37.護法夜叉神は眠りたい〈side:A〉
俺達のチーム、“ドルリーレーン遊撃隊”の花形剣士が急に抜けたいと言う。
チームの名称になってるドルリーレーンは、リーダーの幼馴染みで将来一緒になるって手を取り合い故郷を後にした、そう公言して憚らないリーダーの女にしてチームの主要戦力、リンダ・ドルリーレーンから取ったんだそうだ(まんまじゃねえか)。
まだ2年も経ってないってのに、メンバーが露頭に迷っちまう……そんなふうに軽く考えていられたのは、最初だけだった。
「いい加減にしてくれよ、デイジー、証人喚問で俺はこれから連邦裁判所に出頭しなきゃならないんだ」
「だって、トニーってばこの間もデートすっぽかしたばかりじゃない!」
「あれは、亜人達の貧民街で暴動が散発するのに、急に召集が掛かったんだから仕方ないじゃないか、連邦合衆国の司法機関は夜も眠らない不夜城なのはお前も知ってる筈だろっ!」
「……トニーがあたしの下着の匂いを嗅ぎながら、逝っちゃうのバラしちゃうわよ!」
「おいっ、声がでかいって!」
食料品も売る雑貨屋で、若いカップルの会話をそれとなく聞いていたんだけど、何か似たような性癖の人っているもんだって、ぼんやり考えていた。
自分のズロースの匂いを嗅がれたり、ペニスを扱くのに使われるのは気色悪いと思わないのだろうか? 付き合ってると、そういうのも平気になるのかな?
別に化粧品にこだわりは無いが丁度乳液を切らしてしまったので、旅先で補充しようと思って入った店だった。流石に都会は何でも気軽に入手し易い。
私は、隣でサングラスを物色しているグレゴリーを見やった。
決して悪い奴じゃない。同じチームで高難易度クエストや危険度Sのダンジョン攻略に奔走している頃、互いに背中を預け合った仲だ。
他人に生殺与奪を預け合い、死線を越えてきた。恋人でもないし、肉体関係でさえ一度すらも無いけれど、もう伴侶以上に気心は知れている。
だが、ハッキリ言ってグレゴリーが私のズロースの匂いを嗅いでるのを想像すると未だに虫唾が走るのは、世間一般には生理的に正常な反応だと思いたい。
グレゴリーに求婚されたときに手酷く振った代償に、せめて想いを遂げさせろと迫られたが、拒否ってしまった。
これ以上グレゴリーに心を許したら、失ったときに立ち直れなくなる。積極的に抱けよ、とは言えない。
ちょっと男性不振気味だった私を支えてくれた大切な恩人だ。
“安心しろ、お前以外の男に身体を開くことはあり得ない”と、心の中で思っても、不器用な私は言葉で伝えられる筈もない。
そんな私の想いを知ってか知らずか、この変態野郎は私の下着を無断で拝借していくようになる。
戦場に赴く兵士が好きな女の陰毛をお守りとして携帯するって慣習はよく聞くが、それとこれとでは話が違う。
純粋と言えるかどうかは微妙なところだが、こいつが私を好いていてくれるのはまず間違いないところだろう。
間違いはないのだが、プライベート結界を打ち破る私の能力と空間遠視スキルを知っている筈なのに、平気で私のズロースを顔に被ってニタニタしてるところを見て、声にならない悲鳴を上げて、ゾゾっと鳥肌立った私の衝撃は軽くトラウマになったと告げても、こいつは下着泥棒を止めようとはしない。
こいつの名誉のために言っておくが、決して悪い奴じゃない。
悪い奴じゃないのだが……
「ぃってぇ、何すんだよ!」
急に憎たらしくなった私は、渾身の左フックをグレゴリーの顎先に放った。
避けようと思えば余裕で避けられるのに、わざと受けてみせるのも気に喰わない。煩悩まみれのこの最低のお下劣野郎が、完全な事故物件じゃなくて何だというのだ!
理不尽な一撃に顎をさするグレゴリーを無視して、店を出ていくカップルを目で追っていた。軽鎧に長靴、衝角付きの儀仗兵のようなピカピカの鉄兜……揃いの制服はおそらく、連邦保安官だ。
経験則から知っているが、気の毒なことに思った以上に職場恋愛はすれ違いが多い。二人の将来は前途多難かな?
ブリュンヒルデの噂を追って、夜叉神峠という懸崖があったとされるディアゴス合衆国連邦にやってきた。
「グレゴリーさぁ、暢気にあたしに付き合ってていいの? チームでの居場所が無くなるよ」
「リーダーがいりゃあ、俺の出番は無いさ……」
「そういう問題じゃなくてさ……アルコックは相変わらず?」
「……気になるのか?」
「前にも言った筈だけど、アルコックとのことはとうに振り切れてるよ」
アルコックってのは私の職場恋愛の相手、“不破女神の咆哮”でリーダーをしている英雄スキル、剣帝スキル持ちの美丈夫で、元カレだ。
ステロタイプの美男で、それ故に当時の私は惹かれていた。
私が望んで男と女になったが、付き合う内に過去が気になって冒険者家業を始めるときに己れに科した唯一の禁則、“仲間内の過去は暴かない”を破ってアルコックの過去を覗いてしまった。
それ以来、疎遠になって自然消滅……今となっては、男は外見じゃないという人生訓に払った高い授業料になった。
辛いのは嫌だとか、出来れば通過儀礼は避けて通りたいとか、漠然とした忌避感が如何に子供染みたものだったか、授業料を支払うことになった。
好きになった男はろくでなしで、好かれる男は変態だった。私の男運の無さは、いつから筋金入りになったんだろう?
「アルコック達も今、ヤクシャス・シティに来てるぜ」
「えっ、本当? あまり、顔合わせたくないなぁ……」
自分がもと居たパーティと顔を合わせたくないのには、ちょっとした訳がある。無事円満退職という訳にはいかなかったからだ。
ヤクシャス・シティは、広大なディアゴス合衆国連邦の経済と行政の中心地、キューブリック州の州都だった。経済特区として様々な税制優遇措置がある。
もともと有力な貴族も豪族も居座らない未開の地、開拓者達が開墾した新天地から傀儡政権、長い搾取時代を経て、独立政権を勝ち取った。
ここジェネレーター・パークでは、巨大な火力発電所が建設中だったが、国立公園にも匹敵する広い敷地の鬱蒼たる杜に面して、高級アパルトマンが林立していた。自由経済の成功者達が住まい、夜毎、ボランティアやチャリティーと称して慈善パーティが開かれていた。
特権階級富裕層の偽善に過ぎなかったが、それは彼等、彼女等の権利だった。
ガス灯に代わって、ここディアゴスでは電灯とかいうものが実用化されつつあった。街燈の明るさ、建物の窓から漏れる灯かりは他では見れない程の眩しさだった。文明って、もしかすると魔法よりすごいかもしれない。
高級住宅街に煤煙が舞い散る煙突が林立する景色は、ディアゴスが未だ発展途上の新興勢力なのを示している。
何故か、夜叉神の加護があるのかは分からなかったが、魔族や魔物が寄り付かない土地柄だった。
何しろ魔物が跋扈しないというだけで、独立戦争では植民地化しようとする大国が三つ巴、四つ巴になって、血で血を洗う悲惨な騒ぎになったのも無理からぬ優良な買い得物件だ。
何が何でも、金の生る樹の収入源を確保しておきたい各国の思惑が錯綜した結果だった。
自由共和制を標榜する政府の旗印に、王国や帝国の身分差別社会を嫌った者達が大挙して移り住んだ。
移民達の受け入れは、今も続いている。お蔭で貧富の差は激しく、治安は最悪だ。ディアゴス連邦政府は強力な司法機関を欲していた。
58州全てを横断する連邦保安組織、執行部隊と特殊作戦群をも抱え込んだ攻勢公安機関、アルティメット・コンスタブル……UCが創設されてから、犯罪組織は目に見えて解体されていった。
少なくとも大手を振った我が物顔の犯罪者は、鳴りをひそめた。
防犯保安官も捜査員も末端の構成員に至るまで、ショットガンを携行している真正の制圧組織だった。さっきの男女二人連れがそうだったが、夜も昼も無い激務という噂は本当だったようだ。
魔術をもよく熟し、独特の高速格闘術、デフェンディング・パンツァーが伝統的に受け継がれている。
「あまり兄上の伝手は頼りたくないが、取り敢えずガルガハイムの大使館とやらへ行ってみるか?」
何処から漏れたのか(決して私ではないと誓って言えるが)、“3人の御使い”達がブリュンヒルデを探している、と言う話。そして有力な手掛かりとして、今は無くなってしまった山容……夜叉神峠にそれは眠っているらしい、との噂。
たったそれだけの情報だが、冒険者業界の多くを巻き込み席巻するには充分だった。
冒険者という生き物は一天地六、賭け事のような話に誘蛾灯のように引き寄せられる。統括する機関もそれに引き摺られる。
ゴゴ・ゴンドワナ大陸中の名だたる冒険者ギルド組合が、一斉にミッションを発令したのは誰かの策謀染みていたが、誰が裏で糸を引いているのかはまだ情報不足だった。
ミッションは全て右に倣うようにただ一言、“ブリュンヒルデを探せ”、と言うものだった。
ミッションを受けられるのは、ミスリル・クラス、Aランク以上の上級冒険者に限られる。成功すれば報酬は思いのまま、ギルド審議を経ずして昇級もできる。
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「さっきのドラッグ・ファーマシーに居た二人組、ピューリンゲンのSクラス冒険者だと思う」
「ほんとか、デイジー?」
「私が郡政府の治安調査部に居たのは知ってるでしょ、各国の冒険者事情の収集調査と、その脅威度評価をしてたことがあるのよっ」
「でね、五分刈りで無精髭の渋いのが“不破女神の咆哮”ってチームでサブ・リーダーをしてるグレゴリー・ディクスン、確かゼロ何とかって呼ばれて恐れられている」
「ゴージャス系のパンツスーツの女はイングリット、今は引退して情報屋みたいなことをしてるけど、“羞恥の魔女”って言えば、他人の因縁や宿業、恥部である秘密や負い目、過去の悪行をほじくり返すことに関しては並ぶ者が居ないとまで知れ渡った逸材で、同じチームだった筈……守ってよし、撹乱してよしの万能型後衛職よ」
「例のブリュンヒルデ絡みだと思うか?」
「間違いないでしょっ、任意同行で引っ張ってみる?」
「お前のいう通りなら相手が相手だからなぁ、ちょっと職務質問するにしても様子見ようか? 裁判所の出頭命令にはまだ時間あるし」
ブリュンヒルデの案件は、局内でも最優先事項だった。
毎朝の朝礼でも、何某かの関連した動きが報告されるが、肝心要の正体や埋蔵場所の情報は皆無だった。
中央連邦情報局も動いているらしく、もしかすると重要機密事項なのかもしれない。
地質学者の言うことには、ヤクシャス・シティのあるキューブリック州全体が、キューブリック高地というテーブル・マウンテンだったらしい。
その中の一際急峻な峯に至る峠道に、今は跡形も無い夜叉神峠があったという話だ。現在ではその名称だけが引き継がれ、一部の土地の名前に見られるだけだ。
大体、ブリュンヒルデというのが何者なのかも末端の俺達には知る由も無かったが、大昔のバルキリーの女王だという。
眠っているのか、朽ちた木乃伊なのかは俺達には知らされていなかった。
重要なのは、その在処を巡って各国の上級冒険者達が鎬を削るために、俺達のディアゴス合衆国、それも主にヤクシャス・シティに大挙して雪崩れ込んできていることだ。
おまけに元々巣食った地下犯罪組織のノースサイド・ファミリーが迎合して不穏な動きを見せ始めている。水面下での策動を旨とする奴等が、ここまではっきりと恣意行為をするのは余程のことだ。
気取られないよう、距離を取って店から出てきた対象の二人組を尾行する。デイジーとのパトロール任務も3年目にして、良く息が合ってきた。
普通、局内恋愛は禁止こそされていなかったが、あまり推奨もされていない。任務に支障をきたす場合があるからだ。
だが、都会に暮らすのに何処か田舎臭いデイジーは、俺の好み、ド直球だった。麦の穂のような髪の毛も、健康的な雀斑が浮く頬っぺたも、何もかもが愛らしい。
相棒とは分かっていても、つい手を出してしまった。
「先輩、近づき過ぎっ」
小声で注意されても、角を曲がる尾行対象が見切れるとつい焦ってしまう。
新人教育の頃に、俺が散々パラこいつに注意したのにな……
「何か御用ですか?」
やっちまったっ!
曲がった先に、栗毛をアップにしたスレンダー美人が細面を無表情にして、静かに佇んでいた。完全に気付かれていたってことだ。
「……いやあ、最近冒険者の方が、ヤクシャス・シティに滞在することが多くてね、役目柄ちょっと気になって後を付けてしまった、俺達は連邦保安官だ、こっちはデイジー、俺はトニー」
バッジ代わりの肩の肩章を示す。同時に油断なく、腰のホルスターに手を掛ける。抜き易く切り詰めた短銃の銃把を握るのは威嚇のためじゃない。安全確保の第一初動だ。
「知ってます……デイジーさんのズロースの匂いが好きなんですよね?」
「なっ、なっ、なっ、何言ってるのかな……そうか“羞恥の魔女”の力か?」
「はぁっ? さっき雑貨屋で話してたじゃないですか?」
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ビビアンが直接、婚礼の招待状を渡しに突然やってきたときは本当に吃驚した。
自分の不心得と失敗で、大変心を痛めたであろう……にもかかわらず、見捨てずに心遣いを頂いた無二の幼馴染に、詫びに来たのだという。
願いが聞き届けられた以上、どんな形にせよ必ず決着は付くと思ったが、均整のとれた目鼻立ちは幼い頃の面影そのままに、しっかりした意思を思わせる顔のビビアンが、付き人や監督目付け役の婦人に伴われているにも関わらず、私の前に進み出ると跪いて、額を床に擦り付けるほどに頭を下げた。
心配を掛けて申し訳なかった。世間知らずで、無知蒙昧な自分は心無い男に迷い、犯した罪を断罪されるところであった。
いや、罪を償うのはこれからで、きたならしく汚れてしまった自分だけれども、これから生涯を掛けて旦那様には誠心誠意お仕えしていく心算だ。
例え罪をお許し頂けなくても、小間使い、奴隷でもいいからお側に置いて頂きたいと思っている。
そう言ってビビアンは、ぽろぽろと涙しながら私に詫びた。
「そんなに、自分を卑下しなくてもいいよ……こう言っちゃなんだけど、お幸せにね」
貰い泣きする私をじっと見つめて、自分には幸せになる権利は無いけれど、親身に心配してくれた大切な幼馴染の貴女が言うのだから、幸せになる努力をしてみると言った。
「あの方が、そうでした……口では酷く無慈悲なことをおっしゃるのですが、目許に湛えた涙を見て、初めてわたくしのことを真剣に考えて下さってるのが分かりました」
そう言い残して、ビビアンは辞していった。
意外だった。
あの傍若無人に見える、荒ぶる戦女神……破壊神、ブッチャー、戦場を駆け抜ける死神、九死に一生の狂戦士、そして血塗られた“一心不乱の阿修羅”、色々と言われているが、いずれにしても血も涙も無い冷血漢、変温動物に近いかと思っていたが、どうやら認識を改める必要がありそうだった。
本気で私を豚にする心算だっただろう、あのドロシー様が涙を湛えていたと言うのか?
初めて会ったとき、全てを見抜くと己惚れていた透徹のスキルを見事に欺かれ、その突き抜けた認識阻害力に恐怖した。
そして平素の状態で溢れでる神々しくも眩し過ぎるオーラに包まれた、この世のものとも思えない美しさ、怖いまでの実直で脇目を振らぬひた向きさに畏れおののいた。
知りたいと思った。知りたいと思う欲求は、私が“羞恥の魔女”と呼ばれる所以……私という人間の根幹を成すものだ。
知りたがりの私は、私固有のこの力に目覚め、使いこなせるようになる迄よく兄上達を煩わせたものだ。
今まで眉唾だと思っていたが、その真価を知った今なら、もっと真剣な視点で調べられるかと思い、色々と調べて回った。
神出鬼没の魔法の宿屋、“ホテル・ナンシー”は、利用した者達を探し出して直接、話を訊くことができた。この幻の宿泊施設が、ドロシー様方の運営になることは情報通の間では周知の事実だ。
その者達はロロタビア地方で行商人をしていたが、たまたま立ち寄ったパレルモ・ゾゾズーマ教皇国はブールボワィアン大聖教の終焉に巻き込まれた。
例のヘヘブンズ・シャングリラが神の怒りに触れて封滅された、“シナゴーグ・アサシンの墓標”として知られる一件だ。
無関係な者として、退去することを許された一団に混ざり砂漠の中の街道を行くとそんなものが今迄あった筈はないのに、忽然と聳えていたのがオアシスに囲まれたホテル・ナンシーだった。
商いの道具も売り物も全て置いてきてしまったので途方に暮れていたが、不思議なホテルのスタッフは、特別感謝サービスと称して無料宿泊客を次々と受け入れていたらしい。
滅びる都を追い立てられた連中の、救済措置なのは明白だった。
建物の中は夢の世界だった。何処の王侯貴族の御殿よりも、煌びやかな装飾と清潔な雰囲気に満たされていた。
見たことも無いトイレ、バス、聞いたことも無いベッドに、行き届いた魔法のようなサービス、テレビという娯楽とも情報サービスとも付かない多機能なコンテンツを誇る映像装置……下の階は、豪勢な商店街で、これまた見たことも聞いたことも無い食べ物屋が軒を連ねていた。
「イールをライスの上に載せる食べ物が絶品でしたっ、イールと言えば私共の知ってるのは、ぶつ切りにしたワイン煮か、燻製をパンに挟んだもの位……天と地ほど違う味わいなのは、食べてみないと分かりません!」
その他にも異国情緒溢れる、いや話を訊く限りでは異世界のものかもしれない食堂、食べ物屋が目白押しで、一週間近く滞在しても毎食違う店を訪れて尚、物珍しく飽きることを知らなかったという。
一方、商人にとっては仕入れに事欠かない珍しい、しかも高品質な服飾店、雑貨店、宝飾品店、玩具店、美麗なボトルで売るリカーショップ等がこれでもかと門戸を開いていた。
スペシャル謝恩セールと銘打って、特別に掛け売りをしてくれた。魔術ではないが、何か特別な制約力のあるという契約書にサインをすれば、全て無料で仕入れられた。
大量に買い込むとサービスに買い物袋と称して、マジックバッグまで付いてきたらしい。
売り上げの一割を還付するという破格の契約で、後日の商売の日々で毎月晦日に売り上げの正確な一割の貨幣が銭函から消えていた。
どうやって回収しているのかは、見当もつかない。気が付くと晦日の翌朝には無くなっている……とのことだった。
まだ売れ残っていた仕入れ商品の一部を見せて貰ったが、中では女性用下着の薄い布地が薄羽蜉蝣のような繊細なレースに縁取られているのが素敵で、普段穿きのズロースしか知らない身には猫に小判みたいだが喉から手がでる程に欲しかった。
欲しかったのだが、折角の勝負下着もグレゴリーの手に落ちるかと思って泣く泣く断念した。
有難いことに失った商売の元手は、こうして瞬く間に取り返すことができたし、前より羽振りが良くなったぐらいだったらしい。
不思議なことに離散も同様に逃げ出したときに逸れた仲間も、同様にホテル・ナンシーに保護されていた。まったく別方向に逃げ出したにもかかわらずだ。
考え難いことだが、別々のホテル・ナンシーが同時に数ヶ所に出現していたと思われた。
ホテルには武具屋もあったが、武具、防具、ポーション類に関しては個人使用以外は厳重に、購入に制限があったようだ。
陳列されているのは目利きでなくても、大業物は言うに及ばず、神剣、魔剣、聖剣の類と分かるし、一目で高性能と分かる重火器ですら取り扱っていたが、驚くほど安い価格設定なのに、売る相手は選んでいるように見受けられたらしい。
どういう規定があるのかは分からなかったが、軍隊関係の人物が大量に仕入れようと店側と交渉していたら丁重に、というかどう見ても慇懃無礼に別室に案内されていたのを目撃した……とのことだった。
「その、不思議な素材の防具を見せて貰ってもいいですか?」
最初から気になっていたのが、相手の身に着けている艶々の質感が綺麗な白い肩当と胸当、脛当て、ガントレットからなる防具だった。
外してくれた、本当に吃驚するほど軽いそれらを指でなぞる。
私には物の記憶を読み取る特殊なスキルがあったが、このギアは製造過程も来歴も何らかの方法できれいさっぱり、見事なまでに消去されていた。こんなことは初めてだった。
引っ繰り返した裏側に小さな刻印を発見する。半分以上意味は分からなかったが“超甲殻圧縮セラミック、反変化コーティング済みメンテナンスフリー”とある。
思い出したように商人が取り出して見せるのは、一部の美麗な新聞だった。
報道らしき内容だったから新聞と気付いたが、そうでなかったら分からなかったかもしれない。それほどその新聞は、私の知ってる新聞と懸け離れていた。
カラーで刷られた紙面は、数ヶ月前のものなのに全然痛んだ様子も無かった。
“デイリー・ツーリスト”と名の付いた新聞は、ホテル・ナンシーで毎日支給されていたらしい。
毎朝、部屋に届けられる分の新聞には“アイロン掛け済み”のシールが貼られていたそうだ。
経済紙面では投資穀物の相場や船会社の動向、銀行為替の信用度調査、冒険者用のトピックス欄では各地域別の高ランク・クエストの紹介もあり、社会面では大帝国や王国の世襲模様や各国の異国情緒溢れる行事等のニュースも出ていた。
が、この時の報道のメインはシナゴーグ夜宴教の実態の仔細な解説と、粛清された者の生い立ちと犯した罪が羅列されたものだ。
教団の闇司祭や闇修道士達、首魁とされた者達は顔写真付きで大きく、都の住人で教団の恩恵に肖った、あるいは夜宴に参加し宗旨替えに神を売った者共は小さくだが、一人残さず網羅されているらしかった。
読めば読むほど、この猟奇集団の罪深さは胸糞が悪くなるものだったが、おそらく真実なのだろう内容はどうやって暴かれたのか……神の御業と言って仕舞えばそれまでだが、これだけの情報の収集力は驚嘆に値した。
最後に、商人の了解を得て(何某かの金子を払ったが)、彼の体験した過去のイメージ、大量誅殺のときの記憶を読ませて貰った。
太陽を遮り天から降りてくる巨大な船……軍艦か?
それは途轍もない大きさで、黄金、いやプラチナ色に輝いていた。
途方も無い大きさは、軽くへヘブンズ・シャングリラを凌駕していると思われた。
何だこれは? 噂にも聞いたことが無い怪異も怪異、この世のものとも思われぬ更なる怪奇現象かと思われたが、船の船首像らしき、これまた巨大な神像はドロシー様の御姿をしていた。
これは現実にあったことなのか?
何か悪い夢を見ているような気がした。
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「“3人の御使い”ってすげえなぁ、まだ署内じゃ情報開示してないのかもしれないが、話が本当なら人類未踏の神の領域に達しているってことだろっ!」
「想像を絶するよなっ、ぶっ飛び過ぎだろ!」
「トニー先輩、君子危うきに近寄らず、ですよ……私等にどうこうできる相手じゃありません」
「そりゃあ、そうだけどさ、ヤクシャス・シティの治安を預かる俺達も、いざというときの覚悟がだな……」
顔見知りのパトロール保安官、トニーとデイジーの巡回警邏は一定の時間が決まってる訳じゃないみたいだけど、見てると二日に一度は僕等が“鎧磨き”の店開きをしてるリージェント・アベニューを通り掛かる。
甲冑装備の兵隊さん達、特に保安官さんや陸軍の士官候補生の皆さん等は足許が革の長靴ということもあり、ニッケルクロム鍍金の兜も含めピカピカにしておきたがるので、僕達“鎧磨き”には恰好のお客さんだった。
話しながら前を差し掛かる馴染みのお得意さん達に、声を掛ける。
「トニーの兄さん、今日は磨いてかないんですか?」
「あぁ、悪いなガストン、もう出廷の時間が迫って……あれ、今日はベティちゃんは居ないのかい?」
「妹は、昨日から風邪で寝込んでて……」
「……そりゃあ大変だな、これで何か精の付くものでも食べさせてやってくれ、沢山出せなくて申し訳ないが」
「あとこれ、“リンダのドルチェ”で買ってきたミルフィーユだ、よかったら貰ってくれ」
言うとトニーのお兄さんは、ディナリー銀貨を3枚と持ち帰りの紙箱を渡してくる。
相変わらずお人好しの慈善家だった。
保安官のお給金だって、そんなに多くはない筈なのに……僕達兄妹が曲がりなりにも生きていけるのは、きっとこの人のお蔭かもしれない。
「いつも、すいません、妹に卵でも買って帰ります!」
深々と一度頭を下げて、摩天楼の一画、クライスラーモハマド・ビルの袂に広げた“鎧磨き”の商売道具を早速片付け始める。
「卵なら、格子縞マーケットで烏骨鶏の良いのがあったよ」
デイジーのお姉さんもいつものように、何くれとなく親切にしてくれる。
本当に善い人達だ。
ひょっとすると二人は付き合ってるのかもしれないけれど、僕はデイジーお姉さんのニカっと歯を剝き出しにして笑う向日葵のような笑顔が大好きだった。
「それとこれ、解熱剤ね、良く効くよ」
「おいおい、何でそんなに用意がいいんだ?」
「いい女は、用意がいいものなのよ」
手を挙げ立ち去って行く二人に、僕はもう一度心を込めて感謝のお辞儀をした。
さぁ、さっさと店仕舞いして、一人寂しく組合内に割り当てられた共同部屋の寝台に臥せっているだろう、大切な妹の許に早く帰ろう。
組合の幹部連達は、妹を邪険に扱ったりしていないだろうか?
心配だ……元々市民権を持たない僕達兄妹は、孤児院に保護して貰う権利も無くて、2、3年前に流れ着いたヤクシャス・シティで靴磨きや鎧磨きの真似事を始めたんだけど、組合に加盟しないと駄目だって無理矢理ここの蛸部屋に連れて来られた。
以来、組合に売上げの何パーセントかだけど上納金を納めている。
寝床を与えられるのは有難いけど、意地悪な先輩方と一緒の大部屋なのは結構辛かったりする。
まぁ、年齢的にも不法労働なんで文句も言えない。
組合に加盟さえしていれば、指導者の下の徒弟制度と認められるので検挙されることはないからだ。
諸先輩方の中には、刀剣砥ぎ師や防具の鋳掛け修繕師の技術を持っている者も居るんだけど、この技術は生半なことでは身に付きそうもなかった。
もう日暮れ時だったけど、デイジーお姉さんに教わった通り州営市場で烏骨鶏の卵を買って帰ると、“シューシャイン組合”のビルが燃えていた。
「ベティイイイ!」
僕は荷物を投げ出して、駆け出していた。
何だ? 燃え盛る建物から、大きな魔物か妖物か分からないものが何体も飛び出してきた。よく見ると背に、まだ幼い靴磨きの仲間の子供達が乗っかっている。ディアゴスではあまりというか、滅多に妖魔は見ないので吃驚した。
古代装飾の列柱に囲まれたピロティに、組合幹部達が這う這うの体で転げるように逃げ惑っていた。何が起こっているのか分からなくておろおろしていると、突然凛とした声が響き渡った。
「子供を搾取する大人は善人かな、悪人かな?」
そう問い質す小さな黒い影が、噴き上がる炎を背に立っていた。
「お前達が地下犯罪組織ノースサイド・ファミリーとやらの下部組織で、靴磨き組合が隠れ蓑なのは割れている」
「本部の幹部に繋いで貰いたいと思ったが、お前達が本部の場所さえ知らない下っ端だったのは、当てが外れた」
小さな影が話し掛けているのは、大きな図体を丸めて蹲った組合長だった。
「生かしておいても改心する筈のない小悪党にも、生き残る権利はあると思うか?」
「お前は、州政府の福祉事務所と結託して散々助成金を騙し取ってきた筈だ」
右左どちらの手か影になって分からなかったが、突き出された手には拳銃みたいなものが握られていた。
最初は気が付かなかったけど、糾弾している声は聞き間違いじゃないと思うけど小さい女の子の声に聞こえた。
ゴゥゴゥと燃え盛る激しく大きな音の畝りの中で、一際甲高い轟音が響き渡った。
額を撃ち抜かれた組合長が、その大きな身体でもんどりうって仰向けに倒れていった。
「怖い思いをさせてご免ね、もう終わったから大丈夫だよ」
小さな影は腕の中に話し掛けるようにした。
よく見ると自分より大きい誰かをかかえているようだ。
何とも言えぬ予感と焦燥感に、僕は近付いた。
「ベティッ!」
妹だった。妹を抱きかかえているのは、10歳の妹よりも更に小さい女の子だった。
「お兄さんかな? 目許がよく似ている」
「この子はかなり危険な状態だった、マルセル……こっちのお姉さんが癒しの波動で回復したので少しは楽になってる筈だけど」
「慢性的な栄養失調かな、成長期に多い小児急性リンパ節症候群だけど感染症を併発しかかっていた、連れて帰ってちゃんと治療する」
小さな女の子の言ってることはよく意味が分からなかったけど、妹を助けてくれるってことでいいのかな?
巡礼者がよく着る白いマントを靡かせた女の子は、編み込んだアッシュブロンドの髪と意思の強そうなブルーの瞳をしていた。同年代やそれ以下の女性に疎い僕から見ても、相当に可愛かった。
「キキ様、人を殺めるのは私共にお任せくだされば宜しかったのではないですか?」
「魔物や怪物を斃して無双していても意味は無いよ、目的の為には人をも殺す覚悟なら……あたしにもある」
「もしかしたら、お母さん達には時間がないかもしれない、ドロシー母さんに並び立つまで、あたしは最速で駆け上がる」
付き従うようにして教会の聖騎士に似た服装の女の人が二人居た。
短い黒髪の人との遣り取りを聞いている限り、この小さな女の子が僕などには想像もつかない修羅の世界を生きているように思われた。
“スキッドブラドニール”の医務局とやらへ行くので付いてきて欲しいって言うので、一緒に行くことにする。
ベティは小さな女の子の腕の中で目を瞑っていた。眠っているかどうかも分からなかったが、焼けてしまったかもしれないが組合に置いてきた妹の着替えが気になった。
「必要なものは全て支給する、心配することは何もない」
えっ、僕、今何も喋ってないよね? 心が読めるのかな?
それにしても大人の人が居るのに、何でベティはこの小さな女の子が運んでるのかな?
「キキ様の膂力は正しく千人力、私共が束になっても到底敵うものではありません」
えっ、このお姉さん達も僕の考えてることが分かるの!
「気分を害されたら申し訳ありません、ストレンジャーに対する安全対策ですので、お許しください」
髪の短い人の方に、最初に答えた細い紐状に髪を編み込んだ人に代わって謝罪されてしまう。
どう答えていいか分からなくて、しどろもどろに変なことを言ったみたいだけど、よく覚えていない。
助け出した未成年者達は、女の子の眷属の従魔達が隣の州の信用できる児童保護施設に送り届けてくれるらしい。ヤクシャス・シティの孤児収容施設は、極右組織とやらと癒着してるので駄目だそうだ。
隣の州まではかなりの距離があると思ったけど、さっきちらっと見ただけだった怪物達なら、ものの2、3時間で付いてしまうらしい。
「お母さん達の従魔が卵を産むようになって良かった、あたしは魔術の初心者だから契約従魔を従えるのは、魔力を練るいい鍛錬になってる……」
「どうしてエリス様の従魔にされたのですか?」
「ドロシー母さんのは、どれも強力過ぎて、あたしには制御し切れない……まだまだ力不足」
「それにエリス母さんのは、探索、斥候、隠密潜入と使い勝手がいい、今のあたしが学ぶのはテクニックだと思っている」
話しながらトボトボとアウグストス高架橋の歩道橋渡り口までやってきた。
確か、下のクローバー公園まで40メートルぐらいある筈だ。
そこで僕は見た。
ぱっくり割れた月の綺麗な夜空を背景に、悠然と姿を現す魔快速帆船“スキッドブラドニール”の度肝を抜くような威容と雄姿に、僕は言葉も無く目を瞠った。
あっちの仮想空間を跨いで、こっちの現実空間にやって来たのだと言う。
その帆に描かれた見事な紋章は、後で詳しく訊いたらエスカッシャンにアクセサリーを配した、竜とケルベロスと盾と乙女が意匠になっていると言うことだった。
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「昨日のねえちゃんのオッパイ、堪んなかったよなっ!」
S級冒険者チーム“不破女神の咆哮”の主力メンバーは、昨晩の内にディアゴス合衆国連邦は華の都、ヤクシャス・シティに入った。
昨晩は久々に、ここでしか味わえない特殊風俗の店でドンチャン騒ぎだ。
サブ・リーダーのグレゴリー兄貴を欠いて、今一盛り上がらなかったが、それでも流石ヤクシャス・シティ、綺麗処のねえちゃんに囲まれてウハウハだった。
葉巻を咥えて踏ん反り返り、わざと破落戸のように振舞うのが、俺達のいつもの息抜きのスタイルだ。
グレゴリー副長は、ここのところどうもチームと別行動を取りたがる。
今回も以前に依願退職していった“羞恥の魔女”、イングリットとつるんで何かの調査をするって、行っちまった。
団は隊長のアルコックよりも、グレゴリーの人望で纏まってるようなところがある。あまり留守にして欲しくはねえが、ここぞって時に頼りになるチームの看板なんで誰も文句が言えない。
何はともあれ、ヤクシャスに来たら朝飯はステーキハウスだ。
血の滴るティーボーン・ステーキやサーロインを、好みのソースで食える。
付け合わせのガンボ・スープも美味い。
そういえば、昔、まだあまり知られていなかった“ヤクシャスの墳墓”ってダンジョンを攻略に行ったときも、朝飯はステーキだったな。
あんときゃ、アルコックやグレゴリーも一緒だったが、ウォークライの前のチームで“ドルリーレーン遊撃隊”ってグループでさ、
けど、エースで稼ぎ頭のリンダ・ドルリーレーンが攻略中に死んじまって散々だった。
拾得物も少なくて、全然赤字だったしさ。
考えるとリーダーのアルコックが女性不振になったのは、あの時からだ。
幼馴染の相方に死なれて、リーダーは少しおかしくなった。
次から次にヤリ捨てるように女を乗り換えて、軽く恨みを買うこともあったけど、イングリットと好い仲になってからは多少は女に心を開くようになったと思ったのに、イングリットの奴がフリやがった。
折角いい調子だと思ったのによ、またアルコックはぎすぎす仕出して今のチームの雰囲気は最悪だ。
4年前にイングリットが辞めるときも、俺と弓術士のユーリンで根掘り葉掘り問い詰めたが、本当のところは結局分からなかった。
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「流石、都会はお茶を飲むためだけの店があるんですね、私達の地方じゃ、スイーツの店なんて、鉦と太鼓で探して歩いても見つかりませんよ」
店員に案内されるのに、俺が是非にと頼んで喫煙エリアに陣取ったが、デイジーには不評だった。
アップに結い上げた“羞恥の魔女”は、タイトなシルエットの高価そうなスーツの下にごく薄いチェイン・メイルを着込んでいるのが分かった。
襟元と袖口に、それが見えていた。
切れ長の目に(ちょっと垂れ目だったが)、細面の顎先をクィっと突き出す癖があった。この所作はちょっと相手を小馬鹿にしてるように映る。
本人、分かってるんだろうか?
所轄保安官相手に取り引きかと一応凄んで見せたが、上手く丸め込まれて情報交換をしようということになってしまった。
ファースト・コンタクトで下着フェチをすっぱ抜かれた時点で、主導権は向こうに行ってしまったらしい。
局内法度の情報漏洩に引っ掛かりそうだ。
デイジーの勧めで、カスタードミルフィーユが絶品だという“リンダのドルチェ”のリージェント・スクエア店に来ていた。
軽い自己紹介の後、五分刈りの男が「仲間だ!」と言って、固く握手をしてきたのが、何か不気味だった。
一流の冒険者らしく、軽さと堅牢さを兼ね備えた飛竜の鱗でできたスケイル・メイルを身に付けている。
「“3人の御使い”が入国したという情報はありませんか?」
「“3人の御使い”って、あの魔族領を討伐して回っているっていう“3人の御使い”かい?」
「その“3人の御使い”です」
“羞恥の魔女”の言うことには、今ディアゴス合衆国連邦を席巻している“ブリュンヒルデ騒動”も、元を糺せば“3人の御使い”が深く関わっているらしい。
なんでも大昔に海底に沈んだ大ヒュペリオン大陸の滅亡を生き残った大賢者、ヘドロック・セルダン老師とやらが産み落とした最強のホムンクルスというのが、ブリュンヒルデ……ということらしい。
魔導帝国の情報網から得られた推論では、眠りについたブリュンヒルデを秘匿するために、夜叉神という全く別の伝承で覆い隠すことにより、その存在を守ろうとしたらしい。
「オー・パーツというものをご存じですか?」
「あぁ、聞いたことだけなら……今の時代にそぐわない超高度技術の産物で、危険物指定される場合が多いとかなんとか」
「法王聖庁の確かな筋から仕入れた情報なんですが、ヘドロック・セルダンという男は、世界に32のオー・パーツを残したそうです」
「そして、この回収と封印に乗り出したのが、ドロシー、ステラ、エリスの“3人の御使い”として知られる、おそらく当代最強の戦女神達なのです」
現に法王聖庁秘物課がそれと知らず保管していたオー・パーツ、“賢者の臓腑”の発動を阻止したのが、ドロシーという希代の女戦士なのだとか……
以降、ドロシーとその一行が、ごく内密ではあるが法王聖庁の絶大なるバックアップを得ているのは間違いない事実、であるらしい。
また、聖庁からそれ程離れていない薬草園の谷、ボタニカル・キャニオンでは“薔薇王の種子”と呼ばれるオー・パーツがその力を開放したとき、〈時を巻き戻す〉……と言った奇手で、これを回避、封滅している。
「私は見ています、私の店にその正体を偽り、ブリュンヒルデの情報を求めて訪れたドロシー様が、時を巻き戻して見せるのを、この目で見ているのです」
俄かには信じられない話だった。
時を操る魔術が無い訳じゃない。だがそれは流れを遅くする停滞魔術や、逆に早める加速魔術がせいぜいで、巻き戻すっていうのは聞いたことが無い。
それも事象を選択して巻き戻すなんて、もし本当なら最強じゃないか!
何度でも、何回でも、最適解が得られるまで繰り返し遣り直せるとしたら……
「夜叉神峠の地を求めて、すでに活動を開始していると思いましたが、間違いなくここを目指している筈です、ここに来るまでに更に二つのオー・パーツの破壊に成功していると聞き及びました」
「これで32のうち、すでに四つを封殺しています……彼女等がミッション達成の折りに、戦勝の勝鬨ではなく節目として音曲を演奏することがあります」
「それは、不思議と良く響き渡り、哀切の滲む澄んだ声なのに、強く、遠く、大きく、深く、伝わるそうです」
「3人のうちの一人、ステラ様は千の魔杖を操る深淵の大賢者と呼ばれています、しかしながらこの方の真の神秘は別にあります」
「“音の神器”と呼ばれる至高の聖秘物……ひとたび奏でれば、必ずや奇跡を起こすと噂されているものです」
ここまで来る道すがらのオー・パーツ抹消の2箇所では、比較的貧しい土地柄だったらしく、奇跡の恩恵を受けたのだと言う。
凶作だった穀物畑がその場で息を吹き返し、魔導シンガーの紡ぎ手は言霊に載せた福音で、心から願えば悲運のうちに亡くなった死者をも甦らせ、真っ正直に生きた者が報われ、そうじゃない者は罰せられると言った、神の啓示による信賞必罰が、音の届いた範囲で起きたらしい。
天災で傷み、経年劣化っで朽ちてしまった様々な施設がより堅牢に復旧し、すっからかんだった食料備蓄庫に魔法のような決して腐らない食材が満ち、害獣や害虫はなりを潜め、何より人々には霊験あらたかな福音が与えられた。
……何だそれ! 人の為せる技じゃないんじゃないか?
最早、天上に住まう神々のレベルだろ!
「貴女は……貴女の魔力レベルはどれぐらいですか?」
デイジーが唐突に、魔女イングリットに質問していた。
「いえね、“羞恥の魔女”の特能スキルは教皇聖女サマルディ・サマリナ様にも匹敵すると聞いたことがあるものだから……」
「……公表はしてないけれど、最近の測定では認知スキルが97、探知スキルが87になるわ、聖女聖下サマルディ・サマリナ様がカンストしているという噂だったから、おそらく人類二番手と思っていたけれど、もうよく分からない」
「ドロシー様方が手ずからデザインされたとされるプロジェクションカスタム・ボディとやらの潜在能力は今のところ全くの未知数だから……」
「えっ、何だそりゃぁ?」
「あぁ、まだ伝わっていないのね、教皇聖女聖下オッセルヴァトーレ・イノケンティウス二十四世が二十五世に襲名し直したのには訳がある」
「生まれついた生身の身体を捨てて、非常に高度な技術の産物である造り物の身体に乗り替えた……魂の入れ物を変えたのよ」
「二十五世のボディは永遠に近く存続するって聞いたわ」
「私の学生時代の親友が……あぁ、私、平凡な見た目を裏切ってポートデレンの戦闘員訓練校出身なんだけど、選択授業の格闘技Ⅱ種で一緒だった娘がさぁ、アルメリアのライデンにある対魔族連合軍に居るんだよね」
腐っても連邦保安官、俺の相棒のデイジーも見た目と違って、私設乍らエリート戦闘要員を養成することに掛けてはピカイチと評判のハードな教育機関の出だ。こう見えて、なかなかタフな人生を歩んでいる。
「魔王城が陥落したときの強襲作戦に、ユニオンのお偉方が何人か付いてったらしいのよ」
俺も初めて聞くデイジーの話だったが、連合軍で主計官をしてるらしい娘から拾ってきた情報によると、現魔王の居城だった“プルートニオン”と城下の領都“ゴグマゴグ”を攻めたのは、水銀を自在に操る魔術で創造されたマンティコアと雲突く巨人のヘカトンケイレスの師団クラスの軍団、そして伝説のケルベロス・ドラゴンだったという。
彼女等の常勝不敗伝説がどの辺りから始まっているのかは定かではなかったが、少なくとも魔王破れるの一報が何千年か振りで人類側に轟いたときに、誰がと問うた人々の間では、“3人の御使い”の名が刻まれた。
何故か彼女等自身はこの偉業を、自分達の手柄とは主張したがらないようだったが……
「でね、魔王城に突入したのは巨大な大天使4体を従えたステラ様と、全長10キロ以上もある大百足に変身したエリス様、そして単身で魔王に挑んだドロシー様はもっとも信頼している最強の武器、黄金の戦闘槌を手にたずさえていたって話……」
「アルメリアのシェスタ王国で、死んでしまった召喚勇者の従者をしていたって話の信憑性について何か知らないか?」
魔女イングリットの不意の質問に、デイジーが言い淀む気配があった。
「……知ってるよ、結構有名な話だし、秘密でも何でもないんだけど」
言い辛そうに返すデイジーが、この娘には珍しく目を伏せた。
「私はシェスタ王国の出身なんだ」
そういえば、以前にそんな話してたな……
「シェスタ王室の召喚呪文と術式は年々駄目になっていて、もう何年も人格の破綻したクズ勇者しか呼び出せなくなっていた」
「今代の勇者だったトーキョウ・トキオも“魅了・催淫”ていう鬼畜な能力を持っていてね、御多聞に漏れずハーレムを作っちゃった訳」
あっちこっちで気に入った女を見かけると生娘だろうが人妻だろうが手当たり次第に誑かして連れ帰り、連日連夜のご乱行に及んだという。
男の風上にも置けない奴だが、少し羨ましいような気もする……嫌々、如何如何、公僕がそんな邪まな考えを持つなど、駄目だろう。
「地方巡回の折りに目に留まった3人を毒牙に掛けるのも、赤子の手を捻るようなものだったと思う……乱交、輪姦は当たり前、谷町の欲しかった勇者は有力貴族などへ貸し出していたし、園遊会と称して野外庭園でのいかがわしいショーなども行われていたようよ」
「国民の血税で散々贅沢な暮らしをしながら、ほとんど魔族退治をしなかった役立たずのお荷物勇者一行は、国民からゴミ虫のように嫌われていた」
それが証拠に連れ込み宿でみっともなく命を落とした外道勇者が死んで、正気に戻った3人がお払い箱とばかり王宮を放り出されると、何処に行っても誰もが石や犬の糞を投げて歓迎した。
行き場を無くした3人は見る影も無く見窄らしくなり果てた姿を晒して、場末から場末、人跡未踏の森林地帯や山中を彷徨った。
「未だに盗撮されたポルノ雑誌が出回ってると思うけど、そんな逃避行を1年ちょっとは続けたのかな……その後、空白の期間が2年近くあるんだけど何をやっていたのかは誰も知らないと思う」
「そのポルノ雑誌は、できれば探さないで頂けますか?」
内緒話をしていた訳ではないが、急に話し掛けられてビクンと飛び上がってしまった。
見ると声の主は通路を隔てて隣のテーブルに座った妙齢の婦人だった。
カールした後れ毛が両鬢に垂れ下がる、良く分からないが大人の雰囲気の女性だ。
化粧映えのする美人だった……お医者さんの白衣のようなものを着ている。
誰だ?
「回収はするなと……きつく、コマンド・オフィサーに厳命されているものですから」
「申し遅れましたが、私はナンシーと言って、“ニンリルの翼”の統括メイン・フレーム、中央コントロール・ユニットです」
「今、貴女方が見ているのは現身のひとつで、私はこの世のあらゆるところに遍在することができます」
ご婦人の話はよく理解できなかったが、魔女イングリットが何故かピリッと警戒したのが分かった。
「干渉してはいけない、とも命令されていますので……お願いするだけですが、探さないでください……私の用事はそれだけです」
「お近づきの印に、ここのお勘定は私に持たせてください、では失礼します」
優雅に立ち上がる妙齢の美人は、それだけ言い残して立ち去って行った。
なんだか唐突に表れて、取り付く島もなく去って行くのをただ呆気に取られて見守った。
突然立ち上がった“羞恥の魔女”が踵を返して、立ち去る婦人の後姿を目で追った。
「ナンシー……やはり、要塞戦艦は存在するのか?」
小さく呟く、魔女の独り言が聴き取れた。心成しか顔色が蒼褪めて見えた。
毒気に当てられたような俺達は一旦解散することにして、連絡先を交換した。
“羞恥の魔女”とその相棒に別れを告げて、連邦裁判所に向かう。
幸い、リージェント・スクエアからは目と鼻の先だ。
煙草を根本まで吸う癖は何度言っても直らないと、デイジーにくどくど叱られるのを右から左に、生返事をしていると叩かれた。
気紛れで買ったリンダの店のミルフィーユは失敗したな、こいつを持って証言台に立つ訳にもいかないし、どうしよう?
そういえばリージェント・アベニューにはよく寄らして貰う、ガストンとベティの“鎧磨き”兄妹がいたな……悪いが今日は時間が無いし、小銭だけでも恵んでまた今度にして貰おう。
そうだ、ミルフィーユはあいつらに上げちゃおう、甘いもんなんて滅多に食べれなそうだもんな……
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「州議会の共和党首席は、今度の選挙で首をすげ替えろ!」
「我等、栄えある先住民族、モンゴロイド・ゲルマンこそがディアゴス合衆国連邦を率いるのに相応しい」
「共和党の移民政策局は、我々極右党勢力を目の敵にしているが、国粋主義の何が悪い、選民思想の何が悪いというのか!」
「出ていけ、腐れ移民、俺達の国は俺達のものだ!」
「我々、M・ゲルマン民族こそが、唯一魂を持つ女神により選ばれし民、亜人も混血も、黒人も黄色人種も必要ない」
「我々こそが由緒正しき女神の子孫であり、他の人種より優先される!」
頭の悪い馬鹿は何処にでもいるもので、馬鹿と馬鹿が集まればカルト教団になるのかもしれなかった。
ドロシーはあれで、自分が気が短いと知っているからなるべく我慢してるんだというが、エリスは見習えそうもない。
ディアゴス合衆国連邦は、自由経済特区のために州民、国民の宗旨に介入する武力行使は憲法で禁じられている。つまり何を信じるかの権利は国家権力に依って保障されている。
それがプア・ホワイト・トラッシュをして、集団テロリズムに駆り立てる温床になったとしてもだ。
退役軍人交遊会とは名ばかりの、ナショナリスト秘密結社の集会に潜入していた。
郊外の廃棄された教会跡地だ。
手に手に松明を持った覆面の男達が、益体も無い雄叫びを上げているのは見るに堪えない醜悪さだ。
ヤクシャス・シティに巣食う犯罪組織ノースサイド・ファミリーの母体が、この極右集団だと、地元の公安機関、アルティメット・コンスタブルは気が付いているだろうか?
あまり多くは期待できないが、かと言ってここでこいつらを血祭りにあげるのも早計に過ぎるような気もする。
一応こいつらにも家庭はあるかもしれない。
反奴隷解放を主張する人種差別過激派の急先鋒と見做されている総司令、フォレスト神父が登壇すると大会の参加者……3万人ぐらいは居るかと思ったが、一斉に怒号を上げるものだから、いよいよ堪忍袋の緒が切れた。
実力行使で、まず空間を固定した。大気の流れも、人々の心臓の鼓動も、呼吸も新陳代謝も、松明の炎の揺らぎも全てが止まる。
意識だけは保っているが、身動きもできない状況に秘密結社は恐怖した。
(さてと、ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいかな?)
逆らう奴が居ると嫌だから、ちょっときつめのレベルで思念波を送り込んだ。
全員一律に届いている筈だが、あまり精神力が強くない奴だと卒倒してしまうかもしれない。思念による拷問だった。
(夜叉神の伝説について知ってることを話して貰いたいんだ、幹部の小父さん達からいいかな?)
だんまりを決め込むのに、どんどん精神波の出力を上げていく。フルフル震えながら歯を食いしばり、涙と鼻水、涎でグシャグシャになる頃には音を上げたが、こいつらの沈黙の掟は大したことは無さそうだった。
(最初から素直になってくれればいいのに……ペナルティが必要かな?)
(そうだ、見たところ、頭の弱そうな劣性遺伝子ばかりのようだ、未来に血筋を残しちゃいけないから、一律去勢をしよう、暴力衝動も抑えられて一石二鳥だね)
微動だにできないながら、全身全霊で恐怖とパニック、拒否に震える3万人何某の生殖器を不能にしていく。心配無い、排尿器官としての機能は残る。少し女も居たが、同様に石女に人体改造した。無慈悲と謗るなかれ、粛清しないだけエリスは寛大だ。
(夜叉神だよ、夜叉神、話してくれるよね?)
M・ゲルマン民族の伝承に曰く、夜叉神峠に夜叉ヶ池の龍神を封じた碑があり、護法夜叉神がこれを守るために眠りについていると言う。
その昔、夜叉神と言う暴れ者の鬼神は毘沙門天の眷属として勝手気ままに往来し、身体はとても大きく、其の癖身軽で山でも谷でも自由に跳び回り、暴れ回っては山中の杣人を苦しめた。
雨雲がでると吹き飛ばし、幾日も日照りを続かせては干魃を引き起こし、雷雲を集めては大雨を降らせて洪水を起し、山を崩し、風を集めて暴風を吹かせ、瘴気を振り撒き疫病を流行らせた。
杣人はこれを“夜叉神の祟り”として畏れうやまった。
ある年、生暖かい風が吹き黒い雲が空を覆い、激しい雨が三日三晩も降り続いた。滝のような激しい雨が大地を揺るがし、あらゆる山陵が地鳴りとともに崩れ落ち、堰き止められた水が一夜のうちに谷を湖のようにしてしまう。
降り続く雨のために水が溢れ、堰き止めていた土砂が一度に崩れ去り、濁流は津波のように岩や大木を押し流し荒れ狂った。
杣人達は、この夜叉神の祟りを恐れ、谷を一目で見渡せる高い峠の上に、石の祠を建てて手厚く祭ったところ、さしもの夜叉神の祟りも少なくなり、いつしかその峠を夜叉神峠と呼ぶようになった。
(だが、我々には夜叉神様をお起こしする起動式がある、 M・ゲルマン民族の正統を継ぐ我がフォレスト家から失われし宝具が、ようやっと取り戻した形で我等の手許にある)
訊いてもいないのに脅しがよく効いているのか、幹部は有益な情報をくれた。
ブリュンヒルデを隠すのに夜叉神という全く別の伝説を上書きしたのは、子供騙しのような手管と思ったが、意外と上手くいってるようだ。
(以前、顔見知りの故買屋から紹介されたリンダと名乗る謎の女から買った宝珠だ、伝承に伝え聞く駆動式に間違いない、顔中傷だらけの不気味な女はこれを“夜叉神の墳墓”から持ち帰ったと言っていた)
今日の儀式で使う筈だったと言う宝玉を、事務局幹部に守られた控え室からアポーツする。
それは、丸いオーブの形をしているが明らかに何かの装置だった。
一応エリスも、ドロシー程じゃないが、拡大透過で電子部品を視れないことはない。
この程度の多層集積回路なら……意外と緻密だな!
あぁ、多分これだな、焼け切れている。
ひょっとするとこの構造、ORB、リムーバブル・ハードディスクって奴かもしれない。
焼損箇所を繋いだ瞬間、パチっとショートするような感じがあって明らかに何かの信号が奔った。
装置からの可視化された光線が、何処かを目指して真っ直ぐに、とても長く伸びた。
「あっ、ゴメン、ドロシー、しくじったかも……」
“エリス、またかよっ”と言って責め立てる、こういう時の容赦ないドロシーのお仕置きを思い出し、少し血の気が引いて行った。
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「ご免なさい、もうアルコック達とは一緒に行けない」
「何だって?」
リンダ、お前無しに俺達のチームは成り立たない。エース無しで俺達に冒険をしろってのか?
「本当にご免なさい、恨んでくれて、蔑み、罵ってくれて構わないから、どうか……どうか盛りのついた馬鹿な尻軽女と思って、私のことを忘れてくださいっ!」
「……アル、貴方を裏切って私は、ユリウスとの交わりで気が変になるほどの快感と興奮の虜になっていた」
「だから、だからね……私のことは忘れて、私はどうしようもなくあさましい売女になったの、もう冒険者も辞める、村には帰れないけれど、このままチームには居られない」
「今の私はどうしようもなくユリウスとの愛欲に惹かれているから!」
大人になって薄汚れていく俺達自身と違って、幼い頃を一緒に過ごした大切な思い出はいつまでも光り輝いて、一生の宝物になる。
暑い夏の日の川遊び、日焼けした幼い肢体をくねるようにして筏を漕いでいた少女、あの日、あの時、俺は初めて異性を意識した。
古道具屋で見つけた錆びたバスタードソードの取り回しが悪くて、幾ら稽古しても振り回されるばっかりだった俺に、“頑張れ”って無邪気な笑顔で応援してくれたのがどれほど嬉しかったか……
何気ない俺と幼馴染みの、掛け替えのない思い出だ。
それは、決して目の前の、この見知らぬ下種淫売との思い出じゃあない。
20年一緒に連れ添った幼馴染みの相棒が、俺から離れて行く。
俺の憧れ、才能に愛されたこいつの背中を追って、俺は冒険者になった。
今ここで、他のチームのメンバーが居るところで話されたのでなければ、間違いなく淫売女の横っ面を叩くか、思いっきり唾を吐き掛けるかしていた筈だ。
メンバーの手前、俺は必死で激昂する自分の気持ちを無理矢理にでも押さえ続けた。
あぁ、知ってたさ、ユリウスってのはあれだ、いつも酒場でクダ巻いてるソロの冒険者で腕は二流だ。リンダが酒の肴代わりに揶揄っていたが、最近ちょくちょく一緒に消えるのを怪しく思っていたんだ。
だが、信じたくはなかった。
本当は分かってたさ、こいつが俺のベッドで寝なくなって、二ヶ月以上だ。
「貴方が、私にしてくれたこと一杯覚えてる」
「まだ駆け出しだった頃、ゴブリンの罠にハマっちゃって毒にやられたとき、なけなしのお金をはたいて解毒ポーションを買って、一晩中看病をしてくれたこと」
「護衛任務で夜盗に襲われたとき、まだ一度も人を殺したことがなくてただ震えるだけの私を庇って、励ましながら戦ってくれたこと」
「一月分の稼ぎを注ぎ込んで、指輪を贈ってくれたこと……あの指輪をダンジョンで失くしちゃったときも、また買えばいいさって慰めてくれたこと」
「何にも報いてあげられないうちに去って行く私を、許して……」
不誠実を絵に描いたように受けた恩を仇で返す自分勝手な人非人、それがお前と言う堕ちた女の本来の本質なんだろう。恥の上塗りをする、自嘲の自の字も無いこの罰当たりな赤の他人を俺は呪った。
倫理を忘れた行いを、人は不倫という。
この世に神様が居るのなら、きっとこいつを俺の知らない何処かで野垂れ死させてくれるだろう。
「貴方との約束、守れなくなっちゃって、御免なさい……許されないことだけど、身体の疼きを隠せなくなった私はもう自分を偽り続けられない」
何言ってるんだこいつ、“約束”なんて殊勝な言葉は俺の心優しい幼馴染みが言ってこそ価値が有る、お前ような汚れた尻軽女の言う台詞じゃない。
一緒に一流の冒険者になって村に錦を飾るって約束したのは、そしてずっと一緒に居るよって誓ったのは、お前じゃない。
所詮、赤の他人のこの色気違いも他の女達と同じように心より身体の方が信じられる醜婦だった。きっと俺の知ってる愛を誓い合った誠実だった頃のリンダは、いつの間にか何処かで死んだんだ。
俺の幼馴染は俺を裏切らない、だからお前は俺の知ってるリンダじゃない。
20年一緒にいた幼馴染みを裏切って他の男の許へ去ると告げ……騙して足蹴にした間抜けな寝取られ男を捨てて、寝取られ男にとっては掛け替えのなかった、そして浮気女には既に擦り切れてしまった約束を反故にして……村を出るときの誓いも願いも何もかもをぶち壊しにして、台無しにして、踏み躙って、まるで護美屑を抛るようにいとも容易く見捨てた。
それだけ分かってて俺を冷淡にも袖にするこいつは、色に狂った恩知らずの最低な糞女……俺の知ってる幼馴染みと同じ顔をしてるのは何かの間違いだ。
あぁ、吐き気がしてきた、頭も痛いし、割れ鐘のように何かがガンガンと響く。
憤おりでおかしくなりそうだ。もう、取り繕うのも限界だ。
何故この女は、こうも生洒々と真っ直ぐに俺の顔を見れる? 裏切った男に対して少しも疚しさを感じない恥知らずの鉄面皮なのか?
言い淀むでもなく、口籠るでもなく、自分の股の緩さを吹聴して顧みるデリカシーさえ持ち合わせない。
20年築き上げてきた俺とお前の過去を無かったことにして、誰か他の真面な女と遣り直す……無理だ、無理だな。
成長してきた20年はもう二度と取り返せない。遣り直しが利かないんだ。
失われる20年を誰が返してくれると言うのか……お前しか居ないよな、リンダ。
「アッ、アル? あんた、なんて顔して……」
自分の感情を押し殺すのに苦心してきた筈が、抑えきれない昂りは隠せなかったようだ。
殺意、憐憫、軽蔑、暴力衝動、限界を超えてしまった絶望、受け入れ難い現実の全否定、度し難い不誠実なものへの排除の願い、研ぎ澄まされていく悲しみと怒り、握り潰された矜持、ないがしろにされた純粋なものへの鎮魂、間男への報復の是非、そして研ぎ澄まされていく悲しみと怒り、
そんな全てのものが綯い交ぜになって、きっと凄絶で複雑な表情をしているのだろう。
だがな、見ず知らずの醜婦、俺にこんな顔をさせているのは……お前なんだ。
思い出が綺麗であれば、あるほど、裏切りは醜く俺の心を抉っていく。
歪みも、失うことの悲しみと大切なものがごっそりと抜け落ちていく喪失感も、輝いていた頃の甘美な思い出が全て色褪せていく虚しさも、きりきりと俺の胸を締め上げるには、余りにも充分過ぎた。
握っていた筈の手が、いつしかするりと外されて、感じていた筈の手の平の体温もしっとりとした心地良さも、二度と思い出せない過去になる。
そうして、こいつは俺を拒絶して去っていくんだな……
故郷を思い出して寂しくなったときは傍らにいてくれと甘えたリンダは、もう何処にも居ない。何処にも居ないんだ。
「リンダ、今は先に進んでくれ……ここから引き返す訳にはいかない」
気を抜けば茫然自失する状況でも、目の前の戦いに集中しなければ死ぬ……それが、冒険者というものだった。
どんなに虐げられていても、例え20年来の幼馴染が俺を捨てて他の男との幸せを願っていたとしても……それでも、俺の本質は有難いことに冒険者だった。目の前の危険回避に集中していれば、今の理不尽な状況も忘れさせてくれるかもしれない。
悲嘆にくれる顔を隠し、目の前の戦いと先に進むという目的に、自分を犠牲にしても守るべきを守り、しりぞけるべきをしりぞける本能的な戦いに没頭していたい……それが俺の闘い方だから。
ただ、もう守るべき仲間にリンダは含まれていない。
リンダもそれが分かったのか、後ろを一度も振り返ることなく真っ直ぐに進んでいった。
「私はね、アル、以前に斥候をしていたソントンが死んだとき、初めて私達も死ぬんだって当たり前のことに気が付いた……それまでは、物語の主人公になったつもりもなかったけど、私達は、私とその周りの仲間は絶対に死なないんだって、思ってたようなところがあるの」
「馬鹿だよね、何の根拠もないのに死ぬ筈ないって思ってて……現実に仲間の死を突き付けられて、私は急に怖くなった」
前を歩きながら、低い声で何の話をするつもりなのか、リンダはダンジョンでの禁則を破って私的な会話を続けた。
リンダは、リンダらしくなかったが、仲間の命を脅かすほど馬鹿ではなかったので、二人でパーティを組んでいた頃に使っていた修験道遁甲術の会話方で、俺にだけ届く声音を使っていた。
「貴方に相談するのは出来なかった、貴方は私を決して折れない鋼の剣か何かのように神聖視していたから……」
「飲み仲間だったユリウスに、酒の席で弱音を吐いたのは間違いだったかもしれない」
「でも、そのユリウスが“折れてもいいんだ”、“女々しくてもいいんだ”って言ってくれたのが救いだった、初めて私の弱さを受け入れて貰えてるような気がしていた……その晩の内に、私はアルを裏切ってユリウスに抱かれた」
「幼馴染の、唯一だった筈の伴侶を裏切っている背徳感が、私をあり得ない程の絶頂に駆り立て、痺れさせた」
「ユリウスの求めるまま、女の局部の名前を連呼する下品な交わりは、積もって行く宿痾のような強張りも、アルが私の中に求めている完璧な戦士としての仮面も、全てから解放される高揚感があって……私はそれを心から楽しんだ」
「あの人はね、もっと淫らになっていいんだって、本能を曝け出して乱れてもいいんだって、言ってくれるの」
それを俺に理解しろって言うのか? 許せとでも言うのか?
ああっ、誰かこいつの口を永遠に塞いでくれ!
肉欲に狂ったリンダの心が、もう俺の許には無いということを決定的に思い知らされた瞬間だった。
結局は他人だった……一方的な思い入れは、いつかすれ違うこともあるのだと、世の中の悲しい真実に打ちのめされて、俺の愛した女は愛よりも肉体の悦楽を選ぶ自堕落な淫婦なのだと、臆面も無く他の男との情事を裏切った俺に平気で明かす恥知らずなのだと知らされて、自分の半身だと思っていたのは俺の誤りだったと気付かされた瞬間だった。
薄昏い気持ちに油断があった。
俺とリンダは、巧妙なトラップに他の仲間達と分断されてしまう。
まだ、余り荒らされていない地下ダンジョンの情報を掴み、ヤクシャス・シティまで遠征してきて、郊外の洞窟から侵入して深くまで潜った。
地元のマップ屋で仕入れた不完全な階層別見取り図でも、そろそろ最深部に近いかと思われた。
二人っきりにならなければ、もしかしたら明確な殺意が形になることはなかったかもしれない。
だが、人目が無いところで二人っきりになった不運を呪えとは、今の俺には到底言えなかった……俺の取って置きの純朴な20年を奪った巫山戯たこいつは、死んで当然だと思う気持ちの方が強くなっていたからだ。
トラップと何か機械染みた気味悪い魔物のダンジョンだったが、目の前に巨大な竪穴が開けていた。
淵を覗き込むリンダが振返ったのを、ごく当然のようにその胸を押した。
(返して貰うぜ、俺の20年……もう手からこぼれていくなら、最初から何も無かったことにした方が全然いい!)
怯えるような驚愕に目を見開くリンダの表情が次の瞬間には全てを悟ったように、遥か以前の優し気な表情に見えたのは、おそらく真っ黒い歓喜に歪む俺の顔を見たからだろう。
「ごめんね……」
落ちていくリンダが、最後に小さく呟いたような気がしたが、それも気のせいだったかもしれない。
こうして俺は失われた20年を清算するために、自分の手で同郷の幼馴染を始末するという最悪の幕引きをした。
もう後戻りのできない仕業だけれど、俺の心はずっと軽くなっていた。
満足だった。それから、俺の心は石になった。
……………それが、アルコックの犯した罪の全てだった。
“羞恥の魔女”として、リーダーのアルコックを支えるべく、アルコックの女になった。自らに科した仲間の過去を覗かないとの信念を曲げ、愛する男を知りたいという誘惑に負けてアルコックの過去を見てしまった末に、知り得た事実だ。
知ってはいけないことだったかもしれない。
だが知らないまま一緒になるなんて、もうあり得なかった。
こんな男を更生させる自信が無かった当時の私は、自然と離れていった。
“罪を償うべきだ”の一言が、言えなかった。
チームを抜けたかったのは……冒険者を引退したのは、本当はアルコックとのことがあったからだ。
私は過去認識も、読心術も余人の追従を許さない域にまで達している。
こと、この手の技術に関しては教皇聖女イノケンティウスに匹敵するのではないかと自負している。
淫蕩な呼び名、“羞恥の魔女”が“羞恥の魔女”たる所以だ。
人の隠された恥辱を暴き、知られたくない過去の余罪をこれでもかと拡大再生産した幻覚術、イリュージョンで攻め立てる。
魔族相手の切った張ったも勿論得意だが、対人戦となれば無敵の戦法だった。
およそ人間として長じるまで、人というものは恥ずかしい思いをしなかったものは皆無と言っていいだろう。誰も彼もが知られたくない過去を持っている。
だが、長じてから人前で粗相をしてしまった恥ずかしい話と、私怨から人を殺めた後ろ暗い過去とではおのずから、天と地ほども違う。
複雑に同時進行するストーリー、錯綜する物語り、迷走する登場人物、スラップスティック風に仕上げようかと思いましたが企画倒れの中途半端なものになってしまいました……30000字近くなってます
シャペロン=若い未婚の女性が外出する時、もしくは社交場に出る時に付き添いをした使用人で、多くは年配の婦人が社交の行儀作法が守られているかを監督した
エスカッシャン=[Escutcheon]は紋章の中央に示されている盾[シールド]を指すために使われる紋章学用語、クレストは紋章のエスカッシャンの上に置かれるヘルメットとリースの更に上に置かれる装飾を指す
インエスカッシャン[inescutcheon] は、エスカッシャンの中央に配置されるより小さなエスカッシャン
谷町=主にひいきにしている力士やスポーツ選手、歌手などの芸能人に多額の援助という形で後援し後見人的立場となっている人物のこと、援助の形態としては繁華街等での豪遊から私生活での金銭援助や副業への協力、異性問題等の不祥事処理など多岐にわたる
プアホワイト=[poor white]は、アメリカ合衆国諸州の白人の低所得者層に対する蔑称で、アメリカ英語ではホワイト・トラッシュ (White Trash) とも呼ばれる
特に、米国南部地域の貧困層の白人について言われることが多く、この蔑称は白人の中でも社会的階層の低いこと、また生活水準が低いことを示している
イール=鰻[うなぎ]ですね
ここまで読んで頂けた奇特な貴方、迷走し錯綜するストーリーの解決編を読みたいと思ってる筈です
是非ともブックマークと星をつけて下さい





