38.護法夜叉神は眠りたい〈side:B〉
幼馴染みのビビアンの間違いは他人事ではない。私に彼女を卑しむ権利など有りはしない。
グレゴリーには綺麗な身体の私を抱いて欲しくて、千日斎戒沐浴の願掛けをした。
もうとっくに結願してるのに、行為にのめり込んでいた頃の涎を垂らして悦ぶ己れの貌を思い出すと、自分の身体が薄汚く思えて踏ん切りが付かずにいる。
眩しい白い光の中で、うっすらと目を開けてみる。
ここは何処だろう?
天国だろうか? こんなに光に溢れている場所は他に見たことが無い。
組合の談話室やホールの電気でさえこんなに明るくはない。
始めて見る清潔な天井だった。こんな清潔な天井を見るのは、きっと生まれて初めてだった。
硬いけれど妙に寝心地の好い、すべすべした綺麗な寝台に寝かされていた。
何だか、身体のあちこちに管みたいなものが付けられていて、ピカピカ光る見たことも無い様々な沢山の機械みたいなものに取り囲まれていた。遮られてその先が見えないくらいだ。
訳が分からなくなって、すぐに心細くなった。
よく覚えていないけれど、熱に魘されて自分のベッドに横になってたら、大きな音がして、怒鳴り声やものが倒れたり打ち壊されたりする音が響いていた。
家が燃えていたような気がする。誰かに力強く抱きかかえられたのを、ぼんやりと思い出す。
うわっ、うわっ、うわっ、急に周りが動き出して焦った。天井が動いている。
違う! ベッドが動いてるんだ。怖くなって震えていると、何処かをくぐって違う部屋に出た。空気が変わったのが分かる。
なんだか呼吸が楽になったような気がすると、背中を預けているベッドが斜めに上がり、私の上半身を起こす。
「もう、大丈夫だよ、集中治療室は高酸素濃度だから少し息苦しかった?」
誰かが、額を撫でているのを見上げると綺麗なブルーの瞳の女の子が覗き込んでいた。思い出した、多分私をベッドから救い上げたのはこの子だ。あんなにしっかり抱きかかえられたのに、こんなにちっちゃい子だったんだ。
「ベティッ!」
えっ、お兄ちゃん?
良かった、このまま離れ離れになったらどうしようか、熱に魘されながらもとっても心配だった。
「熱は下がったらしいけど、変なところは無いか?」
「うっ、うん、大丈夫だよ……そんなにきつく抱き締めたら、苦しいよ」
くぅっとお腹が鳴いた。恥ずかしい、大きな音がしちゃった。
「お腹がすくのは、健康体の証拠、今何か持ってこさせるね」
「お兄さんも何か食べて、付きっきりなのはいいけど、何も口にしてないでしょ?」
ピカピカの鎧を着た女の子は、傍らの機械のボタンを押して話し掛けた。
「カフェテリアのシルキーさん、メディカルセンターに軽食を三人分、デザートと珈琲もね、一人分は消化の好いチャウダーやリゾットでお願い」
女の子のピカピカの鎧が気になった。私達“鎧磨き”は、いつもお客さんの鎧を見てるので大抵の鎧の種類も材質も知ってるんだけど、曇りひとつ無いこの子の鎧は見たことのない高価そうな材質だった。
「解熱と治癒促進の外部からのウェーブ治療、風土病や寄生虫検査も行ったし、カテゴリー8の除菌処理もした、それとプラス抗体ナノマシーンの注入をした……これは、ベティちゃん、貴女の身体を生涯に渡り、健康に保つ」
「あたしはキキ、“3人の御使い”のお母さん達に師事してる8歳の戦士見習い、一番得意なのはパイロキネシス……ここは天翔ける魔快速帆船スキッドブラドニールの中だよ」
説明を聴いてもチンプンカンプンだったが、不意に正面に見えるドアが音も無く開くと一人の光り輝く女の人が入ってきた。
あまりにも眩しくって、神様かと思った。
「あぁ、悪い、いつもの癖で威圧を絞っていなかった……医務局がノックアップしていたから何事かと思ったが、お客さんだったか?」
「そうか、キキは靴磨き組合に行ったのだったな、何があったかは後で訊く、今はちょっと時間が無い」
話し始めると女の人の身体から放射されている何かが、眼に見えて少なくなっていった。顔が良く見えるようになって、息を呑んだ。
すごく綺麗な人だ。
「具合は回復してるようだね、元気になってよかった……取り込み中で、碌に挨拶もできなくて済まないが、どうかゆっくりしていってくれ……キキとは仲良くしてやって欲しい」
「お母さん、何かあったの?」
「暫く前に連絡が入って、どうやらポンコツエリスがやらかしたらしい、すぐに第二戦闘態勢に入る……あとで作戦指令室のトップブリッジに御出で」
そう、女の子に言い残すと女神のように綺麗な女の人は出ていきました。
訳が分からなかったけど、ちゃんと助けて貰ったお礼や自己紹介の挨拶もしたかったのに、後でいいと言うので仕方ありません。
入れ替わるように上品な召使いの礼装をした女の人が、ワゴンを押して入ってきました。見てると食事を運んできてくれたようですが、ベッドサイドに魔法のように現れたテーブルに無言のまま器を並べるその人も、銀色の髪に銀色の瞳をした物凄い美人でした。
その人のフォークやスプーンを置く皺ひとつ無い手も繊細な指も美しかったけど、それにも増してポリッジ用のキャセロールや陶磁器、銀のポッドからお粥やスープを装う仕草が、優雅なのに一部の隙もない見事なものなので、何て言うか吃驚です。
思わずポーッと見惚れてしまいました。
私も“鎧磨き”の技に精進してるから分かる……この人の所作は神業です。身体も手許も全然ブレません。
お礼を言うと、ニッコリ笑って返された笑顔が天使のようでした。
妖精さんだそうです。
「さっきの方、お母さんなんですか? すごく綺麗な方ですが……」
お兄ちゃんが、気になるのか質問をしてました。
「うんっ、世界一強い、あたしのお母さん!」
食べながら話すこの子の母親の自慢話は、良く分からない内容だったけど次から次に止まらなくて、この子がお母さんって呼んでいる女の人(自分も私達と同じ孤児だって言ってたから、本当のお母さんじゃないらしい)を如何に愛しているかが良く分かった。
私のメニューだけ消化の良いものらしいけど、すごく美味しい。どれも初めて食べる風味なので、思わずニコニコしちゃう。
「さっき、お母様がおっしゃってたノックアップって何ですか?」
そういえば、そんなこと言ってたっけ、お兄ちゃんって、細かいことが気になるタイプだよね。
「えっ、ん――、あたし達は自己治癒能力があるからメディカルセンターはほとんど利用しないの、だからここは普段は2次元ノックダウン方式っていう空間活用術で畳まれている、立体が平面になる?、みたいな」
?????、良く分かんない。
「難しいよね、今、遣って見せるからよく見てて……論より証拠ってね」
女の子はフォークを置いて、右手を突き出した。
小さな手の平を上に向けて広げると、手の平の表面に何かとっても複雑な模様が浮かび上がった。
「ゆっくり遣るからね、今あたしの手の平に浮き出ている幾何学模様みたいな圧縮回路は厚さの無い平面に折り畳まれた、あたしのハンドガンなんだけど」
言ってる側から、ピストルみたいなものがゆっくりせり上がってきた。
凄い、凄い、手品かしら!
手の平の上に浮き出たのは、トニー保安官なんかが持ってる短銃より小さいけれど、女の子の手にはやっと握れるぐらいの鈍く輝く拳銃だった。
銀色に輝いていて、凄く、なんていうか……そう、シャープだ!
ガルガハイムの駐留大使館は、ジェネレーター・パークの近くにあった。
所謂、一等地だ。
トニーとデイジーの保安官カップルと別れて、調査の足掛かりにガルガハイムのキューブリック州大使館へ足を向けた。
何某かの協力を取り付けようと思ったのだ。もしくは活動拠点にしてもいい。
ナンシーと邂逅したと言うことは、間違いなく“3人の御使い”はここヤクシャス・シティに来ている。
ヤクシャス・シティに設けられた、その敷地をぐるりと装飾性の高い(威厳を振り撒くための)鉄柵で囲われたガルガハイム総領事館正門の衛士に、魔導帝国ガルガハイム首席宰相の兄の紹介状を見せて外交官身分のお偉いさんに会わせろと交渉した。結果、公式なレセプションルームに通されてしまった。
広くて、何か落ちつかない。
「10年振りかな、イングリット!」
「なっ、姉さん、何でここに? 外務院に行ったのは知ってましたけど……そのローブ、まさか特命全権参事官!」
現れたのは、私のすぐ上の姉、ジルド・エッファンバッハ・カッシーナだった。私より少し背が高く、悔しいことにスレンダーな私と違ってバストとヒップも一回り大きい。
質実剛健な我が家の慣習では、姉妹が居れば姉のお下がりは妹に行くのだが、姉のコルセットやバスト・ホルダーのサイズはいつも大き過ぎた。
おまけに、顔の作りも私に輪を掛けてメリハリが派手だ。
姉は昔から卒なくて、私と違って出世街道まっしぐらの優秀なエリートだった。
しかもこの若さで全権参事官といえば、事実上の大使館事務方トップだ。
老齢な外交官の多いガルガハイム外務院では、異例中の異例ではないかと思う。
「キャスパル兄上より、連絡を頂いてな……“3人の御使い”を追っているそうじゃないか?」
「しっ、それはまだ内密にしてください」
「うっははははっ、何を言っている、私の防諜魔術はまだ健在だ、この部屋をカバーするぐらい造作も無い」
そう言えば、五属性魔法総ての攻撃魔法で私の方が上を行ったが、この姉は結界術に関してだけは、一族の中で負け知らずだった。
光属性と闇属性の合成結界さえ造り出すことが出来た。
豪傑笑いに呵々大笑するジルド姉さんに少々面食らっていたが、一応連れの男を紹介しておかねばと気を取り直す。
「姉上、この者は私が以前いた冒険者のチーム“不破女神の咆哮”で副長役をしているグレゴリー・ディクスンと言って、今回の調査行でサポートをして貰っています」
ジルド姉さんはグレゴリーを睨めつけるように、上から下にジロジロと無遠慮に見回した。
薄いヴェールが肩まで垂れ、刺繍のほどこされたドーム形のエナンを冠っているのはいいが、ドレスの胸元が大きく楔型に割れて胸の盛り上がりを強調しているのが、何か気に入らない。
「勘弁してください、まだ妹さん自体には手を出していません、まだね……」
「ウックククッ、いいぞ、気に入った、まだ日暮れには早いが歓待の酒宴と行こうか!」
姉という人は、肉食系と言うか、何処かこう自由奔放なところがあって、お堅い官僚だった元旦那との退屈な結婚生活に終止符を打ち、性の不一致とか言って調停離婚してしまった過去がある。
お預けを食わせているグレゴリーだが、姉に寝取られる訳にはいかない。
「姉上、折角のご好意は有り難いのですが、実は先を急ぎます、至急ここの住民台帳が見たい、関係省庁に繋ぎを付けて頂けないでしょうか?」
「何、これからか? 無粋な奴じゃのう……まあ、いい、その代わり今晩は必ず付き合うのじゃぞ!」
「恩にきます……」
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ジルド姉さん直筆の紹介状が功を奏したのか、閉館間近の元総督公邸だという歴史的建築物の市役所の窓口で、目的の住民台帳で必要な戸籍を確認できた。
リンダ・ゴーストという目的の人物は、如何にも偽名っぽく、その戸籍にも改竄の匂いがした。情報屋をやってるとその手の知識が増えていくが、捏造した戸籍謄本を売る商売も世の中にはある。
そうして私は自分の推論に導かれ、昼間訪れたリージェント広場とやらの“リンダのドルチェ”というパティスリーに引き返していた。
夕方というのに、ここヤクシャス・シティの繁華街は相当な雑踏だった。亜人街も近いようで、まるで人種の見本市だ。
「何を考えている?」
市役所の書見台で分厚い住民台帳を繰る私をジッと見詰め続けるだけだったグレゴリーが、初めて口を開いた。
「あんたの考えている通りよ……リンダ・ドルリーレーンが亡くなった時、あんたも一緒のダンジョン攻略に参加してたでしょ? 何か感じた?」
「……逸れる前の二人の遣り取りを聞いてるからな、ユリウスとの悪い噂も前々から耳にしていたんだが、夫婦喧嘩は犬も喰わないと放っておいたのが凶と出た」
「独りで戻ってきたアルコックは、まるで生きてる亡霊のような顔付きだった」
「こいつ、殺ったなと……誰もが思ったよ、誰も何も言わなかったがな」
表の路面店はもう店仕舞いをしていたので、裏の厨房の入り口を探す。
人熅れに紛れて、裏通りに入り込む。
「骨抜きになったアルコックを連れて地元に戻り、俺達が一番にしたのは何だと思う?」
「リンダが居ないのに騒ぎ出すだろうユリウスの野郎を人知れず葬り去ることだ……リンダの死亡通知をギルドに出す前に片付けた」
「なっ、そんなこと一度も話してくれたこと無かったじゃない!」
「……訊かれなかったしな、俺達の仕業とバレないようにユリウスの骸は魔物に喰わせて、証拠隠滅した」
「結構、鬼畜ね……」
およそ暴力を生業とする連中は、必要以上に面子を気にする。
“舐められたままでは終われない”、それが連中の行動原理だ。冒険者もご多分に漏れず、そんなヤクザで阿漕な商売だ……私も良く知っている。
でも、グレゴリーの口からそれを聞くのは少し嫌だった。
「当然だろう? 俺達のチーム、“ドルリーレーン遊撃隊”のエースを色仕掛けで使い物にならなくされ、リーダーは払拭出来ない心の傷を負わされた、これで報復しなかったら俺達だって自分のプライドを保てなくなる」
「お前はどうなんだ? アルコックの過去を知ったから別れたのは聞いたが、詳しくまでは話して貰ってないぜ」
退社の時間なのか、従業員が出てくる通用口があった。遣り過ごすことにして、物陰に身を隠し離れたところから暫く様子をみる。
「昼間食べたミルフィーユが、アルコックの記憶にある味にとても似ていた、とってもね……幼馴染みが良く作ってくれた焼き菓子が、アルコックはとても好きだった、過去を読み取った私に、その味の記憶が残る程に」
忍び込んだ人気の失せた厨房を奥へと進むと彼女が居た。振り返りもせず、従業員の誰かと勘違いした彼女は、私達に見当違いに話し掛けた。
「大丈夫よ、アンジー、明日の仕込みは全部やっておくから」
薄々感づいていたグレゴリーだが、横顔だけ見てそれと気付き、それでも信じられないというように、まるで幽霊でも見たように無防備に佇んだ。
グレゴリーは私よりも、彼女を良く見知っている。
「リンダ、リンダ・ドルリーレーン……生きて」
グレゴリーは茫然と立ち竦んで、言葉を詰まらせた。
「……生きていたのか」
振り向く彼女の顔は醜く引き攣れ、痛々しいケロイド状の傷痕に覆われていたが、嘗ての面影が見て取れた。
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法廷での証言を終えて署に戻ると、シューシャイン組合の本部が襲撃に遭い、燃えているとの情報で、上を下への大騒ぎでごった返していた。
当番勤務明けだったが、俺とデイジーは迷うこと無く現場捜索の部隊に志願していた。
魔力で動く搬送車に分乗して現場に急行する。いつも思うが、この緊急出動車両は油圧のショック・アブソーバーもいい加減で乗り心地は最悪、おまけに暑くて暗くて狭苦しい。今はまだ盛夏じゃないからいいが、幾ら鎮圧装備が夏用プロテクターでも真夏は蒸し風呂だ。全員、上下2連式の散弾銃携行で乗り込めば、車内はきつきつだった。
現場に到着した頃には、先行した市営消防本部の職員が鎮火に当たっているところだった。防炎魔術式で、周囲を一時的に酸欠状態にすることに依って火勢を弱めている。
公国正教系の教会に所属するが、事故現場などの救急活動が主な任務になる応急処置専門の聖魔法系治癒術師は、消防職員と活動することが多い。
即効性の回復魔法の巧手は少なく、いつも人手不足の職場だった。
「ガストンッ、ベティちゃんっ!」
燻ぶる建物に突入するも人影は無い。焼死体も見つからないので多分無事なのかも知れないが、だったら何処に行った?
「ガストーンッ、ベティィーッ!」
表のピロー部分に、俺達32分署の機動捜査隊主任捜査官の班が居たので合流した。
「主任、子供達は、子供達は無事ですか?」
「あぁ、トニー、それがよく分からん……こいつらの尋問で、返ってくるのは意味不明なことばかりでさ」
足元に転がるのは後ろ手に拘束魔術で捕縛されている靴磨き組合の職員、イコール犯罪組織最下端のチンピラ達だった。
子供達に働かせて、上前を撥ねる最低の奴等だ。
こんなところから救い出してやれなかった非力な公僕の身を恥じた俺は、流石に焦っていた。二人の身に何かあったら、俺は……
「主任、自分に尋問させて貰っていいですか?」
「あぁ? まぁ俺が見てるところならいいだろう」
通常権限としては、応援部隊の俺達は被疑者を尋問する立場じゃない。
その辺は目こぼししてくれる主任は現場叩き上げの、頼れるリーダーだ。
手頃な一人の顎を思いっきり軍靴で蹴り上げる。普段の長靴じゃない、ほぼ野戦装備に近いゴツイ奴だ。蹴られた奴の奥歯が、宙を舞った。
ゲボアァッ、とかなんとか汚らしく呻いて目を覚ます逮捕者の襟首を掴んで引き起こす。
「いいか、俺は気が長い方じゃない、貴様が訊かれたことに一回で答えなかったら、今貴様の歯茎に喰い込んでいるナイフが更に深く食い込む……分かるよな?」
「分かったら、一回肯け!」
俺がいつも研いでいる愛用のポケット・ナイフに口を抉じ開けられた組合職員兼チンピラは、隙っ歯に当てられた剃刀のような感触に恐怖して、がくがくと首を縦に振った。すでに喰い込んだ歯茎から血が滲み出して、口が血だらけだ。
「子供達は何処へ行ったっ!」
「しっ、知らねえ、怪物達が何処かに連れ去った……」
怪物? このヤクシャス・シティに魔物が出たというのか?
「ガストンとベティの兄妹もか?」
「子供だ、ボスを殺った小さな子供が連れてった!」
子供、子供だと? こいつ、何を言ってるんだ……全く訳が分からない?
「……“3人の御使い”に従う子供が居る」
「何だとっ、デイジー、何を知っている?」
「西ゴート帝国のシャグランダム―ル冒険者ギルド協会に有名な歌姫、ハバネラ・バーンスタインが居る」
「ギルド会館“守護獅子神殿”でメッセンジャボーイをしている私の知り合いに聞いた話だけど……同郷で同じ格闘技道場の後輩だったんだけど、ハバネラ嬢の用事を言いつかることが多かったらしい」
曰く、シルベスタン・ジルベールで“イフリート拝火教”を壊滅に追い込んだ一行は、時を経ずして東部のシャグランダム―ルに出現するが、故合ってディーヴァと技比べを競い、圧勝する。
この際に約定により、近代稀に見る冒険者憲章の書き換えが行われたらしい。同じ約定により、インターザクセン区の異形ダンジョンを攻略し、生けるものことごとくに死を齎らし、封印核だった九尾狐を眷属にした顛末はアルメリア大陸では遍く知れ渡っているという。
脇目も振らずにただ一心不乱、魔を屠るバーサーカーの両眼には冷徹ながら狂気の如き強い意志の光が見て取れて、後々伝わった“阿修羅の進軍”と呼ばれる討伐行に、情け容赦は無く、滅すると決めたら唯ひたすら無慈悲に滅し尽くす。
そんな大量殺戮の行脚に、一人の子供が従っていたという。
「この頃から確認されるようになったんだけど、戦闘力に関しては最強の冒険者でさえタジタジの腕前らしい……姿、形は本当に小さな児童といった年恰好なんだって」
“3人の御使い”の許に連れて行かれたのか? だとしたら何故?
熱を出したらしいベティが心配だった、無事だといいが……
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上から女が落ちてきた。
我が牢獄に誰かが訪うのは、初めてのことだったので話をして見たかったが、普通の人間にはあの高さは無理かもしれない。
落ちた後に確認してみたら、思った通り女は爆散していた。
20パーセント稼働のこの身だが、何とか女を再生できないかと試みた。
牢獄に付随する施設には、造物主の研究課題であった人体蘇生サイバネテッィクス用の装置も幾つかあった筈だ。
まだ稼動可能なオート・マタやフォースを駆使して女の残骸をかき集め、繋ぎ合わせて行く。
脳の再生に損傷が無いよう細心の注意をして、生命の息吹をゆっくり注入していくのに3日を要した。
女の断末魔に、激しい後悔の念を読み取っていたのが気に掛かる。
やがて無事、息を吹き替えした女が目覚めた。
女はリンダ・ドルリーレーンと名乗り、どういう状況で、私が誰なのかを問うた。
(我が名はブリュンヒルデ、恋に狂いし最強のホムンクルスだ)
(愛し人の復活を願い、主神を裏切って虜囚となった)
(上から落ちた其の方はすでに事切れていたが、人体蘇生テクノロジーはまだ稼動可能だった……四散した其の方の肉体を繋ぎ合わせ、どうにか復活には成功したが、整形技術を担当するブロックは経年劣化で錆び付いてしまったようだ……残念ながら表皮と人体損傷の一部は修復できなかった)
「何故、何故生き返らせたのですか? 私はあのまま死んでしまった方が相応しい女です!」
「私は自分の想い人を裏切った、最低の女なんです!」
(其の方の今際の思念に激しい後悔の気持ちがあった、生きていれば何かできることもあるかと思ったが、却って余計なお世話であったかな?)
それっきり、女は口を閉ざして一頻り泣いた。嗚咽は慟哭になり、そして叫びになった。気が触れたかと思ったが、女は泣き止むと非礼を詫びた。
救って頂いたのに逆に誹るなど恩義に報いない、道を外れた恥知らずさであった。自分はこれ以上自分を貶める訳にはいかない。罪を悔い改めるために、人として善行を積んで生きたいと思う。
折角助けて貰った命、何か人の役に立ちたいと思うが、見れば囚われの身であるようだが貴女様には何かして差し上げられることは無いのか?
女はそう言った。
(ブリュンヒルデのことは放っておいて欲しい、復活も叶わなかった想い人を手に掛けし罰を受ける身には、この鎖に繋がれた呪縛こそが我が終世の願い、逆に解き放たれてしまえば、どうして良いのか分からなくなってしまう)
(……ブリュンヒルデの今の環境に変化を齎せるとしたら、それはただひとつ、宿敵とされていた“天秤の女神”が出現するときかも知れない、そうなるようにサブ・ウェアにプログラミングされている)
ただ他者との会話に飢えていた私の話し相手に、この娘は暫く傍らに侍ることを約束してくれた。
人間の住環境が無かったので、最低限の衣食住を創り出して娘の滞在に備えた。
娘の身の上話は悲しいまでに愚かであったが、恋愛経験の少ない私には、それを嗤うことも助言することも出来なかった。娘の懺悔はいつしか幼い頃の綺麗な思い出として美化された幾つかのエピソードに及んだが、それはもう二度と取り戻せないものなのだと、私にも分かった。
娘の滞在は一ヶ月にも及び、これ以上ここにいても傷が癒えることはないだろうと判断するに至った。
(リンダよ、ブリュンヒルデの無聊の慰みに付き合わせてしまって済まなかった、其の方が罪を償って生きたいと言うのなら、そろそろ人間社会に戻ってはどうか? 恵まれない他者に尽くすことに依って罪が浄化されるなら、その方が良かろう)
私の勧めに従って戻って行った娘の行く末を知ることはついぞ無かったが、無事に己れの生きる道を見つけることは出来たのだろうか?
私はブリュンヒルデ、永遠の虜囚にして朽ち果つるまで孤独に生きる者、我が魂が救われることは私自身が願っていない。
200万年前の大ヒュペリオン聖国の滅亡を逃れたヘドロック財団の主軸は、文明の再興を夢見てあらゆる手を尽くしたが多勢に無勢、滅びるべき運命だったヒュペリオンの残党が再び隆盛を取り戻すことは無かった。
実験の失敗が解き放たれた嘗ての使役獣の魔獣化、獣魔化に拍車をかけて、この惑星は魔族の領域と人類の領域とに分かれてしまう。
最初のうちは魔族を駆逐する為に開発していた最強特殊兵器も、究極帰納推論法から予言された56億7000万年後に生けとし生けるもの、更には過去のこの世に生きた総ての魂を裁定すると言う“天秤の女神”降臨に行き着いてからは、一変した。世界の秩序を取り戻すべく組織された秘密結社“大陸救済協会”は、世に混沌と恐怖を齎すようになった。
理不尽に逆らうような終末級理論に、傾いて行ったのだ。
“大陸救済協会”は神と闘うことを選んだ。
頂点たる偽造物主オーディンことサー・ヘドロック・セルダンは、延命処置の他に、あらゆる手段を使って自分の細胞や意志、思想を後世に残そうとした。
原形質凍結保存装置、人格の電脳チップ化……成功したものもあれば、腐れてしまったものもあった。
誰も信用せず、遠大な計画のあらましを知る者は本人以外には皆無だった。
我々ワルキューレ・シリーズもそんな計画の片鱗をサポートすべく設立された特殊部隊だった。その誕生は古く、およそ100万年前に第五世代のヘドロック・セルダンにより創設されたが、長い暗躍の歴史はこの私、ブリュンヒルデ四代目の封印により、幕を閉じた筈であった。
私がここ、夜叉神峠にスリープ状態で凍結されてからも1000年近い月日が経ったと思われる。
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馬鹿だったとしか言いようがない。
20年連れ添った掛け替えの無い相手に、浮気相手との情事をこれ見よがしに話して聞かせるなど、相手がどういうふうに思うのか、そんな簡単な、当たり前のことが分からなくなっていた。
下品で無節操な、とんだ性愛中毒へと堕ちていた。
耐性が無かったと言えばそれまでかもしれないが、アルコックとの愛あるセックスしか知らなかった身は、快楽のためだけのセックスに容易く溺れて抜け出せなくなった。
将来への漠然とした不安も、死への言われない恐怖も、一時忘れさせてくれる恍惚とした酩酊感、達するときの頭が真っ白になる絶頂感が麻薬のように蝕んで、何度も秘密の背徳的な逢瀬を繰り返してしまった。
死ぬのが怖かったと思っていたのは、よく考えると私自身が死ぬことじゃなかったって、今なら分かる。
本当は、アルと死に別れることが怖かったのだ。
……本当に私が恐れていたのは、アルを失なうことだった筈なのに何をどう間違えたのか今も分からない。
あの頃の私は狂っていたんだと思う。初めての不倫に、良心が壊れてしまったのかもしれなかったし、身も心もドロドロになる興奮に普通だったら考えられない酷いことも沢山した。渇いて行く心は、貪欲に更にその先を求め、次第にエスカレートする行為は、普通の交わりでは満足出来なくなって行った。
淫らさが日常になれば、そこはもう色欲の亡者の煉獄だった。獣のように淫語をわめいて泣き叫ぶ交わりの日々は、もう悔やんでも悔やみ切れない。
倫理を忘れてしまうから、人はそれを不倫と呼ぶのだろう。
思い返して見れば、怪しげな薬も打たれていたような気もする。
だが最終的に選んだのは私だ。裏切るべきではなかったものを裏切り、捨てるべきではなかった誠実なもの、大切なものを捨ててしまった。
自分が女として最低の性愛に狂ってしまった為に壊れてしまったアルコック……アルコックが望んだ慈しみに溢れた愛ある生活も、彼が宝石のように大事にしていた二人の暖かく優しい思い出も、全て奪って、汚泥まみれにしてしまった。
私がした。他の誰でも無い、彼を支えるべきだった私がしたんだ。
私はあのまま死んでしまったことにした方が、アルコックのためだろうと思い、生きていることも知らせず、ここヤクシャス・シティで暮らすことにした。
「姿形も変わってしまったし、整形魔術で美しさを取り戻すなんて気には、罪を償ってひっそりと生きる道を選んだ私には、到底なれませんでした」
「アルの、私を突き放したときの顔が未だに忘れられません、あのときのあの顔、この人をここまで追い詰めたのが自分なんだと嫌でも思い出すんです」
グレゴリーと私の前でしおらしく告解する過ぐる日に愛慾に狂った女の、今の贖罪に生きる境遇が痛ましくて、胸を締め付けた。
“羞恥の魔女”の能力で知ってしまったアルコックの過去と罪……私がアルコックと別れざるを得なかった要因を作ったリンダ・ドルリーレーンを、私は許せないと思っていた。
肉欲に溺れるというのが、どういうことか分からなくもない。
以前アルコックとそういう仲だった頃は、何か敵討ちでもするような憑りつかれたような激しい愛撫を受けた。私も簡単に溺れて、何度も執拗に強請った。
だが、少なくとも女としての貞節は盡すべきだ。
それでも、この人が生きてこの世にあり、罪を悔いて過ごした長の年月を思うと、それも分からなくなった。
壊れてしまった砂時計はもう時を刻まないし、幾ら零れた砂を掻き集めても修復のしようはない。
生きていたブリュンヒルデの力によってこの世に呼び戻され、復活したこの人は、人間社会に戻っても再び冒険者になる肉体も気力も失われていたが、贖罪に生きると決めていた身は公国正教系の修道院に帰依し、在俗会の使徒として在野にありながら朝な夕なに祈りを捧げる奉献生活を始めた。
“夜叉神の墳墓”を出るときに、どうせガラクタだからと持たされた過去の遺物を故買屋を通じて売り払い、以前に時折趣味で作っていた菓子の店を始めた。
誠心誠意祈り、労働し、利益は修道院に喜捨した。
商売は繁盛してチェーン店を展開するまでになったが、リンダ・ゴーストと偽った贖罪の人生に、清貧な生活が変わることはなかった。
……私には彼女の今を、肉欲に狂った哀れな女の末路と嗤うことは出来なかった。
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「ガストン君達の捜索願い、出しとく?」
「……あぁ、そうしてくれ、悪いな」
後輩で恋人のデイジーの気遣いに救われてるな、俺って結構ナイーブかも……
「なぁ、なんか揺れてないか?」
咥え煙草の灰が落ちる程、やがてそれは大きくなった。
32分署に戻って、装備の点検と備品課への返却を行っているときにそれは起きた。夕飯を取り損ねて空腹だったが、もうそんなことを言ってる場合ではなかった。
突然の地響きと共に、分署の建物も揺れ、天井の照明が落ちたり、キャビネットが引っ繰り返る惨事だ。
立っていることさえ出来ない程の激しい地震に何事かと窓に躙り寄る。
郊外の丘の方に何か巨大な煙突のような物が何本も佇立していた。
ヤクシャス・シティは今建築ラッシュだ。大陸中で高層建築が林立するのは、ここヤクシャス・シティだけだと言っても良い。
30階以上の建造物に取り囲まれた市の中心街は、市民の自慢であると共にディアゴス合衆国連邦が威信を賭けたプロパガンダが形になった物だった。
しかるに、その煙突群は建物に倍する大きさと威容を誇っていた。
「何だっ、何が起きている?」
「ブリュンヒルデ?」
デイジーの直感は当たっていることが多い。
思わず握り締めた手の中で、シガレットケースがひしゃげた。
そうなのか? いきなり出現した煙突は何を意味する。
巨大な煙突がただの煙突でないのはすぐに分かった。光り輝く破壊的な剛性を感じさせる光線、想像を絶する範囲の太さの光の奔流が立ち昇って行った。
「砲身! 兵器なのかっ!」
だが、立ち昇った何処までも太い光は遥か上空で遮られた。
膨大な光は遮られ、何かドーム型に広がっていき外に出ることは叶わず、霧散して行った。何だ、何が起きている?
「結界……御使い様の?」
ものに動じないデイジーの声が震えている。事態はこれ以上悪化していくような予感しかしない。
巨大な砲身の根本から、遠目では何かが生えてくるような感じで今度は小さ目な砲身や違う形のウジャウジャした物が迫り上がり、目に見える手近を攻撃し出した。
光線が当たった建物が、崩壊し塵になって空気に溶けていく。目に見えない斬撃の刃が射出され、全てが斬り裂かれ瓦解していく。
ヤバイッ、ヤバイッ、ヤバイッ、このままじゃ街が蹂躙されちまう!
人死もすでに半端無く出ているだろう……
頭の中に神の啓示が鳴り響いた。
(恋するホムンクルスに逢うてみたい、暫し凌いでくれ……)
その一言で、今暫し耐えなければならないと言う気になっていた。
なけなしの克己心を奮い起こしていた。何故やる気になったのか訳が分からなかったが、人それぞれに苦しみは違っているとしても小賢しい運命を必ずや打ち破って見せる。無自覚に理由も無く、そんな気になれていた。
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「しっかし、因縁の“夜叉神の墳墓”にまた来ることがあるって考えてもみなかったな、なぁ、アルコック」
「静かにしろユーリン、最早敵陣だ、夜叉神……別名ブリュンヒルデか?」
「俺達は以前、このダンジョンの最も深層まで辿り着いた、言ってみれば俺達が一番ゴール近くに居る、チェックメイトに手を掛けているんだ」
「あぁ、懐かしいな、以前も機械仕掛けの化け物ばかり出てきやがって……古い話だ、あんとき死んだリンダの霊に悔やみの護符でも置いてくるか?」
「……リンダの霊は、冒険者らしくヴァルハラに行ったさ、ここには居ない」
本当はあいつの霊は地獄に行ったと思っている、いや、心から願っている。
あいつを殺しても失ったものは返ってこなかったが、殺さずに許す選択肢などありえる筈もなかった。
女を信用できなくなった俺は、女を情欲の対象としてしか見れなくなった。
愛だ恋だの幻想に捉われれば、また裏切られて馬鹿を見る。もう二度と本気になんかならない。女なんか欲望の吐け口だ。
ヤリ捨てた女も途中から数えられなくなった……俺の復讐はまだ続いているのかもな?
付き纏われるのが嫌で、こちらから誠意を見せることがなければ女は自然と離れて行ったが、付き合った女が居なかった訳じゃない。
イングリット、俺達のチームに居た魔法職の女は抱き心地が良かった。同じチームということもあってヤリたいときにいつでもヤレたから、都合のいい女だったが、自分で決めたルールを破って、どうも俺の過去を覗いたっぽかった。
いつも自分から頭がおかしくなるほど犯して欲しい、気が狂うほど逝かせて欲しいと懇願してたから俺に惚れてたようだったが、離れて行った。
それならそれでいいさ、別に止めやしない……俺にとって女は執着するようなもんじゃない。
おそらくこの竪穴が“夜叉神の墳墓”最奥部に繋がるだろうという、いつかリンダの奴を突き落とした場所まで来た。
(我が眠りを妨げ、我が牢獄を荒さんとするは何者か? 早々に立ち去るがいい)
頭の中に何者かが話し掛けてきた。かなり強力な思念波で、頭を殴られているような感じさえある。
(緊急起動シグナルを受け取った、今コントロール権はサブ・ウェアにある)
(サブ・ウェア起動は問答無用の対象排除、アーマード・モードと呼ばれる兵装展開で立ち上がる……其の方等は、そこに居れば確実に死ぬぞ)
威嚇なのか、絵空事なのか判断も付かないが、話し掛けてくるのは間違いなく探す相手、ブリュンヒルデに違いなかった。
浮付いた気持ちでここまでやって来た訳じゃない。何も確かめずに引き返すは、下策と言えた。警告を無視して前に進む。
勇気と考え無しの蛮勇は違うと、よく言われる。用心を怠る冒険者は早死にする。今日まで生き残れたのは単なる僥倖に過ぎなかったかもしれない。事実、坑道よりも広い竪穴を降りて行く途中で、俺達は避け難い死に遭遇した。
物凄い勢いの、物凄い質量を持った何かが下から突き上がり、何かに思いを馳せる遑も無く、俺達の身体は引き裂かれて消えた。
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ガルガハイムのヤクシャス・シティ総領事館の被害も甚大だった。
上級職も含め、主だった外交関係の者は総領事館の私室で暮らしている。
業務時間外ですでに休んでいる者が大半だったが、住宅棟を含め、キューブリック州から接収した由緒ある建物はすでに半壊だった。
間断無い砲撃の光と、燃え盛る街の炎が夜空を染め上げて、悪夢を見ているようだった。
「早く外に出て、中は建物が崩れて危険よ!」
逃げ惑う職員を誘導して中庭に集めようと思ったが、何が起こっているのか把握できていない以上、何が危険なのかも分からない。
取り敢えず無事な者の安否を確かめ、建物の下敷きになった者等の救助をどうするか算段を巡らすが、良い考えも浮かばない。
何処かの軍隊の侵略だろうか?
魔族はあり得ない。我がガルガハイム研究班の調査ではここヤクシャス・シティを中心にディアゴス合衆国連邦全域に、魔族が忌避する何かが放射されている事実を掴んでいた。
しかも、その何かは“ヤクシャスの墳墓”より発せられている。
この何かを突き止めることが、目下ガルガハイム本国より科せられている最優先事項だった。
その何かが流用可能なものであれば、人類は魔族、魔物に対して大きくアドバンテージを取ることができる。
イングリットは無事だろうか?
姉が仕来たり破りの跳ねっ返りだった反動で、両親が末娘だけは厳しく躾けようとした箱入り娘養成計画の教育方針を諸に被ってしまった妹……遂には、耐えられずに家を出奔したイングリットに対して負い目を感じていた。
妹には幸せになって欲しい。だが、妹の幸せが何なのか、今の私には分からない。
あぁ、こんなことならもっと仲好くしておけば良かったなと思っても後の祭りだ。何もしてあげられない内に、妹が死んだらどうしよう。
「地下に防空壕施設や地下礼拝堂をお持ちの方は、至急地下に避難してください、地上は危険です」
見上げるといつの間にか飛来した大型の鳥? 艶消しの黒と鈍錆色のツートンカラーの直線が目立つ大きな鳥は、何かの拡声魔術で周囲の天変地異とも黙示録にあるこの世の終末とも思える阿鼻叫喚に勝る音量で、逃げ惑う人々に呼び掛けた。
赤黒く染まる空と、交錯する眩しい程の攻撃の光線の中で、その飛翔物は呼び掛け続けた。
「繰り返します、地上は危険です、至急地下へ避難してください」
呼び掛けながら鳥は厳つい鎧武者のような姿に変形して、更に自らの身体を複製していった。いや、増やしていったと言う方が正しいのか……兎に角初めて見る現象なので良く分からない。
やがて増えた身体を縦横無尽に数珠繋ぎにさせて、地表に降り注ぐ間断無い攻撃を防ぐべく、強力な物理結界を張った。どのぐらいの領域をカバーしているのか、私には見通せなかったし、見当も付かなかった。
そして地表には物質強化と空間固定、不壊属性の魔法、負傷者を治癒する回復魔法が同時に重ね掛けされた。見たことも聞いたことも無い強力なものだった。
「今、ブリュンヒルデが暴走しています、落ち着いて行動してください、私はエリス、3人の御使いの一人です」
“3人の御使い”のエリスと言えば、その肌に妖艶無窮、変転する魔的呪装を刻み、その限界を知らぬ変身能力から“全能有為転変”と称されるエリス様か?
次から次に起こる理解を越えた事態に、考えが追い付かずただ茫然としていると、今度は神の啓示が頭の中に閃いた。
(恋するホムンクルスに逢うてみたい、暫し凌いでくれ……)
この神の啓示には、何を置いても従わざるを得ない原初の情動が含まれていた。
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抗いがたい突然の災禍に“リンダのドルチェ”のリージェント・スクエア店は、崩れてきた向かいの建造物に圧し潰されて大変な惨状になっていた。
リンダさんと私を庇って重い構造材の下敷きになったグレゴリーの奴が、頭を血に染めて虫の息だった。咄嗟に突き飛ばされた私とリンダさんも無傷ではないが、このままだとグレゴリーが死ぬ。
必死で、あまり得意ではない治癒魔法を発動していた。
「馬鹿グレゴリーッ、なんで庇ったりしたんだ!」
弱々しい生命の灯を見ていると、切なくて何だかおかしくなりそうだった。
「……幾ら強くなっても、所詮俺は路傍の石ころだ、でもな石ころにだって惚れた女の一人ぐらい守れなくてどうするって意地はあるんだぜ」
そう言ってグレゴリーは息を引き取った。あっけない最期だった。
「グレゴリイィィッ!」
私は馬鹿だ、本当に大切なものは失って初めて気付く。こんなことなら、出し惜しみしないで、もっと早くヤラせてあげればよかった。
あまりのことにリンダさんも、ただオロオロして私の肩を抱いてくれる。
エリス様の声が上空から聞こえた。何かの機体が数珠繋がりになって、網目状に天空を覆って行った。エリス様の装備は特殊で、幾つかの戦闘形態を持つと聞いたことがある。
あれもエリス様の兵装変形のひとつなのだろうか?
「グレゴリー、なんで死んじゃうんだよ、私をひとりにしないでよぉ!」
アルコックの深い心の暗闇に耐えられなくなって別れた私は、冷静になってみれば、自分が如何に爛れた愛人生活に溺れていたかが分かった。
覗いた過去には自分が抱かれている時のイメージもあって、客観的に見れば、その女(自分)は実に下品でみっともなかった。あれは発情したメスだった。
気が狂うまで犯してと端なく泣き叫ぶ私は、どう贔屓目に見ても恥知らずに昂ぶる雌豚だった。
これ程の痴態を誰か他人と共有することは、私の人としてのプライドに忸怩たるものがあった。
もう二度と同じ轍は踏まない、そう決心した私は必要以上に男を遠ざけた。
そんな私を可哀そうに思ったのかどうかは本人の口から聞いたことが無いので知らないが、屡々ちょっかいを出してきたのがグレゴリーで、最初の内は目の端に入るだけでもウザかった。
好い男ってのもその頃の私には胡散臭く思われて、敬遠していたのだが、いつしかこいつの紳士的な態度が分かるようになってきた。
グレゴリーは決して人の心の中に、土足で無遠慮に入ってこようとはしない。
執拗に肉体関係を迫って私の気分を害したり、酔わせてどうのこうのということも無かった。
今は正直、一緒に居て肩肘張らないグレゴリーが掛け替えの無い、私の男だった。
屈託なく笑う笑顔が救いだった。
「私を置いてかないでよ、変態グレゴリー……」
神の天啓があった。
(恋するホムンクルスに逢うてみたい、暫し凌いでくれ……)
そうだ! ドロシー様が居る。やる気だ! 時を巻き戻す奇跡がきっと起きる。
そこまで直感で悟った私は、何かの直撃を受けた建物が全壊するのにリンダさんと共に押し潰されて死んだ。
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「何が始まろうとしている?」
「エリス様が誤って発信した緊急シグナルに地下の素体が反応しているようです」
ナンシーが、スキッドブラドニールの艦橋の拡声装置を通して答えてよこす。
今まさに、大地の蠕動が始まったところだ。
「どうやらブリュンヒルデ本体は、省エネルギーモードに移行しているようです、つまりこの現象は補助機能としてあるサブ・ウェアが実行している」
「本体は眠らされていると?」
「意識はあるかもしれませんが、指揮系統はバイパスされているでしょう」
「サブ・ウェアモードで起動している場合、自動防御優先で周囲を攻撃することはあり得ますが、しかしこれは過剰に過ぎる、何らかの悪意ある排除プログラミングが介在しているのかもしれません」
「止める方法は?」
「サブ・ウェア機構に無理矢理アクセスして無効化するしかありません」
「完全なスタンドアローンでなければ、何らかの受動回線はある筈です」
「来ますっ、大きい、この大きさは完全に長距離砲撃用の強化砲身です」
「都市をシールドでくるめ! 遠隔地攻撃をされては厄介だ、最強甲殻モードで多層複合防御幕起動、出力最大!」
「絶対に都市の外に被害を出すな、完全阻止だ!」
ナンシーが遅滞なく復唱する。
「ドロシー、あれって消滅素粒子砲よね、何処から出てきたの?」
メインモニターに釘付けだったステラ姉が、疑問を口にする。
「今確認したんだが、あれはブリュンヒルデの体表面から展開されている」
「信じられないことに、多重構造の2次元フォールディング兵装格納庫、それがブリュンヒルデという戦闘用アンドロイドの正体だ」
「冗談じゃなく、一人で惑星間戦争ができる」
「元から入力回線にジャミングが掛かっています、どうやら電脳AI自体は、ヒュペリオンの系譜を踏襲している、如何な天才ヘドロック・セルダンと言えども、人格レベルの電脳AIのアーキテクチャーをいちから構築するのは不可能だったようです」
ナンシーの技術をしても乗り越えられないジャミング……ヘドロック・セルダン恐るべしということか。
「何が言いたい?」
「つまり、サブ・ウェアさえ消去してしまえば、ブリュンヒルデ本体は貴女に服従する、ヒュペリオン文明の総てのメイン・フレームがそうであるように、コマンド・オフィサーの命令には逆らえない」
「それがあるから、ヘドロック・セルダンはサブ・ウェアの機能を拡張したと思われます、異常な反応もそのためでしょう」
被害が広がって行く市街に向けて、言霊の広域思念を放った。必ず救うから、暫し耐えて欲しい。
「ステラ姉、操船いいか? ステルス亜空間を出てこちらを視認させれば、攻撃は我等に集中する、住民への被害を減らしたい」
「分かったわ」
「お母さん状況は?」
キキが招いたヤクシャス・シティの兄妹を伴って、指令ブリッジに上がってきた。二人ともシャワーでも使わせたのか、ゲスト用の船内スーツに着替えている。
子供用のサイズも準備しておいて良かった。
「エリスが誤作動させたシグナルで、緊急モードが発生している」
「ブリュンヒルデは2次元フォールディングの兵装を全展開、長距離弾道兵器はナンシーの最強度の防御幕で閉じ込めたが、近距離兵器を武装展開、街中を爆撃している」
「どうも眠り続けるブリュンヒルデに替わってサブ・ウェアが暴走してるらしい……今、サブ・ウェアにアクセスしようとしているんだが、目途が立っていない、実力行使で討って出るか思案中だ」
「……エリスお母さんが、間違って発信しちゃったシグナルって、サブ・ウェアに届いたってことだよね?」
「んっ!……そうかっ、でかしたぞ、キキ!」
「聴いたかエリス、今すぐ、そのORBとやらを送ってよこせ!」
(了解……、被害は復旧できるんだろうね?)
「抜かりはない! “凌げ”と言った時点で遡って2時間分の被害領域はカバーしている」
私の築き上げた記憶層に稼働する5000個の大脳は、常に周囲を記録し続けている。この可動領域はミレニアム・ガーディアンご自慢のアクティブ・キャンセラーの機能を遥かに凌駕する。
手許にエリスが送ってきた宝珠もどきの装置が届いた。
「あたしがやる、ヘドロックの権謀術数にウィルスを仕込む搦め手が無いとは限らない」
超集積回路にダイブすると、この装置の特異性が分かった。立体メイズの暗号キーがナノ単位で変化するシグナル亜空間位相周波数の解析は、どのような高速演算装置でも100万年は掛かる計算だ。
こんなところにもヘドロック・セルダンの狂気染みた偏執性が見て取れた。
「ガラティアアッ、超加速だ!」
師匠から下賜された魔導クロノメーターを取り出して、時間の流れを任意に加速させる機能をリクエストする。
今のところ1000億倍まで時間圧縮をできるのは、私の知る限り自称高位次元絶対神を名乗るガラティアだけだ。
「コンプリート!」
別口の魔力蓄積用に割り当てている2000個の大脳に演算を割り振れば、瞬く間に周波数帯の変形枠域とスウィッチング・パターンを導き出す。
最速で解析し終わるとすぐさま通信回線を抉じ開け、アクセスと同時に、サブ・ウェアを焼き切った。
***************************
あんな体験はもう二度と味わいたくないというのが、偽らざる感想だ。
死の瞬間に味わった灼け付くような、破裂するような感覚を、逆戻しに再生される。顔、手、胸、押し潰された場所が悲鳴を上げた耐え難い感覚をもう一度再現される。それも逆戻しにだ。
潰れた頭蓋が修復され、腹に刺さった鉄筋が抜けていく時の激痛と感触と言ったら、一瞬じゃなかったら間違いなく発狂していた。
無事、死から生還したグレゴリーもリンダさんも一様に蒼褪めていた。
「時を巻き戻すか……本当なんだな、自然の理と法則まで捻じ曲げて、それは死と滅びさえも覆えし超越する」
「一度千切れた血肉が、ブチブチと音を立てて再生されていく独特の感覚、もう一回味わえと言われたら、もう二度と御免だが……これが“3人の御使い”の、いや、戦神ドロシーの力なのか?」
今ほどグレゴリーが、私より背が高くて良かったと思えたことはない。
グレゴリーの首っ玉に抱き着いた私は、ぶら下がるようにしてグレゴリーの無精髭に泣きじゃくる私の顔を押し付けた。
「おい、おい、みっともないぜ、大人の女がよ、リンダさんが見てるから……」
「グレゴリイィィィッ、よがっだああぁ、生ぎででぐれて、本当によがっだああっ!」
恥も外聞も無く、一度失い掛けたと思ったものが再び手許に戻った感激にここまで我を忘れて取り乱したのは初めてのことだったが、この逸話が長く長く グレゴリーの昔話に何度も登場するようになるとは、このときは知る由も無かった。
気が付かなかったが、鼻水まみれのひどい有様だったらしい。
私とは対照的に、リンダさんの顔にも身体にも引き攣れたように刻まれていた惨いケロイドが、きれいさっぱり無くなっていた。
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何が起こっているのか、目の前の事象を目の当たりにしていても皆目理解できなかった。
崩れ去った領事館も、周りのビル群も逆回しのように元に戻って行く。倒壊する前の綺麗な状態に復元していく。
圧死した筈の多くの同朋が息を吹き替えし、まるで訳が分からないというように自分の身体を見回している。
彼等の多くはやがて立ち上がり、服の埃を払うと、初めはおっかなびっくり、そして力強く歩き出した。
互いの無事を喜び、三々五々私の周りにも集まり出したそんな外交館の仲間が嬉しそうに笑っていた。
“3人の御使い”の力をここ迄まざまざと思い知らされた今は、これは到底、人類がどうこう出来る範疇を越えてしまっているように思われた。
だが、今は素直に、皆んなが助かったことを喜ぶことにしよう。
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(例え“天秤の女神”と言えど、我が眠りを妨げる権利は無い)
武装展開を2次元に収納し終わったブリュンヒルデと対面するために、破壊された施設の奥底までやって来ました。
ドロシー様の最初の問い掛けには、けんもほろろです
サー・ヘドロック・セルダンとやらいう太古のプロフェッサーが創造した人工の戦女神は、ナンシー様の推定に依るとそのボディは4体目だそうです。
ただ、可能性として初代よりの記憶と感情を引き継いでいるかもしれません。そうした場合はおよそ100万年程の活動の歴史があるそうですが、はっきり言ってそんな規格外の星霜に思いを馳せるような叙情的な感情は、持ち合わせておりません。
おりませんが、地表まで貫かれた巨大な開口部にシトシトと降り注ぎ始めた夜中の雨が、ひとしお寂しく感じるのは何かの気の迷いかと思います。
私の識別臭覚では、落雷の時の空気が焼けるような匂いとしてこの怪物のような戦士を認識していました。
維持装置も何も彼も、最早跡形も有りませんでしたが、立ち昇る熱気と帯電する装置の残骸から守るため、ガストン君とベティちゃんの兄妹には防護服を装着して貰っています。
そう、お客さんも含め一族郎党の団体さんでやって来ました。
もう危険は無い筈と、キキ様のお友達候補を粗略に置いてきぼりはよろしくないとばかりに、連れてきた訳です。
おそらくドロシー様は、“今日、知り合ったばかりらしいから、出来るだけ親切にしないと”、などと考えていらっしゃる筈です。
ちょっと場違いな親馬鹿さ加減です。
傲岸不遜な恋するホムンクルスとやらは、全てを打ち壊した彼女の武装展開で、括られていたであろう架台も牢獄も跡形も無く残骸へと変えていましたが、降り積もった瓦礫の上で、それでも何かがここに縛り付けているのか、目を瞑ったまま静かに宙に浮いていました。
ドロシー様がサブ・ウェアを破壊したので、スリープモードは解除されている筈でしたが、変わらず眠り続けているようです。
項垂れるでもなく、ただ凛と美しく、比較的低い位置で生き残った照明の仄暗い明かりの中で、悪びれもせず漂っていました……気高い戦士の魂は、孤独で、諦め切っていて、そしてその分ひねくれていました。
「お前の意志ではないとしても、街を焼き払った遠因は壊れた緊急シグナルの発信機を漏出したお前のミスじゃないのか?」
ドロシー様の問い掛けは悪手かもしれません。
(不完全な発信機を誤作動させたのは、そちらのミスであろう?)
やはりです、捻くれ者の考え方は一緒です。私がそうだから良く分かります。
“チッ、正論だな”っていうドロシー様の心の中の舌打ちが聞こえるような気がします。
キキ様のお友達候補の手前、あまり悪態もつけないし、脅したり、手荒なことをした日には、ヤクザな家庭として不適切な保護者の烙印を押されかねないから気を付けないと……程度に考えている筈です。
親馬鹿として、ここはおおらかな気持ちで懐柔策でしょう。
「あたしはニンリルが正統の遺伝子を受け継ぐ者、“コマンド・オフィサー”だ、お前が抵抗できない命令権を実行するのは容易いが、恋するホムンクルスに興味がある、眠り続けたいというのならまた他の場所に寝所を設けてやらぬでもない、その間暫しあたしに付き従う気は無いか?」
「あたし等は今、ヘドロック・セルダンとやらの残したオー・パーツを破壊する旅路に付いたばかりだ、全ての“真・神器”を葬ったら自分達の力で世界線を渡る道が拓ける……並行異世界へと渡る悲願を果たせる」
「どうだ、興味は無いか?」
(笑止、私の望みは眠り続けることで他に興味は無い)
あぁ、そうでしょうとも! 思った通りの融通の利かない頑固な女です。
「ジークフリートとやらを手に掛けたこと、悔やんでいるのか?」
(……私のキズを抉ろうとしても無駄だ、私の心は動かない)
段々イライラしてくるドロシー様の心の内が手に取るようです。鉄面皮を崩しこそしませんが、本当は瞬間湯沸かし器のドロシー様の臓腑は煮え繰り返っている筈です。思わず手を出して、保護者失格になっちゃうかもしれません。
「では、問おう……お前の眠り続けた長い長い年月に何か意味はあったのか? 失われてしまった魂を思い、弔い続けた時間が何かを変えたか? 眠りこそが癒しというのなら、お前はそれによって癒され続けたか? いわんや、罰を受ける身と鎖に繋がれしはジークフリートが望みしことか?」
「違うだろう、お前はただ、お前を造り賜いしヘドロック・セルダンに捨て石にされただけだ」
「あたしという、やがて訪れるだろう敵対勢力に向けて仕込まれた罠としての己れに、何か思うところはないのか?」
あぁ、言った、言っちゃいました! ブリュンヒルデ選手、形勢不利です。
存在理由を甚振るボディブロー、これは効きます。最早ダウン寸前でしょう。
(……何故、私を突き動かそうとする?)
「殻に閉じ籠ったお前を見ていると、どうにも歯痒くなるからだ」
「あたしはただ、見てみたいんだ……恋するホムンクルスが頸木から解き放たれ歩き出す、その先を」
「お母さん、お母さん、ベティちゃんがね、なんか話したいんだって」
えっ? キキ様が小さな声で内緒話のように告げていますが、意外な伏兵です……この意固地なアンドロイドと話したいって、なんて奇特なお嬢さんでしょう、大丈夫かな?
「娘の友達が話したいと言っている、断っておくが娘の大切な友達に失礼があったり、威嚇したり、失礼があったり、侮蔑したり、失礼があったりしたら、即戦争だ……夢々忘れるな」
幾分、逡巡したドロシー様でしたが、ほとんど過剰ともいえる釘の刺し方で相手を牽制しています。
どさくさに紛れてベティちゃん達をキキ様の友達認定しちゃいました。
「おっ、お姉さんはここで独りで寂しくはありませんか? そとでは陽の光があって、友達とダンスをしたり、縄跳びしたり、たまにはアイスクリームを食べたり、辛いこともあるけれど、きっと楽しいことも一杯あります!」
「お姉さんがここに閉じ籠っているのは、とっても勿体無いと思うんです」
おでこの広い可愛いお嬢さん……猫っ毛の薄い色のブロンドを短いツーサイドアップにしている。貴女の物怖じしないところは私も、私の傍輩のデュシャンも見習うべきかもしれません。
(子供、子供が居るのか?)
このとき初めて興味ある反応を示したブリュンヒルデが、その閉じた目蓋をゆっくりと開けました。
美しい瞳は、ただ奇跡のように美しく、この大柄のアマゾネス・クイーンに、高電圧のように辺りを圧する生気が宿った瞬間でした。
その瞳は見ている間に多彩な色に変転し、揺らぎ、揺蕩う不思議なもので、私は一遍で魅せられていました。こんな贅沢な瞳を持っているのは、おそらく世界で唯一人でしょう。
ただ、その瞳が映すのは永劫を生きた者の無感動と深い悲しみでした。
「表に出て、友達を作ってみませんか?」
「友達……君がなってくれるのか?」
初めて肉声で話したブリュンヒルデの声は太く、それでも女性らしい艶のあるものでした。
結局、引き篭もりのホムンクルスの心を開いたのは、10歳の幼い女の子でした。
ブリュンヒルデを伴って引き上げる途中、ドロシー様に咎められました。
「まだだ、まだいかんな、心の中がダダ漏れだ……随分面白い実況中継だったが、誰が親馬鹿だって?」
(えっ、そっちですか? 瞬間湯沸かし器とかの方が失礼じゃないですか?)
「……マルセル、明朝の朝練メニューは3倍増しセットだ」
まるで汚物を見るような冷たい視線と暗欝極まった声音にゾクゾクします。
実は、これは私にとってはご褒美以外の何物でもありません。
「喜んで……」
感動に震える声をひた隠しに、やっとの思いで返事をしました。
過酷な修練で気絶した後、ドロシー様の腕の中で目覚めるのは私に取っての天国、興奮に呼吸が粗くなるのを必死で誤魔化しました。
翌朝、失心から目覚めるとブリュンヒルデに擁かれていました。
なんでえぇぇぇっ!
でも、100万年の悠久を知った無機質な冷たい目に見詰められると、これはこれでくるものがあります。
ご主人様以外にもドキドキするなんて、あぁ、私はダメ人間になってしまうのでしょうか?
斯くして、4体目のボディとしてだけでもおよそ20万年を生きた“大陸救済協会”計画の生き証人は私達一行と行動を共にするようになり、私はトレーニングのたびに気絶するのが大好きな特訓失心中毒になったのでした。
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ヤクシャス・シティに日常が戻ってきた……いや、ここ、元“靴磨き会館”には新しい日常が始まっていた。
焼け落ちた古いゴシック式の中世の建造物は形はそのままに、落成した当初はこうだったろうという新築同様の外観で復元され、更にその上に近代的な高層建築が建て増しされていた。
一時、隣の州の児童保護施設に避難していた子供達も呼び戻され、以前とは比べ物にならない生活が始まっている。
上の階には学校ができた。靴磨き会館時代は、学びたい児童も学校に通うなんて夢のまた夢、事実上不可能だったが、ここでは保護された児童は自動的に義務教育が科せられるようになった。
立派な階段式教室や防音設備のある音楽室、錬金術の基礎を教える実験室のようなもの、視聴覚室というよく分からない未来的なもの、その他様々な教育設備があり、大小三つの学食はカウンターに沿って進むバイキングスタイルや食券を買うパーラーのようなものなどで、教科書や参考書、問題集、文房具類が支給される購買部もある。
生活必需品や体操着や運動靴、雑誌や化粧品、見たこともない家電製品、スポーツ用品や楽器、その他種々雑多な物品を購入する学生生活協同組合と称する大型店舗が別にあった。
入所と同時に支給されるIDカードとか言うものでこれらは利用し放題、つまり無料だ……俺もここの学生になりたいよ。
入所手続きに健康診断とオールドフィールド公国正教への入信が必須だったが、幼くして両親を無くしてしまった孤児達の多くが自分の家の宗旨を知らなかったから、その点はあまり大きな問題にはならなかった。
惜しむらくは教職員の多くが、水銀髑髏(俺も始めて見たが)とシルキーという口数の少ない美人の妖精だったことだろうか?
無口な彼等は非常にコミュニケーションが下手だ。
良い点は、この特異なランドマークが“3人の御使い”の領域だと、一目で分かることだ。
俺はたまたま丁度紛れ込んだ無頼漢を摘まみ出すシルキーを目撃したんだが、部外者に対しては彼女等も容赦はない。噂によると、一人でも軍隊を相手に出来るそうだ。
……事実上の不可侵領域、何人たりとも手出しは出来ない。
政治交渉も得意なのだろう、各方面手を回して運営に必要な許可は取り付けてしまったようだ。
働きたいと言う者達には従来通り、靴磨きや鎧磨きの仕事も斡旋するが、最近ヤクシャス・シティでも盛んになってきたクリーニングサービスを始めた。
各家庭やホテルのランドリー、大型施設の制服関係などの大口も含め、契約して洗濯物を回収、本部にある大型自動工場で一括処理をする。
まだ可動間もないが、ピカイチの仕上がりに評判は上々のようだ。
地下にある各種職業訓練校の必須科目では、どの学部でも染み抜きの技術を学ぶ……この学び舎では、誰もが一旦はクリーニング店での実地研修を受けることになったらしい。
一度お披露目のときに多くの関係者と共に招待されて施設を見たんだが、続々と州内、州外の孤児が収容される居住区では4人部屋の男女別、各部屋には高層階まで上下水道が完備され、シャワーと何処にも無いような完璧に清潔な水洗トイレが付いていた。吃驚仰天なのが、俺もまことしやかに囁かれる眉唾話でしか聞いたことの無かったテレビって奴が各部屋に付いていたことだ。
冷暖房完備、空調にはアロマ効果と言って居住区には癒しの、教育区画には適度な緊張を施す微調香が加えられていると案内のガイド役から説明があった。
あまり目立たないをコンセプトに増設された施設は、地上20階建て、地下は何と60階まである。
あまり規模は大きくないが、闘技場や演武場が幾つかあった。練兵場じゃないので主要科目に入れてはいないが、このご時世に最低限の護身術は必要かと選択科目に得物術や格闘技を設けているとのことだった。
大浴場やトレーニングルーム、立体トラックのある体育館、ゲームセンターと称する不思議な遊戯施設、本格的な礼拝堂、図書館、医療設備、共同の洗濯室、プールまであったのには驚きだが、最後に通された理事長室ではリンダの店で一度会ったナンシーなる白衣の美人が愛想良く出迎えてくれた。
どうも話を総合すると、この見目麗しい女性は同時にあちこちに存在することさえ出来るらしいから、どれが本物って括りではないらしかった。
大いなる謎は世の中には触れてはならない部分があるとの大人の知恵を思い起こさせたが、ナンシーと名乗る謎の婦人は俺にウインクをすると気さくに再会の挨拶を交わしさえした。
一緒に居たデイジーに、鼻の下を伸ばすなと尻を抓られたが……
トニー巡査保安官は知らなかったが、ナンシーがここに居るのには訳がある。
“夜叉神の墳墓”が囚人である筈のブリュンヒルデにより完膚なきまでに粉砕されてしまった結果、ディアゴス合衆国連邦全体をカバーしていた程の広範囲出力魔族忌避粒子散布システムが死んでしまったので、新たに靴磨き会館跡地の地下深くに、同等の発生装置を敷設したのだ。
兎に角ナンシーは万能で、何でもできるしやってしまう。事実、この孤児院と職業訓練校を併設した施設を一夜にして立ち上げた。
しかし、ナンシーの創意工夫には参考が必要だった。
ヒュペリオン文明の使役獣忌避装置はナンシーには馴染みのものだったが、サー・ヘドロック・セルダンが独創的に発展させた魔獣魔族忌避システムには及ばなかった。
だが、破壊された装置の残骸からすべての原理を読み取ったナンシーは同等以上のものを組み上げることが可能だったのだ。
監視システムが必要だと思ったが、各種センサーでのモニタリング以上に確実な方法を選んだ。実体投影端末の一体を常駐させることにしたのだ。
今日はガストンとベティの兄妹が元気でやってるか様子見と慰問を兼ねて、デイジーと二人、最上階のラウンジで人を待っていた。
実はブリュンヒルデ騒動で知り合った“羞恥の魔女”ことイングリット・カッシーナと連れの“不和女神の咆哮”のサブ・リーダー、グレゴリーと約束して落ち合うことになっていた。
“不和女神の咆哮”と言えば、“夜叉神の墳墓”で発見されたチームがおかしなことになっていた。
騒動の中心地近くに居たせいなのか、リーダーのアルコックという冒険者だけ生還しなかったのだ。
あの戦女神、“3人の御使い”の中心的人物であるドロシーという存在が引き起こしたであろう大量の死亡者復活の奇跡の中で、唯一アルコックだけが復活していなかった。
善人も悪人も関係なく、一律死者の全員が復活したあの日の秘蹟に唯一人、アルコックだけが生還していない。
しかも不思議なことに生き返った他のメンバーから、アルコックというリーダーの存在が欠落していた……記憶が無いのだ。
当人達も、誰がリーダーだったか首を捻っていた。
「お待たせ、元気だった?」
イングリットとグレゴリーがやって来た。今日もイングリットはパンツ・スーツだが、何だか光沢のある生地だった。何だろう、スタイリッシュっていうのかな、なかなか洒落ていて悪く無い。
「あぁ、すこぶる快調だ、俺も一度死んだらしいんだが、生き返ったときにこいつがワーワー手放しで泣いてるもんだから、少々面食らったけどな」
「せっ、先輩、それ言わない約束じゃないですかあっ!」
本人、仕舞ったと思ったんだろうが時すでに遅い、当面弄って遊べそうだ。
「これ見てくれよ、親父の形見の銀細工のシガレットケースなんだが、あのときの地揺れの最中にうっかり握り潰しちまったんだが、新品同様だろ?」
「どういうことなんだろうな、俺が昔付けた疵とかもまっさらになってる、何か選択的な意図を感じるんだが……ドロシー様の気遣いとか」
「……アルコックだけ生き返らなかったことにも通じるのかもしれない」
紅茶をオーダーしたイングリットは、考え深げに答えた。オーダーを取りに来た丈の長いメイド服に身を包んだ従業員も銀髪に銀の瞳のシルキーで、頗る付きの美人だ。
「俺達もメンバーに面会してきたが、アルコックのことは本当に何も覚えちゃいなかった、まるで最初から存在しちゃ居なかったって言わんばかりに」
グレゴリーも何か気落ちしたように顎髭を撫で廻している。
答えの出ないまま、俺達は家政科で地味なメイド服の格好で基本所作の練習をするベティちゃんと、洗濯工場のプレス機係として働くガストンの様子を身元保証人の保護者参観という形で見て回った。
ベティちゃんはあれほど誇りにしていた“鎧磨き”より、家政婦として生きる道を選んだようだ。
一生懸命慣れないカーテシィの練習をしていた。講師の女性はやはりというか、神秘的なシルキーだったが、よく見ると多分、前に無頼漢を摘まみ出していたシルキーだ。
「とっても厳しいんだけど、とっても優しいの!」
そう言って嬉しそうに笑うベティの顔は、以前よりずっと活き活きしていた。
サーヴァントのプロになるんだと張り切って、薄いブロンドの猫っ毛を毛斯綸のモブキャップに入れ直していた。間もなく調理実習も始まるらしい。
妹との2人部屋を貰えたと喜んでいたガストンは、適性を選ぶ前に取り敢えず働くことにしたらしい。
「そうだ、今日はキキ様が慰問に来られています、僕等の命の恩人なんで会っていって貰えますか? 今は小さい子の遊戯室に居ると思います」
ガストンの勧めに従って遊戯室とやらに行ってみる。
しかし、靴磨き会館を焼き払ったのがたった8歳の女の子だとは思ってもみなかったな……
遊戯室には幼児達と戯れる女の子の他に、背が高く矢鱈と目立つ鎧姿の女が居た。怒り肩のフルプレイト・メイルで、存在感が半端じゃない。遠目だが、何か瞳の色が独特だ。
「あれがブリュンヒルデよ、ヤクシャス・シティを滅ぼし掛けた元凶……大勢の冒険者が群がろうとしてたけど、到底敵う筈もなかったわね」
素性を知っていたイングリットに教えられても、俺は絶句するしかなかった。彼女自体も生きた伝説に相対する当惑に、心の整理が追い付いていない様子だった。
小さな子を何人も抱きかかえて優し気に微笑む怪物は、ちょっと知らない者が見ればやたらガタイの良い女剣士に見えないことも……いや、やっぱり無理だな、その正体を知らなくてもこの雰囲気が空恐ろしいのは十中八九皆にも分かってしまう。
でも、何故か子供達は懐いているようだった。
「ようこそキッズルームに、きっとこちらがベティちゃんとお友達のトニーさん、デイジーさんの保安官カップルですね?」
イングリットとグレゴリーに軽く挨拶を交わした眼の光の強い女の子が、俺達が誰かを言い当てた。
こんな小さな女の子が必要なら人殺しも辞さない究極の人生を歩んでいるのは、胸が締め付けられるような気がするが……
「友達か……うん、友達なんだな」
俺とデイジーはほんの少しだけ、誇らしい気持ちになっていた。
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トニーとデイジーの保安官達と訪れた新しい“靴磨き会館”で羨ましいような厚遇に呆れて帰ったその翌日、“リンダのドルチェ”リージェント・スクエア本店に“3人の御使い”一行が訪れていた。何故かブリュンヒルデも伴われている。
昨日、ガストン君とベティちゃんの兄妹と友達なら私も友達だとばかりに、一方的に友達認定して保安官カップルを怖がらせていた。
店主に会いに来たのだが、私とグレゴリーも同席していた。
チェーン店のオーナー、リンダ・ドルリーレーンは多くの死者が復活したときに一緒に蘇生を果たしているが、少しばかり他の人々とは事情が違っていた。
嘗ての健常体と綺麗な皮膚を取り戻していた。
あぁ、この人はケロイドさえ無ければこんなにも美人なんだって、改めて思った。勿論総てドロシー様の差配だ。
そのドロシー様は、一種神懸かった存在のブリュンヒルデに謝罪を促していた。
御使い様方は、漏れ出すオーラにフィルターを掛けておられるようだった。その実力は余人には計り知れないが、他に掛け替えの無いものなのは私達にも分かる。
ブリュンヒルデ――この人も本当に女性らしいのだが、筋肉で鎧われた両肩などは伝説のアマゾネス戦士のように武張っていて、闘う女ってイメージだ。不思議な瞳の色は一瞬たりとも落ち着かず、様々に神秘的な色を湛えていた。
「サブ・ウェアにコントロール権を奪われていたとはいえ、街の破壊に素粒子砲などを使ってしまい、被害が甚大化した……誠に申し訳なかった」
そう言うとブリュンヒルデは殊勝に頭を下げた。
「いえ、私は以前に一度ブリュンヒルデ様にこの命を救われた身、どうぞお気になさらないでください」
あぁ、そう言えばそんな話だったな。
「お懐かしゅう御座います、私の顔をお忘れですか?」
「?……、あぁ、其方はあの時の……良かった、顔も綺麗に戻ったのだな、ずっと気になっていたのだ」
いきなり立ち上がられたドロシー様が、思いっきりという感じでブリュンヒルデの後頭部を平手で叩かれた。ビタアァァンンッと言う派手な音がした。
こんなに粗雑に扱って大丈夫なのだろうか?
まぁ、この人は、噂が本当なら単騎で魔王を討ち果たしてるらしいから、何があっても力で捩じ伏せることができる筈だった。
「おっ、お前、偉そうにしてないで、ちゃんと謝れよ!」
「お前はなあ、折角助けたこの人さえも、知らずに手にかけたんだよっ!」
肩を怒らせ、眦を吊り上げるドロシー様を、ステラ様達が宥めていた。
「……いや、すまない、こいつの尊大さは、これから総力を上げて矯正していく心算だから許してやって欲しい、結構世間知らずな奴なんだ」
「今日伺った本題は他でもない、上手く伝えられるか余り自信はないが、アルコックという男のことだ」
アルコックという名前が出たときに、リンダさんの肩がビクッと震えた。
アルコックは復活していない。
「実は、ブリュンヒルデの謎を追う様々なモニタリングをしていく過程で、貴女という存在を知った」
「お節介かとは思ったがアルコックの魂に問い掛けてみたんだ……貴女、リンダ・ドルリーレーンは生きてこの世にあるが遣り直す気はあるかと」
「アルコックの魂は否定した、“一度、この手で殺した女と復縁するなどあり得ない”と、“一緒に暮らせる筈もなかろう”と……あの男の魂は、なんというか、こう、無感動だった」
「このまま死なせてくれと言うので、貴女が長きにわたり悔やみ続けた月日を伝えてみたのだが、“俺のことは忘れてくれ……ただ、例え生まれ変われることがあったとしても、もう二度と巡り会いたくは無い”と言う激しい拒絶だけがあった、それ以上は私には介入出来ないと思い、男の望むままにした」
「あの男は、次に生まれてくるときは男とか女とか関係ない貝とか海星とか、そんな物が良いと言った、それだけアルコックの愛に対する絶望と不信感は深かった」
「酷なようだが、貴女の不貞を知り、貴女と決別したときにアルコックという従来の人格は永遠に失われてしまったのかもしれない、それだけ貴女が好きだったという裏返しなのだろう」
リンダさんは声も無く、手放しで滂沱の涙を流していた。
地味なブラウスの胸元が濡れて行く。
なんと言うか、痛ましいの一言に尽きた。犯した間違いは、此処まで突き放されるべきものなのだろうか? 充分に彼女は苦しんだ。
「ここまで自分の罪を悔いている貴女をなんとかして救済したかったが……」
「力至らずに申し訳なかった」
そう言ってドロシー様は深々と頭をお下げになったのだが、吃驚したことにステラ様、エリス様を初め、ご一同が揃って謝罪のお辞儀をされた。
公式の場で謝意に頭を下げる行為は、実は私達ゴゴ・ゴンドワナの文化には無い。
唯一の例外は、相手が信仰の対象である女神様の場合だけだ。
それを知ってか知らずか、このことを持ってリンダさんへの申し訳なさを推し量ると言えば語弊があるが、そう言うことだ……
お前も下げるんだよと言って、ドロシー様がブリュンヒルデの頭に手を掛けていた。
辞去の言葉と共に立ち上がられた御一行だったが、一人キキ様だけがぽつねんと座ったままテーブルを見詰めておられた。
「んっ……どうした、キキ?」
「すごく美味しいんだけど、このミルフィーユ、ちょっとだけ家のと何かが……」
キキ様が見詰めておられたのは、空になったケーキ皿だった。
「……オレンジ・リキュールだ、パイ生地は申し分ない、クリームサンドがしっとり馴染むよう計算されているし、ラム酒のコーティングも刷毛ではなく霧吹きを使う気の使いようだ」
「ただ、フィリングのカスタードにこくを出すリキュールが、この世界のものでは風味が足りない、異世界のコアントローとグランマルニエ、両方とも良質のオレンジ・ピールを使ったキュラソーだが、我が家のレシピでは、これを4対3で加える」
「貴女の菓子作りの才能は捨て難いものがある、どうだろう、貴女さえよければこの2種類のオレンジ・キュラソーを恒久的に支給したいと思うが、構わないだろうか?」
リンダ・ドルリーレーンは、心にぽっかり穴が開いたようになっていたが、それでも話題が菓子作りになれば気を取り直すことができたようだ。
有難く使わせて頂きたいと、申し出た。
「生きるために生きるってのと、何の為に生きるのかって言うのは根本から違う、それはあたし達も承知している……嘗て幼馴染みを裏切ってしまったあたし達は今も贖罪の旅の途中だ」
「でも、これだけ美味い菓子が作れる貴女なら、これからもきっと生きていける、そう思うんだ……」
「生きて……生きてください」
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リンダ・ドルリーレーンは、顔を合わせて謝罪することもないままにアルコックという伴侶を名実共に永遠に失い、思い出にミルフィーユだけが残った。彼女の倹しい生活はこれからも続くのだろう。先のことは分からないが、幾ら彼女の顔が昔のように綺麗になっても、新しい恋に踏み出すことはもしかしたら生涯無いのかもしれない。
そんな様子だった。
ただ、ドロシー様方の勧めがあり、旧靴磨き会館施設の製菓部で、講師として週一で教えることになったそうだ。
姉のジルド・エッファンバッハに暇を告げると、何故か色々と餞別を呉れたがった。良く分からない姉だ。
私とグレゴリーも一旦、ピューリンゲン・ノローナへ戻ることにした。
“3人の御使い”様を追うにしても、一度身辺整理が必要だと思ったのだ。
特にアルコックが消失して、アルコックの存在自体を記憶していない“不和女神の咆哮”をどうしたものか、頭が痛かった。
「ねぇ、あのとき言ったこと、もう一度言ってよ、なんだっけ? 道端の石ころがどうのって話」
今迄の私は人を好きになることばかりに翻弄され、愛されることの心地良さをすっかり忘れていたのかもしれなかった。
「……あんときゃあ、このまま死ぬと思ってたからな」
顎髭を撫で廻すグレゴリーは、何処かバツが悪そうだ。
「いいからっ!」
「ふんっ、俺は、心の底から……表も裏も無く、あのとき鼻水まみれだったお前と、お前のズロースを嘘偽り無く愛しているよっ」
私の放ったコークスクリューパンチは、グレゴリーの顔面にヒットして、ひしゃげる鼻柱から血飛沫をプッと舞い上げた。
ゆっくり仰向けに倒れていくグレゴリーは、幸せそうにニヤついていた。
長い物語の解決編は如何でしたでしょうか? 充分に描ききれていない部分は、また後日談として盛り込むかもしれません
過去と現在、各キャラクターが何を感じ、どう行動するか不自然さを排除してリアルに傾注したつもりです
イコール、アダルティな部分もいつも以上に頑張っちゃいましたがガイドラインに引っ掛からないか心配です
一度警告を頂いた時は、どこの表現がまずいのか必死で見直しました……あの作業は大変でした
エナン=服飾史に登場するのは1430年から特に1450年以降で、円錐の先が尖っているものもあれば先が切り取られたように平たい形もあった
はじめは貴族の子女だけのものだったが、次第に普及し、特に帽子の先が平らな切形は一般に広まった
ミルフィーユ=フランス語で mille は「千」、feuille は「葉」を意味しており、一般的にmille-feuilleは「千枚の葉」という意味だと理解されている
四角く広げた小麦粉生地に平らにしたバターを乗せ、何回も折りたたんで作るもので、折りたたむ工程を重ねるほど層が増し、パリパリとした食感になっていく
工程を5回繰り返し729層となったものや、6回繰り返し2187層になったものが主に用いられており、偉大なる古典と言われる菓子であり1807年にはフランスの『食通年鑑』(Almanach des Gourmands)の食味鑑定委員会がミルフィーユを鑑定している
コークスクリュー・ブロー=パンチが当る瞬間に肩、肘、手首を連動させて内側に捻り込むことで、相手に与えるダメージの増大を図る
名前の由来はワインの栓を抜く道具のコルク抜きからである
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