39.キマイラ! キマイラ! 〈side:A〉
師匠と別れてどれぐらいの月日が経つだろう。
ソランへの手紙はもう何通目だろうか?
”天秤の女神”などと驕るつもりも無い。私達の本質は幼馴染みを裏切った姦通女、ただそれだけだ。
今までも、これからも他の肩書きを名乗るつもりはない。
第2回眷属者連絡会議が招集されていました。
私とマルセルも今回から書記役ということで、記録を取るために呼び付けられています。
魔術的に構築された電脳会議は、どんなに離れていても参加メンバーが一堂に会することが出来、何重にも時間圧縮された仮想空間の出来事は現実世界では瞬きする間……とのことです。
前回の作戦行動でのことでナンシー様からの報告に依りますと、ブリュンヒルデ様を一時制御していたサブ・ウェアとやらはドロシー様が焼き切って沈黙させましたが、プログラミングされた自動制圧行動の超長距離弾道攻撃は、こちらのマルチプルバリアで防いだものの、着弾先は確実にナンシー様管理下の複雑なステルス成層圏人工衛星網並びに、滞空超弩級要塞戦艦“ニンリルの翼”号本体そのものをも補足していたらしいのです。
火器管制他をバイパスされていた本来のブリュンヒルデ様も、自分の全方位型索敵照準システムの精度と機能なら可能だと言及されました。
それに先手を打って無効化こそしましたが、宇宙とかを渡ってきたとされる古代ヒュペリオン文明には亜空間を利用したワープ攻撃手段といったものがあり、例え対象が何光年(?)という途方もない距離を隔てていようともこれを撃ち抜くことが可能なのだそうです。
謎の“大陸救済協会”計画の全容はブリュンヒルデ様が保持したデータでは不完全で、未だベールに包まれていますが、その技術だけは決して侮れないとのことを一同で再確認しました。
遠隔ゾーン調査などの卑怯な手段で、連邦国防軍の広域魔術大隊の参謀情報部他が介入して来ようとしていましたが、教皇聖女オッセルヴァトーレ・イノケンティウス二十五世様に頼んで圧力を掛けて頂いたそうです。法王聖庁の強制力は一国の政治中枢より勝ります。
職業訓練所を兼ねた、元“靴磨き会館”改め孤児収容養護施設は、正式に“公国正教青少年グループホーム”という看板を名乗ることになりました。
これがあるから入所者には一律、オールドフィールド公国正教への入信を前提にしていた訳です。
教皇聖女様の認可は取り付けてあるそうです……基本、法王聖庁そのものは“天秤の女神”の意向に異は唱えません。
すでに連邦内に支部を増設する計画も骨子が定まっています。
候補地は、メルヴィル州、オッペンハイム州、ダンセイニ州、クロフツ州、ミルン州の5箇所が選ばれ、それぞれの州都で用地買収が進行中です。
ドロシー様は悪習として弾劾したいようですが、既にこの地で産業として確立してしまっている紙巻煙草の流通を抑制する案は、当面見送ることになりました。
次の作戦行動地は、ガラティア様の指示があってディアゴス合衆国連邦の北の端と決まったのですが、ナンシー様の事前調査と作戦用撮影偵察衛星の画像他でのデータ説明を聞くと、そこは無計画な産業開発が齎した醜い爪痕の刻まれる、有害物質に侵蝕され、ゴミと汚穢にまみれた救いようの無い土地でした。
運命に見捨てられた汚染地帯で、何世代にも渡る無残な化学錬金工業の廃棄物が、回復のしようも無い迄にダメージとして蓄積され自然破壊に蝕まれた斜陽の工業地帯です。
未来に引き継ぐべき“負の遺産”としてこのまま捨て置くのか、現在の住民の健康を優先して浄化魔術を施術すべきかの結論は、先送りになりました。
また北の端はギリギリ魔獣忌避装置の効果範囲外で、新造システムの出力を上げるか、それとも魔族勢力が近くで策動するのを観測しましたので、今このタイミングでの動きを怪しみ、少し様子を見るかで討議になりましたが、結局今暫く探りを入れてみる方向で落ち着きそうです。
「じゃあ、全員一致で試験的なプレジャー・パーク開発の件は可決でいいな?」
「……ドロシー、ちょっといいか?」
私達と同じく初参加のブリュンヒルデ様が、挙手をしています。
「議長だ……議長っ、何かなブリュンヒルデ君?」
「あぁ、議長……朝の歯磨きも、朝日を拝む礼拝も特に問題は無いんだが、早朝訓練で毎回のように気を失うマルセルの介抱役が、何故ずっと自分なんだ? 必要なことなのか?」
横を見ると、リアルタイプ・アバターの癖に真っ赤になったマルセルがぐるぐるといった感じで目を泳がせていました。
姉弟子として聖女警護隊暗部の裏仕事や影警護の任務を一緒にしてきたこの娘をずっと見て来ましたが、人一倍寡黙でストイック、あまり自分のことを話さない性格でした。
私達が追随した“薔薇王の種子”滅失過で、ドロシー様に命と魂を救われてからというもの、全てを捧げ尽くすと言った態で心の底からドロシー様一辺倒だったのですが、どうもこの間からの早朝訓練で様子が怪しいのです。いつものように気を失うのはまだしも、気絶したあとの目覚めで看取っているのがブリュンヒルデ様でも同じようにウットリしている様子を見せるので危ぶんではいたのですが……ひょっとしてマルセル、貴女って女の人が好きなの?
「……いいところに気が付いた、それは必要なことだ」
「えぇっ? ちょっと理不尽じゃないか? 少なくともこの身は女と乳繰り合うようには出来ていない、別に嫌な気分じゃないから構わないのだが、申し訳ないがそっちの趣味は無いのでマルセルに熱い視線で見詰められても困るのだが……」
「繰り返す、必要なことだ」
「…………」
ブリュンヒルデ様は、恨めしそうにマルセルの方を見遣り、マルセルは嬉しそうな表情と申し訳なさそうな表情を交互に繰り返す百面相を、見せていました。思念体だからなのか、この娘がこんなに表情豊かなのは初めて見るかもしれません。
私は、これを記録に残すべきかどうか迷っていました。
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キキがベティちゃんやガストン君に手紙を書きたいというので、確実に届ける伝書用使い魔の造り方を教えた。
その他にも西ゴート帝国他で密教系孤児院や少年出家僧を預かる寺院などに喜捨して回っていた頃に仲良くなった顔見知りに、手紙を書きたいらしい。
ならばと加護の籠るシグネットリング(指輪印章)をひとつ、キキに与えることにした。緋々色金で鋳造した少し小さめの印璽は、竜とケルベロスと盾と乙女の意匠を紋章化したものだ。
これで封蝋した手紙を貰った相手は、幸運と祝福の加護がその身に宿る。
ブリュンヒルデも手紙を出すという。
手紙書く相手なんかいないだろう、と当然の疑問を口にするが、ベティとガストンは自分にとっても友達だし、何とか言う保安官達とも友達になったと自慢気に話すのが何故か不憫で、ブリュンヒルデにも印章指輪を与えた。
新しい玩具を与えられた子供のように、満足げに笑っていた。
失礼なことを書いていないか封書を校閲させろと言ったら渋々見せたが、リンダ・ドルリーレーンに宛てたものは、なかなか相手のことを想い遣る文面で感心した。
たった一人と決めた女に裏切られ、それまでの人生を総て捨ててしまったアルコックという男、
そして男の殺意を身に受けて、初めて馬鹿な裏切りの罪深さに気が付くも、男が死を選んだがために取り返しの付かない罪を悔いる日々を尚更に粛々と続けるしかなくなってしまったドルリーレーンという女……ひとつの愛の終着と結末があったように思う。
生臭い愉悦に負けて過ちさえ犯さなければのひとことは、口が裂けても私達から言っていいものではなかった。
折角仲良くなれたガストン、ベティの兄妹達とも別れ、そんな素振りは噯にも出さないがやはり寂しいのだと思う。
ひと処に留まれない私達の宿命に付き合わせてしまっている引け目がある。
自分達が幼い頃は遊びたい盛りだった筈の8歳という年齢で、無理を強いているように思えるキキのために遊具施設を造ろうと思い立った。
移動式遊園地、所謂トラベリング・カーニバルはまだ私達の世界では始まっていなかったし、巡業するサーカスも曲芸団と言うほどの規模では無い。
無ければ作って仕舞えばいいとばかりに、ホテルを作ったときの副次データや、私やステラ姉達が師匠の魔宮図書館で仕入れ蓄積した知識を(私達の記憶魔法は、ほぼ蓄積した知的資産をそのままに出力できる)、継ぎ接ぎして娯楽施設を創り出した。
観覧車、メリーゴーランド、ジェットコースター、お伽話を題材にしたラビリンス、ウォーターライド、アドベンチャー系のアトラクション、子供向けの野外劇場、朝昼晩とライブショーを実演しているミュージカル・シアター、賭博性を排除したゲームセンター、映画館、お土産店の並んだバザール・アーケード、花火を打ち上げる夜間の電飾パレード、空中曲芸や雑技、魔物や動物の調教芸を披露する巨大サーカスの円形劇場と、兎に角考えられる子供と家族のための娯楽を詰め込んでごった煮にした一大アミューズメント・パークが営業を開始している。
格安の入場料で、施設は利用し放題。
ホテルナンシーと同等のレストラン街も、最初から採算度外視なのでほぼ小銭程度で利用できる。
遠方からの利用者のために、スパリゾート施設付きコンドミニアムも隣接している。遊園地の利用者には、これもお財布に優しく、宿泊料はただ同然の価格設定だ。
この巡業で客が入らない訳はないが、一応冒険者ギルドや公国正教の伝手で宣伝して貰った。
船旅や鉄道旅行もポピュラーではない時代、ましてや子供の遊びのために徒歩で来園して貰うのはハードルが高かろうと、直通の魔法の列車の運行を開始した。世界中の主要都市の街外れに夕方の5:00になると定期的に豪華列車が停車する。その時だけ出現する幻の駅は夢があってよかろうと思ったが、後々世界の七不思議に数えられるようになった。
何千キロ、何万キロも離れている移動距離を一瞬にして結ぶのは、勿論ナンシーの技術だ。乗車している間に、ウエルカム・ディナーが供される……無料だ。
そんな訳でイデルバキア山岳州のかなり辺鄙な土地で開園したにもかかわらず、大変な盛況だったから急遽施設を増設したし、宿泊場所も増やした。
キキが、旅の途中で知り合った子供達を呼びたいというので顎足付きで特別招待をした。勿論それ前提なので否やはない。
ナンシーが臨時列車のピストン輸送で頑張ってくれた。瞬く間に現れては消える魔法の停車場は、暫く語り草になった。
これだけの巨大な仕掛けを創ったのだから旧交を温める子供達に、夢のひとときを与えられたらと思う。
そう言うふうに企画したし、意に沿って当初の目的は果たされたと思うが、一番楽しんでいたのはどうやらブリュンヒルデと、通常人と同じ大きさに現臨したジャミアスだった。こいつらの精神年齢に疑問は残るが、良く子供達の相手をしてくれたのは有り難かった。
キキが意外とモテるのが判明したのは、招いた仲良しさん達の中で小さな恋の鞘当てがあったからだが、キキの一括で諌められた彼等の望みが成就されることは難しそうだ。
何しろ人間の大抵の汚らしい部分も、男と女の衝撃的・変態的性技さえもほとんど見知っているキキに、間違っても小指の爪の先程も幻想は無いし、必要とあれば容赦無く冷酷に人も殺せる。
第一相手の考えていることが良くも悪くも瞬時に全て読めてしまうこの子の心を、将来射止めるのはどんな奴なのか……
そんなことに心を痛める日が来るのは待ち遠しくもあり、考えたくも無い気持ちもあり、あぁ千々に乱れるな?
私達と一緒に来るということは、修羅に生きざるを得ないということだが、友達を作ってはいけないという法は無い。
例えいつも一緒に居ることが叶わなくても、思い出は作れる筈だ、きっと………
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「マギー、今日の川鱒はいつもより汚れてないぜ、蒸留水の氷はおまけだ」
汚れが少ない川に仕掛けた硝子製の瓶胴に今朝掛かってた奴だ。トロ箱に入れて運んできた。
「あぁ、助かるよ、ハドリー、奥の台所に運んどくれ!」
上背の有る俺達の姉御、ボビー・マギーは、今日も白髪の目立ち始めた頭をバンダナで包んでゴム製の長い前掛けとゴム長靴で威勢よく迎えてくれた。地元出身じゃないマギーは、俺達と違って普通の人間らしい姿、形だ。
夢の無い街に生まれ、希望を無くした爺婆に育てられた俺達にとってボビー・マギーは唯一の光明だった。
俺達の街、ダーティオールド・タウンに住む人間の寿命は短い。
安全性の考慮の無いまま錬金工房や化学薬品の合成工場が長きに渡り垂れ流した毒素は、住民の健康と命も脅かした。
先人の浅慮を恨んで生きるには、常人の弱い身体では耐えられなかった。
必要に迫られて様々な耐性を人体に付与し、皮膚呼吸が飛躍的に向上した者、比較的魔物が紛れ込む土地だったから、生け捕りにした矮小種の遺伝子を移植して耐寒耐熱の特性や人間以上の能力を得られた者も居た一方、腐った水質や大気に耐えられず突然死する者、病魔に犯され衰弱死する者、人体改造の実験に失敗して不幸な死を遂げる者も少なくなかった。
現に俺とフローラ・スタンレーの両親は三十代半ばで他界した。
以来、爺さんや婆さんの家にお世話になっているが、本当の肉親かさえ知らなかったし、興味も無いので訊いてみたこともなかった。
「今日は工場の稼働日だったっけ、朝飯は喰ってくだろう?」
「あぁ、レンズ豆のシチューと合鴨のハンバーガーを頼む」
ボビー・マギーの店は、飯屋だ。
レストランみたいな洒落た店は、今の俺達の街には無い。
第一、土壌汚染が蔓延した俺達の住み暮らす地域は、安全な食材が入手しづらい。ボビー・マギーはより安全な食事を提供するために今の店を始めた。
死に別れた旦那さんと、この街で生きて行くと決めたんだそうだ。
以来、安全な野菜を育てるために土壌を洗浄し、浄化の魔術で毒素を抜いた畑を耕してきた。
今では僅かながら、奇形化する前の純粋種としての野菜、赤茄子、馬鈴薯、唐辛子、玉蜀黍、落花生、隠元豆などが収穫できるようになった。
噂ではボビー・マギーは何処かの国で聖女をしていたから、福音の加護を土地に降らせることが出来るって話だった。だが、このときの俺達には聖女様ってものがどれ程のものか、全くと言っていい程分かっていなかった。
「ハドリー、こっち、こっち!」
ここに集う仲間達が朝からワイワイ騒がしくしている。フローラ・スタンレーは皮膚の一部が鱗化している他は可愛い普通の娘だ。
他は鰓呼吸するので少しシューシューする語尾が気になるぐらいか?
年上のマシューも同じ工場に勤めているが、今は夏毛で体毛が薄い。冬はもっと剛毛になる。
俺は俺で、表皮の下に葉緑素を持っているせいか緑色の硬い皮膚だった。
俺達の街、ダーティオールド・タウンは俺達の世代で突然変異種が眼に見えるような感じで台頭してきた。今迄も人体変異は無かった訳じゃない。
だが、ここまで目に見えるほど顕著な外見が顕在化したのは、以前は無かった現象だ。俺達がこの悪環境で生きていけるよう進化したのかどうかは分からなかったが、上の世代には俺達は疎まれ奇異の目で避けられた。
「お早う、ピーターは今朝も元気か?」
ピーターってのは、マギーさんが昔から飼っているネザーランドドワーフ種の兎だ。何年生きてるのか分からないが、相当長生きの兎のようだ。
店の裏手の畑に小さな兎小屋があり、他の兎達と一緒に飼われている。
「うんっ、あげた甘藍を美味しそうに食べてた、羽をパタパタさせて喜んでたわよ」
ピーターの背中には、奇形種なのか鳥のような翼があった。
大いなる昔、人は精霊と共にあり、精霊の加護により生きていたと伝え聞くが、俺達の土地は精霊に見放されて長く、夜になれば墓場から生き返るゾンビを恐れて生きる……俺達のダーティオールド・タウンはそんな呪われた場所だった。
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ひとつのオー・パーツを追って、ディアゴス合衆国連邦は魔族領に接した北の外れ、イデルバキア山岳州で、目的の打ち捨てられた工場群の偵察行為にそれぞれ単独散開してた。
ドロシーの持つ魔導クロノメーターに棲むオッパイ女神ガラティアのご託宣があって、比較的山間の寂れた街までやって来た。
それは険しい岩山に隔てられ、打ち捨てられた炭鉱町や今は廃村となった炭鉱夫達の苔むし朽ちた住宅街などの残骸に埋もれた、全ての幸運から見放されたような場所だった。大部分が無計画に建造された廃工場跡だった。
夏霞か光化学スモッグか判別できない、薄っすらとした靄が空全体を蓋ってた。ここで暮らす人間は相当のハンデを強いられている。
細々とした鍍金工場などが今も稼働してるけど、罪人の流刑地を兼ねていたこの土地に今も縛り付けられているのは、そんな他に行き場を失った後ろ暗い氏素姓の遣る瀬無い子孫達だと思う。
罪人、罪人か……エリス達と一緒だな、ドロシーはエリスを許すと言ってくれたけど、ステラ姉とエリスがあの娘にした仕打ちは、本当にどうしようもなく取り返しのつかないものだった。
あの日あの時、ステラ姉と共に誓った、命ある限りドロシーを守り抜くと……その為だけにエリスは生きている。
ドロシー、エリスは貴女の剣と盾になる。
この誓いと絆は、永遠にこのエリス、我が魂と共にあり、その覚悟に嘘偽りは無いけれど、でも……今も全く引け目が無くなったかと言うと、そんな訳はなかった。
踏み止まる胆力の無かったエリスは犯した罪に打ち拉がれて心を閉ざし、失語症になり、幼児退行に陥った。
ドロシーを支えるべき自分が、こんな不甲斐無い無様さをいつまでも引き摺っている場合ではなかったのに、甘ったれた子供だったエリスの心はあまりにも脆弱だった。
エリスは弱い自分を変えたかった。
ドロシー、エリスは貴女を守れるほど強くなれただろうか?
元々無口だったエリスは、人との会話が苦手で下手だ……多分今も下手だけど、それはそう言った心の中の引け目があるせいだと思う。時々突っ込んだり、剥れてしまうのは、そんな劣等感の裏返しだって分かってる。
堕落した鬼畜勇者のハーレムで乱交と複数輪姦の悶絶を繰り返していた発狂寸前の振る舞いには、ドロシーとの肉体的な交わりも当然あった。
それこそ身体の隅々まで知り尽くす程に……
ソランと一緒になることが叶わぬのなら、意中にあった許嫁のドロシーなど畜生道へ堕としてしまえと思った。醜い想いと共にエリスも堕ちたいと愚かしくも願った。
女っ誑しの狡い最低勇者に付け入られるには、それで充分過ぎたのだろう。
忘れもしないが、その裏側にあるさもしい情痴に気が付くこともないまま柔和な貌に騙されて、誇り高い筈のエルフでありながら、ごく簡単に嬉々として処女を捧げた。世の中の常識に疎かったエリスは一夫多妻制とはこういうことかと思った。
常軌を逸した交わりはあっという間にエスカレートして、夜も昼もなく荒淫を貪っては弛緩し切って気絶するように眠る日々だった。
いつでも何処でも発情しっ放しの“魅了・催淫”に捕われてはいたけれど、元々の素養がなければここまで堕ちることはなかった筈だと、後から師匠に聞かされた。
本物の淫乱、本物の変態だ。
涙に濡れた、決して忘れることの出来ない、忘れてはならない恥多き過去だった。
淫猥な好奇に請われるままドロシーと女同士のセックスをして散々逝かせ合い、いつの間にか誰の精とも知れぬ妊娠にドロシーとステラ姉、そして自分の子供までも堕ろした。
エリスがやったわ。
何処からどう見ても、最低の気狂いだったと思う。
豚興奮に狂った肉の宴に股を開き続けた5年後、正気に戻ったときに互いを罵り、殴り合いの喧嘩になった。交尾三昧、自堕落三昧の生活の中で、迷惑の掛け通しなのはお互い様の筈なのに、それを棚に上げてドロシーが悪いと決めつけた。
本当に狡いのはエリス、この私だ。自分のさもしい行いに耐えられなかった。誰か他人のせいにしたかった。
そんなエリスを、ドロシーは許すと言ったのよ。
だから、エリスの全てはドロシーのために捧げ尽くすと心に決めている。大袈裟ではなくその想念は祈りであり、自己保存よりも優先する。仕え、従属し、ドロシーのために死ぬと決めている。
王国を逃げ回ったときに生きる為に身体を売ったわ。エリスは半分、精神を病んでいたけどよく覚えている……だけど、もう二度と、二度と淫らがましいことはしないと誓っている。
許すと言ったドロシーを守り殉じるのが、心の底から望む今のエリスの願いであり全てだから………
「“真・神器”の全てが創造主の意図したものではなく、サー・へドロック・セルダン、あるいはセルダンの意思を受け継ぐ者によりなされたものとは限りません……のです」
「現に“キマイラ・キマイラ”と言う開発コードの失敗作として廃棄された人造生物が人知れず生き延び、見過ごしに出来ないほど危険なものとして成長し、現存している……のです」
だそうだけど、ここダーティオールド・タウンは見事なまでに廃れた、見捨てられた土地だった。神と精霊に見放されていると言っても過言ではないみたい。
等身大の不気味さと言うのかしら、それは瘴気などと違い瓦斯工場他の環境配慮を全く勘案しなかったプラントのための大気汚染、土壌汚染、水質汚染、地盤沈下に見舞われた、公害にまみれ取り憑かれたダメージだらけの土地だった。
元々原住民や獣人系の亜人に開拓民として入植した白色系人種で混成されたカステル・メッツァーノというのが最初の街の名だったらしいけど、もう誰もその名前を覚えてはいない。
人呼んでダーティオールド・タウン、それが現在も地図に示される名称になったらしい。
中途半端な約束の地カナンは、連邦政府の施策方針に従って昔の炭鉱を中心に開発が進められた。瓦斯灯の明かりは取って代わられ、今や合衆国連邦では電灯の普及率の方が高い程だけど、家庭用キッチンのガス焜炉の需給に対応すべく石炭を乾留して石炭ガスを生産するタイプの工場が雨後の竹の子のように林立した時期があったみたい。
国中に太い鉄鋼材のガス管が敷設され、一部は地下に埋設された。
今はどうだろう……エリス達の生まれ故郷、田舎だったせいもあるけど、試験農場域ボンレフ村では精々がオイルラットと呼ばれる油ネズミの脂肪から精製する獣脂や、魔石のランプだったっけ。
合衆国連邦の住環境は周りの列強国に比較しても一段進んでいるのは事実だと思う。
だが、ここダーティオールド・タウンは天然ガスへの切り替えに乗り遅れ、今や瓦斯工場の半分は稼働をやめている。
遥か先の中継タンクまでの送管の半分は使用が停止され、メンテナンスも投げ出されて腐食が進んでいた。
おそらく隆盛から取り残されてしまった、この汚染まみれの工場群とそこに縋り付くしかない人々は、多分これからも緩慢な過疎化を受け入れて行くのだと思う。
先を読み誤る無目的な開発はこういった環境破壊を招いてしまうけど、自分達の生まれ故郷は……帰るに帰れなくなったあの村は、その姿は変わらずにあるのだろうか?
―――思えば随分と帰っていないクラン県農業開発特区だった、我がボンレフ村は蜜柑農家などが集まった集落だから、エネルギー開発などとは無縁の田舎の筈だ。
今も変わらず健在だと思いたいが、最後に訪れたのは……あれを訪れた内に数えたくはないけど、ソランの目の前で、それも村の知り合い皆んなが集まってくる中、真っ裸になって代わる代わる勇者と契った日だ。
衆人環視の中で絡み合い悍ましく喘ぐ蛮行が、何故かとても誇らしく感じていたのは、救いようがないほど羞恥心と道徳観が腐り切っていたからだと思う。
異常が異常と分からない程に脳味噌が蕩けていた。背徳的だからこそ興奮する快楽を愛情と勘違いする程、倒錯した心は底無しに堕落していた。
エリスの両親も居た。ステラ姉の親父さんも、ドロシーの家のおじさん、おばさんも見守る中、勇者に犯される痴態を知人に晒すのが如何に昂るか、幼馴染の能無しに見せ付けながら罵倒するのが如何に痺れるほどの絶頂エクスタシーに達するのか、脳天に突き抜ける快楽に支配されたまま口々に啼き叫び続けた。女の癖に野太く、獣染みた声だった。
非道に血涙を流すソランの顔が、忘れられない。
あの顔をしたソランがエリス達を恨まない訳がなかった……想像するのは嫌だったが、きっと今も恨み骨髄で真っ黒い怨念に囚われているのではないかと思う。
あの時は気にも留めていなかったけど、それぞれの肉親から絶縁を言い渡されていたのも無理はない。
当時の生まれ育ったシェスタ王国の刑罰に依れば、姦淫や不貞の罪は“恥辱の樽”という拘束具に入れられての広場での晒し刑だった。
稀に鼻削ぎや耳削ぎ、厳罰には皮剥ぎの刑や鋸挽きもあり得たが、現実に目にしたのは村では過去に一度だけ、乳牛農家の奥さんが婚外交渉をしているのが明るみに出てしまい、相手の牛飼いの放牧人と共に“恥辱の仮面”という鉄仮面を被せられ、手鎖で広場に晒されたのを見たことがある。
村人は誰もが同情などせず、等しく石礫を投げつけていたっけ。
結局、あの奥さんは離縁され罪人の烙印として手首に入れ墨をされて村に住めなくなった挙句、牛飼いの男と何処かにそっと落ち延びて行った。
それほど公国正教の教えは、男女間の肉体関係に関して厳しく戒めている。
およそ女神教系統の教義は等しく、堕胎・中絶を初め自涜行為は勿論、婚姻外の姦淫を認めていない。
狂いに狂ったエリス達はそれらを総て犯している……洗脳にて貶めた召喚勇者の禁忌は、私達の世界のそれではなかった。
鍍金工場から垂れ流される有毒な廃液が毒々しく川面を染める流れがあった。
真っ黒なタールや紫色の錬金薬品がどんよりと漂っている。
普通のドブ川ではない臭気が漂っていた。どうも塩素以外の消毒剤を撒いたのではないかと思われる、クレゾールのような刺激臭が立ち込めていた。
元は大きな流れだったのかもしれないけど、汚染された汚泥が川幅を狭め、異臭の立ち込める砂州が流れを堰き止め、川筋が変形してしまっている。
植生も川虫も、水中の生き物も奇形の変異種が見て取れた。
何処かの工場から出た残材とも、投棄されたゴミとも判別つかない廃棄物が、流されずに埋まっている。
―――眼を瞑らずとも思い出せる故郷の川は、村の段々畑を縫うようにして流れる渓流だった。花楸樹や、蜜柑畑よりも上に行くと樺の木なども生い茂って、夏の暑い日には丁度程好い木蔭があちこちに出来る。エリスはよくその下で読書をしたものだ。
生まれたときから耳が長く、周囲から奇異の眼で見られた。両親だって同じだ。一応遠い家系図には、エルフの末裔が居たのだと分かっているからまだいいが、村で唯一の診療所が実家でなければ、多分先祖返りのエルフなど、もっと爪弾きにされていたかもしれない。
エリス本人には全然分からなかったが、容姿も大したものだったらしい。
幼年学校に通うようになっても、一人で過ごすことが多かった。疎まれるぐらいなら自分から孤立した方が、遥かに気が楽だった。
妙に達観した子供だったと思う。この頃からだろう、エリスは誰も知らない遠くへ、彼方へと行くことを、強く願うようになった。
やがて縁あって、近所のお姉さんに誘われて村の公国正教チャーチで修道女会の手伝いをするようになる。
幼心にも自分を変えたかったエリスは、正式にオールドフィールド公国正教の洗礼名を頂く。
クズ勇者の死後、すべての所業、悪行が明るみに出て、エリスは破門と共に洗礼名も失った。
淀んでしまった川はやがて沼へと流れ着いた。
すぐ近くに聳える朽ち掛けた工場のプラント群が、ギラギラ照り映える斑な油膜に姿を写し撮っていた。
沼の表面はプツプツと泡立ち、熱を持った汚物のような油と泥を跳ね上げ、何か有毒なガスが立ち昇っているのが見て取れた。
こんなところでも人は住んでいるのか、有毒な沼の畔に何軒かの詫びしい陋屋が連なっていた。
生体反応を見たので、スーツの情報バイザーを展開して各種の探査波を伸ばしてみる。ヘッドアップ・ディスプレイが、取得し解析した様々な情報をポップアップ画像と共にスクロールしていく。
ここの住人は驚いたことに、どうやら汚染された環境に馴染むように幾つかの耐性を得ているみたいだった。
まず、新陳代謝と抗体機能が通常人の倍近く高性能になっている。それと極微弱ながら、常時自己回復魔法が各々の身体を包んでいる。
個人差はあるだろうけど、使えない住民は居ないようだ。
後天的なものか、先天的なものなのかは今のところ不明だけれど、どうもダーティオールド・タウンの見捨てられた住人は、悪環境に即して己らの身体を改造したのだと想像された。
これも生き残るための知恵なのだろうか……だとしたら、あまりにも無残だ。
―――エリスの村でも渓流は溜め池に注がれていた。
溜め池は、ここと違って水韮やアロイデス、黄菖蒲、睡蓮が繁茂する澄んだ水質で、夏の間は子供達がよく水浴びをしていた。
もしかしたら、ここのヘドロの沼も昔は綺麗だったのだろうか?
一緒に修道女会の仕事を手伝っていた近所のお姉さんの勧めで、教会の聖歌隊混声クラブで合唱をするようになったんだけど、ボーイソプラノの中でガールトレブルのパートを合わせる歌唱法のコツが掴めなくて、ファルセットの練習をお姉さんに見て貰っていた。
近所のお姉さんは、ステラ・アンダーソンと言って一昨年の暮れに入植してきた幼年学級にしては胸の大きな、黒髪と黒い瞳の親切な女の子だった。ずっと住んでいるエリスより遥かに村の自治活動に精通していた。
今のステラ姉よ。
入道雲が高く聳えた夏空のその日も、溜め池のすぐ側にあった自宅を兼ねた村唯一の医術院“プーチ総合クリニック”の裏手で、お姉さんと一緒に公国教会の賛美歌の練習をしていた。
プーチというミドルネームは氏族の名で、家名と一緒に代々引き継がれている。
お姉さんの弟と、その仲良しのドロシーという女の子が湖水浴に誘いに来たのが、ソランと知り合う切っ掛けだった。
同学年だけど学級の違うソランとドロシーのことは、顔は見知っていても極端に人嫌いだったエリスは、それまで親しく話をしてみることも無かったんだけど、これを境に徐々に心を開いていったわ。
ソランはエリスのことを、すごく綺麗だと手放しで褒めてくれた。面と向かって人からそんなことを言われたのは初めてだったので、よく考えるとあれが自分の器量に興味が持てた切っ掛けだったと思う。
住民との接近を避けて沼の奥にある高台に登ってみる。そこには木造モルタル2階建ての荒れ果てた廃校があった。運動会なのか体育祭なのか、何かの行事をやったのだろう大きなグラウンドがあり、校舎の大きさも栄えていた頃の人口を思わせる広がりで何棟も連なっていた。もっとも雑草が生え放題なので、物好きにも建物の中に入ろうと思うと藪の中を進まなければならないだろう。
学校、学校か……懐かしいな。
目立たないようスーツのステルスモードを起動して、光学迷彩や音波遮断、対サーモグラフィーを纏って透明化する。
重力遮断で空中に浮きあがると、窓枠が腐って落ちてしまった2階の手頃な隙間から侵入してみた。
校舎の規模からみて、この街がとても潤っていたのが分る。暖房設備は、この時代には珍しくスチームヒーターが各教室に引き込まれていたようだ。
音楽教室に立派なチェンバロが置かれていた。埃を被って朽ちてはいたが、名工の手になる沈金細工が見て取れた。
彫刻された猫脚の根元に死に掛けの蝉が足掻いていて、ジィジィ煩かった。
変異種の見たこともない大きな蝉だ……環境に即応した強化種だろうけど、普通の蝉と一緒で短命なんだな、何か哀れだ。
工業化の波に乗って国策として開発された地域だからなのか、一時代前の廃屋だというのに、タンクが高い位置にある古いタイプの水洗トイレが普及してたみたい。これってコックじゃなくて、下がってる鎖を引っ張って流すんだよね。
―――エリス達のボンレフ村幼年学校の共用トイレは汲み取り式だった。
上級生になると当番制で、汲み取りの手伝いをしなければならない。よくドロシー達と一緒の班になった。
ドロシーは嫌がったけど、当時はドロちゃんって呼んでいた憶えがある。
ドロちゃんは何をするにも先頭を切るのが好きな子で、汲み取り当番のときも率先して便槽と格闘していたっけ。
ある日の放課後、中等部に進んだステラお姉ちゃんが家庭科の実習で余ったパイ生地とアーモンドピールなんかを持ってきてくれて、アーモンド・ガレットを焼くことになった。
勿論、ドロちゃんが中心になって、あたしに任せなさいって仕切りたがったけど、口で言う程お菓子作りが得意じゃないって皆んなにはバレてる。
初等部にオーブンが無くて、石窯と一緒になった焼却炉を使ったら謄写版インクの滲み込んだ藁半紙が大量にあって、焼き上がったガトーは何かインク臭かった。
この頃にはもう、ソランの気が引きたくて、エリスの言動には子供っぽいお転婆で奇矯なそれが多くなっていたけど、このときも焼き上がり切り分けたガレットを両手に引っ掴んでさっさか逃げ出した思い出がある。
決して食いしん坊だった訳じゃないのよ。
学校の横に小さな畑があった。見ると、看板が出ているのでそれと判別できる程の小さな定食屋というか食堂というか寂れて半分傾いた店がある。
こんなところで客が来るのか怪しいものだが、人の気配があった。
聖なる気配がある……これは、福音の加護を降らせるレベルの聖女のものだ。
何故こんなところに聖浄なる気配がある?
ん、見つけた……最小単位に擬態しているが、物凄い量の遺伝子情報だ。遺伝子情報というか、これは情報化された様々な生物兵器の起動キーのようなものか? 開発コード“キマイラ・キマイラ”と呼ばれるだけあって、無限に圧縮された生きた情報体は正しく殲滅兵器と呼ぶのに相応しい代物だ。
本当に凄い……
素体となる細胞か、あるいはエネルギー供給でおそらくこの惑星を滅ぼすまでに大きくなれる。
なるほど野放しには出来ない。
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俺がフローラに告白したのは、瓦斯工場の煉瓦塀の端だった。
ボタ山のスラグから粉塵が舞い上がっていた。
春先で、まだスモッグはそれほど酷くなくて、空気にはスミレの花の匂いが混じっていた。希望の無い街だったが、俺達が一緒になるのに何の不都合があるだろうか?
ここを出て行く、出て行かない、あるいは寂れ行く地元を活性化させる町興しの青年団活動で盛り上げる……そんなありきたりな選択肢が残されているだけでも有り難い。
夢も希望も無い街だったが、俺達が愛し合うのに誰に遠慮がいるものか……つい最近までは、そんなふうに思っていた。
初夏の晴れた日に今年最初の光化学スモッグが発生した日だった。
このところ鳴りを潜めていた魔族領の侵攻があった。もう何年も俺達の街を大部隊で襲うことは無かったので、ここには奴等の欲しいもの、目ぼしい戦略拠点なんか無いんだと思っていたので訳が分からなかった。
七つの頭に七つの角を持ったキリムと呼ばれる獣竜の軍団が、空を埋め尽くしたとき、自警団が大昔のマンゴノー式投石機を持ち出してきたが、とてもじゃないが太刀打ちできるとは思えなかった。
躍り出てきた俺等のボビー・マギーは、大空を聖なる浄化結界で覆い尽くした。光り輝く無数の魔法陣に魔族の軍団は、塵になり断末魔と共に消えていった。昏睡したマギーは半日程で目覚めたが、正直こんなに高位の聖魔術を使えるんだって知りもしなかった俺達は、何年も付き合ったこの年増の女性の実力と可能性を見縊っていたんだって初めて気付いた。
十数年前に街に流れ着いて、今は亡くなったご亭主さんと、清浄改良の有機農法や、安全な飼料だけを与えた放し飼いの鶏や山羊を育てる小さな農場を始めた。
自然食品の販売と食堂を始めた。
ちょっとした聖魔法の使い手、村の青年団の顧問みたいな立場で面倒を見てくれている……俺達の知ってるのは、そんな程度だった。
今時、俺達の街に外からやって来るのは、脛にキズ持つ訳有りの連中だった。
誰もそれを問い質さないのが、この街のルールだ。
怪物キリムの名前は、後からボビー・マギーに聞いた。
あれっきり魔族の侵攻は無かったが、あれが魔族側の気紛れとはどうしても思えない。
自衛といっても何が出来るものでもないが、防空パトロールと称して廃工場プラントの崩れなそうな煙突や高い構造物の何箇所かに北を望む物見櫓を作った。
交代で対空早期警戒のシフトを作ったが、頼りになるのは自分達の肉眼だけだった。旧式だが大時代のトーチカを復活させて高射砲を動くようにしたが、放置しっ放しだったので使える砲弾はそれほど多くない。
「なぁ、フローラ、マギーの姉さんは昔のことを余り話さないけどさ、絶対何処かの国の高位聖魔導士か何かだった筈だよな……何か聞いてないか?」
「……前に聞いたんだけど、オールドフィールド公国正教の分派のひとつサマリタン聖公会ってところで、霊験あらたかな聖女位のひとりだったって」
「ええぇっ、マジかよっ! そんな人が何でこんな寂れたとこに居んの!」
「しっ、知らない……それ以上のことは聞かなかったもん」
マギーにはマギーの事情があるんだろうが、魔族の脅威がこうも現実的な今、生き残るために必要なことは全部やっておきたい。
だからこうやって非番の日は見張りをしてるんだが、実際に敵襲があったら俺達に出来ることはそんなに多くない。今日はたまたまフローラとコンビだったから青年団で悩んでたことを相談してみたんだ。
一度、爺婆の自治会上層部が正式にイデルバキア山岳州の州都ガレリアの辺境北部連邦保安官本部UCDと国防軍方面支部に応援の打診をしてみたが、少し待ての後は梨の礫だった。
八方手詰まりだが、どうせ見捨てられた街、ダーティオールド・タウンに生まれた俺達は生への執着が元々薄い。ここを見捨てて皆んなで逃げ出すか?
それもちょっと違うような気がする。折角、こんな生活にも何某かの希望を見い出してやってこれたんだ。生まれ故郷への思い入れがある訳でもなかったが、取り敢えず俺達青年部行動隊は自分達の街は自分達で守りたかった。
夏の日差しがじりじりと物見塔を焼く。耐熱耐暑機能に優れた俺でもヒーヒー言ってる今日の天候で、湿度には強くとも、暑さには俺ほど強くないフローラにはちょっとばかり厳しそうだ。地上30メートルでも薙いだ日はほぼ無風状態だ。
「今から60分後に会敵する……」
うひいいぃっ、行き成り背後から話し掛けられて、俺もフローラも声にならない悲鳴を上げて飛び上がった。
振返るとそこには絶世の美女が居た。
幾分小柄だがエルフかもしれない……兎に角、何か神々しくって、眩しさに良く見えないんだ。目を眇めて相手を確認すると、綺麗な白い髪とエメラルド色の神秘的な瞳の美神が立っていた。
ここいら辺ではあまり見かけない白い巡礼マントの前を肌蹴て、肌の露出が多い黒光りする甲冑を纏ってるが……何だろう、皮膚一面を覆う入れ墨だと思うんだけど、それが畝々と不気味に動いている。
そのオーラは比べるものすら無いが唯の戦女神ではなく、怪人? 物の怪とかじゃないけど、何か特別な存在……そんなものだった。
まだ陽は高く、逢魔が時には早過ぎる。
「魔族領を討伐してるプリとシャルから連絡があった、瓦解した魔族軍残党を魔賢人が一角、シャイターンが組織してここを攻め落とそうとしている」
「この地にあるキマイラ・キマイラの奪取が目的だ」
「なるべく街に被害が及ばぬよう掃討するつもりだが……あまり、時間が無くて申し訳ないが、念のため住民を屋内か地下の防空壕があれば地下に避難させて欲しい」
「私はエリス、自分の罪と向き合って淫情地獄の泥濘から這い上がって来た者だ……キマイラ・キマイラを封印しにやって来た」
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生まれ落ちたその時から、私にはこことは違う別の世界に生きた記憶があった。
そこは地球という星で、私はボールドウィン・マーガレットという細菌学の専門家だった。
ボールドウィンが家名で、マーガレットがファーストネームなのはヨーロッパ文明とは逆だが、我が国ブリエネ共和国の習いだった。
不慮の事故というか、自業自得で死んだのが四十手前ぐらいだったと思う。
元々が最多数派の宗教、キリスト教会系の孤児院の出身だったせいか、苦学して立身出世のコースに乗った後、恩返しのつもりもあって私的に孤児を引き取る養護ハウスを開設した。度重なる内乱や宗教圏の対立から、家族を失う子供達は後を絶たなかった。この私も戦乱で両親を失った口だ。
産学協同と言って経済分野と学究分野が協力し合うプロジェクトの微生物学研究所で次世代応用バイオ・センターの主任の地位に就いていたが、軍需産業コングロマリットのヘッドハンターから接触があった。
当時、私達の地球は冷戦状態にあったが局地的な紛争はあちらこちらで勃発し、燻ぶる内戦はキナ臭いニュースを日々更新していた。当然そこで擡頭してくるのが“死の商人”と呼ばれる兵器産業だ。
小さな太陽を生むような閃光兵器、核爆弾による抑止力は、疾うの昔に役立たずになったし、現代戦の主力は電子戦に移行していたが、ジュネーブ会議の生物兵器禁止条約を破って各国政府御用達の研究機関が独自に細菌兵器の開発に鎬を削っているのは、所謂業界では隠された常識というものだった。
ダークサイドから何故私に白羽の矢が立ったのかについては、思い当たる節があった。
出身校の大学院研究室で私はボツリヌス菌の変異種とその抗体について論文発表をしたことがあるからだ。
およそ熱と嫌気性に強く、その毒素は僅か1グラムで100万人以上の命を奪う程の効果があるとされていたボツリヌス菌……これの放出する神経毒素を緩和する中和剤の可能性についても言及した。
おそらくこの研究発表で、私はこの分野のスペシャリストと目された。
ボツリヌス菌を投下された都市を作戦行動する軍隊には、自分達の身の安全を担保する中和剤や抗体といった技術は必要不可欠なものだろう。
当時、兵器利用された場合の対抗手段としての研究だったが、当然攻撃する側の免罪符の役割を考えていなかった訳ではない。
私の招聘の話は、破格の引き抜き条件だった。
私設児童養護ハウスの資金繰りに苦しんでいた私は、軍需産業への協力というジレンマに悩みはしたものの、図らずも魅力的な雇用条件に屈してしまった。
施設を信頼できるスタッフに委ねて、私は単身で軍需産業の細菌兵器研究機関に赴いた。
そこは絶海の孤島で、ジェット搬送機の窓も潰され、その位置は厳重に秘匿される重要機密だった。
ジャングルの様相から亜熱帯地方と推測されるが、一研究員には明かされていない。湿度が高ければ、それだけ気密性は緩くなるが研究所施設は最高機能の空気浄化施設を持った完全にシーリングされた密閉空間だった。
ここで開発されていた変異種のボツリヌス菌は、増殖性と感染性の高さにおいて正しく神をも畏れぬ悪魔のような代物だった。
私が任されたチームの使命は強化変異種の完全な抗体を生み出すことだったが、開発は暗礁に乗り上げ、遅々として進まなかった。
何度目かの休暇で養護ハウスに戻ってきたときに、それは起きた。
ズブロフスク民族主義統治連邦という武闘派国家の空挺部隊が突然と言うように、隣国のボスロバキア系異民族国家に進攻した。
報道を見る限り、投下されたのは私が勤務する軍需産業複合体が開発した細菌爆弾だ。地表200メートル地点で爆散し、拡散した数千の細菌カプセルが破裂して広範囲に逃れようのない死のシャワーを降り注ぐ、設計部がより効果的に散布するよう考えた、鬼畜のような仕様だった。
一介の研究者には、販売や商談を担当する上層部の動きなど知らされている筈もない。
筈はないのだが、完全なワクチン開発ができていない時点での実戦投入は自殺行為だと経営上層部に訴え続けても聞き届けては貰えなかったようだ。
毒素の型毎に抗毒素があり、現在ではボツリヌス免疫グロブリンも役に立たない変異種も培養されていて、信じられないことにこいつは芽胞体のまま驚異的なスピードで空気感染する。
一度放たれてしまった変異種は、熱湯煮沸にも強く、次から次に変異株を自動増殖させる。対向ワクチンの開発など追い付かない。
世界は滅びるかもしれない……状況を正しく理解できている者はおそらく少ないだろう。
私はすぐさま行動を開始した。恐慌状態になれば金融機関は役に立たなくなる。電子マネーもクレジットカードもゴミ屑同然になる。
全ての資産を現金化しスーツケースに詰め込んだ。路線バス会社に交渉して長距離運行用のトランク・カーゴ付き大型バスを4台、運転手ごとチャーターして一番近い港町を目指した。ハウスの子供達に詳しく説明している暇も無かったが、最低限の身の回りの物だけ持たせて付き従って貰った。
目指すは極北の地、ウィルスや細菌が活性化しない環境の土地だ。
到着した漁港には大きな船会社は存在しなかった。
めぼしい大型船舶は全部遠洋漁業に出てしまっていたが、休漁中の大型蟹工船を2隻、船員ごと雇い入れた。
辿り着いたのは永久凍土のツンドラ地帯、総てのバクテリアが活動を休止する北極海に面したサーマル人達の土地だった。
雪焼けした肌の先住民族に占有され、ビタミンは海豹の肝臓や海雀の発酵物などの乳酸菌から微量、摂取するだけで生きて行くテリトリーでの生活が待っていた。
ただ文明は浸透していてケーブルテレビも見れるし、ちょっとした集落ならWi-Fi環境さえ整っていた。今や犬ゾリはスノーモービルに置き換わり、高速で移動する雪上車さえ各家庭にある。
物流もある程度確保されているから生鮮食品もフード・ストアで買うことは出来るのだが、地元民は昔からの生活習慣を守っていた。
報道環境は最後まで生きていたが、人類の断末魔を伝えるが如き内容が日々濃くなっていった。たった一度の爆撃で、予想されたように繁殖力の高い変異種のボツリヌス菌が世界に蔓延していった。
子供達がやっと極寒の地での生活に慣れてきた半年後、シベリア高気圧から吹き付ける北西の季節風が見舞った。
季節風には大量発生したボツリヌストキシンが含まれていた。
気付いた時には防ぎようが無く、次々に嘔吐し痙攣に斃れる子供達を看取る間もなく意識が混濁し、私は死んだ。
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キマイラ・キマイラ発見の報に、魔族軍侵攻の兆候あり、暫し待ての指示が出て現場待機になった。
32個のオー・パーツか……こんなことをしていては、益々ソランから遠ざかってしまう。
一度、私達で村に戻って恥辱刑を受ける提案をしたのだが、ドロシーはうんと、言わなかった。
そんな、生易しいものではソランへの仕打ちを償うことは出来ないだろうとドロシーは考えていたようだけど、言われてみればそうかもしれない。
腐敗し虫の湧いたような頭で、真面な人間なら絶対しないような厭らしいことも沢山した。ソランには決して見せられないような淫水にまみれたド変態な姿だ。実際、四六時中下着は履いていなかった。
何故村を出て、勇者に付き従ったのだろう……愚かな、余りにも愚かな選択だったが、幾ら嘆いても時は戻らない。
ソランをないがしろにし、理性の崩壊した雌逝き豚オルガスムスに哭き狂った5年間の痙攣と麻痺と嬌声の日々、自ら懇願する陵辱輪姦に溢れるバルトリン腺を撒き散らし垂れ流した無惨な快楽地獄の肉便器奴隷の日々を、どう謝罪すればいいというのだろうか?
アルコックという男の凄惨なまでの激しい拒絶が、頭を掠めた。
だけど、エリスはそれでも手紙などではなくソランの顔を見て謝りたかった……例えそこで、恨んでいるだろうソランに討ち果たされようともだ。
不死人になったドロシーもソランに討たれるなら、きっと自らの命を閉じる。
それでも、きっと帰る、必ず帰る……いつかきっと。
世の中には肉体の性に負けて道を踏み外す女が多過ぎる。
前に進むと決めてからこっち、エリス達の重ねた記憶は満足のいく成果と戦果を残せているだろうか? エリス達には贖わなければいけないものが多過ぎる。
無論、栄光なんかを望んでいる訳じゃないけれど、罪を償って生きるエリス達の存在を誰かに知って欲しいと願うのは傲岸なことなんだろうか?
分かってはいる。エリス達のために死んでしまった人もいるのだから、ソランへの謝罪が最初のいの一番でないのは許して欲しい。そこでエリス達が討たれてしまえば、贖罪は道半ばにして終わる。口でそうとは言わないけれど、より多くの人を救い、より良い未来への道筋を示す……それがドロシーの願いの筈だから。
ソランの為に何が出来るのかいつも考える。ドロシーが望むこと、ドロシーがしたいことをいつも考えている。
懺悔の巡礼旅を始めたときに立ち寄った母国の王都で、嘗て卑劣な人で無し勇者に翻弄され人生を狂わされた女達……ハーレムの坩堝に溺れてしまった女達の様子をそれとなく見舞ったことがあった。
立ち直れず、日々快楽を貪らなければ生きていけなくなった女達が一部苦界に身を沈めていた。
カウンセラーとして彼女達の前に立つのは、自分の罪と向き合うようで辛いものだった。彼女達の多くは、誰のものとも知れない子種の懐妊をエリスの処置で堕胎した。胎児は下水に流された。
無論、誠心誠意詫びたが、こういうことは理屈じゃない。エリスにとってカウンセリングは針の筵だったわ。
彼女達の血を分けた子を殺したのはエリスよ。望まれた子供ではないにしても、公国正教で妊娠中絶は大罪……憎まれ、恨まれていて当然だった。
事実、無責任勇者が死んだ日に魅了から解放された女達は大概がエリスの人為流産の記憶があり、吊し上げのリンチ紛いの目に遭った。
法王聖庁の一件で教皇聖女直々に不器用な謝罪と身分の回復が宣言されたが、これは丁重に辞退した。エリスの犯した罪は永遠に無くならないし、忘れてはいけないものだからだ。この気持ちはドロシーもステラ姉も変わらない。
あの時に公国正教会査問部から神敵認定を言い渡され、永久追放されたときの足許が崩れ去るような絶望を忘れてはならない。
自分の罪に耐えられなかったエリスは、心が壊れて殻に閉じ籠り失語症になった。ソランへの想いと純愛を貫くと決めた誓いをあっさりと手放したばかりか、胎児殺しに手を染めた……エリスの両手は真っ赤な血に染まっているの。
きっとエリスが一番罪深い。
立ち直れたのは命の恩人の師匠が居たからだと思う。
石に齧り付いて耐えた修行の中で体内から毒素と宿痾を抜いて、無理矢理自己啓発もやらされて、人間も辞めて……おそらく師匠と出会わなければ、エリス達は苦界に沈んだ女達と同様、いやもっと悲惨な末路が待っていた筈よ。
逃げ回って、不潔な変態に身体を売って、役立たずの色気狂い売女と蔑まれ、戦渦で失った肉親を返せと怨嗟の言葉を浴びせられた。
罵倒され、石持て追われるのも当然だった。それだけのことをした自覚があるもの。
あまりにも犯され慣れてしまって、到底更生なんて無理だと思っていた。簡単に流されるほど意志が弱く、駄目だったエリス達を鍛え直してくれた師匠には、感謝してもしきれない恩義があるけれど、エリス達の“立ち直りたい”“もう、何者にも惑わされたくない”って気持ちの強さが、修行を遣り遂げたって言ってくれた。
拾い上げ、立ち直らさせてくれた導師の言葉が、何よりも嬉しかった。
師匠の教え……清く、正しく、美しくは、額に授けられた眉間緋毫と共にエリス達を守り、エリス達はその教えを永遠に守る。
去り際に、驕るな、忘れるな、と戒めた師匠の苦言を一番忠実に守っているのはドロシーだと思うわ。
脆く弱かったエリスの心……エリスは心底、自分を変えたいと願った。
もう、昔の自分じゃないとは思うけれど、ドロシーはもっと先を行く。
立ち止まることを許さず、目的のためには屍山血河を築くことも辞さない。
殺さない後悔よりも、殺した後の後悔を常に選び続けてきた。殺すことによって少しでも人々が平和になれるなら、ドロシーはほんの少しも躊躇わない。
それが魔族でも人でもだ。
何処までも高く、何処までも強く、冷静に、そして冷酷非情に……それはある意味、エリスの憧れなの。
でも、56億7000万……もしそれが本当だとしたら、そんな途方もない未来までエリスは付き従っていられるだろうか?
世の中には肉体の性に負けて道を踏み外す女が多過ぎる。
もう、エリス達の二の舞になる女を見たくない。
たったひとつの大切なものだった筈の愛ある生活を捨てて、麻薬のような刺激に塗りたくられた性的興奮と没我の絶頂を選び取ってしまったが為に、別れてはいけなかった伴侶を永遠に失ったリンダ・ドルリーレーンという女……残りの人生を幾ら贖罪に捧げ尽くしても、彼女が報われることは無く、禊に終わりは無い。
ブリュンヒルデに魅せられてヤクシャス・シティまで追って来たイングリット・カッシーナ……リンダの嘗ての男との無節操で倒錯した行為に溺れ、本来の誇り高い自負心を見失って、人知れず狂ったように何度も淫猥で背徳的な性愛行為を繰り返した。立ち直った今、もう道を踏み外さないとは思うが、自分を客観的に見れる理性が残っていてかろうじて再起できたのは、不実な男の正体を知ったからに過ぎない。
闘うために己れを鍛えてきた筈の人一倍強い精神力も、身体の疼きを抑えるのに何の役にも立っていないという悲しい事実……世の中には、自ら進んで淫らなことをしたがる女達が多過ぎる。逝き貌を平気で晒すことも厭わない。
そのイングリットに請われて渋々諫めに行ったビビアン・スージー・エレノアは、貴族同士で結ばれた婚約者がある身で無体にも犯した相手との度重なる逢瀬に溺れてしまい、淑女にもあるまじき淫靡で激しい肉体関係を間男と続けてしまった。
遣り直す道に誘導したドロシーが、泣きじゃくるビビアンに突き付けたのは不修多羅で如何わしい、およそ貴族にはあるまじき己が快楽に歪む媚態と恍惚の表情だった。
知っているからエリスにも良く分かる……色欲道に堕ちた女が正気に還るとき、それは他に並ぶものの無い、血の気が引いていく程の悔やみになる。
隈取りのような顔面の入墨、墨刑により元の顔が分からなくなるまでに塗り潰されたリチャード・バクスターという哀れな男の願いを聞き届けた。
男の無念を晴らすため、決して許すことのできないシナゴーグ夜宴教という聖職者を隠れ蓑にした悪魔崇拝の狂信的暗殺者集団を根絶やしに一掃した。
実働部隊を統括する十二使徒という役目に付いていたバクスターの婚約者、その姉、バクスターの妹が自らの意志で悪魔崇拝に堕ち、貞淑を是とする女神教の教えに背き、快楽に溺れる魔宴の爛れた交わりを平気で受け入れた。
許婚を黥面の刑に処し、悪魔への供犠として自らの両親も故郷の知り合いも全て差し出したハンナ、アリシア、フロイラインという女達……近しい者の惨殺を悪魔への供物にした、心底性根の腐った女共への怒りにはドロシーにも抑えがたい衝動があったようだ。
ヘヘブンズという悪徳の都は、もうこの世に無い。
在るのは自分達の悪行を永劫に語り継ぎ、一時の休みも無く苦しみ抜く十二の生きた死骸だけだ。ハンナ達の処刑場はそのまま晒し首が寛恕を請い続ける墓標になった。
ドロシーの怒りは、背教者の捻じれてしまった心根を、薄皮を剝ぐように一枚ずつ取り去って、以前の正気を取り戻させると言う罰し方を選んだ。
この怒りが近親憎悪だと断じたドロシーに反駁はしたものの、本当はエリスにも分かっていた。操り人形だったエリスは、命じられれば自分の両親も、最愛の想い人だった筈のソランをも手に掛けてしまったかもしれない。
その可能性を回避できたのは、偶々運が良かっただけなのだ。
今もあそこで蠢く罪人は、エリス達そのものかもしれなかった。
自分達の過ちを棚に上げるつもりはないし、隠し事も、蓋をするつもりもない……例えエリス達のせいで戦渦に失われた命の倍する命を救ったところで、罪が帳消しになることは無いと分かっている。
勇者ハーレムがその責任を果たさず、ご乱行に明け暮れていた間に失われた罪無き人々の掛け替えの無い命は、もう二度と戻らない。
それはエリス達の罪……決して消えることの無い、生きてある限り胸の中の澱として留まる。苦しみ抜くことが、許しを乞い続けることが、エリス達の生きる意味だ。
高飛車な物言いかもしれないけれど、誰かが謝れと言うのなら千遍でも万遍でも五体投地でも土下座でも何でもして、謝り続けなければならない。贖罪の旅の覚悟は決して揺るがないし、必要なら乞食行をしても自分を虚しうする姿勢が本物だと認めて貰わなければならない。
偽善だと嗤わば嗤え……だが、ドロシーが遣り通すというのなら、エリスは付き従う。
アルフレッド・ベスターの“Tiger! Tiger!”(日本語タイトル「虎よ、虎よ!」)の真似をしてサブタイトル作ったら格好良くなるかなって思ったけど、思惑だけで空回りしちゃいましたかね?
エリス視点での胸糞な過去振り返り回でした……忘れてはならない彼女達の行動原理を再確認し、肝腎要な懺悔の相手と向き合えないジレンマを引き摺った贖罪旅の意味を考えてみました
寝取った側の加害者、寝取られた側の被害者の台詞は一切無く、狂言回しの女達だけが己れの犯した罪の深さを悔いる構成にしてあります
電子広辞苑で怪しい単語をチェックし、直截的な性描写は避けているつもりです(どうか今回も指摘を受けませんように)
ヘッドアップディスプレイ=[Head-Up Display/略称: HUD]透明な光学ガラス素子に画像を投影し、情報は利用者の通常の視界と重なって表示される
風防に直接映像を投影する機種、ヘルメットに直接映し出すものなどがあり、当初は戦闘機で導入され、後に低空飛行する軍用ヘリコプターなどにも導入された
ファルセット=歌手が特に高いピッチ(音高)に対応するために作り出す声色、及びその発声技術を指す
チェンバロ=弦をプレクトラム(ピック)で弾いて発音する仕組みの鍵盤楽器、グランドピアノのように共鳴胴があるがその発音原理から音の広がりは無い
英語ではハープシコード……本作でのドロシー達の世界に、ピアノはまだ無い
応援を頂けると俄然やる気になります、是非★とブックマークを付けて頂けると有り難いです
長くなったので、前・後編分けました……続きます





