36.辿りしは、ブリュンヒルデの影
変な日だった。
その客は天気雨と共にやってきた。
晴れているのに、明り取りの曇りガラスの窓をパラパラと雨粒が叩き、表の路面の匂いが漂ってくるような気がする……そんな気怠い午後だった。
普通、一般客など寄り付かない筈の私の冴えない店に、子供連れの巡礼者らしい一見さんの振りの客が一組、昼間から訪れて一杯飲ませろという。
「店主さん、骨付きの燻製鴨肉ソーセージとハバネロ炙りラムチョップ、それとレモネードのお代わり、お母さん達にも蜂蜜酒と、林檎サイダーのシードル酒をピッチャーでください!」
もう彼此1時間以上飲み食いして居座り、一卓しかないテーブルを占拠して一向に腰を上げようとしない。
何か別の目的があるのかと探ってみたが、何のことはないただの巡礼の小母さん一行だった。
現役を引退したとはいえ、他人の過去の恥部を暴き出し、付け入るを得意とする幻術使い“羞恥の魔女”の二つ名は伊達じゃない。
私の慧眼を欺けるほどの術巧者は、この世には存在しない。
ここ、魔族の領域に境を接する防衛線の住人は無法者とまでは言わないが、臑に傷持つ連中が多いのは確かだった。
食い詰めて一攫千金を狙う冒険者や、尾羽うち枯らした流れの魔道具製作者、修行のため放浪する錬金術師達が集う、魔族の土地に隣接する防衛自治領ルーエンスブルグの中心地ピューリンゲン・ノローナの路地裏に今の流行らない店を構えて4年になる。
S級冒険者チーム“不破女神の咆哮”の後方支援と高出力砲台役だったが、三十路を前に早々と離職、脱退した。
チームが登録している巨大冒険者ギルド、“ピューリンゲン・ファミリー”からも散々引き留められたが、決心は堅かった。
土台、冒険者なんて歳を食ってから続ける商売じゃない。体力も落ちるし、反射神経も鈍る。若死したい馬鹿がやることだ。
自治領の中心領都には他の職人ギルドも林立している。鍛冶屋ギルド、盾職人ギルド、鞍職人、麵麭屋、靴職人、羊毛手工業者、革鞣職人、葡萄酒製造業者、そして居酒屋ギルドだ。
ピューリンゲン・ノローナの居酒屋ギルドは、約定により毎日50リッターの葡萄酒をザンクト・アルバイン修道院に納めている。
総督府から委譲され、貨幣鋳造所、居酒屋、税関を設置する権利はここピューリンゲンでは修道院が有していた。
ルーエンスブルグの居酒屋の営業形態はほとんどがタバーン、つまり大衆酒場だ。インと呼ばれる宿屋も兼ねている。
パブやエール・ハウスと呼ばれる、止まり木やカウンターのこじんまりとした店は少ない。皆、腰を据えて飲みたがるし、結婚式や仲間内の祝い事に使うには大きな店が選ばれる。
腐ってもS級冒険者、パブの営業権株を買う蓄えぐらいは難無く都合できて、現在に至るが、それは表向きのこと。
本当の商売は暗黒街は裏の顔、情報屋だ。
「いらっしゃい」
まだ、陽も高いというに珍しいこともあるもので本日二組目の客だった。
軋むドアを開けて入って来たのは、探知スキルで見れば法王聖庁所属の工作任務専門聖魔法士の娘二人、栗色の髪を何本もロープ編みにした長い睫毛のアーモンド形の眼の女と、短髪にした漆黒の髪と瞳が特徴的な東洋風な顔立ちの女だった。
「もう、いらしていたのですね……」
何だ? 先客と待ち合わせか?
てっきりこっちは情報を買いにきた客かと思ったが?
「ブッブッー、時間オーバー、今回も不合格ねぇ」
「もっ、申し訳ありません!」
受け答えした先客は、どう見ても小柄な巡礼の小母さんにしか見えないが、こいつ等の関係は何だろう?
「もう、いいだろう? 1時間は待った、格段、有益な情報は無かったし、引き上げるぞ」
「えぇっ、一杯ぐらい飲ませてあげなよっ」
「100万年早いっ、大体教会の人間は居酒屋に入ることを禁じられている筈だ」
「そこは、それ……潜入捜査のお目溢しって奴?」
結局短いやり取りの末、飲み食いの代金を払って出て行こうとする6人に、いつもだったら余計な詮索は避けるし、厄介事は極力退けるのが情報屋を営んでいく上でのルールだったが、この者達は裏家業が目的の客でもなさそうだったし、それなのに何か……凄く、何か自分の店が蔑ろにされているように思えてカチンときていた。
虫の居処が悪かったのは、丁度生理でイライラしていたからかもしれない。
「ちょっと待ちなさいよ! あんた等、私が誰だか知っててこの店に来たんだろうね?」
蓮っ葉な口調は育ちの悪さが露呈しているが勘弁して欲しい。
何より二束三文の安い矜持だったが、それ以前に素人に舐められて面子を潰されては商売が立ち行かない。
「あまり凄まない方が良いですよぅ、情報屋さん、長生きしたいでしょう?」
出て行こうとする一行に立ち塞がるように進み出たはいいが、ただの巡礼小母さんの一行と思っていたのに、一番背の高い女がこちらを威嚇するような台詞を口にしても、それを正しく理解するのに暫く掛かった。
背の高い女の気迫が尋常じゃなかったからだ。
だが、この程度でビビっていては治安の最低なピューリンゲン界隈で裏家業の店は張っていけない。
「見縊って貰っちゃあ困るね、このカッシーナ姉さんを脅せる奴はこの街でも少ないというのにさ」
「どうする、ドロシー?」
背の高い中年女が、一団のリーダーとおぼしき中肉中背の女を振り返った。
「………女の勲しなぞに興味は無い」
「だが、己れの強さを過信する身の程知らずのお前に、一度だけチャンスをやろう」
女が言葉を発した瞬間、全てが一変していた。
しょぼくれ、草臥れた中年女達の巡礼の集団と思っていた3人は、光り輝く神人に姿を変えていた。
どうして見破れなかったのかとか、一体全体何者なのだろうとか、そんな些末なことは全て押し流され、圧倒し尽くす迫力と神々しさに溢れていた。
今の今までと違い、その言葉にさえも他者を従順なる下僕と変え、打ち拉ぐ威力がある。
「お前の持ってる情報は全て読み取った、ほとんど役立たずだったが、その多くが私達に関することだったのは笑えない冗談だ……」
「一週間だ、一週間の猶予をやる、その間にブリュンヒルデという女の情報を何かひとつでもいい、見つけてこい」
「さすれば、生きながらえると共にお前の望みを何でもひとつ叶えてやろう」
大変な相手に喧嘩を売ってしまった愚かな自覚に、戦慄いて目の前が真っ暗になった。
神か悪魔か……おそらく子供を連れた常人とは違う雰囲気、視認できるほどのオーラを放っているのが“3人の御使い”として知られる存在、そして今まさに、私に脅すような強制依頼をしているのが“一心不乱の阿修羅”、その人だろう。
いずれも劣らぬ天上の美神、この世のものとも思えなかった。
「み、見つけられなかったときは……?」
掠れる声で、生き残るための質問を必死の思いで口にしていた。
「豚になりたいか、それとも生涯雌グレムリンに変化して過ごすか、好きな方を選ばせてやろう……豚の場合は屠殺される運命だが、繁殖用に選別されれば少しは長生きできるかもしれない」
「冗談を言ってる訳ではないのを示しておこう、こちらも遊び半分で人探しを頼むほど暇ではないのでな」
狂戦士“一心不乱の阿修羅”の眼力に捉われて、もうこちらは狂い死にしそうに逆上せて、呼吸も上手くできない。
「例えばの話、何を報酬に望むかはお前の自由だが、身の丈にそぐわぬ欲や願いは、己れ自身を滅ぼすと覚えておくことだ」
「そのバーテンダーの格好だが、ウエストを絞ったオーダーメイドのカマー、ツァツァマンク絹をダマスク織りにした布地で仕立ててあるは、スタイリッシュな様相にこだわりがあり、ひとつには己が美貌への固執がある筈……」
話しながら美しくも荒ぶる戦女神は、勘定場に置かれた花瓶から一輪の薔薇を抜き取った。
瞬間、私に向かって突き付けられた薔薇がニュルッと伸びて来るのが分かった。幻術だろうか? しかし幻術だったら私に分からぬ筈がない。
その程度には私は幻影術のエキスパートのつもりだが、幻術には独特のシュールな波動があるものなのに、それが無い。
考えているうちに、見る見るうちに薔薇は繁茂し、私を押し包み、店に溢れて、ドアと窓を押し破り、やがて地響きのような音と共に建物を倒壊させて、ぼさぼさと美しい花びらを散らせた。
薔薇の棘が皮膚を引き裂く痛みに、悲鳴を上げた次の瞬間、悪夢が覚めるように全てが元通りになった。
「それとも金か? 金への執着は人一倍あるようだな?」
言うと、美神は今度はコインを指で弾いた。
それは一枚のターラー金貨だったが、こちら目掛けて抛られた貨幣はくるくる回る様がやけにゆっくりと見て取れた。
やがてそれは放物線の途中で、二枚になり、二枚が四枚に、四枚が八枚に、あっという間に大量の金貨の雨というか土石流になって、あまりの奔流に圧死しそうになる。
叫ぶ口の中にも金貨が入り込み、咽喉が詰まろうかとした瞬間、また何事も無かったかのように元通りになっていた。
何だこれは? 幻術なのか? 見知っていた筈の現実が改変され、不確かなものへと歪んでいく……私の知っている魔術とは全く別格の何かに、私はただ恐怖するしか成す術を知らなかった。
「ふっ、あたしは一度も幻覚魔術などを使ってはいない……ただ、時を巻き戻しているだけだ」
「分かってくれたかな? 人間一人を豚に変えるなぞ、造作もないということが……」
一週間後にまた来ると言って一行は去った。五体満足とはいえ、息も絶え絶えの満身創痍状態だった。ギルドでも5本の指に入ると言われた魔術巧者のこの私が、腰を抜かして立ち上がれなかった。
冒険者ギルド“ピューリンゲン・ファミリー”に、事の次第を訴えるのは余り賢い選択とは思えないと釘を刺された。
どうも西ゴート帝国のギルド協会で(ディーバ・ハバネラが深く関わって)、かなり破格の特権を手に入れているらしい。
どちらにしても首の皮一枚で繋がってはいるが、死刑宣告をされたような気分だった。
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ブリュンヒルデは神話時代の登場人物で、没年がどうもはっきりしていないが、5~700年前だったのではと近代の歴史学者は推論している。
もう死んでいる人間をどうやって探すというのか、捜索対象が遥か昔の伝説の人物と知ったときは、もう真っ青だったが、死にたくない一心でピューリンゲンの中央図書館に缶詰めになっていた。
古文書コーナーでは、遺跡探索するチームなどが良く泊りがけで調べ物をするので簡易宿泊用の仮眠施設が附帯していた。
二日間泊まり込んだが、何の手がかりも得られなかった。
無論、ありったけの私的情報ソースへは使い魔を飛ばして緊急依頼をしてあるが、これといった有益な知らせは今のところ無い。
ワルキューレとして灰色の天馬“グラーネ”に騎乗し、ルーン文字による呪いに長けていた……なんて余分な知識ばかりが段々増えていったが、今は何もかもが大切なヒントに思えて、取捨選択、篩に掛けることも難しい。
何種類かの伝承、諸説ある中で最新版の研究者による解釈では、主神オーディンの命に背き、炎の壁に囲まれた祭壇で眠りに着いた彼女を見つけたのが英雄ジークフリートだったという粗筋が今は有力だった。
この研究者は、彼女の終焉の地、魔剣バルムンクと魔法の外套タルンカッペと共に身を投げたのが、ここゴゴ・ゴンドワナ大陸の山稜の何処かだと言及している。
可能なら著者に会いに行こうかと思って調べたが、残念ながら10年前に死んでいた。
「ようっ、イングリット、探したぜ……なんか切羽詰まってるらしいじゃないか?」
一番会いたくない奴が、何処から嗅ぎ付けたのかこんなところまで追ってきやがった。
古巣、“不破女神の咆哮”で、索敵と弓を使わせたら右に出るものが居なかった盗賊職の最高位グランド・ローグ・マスターを持つ男、同時にスペル・マジックの妙手でもある。
私とは腐れ縁の、チームでサブ・リーダーだった奴だ。
鋭過ぎる目付きが玉に瑕なのだが、女によくモテるちょっと渋めのハンサムだ。別に肉体関係は無い。だが、こわい髪を五分刈りにしているこいつの正体を皆んなは知らない。
こいつは私の部屋にちょくちょく忍び込んでは私の下着を失敬していく、とんでも迷惑野郎なのだ。頭に被ったり、匂いを嗅いだり、股間に押し付けて扱いたりするのを知っている。
「煩い、あっちいけよ、こっちはお前とじゃれてる暇は無いんだ(豚になるかどうかの瀬戸際なんだっ!)」
「……よっぽどテンパってるな、いつも身嗜みに気を遣うお前が、寝癖のままなんて、もともと垂れ目のお前が目の周りに隈作ってりゃ、まるで洗い熊みたいだぜ」
すげぇ失礼な奴だったが、当たらずとも遠からずの自覚があるので睨み付けるだけに留めた。
私だって、可愛いよって言ってくれる男の一人や二人は居るんだ。
「いやな、お前の店が薔薇に包まれて倒壊したとか、窓を突き破って金貨が溢れ出てきたとか、与太話みたいな噂が流れていてな……」
「その後見たんだとさ、光り輝くオーラに包まれた見た事もない綺麗どころがお前の店からゾロゾロと出て来て、いずこへともなく立ち去ったのを……」
「お前さぁ、困ってるなら相談してくれよ、一度もヤらせてくれない内にあの世に行っちゃうとか無しだぜ……勿体無くて泣けて来るからさぁ」
私は必中の呪文を呟きながら、渾身の右ストレートを突き出した。
「おいおい、本気でお前の肉体を心配してる俺にそれはつれなさ過ぎだろ」
「そんな目くじら立ててないで、サクっと身体だけの関係になっちゃおうぜ」
顔の前に差し出した手の平が、私の拳を握っていた。
「いいから、ディスペル・マジックを解いて、黙って殴らせろ!」
手も足も出ない、思うに任せぬ状態が、ふと一昨日の屈辱を思い出させる。
あれ……あれは、私の見知っている魔法じゃなかった。無詠唱なんてレベルじゃない、まるで息をするように自然に現実を改変していたあれは、普通の術巧者なんてものじゃなかった。
神の御業だ。今思い出しても、怖気と悪寒に吐きそうになる。
「おいっ、どうした? 本当に顔色が悪いぞ……」
「何でもない……ねぇ、豚になるのと、グレムリンになるの、どっちがマシかな?」
「はぁ? 何だ、そりゃ……」
「カッシーナさんっ、イングリット・カッシーナさんはいらっしゃいますか?」
図書館職員で、丸縁メガネに杉綾模様のチョッキを着た司書補の中年男が大きな声で私を呼ぶのに、グレゴリーと私の殺伐とした会話は中断された。
2階にある軽食テラスで野菜入りレバークネーデルのスープを啜っているところを、グレゴリーに急襲され、付き纏われているところだった。
カッシーナは私だと返答する。
「あぁ、貴女の使い魔が手紙を持ち帰ってきたようですよ」
朗報だった。司書補の男性に礼を言い、欣喜雀躍に小躍りしながら使い魔が待つという中庭に急いだ。
返事は実家の崇拝する長兄からのものだった。
「キャスパル兄さんは一族の誇り、遣ってくれると思っていましたとも、えぇ、思っていました!」
レターロック折りにされた手紙の麻紐をほどくのに、キャスパル・レオン卿のシーリングワックスを引き割った。
ドキドキしながら目を通す。見事なイタリック体による達筆の文面は長いものではなかったが、あるところを繰り返し反復して、確かめるように読み直す。
有力な手掛かりを入手した、とある。
豚にされなくても済むかもしれない。
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20パーセントの省力モードで眠りについていた。
造物主、サー・ヘドロック・セルダンの意に逆らい、私は実らぬ恋の相手、私のせいで命を落とすことになったジークフリートを何とか甦らせようと東奔西走していた。
ワルキューレの使命は、荒ぶる戦士の魂を回収してくること……全能者オーディンを詐称したセルダン博士の目的は、人の強力な思念が作動エネルギーになる兵器の開発だ。
私達はその目的をサポートするために生み出されたホムンクルス、高性能アンドロイドだった。
姉妹達と共に“ワルキューレ・シリーズ”と呼ばれた中でも、私ブリュンヒルデは、セルダン博士が以前に創出した全ての最終破壊兵器を内包する破格級の義体だった。
当初、創造主を以って、最高傑作と言わしめた。
なんでも“天秤の女神”とやらが出現したときの、最後の切り札として製造されたらしいのだが、詳しいことは聞かされていなかった。
幸か不幸か、人に近い感情を埋め込まれた私はジークフリートという男に恋をしてしまう。
笑わば笑え、渇狼、餓虎にも等しい戦闘特化のこの身が男が恋しいと女々しく涙する日が来ようとは自分自身でも思っていなかった。
やがてセルダンが各個体に取り付けている安全装置、サブ・ウェアである補助脳が起動し、意に反してボディのコントロール権を失った私は、他のワルキューレ・シリーズに捕縛されてしまう。
この身は、ジークフリートのためにある。
ジークフリートの居ない世に生き永らえても仕方ないかと思い、破壊され廃棄され、あるいは中身をレストアされての再起動も覚悟したが、何故か低可動モードのスリープ状態で、ここ夜叉神峠の山中に放置された。
このまま想いは折れていくのだろうか?
生体としての寿命が尽きようとしていた我が造物主は、様々な延命処置を自らに施すと共に、その意思を未来に引き継ぐ分身をもあちらこちらに残すことに腐心していたからか、私への戒めなどはとうに忘れたのかもしれなかった。
腹心の部下にも詳しいことを漏らさぬプロフェッサー・セルダンの計画は、その全容を知る者とてなく、私の知る限りその意図を知る者もまた唯の一人も存在しなかった。
何年の月日が過ぎたのか、地殻変動で山容が変わってしまったが、夜叉神峠には今年も若葉の季節が訪れていた。
もう、ジークフリートと生きて相まみえることは叶わないのだろうか、20パーセントの低出力モードの微睡みの中では、上手く考えが纏まらないのを悔しく思い、我が身の不甲斐無さを嘆いていた。
悲しい、悲しくないで言えば、多分悲しいのだと思う。
個性を持ったエゴを付与される以前、仮想ペルソナの大雑把な感情レベルに戻ったような気分だった。
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共同体都市国家ピューリンゲン・ノローナの戦勝記念中央広場も、真夜中ともなれば魔石灯の街燈が瞬くばかりで、ひとっこひとり出歩く者は居ない。
広場を取り囲む市庁舎も、冒険者ギルド会館もとうに灯かりは落ちていた。
“3人の御使い”が私の店に立ち寄った5日目の夜だった。
130年前の魔族との戦役で散った尊い犠牲者達の記念碑が月明かりに黒々と浮き上がっていたが、物言わぬ名も無い冒険者達の銅像はそのままひっそりと聳えていた。
大きな碑銘入りの台座の下で、兄の到着を待っていた。
なんでかグレゴリーも一緒にいる。なんだかんだで世話好きで、基本誰に対しても必要以上に面倒見のいい奴だった。
私に関しては、ただヤりたいだけのスケベ心一択かもしれなかったが……
見上げる中天の月の中に、大きな鳥の影が見えて来た。兄上が騎乗する移動用の従魔、ナイトレイブンの影だ。
見る見る大きくなる大鴉は、闇夜に溶け込む真っ黒な翼を優雅に羽ばたかせていた。
音も無く私達の傍らに降り立った巨大な鴉は、僅かに周囲の空気を舞い上げて制動すると、到着を告げるように従順に頭を垂れた。
搭乗者を下ろすためだ。
「ご無沙汰しております、この度は突然の無理難題にもかかわらず迅速なる対応を頂き、感謝しても仕切れませぬ」
家を出奔して以来、魔術師の正装は今着ているこの一張羅だけなのだが、兄を迎えるにあたり箪笥から引き摺り出して虫干しをした錦糸のローブを広げ、カーテシィの礼を執った。
降り立つ魔導帝国重鎮の首座にある兄は、それを示す彼の帝国の六芒星の紋章を刻み、縫い取った真紅のスケイル・メイルと漆黒のローブを身に付けていた。
白髪の混じる黒い総髪を、細い皮のヘアバンドで抑えていた。
魔導帝国ガルガハイムは、文字通り魔術師、魔導士、錬金術師とおよそ魔法に関わりある者は一度は目指す大国にして、己が魔術の能力を研鑽し技術を高めようとする者達の登竜門だった。
魔導の真髄を極めんとする学究の徒が集うオープン・キャンパスの多くが、ここにあるからだ。
訪れてまたそこから先が大変で、それぞれの流派の最高学府であるアカデミーや研究機関が林立する中で、自分が何になりたいのか、何を目指すのか、紆余曲折、雑多な道を究めるのは並大抵じゃない。
実家のカッシーナ家は、そんな魔導帝国で為政者を多く輩出してきた名門中の名門、事実、長兄のキャスパル・レオン・カッシーナは父の後を継いで、帝国の中枢を担う宰相職の一人だった。
私は、そんな名門の落ち零れという訳だ。
「健勝そうで何よりだ、してこちらの御仁は?」
カッシーナは幻影魔術の始祖にして、密儀降臨派の流れを汲む大家だ。
兄もまた、幾つかの大学で自流派の幻影学部の講義を受け持つ多忙な身だった。
「魔導帝国の五家賢人が一人、“宵の明星”、レオン卿には初めて拝謁を得ます、我がパーティ、“不破女神の咆哮”でサブ・リーダー役をしているグレゴリー・ディクスンと申します、冒険者です」
私の家族に会うためか、珍しく無精髭を剃ったので三割方、男前が上がった。
こいつ、真面にやればちゃんとした挨拶もできるのに、普段のチャンポランさは何なんだ。
「あぁ、貴方が……高名はかねがね聞いていますよ、一網打尽に相手方を取り逃すことがない遣り方から、ついた異名が“ゼロ・ディスチャージ”、もしかして妹が懇意にして貰っているのかな?」
「イングリットは、家を出てからのことはほとんど話さないのでね」
「あっ、兄上っ、積もる話は後でゆっくりとさせてください」
こいつが私のズロースを頻繁に盗んでいく話は内緒にしておかねばなるまい、感謝しろよ。
「あぁ、そうだねぇ、お前とも5年振りかな……ところで」
「本当に“3人の御使い”は、来るのだね?」
兄の炯々と輝く両の眼は、月夜の晩にも怪しく揺れて、私達を虜にした。
「夜叉神峠か……なるほど、信憑性はあるかもしれぬな」
約束の時間より早く、御一行と先日の情報屋の店、酒を売るにしては商売っ気の無い“アライグマの咆哮”を訪れました。
今のドロシー様方の当面の目標は、サー・ヘドロック・セルダンと呼ばれる大昔の策謀家が仕掛けたプランの内容と、まだ現存していると思われるその傀儡、ワルキューレが一画、ブルンヒュルデとか言う稀代の女戦士の調査です。
私はマルセル、同僚のデュシャンと共に法王聖庁の命を受け、“3人の御使い”様と“天秤の女神”であられるドロシー様の警護をする筈が、実際は実力不足で足手纏いになるばかりで、そんな我等を見兼ねたドロシー様方が私達二人を鍛え直すというので、未だに同道を許されているのです。
教皇聖女様のお許しは、ドロシー様が頂いてくれました。
私の出自を知ってなお、大した問題じゃないと諭し励ましてくれたドロシー様に、私は行けるところまで付き従うと決めています。
命の恩人というか、操られてとは言え世界を滅ぼす悪行に手を掛けた私をすんでのところで救って頂いたドロシー様に、私は私の残りの人生を捧げ尽くす所存だったので、どんな辛い修行にも音を上げる筈はないと思っていました。
大間違いでした。
曲りなりにも法王聖庁の暗部ともいわれる裏の汚れ仕事のために血を吐く程の鍛錬をしてきたこの身が、再び悲鳴を上げる日が来るとは思ってもみませんでした。
今も立哨して壁際に控えていますが、膝が笑い出すのを必死で堪えている状態です。
そういえば皆様方との意識が薄れる程の厳しい訓練過程で、新しい技術の可能性というか固有特異能力の発見がありました。
それは私の半分が魔族の血を受け継いでいるからなのか、鋭い嗅覚の恩恵です。
昔から匂いには敏感だと思っていましたが、言われて試しに集中して嗅ぎ分けてみたら、人間の場合なら例え対象が1000人いても1000人を嗅ぎ分けられるようです。
おまけに一度嗅いだ匂いはイメージとして記憶され、例えば犯罪現場に残された残り香で誰が現場に居たか特定できます。
この能力は、ドロシー様によりスナッフ・トレーサーと命名されました。
因みに、キキ様は日向で食べる焼き菓子のような香ばしくて甘い匂いがします。
エリス様は金属の冷たく鋭い匂い、ステラ様は柑橘系の突き抜けるような爽やかな匂い……ただドロシー様だけは、その時々で感じる匂いが違うので良くわかりません。
最も多く感じるのは、水の匂いでしょうか?
総髪の男は、魔術師年鑑にも載る有名人、キャスパル・レオン・カッシーナ卿でしょう。任務で魔導帝国に潜入したときに一度見たことがあります。
何故ここに、と思ったのですが、意外にも情報屋の女の実兄だとのことです。言われてみれば似ていないこともありませんが、うらぶれた下町の情報屋と飛ぶ鳥を落とす威勢の魔導帝国現宰相の取り合わせは、なにかとてもちぐはぐなものに思えました。
そのキャスパル・レオンですが、先程から一言も発せずにじっと御一行を窺いながら、脂汗を滲ませています。
何を考えるのか、ドロシー様方に探りを入れるような素振りです。
いい加減、無駄な試みだと気付いて欲しいものです。所詮、驚異の戦闘力、神力を有するドロシー様方に比肩し得る膨大な魔力の持ち主なぞ市井に存在する筈もありません。凡人の域を出ない団栗の背比べだと、何故分からないのでしょうか?
もう一人の五分刈りの男も見覚えがあります。
確か、“ゼロ・ディスチャージ”とかいう御大層な名前のちょっと、いや大分破落戸な冒険者……“不破女神の咆哮”で、サブ・リーダーだった筈、ということはイングリット・カッシーナ、このゴージャスそうに栗毛を結い上げたスレンダー美人の元同僚でしょう。
「いいだろう、何でも望みを叶えるといった手前がある、反故にはせぬ……望みを言ってみろ」
「あぁ、それと今日は思わぬ収穫で機嫌も好いから不問にするが、あまり不躾に人の中身を覗こうとしない方がいいぞ……最近、魔力の貯留槽を開発してな、2000人分の私の脳味噌が、常に魔力をチャージしている」
「如何に魔導帝国ガルガハイムが堅牢にしても、あたしは一瞬にして灰燼に帰すことができる……良く、覚えておくことだ」
言葉と共に気を発したドロシー様に当てられて、キャスパル・レオンも五分刈りの男も竦み上がっています。
「いえ、法王聖庁、教皇聖女聖下よりの直々のお達しを承っております、我がガルガハイムは決して“天秤の女神”御一行に敵対いたしませぬ……ただ、この目で直接確かめてみたかっただけ、無礼の段、平にご容赦下され」
「……敵対はせぬか? ガルガハイムも一枚岩ではないということなのか、まぁいい、思いも寄らずブリュンヒルデの足跡を辿るよすがを得られたのも、お手前の尽力あってのこと、感謝する」
満面の笑みで、豚になる道を回避できた喜びを振り撒いていたイングリットが、ことの成り行きを見守っていたようですが、改まって真剣な態度で懇願してきました。
「私の望みは、幼馴染の結婚のことなんですが……」
説明するのが苦手なのか、どうも要領を得ません……情報屋をやっている癖に、この説明下手は商売上致命的なんじゃないかとも思えましたが、話を要約するとこうです。
イングリットがまだ幼い頃、ガルガハイムの中心帝都アレクガモンには魔導の名門一家の屋敷街に隣り合って、地方属国領主や辺境伯などが帝都滞在中に居宅するための貴族上屋敷、所謂帝都藩邸街があった。
カッシーナ家本邸の隣に、かつて綿花のプランテーション農園で大きくなった旧亜人植民地、亜人の同化政策で今は属領化したレイノール・コンクエストの豪農領主エレノア家の帝都上屋敷があった。
エレノア家の家格は方伯といい、辺境伯に同格であったが開墾政策当時の潤沢な農園経営から、かなり勢いを持った一族だった。
末娘のビビアン・スージー・エレノアが、何不自由無く、また故郷へ帰ることもなく、ずっと帝都で幼少期を過ごせる程には贅沢が許されていた。
実はイングリットとビビアンが知り合ったのは、厳格な家風を嫌ってお転婆の限りを尽くしていたイングリットが担当の女家庭教師から逃げ出して、隣家との境にある大きな欅を伝い、エレノア家の敷地に忍び込んだりしていたが為だった。
程なく、余人を介さずに顔を合わせた二人は秘密の花園で(単なる裏庭だったが)、友達になる。年齢的にはイングリットの方が5歳も年上だったが、界隈では子供自体が少なく、互いに良い遊び相手だった。
玻璃のような青い目とストロベリーブロンドで無邪気に振る舞うビビアン、お人形のように愛らしいビビアンが、イングリットは大好きだった。
やがて年頃になるとビビアンは花嫁修行のための寄宿学校に入れられ、魔術アカデミー高等部の受験に失敗したイングリットは鞄ひとつで家を出奔した。
以来、数年に一度しか顔を合わせない関係だが、互いにほとんど唯一と言って良いほどの幼馴染みとして文通は欠かさず交わしていた。
近況報告でどうやら有力貴族と婚約したとの知らせを受け取ったのは半年前だったが、どうもマリッジ・ブルーというのだろうか意に染まぬ婚儀に悩んでいるような内容が書き綴られていた。
所詮、貴族の婚儀は政略結婚、家と家の繋がりが重要で、当人達の恋愛感情は二の次だ。素行不良で実家と義絶状態にあるイングリットが言えた義理ではないが、貴族の家に生まれた娘の宿命と受け入れるしかない筈だった。
筈だったが、二信、三信と続くうちにどうやらビビアンには他に想い人が居るらしいと分かってくる。
イングリットもうっすらと覚えているのだが、エレノア家の遠い親戚筋に同じレイノール・コンクエスト南部で領主をしているサンデパンダン公爵家の同年代の男の子が遊びにきていた。妙に見栄えの好い子だったと思う。
世間知らずのままのビビアンは、どうやら恋煩いという麻疹に罹ってしまったようだ。
胸騒ぎを感じたイングリットは独自に調査を開始した。
使い魔を飛ばし、裏の情報網を使って事実を浮き彫りにしていく。
まず、婚約の儀を交わしたトリスタン・チャップマン伯爵の評判を集めて評価していく。
東部に自領を構えているが、近くの貿易港に共同出資の船会社“ゲイリー&チャップマン商会”を立ち上げて10年になる。
南方熱帯地域の何ヶ所かに香辛料貿易を主業務とした“東ペネロープ会社”を展開して、経営は順調に推移している。
3年前に流行病で妻を亡くしてから、寡夫を通している。十人並みの顔貌だったが、まずまずの優良物件と言っていい。
何より、酸いも甘いも噛み分けた苦労人と言うところが、好感が持てる。
資産も十二分にある。
エレノア家は、近年、小麦相場に手を出して負債をかかえ、自領経営の資金繰りに悩んでいた。トリスタン卿との婚姻は願ったり叶ったりの筈だ。
一方、サンデパンダン家の息子とおぼしき男は、跡取りでも何でもなく、領主が使用人の女に産ませた庶子だった。
しかもサンデパンダンは家格こそ公爵だが、無能の当主が続いたせいで今は斜陽の一途を辿っている。
容色以外に何の取り柄も無く、世渡り上手の処世術ばかりに長けた胡乱な男だったが、身分から正式な社交の場には出て来れない。
だと言うのに、プライベートに開かれるお茶会などに何処から聞き付けたのか頻繁に顔を出し、大方は顰蹙を買うのだが、中にはこの見た目だけに惹かれるご婦人方も居るようで、それなりに浮名を流していた。
最近、幼馴染みのビビアンが婚約したと知り、何かと粉を掛けているらしい。
間違いが起きなければいいなと思っていた矢先、どうも不倫に及んだらしい事実が伝わってきた。それも一度や二度ではないらしい。
信じられぬことに何か弱みを握られているのか、エレノア家でも見て見ぬ振りをしているらしい。
社会の秩序、風紀の問題以前に貴族の婚儀は神との誓約、つまりコミットメントだ。オールドフィールド公国正教は婚外交渉を認めていない。
事実が露見すれば、醜聞どころか死罪さえあり得る。
「いや、話は分かったが……何か他のにしないか?」
「死んだ婆様の遺言で、他人の寝取られスキャンダルには関わるなと言われていて……」
話の途中から、会談のテーブルに肘をついて眉間を押さえるように俯かれてしまったドロシー様は、瞑っておられた目を開かれると開口一番、まさかの前言撤回……一同、目が点になっています。
まぁ、ドロシー様にしてみれば無理もないのですが……
「何でも叶えてくれるって言ったじゃないですか?」
「うん、まぁ、そりゃあそうなんだけどさ、苦手な案件て言うかあっ……」
最近分かってきたのですが、動揺されたときのドロシー様はほとんど素の話し方になってしまいます。今までの威厳は何だったのかと言う程、砕けた喋り方はそれはそれで人間臭くはあるのですが……もうそろそろでしょう、こう言った場合の決定権を持つキキ様が無言の圧力を掛ける筈です。
「お母さん?」
そら、来ました。キキ様の真っ直ぐな視線に見詰められて、耐えられるのはカッキリ3秒です。
「うぅっ、分かったよっ、大人は、嘘吐かない!」
「上手く、ことを修めればいいんだな?」
覚悟を決められたドロシー様は、情報屋の女、イングリット・カッシーナ、実兄にして魔導帝国宰相が一人、キャスパル・レオン卿、五分刈りの男、グレゴリー・ディクスンと順番に睨め付けていかれました。
最後に私を睨め付けられたのは、もしかするとさっき含み笑いをしたのを悟られたのかもしれません。
きっと、明日の朝練がより一層厳しいものになるでしょう。
でも望むところです。気絶してドロシー様の腕に擁かれる一時は、私にとって至福の瞬間なのですから……
「あたし達の遣り方は少々苛烈だ、それで納得して貰う」
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星が降るような、澄み渡った夜空だった。ツンとした森からの清涼な香りが空気に混じっているような気がした。
貴族には明文化されていない自発的な無私の行動を伴う不文律の義務がある筈だった。所謂、ノブレス・オブリージュと言われるものがそれだ。
然るに今見ているのは、そんな高貴な心構えとは無縁の、獣のような交わりだった。
ベッドが軋む音に混じって、とても嫌々犯されているとは思えない艶めいた呻き声が漏れていた。
睦言は、――フィアンセより自分の方がずっと上手く貴女を気持ち好くさせることができるという間男の科白に応えて、嬉しい、もっと激しく愛して、もっと一杯突いてとかなんとか、そんな他愛無いどうでもいい内容だった。
聞いているこちらには滑稽過ぎて、気の短いエリスが我慢がならなかったのだろう、組んずほぐれつする二人の上に仁王立ちになると、男の尻を足蹴にして、踏み抜かないよう加減してだが、力一杯押し下げた。
男も女も、蛙の潰れたような悲鳴を上げた。
「浅ましい声を出すんじゃない、人払いと静音の結界でこの部屋は包んである、助けを呼ぼうとしても無駄だ」
傍から聞いていても、エリスのドスの利いた凄みには、荒事が得意だろうとなかろうと大抵の常人は震え上がるだろう、と思われた。
「夜分、邪魔するよ、他人の濡れ場を覗く趣味は無いのだが、悪いが現場を押さえた方が話が早いと思ってね」
豪勢な象嵌寄せ木細工の天鵞絨張り椅子に腰掛けて、透明化を解除した。
キキは、曲線フレームのコンソールテーブルに座り、ステラ姉は片膝をついて、中国趣味に仕上げられたローキャビネットに乗っかている。
マルセルとデュシャンには、窓際と廊下側のドアを守らせている。
「あまり乗り気じゃなかったんだが、何でも望みを叶えると、イングリット・カッシーナと約束してしまったのでな……」
すっかり怯え切っている様子のビビアン・スージーだったが、イングリットの名前を聞くと筋反射のようにビクッと身体を強張らせた。
まだベッドの上で抱き合ったまま、顔から血の気は引いていたが、頬といわず、胸、尻といわず、どちらのものとも知れない体液をつけて、竦み上がる格好は、とてもじゃないが他人様に見せられるものじゃないだろう。
「大体、あたし達にお貴族様の姦淫を裁定させるなんて、そもそもが間違っていると思うのだが……まずビビアン嬢、あんた避妊してないよね?」
状況が呑み込めないまま、ただ恐怖と羞恥におどおどして己が裸体を隠すことも忘れた哀れな女に問うてみた。
「道ならぬ恋に身を焦がすもいいが、このまま婚姻が成り立ったとしても、この猿と逢引きを続ければ、孕む可能性もある……そのときに、どちらの子種か、お前は悩まぬというのか?」
「よしんば托卵の子と知りつつ、産んでみて、長じると共に猿の面影が見て取れるようになっても、お前は堅実な亭主の妻として、人の親として少しも良心に呵責が無いと、言うのか?」
「酷いっ、私はそんなっ……」
泣けば許されると思っている、そんな世間を舐めた女が多いのが貴族社会というものかもしれなかった。いや、大概は真面だと思いたいが………
「……酷い? そういう酷いことを、お前はしようとしてるじゃないか? 自覚は無いのか?」
「だっ、だっ、誰なんだ? 物盗りか? ここがエレノア家の館と知っての狼藉なんだろうなっ!」
醜く叫ぶ貴族のボンボンは、この期に及んでも権力を笠に着るしか能の無い、度し難い低能だった。
「誰が喋って良いといった?」
幾ら知行地があるとはいえ、没落する公爵家の庶子に何程の価値があるのか分からなかったが、全くもって中身の無い男だった。
五体を固縛魔術で縛ると共に、理力で持ち上げ、壁に押し付けた。
少しばかり痛い目に合わせても、こいつが改心することは無いだろうが、同時に優しく扱ってやる必要性も無かった。多少壁がひしゃげ気味だが死ぬ程のことはないだろう。
あまり煩いので、静音魔術で声を奪う。
「こいつの真心とやらが、奈辺にあるか訊いてみるとしよう、さぞや甘ったるい愛の囁きがあった筈だからな」
「猿男、お前はビビアンを愛しているのか?」
(うぅぅっ、好いた女が、他の男の嫁になる、一緒に暮らせぬのなら、せめてビビアンの家庭も滅茶苦茶にしてやる、この女は俺の肉便器として生涯従わせる)
(股の緩い女だ、フィアンセのことは良く知らないが、使い古しの女を宛がわれるのは、いい面の皮だ、ざまあみろ)
(昔から、言い成りになる頭の弱い女だったが、これ程好き者とは思わなかった、きっとスージーは快楽のためには何でもするようになる)
男の心の声が奔流となって、溢れ出す。
ビビアンに聴かせるためだ。
「よく語ってくれる、真実を吐露させる魔術だ……上辺を甘言で取り繕う輩にはよく効く」
「自分がどう思われ、蔑ろにされていたか、頭の弱いお前にもこれで分かったと思うが、まだ足りぬか?」
受け入れ難い真実が少しばかり辛過ぎるのか、フルフルと頭を振りながら、女は嗚咽していた。
変わらずベッドに立つエリスの、自分を虫螻のように見下ろす視線を受けながら、少しは己れの莫迦さ加減を自覚したようだった。
ベッドに起き上がり、手放しで泣き噦る女の目の前に映像投影用の魔法陣を開く。先程までのビビアン達の痴態を再生して見せた。
「お前の悶える様、まるで盛りのついた雌犬みたいだろう? 輿入れ前の娘がセックスの虜に成り果てて、挙句の果てにそのだらしなく蕩けるように歪む善がり顔を平気で晒して、まるで痴呆のように涎を垂らす無様で淫らな花嫁の姿を、お前のフィアンセに見せられるというのか?」
「恋は盲目? 違うだろう、お前はただ、犯されることの興奮と悦楽が忘れられなくなっただけだ」
「婚約中の身でありながら、純血を奪った強姦男に逆上せあがり、その後も逢瀬を重ねて快楽に狂った……婚約者への非道い裏切りだ、お前はどう償うというのか?」
泣き崩れるビビアンだった。
元は流麗だった美貌なのだろうが、今は見る影もない程に不細工だった。
深窓の令嬢と言えば聞こえは良いが、他人の本性を疑うことを知らぬ、世間知らずも良いところだ。人生を生きるための知恵を身に付けてこなかったのは、この娘の罪と言えるだろう。
「貞節を捧げるべき婚約者を裏切り、こいつの与える陵辱に服従したお前に遣り直せる機会を与えるよう、イングリットに依頼されている……持つべきものは友達だな、立場を超えて親身にお前のことを心配していた、どのような成り行きになろうとも、一度礼を言いに行くことだ」
私は最初に腰掛けた椅子から立ち上がることもせず、ビビアンに最後通牒を突きつける。側に寄れば、神威の炎が彼女を灼いてしまうかもしれない。
自分のことに置き換えて、尚更に赦せなくなりそうだ。私はソランに対してどんな贖罪ができるだろう?
「選ばせてやる、ひとつはこの男に付き従い添い遂げる道だ、その場合は七面倒臭い婚約破棄の手続きは、このドロシーが請け負う」
「ただし実家の庇護は受けられると思うな、着の身着のままお前達は放逐される……当然だろう、お前達は貴族の義務を何ら果たさぬただ飯ぐらいになるのだからな、物乞いなどをすれば命を繋ぐことも可能かもしれない、もしやするとお前の情夫は、身体を売って稼いで来いと売春を斡旋するかもしれない、だが愛しい想い人のためならば、いと容易いことだろう」
「両名共に貴族籍は剥奪、絶縁を証する勅許離縁状が発行される可能性もある」
「それと、婚約を破棄される何の罪も無い善良な婚約者殿は少なからず不名誉を被るだろう、更にお前の両親も等しく恥を掻くことになるが、生きることに必死なお前は、そんなことなど気にしている余裕は無くなる」
追い打ちを掛けられたかのように、ビビアンは恥も外聞も無く泣き叫び始めた。貴族の女は、このように乱れるのを重々戒められている筈だったが……
「もうひとつは、更に辛い荊の道かな? この馬鹿男と決別して、未来のご亭主殿に心の底から詫びることだ……、ただ、婚約者殿は今本気で婚約を破棄すべきかどうか思い悩んでいる、お前の不貞の事実を知っているからだ」
「何を驚くことがある、知られていないと思う方がどうかしている、世間はお前達のような鈍感さでは生きていけない……」
蒼白になって泣き崩れようとするビビアンの目の前に、遠見の魔法陣を展開する。
映し出すのは、同じ魔導帝国の属領レイノール・コンクエストは東に居を構えるトリスタン・チャップマン伯爵の砦だった。
質素な執務室で、伯爵は一人思い悩んでいる。伯爵の心の声を拾って見たが、案の定こちらの意図した通り、目下のところ、一番の悩みは香辛料の相場の値動きなどではなく、伯爵にとっての姦婦、ビビアンのことだった。
(悪い娘ではないのだが、竹馬の幼馴染か何か知らないがあの公爵家の放蕩息子は頂けない、このまま素知らぬ振りで婚儀を結んでもいいものかどうか……)
(間者の報告では何度も密通を重ねているらしいし、他の男の体液で滑るような嫁を、果たして俺は抱けるかどうか自信が無い)
(最悪、名目上の正室として生涯寡婦を通して貰うか……身から出た錆とは言え、それも可哀そうな気もする)
「……と、お前の未来のご主人様は思っている、意外と男は潔癖症でな、チャップマン伯爵のように他人の精が染み付いた女を毛嫌いする者もたまに居るのさ」
「そう思われているチャップマン伯爵に許しを請い、小間使いだろうと端女だろうと何でもいい、生涯を通して誠心誠意伯爵のためだけに仕えると誓うなら、隷属の誓約紋をくれてやる……何度かの茶会でも、お前は伯爵の、未来の夫の人となりを知ろうともしなかった、そんな伯爵に尽くすことが、果たしてお前にできるだろうか?」
「伯爵の持ち物として、もしこの先伯爵がお前に見向きもしなくても、お前は伯爵から離れられない、それが嫌だったら、お前なりの心からの誠意を見せることだ」
「どちらを選ぶ?」
苛烈な選択肢はどちらを選んでも不幸になるしかないが、前を向いて生きると決める道は後者しかない。ビビアン、あんたはまだやり直せる筈だ。
この娘の行く末を思って、少しばかり涙が滲んだ。
私にこの娘を断罪する資格などありはしないのだと、私自身が一番良く分かっている。
ビビアンが私を見ていた。涙を滲ませた私をじっと見詰めている。
最後の最後で、ボロがでたか?
この打ちひしがれた女は、何を思うのか、涙を堪える私に何を感じるのか?
「これより成婚の日まで斎戒沐浴を欠かさず行い、伯爵の足許で許しを請い続けたいと思います、伯爵にもしお心を開いて頂けなくても、私は伯爵様に傅き続けます……私の願いは聞き届けられるでしょうか?」
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やけに月の綺麗な深夜だった。
エレノア家の敷地で、小高い丘があったので反省会を開いていた。
「大体、何で“何でもひとつ望みを叶えてやる”なんて言っちゃうかなあっ、大盤振る舞いもいいとこでしょっ」
「あうぅっ、うっさいよエリス、馬に人参ぶら提げるのは好い方法だと思ったんだよ」
「ブリュンヒルデを探しに行く筈が、こんな、しなくてもいい寄り道迄しちゃってさ、挙句の果てに世間知らずのお姫様の不倫現場まで踏み込むなんて、遣っちゃいました感、半端ないよ!」
「悪かったって、ご免なさい、確かにこの案件はあたし達の領域じゃない……でも、あの情報屋の女、イングリットが幼馴染を想う真剣さには絆されるものがあったろう?」
答えながら、ギブソン、レスポールの最高級品、楓の胴のギターをチューニングしていた。
これもステラ姉から譲り受けたものだ。
ステラ姉は、自分愛用のドラムセットをセッティングし終わった。
ギターはマッキントッシュのパワーアンプと、JBLのスピーカーキャビネットに繋げてある。フットペダルのディレイ装置はシンプルなものが欲しかったので自作した……入手できない電子部品をナンシーに供給して貰ったら、とんでもないものができちゃったけど。
「まぁ、何はともあれ解決したよ……あれで良かったのかどうかは、これからだけど」
「やっぱり“Still In Love With You”には、泣きのギターが無いと駄目だと思うんだよね」
エレノア領内の住民の近所迷惑も顧みず、おもむろに弾き出す夜間のギター、演奏したいときに演奏し、唄いたいときに唄う身勝手な死神達の一曲を聴くがいい。
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エレノア領では多くの者が深夜に女神の唄を聴いた翌朝、サンデパンダン公爵家の正門に一本の磔刑台が立った。
全裸に剥かれた公爵家の庶子だったが、自重で悶死してしまわぬように慎重に何本もの釘で打ち付けられていた。
意識も朦朧として、本人は口も利けない様子だった。
公爵家では慌てて、家来や使用人をして助け降ろそうとしたが、その瞬間に天空より雷撃が奔り、多くの犠牲者が黒焦げになった。
あまりのことに思い悩んだ公爵家は、午後になって魔導帝国直轄の魔導騎士駐屯地に泣き付いた。
よせばいいのに属領の保護権を盾に、手に負えぬ突然の暴虐をどうにかしてくれと願い出たのだ。
やってきた官吏の長は、一目見た瞬間、公爵を打ち据えた。
騎士としての叙爵があり隊長格とは言え所詮は一兵卒、普通だったら貴族、それも零落れたとはいえ公爵家に無体を働くなど考えられないが、このときばかりは罪に問われるべきは公爵側だった。
「この痴れ者が、この紋章が目に入らぬのかっ!」
気が付かなかったが、磔にされた不出来の息子の足許には一枚の紙が貼られていた。
見事な活字体で大書された内容は―――この者、不義密通をはたらきし廉にて磔、晒し刑に処するによって、石礫を投げつけよ、もし違背する者、助け出さんとする者あるとき、更なる災厄が降りかかる
とあり、最後に竜とケルベロスと盾と乙女が描かれる見事な紋章があった。
「この紋章こそは“3人の御使い”様が御印、余人が騙ることはできない」
「これに逆らうのは、オールドフィールド公国正教を初め、法王聖庁より密書を受けている各国為政者をも敵に回すと知れ!」
言い終わるが早いか、百人長は部下に命じて罪人に石を投げさせ始めた。
サンデパンダン公爵の没落に拍車が掛かって行ったのは、言うまでもない。
不義密通の相手が誰だったのかは、厳重に箝口令が敷かれていた。
暫くして、“ゲイリー&チャップマン商会”のチャップマン伯爵の奥方がとても奥床しく、また夫に甲斐甲斐しく傅く姿が人々の目に留まるようになる。
魔導帝国の属国領レイノール・コンクエスト界隈で幾久しく話題になるには、それなりに人々を納得させるだけの献身が必要だったろうに、奥方は労苦を厭わなかった。
何かに贖罪しているのではないかと思われるほどに、誠心誠意尽くした。家政婦に任せておけばいい、床の拭き掃除なども率先して行っていたようだ。
あまり社交界には出てこないが、必要以上にへりくだる奥方の姿に皆、首を傾げたものだが、夫である当主トリスタン・チャップマン氏も慈しんでいるように思われ、近年稀にみる鴛鴦夫婦として引き合いに出されることが多かった。
奥方は、主婦としての礼儀作法だけではなく、領地運営や投機、先物買いなどの商才にも才覚を見せ、豪商チャップマン家の栄華と繁栄を盤石のものにした中興の祖として、後の世に伝わる。
ただ、長女を授かってからは、まだ幼いうちから婦女子の嗜みというか、処世術、心得、行儀作法等々、非常に厳しく奥方自らが指導していたという。
ノブレス・オブリージュ=1808年ピエール=マルク=ガストン・ド・レヴィの記述「noblesse oblige」を発端とし、1836年オノレ・ド・バルザック「谷間の百合」にてそれを引用することで広く知れ渡ることになる
貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理であり、それは基本的には心理的な自負・自尊であるが、社会的圧力であるとも見なされる
“Still In Love With You”=この曲のオリジナルはシン・リジィで「ナイト・ライフ」(74)に収録
元々シン・リジィのフィル・ライノット自身が作曲する中でも隙間の多い情感豊かなトーンをよく用いたバラードの名曲、2011年に出した「Ultimate Collection」でシャーデーがカバーしている
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34話、36話のサブタイトルを改編しました
(リズムが悪かったので)





