33.“真・神器”――賢者の臓腑は暁に散る
ブリュンヒルデは、その夜の明けるまで、どんなに優しく、眷恋の情を湛えてグンテル王の側に寝ていたことであろう。
一方、勇士ジークフリートは王の寝室をこっそりと去り、美しいクリームヒルトに懇ろに迎えられた。
退治した竜の血潮を浴びた時に大きな菩提樹の葉で塞がれたがために、不死身のジークフリート唯一の弱点となった事実を余人に漏らしてしまったのは、彼の妻だった。
ホートンはメイフラワーとも呼び5月が盛りだが、ここセント・クリステラ大聖堂を取り囲む外苑として造園されたウエステリア三世庭園は早咲きの西洋山査子に埋め尽くされていた。
春先に花を付けるアカバナサンザシの樹が、濃いピンク色の八重咲花弁を綻ばせ始めている。
夜の帷の中、仄かな香りが法王聖庁の中央大聖堂を包んでいた……温む空気の、そんな夜だった。
科学テクノロジーに可能なことは、魔術でも再現できるというのが私の持論だ。このスタンスを私は生涯貫こうと思っている。
ナンシーの極焦点式、ピンポイント転移装置は、例え転移先が強力な聖魔法の結界で何重に守られていたとしても、阻むものに対し一切の影響を受けない。
超物理的な事象にもかかわらず、魔術の場合はすり抜けて移動するといったイメージを引き摺っているが、科学技術のワープは点と点を結ぶ位相次元の論理で成り立っているので、例え相手が鉄壁の強大なる多重結界であろうとも例外無く、障害たり得ない。
導き出される結果とプロセス、すなわち理屈さえ分かれば、後は模倣と実践だ。言うは易し行うは難しだが、臥薪嘗胆を地で行く私は、悪戦苦闘の末これをものにした。
おそらく一度も破られたことが無かったであろう厳重な多重結界に守られた教皇聖女の生活域、大聖堂に隣接する聖ブラマンテ宮殿内の宿舎……質素倹約を美徳とする当代オッセルヴァトーレ・イノケンティウス二十四世は華美を好まず、豪壮な宮殿内にありながらこじんまりとした寝室を利用していた。
夜半過ぎ、私達はこの余人は知ることの無い秘密のベールに包まれたプライベート域への侵入を果たしていた。
「夜分に済まないが、急がなけらばならない理由ができた」
「事態は急を要する……ちょっとばかり差し迫っている」
蠢く我等の微弱な気配に敏くも臥所から起き上がった教皇聖女に、まず最初に詫びた。
歴代の教皇聖女の多くがそうだったように、イノケンティウス二十四世ことサマルディ・サマリナは、見惚れる程の綺麗な白い肌と白い髪のアルビノだった。
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融通の効かない女神教の堕胎・中絶も自涜行為も婚姻外の姦淫も認めない杓子定規な教義は、曲がりなりにも敬虔な修道士修道女達により実践されてはいるが、実際には市井では娼館や風俗産業などが商売として成り立ち、媚薬や陰茎を象った性具などその手の淫具を販売する低俗で野卑な店が巷には溢れていた。
娯楽の少ない環境でセックスは重要な楽しみになる。
一般的な民衆社会にとっては暗黙の了解というのだろうか、欲望の吐け口を目こぼす風潮が下世話な俚俗では罷り通っていた。
だが、膝元のオールドフィールド公国内や聖都アウロラでは賭博の禁止と共に、その手の店が営業許可を受けれる訳もない。
いわんや自宅、自室での飲酒はある程度許容されるが、酒を飲ませる店すらも領内には一切存在しない。イコール、酔客の相手をする女給など素人娼婦の仕事も無い。
しかし聖職者の他にも様々な階級の労働者がいるのは他の国と変わらない。性の捌け口が安息日である七日目だけ許される施設がある。それは“大人の公衆浴場”と呼ばれ、一般の温浴や蒸し風呂を提供する大衆浴場とは少しばかり趣きを異にしていた。
聖域たる聖都アウロラの敷地外にもひとつ、そんな施設が利用されていた。
性欲を持て余す男女の社交場というか、発展場で、基本未婚の男女の出会いの場だが近年では既婚者や聖職の立場にある者の利用も増えている。
神に仕える厳しい戒律の世界は、当然ながら婚姻や性交渉は禁止されている。
これを犯す女性聖職者はスカーレット・ウーマンという蔑称で、一時代前は弾劾され、魔女裁判並みに糾弾されたものだ。
しかしながら公国正教も一枚岩では無い。禁欲的教義を是とする守旧派が多数派閥には違いなかったが、もっと導く立場の者も人間の欲望を抑圧しなくていいんだという斬新な意見の解放派が台頭して久しかった。
リベラルを謳う解放派は、女性聖職者のこういった施設への出入りを容認していた。この抜け道が無ければライマンは、疾っくの疾うに肉体の疼きに負けてとんでもない不祥事を起こしていただろう。
公国正教の流れを酌む修道会では、女性は白い額帯とウインプルに折り返しを付けたコルネットを用い、ダブリエという胸当て付き前掛けか、スカプラリオと呼ばれる腋を縫わない肩掛けを羽織る。
ベースとなる修道服としては昔のトゥニカよりはすっきりとしたワンピースが標準とされたが、いずれも色は濃いチャコールグレーと定められていた。
……開放派の教義では夜間の外出も許可されており、それ用の地味な私服や欲望を開放するための煽情的な下着を持つことも免罪されている。
紳士淑女の社交場で見聞きしたこと、犯した姦淫の罪は一切口外無用と言うのが、利用者の不文律だった。
そうで無ければ、全くの無防備で女が素を晒すことはできない。
「シスター・ライマン、昨晩は派手にお楽しみのようだったが寝不足ではないのかね?」
不意に現れた秘蹟管理省聖具収得院の主任の一人、スタバース教授が廊下で話し掛けてきた。
奉仕業務の時間にプライベートな話題を持ち出す不躾な男だった。
「……何のことか分かりませんが、あそこでのことを言ってるのでしたら、とんだマナー違反というものですよ、スタバース主任」
きつく撥ねつけるように反駁する。弱みを見せては駄目だ。
教皇庁認可のテンプル騎士修道会出身の巫女にして、“ディアーナの宝物庫”付きで“神の遺産”管理人の役職にあるジョセフィーヌ・ライマンは人一倍、性欲が強かった。
騎士団にいた頃に男を知って、十人以上と関係を持った。
請願によって結ばれた信徒の組織だったが、戦闘を職業にしようという血の気の多い者達の集まりには違いなかった。神のための聖戦に身を捧げる心算と、セックスに溺れる日常が容易く両立してしまう。
このままではいけないと転属を申し出て、修道女会に入っては見たものの、清貧を尊ぶ暮らしに身体の疼きが収まることは無かった。
ファルスを握るサテュロス、夢魔や淫魔の呪いが掛けられているのではないかと、庁内の退魔師や治癒施術院、果ては祓魔教会の熟練エクソシストにさえ診て貰ったのだが、渇望は重篤化していく。
今では恥を忍ぶ、破壊尼僧として毎週近く、大人の発展場に通う色情狂だ。
やめなくてはいけない……神に仕え、地母神ディアーナに奉仕する身で、こんなことを繰り返すのは冒瀆だと悩んでいる。でも、やめられなかった。
一度に何人もの男達に嬲られる陶酔が忘れられなくて、今も週一で神に背いている。
還俗して婚姻しようかと彼女の告解担当の司祭に相談しては見たものの、一人の男で満足できる自信が無い。浮気や不倫に走る結婚生活に何の意味があるだろう。
そんな時に、発展場で職場の同僚に会ってしまう。聖職者の官位はあるが、どちらかというと学術的な検証を業務とする研究員の男だ。
夫婦して参加してきた変態だったが、欲望に陶酔し切っていて興奮に歯止めが効かなくなっていた状態のジョセフィーヌは後先考えず、この同僚の男と関係を持ってしまった。
つい昨日のことだ。
「何だ、ちゃんと覚えているじゃないですか」
「貴女のあの時の声ときたら、まるで獣のようなくぐもった吠え声だもんだから、てっきり盛大に気絶した後の記憶が飛んでるんじゃないかと心配したんですよ?」
屈辱だった。
いつかは知り合いに痴態を晒す日が来るかもしれないと恐れてはいたが、最悪のケースで危惧は現実になった。
「あそこでのことを持ち出して、わたくしに纏わりつこうとするなら、貴方の奥様の恥ずかしい、じょ、情痴もバラしますよ!」
「家内は納得付くで参加している、夫婦として何等恥ずることは無い、寧ろ我が家に貴女を招待したいぐらいだ」
私達聖母会技術系神職は研究施設内の寮に集団生活をするが、在野の研究職は家庭を持ち聖庁市街区からの通いが許されていた。
破廉恥な夫婦がただ食事に招待する訳もない、何か良からぬことを企んでいるのだろう。
それが目的か……やはり禁を犯しても、私は私の計画を急がねばならない。
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約束された運命として、生まれながらに特別な聖職者の家系に生を受けた洗礼名サマルディ・サマリナは、物心付くと同時に女性聖職者のための神学校に進む。
女性法王の前提たる類い稀なる汲めども尽きぬ福音の聖波の代償のように、白子として生まれつき、人目を避ける神学専門のガヴァネスでも良かったが、神学部を擁する学び舎で他の学究の徒と共に過ごしたいというのが本人の希望だった。
共同生活に適応し、共に福音宣教に励み、女神の愛を身近に感じ、人々に女神の教えを説くために生涯を捧げると約束した。
天啓を受け、胸骨の上辺りにロザリオの紋章の聖痕を生まれながらに持っていた。乳幼児の頃に、ここ法王聖庁の権威ある洗礼盤で浸礼を受ける。
女神への献身のために貞潔、清貧、従順の約束を自発的に誓い、生涯を独身で通し、結婚生活を放棄する“貞潔の誓願”を行う。
早朝の祈祷、ミサ、黙想、聖体礼拝、女神の教えを学び、そしてまた祈りと、修練期を過ごし、幼いうちから女神への奉仕に一生を捧げる覚悟ができていた。
養成期間を過ごした後、一時期修道女の生活を学ぶ。
毎朝3時半に起床し、祈り・読書・ミサ・労働・食事をすべて共同で行い、夜は7時45分に就床し、農作業や牧草の収穫、ペンダントやカードなどの手工芸品の製作などに励む。聖庁聖堂会系の秘蹟、聖魔法の習得には聖女警護隊筆頭補佐官に師事し、習得する。
聖なる典礼、とりわけミサ聖祭と一日に七回の聖務日祷を熱心に捧げ、霊的読書によって女神のお導きを探り、念祷によって女神との内的対話を続け、働くすべての人たちと労苦を分ち合い、修道者に求められている貞潔、清貧、従順の誓願の他に、聖庁聖母会の戒律に従って、操行改善と定住の誓願を宣立した。
この時の修行を通じて、物質的に貧しく生きるだけでなく、精神的にも貧しい者となるよう、即ち自分の弱さや貧しさを認め、自分の知恵、才能、抜術、健康など、全てが神からの賜物であることを認め、慎ましく生きて行く姿勢を完全なものとした。
召命に依る天職は、他に選ぶ道は残されていなかった。
だが、全てに満たされていると感じているサマリナにとって、身体に鞭を当てて肉欲を制したり、長期間断食をして貪欲に打ち勝つ訓練も苦にはならなかった。
使徒職の中でも特別な地位にある次代教皇聖女として大切に育てられてはいたが、女神の使徒として果たさねばならぬ通過儀礼は公平に受けねばならぬ習わしだ。
先天的なメラニンの欠乏により皮膚は白く、右目は淡い青灰色、左目は薄緑色という神秘的な虹彩異色症、所謂オッドアイと言われる虹彩を持っていた。
髪の毛も雪のように白く、紫外線を避けねばならない生活ではあったが、かと言って不健康という印象は無く、アルビノ特有の乳白色の皮膚でさえ、ほんのりと薄紅色に映えるので却って類稀なる高貴な雰囲気を漂わせていた。
公の場に出るときは日傘持ちの近侍役女官達が付き従ったが、その美しさは歴代の教皇聖女の中でも群を抜いていると評判になった。
戴冠式で権威あるミトラ、総主教司教冠を戴いた日はオールドフィールド公国全体が沸いた。
以来、サマリナは一日たりともお役目を欠かしたことは無い。
長い年月を重ねてもうすでに限界が近付いているのに、後継者が見つかっていなかった。
宿命を知り、宿命に従って、全世界の女神教徒と生けとし生けるもの、衆生、万物の穏やかなる生活を願って今日まで祈り続けたが、今初めてサマリナは焦りを覚えていた。
各大陸に3箇所ほど置かれている法王聖庁直轄の御神体聖堂、その本尊は真球の“御神体”と称するものだ。
一般参礼は叶わない未開帳の絶対秘聖霊として、取り囲むような巨大な秘仏厨子の中に厳重に秘匿されている。
非公開なので、実際にその姿を知る者はごく僅かだった。
聖堂内に教会堂があり、その中空にこの小部屋程もある御神体が浮いている。
サマルディ・サマリナは、毎日決まった時間に、この全世界に散らばった御神体に向けて聖波を送っているのだ。
聖波は、この御神体のある地区にごく微弱な福音の加護となって降り注ぐ。
オールドフィールド公国正教の素晴らしいところは、自分のところの信徒でなくとも差別無く公平に、衆生を救おうとする姿勢だ。
これがあるから、女神教は地域の別無く全世界の隅々まで普及しているというのが正鵠を得た万人の意見だろう。
「後継者不在の苦衷、お察しする……日に日に、聖波の験力が弱くなっているのも我等には了解済みだ」
「教皇聖女聖下には初お目見えだが、隣の大陸アルメリアはシェスタ王国で、以前に憤死した下劣な勇者のパーティ、そこで指名従者をしていた者……というよりは、悪趣味なハーレム要員だった者だ」
「罪を悔いて懺悔の旅に出るが、今は行く先々で巡礼の真似事などをしている、あたし、ドロシーと、……同郷出身のもと賢者、あまり以前の職制に意味はないが、姉貴分のステラ、……同じく、もと聖女にしてシーフのエリスだ」
伴ったステラ姉とエリスを指し示し、二人は会釈だけ交わした。
「それと、キキ、自分でご挨拶なさい」
無言で頷き、進み出るキキの出で立ちは子供の体格に合わせた親とお揃いのプラチナ同位元素ライトアーマー、その下はキキの初期装備だった身体にフィットするアーマード・マッスルスーツで、濃いグレーと鈍く銀色に輝く二次元プリントのサポート筋が描く模様に包まれた素材とのコントラストが、部屋を満たす月明かりに映えていた。
脛を覆うグリーブも、前腕を保護するガントレットも誇らしげに輝いて見えた。
控えの間の寝ずの番は、人払いの結界に不審者の気配に気付くことは無い。
普段から小間使いに頼らないのだろうと想像される仕草で自ら襟元を繕った、高貴な方の寝間着は、肌着というよりはそのままドレスのような仕様だが、聖女聖下は寝間用のローブを上に羽織ってすでに居住まいを正していた。
こうしてみると犯し難いまでの聖なる美貌だった。輝く程の清楚さが自然と滲み出るオーラとなって纏わり付いている。
清廉潔白な者だけが、遍く衆生を救うと決意した者だけが、保ち得る煌めきだ。
アルビノの特異な美しさも相俟って、とても90何某の高齢とは思えない。
「お手を……」
キキが法王聖女の手を請う。戦士の装束だからという訳ではなく、相手の格を思えば、ここは跪拝の礼を執るべきだった。
寸分の狂いも無く優雅に膝折に腰を屈め、頭を垂れる一粒種は、例え相手が教皇聖女であれ全く物怖じしていない。
「夜半に押し入る無礼をお許しください」
「“3人の御使い”たるステラ母上、エリス母上、そしてドロシー母上が一子、キキと申します、まだ修行中の身なれど、どうかお見知りおきくださいませ」
「まぁ、まぁ、まぁ、まだ年端も行かぬのに丁寧なご挨拶、傷み入ります」
「お見受けすれば、失礼ながら痛ましい生い立ちのご様子、ようもここまで……」
込み上げるものがあるのか、聖女は言葉を詰まらせた。
「さすがだな、前世の因縁まで見通す聖者……不幸な幼少期を乗り越えたこの子は、横柄な親に似ず、謙虚な心を育めるまでになった」
「ところで聖下……」
「どうかサマリナとお呼びください」
「では、サマリナさんと……」
「我等は夜目が効くからこのままでも何ら問題無いが、明かりを点けても良いか?」
「いえ、斟酌頂く必要はありません、老いたりとはいえ、わたくしも夜目は効く方なので」
「そうか……、実は所望したいものがある」
「訳を話すと長くなるが、貴女が望むのなら対価として若返りと延命を叶える用意がある」
秘密裏に入手した聖女聖下の生命セルから(入浴後の残滓を失敬した)、取得した強化ゲノムを基にニューロ技術、超次世代先進サイバネティックス、遺伝子工学、ナノテクノロジーを統合した生命科学の頂点と、私等魔導サイドの錬金術のコラボレーションから命の生成をなしていた。
つまり完全複製体の創出だ。
バイオテクノロジーとアルケミストの集大成は、生命の奇跡を生み出した。
「ステラ姉、頼む」
黙って頷くステラ姉は、占星術と錬金術の頂点たる象徴、2匹の蛇型が絡む意匠の“カドゥケウスの杖”をかざし、頭上に異空間へと繋げる魔法陣ゲートを開いた。
突如部屋を照らす灯かりと共に、異空間に用意した膨大な医療工業施設から1本のシリンダーがゆっくりと投下された。
抗酸化作用のある特殊な電解ポリフェノール液に満たされた透明チューブの中に眠るのは、サマルディ・サマリナとそっくりの有機サイボーグ体だった。
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「でっ?、海の彼方に君臨した女王が美しさ限りなく、膂力もまた優れていたと」
「……そうですね」
ナンシーの肯定も歯切れが悪い。
「勇壮なる武人を相手とし、自身の女を賭けて、槍投げ、投石、幅跳びを競い負け知らず、多くの勇士が破れて命を失った……女王の名前は“ブリュンヒルデ”って、まんま異世界のジークフリートって英雄賛歌の叙事詩“ニーベルンゲンの歌”そのものじゃん!」
「思うにですね、こちらの世界と幾らかの並行異世界は微妙に相関関係があるようですね」
聖庁“ディアーナの宝物庫”目録管理局調査部の文献を漁って、”賢者の臓腑”の由来来歴を探っていくうちに、どうも妙なので情報解析をナンシーに託したところ、結果として異世界の夢物語をなぞるような信じ難い事実を、またもや突き付けられていた。
またもやと言うのは、新しく眷属になったシャルと巡り合った一件で、太公望と妲己の、史実と“封神演義”が錯綜するケースを体験していたからだが、どうも並行世界は互いに影響し合うのか、あちらがこちらに干渉するのか、こちらがあちらに干渉するのか、全くの話、大いなる謎だ。
今度、魔導クロノメーターに巣食う妖精神ガラティアに問い質してみなくてはなるまい。
ブリュンヒルデ、もしくはブリュンヒルトという女性名は、ポピュラーかどうかは知らないが、パラレル・ワールドは異世界ドイツ地方に多いと何かで読んだ。
彼の力自慢の女王が治めていたのはイースラント、将来アイスランドと呼ばれるようになる北方地方だったにもかかわらずだ。
“ニーベルンゲンの歌”は、異世界中世ヨーロッパはネーデルラントの英雄だったとされる“竜殺しのジークフリート”の非業の死と、ブルグントの国王の妹でジークフリートの妻だったクリームヒルトのその後の復讐劇を描いている。
他にサガと並び北欧神話研究における文書群に“エッダ”と呼ばれるものがあるが、異世界アイスランドの詩人スノッリ・ストゥルルソンが1220年頃に詩の教本として著したもの、並びにその原典とされる写本に、口承伝説や5から6世紀にかけて起きた歴史的な出来事や人物が散見される。
ニーベルンゲン伝説もそんな中のひとつだ。
原文は韻文であり、長い2行詩を二つ合わせた構造で書かれているが、全39歌章の内、ブリュンヒルデ伝説を元にしている部分は1から19歌章で、これを前編とする構成が異世界では一般的だった。
異世界北欧伝承においては、力強いアマゾネスの如き女王として描かれるブリュンヒルデの、求婚に際して力試しをする古代ゲルマンのものに対し、あまり知られていないが炎の壁を越えるというスカンディナヴィア版の逸話もある。
様々な伝承と典拠がある中、いずれにしても共通するのはジークフリートが計略を用いてグンテルの代わりに初夜の床へ入り、それが後にブリュンヒルデがジークフリートを殺害させる動機になっているという点だろうか?
麗しいブリュンヒルデはさぞ筋骨隆々たる体格に顋の張った四角い顔と思いきや、ヘラ、アテナ、アフロディーテの三美神に勝るとも劣らない気品と容色だったらしい。
淑徳を尊ぶ彼女が婚儀の後に初夜の床、夫のグンテル王を縛り上げて吊るしてしまったのも、割と好きなくだりだ。
女が女の貞節を守る時、私は何故か胸のすく想いがする。
「だというに、寝所で同衾するジークフリートにころっと打ち負かされて、グンテルの淫気を貴い思召しとか言って有難がるんだろう? あたし等に後ろ指差す資格はないけどさ、これは節操無いにも程があるだろう」
「でも、ブリュンヒルデは夫のグンテルよりジークフリートの方に懸想してるように、私には思えたわ」
「えぇっ、ステラ姉、本当っ……どんなところさ?」
「二人の妃の確執だけど、本当の想い人が別の女と愛し合っているのに耐えられなかったブリュンヒルデの方から仕掛けたように、私には思えるの」
「二度目の寝所に忍んで自分を手厳しく負かしたのが、実はジークフリートだったって、彼女には分かってたんじゃないかしら?」
二人の王妃が川で髪を洗っているときに口論になり、ブリュンヒルデは自分の夫グンテルの方がジークフリートよりも勇敢であるから、クリームヒルトが洗ったあとの水が自分のところに流れてくるのは嫌だと言った。
クリームヒルトは、夫は竜殺しであると返答するが、ブリュンヒルデは彼がグンテル王の臣下であるから格下だと主張する。
実は二人の悪賢い首魁は結託して純朴なブリュンヒルデを手玉に取ったのだと、クリームヒルトは明かしてしまう。
この辺は“散文のエッダ”のストーリーに近いかな?
証拠としてブリュンヒルデを手籠めにした宵に、夫が彼女の私物から失敬した金の指輪とニニフェ産の絹帯を示した。
ジークフリートは、ちゃっかりそれ等を我が妻クリームヒルトに贈っていたのだ。
これを聞いたブリュンヒルデはあまりの憤懣遣る方無さに、グンテル王にジークフリートの去勢を願い出る。
結果、背中の肩甲骨と肩甲骨の間の竜の血を浴びなかった箇所を貫かれて、ジークフリートは落命する。
リンデンバウム、西洋菩提樹の葉が偶然張り付いてできた泣き所だった。
遺品の愛刀バルムンクと、12人力を得る隠れ蓑タルンカッペを掻き抱き、自分の仕出かした理不尽に絶望したブリュンヒルデは火の山に身を投げる。
そして火の山を住処とする鍛冶女神が鍛えたのが、ブリュンヒルデの魂を核にバルムンク、タルンカッペを漉き込んだ《ギゲル》だったというのだが、どうも眉唾な話だ。
「どのぐらい前なのか、こちらの世界のブリュンヒルデが残したとされる伝承には確たる年代が伝わっていないが、逆に命懸けの力試しで使われた槍も投擲用の巨石も尋常じゃない大きさ、重さが妙にはっきりと残されているようだ……ひょっとすると何か重要なファクターなんだろうか?」
「単なる力自慢なんじゃないの、よっぽど後世に残しておきたいほどのさ……それにしても事実だとしたら人間業じゃないよね?」
「古代の武技とか……かな?」
「いや、エリス、この場合使われたのは人体強化魔法か、何かの補助魔法とする方が妥当だろう」
「隠された方程式の係数ですよ、隕石から鋳造されたという鉄槍は長さ8フット、センチメートルに換算すると243.84センチ、重さは59ポンドで131.1111キログラム、投擲用の力石はアダマンタイト製で112ポンドは248.8888キログラム……コマンド・オフィサーにはこれらの数値に覚えがある筈です」
システムの癖に咳払いをするような人間臭い雰囲気で割って入るナンシーが、行き成り核心に触れてきた。
「待てよ、それは……いずれもメイオール銀河の四次元コーデック規格、つまり宇宙の神秘を解き明かすとされたメイオール係数のコア部分だ…………いったい、どういうことだ、ナンシー?」
「残されたメッセージ、もしくはヒントではないかと私は推測しています……」
「私は長い間スリープ状態でした、地上では強力過ぎる兵器を搭載していたので、一定の経済的あるいは政治的派閥に利用されないように、という配慮の末、凍結されたのです」
「一夜にして海中に没した宗主国家ヒュペリオン大聖国の貴重な技術的遺産は粗方が失われてしまいましたが、今でも稼働している通信可能な端末が皆無という訳ではありません」
「例えば人魚達の村、ジュール諸島グリーン・ラグーンにあったニンリルの神像のような記録回路を持つ基底現実モジュールが、今も幾つか世界各地に現存しています」
「これらの不完全な欠損情報を繋ぎ合わせて得た直観的帰納推論として、往時に隆盛を誇った在野の総合化学技術開発財団、産学協同プロジェクト“ヘドロック・ケミカル”の最期の総帥にして主席科学者、サー・ヘドロック・セルダンという人物の影がちらつくのです」
「誰だって? ブリュンヒルデとどう関係してくる?」
「ブリュンヒルデはホムンクルス……セルダンが創り出した人造人間だったと推論しています、類い稀なる妍も優生遺伝を突き詰めた結果です」
「サー・ヘドロック・セルダンは異能の天才科学者、ヘドロック財団のCEOだった男で、大変な碩学だと断片的な記録から判明しています」
「権威ある財団は素材科学の分野で財を成した多角経営の複合企業でしたが、何故かセルダンは兵器開発に力を注ぎます……どうも、この男、ヒュペリオンの滅亡を予測していたような節があるのです」
「彼が創設した確率人類進化学の行動心理原則理論なら、ある程度の未来予測が可能になります」
「……もしやすると今の世にも、何らかの形で暗躍していると?」
「それは今のところ不明です、ぱったりと消息が絶たれます……もしかするとですが、例の32のオー・パーツにも関与しているかとも思われますが、いまだ何らかの形で存命しているのかどうかさえ、定かではありません」
「奇跡的に大災害を生き延びたヘドロック・セルダンは、自ら戦争と死の神“オーディン”を詐称し、創出した女性型有機アンドロイドシリーズ“ワルキューレ”を以って、死してなお荒ぶる戦士の魂を回収し始めます」
「やがて来たる“神々の黄昏”のためのエインヘリヤル軍団を擁せんとするのか……いったい何の為に?」
美貌の一方で大力の女傑として登場するブリュンヒルデは、リヒャルト・ワーグナー作曲の楽劇“ニーベルングの指環”で良く知られるところとなる“ワルキューレ”もしくは“ヴァルキリー”、あるいは“盾の乙女”として引き合いに出されることが多い。
前者は戦場で死んだ者の半分をオーディンの治める戦士の浄土ヴァルハラに連れて行く役割を担い、後者は幾つかのサガで語られる実在したであろう女戦士のことだ。
「彼の研究テーマの主軸だったのは不老不死、トランスヒューマニズム・サイエンスの先駆者だったようです……このノウハウの一部はすでにトラッキングを開始しています」
今回の作戦の要たるサマルディ・サマリナの延命用サイボーグ義体に、その技術の一部が生かされているとナンシーの説明があった。
「《ギゲル》はサー・ヘドロック・セルダンが生み出したもの……と考えています」
それにしても、恋するホムンクルスは一体何を想って息絶えたのだろうか?
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有機義体ともいえる遺伝子レベルからの強化クローン培養体を準備した。
頭骨の中に収まるのは高性能原形質コンピュータ、容量も処理速度も人間の頭脳を遥かに上回る。これにサマルディ・サマリナの意思と意識を移植すれば彼女は生まれ変われる。
「貴女の新しい身体、インターフェイスだ、見た目は一緒でもリフレッシュされた細胞は一切の澱を残してはいない……つまり、若い頃と同じような聖波を生み出すことが、この身体だったら可能だ」
「貴女のアイデンティティを失わぬよう外見は瓜二つだが、劣性遺伝のアルビノのマイナス因子、色素の薄さは白いメラニン色素を生み出すことで改善してある」
「常に刷新されるゲノムが肉体年齢を固定するこの義体モジュールだったら100億年程は生きられる、そのように調整した……100億年の間に衆生を救うという大義名分への想いが擦り切れてしまわなければ、100億年の永きに渡り、生き長らえる意思が揺らがなければ……」
「貴女は神にもなれる」
考えても見て欲しい。100億年を思索に費やする真理の探究者にして魂の求道者が、悠久の果てに何を得るのか?
「決して経年劣化しない強く曲がらぬ精神を持つ祝別の聖女にだけ、それが可能だ」
「無論、100億年もの後に人類が今のままかどうかはまた別の話だ、もしかしたら計算より早く、この惑星系が熱的死を迎え、他の星系を目指して脱出してしまうかもしれないし、この星の主導を人類が保ち得ているか、宗教体系自体が今のままでいられるかどうかさえ怪しい……」
「選ぶのは貴女だ」
「……ドロシー様、とおっしゃいましたか」
「違う! ただのドロシーだっ、あたしは“様”などと呼ばれる程の者ではない」
「では、ドロシーと……まず、貴女方の英断に感謝致します、隣国とはいえ法王聖庁の膝下近くにありながら、今日まで悪魔信仰の邪宗門が蔓延っているのを知り得なかったのは我等が落ち度、公国正教を代表してお礼を申し上げます」
そう来ても想定内……こちらは空恍けるだけだ。
「……何のことかな? あたし等のあずかり知らぬことだ」
「おとぼけを、シナゴーグ夜宴教とやらの堕落集団を誅戮したのは“3人の御使い”だったと、わたくし共の郷土教会情報組織から報告を受けています」
「それを承知の上でお訊きするのですが……貴女が並々ならぬ心力の持ち主なのはわたくしにもはっきり分かります、何故ご自分で不死を生きる、替え難いお役目に就こうとは思われなんだのですか?」
「それこそ正可だ……、あたし等は明日をも知れぬ短命を生きるを宿命とする者、人類の行く末を見守るなんて御大層な重責を背負える訳もない」
「人生に翻弄され、宿命を知ってもそれを素直に受け入れるを由としない……天地がひっくり返っても、あたし等に衆生を救うなんて高尚な真似をしろとは、出来ない相談さ」
「……貴女の祝別された処女性にこそ、真の価値がある」
「ただ、我等は絶対に100億年は生きないが、提供した有機素体がシュミレーション通りに歩めているか、未知の因子に阻害されてプランから大きく湾曲していないか、逸脱していないか、何とかして確かめに来たいとは思っている……生き残れたらの話だが」
「決めるのは貴女だが、代わりに“ディアーナの宝物庫”が有する第一級危険指定の永久凍結器物、“賢者の臓腑”と呼ばれる神器……《ギゲル》をこちらに渡して頂きたい」
「……手に入れて、どうするのです?」
「破壊する、あれは天地創造を引き起こす外道の神器、つまりは世界を遣り直すためのスイッチだ、ビッグバン発現機は宇宙創生を最初から遣り直す」
「シークエンスが正しく揃ったとき、強制ビッグ・バンが発動してしまう……宇宙の破壊のための急激な集束と、創世記の生成を最初から繰り返す驚異のリサイクルが始まる」
「あれは、そうしたものだ……存在自体が百害あって一利も無い」
「……分かりました、貴女様のおっしゃることであれば、まず間違いないのでしょう」
「私の代でお目に掛かれるとは思っていませんでしたので、本当に吃驚致しております……今までの数々のご無礼をお許しください」
いやいや、吃驚したのはこっちだ! あろうことか、聖女聖下は私の前に進み出ると私に対して跪いた。
「女神ニンリルとその宿命が一柱、“天秤の女神”に邂逅するは我等公国正教の隠されたる真の悲願……開闢以来の秘教義として受け継がれているものです」
「!!!……バカな、そんなことを記した聖典など、何処にも無かったぞっ!」
「あぁ、何やら聖庁を探る気配があるのは存じていましたが、秘教義は文字通り秘中の秘、最高位聖職者数名にのみ口伝で引き継がれるよう厳しく戒められておりますれば、当事者以外に知り得よう筈も御座いませぬ、その点はご容赦くださりませ」
俄かには信じ難い話だった。
最も古い女神教創設宗門、オールドフィールド公国正教が、対外的な教義と存在意義の他に秘めたる目的を持っているなど、見たことも聞いたことも無い。
祈祷書の何処にも謳われてはいない。
信憑性に欠けた作り話かとも思えるが、聖女聖下の様子からどうもそうではなさそうだ。
「人違いじゃないか? “天秤の女神”などと、聞いたことも無い」
「あたしは……あたし等は過去に犯した罪の懺悔に生きている、それだけだ」
「彼の一柱は、それを否定するだろうとも伝えられております」
「額の赤い御印を見るまでもなく、一柱は相対すればわかるとも伝わっております……正しく、その通りでしたが」
「あたしは卑しい鬻ぎ女に過ぎない、もう二度と間違えないとは誰にも負けない克己心を持てた今だからこそ言える言葉だ、あたしの人生は間違いだらけだった……だから、どんなに焦がれても、どんなに望んでも、もう真面だったあの頃には戻れない……戻れないんだ」
「どんなに願っても河の流れは止められない、淀みに浮かぶ泡沫を押し留めることは叶わない」
「……貴女方は、その“天秤の女神”とやらに会えたとして、どうするつもりなのだ?」
「何も……何もいたしませぬ、お慰めするでもなく、一緒に嘆くでもなく、ただ付き随うだけです、信仰とはそういうものと心得ます」
「何なりとお申し付けください、全ては御心のままに……」
死ねなかったから生き残ったに過ぎなかった。
この身は傷を重ねた分、強くなったかはいざ知らず、淀みに浮いた塵芥に過ぎぬというに、随分と酔狂な話だ。
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神器管理人ジョセフィーヌ・ライマンは、夜明け前の東の尖塔を登り続けていた。
テンプル騎士団で鍛えた健脚はいまだ健在だが、こうなると長い修道服の裾がまとわりついて邪魔になり、たくし上げながら走った。まだまだ肌寒い夜もある季節だったが、噴き出る汗を手で拭いながら上を目指していた。
歴史に名を残す中世ゴゴ・ゴンドワナ時代の教会建築の雄にしてハーフ・ドワーフの錬金工法の達人、パラケルスス・ロンサール師の最高傑作は完成までに300年を要した。
構想した本人は完成を目にしていない。
その名も“夜明けの塔ロンサール”は、322メートルもの高さを誇り、昇降機の類は一切無い。
その頭頂部は方位から、いの一番に旭日を迎えることから“暁の塔”とも呼ばれた。
途中の祈祷所を兼ねた休憩用の小部屋も含めて、1,536段の螺旋階段をただひたすら、己れの足で登るしかない。
エレメンタル・マジックを発動して、己れの足腰に精霊のご利益を付与しながら、息吐く動悸を抑え、目指すべきこの先を真っ直ぐに見上げていた。
夜明けの朝日を逃さぬように、ただ一心に登って行く。
腕には絶対持ち出し厳禁の筈の秘宝、“賢者の臓腑”が、大切にかかえられていた。
それは奇妙に捩くれ、質感は鉱物なのに不気味な手触りで、ブヨブヨした生体を思わせた。
表面は墨色と黄色みがかった琥珀色の斑模様で、息衝くように薄ぼんやりと発光して実に薄気味悪かった。
大きさを別にして、形状はドリルのような、スクリューのような、螺旋形の卵殻を持つ、ある種の鮫の卵に似ていた。
どう見ても神器というよりは魔の範疇、おどろおどろしい気配に満ちていた。
一ヶ月前だった。普段は立ち入らない永久凍結器物保管庫に、呼び寄せられるようにして心此処にあらずの、まるで夢遊病患者のようにしてセキュリティを通り抜けた。
目の前にした《ギゲル》は、今まで気に留めたことも無かったが、何故か一目で魅せられていた。
最初は唸るような呟きが聴こえているような気がしていたが、やがてはっきりと繰り言の意味が分かるようになる。
局内では天地創造の創生器物として、厳重な封印同然だった《ギゲル》は自らの発動方法を語っていた。
満月の夜に、押し戴いたまま五芒星の道順で20回巡れ……などという意味不明の複雑なシークエンスを数多くこなし、いよいよ今朝最後の発動句を紡ぐだけだ。
夜明けの朝日に向けて《ギゲル》を掲げ、「光あれっ!」と唱えることにより全てが終わり、全てが始まる。
その時に強く願えば、望まぬ人生を遣り直すことが出来る筈だ。
何故選ばれたのかは皆目分からなかったが、人生を遣り直すことを願ったジョセフィーヌ・ライマンにとっては、これこそが神の福音に思えた。
身体に群がる男共は、しなやかな肢体を褒め称え、男好きのする肉体だと言われることが多かったが、ライマンにとってはあまり嬉しくはなかった。
母親が誰彼構わず身体を開くあさましい人だったので、絶対ああいうふうにはなるまいと思った。
子供が甘えたいとき、熱を出して心細いとき、子供そっちのけで男を漁るような女は親とは言えない。
鼻筋の通った細面の顔が、段々と母親に似てくるのが嫌で嫌で堪らなかった。
神に仕えるために短く刈り込んだ髪は、あの女と同じやや赤味がかったブリュネット……ノーブルな顔立ちに好く似合うと世辞を言われて喜んだ能天気な母親が憎かった。
男を知って、やはりあの母の子かと思った
神学と信仰は淫らな自分を矯正してくれると信じたかった。だが不自由さは、却って欲求不満を助長するだけだった。
ついに、日の出前に尖塔の物見部分に辿り着いた。
もうすぐだ、もうすぐ私は全てをリセットして、普通の物堅い女としての人生を最初からやり直す。生き直す。
子を慈しむ温かい家庭に生まれ直す。
朝日が昇るのを待って、私は重い魔導器を両手で捧げ上げた。
(自分の都合で世界をリセットしようとするのは、果たして正しいことか?)
急に、何の前触れも無く、誰かに問い掛けられた。
あまりにも明確に頭の中に響き渡る誰かの強い意志に硬直して、思わず《ギゲル》を取り落としそうになる。
「だっ、誰!」
(貴女は、もっと貴女の心に向き合わなければならない……)
何かが《ギゲル》を貫いた。砕ける音がした。
破裂したのかと思ったが、そうじゃない!
貫かれた《ギゲル》は四散し、粉々に砕けていくのがゆっくり……ゆっくりと目に映った。
残骸は床に落ちる前に、溶けるように薄くなり、透けるように消えていった。
あっけない幕切れに、前屈みにへたり込んだ。
何が起こったかは分からなかったが、未遂に終わった神への裏切りは世界に唯一の至宝中の至宝を失って終わったんだと、そればかりが頭にこびり付いて離れなかった。
罪に問われ、裁かれることになるだろうが、他のことは然程気にならなかった。
「私は何を想い詰めて、何を間違えたのだろう?」
気が付くと差し込む陽の光の中、空気中を浮遊する微細な塵がキラキラと輝いて人気の無い部屋を満たしていた。今日も良い天気のようだ……おかしなものだ、幼い頃は天気が良いというだけで気分が弾んだものだったのに。
床には、消え損ねた“賢者の臓腑”の名残りが細かな砂粒のように落ちていて、突いた手の平がざらついた。
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「キキ、観測っ」
“暁の尖塔”を登って行くジョセフィーヌ・ライマンを空間遠視で追っていた。
《ギゲル》を保管している秘蹟管理省“神の遺産”管理部の一人が、怪しげな行動をするのには気が付いていた。
どうも《ギゲル》を発動しようとしている。
《ギゲル》に憑りつかれ、《ギゲル》に操られているのでなければ、この複雑なシークエンスはこなせる筈がない。
では、誰の意思なのか?
単純に機械的なAIなのか、ブリュンヒルデの仕業なのか、それともサー・ヘドロック・セルダンとやらの残留思念なのか……そこまでは探り切れなかったが、代わりに女性神職の悩みは分かった。
「説明したように厳重な秘蹟物封印結界をくぐり抜けて不心得な神職が一人、“賢者の臓腑”、宇宙消滅神器の最後の発動句を唱えるために“暁の塔”で天辺を目指している」
貴女のところの手癖の悪い修道女職員が、今まさに世界の終局を招こうとして、朝日に向い公国正教以外の祈りを捧げようとしている事実を、嫌み半分に告げたところだ。
《ギゲル》……“賢者の臓腑”は発動者の願いを聞き届け、過去を含め宇宙のあらゆる一切合切の記憶を内包したまま、人為的なビッグ・バン発動のために宇宙規模の超重力コアを生み出す。
つまりこの星目掛けて、ひとつの銀河が収束する。
何千億年の時をかけ、過去の記憶を再構成して遣り直す……そして発動者の願いを叶えるために、本のちょっとだけ記憶を改竄する。
さすがにその効果範囲は自星系の銀河エリアに限られていたが、犠牲になるものの大きさを考えれば(例えば他星系の知的生命体の文明が巻き込まれて一緒に遣り直しても、ついでの記憶は上手く再生されるとは限らない)、傍迷惑もいいところだ。
ヘドロック・セルダンにどのような深謀遠慮あろうとも、このようなものを創り出すとは、神になろうとした哀れなマッド・サイエンティストに違いなかった。
「どうして……どうして、誰も気が付かなかったのでしょう?」
「責めを負うのは警備側ではないさ、秘蹟管理省は秘物を扱うときの危険さをもう一度見直した方がいい」
「まっ、“賢者の臓腑”自身が焚き付ければ封印結界自体が意味を為さなくなる、ってことかな」
「おっしゃる通りだとすると、もう夜明けまで間がありません、今からでは追い付きようが無いのでは?」
魔導クロノメーターでちょっと時間を止めてから空間転移で強襲してもいいし、普通に最速の残光天駆で行っても、追いつくにはお釣りがくる距離だった。
何よりジョセフィーヌ・ライマンにはエンゼル・ヘアを絡み付かせたままだ。いよいよとなればどうとでもなる。
「ここから狙うのさ……、そのためにここで貴女の同意を得る必要があった」
「寝所に押し入るのも趣味でやってる訳じゃない」
武器格納ストレージから、取り出した“アロンダイト-14S”のキャリングケースを開けて、弾倉や消音器、透過機能付きナンシーお墨付きの特注光学スコープを取り付けていく。
こいつはマウントすると同時に、自動で対象物に対しゼロイン修正し続ける優れものだ。
さすがの教皇聖女もことここに至り、普段は落ち着き払っているだろうが、居ても立ってもいられない様子だ。
「安心しろ、“暁の塔”の先頭に陽の光が差すまで後5分ある、仕留めるには充分な時間だ」
「我が主上、世界の破滅を前に、その絶対の自信は何処から来るのですか?」
「……あたしが信じるのは自分の力なんかじゃない、己れの弱さを知れと常に諭し続けた師匠との厳しい修行の日々だ」
精密スポッティング・ディバイスで、距離、角度、風力、温・湿度を計測するキキが私を振り返り、極端な仰角射撃のため、両膝に手を突いた前屈みで肩を差し出す。
ボルトアクションでは戦闘に不向きと思いマガジン式にしたロングカスタム銃に装填するのは、フルメタルジャケットの徹甲魔弾、消滅魔法が弾頭のミスリルに埋め込まれている。
白い巡礼マントを脱ぎ捨てると、ニーリングと呼ばれる膝立ち射の姿勢に構え、キキの左肩を借りて、上向きにバレルを固定する。しゃがみ込む私を見下ろすように覗き込むキキと目を合わせ、互いに確認し合った。
最後に特殊なサーマル・スコープでしか可視化できない、透過性不可視光レーザーポインターのスイッチを入れた。
「方位、正東南東から反時計回り5.846733度、弾道直線距離6.7467キロ、仰角度37.23度……」
「よくやった」
観測手による正確な数値は言霊となって、絶対必中度を回避不可能なまでに完璧なものにする。
「ここからの射線だと、僅かに女の脇胸が塞ぎます」
「分かっている、曲射する」
銃身砲身内に二重に切られたライフリングに刻んだ魔術刻印は、1本は対物必中の術式、もう1本は直接因果を撃ち抜くための術式……後者に魔力を流せば、自在に弾道を曲げることが可能だ。
トリガーを引き絞るとき、銃身がブレないよう身体加速を掛ける。
「シュートッ!」
魔力を籠めたガンパウダーは、初速で音速を超える14.7mm大口径弾を撃ち出す。
完全無音のサウンド・サプレッサーは発射音を全て吸収するが、弾の風切り音と分厚い壁を射貫く音は、また別だ。
およそ7kmの距離を湾曲して飛翔した弾丸は、2秒弱でターゲットを破壊した。
崩れ落ちる“賢者の臓腑”を追うように、前へと倒れ伏す哀れな尼僧の姿が、私達3人とキキには見えていた。
「命中だ……」
緊張が解けたサマルディ・サマリナは、腰が砕けるようにして傍らの椅子に沈み込む。
「さて、約束通り貴女の意識を原形質電子脳に移植する……そのために、大規模施設ごと用意してきたんだが、よく受けてくれたとだけ感謝する……不老不死は一種の呪いだからな」
「ところで、あの女、ジョセフィーヌ・ライマンのケアはこちらに任せてくれないかな?」
「全て仰せのままに……」
かろうじて許諾の意を示す教皇聖女様は、ここ数分で心労のためか急に老け込んでしまったように見受けられた。
万能計に呼び掛けてみたが、オッパイの大きな妖精神は黙して語らなかった。
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生まれ変わったサマリナ教皇聖女聖下はイノケンティウス二十五世を襲名することになり、改めて即位礼の儀を一週間後に執り行うとの目出度いお触れが、法王聖庁を駆け巡った。
そんなさなか、宝物庫管理課の首席神官から呼び出しが掛かり、通された面談室でこの世のものとは思えない美女女神に相対した。
緩いウエーブのプラチナブロンドに手櫛を入れる仕草が匂い立ち、その完璧な造作の相貌は神々しくさえあった。
もし教皇聖女様が現世での女神の代弁者だとしたら、この人こそは地上に降臨し、受肉した女神そのものかと思われた。
ただ、その見つめ続ければ平衡感覚を失いそうな奇跡の面相は、意志の強さを思わせる濃さと、繊細な儚さを漂わせる弱さの二律背反を揺れ動いているようにも思われた。
蹲ればいいのか、平伏せばいいのか、迷っていると椅子に掛けるように勧められた。
心の片隅で悟っていたんだと思う。先日の私の暴挙……《ギゲル》を持ち出し、あまつさえ歴史をやり直そうとした。
ひた隠しにしてきたが、挙句の果てに聖庁の至宝のひとつを失ってしまう。
その罰を受けるのだと思った……だが、違った。
私が世界のリセットに手を掛けたとき、阻止したのはこの方だ。
「“賢者の臓腑”を射貫いたのはこのあたしだ、サマリナ殿と……教皇聖女様と取り引きをした」
「貴女が引金に指を掛けた……そのことはもう済んだこととして、とやかく言うつもりも、罪に問うつもりもない、全ては《ギゲル》に操られて、というのが真相だ」
全ての罪過を見通す透徹眼かと思われる美しくも怜悧な鋭い視線に射竦められ、私は雷に打たれた哀れな子羊と化していた。
だが犯し難い神聖な筈の女神の明かす内容は、勿体振った言い方は好きじゃないとただ淡々と語られるからか、聴くだけでも心が痛む無惨なものだった。
「……という訳で、逃げ惑い、生き惑う中であたし達は倣い覚えた身体を売る技を活計としていた」
「一部の救いようが無い犯罪者を別にして、人間の本質は善なるものだと思っている……環境で人は簡単に堕ちてしまうとしても、生まれながらの淫乱など居ないんだ」
「シェスタ王国の召喚勇者に謀られて、長く変態ハーレムにいたことがあるが、そこでは望まれるまま、輪姦される生活に明け暮れていた……下種ハーレムが瓦解した後、そのときの朋輩で娼婦に堕ちた女達の相談に乗ろうとカウンセリングを学んだ」
「救えた者もいたが、正直救えない者もいた、だが……」
「多淫症、所謂ニンフォマニア、性行為依存症になったのには、何か心的要因がある筈なんだ………良ければ、貴女の話を聞かせて貰えるだろうか?」
科学的アプローチ、メンタル・クリニックという療法を知った最初だった。神学者や司祭への告解などとは全く違い、もしかするとこれで私は救われるかもしれないと思えた、最初の一歩だった。
後世に、世界初の性依存症克服自助グループ“セクスホーリックス・アノニマス”の創設者として名を残す、ジョセフィーヌ・ライマン女史の若き日の姿だった。
リベラル=個人の自由や多様性を尊重する方の“リベラル”では、当初は「権力からの自由」を重視したが、一方ジョン・スチュアート・ミルは「自由論」で他人に危害を加えた場合のみ自由は制限される、と共存のルールを示し、アダム・スミスは経済活動に対する国家の介入を批判し「小さな政府」〈レッセ・フェール〉を説いた
これに対し放任されれば本当に自由を享受できるのかを問う、各人の自由な人生設計を可能にするため国家の支援が必要と考える「権力による自由」の発想があり、20世紀の先進諸国は社会保障や福祉国家を整備した
スカプラリオ=ラテン語のscapulae〈肩〉から名づけられたキリスト聖職者などが肩からぶら下げる衣装/修道士や修道女が着用する修道用と信仰者用があるが、両方とも単に「スカプラリオ」と呼ばれている/着用する者の正面から肩に掛けられ後ろへ吊される布で、かなりの長さがあり、しばしば膝まで届く見た目で、修道会等の修道服として広まっていった/現在も多くのキリスト教の修道会で修道士と修道女が着用する修道服の一部となっている
トゥニカ=チュニックの前身たる古代ギリシャ・ローマや中世の東ローマ帝国で用いられていた貫頭衣から発展した筒型衣全般を指し、その長さも地面に達するものから膝丈程度の長いものが主であった/その後、様々なものがチュニックと呼ばれるようになり、上着であるものもあれば、アンダースカート等の下着もあり、形状は筒状のものもあれば、アンダーバストで切り替えてAラインドレスのように自然に裾を広げるもの、腰の位置で切り替えたり紐で結ぶようにして裾をスカートのように幅広にするものなど多様であった
ファルス=主に男性の性器・男根を意味する言葉で特に勃起した状態を指す
サテュロス=ギリシア神話に登場する半人半獣の自然の精霊、自然の豊穣の化身にして欲情の塊として表現され、名前の由来を男根に求める説がある
浸礼=洗礼執行方式のひとつで、全身を水に浸す一番原初的な洗礼方法のこと……他に頭部に水を注ぐ灌水礼、手を濡らし、頭に押し付けて水に沈める所作を真似る滴礼がある
ブリュンヒルデ=ゲルマンの英雄譚に登場する女性で、実在した西ゴート王女ブルンヒルドを原型としていると考えられている/北欧の伝承においては、ブリュンヒルドは盾乙女ないしヴァルキリーとして登場し、「エッダ」「古エッダ」そして「ヴォルスンガ・サガ」には彼女を主要人物とする同一のエピソードが含まれている/一方大陸ゲルマン圏では「ニーベルンゲンの歌」の中心人物として、力強いアマゾネスの如き女王として描かれるが、いずれにおいてもブルグントの王グンナル〈グンテル〉と結婚させられた後にシグルズ〈ジークフリート〉に死をもたらす役割を担う/シグルズの妻グズルーン〈クリームヒルト〉との口論がシグルズへの殺意の直接の原因となる/北欧の伝承ではブリュンヒルドはシグルズを殺した後に自害するが、大陸ゲルマンの伝承ではしない
リンデンバウム=冬菩提樹〈Tilia cordata〉と 夏菩提樹〈Tilia platyphyllos〉の自然交配種で、ヨーロッパでは古くから植えられ木材は楽器や木彫材などに利用された/またハーブとしても利用されフランス語由来のティユール〈tilleul〉で知られている
バルムンク=「ニーベルンゲンの歌」に登場する剣:幅広で、黄金の柄には青い宝玉が埋め込まれ、鞘は金色の打紐で巻き上げられていた/北欧神話のグラム、「ニーベルングの指環」のノートゥンクに相当する
オーディン=北欧神話の主神にして戦争と死の神で、魔術に長け、知識に対し非常に貪欲な神/ユグドラシルの根元にあるミーミルの泉の水を飲むことで知恵を身に付け魔術を会得したが片目をその時の代償として失ったとされる/またオーディンはルーン文字の秘密を得るためにユグドラシルの木で首を吊り、グングニルに突き刺されたまま、9日9夜、自分を創造神オーディンに捧げたが、このときは縄が切れて命を取り留めている
オーディンとは本来この創造神の名前であり、最高神オーディンはその功績から創造神と同じ名で呼ばれるようになったとされている/この逸話にちなんでオーディンに捧げる犠牲は首に縄をかけて木に吊るし槍で貫くとされ、タロットカードの大アルカナ XII 「吊された男」は、このときのオーディンを描いたものだという解釈がある
棲処は神々の世界アースガルズにあるヴァーラスキャルヴであり、フリズスキャルヴに座り、世界を見渡している
グラズヘイムにあるヴァルハラに、ワルキューレによってエインヘリャル〈戦死した勇者〉を集め、ラグナロクに備え大規模な演習を毎日行わせるという
ゼロイン=弾丸などの投射物が放物線を描くのに対し光は直進するため、狙点〈狙いを定めた点〉と着弾点は一致させることが難しいが、照準器の調整をある距離で狙点と着弾が一致するように合わせる……これができた状態をゼロイン〈Zero-In〉という/仮に「30mでゼロイン」という場合、標的と射手の距離が30mのとき狙点と着弾が一致するということになる
SA[セクサホーリクス・アノニマス]=不倫・性風俗通い・配偶者やパートナーへのDVや性的虐待・不健全な恋愛やストーカー行為・性的な犯罪行為など、性依存・性的な問題から回復したい人の自助グループで、アノニマスは「無名の・匿名の」という意味で本名を名乗る必要がない
登場人物ヘドロック・セルダンのネーミングはSF古典というか金字塔、アイザック・アシモフのファウンデーションシリーズ“ハリ・セルダン”と、A・E・ヴァン・ヴォークトの武器店シリーズ“ロバート・ヘドロック”から頂戴しました
いつもより長いお話になってしまいましたが、ブックマークと星をお願いできればと思います
感想や批判もお待ちしております
私、漢字が苦手なもので誤字脱字報告もありましたらお願いします





