34.薬草園の谷、ボタニカル・キャニオンは薄荷の薫り?
中世の体液生理学に基づく四代元素説に依ると、人間の身体は血液、黄胆汁、粘液、黒胆汁の四体液で構成されている。
神学者は、アダムとイブは楽園で完璧な体液バランスを保っていたが、女神に背き楽園を追放されたときに二人の体液バランスは崩れ、世に疾病が蔓延したと説いた。
“薔薇王の種子”は、そんな現世に使わされた最後の特効薬として、不確かな伝承と共に残された。
「ブリュンヒルデが、死んでいない可能性は76パーセントに達しました」
性依存症に悩むジョセフィーヌ・ライマンのカウンセリングに辛抱強く時間を掛けて付き添う間、聖都アウロラの巡礼詣でをしていた。
セント・クリステラ大聖堂やウエステリア三世庭園を初めとする主たる参礼の地、“聖刺草美術館”、国立神秘古代図書館、“セント・ガラドリエル蟾蜍博物館”、アスタロト礼拝堂、市内に36箇所ある霊墓教会巡りと、敬虔な巡礼者として参礼するつもりが何だか観光半分の御上りさんになってしまった。
何とかいう名物料理の店で、スフレ状の卵焼きを馳走になったりした。認識疎外で勝手にぶらつくからと言ったのに、聖女警護隊から影警護専門の特殊任務聖魔法士数名に、ガイド役とかの名目で寄り添われてしまう。
職業柄、寡黙で顔を隠しているメンバーばかりだが、見目麗しい美人さんが多い。
彼女等に奢られて、エリスなどは一人前卵黄10個分の卵スフレをお代わりしていた。
ここの常連客は、絶対コレステロール過多だと思う。
あぁ、不敬だ……もっと真面目に信心しよう。
聖ブラマンテ宮殿で貴賓客扱いされるものだから、毎日、毎晩歓待しようとする教皇聖女を脅して賺して、頑なに固辞しまくった末、聖女と同じ日頃の粗餐にして貰った。
もっとも、ステラ姉は般若湯として出される聖都運営修道士教会お手製の林檎の蒸留酒、カルヴァドスをカパカパ呷っていたが……
オッセルヴァトーレ・イノケンティウス二十五世の新しい身体はすこぶる健康そうだった。無事に長生きして欲しいものだが、この先の彼女の長い道のりを思うと少しばかり心が痛んだ。
上げ膳据え膳に飽きて、魔快速帆船“スキッドブラドニール”に帰還してきていた。
「……で、何でブリュンヒルデが生きてると思うんだ、根拠は?」
ラウンジでキキにハンドガンのお手入れ法を教授していて……基本メンテナンスフリーに設計してあるが、構造の理解とクリーニングやグリスアップを覚えておいて損はないだろうと解説しているのに、藪から棒なナンシーの報告に反射的に問い掛けた。
「ヘドロック・セルダンが製造した“ワルキューレ”シリーズでも、ブリュンヒルデは特異も特異、最高ポテンシャルだったという確かな証拠を掴みました」
「“ワルキューレ”シリーズ自体が、セルダン・プロジェクトの設計したヒト型兵器として最強レベルだったのは分析できています」
「遙か過去の伝承だろう、ホムンクルスに寿命は無いのか?」
「実態は、高性能アンドロイドですから……例えば溶岩流で溶ける筈などは絶対と言っていいほど有り得ない、火の山に自ら身を投げた、という伝承はどうも故意に流布された形跡があります」
「今も何処かに雌伏していると?」
「それがわかりません……杳として行方が知れません」
(東を目指しなさい、ボタニカル・キャニオンという渓谷に目的のオー・パーツがひとつあります)
「おおぉっ、いきなり出たなエロオッパイ!」
目の前にはキトンともトーガともつかぬ装束を纏い、オッパイのデカいのを強調する妖精の神が浮いていた。夢幻の存在として透けてはいるが、最初見たときと変わらずエッチっぽい。
(……段々、扱いが雑になってますよね?)
「気のせいだろうっ、それより何で呼んでも出てきてい・た・だ・け・な・い・ん・で・す・か?」
師匠から預かる魔導クロノメーターはアストロメーターや航海計電子羅針盤、精密赤道儀、衛星補助無しのGPS他に、時を操る機能と様々に活用できるが、その実、真の機能を開放すれば並行世界を渡って行ける万能計だ。
棲み着く妖精神本人が、そう言うから、そうなのだろう。
「呼ばれて飛び出てなんて、有難味に欠けるじゃないですか?」
実体が濃くなってくるに従い、肉声が聴き取れるようになる。実体化するとオッパイの質感、半端ないな!
「いい加減、オッパイから離れませんかっ、もっと神聖視しないとバチがあたりますよ!」
宙に浮くガラティアは、地に足が付いていないのに器用に空中で地団駄を踏みながら漂っていた。
「前代未聞の奇想天外なる一大プロジェクト、セルダン計画の実態を……」
ナンシーが自分の情報の方が大切だと割って入る。
「ボタニカル・キャニオンに薬師達の自治領があってですね……」
ガラティアが対抗して声を張り上げて主張してくる。子供じみた奴等だ。
「あぁっ、うっさい! ちょっと船内のカフェテリアで飯食ってくるから後でもいいか? 行こう、キキ」
「はぁい、今日の日替わり定食って、麻婆豆腐定食にトロロ蕎麦だっけ?」
「B定はスペアリブにひよこ豆のパスタだ」
「「ちょっ、ちょっと待たんかい!」」
取り残された超高度セントラル電脳システムと、並行世界を自在に渡っていける超高位だろう妖精神は、不思議なほど人間臭く動顛し、慌てふためいていた。
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ボタニカル・キャニオンは自然の薬草農園と言っていい。
ゴゴ・ゴンドワナ大陸の豊潤な土壌を含むカンブリア高原が、蛇行するウェズリー河に浸食されて形成された巨大な渓谷は、肥沃な土地柄と太い龍脈の影響も相俟って、複雑多彩な植生を誇っていた。
穀物生産量世界一、二を争う農作地帯としても有名だが、最も重要なのは各種の希少な薬用植物だった。
裾野に広がる豊饒な穀倉地帯を見守るように、目指すべき麗しのボタニカル・キャニオンは、其処彼処に咲き乱れる貴重な医薬、魔導に利用される草花に抱かれて、聳え立っていた。
事前に得た情報によれば、一番大きな渓谷の入り口には台形状の小高い丘に建てられた城塞都市国家にして、職能的薬師の集団が寄り集まった自治領アスクレピオスがあり、渓谷一帯はこの自治領支配として他国からの治外法権に守られていた。
入手したスパイ衛星の高解像度画像によれば、現在の全容は無計画に造営されていった複雑怪奇な多重環状城塞の様相を成していた。
城牆のすぐ外郭には、隣接する三国同盟の共同駐屯地が有った。火薬庫、兵営、砲兵工廠を持つカストラと呼ばれる軍事拠点兼宿営施設がそれだ。大国による侵略を牽制している。
異例の発展を遂げた薬師達のシタデル都市は、不可侵を求めた探究者達の要望により、各時代の熟練石工職人が築いた頑強で分厚い”キュクロペスの石積み”と呼称する城壁に守られていた。
最高級のエリクサー軟膏や同ポーションの主原料となる虹妖精種の黒竜胆の自家栽培に成功したのは、史上初と共に今までで唯一ここだけだ。
しかも人工交配育種による品種改良で、ほぼ自生種と同じ効能が得られる。
緑の丘陵地帯を、タンデム乗りにした登攀もできる多足歩行型ホバリング・ビークルで目的の渓谷自治領を目指していた。
不整地用の反重力推進、100万馬力と無駄に大きな推力を生み出す流体反応炉の非回転型動力エンジンを搭載した鉄騎……スピードランナーRC426V改を駆っていたが、16倍速にした知覚でも超甲殻カウルから望む前方は視野狭窄のように窄まって見えた。
極端に短いセパレートハンドルは、前傾姿勢でのライディングのためだ。
特別耐久素材のライディングスーツにプラチナ・ライトアーマーを組み合わせていた。
アーメット・ヘルムの代わりに、密閉バイザーのフルフェイス・ヘルメットを被っている。
教皇聖女サマリナに頼み込んで、法王聖庁の特使身分として乗り込むつもりだった。特別巡視としても破格の証し、主席聴罪審問官の聖別を受けた紫翡翠のメダイを譲り受けた。
これは法王聖庁の、延いては教皇聖女から全権委任されていることを示す。
代わりと言っては何だが、聖都を案内してくれた影仕事専門の聖魔法士お姉ちゃん2名を、側仕えだと言って付けられてしまった。
ヒーッ、ヒーッ、言いながらステラ号、エリス号の後ろにしがみ付いている。
彼女等の普段の任務のための装束は、ライダースーツに着替えて貰い、ゴージットと呼ばれる、額当てコロネットとセットになったベールのような被り物もヘルメットに替えて貰った。
彼女等がいつもしているこの頭巾は、首まで巻かれているので口許に引き揚げると覆面にもなる。
聖都散策、もとい巡礼を案内してくれた最初の頃は、素顔を見せようとはしなかったんだけど(透視で見えてたけどね)、仲良くなってからは任務のために目許を隠す半仮面の白いマスクと、口許の白いスカーフを外してくれた。
他人事ながら、そんな緩い規範でお勤めは大丈夫なのだろうか、少し心配だ。
(ひっ、飛行魔術を使ってもこんなに早く移動できません! ボタニカル・キャニオンまで二日なんて、ひっ、非常識です!)
31歳になるけど、見た目より若く見えるシスター・マルセルは、栗色の髪を何本もロープ編みにしたお洒落さんで、いつも睫毛の長いアーモンド形の眼を伏し目がちにした控えめな性格なのだが、この時ばかりは念話の筈なのに吃り気味に聴こえたのは気のせいだと思う。
(心配するな、もうすぐウェズリー河の支流に入る、沢筋の道は平坦だから、一休みしよう)
あまり意味の無い気休めと思うが、ティータイムで気晴らししようか……
少しばかり高度を稼ぐと、魔物除けの加護がある西洋柊木樫が繁茂する辺りで石造り二階建ての立派なレストハウスというか、流浪民族や旅人相手の山小屋があった。看板に食事処とある。
営業中のようなので、認識疎外を張って案内を請う。
ヘルメットのバイザー開閉スイッチ操作で、継ぎ目も無いのにアナログカメラのシャッター羽根の様に開くと、一瞬で偏光超硬クリスタルが格納される。
「軽く食事ができたら有り難いんだけど、何か食べれます?」
「熟成させたアンテロープのローストと、鵲のカルパッチョがあるよ」
小屋のオーナーと思われる背の低いハーフリングの夫婦者が、店の奥からおとないの対応に出てきた。
ハーフリングらしく幾分尖った耳の若奥さんは、ウエストを絞った前掛け付きロングスカートの民族衣装が素敵だった。
白いレースの頭に被ったものは、コアブとかいう頭飾りか?
目聡く見付けた馴鹿の皮と錫のワイヤーで編まれた旦那と揃いのブレスレットは、確か終生を誓い合った者同士が交換するものと記憶している。
濃いグレーの髪が後れ毛になっていて、如何にも人妻って感じが何か羨ましかった。
アンテロープは羚羊とも呼ばれ、氈鹿と同じ山羊に近い偶蹄類だ。
長い角を持ち、ゲームの狩猟肉としても高級な部類に入る。
そういえば店の内装は古色蒼然たる狩猟小屋風だな、トロール熊やサーベルタイガーやらの頭部剥製が壁に飾られている。
カルパッチョは生肉だから、私等は毒とか細菌にも完全耐性があるので大丈夫だが、マルセルともう一人のデュシャンには寄生虫とかがヤバいかもしれない。
「アンテロープと、鵲はよく焼いたものを人数分ください、それと冷えたエールとかありますか?」
「下の川で冷やした自家製エールでよかったら、ワンパイント130コラムだ」
「じゃあ、それも人数分」
オーダーを済ませて、窓際の席に陣取ると皆んなでヘルメットとライダーグローブを脱いで、一息吐いた。
窓の下には、崖下の渓流が見える。
「気持ち良さそうだな、明るいうちに水浴びでもしておくか……」
「い、いいですねっ、なんか脂汗が出ちゃって」
もう一人の自称ベテラン聖魔法士、ショートカットにして広い額を剥き出しにしているデュシャンの髪は、心なしかぺったりしている。
「デュシャンお姉さん、もう疲れたの? 体力付けないと強くなれないよ?」
「しっ、仕方無いじゃないですか、キキ様、あっ、あんな狂気のスピードは生まれて此の方初めての体験なんですから、緊張するなという方が無理です!」
ベテラン聖魔法士とやらが、キキ相手にあたふたと説明する様子が可笑しかった。
東洋風な顔立ちは、鴉の羽の様な漆黒の髪と瞳が特徴的な輪郭の整った端麗なものだ。影仕事を任務にしているのに陰りが無い。
なかなか歳を明かさないが、35になるのは知っている。
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沢筋の日暮れは早い。
沢登りで水場には困らないが、一応急な増水を避けるために適当な高台を見付けて天幕を張る。お姉ちゃん達の分も含めて2張りだ。
“守護のペグ”の威力に、二人共恐れ慄いていた。
手分けして大型タープの下にフォールディングのキッチンセットを組み立て、外にはツーバーナーのガソリンコンロの他に炭火の蓋付きバーベキューコンロを設えた。
いまだに愛用している師匠譲りのガソリンランタンを含め、三本ほどスタンドを立てる。夜目は効くけど、ご馳走が良く見えないと楽しくないからだ。
昼間に食べたジビエ肉に触発されて、久々にバーベキュー大会と洒落込むことにした。
冷蔵イベントリにストックしてある山鶉、雉子、ミノタウロス、野兎、オーク、雷鳥、家禽種のホロホロ鳥などは、夜営の食材用に捌いて下処理もしてあるので、焼いて調味するだけだ。
ナンシーに頼んで再現して貰った異世界の瓶ビール、コロナ・エキストラという銘柄の細い瓶が気に入って冷やしたものを沢山持ち歩いている。
ちょっと下品な飲み方なのだが、これにバーボンウイスキーを加えたボイラーメーカーというカクテル紛いが最近の定番になった。女の癖にちょっとどうかと思うけど、マルセル達にも同じものを勧めた。
「これはいい、昼間に飲んだ自家醸造のエールも美味しいと思いましたが、これはなんというか爽やかな喉越しなのにキレがあって」
デュシャンが目を見張っていた。
「君達には禁酒禁煙の戒律は無いみたいだね」
「……恥ずかしながら、役目柄そういう場面もあるだろうと、すでに男と情を通じたこともあります」
「あぁ、皆迄言わなくていいよ……君は正直だな」
顔を赤らめるデュシャンの横からマルセルが、チタン製のメスキットパンとコロナを片手に進み出た。
「あの、昼間の山小屋の番人達なんですが……」
「分かっている、あれは……あそこはアスクレピオスの見張り小屋だ、あたし達が立ち去った後、伝書使い魔を放っていた」
「……ご存知だったんですね」
「性分というのかな、何か隠し事があれば、必ず探らずにはおれない……因果なものさ、知りたくもない人の世の裏側を覗いてしまう」
「さいわい、あの夫婦は見張り番としては人並みでも、気持ちの良い人柄だった、だから見逃した」
「それより、二人共一緒に水浴びして裸を見たけれど、あたら女盛りの肢体を影仕事のお勤めに埋もれさせるのは惜しいくらい、素敵だったわよ」
ステラ姉が、山小屋とも番小屋ともつかぬレストハウスを辞去した後に、沢筋に降りて身体を清めたときの話をした。
「いえ、そんな、お目汚しの貧弱なものをお見せしました……御使い様方こそ、尊いという以前に眩しい程の美麗なお姿、とても直視出来ない輝きでした」
マルセルが畏れ多いとかしこまる。
こいつ等、水浴するときもモジモジしてなかなか脱がないもんだから、業を煮やしたステラ姉に無体に引き剥れていたっけ……
「女神様方の裸体は御神体そのもの、犯し難いものには違いありませんが、私には掛け替えの無い美術品のように思えました……あまり長くは見詰められませんでしたが」
デュシャン、そういえばこいつ、変転する“魔法印真層呪装”のエリスの肌も含めて、食い入るように私等を見てたな……
「美醜はあたし等の視点の範疇じゃない、あたしなぞはもっと筋肉質の身体が欲しいとさえ思う、貞淑であるべき妻らしさ、母親らしさは欲すれど、女っぽさは今のあたしには無用のものだ」
「はい、はい、焼けたよぉ、男っぽいドロシーが水浴びのついでに捕ったブラウントラウトの香草ムニエル」
しつこく指導したお陰で、最近では簡単なソテーなどは熟すようになったエリスが、絶妙の焼き加減で深めのスキレットから直接サーブして回った。
バーベキューの時は立って食べた方が旨いので基本立食なのだが、今日は二人の歓待を兼ねているので、焚き火台を囲むようにハイチェアも配している。
「川で頂いたシャボンなのですが、何か泡立ちが違うような気がいたしました……あれは、なんでしょう?」
ブラウントラウトを堪能しながら、マルセルが問うてくる。
「おぉ、良いところに気がついたな、あれこそはやがて訪れる惑星温暖化対策の第一弾、界面活性剤無添加の椿油と椰子油などを主原料とした完全植物油石鹸、すでに量産態勢に入ったのでホテル・ナンシー以外の販売ルート確保に乗り出そうと思っている」
「任務で野営が多いなら、少し譲ろう、他に鍋や食器の油汚れ用洗剤もあるぞ、今のうちからロウインパクトのエコロジー消耗品を刷り込んでいく遠大な計画だ、アハハハッ」
「洗剤だけじゃなんだな、燃料の必要なランタンやコンロ以外のビバークツールをあげるよ、後で知り合うんじゃなかった、とか言われるのも嫌だからさ」
「テントとタープ、寝袋にマット、アウトドア用カトラリーとキッチンツール、無限に水が湧き出る魔法のウォータージャグとサバイバル用緊急エマジェンシーキット、GPS機能付き方位コンパス、高度や気圧も読み取れる高機能防水腕時計、収納魔法が使えないんならマジック・ポーチも付けるよ」
指折り数えながら、それらをアポーツして積み上げていった。
「いえ、こんなに良くして頂く謂れもありませんっ、頂戴できません!」
慌てた様子の彼女等が制止する。
「そんなに遠慮される程のものじゃないさ、いずれもホテル・ナンシーの武器屋やアウトドア用品店で売っているものだ」
無理矢理納得させて、彼女等に高機能キャンプ用品を押し付けた。新品だから、包装とかは使い方を良く読んでから処分するように付け加える。
内緒だが不壊属性化付与の最高級品だ。キッチンナイフなどそんじょそこらの業物より切れる。
「あ、あのぉ、先程の探らずにおれないというのは私達もなのでしょうか?」
焚き火を見詰めながら締めのカプチーノを啜るマルセルが再び問うてくる。
あぁ、やっぱり気になるよな……
「ドロシー、こうして一緒に行動を共にしているのだから、本当のことを言ってあげたら?」
ステラ姉に促された。
「仕方ないな、今更聞いて引くなよ……初対面のとき既に、覗いてある、見た目以上にエッチな男性遍歴を持っていることも含めて、全て丸裸だ」
「つまらぬことで躓きたく無い我等としては至極当然の処置なのだが……親しくなった今は誓って覗いていない、まぁ許してくれとは言わないが、そういうことだ」
案の定、二人は蒼白になって言葉も無い様子だった。
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アスクレピオスの中央正門は跳ね橋と落とし格子で二重に守られていた。
左右の胸壁からは銃眼や石弓の矢狭間が睨め付けている。
バスティヨンという外敵攻撃用の突角部もあちこちに見られた。ここからは視認できないが、重火器やカタパルト式投石器の用意もあるようだ。
目立つのは、おそらく収穫した薬草用と思われる幾つかのサイロだ。乾燥と貯蔵が可能な種だけだろうが、薬草の保管庫としては破格だ。
薬草医、調剤師、錬金術士、様々なスペシャリストが集合した自治領アスクレピオスは、ここボタニカル・キャニオンを運営する中枢だった。
伝え聞くラインナップは非常に興味深いものだ。
柳薄荷などの偽物ではない祈祷書に登場する真のヒソップ、魔女キルケーを退けたとするモーリュ、アフロディーテの傷を癒したイコルから生まれたと伝えられる薬草プロメティオン、春咲きが雄で秋咲きが雌の二種のマンドラゴラ、ドルイド僧達が好んで薬草に用いた釣り鐘ジギタリス、非常に毒性が高いとされた女王ベラドンナ……話半分としても、ここにしか存在しない種が確実にあると思われるのだ。
「そこで止まれ! 薬師の砦、アスクレピオスは、不要の入城を許していない、なっ、何用か?」
城門を守るフルプレートの衛士に誰何されるが、かなり勇気を振り絞っているようだ。
認識疎外のベールを取り払って、素を晒していたからだ。
「法王聖庁の方から来た(嘘ではないな)、自治評議会委員にお目通りしたい」
胸に下げた特使の証し、紫翡翠のメダイを示した。
「“薔薇王の種子”とやらを、拝領したい……」
カルヴァドス=リンゴの実を絞って得られる果汁を発酵させてシードルを作り、これを蒸留したのち樽に詰めて熟成させることでカルヴァドスが作られる/西洋梨の果汁を発酵させたペリーが混ぜられることもある
キトン=紀元前6世紀頃、従来の毛織物に代わってエジプトから輸入された亜麻布を使った衣服の総称/女子の着付け方には大きく分けて二方式があり、従来のペプロスと同じ上端を折り返して体に巻きつけ両肩を留めて腰に帯を締めるドーリア式、腕を出す穴を残して脇が縫われた二枚の布で体を挟み、肩から手首までを数か所に分けて留めた後、帯を占めて襷のように肩ひもを掛けるイオニア式とがある
トーガ=古代ローマで下着であるトゥニカの上に着用された一枚布の上着の名称で、古代ギリシアのヒマティオンに似るがはるかに巨大〈ヒマティオンと比べて丈は2倍、幅にいたっては3倍近い〉で、八角形の布を半分に切ったような形だったのではないかという説が最有力と考えられている/各部の襞に名称があり襞取りに非常に気を使っていたことが分かるのだが、襞は前日のうちに奴隷が火熨斗のようなもので襞づけしていたらしい
ひよこ豆=ガルバンゾ〈スペイン語:Garbanzo〉、エジプト豆、チャナ豆などの名でも知られる/中東の「肥沃な三日月地帯」を中心に栽培され、歴史上、最古の記録としてヒヨコマメが登場するのは7500年前、トルコのハジュラルにおいてである/紀元前4000年には地中海一帯に、紀元前2000年にはインドにまで伝播したが、特に古代エジプトで栽培が盛んであった/古代ローマにおいてもあらゆる階級に食されるポピュラーな食物であったが貧困層や農民の食べ物とみなされることもあった/インドではチャナーと呼ばれ、インドの食文化において古今重要な食物となっている
多重環状城塞=その名の通り、キープと呼ばれる天守を取り囲むよう幾重にも張り巡らされた城壁に守られている城塞
カストラ=「大規模な野営地」を意味し行軍途中などの一時的なものも、砦または要塞のような恒久的なものも指す/一方、ウェゲティウスが記しているようにカステッルム〈castellum〉は「小規模な砦」を意味し、その地域の補給部隊などが使うことが多かった/最もよく知られている種類のカストラとは行軍中や戦闘中以外の兵士たちが寝泊りし、その装備や兵站を蓄えておく野営地または軍事都市である。軍団が戦場に赴く際、毎日帰ってこられる適切な場所にカストラを建設しておくのが決まりだった
シタデル=根城、本城、と言った意味で城塞都市の発展上の呼称のひとつ
フリーメイソン=石工組合としての実務的メイソンリーが前身として中世に存在したとする説があり、こうした職人団体としてのフリーメイソンリーは近代になって衰えたがイギリスでは建築に関係のない貴族、紳士、知識人がフリーメイソンリーに加入し始めた/それと共にフリーメイソンリーは職人団体から、友愛団体に変貌したとされる
実務的メイソンリーとの直接の関係はなく、その組織を参考に貴族たちが別個に作ったのが思索的メイソンリーであるとも言い、中世ヨーロッパでは建築はあらゆる分野の技術に精通する必要がある「王者の技術」とされ、建築学や職人の社会的地位は高かったが、技術の伝承についても厳しい掟が設けられた/石工団体を元にした名残りとして石工の道具であった直角定規とコンパス〈Square and Compasses〉がシンボルマークとして描かれ、内部の階位制度には「徒弟〈Entered Apprentice〉、職人〈Fellow Craft〉、親方〈棟梁とも訳す:Master Mason〉」の呼称が残っており、集会においては元は石工の作業着であるエプロンを着用する……なお、ピラミッドに目の「プロビデンスの目」をシンボルとするのはフリーメイソンだけではなく、啓蒙時代のヨーロッパにおいて啓蒙思想の立場をとる団体が好んで使用したシンボルであり、フランス人権宣言の上部にシンボルが描かれているのも基本となる考え方が啓蒙時代の哲学的、政治学的諸原理に由来するためである
メダイ=祝別された聖品として、守護天使や聖人、聖女の姿が彫られたメダルやコイン状のもの、ペンダントトップとして用いられることが多い
ゴージット=中世の女性用の首・肩を覆うベール
アンテロープ=羚羊またはアンテロープ〈Antelope〉はウシ科の大部分の種を含むグループで、分類学的にはおおよそウシ科からウシ族とヤギ亜科を除いた残りに相当し、ウシ科の約130種のうち約90種が含まれる
鵲=カササギ〈Pica pica〉は、鳥綱スズメ目カラス科に分類される鳥類
カルパッチョ=生の牛ヒレ肉の薄切りにチーズもしくはソースなどの調味料をかけた料理の総称/タリアの画家であるヴィットーレ・カルパッチョが薄切りの生牛肉にパルミジャーノ・レッジャーノをかけた料理を好んだことから、彼の名を取ってカルパッチョと呼ばれているという説がある
ムニエル=魚の切り身に塩・胡椒で下味をつけ、小麦粉などの粉をまぶしバターで両面を焼いた後、レモン汁を振りかける魚の調理法
ヒソップ=聖書に登場するがイスラエル周辺には自生しないことから聖書のヒソプではないと考えられている/中世においては、スープ、ピクルス、ミートパイなどに苦味を添えることを目的に使用され、肉や魚の臭み消し、料理の彩りや香りづけ、また多くのリキュールに材料の一つとして使用されている
モーリュ=「オデュッセイア」によるとオデュッセウスが帰国の旅でアイアイエー島に上陸した際、島に住む魔女キルケーはオデュッセウスの部下達に毒を混ぜた飲物を飲ませ、杖で打って豚に変えてしまったが、オデュッセウスはこのことを逃げてきた部下のエウリュロコスから聞き、キルケーの館に向かった/そのときヘルメスが現れてオデュッセウスにモーリュという薬草を与え、キルケーの魔法を防ぐ方法を授けた
イコル=ギリシア神話に登場する神もしくは不老不死者の血〈霊液〉である/古代ギリシアの詩人ホメーロスの叙事詩「イーリアス」中に2回登場し、ディオメデスが女神アフロディーテに傷を負わせた時と血を拭う時に使われた
マンドラゴラ=古くから薬草として用いられたが魔術や錬金術の原料として登場し、根茎が幾枝にも分かれ個体によっては人型に似る/幻覚、幻聴を伴い時には死に至る神経毒が根に含まれる
人のように動き、引き抜くと悲鳴を上げて、まともに聞いた人間は発狂して死んでしまうという伝説がある……悲鳴を上げる植物としてしばしば登場するが、絞首刑になった受刑者の男性が激痛から射精した精液から生まれたという伝承がある
ドルイド僧=ケルト人社会における祭司のことで、宗教的指導の他、政治的指導、公私の争い事の調停とケルト社会に重要な役割を果たしていたとされる
“ボタニカル・ガーデン”という言葉に惹かれて書き始めたエピソードですが、どうも中世の失われてしまった草花とかの資料は少ないようです
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私、漢字が苦手なもので誤字脱字報告もありましたらお願いします





