仕方とは裏腹に、ひどく平静な声音で問うてきた。
女は井戸の淵よりも高く、宙に浮いていた。
「れっ、霊気を従えるイグニス・ファトゥスよっ、我に力をっ、痺れよ!」
治まらぬ動悸に逆らいながら、咄嗟に発動の早い即効性の麻痺魔術を放つ。
「……無駄なことは止めて頂きたい、その程度のまるで子供騙しの低位魔術では魔力無効化の影詠唱さえ必要としません」
「貴女に披露した隠形と、鏡移りの術という空間移動の技前で大体技量をお察しください、この程度は出来ないとドロシー様の手の者は務まりません……お仕置きされてしまいます」
栗色の髪を細く幾つにも編み込んだ、睫毛の綺麗な女だった。
「聖都アウロラに確認を取ったそうです、どうやらサマリタン派の内部監査室捜査方の横目付け役が紛れ込んでいると、スキッドブラドニールから連絡がありました」
「今この地は、“3人の御使い”が作戦行動中です……軽挙妄動を慎んで頂くため、暫し縛らせて頂くこと、ご了解ください」
女はそう言うと、無様にひっくり返っている私に手を翳した。
「Ω……」
「魂から縛る魂魄鉄鎖縛の術です、一挙手一投足こちらの意のままですから、ご承知置きください」
ニッコリ笑う女の話す内容は半分も理解出来ていなかったが、“3人の御使い”の名が出た瞬間、関わってはいけないものに足を踏み入れてしまった不運を知った。
「これから万が一の為、住民の避難誘導を行いますので一緒に手伝ってください、今から1時間以内に隣接する魔族領から100万を下らない魔物の軍勢がここを攻めます、確証はありませんが私共の目的と同じ、“キマイラ・キマイラ”を探しています」
「ドロシー様の最強の眷属の一角、ケルベロス・ドラゴンと九尾の狐が迎撃……と言うか、殲滅を請け負いました」
「そうそう、魔族の残党軍団を率いるのは十三魔賢人に数えられるシャイターン四兄弟だと言うことです……貴女も聞いたことぐらいはあるでしょう?」
「今日が最後の機会でしょうから、見たことが無いので一度見て置きたかったのですが、まぁ大した未練ではありません」
何が何だか分からぬまま、歴史的な一大凶事に巻き込まれてしまったらしかった。
他人の肉体に乗り移り百年以上を生き長らえ、人よりは妖魔に近いと思っていたこの身が苦も無く操られていた。
もう任務どころの騒ぎでは無い。我が身の悲運を呪いつつ、どうしたら生き残れるのか、そればかりが私の頭を占めていた。
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聖女、いや元聖女か、今は還俗して私の妻になったリスカ・エフドラド・ラングラーの行動力は目を瞠るものがあった。
婚姻するにあたっては夫婦別姓のままで良いか尋ねられたので、深く考えずに承諾したが、早々とサマリタン聖公会の査問部に話を付けて煩雑な離脱式を済ませ、引き留める数多の教会関係者や聖魔導士協会のお偉方の軋轢を撥ね返して掻い潜り、婚姻届けを出すだけで、氏の改姓手続きを端折るためだった。
私の実家に行って、封印結界の陋屋を開錠させて百万年以上を生きたピーターを運搬用のケージに確保すると、あらかじめ手配していた2頭立ての荷馬車に家財道具を積込んで、オールドフィールド公国を逐電同然に逃奔した。
逃げるように目指すのはディアゴス合衆国連邦は北の果て、イデルバキア山岳州の工業地帯だ。
彼女が“ノーパソ”と呼ぶ家宝だったアーティファクトから得た情報に依ると、各地にあったピーターを生み出した研究施設のラボとやら言うもので最後まで活動記録があったのが、そこにあるらしかった。
苦難の旅だったが、同時に楽しい新婚生活だった。特に新妻と戯れる奔放な性生活は世の男共誰もが妄想する、更にその先の境地に至っていた。
家内はどうしてもやりたい事があるので、もし我が儘を許してくれたら、一生を私の伴侶として添い遂げ、捧げ尽くすと言う。私に否やは無かった。
言葉通り家内は上げ膳据え膳、何故か料理の腕は大したものだったし、洗濯や繕い物など甲斐甲斐しく私の面倒を見るし、旅の途中も路銀が足りなくなれば治癒術師の真似事などして金を稼いだ。
夜の夫婦生活も水牛の角の細工物で処女膜は無いと最初に断られたが、家内は私の目の前でそれを使って見せた。私より年下なのに、彼女は男を興奮させる方法を良く知っていた。
その他にもあらゆる手練手管で私を法悦に導く方法は何処で覚えたのか、家内は無類の床上手だった。私が思いも寄らないような体位で交わって見せたし、夫婦の間だけの秘密だからと麻縄で互いを縛り合ったり、綺麗にしてあるからと蔭間で交わって見せた。不思議なことに、とても元聖女とも思えない場末の娼婦顔負けの下品なテクニックだった。私は変態ド淫乱の激逝きスケベが大好きな、恥知らずで牝犬なドエロ妻だと哭き叫びながら狂ったように痙攣して果てる、そんな家内だった。
貪欲に、本気で繋がり合いたいと私に濡れた目で懇願する家内に惚れていた。
夫婦の間だから許されると言って、家内はおかしな行為を沢山教えてくれた。
私の精を搾り尽くすように人気が無ければ昼間でも盛ろうとする家内の性欲は底無しだったので、普段の清楚さとのギャップで私は骨抜きになった。
実のところ、家内は絶倫だと思う。新婚の頃は昼夜関係無く何日もぶっ通しで犯させるものだから、流石にこちらの身が持たんと弱音を吐くと聖女の治癒スキルで潮垂れた息子を奮い立たせた。
ダーティオールド・タウンは酷い土地だった。とても人間が暮らせる場所とも思えない。
ラボの場所は中々見つからなかったが、当分お世話になるだろうと家内は施療院のようなものを開院したが、既存の町医者達にバッシングされて早々に閉じてしまった。
過疎化の進む街で廃屋は幾らもあったから住むには困らないが、私はこの地に住む人々に安全な食環境を提供したいと考え始めていた。
なるべく健康な食用肉や野菜を提供できたら喜んで貰えるかと思ったのだ。
家内も賛成してくれて、早速耕す者も居なくなった猫の額程の畑と小さな牧場を譲って貰った。暫くは聖女のスキルで浄化した土地から収穫した農作物を農協に卸していたが、自宅を改装した食堂を始めることにした。
故郷も家も捨て家内と駆け落ち同然に移り住んだ暮らしだったが、私は幸せだった。
妻は何も言わないが、子供を産んで家族になる幸せを味合わせてやれなかったのは、少し申し訳なく思う。
家内の抱える秘密と、ピーターへの執着の理由は最後まで話しては貰えなかった。
最近はどうも身体が懈い。変な咳も止まらないし微熱が続く。
聖女の持てるスキル全てで家内は手を尽くしてくれたが、どうやら私の耐性はこの街で生きていくには少し足らなかったようだ。
もう長いこともないかもしれないと、何となく思う。
先に逝く不甲斐無さは慚愧に耐えないが、最期は家内の手を取って幸せだったと言って息を引き取りたい。
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この間の魔族の大掛かりな侵攻で、この辺り一帯の精霊は使い切ってしまった。
もともと自然破壊の進んだダーティオールド・タウンでは精霊の数が少ない。畑や、飼育する豚や鶏の飼料に浄化魔法を施すのに四苦八苦するくらいだ。
半日も昏睡するような大規模連鎖魔法陣を要する広範囲な浄化結界は、もう使えない。次に魔族の攻撃があれば撃退する方法が無い。
私の我が儘に付き合って、態々過酷な環境で生きて死んだ亭主殿が最期まで愛した土地だ。私自身にも愛着がある。
細菌学者だった前世も通じて、ひとりの男に全てを捧げ尽くす喜びを知った思い出は、沁沁と私の心に深く刻まれている。
身体の相性も大切だが、互いを慈しむ労わりの気持ちはもっと大切だ。
巨乳という程ではないけれど、私の乳房が人様より大きかったのも旦那の好みのようだった。脱いでいやらしい格好で誘うとすぐに興奮してくれるのが、何より嬉しかった。
それに、卑猥なことも大好きだったが、夫婦間のメイキング・ラブはまた違った情緒を生む。
夫婦の間だから許される、他人には話せないおかしくて無茶な変態行為の幾つかは墓場まで持っていく秘密だ。
絶対に内緒だが、夫の前でだけ私は破廉恥な雌豚妻になれた。
前世の過去も含めて、亭主専用の穴妻でいられたのは、得も言われぬ、甘く痺れるような快感だった。
どちらかに欠陥があるのか不思議と子供は授からなかったけど、私も夫も其れほど苦にしてはいなかった。二人の暮らしが満ち足りていたからだ。
私の思惑と都合で一緒になりはしたが、そんなことに関係無くブライアンのことが本当に好きだった。
愛を育む輝ける日々が何物にも代え難い程しあわせだったと、今も思える。
私は夫を愛していた。
8年前に亭主殿と見つけた第三十三研ラボには、何か武器になるものがあった筈だと思いついて真夏の山道を急いでいた。
普段のゴム長をハンティング・ブーツに履き替えて登る山道は、鍛えた健脚は未だ衰えてはいないが、焦る気持ちからかいつも以上に急峻に感じられた。
頭に巻いたバンダナの内側から汗が瀝った。
法王聖庁歴が4000年程だから、それ以前のもっと古い原始宗教の石窟らしき遺跡を見つけたときは、これだと思った。隠されたラボへの入り口を発見するのに大変な苦労をしたが、無事私達は目的の場所を見つけ出したのだ。
奇跡的に動力源は生きていたが、見た目は傷んでいないが施設のあちこちはさすがに稼働しないものがあり、コツコツと復旧しながらピーターのゲノム解析を進めてきた。
私の目的はただひとつ、ノートPCにあった327号の内包する生物兵器一覧のレジメに見つけた可能性……“カラドリウス”と言う人造生物は、考えられうる毒素、有りと有らゆる病原菌に至るまで中和し無効化すると言う、ただその一点だ。
自動開閉の三重隔壁扉の暗証番号をタッチパネルで操作すると、連動して点灯する筈の照明が既に点いていたし、汗が引いていくように空調が動いていた。
怪しみながら進むとメインラボの手前の古代の職員達が休憩に使っていただろうと想像されるサービス・コーナーに一人の女神が座っていた。
テーブル越しに後光のように放射されるオーラ光があまりにも眩しくて正視できないが、その美しさが尋常な人の範疇でないのだけは分かった。
この方が女神でないのなら、何だと言うのだろう?
「あぁ、もう少し絞った方がよろしいですね……もうそろそろお見えになる頃かと思い、お待ちしておりました」
冒頭、天上から響き渡るようだった声調も、放たれる光の波動も目に見えて優しくなっていた。
「私はステラと申します、どうぞお掛けください」
テーブルを挟んで対面の椅子に座るよう促される。
「最初にお断りして置きますが、迎撃施設の有機質機動装甲をウォームアップされるのはお勧めしません」
「細胞が劣化してしまっています、起動ブーストと同時に溶融してしまうでしょう」
「その他の対空ミサイルなどは稼働はしますが、貴女一人では火器管制システムのコントロールは不可能でしょう」
「1時間以内に100万の軍勢がここに攻め入ります、目的は貴女が秘蔵する究極の生物兵器、“キマイラ・キマイラ327”の奪取にあると睨んでいます」
「実際にあれは、戦局を大きく左右するでしょう」
それは衝撃的な告知だった。俄には信じ難いが、事実だとすれば愚図愚図してる訳にはいかないが、100万と言う数には何が出来るのか皆目見当も付かなかった。
一瞬、キマイラ・キマイラの解放が頭を掠めたが、試案の外だ。
100パー制御できるとは限らないラスト・ウェポンは、文字通り世界を滅ぼす……明らかなオーバースペックだ。
「でもご心配には及びません、私共のファミリーがカウンター・アタックの態勢を整えました」
「後で私もバックアップに就きます……いよいよとなれば、100万程度であれば私一人でもなんとかなります」
何を言っているのだろう、この人は?
「それより昼時ですから一緒にお昼にしませんか? ランチボックスを二人分用意してあります」
何を言っているのだろう、この人は?
見てる目の前で女神はプラスティック製のランチボックスを取り出し、紙で包んだ幾つかを渡してきた。取り出したポットの中身をカップに注ぐと私に勧めてくる。
香ばしい珈琲の香りが鼻腔を擽ぐる。
「薄目に淹れてありますが、エスプレッソです……私共のボスはエスプレッソ以外の淹れ方を珈琲と認めない頑固者でして、その点はすいませんね」
「シルキーが用意してくれたサンドウィッチです、これは七面鳥のカツレツですね、こっちはプロシュートとパストラミが挟んであります……どうぞ」
勧められるまま齧り付いた田舎麵麭は、全粒粉の小麦粉の味が素晴らしかった。小麦粉の生命力がザクザク歯に伝わってくる。トマトもオリーブも玉葱も何も彼もが瑞々しく味が濃い。粒マスタードと発酵バターの風味も素晴らしい。
先程までのチリチリする焦燥感が溶けていくような気がした。
「美味しいです……」
「それは好かった、人間腹が減っては戦も出来かねますでしょ?」
黙々とただサンドウィッチを味わった。本当に美味しかった。
こんなに食べ物が美味しいと思ったのは、久し振りだった。
亡くなった旦那にも食べさせて上げたかったと思うと、自然と涙が零れてきた。
「デザートにイタリアン・ジェラートをご用意しました、こちらでは珍しいですよね? ルバーブ&ラズベリーとピスタチオ、どちらが好いですか?」
余りの懐かしさに吃驚してしまった。
「念の為、メンバーが手分けして住民の避難誘導を行っています」
「私共は過去に犯した重い罪を償うために懺悔の巡礼旅をする者ですが、最近巫山戯た神の啓示がありまして、この世にある32個のオー・パーツを破壊あるいは封印して回っています」
そう言えば、万国共通の巡礼者が纏う白い緞子のマントを羽織っている………
正可っ!
「はい、亡くなられた旦那様にも大変申し訳ないのですが、“キマイラ・キマイラ”は放棄して頂きます」
「リスカ・エフドラド・ラングラーさん……いえ、旧姓ボールドウィン・マーガレットさんとお呼びした方がいいでしょうか?」
「貴女のことも少し調べさせて頂きました、異世界からの転生者はこの世界でもとても珍しい……貴女が何故“キマイラ・キマイラ”に固執するかも、了解しているつもりです」
全てを見通しているかのような女神様の不思議も気にならぬ程、私がこれまで積み上げてきた生きる指標が取り上げられてしまう、その残酷な通達に言いようのない衝撃を受けていた。
目の前が真っ暗になったような錯覚に陥っていた。
***************************
北の空に飛空する翼のある魔物の群れが、望遠スキルで視認できる迄に近付いていた。
空間遠視で地面を行軍する魔族群も確認するが、良く統率されているようだ。
魔王軍残留部隊を掻き集めたにしては、東部方面隊司令官付きシャイターン四人衆とやら、伊達ではないらしい。
「良いかな、ミズチ様?」
“魔法印真層呪装”の変身をブーストする私の眷属、蛟性の女王にお伺いしてみた。気配を消して纏わり付いている女王蛟が、問い掛けに微かに頷いた。
ダーティオールド・タウンの突然変異種青年団が用意した物見塔から翔び立って、高空を目指す。廃工場も含めて街全体が俯瞰出来るまで高く昇る。
遥か下で、ハドリーやフローラ達の青年団員が一般住民の避難勧告に奔走しているのが見て取れた。
(天界モード憑依変身、ウロボロスッ!)
忽ち私の身体は巨大も巨大、ダーティオールド・タウンを取り囲む程もある己れの尾を食み輪になった毒蛇とも竜とも判別つかぬ、畏怖の対象たる怪獣……死と再生の象徴、環状の神獣ウロボロスの姿に成り変わった。
(神術っ、“ウロボロスの庇保”……)
街をくるむように目に見えぬ結界が張り巡らされる。
今私が出来る最大防御、物理的因果を全て撥ね返す万能のプロテクション。
それは物理法則をも捻じ曲げて、この世の理屈に干渉する神域結界だ。
構築した絶対防御結界の中、眼下の街を見守りつつ巨大な輪の姿でゆっくりと回り始める。
辺りを警戒し、不測の事態に備えた何パターンかのシュミレーションに沿って準備を始める。
私の異様な姿を認めたからだろうか、何やら下が騒がしい、不要なパニックは思わぬ暴動を生んでしまう。
広域言霊で説明しておくか……要らぬ恐怖を鎮め、冷静さを取り戻す精神安定光子波動も乗せておけば、落ち着いて安全行動をしてくれるだろう。
(落ち着いて行動してください、絶対防御の“ウロボロスの庇保”を張りました、魔族はこちらに入って来れません、安全に落ち着いて、周りと協力しながら避難してください)
思念が届いたのか、住民達は規則的に行動してくれているようだ。
誘導のために思念を送り続けていると、やがて敵側の第一陣が取り付いた。
雲霞のようなワイバーンの群れだ。先頭の一団は結界に気が付かないまま突っ込み、大層な速度で追突しては潰れて自滅していった。ドス黒い酸のような血糊を撒き散らし、結界の表面を見る間に汚していく。
ぎゃわぎゃわ、バサバサと騒々しいこと甚だしい。
だが、やがて甲高い雄叫びと共に後続が次々と結界に取り付く。その後に巨人種ガーゴイルや蛇竜エレンスゲ、翼のある怪蛇リントヴルムなどが続き、瞬く間に結界を覆い尽くす程の勢いで重なって行く。
遅れて陸路を来た魔物軍団は、結界の裾野に取り付き、迂回して広がって行くもの、仲間を攀じ登り上へ上へと張り付いていくものとが周囲を埋め尽くしていく。アルゴスという全身に百近い血走った眼球を持つ巨人や、三つの頭から炎を吐き散らす巨人のカークス、小山ほどもある巨大な蟹、ザラタンなどの巨大種に混ざり、蝟集する狗頭鬼や小鬼、食人鬼、食屍鬼、蝮女、梟頭熊の類が折り重なるように大挙して押し寄せる。
多勢に無勢ではないが有象無象で結界の北側はもう、陽の光を透さない迄に埋め尽くされつつある。
いい加減、軍勢本体はほぼ集まって来たんじゃないか?
(まだかぁ、プリ? 住民達が不安がるから早くしろよっ、パイプラインやインフラを疵付けるな)
姿の見えぬプリ達に痺れを切らして、呼び掛けてみる。
(もうすでに発動している、間もなく天に穴が開く……)
穴? 覆い被さる魔物の群れを透かして上を仰げば、更に遥か上空に丁度穴とやらが出現するところだった。
それは見ている間に大きくなって、端が見えなくなるまでに広がり深淵の暗闇を覘かせた。
辺り一帯をまるで皆既日食のように、不気味な暗がりに染めた。
やがて降りてくるのは、雲か霞のようなというか、水にインクを垂らしたような広がりというか、実際に目にした者でなければ絶対に分からない、逆に言うと見た者には見ただけで分かる、混沌色としか言いようのない何かだった。
触手でもなく、墨が滲んだような何かでもなく、孰れでもない何かが魔物の群れを掬い上げ、混沌に取り込んでいった。
断末魔に喚く魔族と魔物の群れは、阿鼻叫喚の中、ごっそりと削り取られるように消えて行った。
陰と陽の混沌勢、これ程のものか……
最後には混沌に魂を吸い取られ、すでに死骸と化した魔物達が崩れるように塵と霧散し、天空の穴に吸い上げられていった。100万を下らぬ軍勢が、ものの数分と経たずに消滅していた。
虚脱したように今見た事象を反芻していた私に、プリが話し掛けてきた。
(小娘、忘れるな……我等は壮大な叙事詩の端緒に就いたばかりだが、我等もまた物語の中の駒に過ぎず、煩悩に囚われた俗物だ)
(我の主人とてまた懊悩の中に生きている)
「……違うっ、ドロシーは間違わないし、迷わない!」
少しの逡巡の後、私は感情的に反論していた。
(そんな筈がないこと、小娘も良く承知しておろう……主人が高速思考の狭間でどれ程葛藤し、どれ程苦渋の判断をしておるか、眷属の盟約に結ばれた我等には主人の深い悲しみと煩悶が常に流れ込んでくる)
(なればこそ我等は付き従う、やがて覚醒する“天秤の女神”の可能性に掛けておる、朽ち果つるまで我等は眷属であり続ける)
(……いつまでも悲しみに惑溺するな、やさぐれて煤けた顔をしているお前を見ていると、こちらまで気が滅入る)
(能天気で日頃無口なお前が、色々と思い悩んでいると却って心配になるわ)
「……能天気は失礼なんじゃ無いかな、少なくともあんたに言われたく無いっ!」
弱気になって項垂れている私を発奮させる為だろう、わざと悪し様に罵しるプリの気遣いが分かった。
「でも、ありがと……」
礼など要らぬわ……プリが最後に、そう呟いたように思えた。
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始めて見るどころの騒ぎではない、胆が潰れるかと思う程の怖気を震う地獄絵図だった。
遥か彼方の天空を見上げると、そこにはわらわらと群がる魔物達の様子が遠目にはまるで蜂の巣か、沼田鰻が絡まりのたくる姿に似て、ぬめぬめ、ウゾウゾと何千、何万、何十万の魑魅魍魎共が這いずり回り、吐き気を催すような悪夢の光景だった。
ラボの施設が壊れているので諦めていた、油圧稼働で伸長するドーム型展望塔を、ステラ様と名乗られた謎の女神は無理矢理動かして見せた。
キャノピーに囲われた展望部を覆っている外殻隔壁が収納されると共に、錆び付いた駆動音と共に岩肌が割れて展望室を上へと突き上げた。
「あの巨大な輪になった蛇、ウロボロスの姿を模しているのは、私の同僚でエリスと言います」
「彼女が結界を張っているので、魔族達はこちら側に入って来れません」
「そうそう、過去に犯した罪で私達は故郷を捨てざるを得ませんでしたが、確か、彼女の実家のお宗旨はサマリタン派でしたね」
凄惨な情景などまるで意に介さぬように落ち着かれた女神様は、何でも無い世間話のように私に話し掛けられる。
「間もなく私達のボス、ドロシーが眷属にしているケルベロス・ドラゴンと九尾の狐がここいらを掃討します……貴女も聞かれたことぐらいは有りますでしょ?」
「伝説の怪物ケルベロス・ドラゴンと、ついこの間まで“クミホの北壁”と言うダンジョンに3000年の長きに渡り捕らわれていた九尾の狐は、今は両方とも我等が頭領、ドロシーの手の者です」
のんびりと話している違和感に囚われ乍らも、女神様の異様な話の内容に心と考えが追い付けずにいた。
ケルベロス・ドラゴン? 九尾の狐? どちらもその存在さえ危ぶまれていた神の獣だ。そんな伝説級の霊獣を使役するこの方達は、一体どう言った存在なのだろう?
気が付くと街の端、東は運河の途切れる辺り、西は岩肌の山陵が続く辺りまでビッシリと、上下左右何処を見ても光が射さないまでに埋め尽くされ層になって厚く盛り上がった魔物達の塊が、まるで泥が洗い流されるように、所々脱落していく。
すると見る見るうちに、さながら吸塵機で吸い込まれるように汚らしい厭離穢土が削られていく。
やがて見えてきたのは、霞とも煙とも見分けがつかない理解を越えた何かが魔物や魔族達をごっそりと引き剝がして行く、黙示録の如き壮観な場面だった。
見れば見るほど気持ちが落ち着かなくなる景色だった。
不思議な色だった。天から降りてくる異次元の触手というか靄のようなものはなんとも言えない色をしていた。混沌の色だ。
「ふむっ、初めて見ましたがなかなか鮮やかな手並みじゃないですか……」
傍らを見遣ると、女神様は白いマントを跳ね上げて、見たことも無い高出力の、身の丈以上もある魔杖を握って佇んでおられた。
見事なルーン模様の細工がある長く太い杖の先には、信じられないことに赤ん坊の頭程もある魔核石が擁かれていて、琥珀色とも伽羅色とも区別が付かぬ複雑な斑模様を見せていた。
ばかりか、外套の下に武装した神具の甲冑はクロームメッキが如き鏡面で、虹色の輝きが変転し紫電のような煌めきが表面を奔り抜けている。
もしかするとこれは伝説に聞く、オリハルコンの超威合金“逆転賢者の鋼”か?
今気が付いたが、女神様は強力な斥力結界で私達二人をシーリングしていた。
天空を覆っていた端が見えない程の大きな穴はいつの間にか窄まって、いつもの少し霞みがかった夏空が広がっていた。
100万もの魔族と魔物は塵ひとつ残っていないようだった。
***************************
「ヒルデ、住民を近づけるな……」
「了解した」
女ながらの美丈夫、ブリュンヒルデは、私の意を酌んで集まってこようとするダーティオールド・タウンの民草を遠ざけるように、立ち入り禁止の結界を展開した。
兎小屋の目の前、人参畑に踏み入っている。
すでに兎小屋に掛けられていた、キマイラ・キマイラのための幽閉禁錮結界は解除してある。
複合生物兵器としての発動キーのひとつは水だ。
兎に水を遣ると死ぬ、という迷信は未だに信じられている。
成る程、だから最小単位の擬態は兎っぽい姿なのか……水素素粒子分解からエネルギーを得る仕組みのようだ。
小屋の入り口からもそもそと出てきたオー・パーツを見遣る。
「ピーターをっ、ピーターをどうするの!」
避難から戻ってきた青年団とやらが、転生者の家に集まって来ているようだ。
ブリュンヒルデが張った拒絶結界の外側で、第五世代の突然変異体の娘が叫んでいた。
「ピーターはぁ、私達の、オールドキャナル青年団の希望の象徴なのっ!」
「奪わないでえっ!」
周りの仲間に抑えられながら、こちらに手を伸ばしてこようとする娘に、つい絆される……私もまだまだ甘い。
師匠の教えに曰く、“およそ目的を達成するには夜討ち朝駆け、拙速を尊び、その他の情動は雑事として切り捨てよ”、と厳しく戒められていた。
「この一見つぶらな瞳は、お前達の気持ちがそう見せているに過ぎない、これは100万年以上を生きた危険な生物兵器だ……名をキマイラ・キマイラという」
「この姿は第一待機モードと言って、こいつの最小単位だ」
対峙した羽の生えた兎から、眼を離さずに事情の説明を試みる。
「……嘘よっ」
「嘘ではない、一旦発動すれば周囲からエネルギーを取り込み、体内に遺伝子情報として保持された320万種の生物兵器が活動を開始する、事実上この世界を、この星を滅ぼすことも可能だ」
「お前達がボビー・マギーと呼んでいる元聖女が、ここに残る研究施設で、ある目的のためにこれを分析していた」
「そもそも、魔族共がこの街を攻め滅ぼそうとしたのも、この脅威のオー・パーツを入手せんがためだ」
「丁度、三十三研ラボから元聖女殿が帰ってきたようだ、彼女がどう釈明するか訊いてみるがいい」
ステラ姉のホバリング・ボードが空から降りて来ようとしていた。
抱きかかえられるようにされた異世界転生者の女が、やがて人参畑に降り立った。
「そんなっ、禁錮結界が!」
キマイラ・キマイラが外に出てしまっている現状を、いち早く悟ったようだ。
「マギーッ、ほんとなのかっ、ピーターが危険な生物兵器だって話は本当なのか?」
最初に兎もどきの命乞いをした娘の彼氏なのだろう、緑色の肌をした男が代わって問い掛けた。
「ハドリー……確かにこの子は、危険な存在だ、だが発動しないよう厳重に管理していた、黙っていたことは済まなかった」
「何故だ、何故なんだっ、マギー?」
「この子は……私の希望なんだ」
転生者はハドリーと言う男から視線を背けると、頭を包んでいたバンダナを取り去って自分の足許を見詰めるように俯いた。
後は無言だ。
皺が目立ち始めているが、異世界で一世を風靡した昔の女優に何処か似ている、そんな考えが頭をよぎった。
やがてハドリーと呼ばれた、やはり第五世代の青年団の男は闇雲に懇願してきた。
「なぁ、女神様だか何だか知らないが、あれだけの魔族の大軍を一瞬で葬った奇跡が起こせるなら、何とかならないのか?」
「ピーターを殺さないで済む方法は何かないのか?」
ふぅ、そう来たか……だが、聞き届ける対価は安くはないぞ。
居るんだよな、こう言う無節操に心意気だけ男前なのが……
早死にするタイプだろ、お前……でも、嫌いじゃない。
初めて私は小さな兎もどきから視線を外し、ハドリーと言う男に向き直った。
兎もどき、キマイラ・キマイラは論理物理固縛で縛ってある。
「選ばせてやろう、危険な遺伝子情報のみを取り除きピーターを手許に残してやる。その代わり、ここを浄化して何百年前かの緑豊かな土地に戻す福音の加護は無しだ……我々の技術、能力なら、この荒れ果てすさんでしまった土地、汚染にまみれた泥濘をピュアな自然に戻すことが可能だ」
それ程近くはない距離、男に噛んで含めるようにゆっくりと大きな声で伝えた。
「どうする……この兎もどき一匹のために、暮らしやすい環境と未来の子孫へ手渡す豊かな故郷を棒に振ることが出来るか?」
「嘘偽りなく環境浄化の準備は総て出来ている、見合わぬ対価と思うが?」
「好きな方を選べ」
「決まっている、ピーターだっ、俺達は、今迄もこれからもこの薄汚れた街で生きて行く、それが俺達が自分で選んだ俺達の運命だからだっ!」
応えは思いの外早かった。
「けど、ピーターは必要なんだっ、なぁ皆んな!」
なかなかに肝の据わった男だ、馬鹿かもしれない。
結局、こういう奴が人生の勝者だ。例え誰が蔑もうとも、歴史に名を残さずとも、私は素直に称賛する。
「愚かな選択だな……だが、嫌いじゃない」
油断無く周囲を警戒しているキキに、私の側に寄るように目で合図した。
「今から剣術の真髄、武道の奥義と真骨頂を披露する……聢とその目に焼き付けなさい」
左脇のショルダーホルスターから“無明丸”を抜き取り、折り畳んだ刃を開くと気息を整えた。
師匠から下げ渡された剃刀は、刃物の中の刃物、刃物の覇王、およそ切れぬものは無い。だが、それは威力であり技では無い。
畢竟、剣とは斬る技である。鋭利な刃物で切るのは、分子と分子の結合ではなく、ただ物体を押し切り、引き切る。
だが、世に因果を截ち切る技があるとすれば、例え対象が幽玄のものであろうとも斬れない道理はなかった。
実はナンシーが駆使するナノマシーン製造テクノロジーは、リソグラフィなどの直截的な加工法だけでは無く、実際の加工機械を極微化した環境を何段階にも渡り作り出したり、部品の作動に不必要な分子を極力間引いて最小化したりの技術が併用されている。
この技術を応用することを思い立った私は、手術用顕微鏡マイクロサージャリー並の仮の視点を設け、更にそこから下の視野に、更に深くと潜って行くことにより、遂には分子結合、電子、陽子の様相まで見えるに至った。
キマイラ・キマイラの中核を成すもの、ゲノムDNAに書き込まれた複雑で膨大な数の塩基配列をイメージに捉えていた。
イメージが見えれば斬れる……斬ると言う技の到達点だ。
心得のない者は、ただ佇立していると見える自然体のまま無造作とも思える動作で無明丸を振るった。
右に左に振るわれる剃刀は、妙にゆっくり見えたかもしれない。
だが、実際には一振りで何十万という数の生物兵器の現臨可能なモトが、屠られていった。
「……終わった」
蒸せるような暑い夏の午後は、喧しい蝉時雨で兎小屋の周りに集まる人々を見守った。
ステラ姉は誇らしいようでもあり、何処か眩しそうに目を細めて私を見ていた。
エリスもいつの間にか空から降りてきて、総毛立つような表情で私を見詰めていた。最近色々と悩んでいたようだが、日頃あまり自分を語らないからなぁ……突っ込むとき以外は口数少ないし。
キキは泣いていた。
「何故泣く?」
「……目指すべき頂が、あまりにも高いからです」
「お前はまだ8歳だ、あたしがその頃にはまだ寝小便をしていた、焦る必要はないさ」
そうキキを諭すと、蹲り顔を伏せた異世界転生の元聖女に近付いて行った。
無水培地リキッドに満たされたメスシリンダー状のポッドを渡すためだ。
「“カラドリウス”のDNAだ、必要なものなんだろう?」
茫然自失している少し大柄なオードリー・ヘップバーンにポッドを握らせた。
「あたしはドロシーだ、キマイラ・キマイラの存在の枢軸は確かに屠った、無害なDNAがひとつ残ったところで問題は無い」
「それが進化と呼べるかどうか分らぬが、遠い未来に人類が他の惑星に進出することがあったとする、そのとき開拓者は入植地の環境に適応できる者が選ばれるだろう……それはもしやすると人としての形態を捨てているかもしれない、そうまでして広がって行こうとするのが人の業なんだと思う」
「自然を捨て、汚染にまみれたこの土地はひとつの試金石かもしれない……今はそういうふうに思える」
誰に聞かせるでもなく話していたが、次の言葉は彼女を慕う青年団に告げるためのものだ。
「彼女の本名はボールドウィン・マーガレット、ボビー・マギーは愛称だ、此処とは違う異世界で生きて死んだ魂が、前世でそう名乗っていた」
「うちのメンバーにちょっと言語障害気味の時空神が居る」
「貴女の出身の世界のこと、少し調べさせたよ……貴女が元いた惑星、1237β地球は残念ながらその恒星系ごとデリートされてしまっていた」
「貴女の生まれた宇宙を統括していたのは正常進化を見守る組織、全宙域監視機構とでも呼ばれるもので、貴女がいた文明は技術に対してその精神が幼稚過ぎると裁定されたようだ」
「残念ながら貴女の生まれ故郷は滅びてしまった……この決定は、並行世界を統べるミレニアム・ガーディアンも容認している、したがって決定事項はくつがえらない」
知り得た事実をマーガレットに告げるのは死刑宣告に近いかもしれないが、敢えて私は告げることにした。
「………そうですか、私は何をしていたのでしょう?」
「もう救えないとも、心の片隅では思っていましたが……滅びてしまった世界を手遅れとは知りつつ、必死だった」
「足掻いていれば道は開けるかもしれないなんて、都合のいい甘い考えを抱いて」
暫くショックを受けていたマーガレットがぽつぽつと呟いた。
「それで、女神様達は何なんでしょうか? 貴女方も転生者なのですか?」
「ふっ、正可に……我等はこの世界のローカルだ、何を隠そうあたしとステラとエリスはついこの間まで、何処かの異世界から呼び寄せられた下種な召喚勇者に洗脳されて、心ならずも肉欲に溺れ色に狂い捲った最低の雌犬売女だった」
「貴女の居た世界の道徳観念に照らし合わせても、あたし達が長年犯した痴態の数々は、もっと非道い……何しろ嫉妬に狂う幼馴染みの婚約者を目の前にして、衆人環視の中、魅了の術中に陥っていたとは言え獣欲にいざなわれるまま衣服をかなぐり捨てて、クズ勇者と交わい幼馴染みを無慚に罵倒した」
「ステラという者はその婚約者の姉であり、エリスも同じ村の出身であたしの婚約者に横恋慕というか、同じように懸想していた者だ、同じように魅せ付けながら抱かれた、あたし達の身体には性的興奮を昂める魔的効果が付与されたピアスや、下腹部には二度と消えない呪術が施された卑猥な彫り物さえあった」
「この世界にもあるのさ、貴女が思いもしないような悍ましくも奇妙で奇天烈なセックスの数々が……」
「“魅了・催淫”と言うスキルに操られてはいた、だが心の片隅に最愛の者を裏切る背徳に悦びを感じる自分が居なかったとは言い切れない……立ち直り、真人間に戻れたのは救いの手があったからだ」
「…………何故今、それ程迄に毅然としておられるのですか?」
「泰然自若、誇らしげに見えたとしたら、それは単に痩せ我慢に過ぎぬ……死が二人を別つ迄と終生を誓い合った相手を裏切り、幸せな家庭を築く筈だった許婚の将来の夢を理不尽に奪った、遣り直せる筈など無いまでに深く裏切った、深く……深く裏切ったんだ、寄ってたかって一人の若者の人生を完膚なきまでに踏み躙った、あたし達のしたことはそういうことだ」
「大袈裟でも何でもなく今でも毎日、のたうち回るまでに切なく狂おしい……平然としている訳じゃないさ」
ボールドウィン・マーガレットは目を眇めながらも、食い入るように私達を見詰めていた。
「罪を償って生きる我等には死んで楽になるなどという安易な選択肢があろう筈もない、ましてや己が不運を嘆いて悲しむ贅沢など許される筈もないのだ、犯した罪は後悔などという言葉で語れるほど生易しいものじゃない……永遠の苦しみこそが我等が望み、立ち止まることは有り得ない」
遠巻きにしていたダーティオールド・タウンの若い世代が寄って来た。
常人よりも私達の放つオーラに耐性があるようだ。
「なぁ、お前達……空から幸せは降ってきたか? 死に絶えた草木に新たな希望は芽生えたか? 足掻いても足掻いても何も変わらず、途方に暮れて心が折れたりはしていないか? それでも……それでもこのディストピアで生きていけるか?」
「当たり前じゃないすかっ、ここが……この薄汚れた街が俺達の生まれ故郷だ、なぁ皆んな!」
「……はいっ、ここで生きて行きます!」
「マーガレットさん、何故こんな話をするか分かりますか?」
「悩ましい内容は違えども、貴女もあたし達も同じ火宅に悶え苦しむ仲間だということだ……立場は一緒なんだ、あたし等は未来永劫を贖罪に生きると決めている」
「ひとりの男と添い遂げた貴女の生き方が、道を踏み外してしまったあたし達には素直に羨ましかった……貴女だって碌でもない前世と比べて、操を捧げた旦那さんとの生活が、心に灯火が燈るように暖かく心地良かった生活が、何物にも代え難い宝物だった筈だ」
「どんなに才能に恵まれても、悲劇的な状況を回避出来ないケースは生まれる……例え過酷な修羅の道に陥ろうとも、顔を上げ、前を向いて進める強靭な魂は培われていますか?」
「過去に捕われ過ぎてはいけない、貴女にはこの先もここで、この世界で生きて欲しい」
「今ヤクシャス・シティに“公国正教青少年グループホーム”と言う孤児の為の養護施設を立ち上げた、子供好きの貴女には打って付けの職場だと思う、まだ運営前だがここから一番近い支部はミルン州のアレクサンダーミルンになる……勿論、ここに残って青年団の面倒を見つつ“カラドリウス”の抗体研究を続けても良いし、選ぶのは貴女の自由だ」
既に夏の日の夕方は空を夕焼け色に染め、長い夕暮れを迎えようとしていた。
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やがてダーティオールド・タウンに残り、この地で生きて行くことを決めたボールドウィン・マーガレットの許に、“3人の御使い”からの加護の手紙が届くようになった。
手紙の内容にあった、当代オッセルヴァトーレ・イノケンティウス二十五世に陳情して頂いたと言う法王聖庁直轄の御神体聖堂をこの街に建立して頂く件は、一ヶ月もしない内に現実になった。
法王聖庁直属の営繕部隊、マエストロ工房が大挙して押し寄せてきた。
魔力で組み立てられる聖堂伽藍の中、本尊の御神体が据え付けられるのに、土地納めの典礼を行なってから一週間と掛からなかった。
思いも掛けない褒賞に、街中が面食らった。
今はもう、法皇聖女様の福音の加護が降り注いでいる。福音は汚染を取り除きはしなかったが暮らし振りが、楽になるような何らかの助力を齎らした。
工房の職人は、聖堂の彫刻や金箔細工などの彩色のため暫く滞在した。
ハドリー達青年団は、マーガレットの素性を知っても変わることはなかった。
ピーターは今も人参畑の側の兎小屋で飼われている。
クラウディアというサマリタン派の内部監査室にいた間諜が、今迄の仕事に嫌気がさしたか、浅からぬ因縁だったマーガレットと一緒に暮らしているのは、縁は異なものと言わざるを得ない。
案外に馴染んで、畑や酪農を手伝っている。
痛恨のミスでした、登場人物名を間違えてました……クロノメーターに棲む妖精神は/カルディア→ガラティアが正しいです
掲載部分を検索かけて修正しました(2021.08.25)
右も左も分からずに始めた創作活動、基本もなっていないのにただ諸先輩方の真似っこをしているに過ぎぬ姿勢を深く恥いる次第です
キャラクター設定などの設計図を面倒臭がらずに真面目にやっておけばこのような事故を防げた筈だと思うと、安易にストーリーを先に進めるより重要な作業だなと反省しております
数少ない読者の皆様にご迷惑をお掛けしたかと思うと一度きちんと報告をしておかねばと思いました
誤字脱字のご報告も受け付けておりますが、是非ここは間違ってるなどのご指摘も頂ければと思いますのでお気軽にご連絡下さい
恥ずかしい出来ですが別口でエッセイを載せましたので、ご興味のある方は目を通してください
https://ncode.syosetu.com/n9580he/
現代人の性道徳とファンタジー世界の比較をするのに転生者を出してみたかったと言ったら怒られそうですが、なんでもありのごった煮感覚をご賞味下さい
前話がエリスサイドの胸糞過去振り返り回でほとんどストーリーが停滞しておりましたので、小気味良いテンポで進めることを心掛けたのですがどうも上手くいきません
〈side:B〉とかって気にしないでください、単にレコードの表面と裏面みたいにとってくだされば結構です
特に同じドラマを視点を変えて描くなどという高等芸を嗜んでいる訳ではありません
クラウン法=4~7世紀頃、シリアの吹きガラス技法が発展して吹き筒を手で回転させ、遠心力で円盤状にする技法が生まれ、透明度のある窓ガラスが実現する
トリコーヌ=三角帽子、両脇と後ろを折り返してあるため上から見ると三角形に見えるのでこの名がある/欧米の男性が鬘をつけるようになったため丈の低い三角帽子が普及した
フォンタンジュ風髪飾り=17世紀後半頃、フランス上流階級を中心に流行した女性の髪飾りおよび髪型で、リボンで髪を頭上高く結い上げレースなどに針金を入れて作った
パニエ=下着、ファウンデーションの一種で16世紀にヨーロッパでドレスなどのスカートを美しい形に広がらせるため、その下に着用したのが始まり
アミソーダロス=ギリシア神話上の人物であり、怪物キマイラを育てた人物とされる
カラドリウス=ローマ神話など中世ヨーロッパ等で信じられていた神鳥の一種、首にアヌビスの書かれた黒い袋を提げており、吸い取った病をその袋に貯め、貯めた病が最大量まで達すると卵を産む
バハ・スウィーン=この物語世界の根幹宗教“女神教”の聖句
応援を頂けると俄然やる気になります、是非★とブックマークを付けて頂けると有り難いです





