35.薔薇王の種子は水に流れて……
「問おう……」
「“天秤の女神”とは何か?」
魔電脳盗聴防止用閉鎖チャンネルの秘話スクランブラー・ログインでのテストを兼ねて、第一回眷属者連絡会議を開いていた。このための異相スペクトル空間創出魔術式と特殊邪術“クラインの壺”型魔法陣を開発するのに、ざっと1ヶ月近く掛けた。
魔術による電脳空間を創り上げたのだ。情報の多重圧縮で、ここでは時間の流れも無きに等しい
砕いて言うとコミュニティ・ネットワーキングで我が一族郎党を集めて、問い詰めていた。
(其は56億7千万年後に全てを裁定する堕天ボーディ・サットヴァ弥勒だ、我はその者の下僕になり、共に成長せよと、女媧様に言いつかっている)
「……56億7千万年とは大きく出たなっ!」
やはり、プリ……私の最初の眷属にして一番の傍若無人を自他共に認める荒ぶるケルベロス・ドラゴンは、確実な使命を以って私に仕えている。
相方のシャルも同様と思えた。
「ナンシーは何処まで知っている?」
(私のデータには、メイオール銀河文明、スリープに着くまでのヒュペリオン大聖国の興亡を通じて“天秤の女神”というものについては特筆する記録がありません、一応言っておきますが、私には嘘を吐く機能も、隠し事をする機能も備わっておりません……ただ、ヘドロック・セルダンが、強くその出現を待ち望んでいた、と思われる確証を掴んでいます)
しかし巨大要塞戦艦の舳先にへばり付く、これまた巨大な私と瓜二つな船首像には、額に赤い印がある。
あれは、どういうことだ?
(ヒュペリオン文明が滅びた当時は、私達ニンリルの血筋が最もかぼそくなった時代だった……けれど、少なくとも“天秤の女神”という存在は200万年前の当時の宗主国には伝わっていなかった)
(ニンリルの趨勢の中で“天秤の女神”が生まれると、まことしやかに囁かれるようになったのは随分と後世になってからだと思う)
私の中に流れ込んでいる、過去のニンリル達の人格が言いつのる。
「ジャミアス、お前は知っている筈だ……最初にあたしの顔を見たお前は、あたしを“天秤の娘”と呼んだ」
(……知ってるけど、教えなぁ~い)
「そうか、そうか、ジャミアスさんは白を切ると?」
(言っておくが、ドロシー、宿命に抗うつもりがあるのなら、妾に自分が何者なのか尋ねるなどせず、脇目も振らず自分の信じる道を目指すが王道、他人への忖度などに価値は無い筈……違うと言うのなら申してみよ)
ジャミアスの態度は、いつになく真剣なものだった。
神羅万象己が如しと豪語する精霊王は、あらゆる世界のスクロールを統べている……つまり、あらゆる並行世界に自由に出入りできる筈なのだ。
「知ったふうなことを……ガラティア様は、何かこの場で話せることはあるのか?」
(私は並行世界を守り統括する“千年世紀守護神”からの密使、エージェント候補に関する情報は最重要機密、これを開示する権限は与えられてはいないのです)
「ふぅーん、ガラティア様は今後正式に……“エロオッパイ”呼びを永久認定とする!」
(うぅっ、貴女と私は一蓮托生、例えこの身の真名がエロオッパイに堕ちようとも、オッパイしか取り柄の無い頭空っぽのポンコツ雑魚女神と蔑まれようとも、私は貴女の盾となりて貴女を守り抜く……守り抜いてみせる)
なんだ、そりゃ? 何の罰ゲームだ?
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任務と割り切っていた筈だが、流石にこの方々に過去の勤めでの色仕掛けや床上手を極めるための特殊訓練のこと……裏の顔を知られるのは嫌だった。
子飼いでいずことも知れず伴われてくる構成員も居たが(マルセルがそうだった)、バスティエ・デュシャンは信心と貢献のために“人らしさ”を捨てた非情の家系を出自とする、法王聖庁内でも表立った管轄には決して出てくることの無い秘密の勤めに生きる身分だ。
自分の中では折り合いを付けている筈であった。
公国正教と教皇聖女のために捨て石となる、そうと覚悟した人生だった。
数日を一緒に過ごしただけであったが、この屈託の無い親子というか、一団が好きになった。
市内を巡るときは強力な認識阻害があるので然程は意識しない常識外れの神人染みた覇気と武威の輝き……人目が無いときは時折放たれるそれらのオーラに、気も失いそうになるのだが、それを補って余りある慈しみがデュシャンには感じ取れたのだった。
自分でも屈折してると思う。清濁併せ呑む、毒の部分だけに掛けた自分の生き方を疑ったことは無かったが、何気ない風を装うのは神経を磨り減らす。
この方々の前で取り繕うのは、何故か後ろめたかった。
なのに、最初から全て知られていたなんて……
城塞都市アスクレピオスをたずねる使節団の随伴をせよとの思し召しに従った。
野山を駆け巡り、常識外れの速度で疾走する“神の乗り物”に載せられて目を回した。
ガード差し上げる立場なのに昨晩は逆に歓待されてしまい、高級というか最早アーティファクトといっても過言ではない、見たことも無い高機能なテント、羽毛シュラフなどを頂戴してしまう。
少しばかり思案顔だったドロシー様が、“くれぐれも取扱いに注意するように”と言って後から下賜くださったのが、無限にホワイト・ガソリンという精製燃料が補充される魔道具化したフューエル・ボトル……ホテル・ナンシーでは(知らなかったが、今諜報部の優先調査事項になっている隣の大陸から渡って来たとされる幻の宿泊施設は、ドロシー様方が運営されているらしい)、一見の客には決して販売することの無い危険指定ギアとのことだった。
悪用や、慎重さを欠く経験不足の冒険者が事故を起こさないよう相手を見定めてから売るのだという。
燃料さえ目途が付けばと、高火力だというシングルバーナー・コンロ数種類とランタン、暖を取るためのストーブとかも頂いて、恐縮するしかなかった。
「デュシャンお姉さん、ダメだよっ、警護役が上の空じゃお勤めを果たせないよ、どうしたの?」
訪れた城塞内の評議会議事堂執務棟を進む御一行からキキ様が振返られ、気遣われながらも叱声を受けてしまう。
「もっ、申し訳御座いません!」
「……まぁ、そう責めてやるな、一般人は心を読まれるのに慣れていなくて当然、それを知れば心穏やかにという方が酷というものだ」
ドロシー様が歩きながら、執り成してくださる。
「えぇっ、まだ、それ引き摺ってたの?」
「キキ、誰もがお前のように辛酸を舐めている訳じゃない」
ドロシー様がやんわりと窘められた。
「すまないな、デュシャン君、実際のところキキは生まれながらのテレパスでな……テレパスというのは何もしなくても他人の心が読めてしまうんだ」
「物心付く頃から垂れ流される世の中の悪意を聴き続けたこの子は、孤児として掏摸の集団に居た」
「爪弾きにされたこの子は私刑で指の腱を切られて、暫く連れ込み宿に忍び込む枕探しのようなことをしていた、その時の見聞から男女間の醜くも不検束な有様も、大抵のインモラルな出来事も見知っている……この子はこの間8歳になったばかりだ」
「友達と水遊びをしたり、メダカを捕ったり、摘み草をしたり、そんな人生が輝いて見えるだろう筈の幼少期を、ドブ泥で過ごした」
考えてみたことも無かった。
まだ女童と言ってもいい様相のキキ様は、私達でさえ想像もしたことのない汚濁の坩堝を体験してきている。
痛ましいと言う言葉を通り越して、尊くさえある。
城塞都市の麓に辿り着いて、高速移動用登攀ビークルを汎用戦闘車両用の格納ストレージに仕舞い、プラチナ同位元素アーマーの下に着込んだライダースーツをいつもの低反発パッド入り防刃フィッティング素材の戦闘服に着替える。
自分達の正装と思っている白い巡礼マントを羽織った。
聖都アウロラで、キキのために子供用の巡礼マントを購った……同じように白い緞子で仕立てたものだ。
マルセル達も普段の任務時の装束に戻って貰い、高台を登る。
山城を攻める雑兵を蹴落とすための、あれはバービカンと言うのだろうか、岩落としの溝が連なっていた。
城塞の中、薬剤師と錬金術と投薬医術の学級都市、アスクレピオスは草花と薬品の匂いに満ちていた。
門衛の誰何を法王聖庁からの特使として押し通り、主だった評議会委員に面会するも“薔薇王の種子”について知る者は居なかった。
何でも万能の妙薬として、そのようなものがあるらしいといったあやふやな話が聞けただけだった。
今また、高齢のために隠居した嘗ての最高評議会委員長にして特別顧問の地位にある、アスクレピオスで一番の博識と言われる老人のところへ案内される。
「ようこそ崇高なる巡視の御一行様、聖都アウロラからの使者をお迎えするなど何十年振りでしょう? 病に伏せる身なれば、かような姿でのお目通りをお許しください」
「いえ、こちらこそ療養中に邪魔をしてすまない」
アスクレピオス連合評議会の薬師元筆頭は蒲柳の質らしく、病弱かと思える顔色で療養の床から震える声で挨拶をした。
大時代な什器もそうだが、寝室とも思えぬ大広間に置かれた年季の入った瀟洒な箱型天蓋の寝台は古ボケ、煤けていた。
しかし壁を覆う綴れ織りのタペストリーと同様、古代の草花と神話の伝承を絵柄にした華麗で深みのある色彩の布が掛けられていた。
(脳腫瘍だな……長くない、持って2、3年といったところか?)
(……でも、何か、単なる悪性キャンサーの患部じゃないように見えるわね?)
(あぁ、ステラ姉も気が付いたか、おそらく何かの条件が揃うと特化されたセルの中の遺伝子が病巣を生み出す仕組みだろう、しかも、この悪性脳腫瘍には独立した知能とアイデンティティがあるようだ)
(出来物、腫物で憑依する妖魔の類?)
私等の遣り取りは早い、ほぼ瞬時だ。これも全て御老体との会話の最中に、心通スキルで通じ合っているものだ。何処でもできる井戸端会議は、その内容と緊張感を別にすれば結構楽しいのだが……
(違うな、エリス、この独特の粘着質のような悪意を放つ魂は人間特有のものだ)
(そして、どうやらこの御老人は、この間から話題に上っている稀代の天才科学者の影……劣化クローン体のようだ)
(この薬草園が護るは、“薔薇王の種子”、それは宇宙をも呑み込む生物兵器……私の最高傑作のひとつだ)
サー・セルダンの容姿そのものかどうかは分からなかったが、病人特有の皮膚の色ながら人当たりの良さそうな皺深い老人、とは全く違うと言っていい異質で強力な思考が飛び込んできた。
突如、猛烈な精神波攻撃が見舞われる。老人の脳に巣食う脳腫瘍の形をしたヘドロック・セルダンの意思、いや、意思のひとつといった方がいいか、
とにかくそいつは明確なブービートラップとして、敵認定された攻撃対象に凶悪な致死量レベルの精神波を放った。
「舐めるなよ……」
常在戦場、いつ如何なるときも死ぬる覚悟の我等に油断などあろう筈もない。敵陣にありては常に展開した加速反射に、精神波攻撃が届く刹那の瞬間、毒牙を打ち消す相殺結界を巡らし、この場の皆を死の淵から遮蔽した。
評議員の何名か、付き人、警護の者が衰弱死するのを防ぐ。
ボンッ!
薬師元筆頭の老特別顧問の頭が噴き飛んだ。
頭蓋のあった顔半分が飛び散り、脳漿を撒き散らして派手に噴水のように血糊が降りそそぐ中、すでに惨殺体と成り果てた老人がゆっくりと上体を倒していった。
こちらの結界が強力で、反射した精神波がカウンターになり、脳内が一気に加圧されたようだ。挨拶を交わしてから、ものの1分も経っていない。
悲鳴を上げて取り縋る取り巻き数名が、こちらを非難するような視線を送ってくるが、説明してやる暇も惜しい。
「標本室というのは何処だ?」
一人を掴まえて、強制音声で場所を確認する。素早くイメージを読み取り、その場所に転移する。
(先に行く! ここの様子が収拾したら、マルセル達を連れて後から来て……)
言い置いて先行する。
破裂した脳腫瘍が残したダイイング・メッセージ――“標本室、赤の113番”を、訳の分からない意思が逝った刹那の瞬間に正確に読み取ったからだ。
この場合、爆散があらかじめ準備されたシナリオ通りなのかどうかは別にして、目的は明らかに対象を危険に押し遣る、卑怯な罠には違いなかった。
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標本室は、時間流停滞魔法に守られていた。標本が劣化するのを防ぐにしては大層な結界だ。
硝子を割るように、標本室の豪壮で分厚い観音扉ごと、力任せに結界を蹴破った。
吹っ飛ぶ大きな鋳物扉は、轟音と共にそのまま内扉も破壊して残骸を周囲にぶち撒けた。
決して生易しくはない暴挙に、頭から血を流す管理室で働いていた係の者達が慌てふためき右往左往するのを尻目に、奥へと進む。
進みながら広範囲の治癒魔術回復魔法陣を発動させる。少々乱暴だが、スマートにやるよりも手っ取り早い方法を選んだ。
お上品にやってる時間も惜しいとばかりに、ショートカットを選ぶが決して最善手とは限らないのも承知している。
確かに慎重さは生き残るための至高……だが危険が差し迫っているかどうか分らぬときは、取り敢えず速度を優先する。
回避が確実になってから、そんなに慌てなくても良かったと笑われても、それはそれで済む。
取り返しが付かなくなっては、全てが終わる。
だからこその、速度優先……私にとっては拙速こそが常勝、全てはこれに尽きる。
迷えばそこで止まる。ほんの少しでも止まれば、判断と対処が、遅れる。そしてそこから導き出されるより良い結果が、溢れる。
前に進むと決めてよりこっち、運命を捻じ曲げても勝利を捥ぎ取ると決めている。
横紙破りのゴリ押しもまた、お手の物だ。
ボタニカル・キャニオンの“標本室”、私等凡百は別として、おそらく薬学、植物学に携わる者にとっては聖域だ。
およそ人類が確認した300万種ほどの世界中の植物標本が、薬師総本山の開闢以来連綿と採取され保管されている。
絶滅してしまった古代種さえも乾燥されたシードと共に、大切に保存されている。
自然光を防いだ保管庫を、赤い花の収蔵区画を目指して急いだ。
「派手に遣り過ぎよ、ドロシー、係の人達はストレス障害やPTSD症状を残すかもしれないわよ」
「レスキュー魔法陣には抗鬱、抗不安の効力も付与してある……一般人のメンタルは鍛えようも、底上げしようも無いからな」
ステラ姉達が追い付いてきた。
自然史博物館というカテゴリーじゃないから展示室がある筈もないが、奥へと進むうちに一部の博物学書や植物画が昔の技術で造られた硝子ケースに収まったり、ウォールナットの見事な骨董書見台に置かれたりといったコーナーに、丁度差し掛かった辺りだ。
「見て、これなんかライデン大学時代の昔の顕微鏡だよ」
「エ、エリス様、そっ、その、宜しいのですか? 貴重な品々だと思うのですが、そのように不注意に触られても……」
マルセルが畏れ乍らと、忠言に出たのは身に沁み込んだ盲目的な権威への諂いから、エリスが無遠慮にベタベタと触るのが感覚的に見逃せなかったようだ。
「油断するな、ここは敵地……こう見えても、エリスには毛ほどの隙も無いが、お前は心構えからして権力者に逆らうことの小市民的な恐怖に囚われている、それは我等が闘いの中で最も唾棄すべきものだ」
「……良い機会だから言っておく、我等は崇め立てられるを拒否する、と同時に謂れのない権威に諂うことは決して無い」
「32個のオー・パーツを探して封印する、先日、“暁の塔”で砕いた《ギゲル》は、最初のそのひとつだ……今また、“真・神器”のひとつが此処にあると知り、奪取せんと赴いた」
「我等が、今此処にあるは危険な器物の封印がため、ゆめゆめ忘れるな」
「こっ、心得違いをいたしました、お許しくださいっ」
マルセルは己が至らぬ考えを心の底から後悔し、こちらの本気の覇気に当てられて瘧のように震え上がり、涙を流さんばかりに顔面蒼白となった。
あまり心が狭い方ではないと自負するが、世界の命運が掛かっているかもしれぬとなれば、やはり俗人レベルの連れは邪魔だ。
分かってはいたが、覚悟が足りない。
「覚えておけ、戦場では非情に成り切れぬ者から死ぬ」
「でも、おかしいわね、何もかもが私達が到着してから始まっているようで、まるで導火線に火を点けて待っていたような、何か変な感じよ」
ステラ姉が、私もずっと感じている違和感を敢えて口にする。
二人に助け舟を出すため、話題を変えたかっただけかもしれない。
「仕掛けられたブービー・トラップに、まるでクイズかパズルのようなヒント……サー・ヘドロック・セルダンの壮大な計画の端緒をなぞっているのだろうか?」
「ところで赤い色の分類はこっちのようだな」
標本棚の引き出しがズラッと並ぶ木製保管庫が延々と連なり、後から後から増設していったであろう無計画なレイアウトが最初に踏み込んだ時から分かってはいたが、もう少し分かり易い番地の振り方とか無かったのだろうか?
それともセルダンがこの組織の開祖だとしたら、この“標本室”自体がパズルのために用意された可能性もあるのだろうか?
分類学上、植物の色による分類に何の意味も無いと思えたが、ここは花の色で仕分けられたスペースだ。
“赤の113番”とインデックスされた引き出しを、手を使わず理力で手許に引き寄せる。あらゆる面から危険や違和感をサーチングしている。
「ユーデンバールト、遥か昔の薬用虎耳草は花が赤いのだな」
引き出しに収まる植物標本は、硝子板のように平たい琥珀に密封されていた。
昔の技術なのだろう。
見事なアンシャル書体で書かれた標本名で、これが400年前に採取された雪の下だと分かる。
「何、何、種子が尿路結石を砕くのに有効と……ビーバーの肛門から分泌する香料、カストリウムと没薬ミルラ……」
但し書きを読みながら、標本を箱から出し、ひっくり返して矯めつ眇めつ精査する。
「見ろ、この見事な奥書、採取者は恋焦がれたお目当ての人物、盟主サー・ヘドロック・セルダンとある」
「この大きな葉の葉脈が気になるな、何か作られたような規則性が感じられる……あぁっ、そうかっ、これは後期大聖国文明の汎用プログラミング言語、コンテキストAだ!」
「ナンシー、スキャニング!」
「いやっ、待て……一度プレビューさせて仕舞えば、デコイのゼロナノ遮断も間に合わないかもしれない、ウィルスを仕込まれる可能性がある」
「ここはあたしが、やる」
肉眼を更に映像素子化してスキャニング、そしてバイナリィ・データをテキスト置換……どうやら即効性も時限式も含めて、ワーム、マルウェアの類は無さそうだ。
「意外と近い、“エンジェル・クリークという河川の東側にあるファントムランチ・パレスを目指せ”、とある……苦蓬バレーの近くらしいから、ここから20キロ圏内だ」
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ファントムランチ・パレスは打ち捨てられ、忘れられた薬草農園用の温室だった。ヴォールトアーチ構造のドームを中心に持つ、カリ石灰ガラスに覆われた建造物だ。
内も外も女王蕺草などの雑草で酷いことになっている。
この辺の珪石には鉄分が少なかったのか、ほぼ無色透明に近いものが出来ていたのだろうが、長の年月に風雨に曝されたためかこびり付く埃と摩耗ですっかり薄汚れた採光プレートのため温室は光を通さず、中は薄暗いと思われた。
「途中に上を通ったジギタリス農園も、ヘンルーダ農園も結構きつい匂いだったわね」
ホバリング・ボードを駆ったステラ姉が、法王聖庁からくっついて来たマルセルを小脇に抱えながら、口と鼻を手で覆った。
「苦蓬バレーは結構な開墾でハーブ栽培が盛んらしいからな、この奥は黄花鳥兜やフェンネル、バーベナ、カモミールなんかの畑もあるらしい」
もともとハーブは得てして独特の臭気をはらんでいるが、強化亜種だからかこれだけ群生すると耐え難いものがある。遠目でちらっと見ただけだが、菜園で何かの栽培促進をしている作業者は、皆何か防毒マスクのようなもので顔面を覆っていた。
「警戒の上、各自散開してクリアニングで突入、でいいの?」
エリスが自分より大きなデュシャンを同じく脇抱えにして、ボードでホバリングしながら突入時のパターンを確認してくる。
「無音制圧でやる」
愛すべき無慈悲な師匠のもとで散々ぱらシュミレーションさせられた、足音も装備の立てる音も極力抑えて自身も静音結界で包み、透明化の気配断ち、ウィスパーモードでやる特殊任務用の突入だ。
雑草生え放題の正面を避けて、裏手に着地する。
「あたし達の行動は早い、温度感知のサーマルスキャンや音波探知他でも怪しい反応はないが、突入後ものの10秒ほどで安全は確認できると思う、君達は後から来てくれ」
マルセルとデュシャンに言い聞かせて、私達は突入態勢を取った。
キキと私はハンドガンをツーハンド・ホールドに提げ、ステラ姉はバックアップのために破壊神シヴァの三叉戟、ピナカを構えた。
エリスはビキニ・アーマーを接敵制圧用に架装展開して、巡礼マントを取り去った。
(突入っ!)
互いの姿も分らない隠形スタイルなのでハンドサインではなく心通スキルを使っている。
硝子と支柱の壁に、絡み付く蔦ごと次元消滅魔法で突入用の穴を穿った。くぐり抜けるだけの小さな穴だ。キキはこの訓練をこなしていないので、私の後ろに付かせた。
すぐさま散開し、進路を互いにマッピングする。共有イメージにマッピングしながら、安全確認できたエリアを塗り潰していく。
加速モードで散開したそれぞれのルートを前へと進む。
火炎キャラウェイ・シードを採る喇叭姫茴香が伸び放題になっている。藪漕ぎをするのを避けて、空中に理力の足場を作って跳び進む。
鼠や他の齧歯類が棲み付いているし、藪蚊も凄い。
どうやら呪術用ローズ・オイルを精製していたらしく、朽ち果てた蒸留施設があった。手入れをしないのでほとんど枯れ細った黄昏ダマスクローズの品種改良種が咲いている。
儀式呪術香料種の強化交配実験をやっていたのだろうか?
今でも強烈な香りが、噎せるようだ。
(ねぇ、薔薇って接ぎ木で増やすよね、種から苗にするのはほとんど野薔薇の原種でしょ? “薔薇王の種子”って一体どんなものなんだろう?)
(……エリス、破裂した脳腫瘍は生物兵器と言っていた、だがそれももうすぐ分かる、目当てのものは間違いなくここにある)
探し当てたのは、建物の隅で野生種に近い水鉛香菜、所謂鉄錆コリアンダーの繁茂に埋もれた小さな祠堂だった。祀られているのは鶏卵程もある植物の種とも思えぬ土にまみれた球根とも、種芋とも区別がつかないものだった。
「この祠、かなり特殊な結界に包まれている、認識阻害の効果もあるようだ、おそらくここを訪れた者も、この祠があることさえ記憶に留めなかったと思われる」
かなり古い術式の複雑な結界……サー・ヘドロック・セルダンとやらは魔術にも精通していたのだろうか、それともこれは魔術以外の何かか?
用心深く細心の注意を払って、時限爆弾を解除する処理班さながらに紐解いていく。
結界を無効化した瞬間、何千億分の1秒といった彼我の差の油断があった。
「マルセルっ!」
後からやってきた法王聖庁所属の汚れ仕事専門の聖魔法士の若い方の片割れ、栗色の髪を細く何本もにロープ編みしたマルセルが、アポーツ能力の巧者なのは知っていた、
……いたが、ここで掠め取られる可能性は全く予測はしていなかった。
痛恨のミスだ。
“薔薇王の種子”は、一瞬の内にマルセルの手に引き寄せられた。
あらゆる場合を想定した危険対処に備え、刹那の反応速度と加速思考に特化したこの身が正可にしくじった。
“汝、驕るなかれ”、師匠の戒めが頭の中に浮かんで消えた。
師匠が無敵だった理由のひとつ、少ないヒントから事態を正しく理解する“神域帰納推論スキル”……私はそれを引き継いでいる。
引き継いでいた筈なのだ……私は何を見落とした?
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ドロシー母さんの後ろに付いて、突入を開始する。
まだ、この訓練は回数をこなしていないので今回はサポート役だ。
話に聞く母さん達の極限の修練は、師匠という人の方針で死に物狂いの限界を越えるものだったという。
死線を越えた経験の無い私には、本当の意味での母さん達のバディにはなれないのだろうか?
(あたしは、ドロシー母さんの足枷になっていませんか?)
そっと、ステラ母さんに訊いてみる。
(……例えばの話、ドロシーが完全燃焼するだけが目的の、ヤベー奴だったとしたら、キキにはそれを止められる覚悟がある?)
(私はね、貴女にそれがあると思っている………だから、そういうことよ)
(……良く、分かりません)
(確かにドロシーは強くなったし、これからも際限無く強くなっていくでしょう、やがては私達の師匠を超えてしまう程に)
(でも、師匠の所属するという並行世界の安寧を守る統括機関、便宜上ミレニアム・ガーディアンと呼ぶけれど、その組織がドロシーを高く評価しているのはただの殲滅兵器としてではない……当然のことよね)
(その揺るぎ無い判断への、鉄壁ともいえる絶対の自信)
(こうと決めたら梃子でも動かない、もう2度と間違えないという彼女の想いはそれだけ強い、つまり唯一無二の存在、それゆえの“天秤の女神”なのだから……)
(彼女の判断がやがて世界を変容させてしまうかもしれない、その重責は計り知れないわ、パラレル・ワールドを横断する調停組織が求めているのはその決断力よ)
(ドロシーが決めたことが、そのままこの世界のスタンダード、正義になる、だから誤れない)
(でも、母さんは長く悩みません)
身体加速を行いながら、ドロシー母さんのバックを守って四方を索敵する。
念動力で拵えた足場で空中を駆け、油断なく広範囲をサーチングして、無人の廃墟に害意ある何かがひそんでいないか真剣に探りながら、追走する。
(貴女も知っている筈よ、ドロシーの超加速思考のこと……悩まないんじゃない、時間を掛けて悩んでいる余裕をドロシーは自ら禁じ、封じて、枷を課した)
(判断が遅れることは、時として間違った判断を下すよりも更に悪い結果を招くことを、ドロシー母さんは悟っている)
(それだけに、素早い決断を下すため、人の意見には真剣に耳を傾けるわ、その集中力たるや並大抵じゃない)
(だけどドロシーの、その判断の多くの帰結は、キキ、貴女の気持ちを一番に考えてのことよ……こんなことをしたらキキが悲しまないか、嫌な気持になったりしないか、いつも気に掛けている)
(貴女はね、あの娘にとっての一番のコモンセンス……良心と良識の指標なの)
(迂闊も、粗忽も、自分の専売特許だと嘯くドロシーだけど、あの娘は肝心なところでは決して間違えない)
(私達3人は育ててくれた恩も、注がれた愛情も全て無碍にして、家族と故郷を売った……あの娘が行けるところまで行くと心に決めた以上、私とエリスはそれを支える、命ある限り私達はあの娘に贖い続けると決めている、貴女もその心算でいて)
ステラ母さんの言葉を噛み締めて、いつ日か母さん達に報いるために、せめて今は精一杯全力で生きようと思った。索敵も戦闘速度もまだまだだけど、いつかきっと追い付いてみせる。
……後で知ったことだが、暗号化されたセキュリティ・バンドを使ったP to Pの防諜独立回線もドロシー母さんには通用しないらしかった。この時の会話を、プライベートを尊重したドロシー母さんが傍受していなかったことを祈るしかなかった。
気が付くと、2人の聖魔法士、マルセルとデュシャンが追い縋ってこちらに向かっているのが感知イメージで見て取れた。
もうすぐ制圧も終わる。ドロシー母さんが、目的の場所を特定したからだ。
マルセルお姉さんの曇った表情が何故か気になった。この人は、普段は感じさせないが、その出自からいつも心に屈託をかかえている。
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裏切る心算も、謀る心算も、毛頭無かった。ただ、声が聞こえたのだ。本能を呼び覚ますような声が………
マルセルにとっても何が何だか分からなかった。
公国正教が待ち望んだニンリル神の系譜が生み出す“天秤の女神”、その人だと聞かされていた。命を差し出してもお護りするように厳命されていた。
当代の魔族を統括する魔王、人類が未確認だった幻の魔王と、その中心勢力だった魔都を殲滅した。
アルメリア大陸の山岳古都、シルベスタン・ジルベールで古の魔神イフリートの魂を鎮めた。
同じ西ゴート帝国のプリッツヴァルト三山では、“クミホの北壁”と呼ばれたダンジョンを壊滅させ、九尾の狐を調伏した。
調伏した筈の九尾の狐と、何故か伝説のケルベロス・ドラゴンが番いでゴンドワナ大陸の魔族領を制圧して回っている、とも伝え聞く。
隣国のパレルモ・ゾゾズーマでは、あろう事か悪魔崇拝の邪教“シナゴーグ夜宴教”と呼称する輩の隠れ蓑だったブールボワィアン大聖教を粛清した……私達にとっても寝耳に水だったが、今も各地に散らばったアサシン達を女神様の手の者が追ってらっしゃるのだとか……
紛う方なき当代の救世主、人間界と天界が待ち望んだ戦女神に違いなかった。
“3人の御使い”様は、それほどのものだった。
私達有象無象が、寄ってたかってもどうこう出来る存在じゃない。
心の内を見透かされるのも、阿修羅神の側仕えの身としては寧ろ当然なのだろう。しかし、呪われた自分の血の秘密を知られるのは少々耐え難かった。
古来より、魔族との争いに対応した強力な戦力を得んとして魔族、妖物、物の怪とまぐわい、半妖を生み出すことに専念した、半分悪魔に魂を売った勢力があった。
マルセルの出身もそんな、呪われた一族、“薄暮の里”と呼ばれる一般社会とは隔絶した深山幽谷は隠し砦の集落だった。
もともとは職業的傭兵を輩出していた部族だが、いつしか禁忌の所業に手を染めた。マルセルの受胎は里の者に聞いた限りでは、母は出産と同時に死んだらしく、父親というか雄の精は不純を司る二角獣、バイコーンが掛け合わされた。
ひた隠しにしているが、半魔の身は今も感情が激すると額に2本の角がせり上がった。
獣姦どころか、相手は馬の姿こそしていても魔獣だ……それは悲惨な種付けだったという。
人類は弱い。英雄が群雄割拠した時代は遥かな昔だ。新しい戦力を得るために手段を選ばなかったとして、誰がそれを責められよう。だが、当事者にしてみればまた話は別だ。
バイコーンの血が為せる業か、魔力量は驚異的なハイスペックだったが、やがて人買いの手を経て、法王聖庁にお世話になったのは良かったのか、悪かったのか……信心と己が薄汚れた魔族サイドの半身が原罪になり、板挟みに苦しむ人生だった。
自分は、清く正しい道とは真反対の禁忌邪道の末に生まれた呪われた存在。このままおめおめと地母神ディアーナに、悪びれもせずお仕えしていいものか?
朋輩にさえも、自分の正体は話せないでいる。
そんな生まれゆえだろうか、私は人一倍、権威とか教義とか倫理に弱い。
ついつい盲目的に従いたくなるのだ、標本室でも手厳しく戒められてしまった。
然るに、ドロシー様は全て御存じだという。
呪われた私の正体も知られている、という解釈でいいのだろうか?
このまま、汚れた身の私がお傍に仕えてもいいのだろうか?
私などは消えてなくなった方がいいのではないだろうか?
そう思うと、私を否定する世の中の清いもの、尊いもの、崇めるべきものが急に疎ましく感じられた。
朽ちた温室に入ると、引き寄せられるようにその祠の在り処に辿り着いて、ドロシー様が結界を除去するのが分かった。
(滅びを受け入れよ、さすればこの世は浄土と化す)
とても魅惑的な誘いだった。声が聞こえたのだ。
抗えぬ誘いだった。
私はその瞬間、私の得意技のひとつ、アポーツ能力で“薔薇王の種子”を引き寄せた。
***************************
間に合わない。
“薔薇王の種子”は発動する。
偶然なのか、必然なのか、帯同した法王聖庁の娘の一人が操られてか、自分の意志でかは分からないが、“薔薇王の種子”は完全に彼女に奪われた。
光の速度に反応する私が正可に遅れをとった! 出し抜かれた……これは、もしかして“因果の遮断”か?
奪われたその瞬間に起動のシークエンスが嵌まる、カチリッといった感じの音が(多分錯覚だろう、実際にはそんな音はしていない)伝わった。
防ぎようが無いのが分かった。
考えろ! この場合の最善策は何だ?
《ギゲル》のときがそうだった。誰かが強力にこの世の消失を願う程の厭世観、現実の全否定を感じるときに、ヘドロックのオー・パーツは反応する。
ほぼ間違いない。マルセルの魂を核として“薔薇王の種子”が何かをする。
取り返しの付かない何かだ。
「ガラティアァァッ!」
できるかどうかわからないが、取り敢えず現状保存と即効性の浸食フェンスだ。
変な妖精神が棲み付いている魔導クロノメーターの副次ツール、時間停止機能を、対象を絞って作動させるまで、1秒弱要した。
その間に半径80から100kmが捕食されていた。
驚異的な繁殖スピードだ。物理的な法則を無視している。
それは、茨のような棘付きの太く節くれだった蔓とも樹木とも付かぬ植物……正しく、星を滅ぼす生物最終兵器と言っていいだろう。
発芽して一瞬の内にボタニカル・キャニオンも、城塞都市アスクレピオスも付近一帯蹂躙された。おそらく、生き残っている者の方が少ないだろう。
「待て! ナンシーっ、防衛迎撃衛星は待機だ!」
キキのバックアップ・ガードシステム、惑星上の遥か天空に浮かぶ自動追尾攻撃軍事衛星達が、一斉に各種砲門を開くのが分かった。
(しかしっ)
(しかしも案山子もない、待機だっ!)
あたら強力な直射系火力をピンポイントにせよ、広範囲にせよ、無暗と安易に撃ち込むのは得策ではない。
良く分からない段階での闇雲な反撃は、相手をいたずらに刺激してしまう。
(止まったの? クロノメーターの限界は何処まで?)
隙間なく絡み合い強固に茂った野茨の中で、咄嗟の判断でデュシャンを引き寄せたステラ姉が最強出力の物理結界で球体の空隙を保持していたが、身動きは執れないようだった。
エリスも、キキも、それぞれ同じような様子ですぐ近くに居る。
何はさておき一安心だ……この程度は各自反応できる筈だったが私のミスで仲間を失ったりしたらと思うと、今更ながら冷や汗ものだ。
(ステラ姉の心配する通り、魔道クロノメーターの時間停止には限界がある)
(選択した茨が広範囲過ぎて、持ってあと4、5分といったところか……)
(再び動き出したら、どうなるの?)
(キキ、おそらく、こいつはあらゆる物質を喰って野茨を無限再生していく、喰うものが無くなれば、太陽光、宇宙線を吸収、もしくは直接恒星の熱源や電離ヘリウムを取り込んで、真空空間などお構いなく際限無く増殖していく……文字通り、物理法則を完全にくつがえした宇宙に咲く薔薇になる)
(“アクティブ・キャンセラー”は?)
(繁茂した領域は効果範囲を凌駕してしまった、エリス、無理だ)
魔道クロノメーターの便利な修復機能、“千年世紀守護神”が誇る時間逆行技術には残念ながら有効範囲がある。
次善の手当て……結晶化、腐食、あるいは単に浄化系消滅魔術で茨を始末しては、これだけ凌辱されてしまった現場を復旧することも、失われてしまった無関係な人命を取り戻すことも出来ない。
あるいはステラ姉の“音の神器”なら、可能かもしれないが……
(仕方ない、実戦投入は初めてだがあれを使う……実は“アクティブ・キャンセラー”の究極強化版を構築していた)
“アクティブ・キャンセラー”の理屈はこうだ……クロノメーターに付属する亜空間に保持された膨大な記憶素子槽、そこに周囲の全ての構成要素が素粒子レベルで記録される。常時5分間だ。5分以降の記録は常に上書きされていく。
そこから時間を巻き戻す再構成の記憶が投影される。
上位版を造るにあたり、電子部品に代わる高性能な記憶素子を調達するのに思い悩んだ私は、突拍子もない奇手に出た。話せば流石に、正気を疑われるかと思い内緒にしていたんだが……
(RAID配列にしたあたしの5000人分の大脳はコツコツ、分化分身の術で増やしていったものだ、シナプス構造全域を記憶魔術に特化してある)
(うっわあっ、引くわぁ、ストレージに5000個の脳味噌って、グロ過ぎる……)
(……だから、話したくなかったんだっ!)
(何でもいいから、早くやって、時間が無いわよっ!)
………………………………グダグダだった。
(よっし、これでいける筈だっ、“巻き戻し”っ!)
思った通りのイメージで選択対象の時間遡行効果が始まった。
見る見るうちに、破壊された地表や山肌、川底から蔦が逆戻しで縮んでいく。
倒壊し、抉り取られた建造物が、元の姿に復旧していく。
訳の分からない理不尽な死に見舞われた薬草農園の従事者、薬師の統括城塞都市の薬剤師、錬金術師、植物学者、その家族、駐留守備隊の兵士達が再生される。惨めに押しつぶされた命が、復活する。
5000個の大脳に記録されていた超媒質エーテルのデータをなぞりながら、広範囲の構成要素を完全に再構成した。
「やった……成功だっ!」
萎み行く茨の中心にマルセルの身体が確認できる。気を失い倒れ込む彼女を、すんでのところで救い上げる。
無事だ、良かった。
発芽の瞬間、随分と遠くへ押し遣られたようだ。
下を見ると、エンジェル・クリークの流れが元通りに、春先の雪解け水を湛えて静かに水面を輝かせていた。
マルセルの手にある“薔薇王の種子”は粉々に砕けて、エンジェル・クリークの水面へと没して行った。
膨れ上がり、増殖することにのみ存在意義があったこのオー・パーツは、時間遡行という理解不能の逆行現象に被曝されることにより、すっかり腐食してしまったようだ……誰が言ったか、万能の妙薬などと、全くの出任せもいいところだった。
憑き物の落ちたマルセルは穏やかな表情で、まるでお伽話のお姫様のように寝入っていた。
***************************
“滅び”の誘惑に抗えず、間違っているのに正しいことをしているように思えた。
呼ばれたのだ、“薔薇王の種子”とやらに……それは、ただ滅びを齎すだけの呪われた神器だった。
この世が浄土と化すなら、それも良いかと思えた。
発芽した瞬間、ドロシー様がどうやってか分からないが、“薔薇王の種子”の侵攻を止めたのが分かった。
自分の犯してしまった罪の大きさに気が付くと、気が狂いそうになった。
おかしくなりそうだ。
国でもなく、大陸でもなく、星を丸ごと呑み込んで、生けとし生けるもの、万物全てが死に絶え、やがて星の大きさの大輪の薔薇が、生命が絶えて誰も見る者が居なくなった宇宙に咲く。
そんな悍ましい死のビジョンが見えた。
寒々とした死だった。
やがて、ドロシー様の力が満ちると見る見る“薔薇王の種子”が縮んでいくのが分かった。良かった、もう大丈夫だ!
世界があるべき姿に戻って行く。
憑依され浸食されたこの身は、“薔薇王の種子”と共に滅びよう。
それが犯した罪に相応しい。
天上の女神が口ずさむ美しくも悲し気な旋律に意識が、浮上する。
聴いたことの無い不思議な哀愁を湛えた歌だったが、何故か心地好かった。
“Still In Love With You”という異世界の歌詞で紡がれるバラードは、ホッとしたときなどに口を吐いて出るのだと、後から聞いた。
ドロシー様の声は、何の外連味も雑味も無く、何の迷いも無く、あるがままに力強く、ただ透き通っていた。
目を開けると、慈愛に満ちたドロシー様の腕に擁かれていた。
責めるでもなく、罪を問うでもなく、ただただ地母神のように優し気に微笑まれて、“大丈夫か?”と気遣われた私は、不甲斐無いこの身を恥じて赤子のように声を上げて泣き噦った。
この方のために、私は残りの生涯の全部を捧げる。
「済まなかったな、君が何を苦にしていたのかは知っていたのに放置した」
「半魔の生い立ちを恥じて、思い悩んでいた……そんなものは恥でも何でもないんだと、もっと早くに言ってあげればよかったな」
「……少し、あたし達の話をしようか」
そう言うとドロシー様は、ほんの僅かに目を伏せられた。
この世のものとは思われないあまりにもあまりな奇跡や、心の弱さに付け込まれて操られてしまった我が身の脆弱な情けない事実も気にならないほどの……それは悲劇の物語だった。
「我等の罪は何処まで行っても付き纏う、またそうでなくてはならない、鬼畜勇者の言いなりになって拭えぬ変態輪姦の日々を5年は繰り返した、今でこそ健常体だが、勇者の庇護下にあった特典スキルを失ったときは廃人同様だった……妊娠中絶も一度や二度では無かったからな」
「死のうと思って、死にきれなかった、未練があった、死ぬだけの意気地も無かった」
「正気に返ったあたし達は、泣き叫びながら互いを殴り合い取っ組み合う程に、罵り合った、自分は悪くないのだと罪を他になすり付けたかったんだな……愚かにもお粗末な話さ」
「一番酷かったのは、あたしの嘗ての幼馴染みにして将来を誓い合った婚約者の眼前で人目も憚らず下種勇者と交わって見せたことだ」
「裸で勇者に跨がり、喘ぎながら嘗ての恋人に唾を吐き掛け……、嘲笑って……、能無しだの愚図の鈍間だのと揶揄し、狂おしさに耐え抜く姿に馬鹿にする言葉を浴びせ続けた」
「罵り続けた挙句に、最愛だった人に向けて殴る蹴るの暴行を加えた、片端にはならなかったようだが、心に負った傷はどれ程なのか計り知れないし、本当のところは分からない」
「婚約者の実の姉ステラ姉と、あたしに遠慮して身を引いたエリスの2人も同じことをした」
「最低だった」
「そんな最低のクズ女は殺されて当然、いや、殺されて帳消しになる軽い罪とも思えなかった、あたし等は死んでいて当然なんだ」
「それがのうのうと生き残り、御大層にも偉そうにしてるなんて、とんだ罰当たりだろ?」
「因果応報がこの先降りかかるのかはいざ知らず、この悲惨な過去を持つが故に、救えるものがあるのなら救いたい、そう思えるようになった」
「あたし達の下腹には口には出来ないような卑猥な入墨と、局部にはピアスがあった……悪逆非道野離しの召喚勇者に騙されてのものだったが、純情一途だった婚約者の目にはどう映ったのだろうか?」
「いまだに疚しくて、怖くて会いに行けていない、“すまなかった”の一言を伝えられずにいるんだ……」
恥というのは、貞節を忘れて色欲に狂い、真っ正直に生きた婚約者を不仕鱈な猥り顔で無慈悲に裏切り、目の前で腰を振っては破廉恥な嬌声をこれでもかと浴びせた、相手の流した血涙を指をさして誹り、下品な馬鹿笑いで貶めた私達みたいな行いを言うので、君が半魔であることを引け目に感じる必要なんか微塵も無いのだと……ドロシー様は、そう諭されるのだった。
「原罪は、あたし達のような者にこそ、ある」
「問おう、貴方が私のマスターか?」で始まる物語に憧れていました
バイコーン=ユニコーン〈一角獣〉と対極を為す馬の怪物でラテン語・ギリシア語に由来し「2本の角」と言う意味/“ピラスピ”、“ブルチン”などの別称があり、清純を象徴するユニコーンに相反し、純潔を穢す存在とされている/元々は中世ヨーロッパの民間伝承に登場する人面豹身の化け物で、善良な男だけを殺して食べるとされた
クラインの壺=境界も表裏の区別も持たない2次元曲面の一種で主に位相幾何学で扱われる/ユークリッド空間に埋め込むには4次元、曲率0とすると5次元が必要で、3次元空間には通常の方法では埋め込み不可能だが、射影して強引に埋め込むと自己交差する3次元空間内の曲面になるが、その形を壺になぞらえたものである
ボーディ・サットヴァ=菩提薩埵[ぼだいさった]の梵名、つまり菩薩のことです
ホワイト・ガソリン=純度の高いガソリンでアウトドア・ギアのストーブやランタンによく使われ、LPガスと比べるとコストパフォーマンスに優れている/外気温や気圧の影響をうけにくく、寒冷地でも標高の高い場所でも安定した強い火力を長時間使える/ホワイトガソリンを燃料とするタイプのランタンは光量が大きく、途中でポンピング作業をすることで長時間点灯できるようになっており、光量の調整をすることで5時間から最大14時間程度使えるものもある
フューエル・ボトル=ガソリンやアルコール、灯油などを入れて持ち運べる容器で、燃料ボトル、フューエル缶とも呼ばれ、容量もさまざまだが、持ち運ぶことを前提に作られているので、密閉性や気密性が高く、内部の燃料が漏れる心配はない/ただガソリンは揮発性が高いので柔らかい素材の容器に入れてしまうと内圧上昇により破裂する恐れがあり、一定の強度が求められるのでアルミニューム合金やステンレス製が中心
バービカン=攻城技術の発達に伴い、城壁の構築技術は13世紀頃にかけて頂点に達したが、城壁には壁面から突出する半円形の塔〈側防塔〉を配し、そこに矢狭間を設けることで城壁に取り付く敵兵に左右から射掛けることが可能となった/幕壁部分の下部に傾斜面を設けることで掘削による壁の破壊を難しくし、攻城塔が取り付きにくくすると共に、この傾斜面が幕壁を分厚くすることで砲撃に対するより高い抵抗力を持つようになった/やがて城門とキープの機能を兼ね備えた楼門〈ゲートハウス〉が造られるようになり、この楼門は双子の円筒型の塔の間に四角形の居住用建物が追加されたものが多かった/城門を閉じるために跳ね橋〈Drawbridge〉、落とし格子〈Portcullis〉及び門扉が備えられるのが一般的であったが、さらに防御機能を強化するため門の外側に要塞化した小堡〈バービカン〉が設けられることもあった
タペストリー=壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物の一種/製織の技術では綴織〈平織の一種で、太い横糸で縦糸を包み込むことで、縦糸を見えなくして横糸だけで絵柄を表現する織物〉に相当するもの/しかし、規模、用途、材料、様式などは東洋のものとはかなり異なり、完成までに3年を要する作品もある大変に高価な物だった/最盛期は中世末期であり、現在では、ゴブラン織とも呼ばれる
ヨーロッパへは、11世紀に十字軍が東方の産物として手織り絨毯を持ち帰ったのがタペストリーの始まりとなる。華やかな絨緞を靴で踏むのは忍びないことから、壁にかけたところ、部屋の装飾になるだけでなく、壁の隙間風を防ぎ断熱効果が認められ、ここからヨーロッパでの需要が高まり、国内で生産できるつづれ織りのタペストリーが生まれた/14世紀から15世紀にかけてはフランス北部のアラスが織物で栄えた都市であり、特に上質のウールで織られたタペストリーはヨーロッパ各地の城や宮殿を飾るために輸出された/しかしフランス革命の混乱の中、アラスのタペストリーの多くは織り込まれた金糸を取り出すために焼かれ、今では数えるほどしか残っていないので、現在でも“アラス”は産地を問わず上等なタペストリーを指す言葉として使われている
PTSD=心的外傷後ストレス障害の略称で、命の安全が脅かされるような出来事〈戦争、天災、事故、犯罪、虐待など〉によって強い精神的衝撃を受けることが原因で、著しい苦痛や、生活機能の障害をもたらしているストレス障害である/症状がまだ1か月を経ていないものは急性ストレス障害として区別する
雪の下=〈虎耳草、鴨脚草、鴨足草、金糸荷、学名:Saxifraga stolonifera、英: Strawberry Geranium〉はユキノシタ科ユキノシタ属の植物/山地の湿った場所に生育する草本で観賞用に庭にも植えられるが、脈に沿って縞模様の斑が入った円い葉をつけ、初夏に下2枚の花びらだけが大きな白い5弁花を咲かせる/細い枝を伸ばした先に新しい株を作って繁殖し、春の山菜として食されるほか、薬用にも使われる/ドイツ名のユーデンバールト〈ユダヤ人のひげの意〉、英名のマザー・オブ・サウザンス〈子宝草〉は糸状に伸びる走出枝に由来する/草丈は20〜50cmになり、葉は根元から長い葉柄を出してロゼット状に集まるが形は円形に近い腎臓形で、やや長めの毛が目立ち、表面は暗緑色で主脈に沿って灰白色の斑が入り、裏面は全体に暗い赤みを帯びる/葉縁は粗く、浅く切れ込みが入る/花言葉は「情愛」「切実な愛情」である
アンシャル書体=西暦4世紀から8世紀にかけてラテン語とギリシャ語の写本に使われた大文字の書体で、多くはギリシャ語、ラテン語、ゴート語を記すのに使われた/初期はローマ筆記体から発展したもののようであり、従来の文字がパピルスのような粗い材料の上に書くのに適して角ばった画数の多い字を使っていたのに対して、初期のアンシャル体は新しい羊皮紙や犢皮紙の滑らかな表面を利用した、太い一筆書きの筆画により特徴づけられる
カストリウム=もしくは海狸香はビーバーの持つ香嚢から得られる香料である/ビーバーはオス、メスともに肛門の近くに一対の香嚢を持っており、香嚢の内部には黄褐色の強い臭気を持つクリーム状の分泌物が含まれている/この分泌物を燻したり天日干しで乾燥させて粉末状にしたものが海狸香で、これをアルコールに溶解させてチンクチャーとしたり、有機溶剤で抽出してレジノイド、さらにアルコールで抽出してアブソリュートとして使用する
没薬=ムクロジ目カンラン科コンミフォラ属〈ミルラノキ属〉の各種樹木から分泌される赤褐色の植物性ゴム樹脂のことである/外国語の転写からミルラ〈Myrrh〉とも呼ばれる/古くから香として焚いて使用されていた記録が残されているし、また殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた/古代エジプトにおいて、日没の際に焚かれていた香であるキフィの調合には没薬が使用されていたと考えられている/またミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されていたので、ミイラの語源はミルラから来ているという説がある
奥書=洋書の奥付に相当するもの……Colophon[コロフォン]、著者名、書写日、写字生の名前を記した
ヴォールト=アーチを平行に押し出した形状〈蒲鉾型〉を特徴とする天井様式および建築構造の総称で、日本語では穹窿〈きゅうりゅう〉と訳される
ジギタリス=オオバコ科ジギタリス属〈キツネノテブクロ属、学名: Digitalis〉の総称/1776年に英国のウィリアム・ウィザリングが強心剤としての薬効を発表し、それ以来鬱血性心不全の特効薬としても使用されている/ゴッホが「ひまわり」などで鮮やかな黄色を表現したのは、ジギタリスの服用による副作用の黄視症だったのではないかという説もある
ヘンルーダ=ミカン科の常緑小低木で日本語の「ヘンルーダ」はオランダ語に由来する/地中海沿岸地方の原産で樹高は50cmから1m位、葉は青灰色を帯びたものと黄色みの強いもの、斑入り葉のものなどがあるが、葉に含まれるシネオールという精油成分が通経剤・鎮痙剤・駆虫剤などに利用され、料理の香りづけにも使われていた/「眼鏡のハーブ」と呼ばれるほど視力を高める効果があると信じられていたため、古代ローマでは、画家はこれを大量に食べたという
バーベナ=クマツヅラ科クマツヅラ属〈バーベナ属〉の総称で約250種の一年草および多年草を含む/ハーブとしては、フランス語風にヴェルヴェーヌ〈verveine〉とも呼ばれる/高さは、芝のように地面を這うものから1mを超すものまであり、花は小型で花弁は5裂し、色は白、ピンク、紫、青など
マルセル・デュシャン=ニューヨーク・ダダイズムの中心的人物と見なされ、20世紀の美術に最も影響を与えた作家の一人
コンセプチュアル・アートなど現代美術の先駆けとも見なされる作品を手がけた……本編に登場する作中人物とはなんの関係も無い
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私、漢字が苦手なもので誤字脱字報告もありましたらお願いします
別口でエッセイも載せましたので、ご興味のある方は一度ひやかしてみてください
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