15.勇者ハーレムで侍女長をしていた女
ソランと一緒になる未来はもう失われてしまったけれど、イリア・コーネリアスという人のことは永遠に忘れない。
私達に夫婦の在り方を示してくれた賢夫人……そう、最後には間違いなく、良き妻であることを選んだ人だ。
春は長雨。
王都の街並みは、篠突く雨に烟っていた。
普通、巡礼者は傘を差さない。よくて蓑笠か、油紙で作られたマント式の合羽姿だ。
頸力を発気して雨粒を弾いても良いが、目立ち過ぎるので、ジャミアスに頼んで付与して貰った撥水と防水の魔術で凌いでいた。
昨晩、図らずも発見してしまった過去の羞恥ともいうべき古いポルノ雑誌に掲載された、私達の乱行をスッパ抜いたパパラッチ記事が頭から離れず、寝付けないまま今日もどんよりとした気分を引き摺っていた。
誰だって、女なら、涎を垂らして喘ぐ淫靡な己の顔なんてまじまじと見たくはない。
……中には、そんな自分に興奮するって手合いも居るのかもしれないが、私達はそんな過去を消し去ってしまいたい口だ。
為出かしてしまったことを帳消しにする方法も色々考えたのだが、やはりキチンと向き合わないのは卑怯と思い、出来ないでいる。
場末のショットバーというか、立ち飲み屋に来ていた。
ステラ姉は男前に、ショットグラスで強いコーン・ウイスキーを飲っていた。チェイサーは要らないそうだ。
王都滞在中の何週間かで、かつての勇者の居館で女官をしていた者達、要は勇者に貞節と真面な人生を奪われ、哀しみにくれた者達の、安否を尋ね歩いた。
尋ねるといっても、陰ながら見守るだけだ。今が問題無く幸せそうなら、過去を思い出す私達が顔を見せるのは、あまり芳しくない。
何人かは、犬に噛まれたと思って元の伴侶と和解していた。乗り越えるには人知れぬ葛藤があった筈なのに、今は幸せそうだ。
こうして無事乗り越えられた堅い絆のカップルには、素直な賞賛を贈りたい。
私達にはいまだ乗り越えられない壁だから……
せめてもの償いと思い、絶対にバレない方法、遠い親戚の遺産が相続された、などの偽の状況を作り出し、一人一人に何某かの金品が渡るようにした。
以前、セント・マリナ共和国で、とある犯罪結社の資金源を強奪したときに、ステラ姉がオリハルコンのインゴットを大量に師匠から託されていた。
そのうちの何本かを、裏のルートで換金してこれに当てた。
何人かは元鞘に戻れず、ただ過去は過去として許すという心の広い違った相手を見つけることができて結婚し、今は普通の家庭を築いた者もいた。
同じように金品を贈った。
笑えない過去をすべて払拭できるかというと、そんな訳にはいかないのも重々承知だが、これからも強く生きて欲しい。
何人かは、精神の安定を欠き、おかしくなる前に、修道院に入って心の安寧を得ていた。彼女達にしてやれることは何かないか考えたのだが、清貧を心の糧とする彼女達に金品は似つかわしくない。
彼女達の所属する施設への匿名の喜捨という形で、裏から手を尽くし、彼女達の神への祈りという日常が、少しでも実り多いものになるよう計らった。
彼女達の真心からの奉仕に対して、人々の尊敬と感謝が集まるようにしたのだ。
何人かは現実に耐えられず、自ら命を絶っていた。悪夢から覚めてすぐの者も、何年かは努力したが結局は破綻してしまった者も、今は墓の下だ。
現世で彼女達にしてやれることは、もう何も無い。
死んでしまった者を愚かと責める資格は私達には無い。
死のうと思って死にきれずに、たまたま生き残ってしまったのが意気地なしの私達だからだ。
それぞれの墓前を掃き清め、せめてもの手向けとステラ姉が鎮魂のミサ曲を奏でた。
典礼に則ったものではないが、ステラ姉がステラ姉のためだけに手に入れた、他の誰かが手にできるものではない、真に力ある唯一無二の“音の神器”は、ひとたび奏でられれば、必ずや奇跡を起こさずにはおかない……そういった音で奏でる、そういったレクイエムだった。
彼女達の魂から、怨恨と無念を祓い、輪廻転生の浄化を経て再びこの世に生まれいずるときは、必ず喜びに満ち溢れた人生を約束する、そんな力がある。
私達は、彼女らが生まれ変わった人生を享受できたか、見届けるまでは生き続けようと、誓い合った。
……問題なのは、ドロドロの記憶からセックス依存症に陥り、普通の日常に戻れず、または戻ろうと努力したにもかかわらず快楽とエクスタシーの渇望から逃れらなかった女達だ。
無論、余程の理解者や絶倫の伴侶が居れば条件は別だろうが、世の中そんなに上手い話は少ない。
身を持ち崩した女達は、宮廷からお祓い箱になった時に慰謝料代わりの恩給を幾何か持たされていたが、使い果たした後は苦界に身を沈める者が大半だった。
そんな今に満足しているのか、もしも本人が嫌じゃ無いのなら、私達は介入するのは控えようと決めて一人ずつ会いにいった。
中には転売に次ぐ転売で、遥か遠国に売られていった娘とか、花柳病で虫の息だった者もいて、身請けしたり、治療に当たった。
これには更に何ヶ月か要した。
何人かはやり直したいというので、しっかりとカウンセリングした後、幸運の加護を付けて、確かな更生施設に入れた。
カウンセリングにはジャミアスからその手のスキルを3人に付与して貰ったが、私の中にダウンロードされている多くの歴代のニンリル達がアドバイスをくれた。
総合すればあらゆるケースの辛酸を体験している彼女達は、立派な精神科、心療内科医師以上のスキルも持っていた。
ほっといてくれ、このまま死なせてくれという者達にはしつこくカウンセリングすることは躊躇われたし、出来なかった。
迷いや厭世的な気分では無く確固たる自我を持つ者を、心から作り直す、つまりそれは洗脳することに他ならなかったからだ。
私達のエゴと思い入れで、人格まで作り替えるのは憚られた。
ステラ姉の神の楽器の力なら、死者を蘇らすことも、彼女達の記憶を操作して全く別の人生を与えることも可能だった。
だが、生きたかったのに死んでしまった訳ではなく、例え錯乱の上でも自ら死を望んだ者達の人生を勝手に作り替えるのは、彼女達に対する冒瀆だと思えた。
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勇者ハーレムの恩寵離宮で、侍女達のまとめ役というか、侍女長のポストに着いていた女性で、イリア・グレイズ・コーネリアスという40代の下級士族出身の既婚者がいた。
家令やバトラーを置かなかった居館では、事実上使用人のトップだった女中頭の婦人だ。
クズ勇者に見染められた女性は、皆例外無く魅了の魔眼に貞淑さを忘れてしまう。
昼日中から多くの女官が、廊下や生垣、厨房などで誰憚ることなく半裸のまま、女同士などで行為に及んでいた環境で、一人キリッと午前服も午後服も一部の隙も無く、ウイングカラーのような詰襟が如何にも窮屈そうな、フォーマル然とした紺色の丈の長いメイド服を着こなし、シニョンに被せた毛斯綸製のモブキャップを片時も外すこと無く、一向にハウスキーピングの職務に従事しようとしない女達の尻を叩いて、無理矢理にでも仕事をさせていた。
屋敷の掃除や暖炉の火入れ、陶磁器、リネン、石鹸の管理(勇者は浴室で戯れることも多かったので重要だった)、雇い入れた侍女には中流貴族の行儀見習いのつもりだった者もいて、綺麗なカーテシィが出来るように教育するのも彼女の役割だった。
鯨の髭製の骨組みこそなかったが、若い侍女は皆、パニエのように膨らんだスカートが制服だったので、優雅にお辞儀をする仕草は必須だったのだ。
王室儀典に定められた跪礼は、ドレスの裾を摘まんで広げ、バレエのプリエのポジションでほぼ垂直に腰を沈めるのが理想とされ、上体は僅かにお辞儀するだけのもので、ガサツな私達勇者チームの女は免除されていたが、やってみるとなかなかに難しかった。
この家政婦長が真面目で淑徳な人だったかというと、実は嘗ての私達も数多く身体を重ねているので知っているのだが、超が付くド淫乱だった。
あ、いや飽く迄も勇者の魅了と催淫に憑りつかれてしまった結果だったろうが、もともと資質があったのか、その凄まじい常軌を逸した悦楽へののめり込み方は、さしもの不道徳ハーレムの中でも毀誉褒貶上、望ましくないレベルだった。
彼女のベッドは大抵の朝、鼻水や涎や汗、その他のものでグッショリと濡れていた。
私室の分厚い扉からは、獣の咆哮といってもいい女性らしからぬ嬌声が、秘匿できずに夜毎に漏れてきた。
四十女の乱れる荒淫そのものの行いは、大っぴらにできないのは勿論のこと、公序良俗などとは天と地ほども懸け離れていた。
毎夜毎晩、庭師の男や厩番、衣装係に洗濯女、新入りの侍女達を手当たり次第に自室に招き入れては、肉の宴を繰り返していた程だ。
もっとも、その頃の私達は家政婦長と同じぐらい肉体の痴悦に溺れていたので、目糞が鼻糞を嗤うようなものかもしれない。
勇者の死によって解放されたあの晩、多くの館の女達が狂乱していた中で、気丈にも後輩達を慰める側に回っていたが、本当なら残してきた夫を毎晩のように裏切り続けた姦通女として、その場で気が触れていてもおかしくはなかった。
いい歳をした物堅いであろう不惑の四十代妻が、長年連れ添った亭主そっちのけで色々な変態行為に勤しんだのだ。
良識の人なら真面でいられる筈がない。
だが、この家政婦長は耐えた。大した精神力だった。
最後まで、図らずも自分が毒牙に掛けてしまった娘達の介護をしていたが、やがて亭主の許に戻っていった。
イリア・コーネリアスの亭主という男は、中産階級の職人街で床屋を営んでいたが、もともと世事に疎い男で、勇者の身の回りの世話をする女達がどのような扱いを受けるか、まったく想像もしていなかった唐変木で、周囲には自分の女房が宮中に出仕するとしか説明していなかった。
あるとき、女房が勇者の館で家政婦長をしている事実を知人に告げると、大馬鹿者呼ばわりされるのに気分を害し、知人と絶交してしまったので、以来誰も亭主に真実を教えてやれなかった。まったくの話が、機会を逸した。
否、機会を逸しようが、しなかろうが、魅了されてしまった女達が生温い性生活の日常に戻って来れる道理も無かった。
やがて、誰が教えたとも知れず事実は亭主の知るところとなり、自他共に認める鴛鴦夫婦の悲しい片割れ、滑稽なコキュ(愚鈍な寝取られ亭主)の愛妻家は、静かに壊れていった。
時間を選んでわざと早朝に帰宅したイリアを、亭主は物静かに迎え入れた。ご近所の手前もあり、あまり取り乱せはしないが、イリアは泣いて玄関先で蹲り、夫を裏切り続けた姦淫の許しを請うた。
ところが、夫は嫉妬どころか不貞を誹ること一切無く、寝取られた妻を受け入れたのだった。
あれほど比翼連理を誓い合った仲だというのに、却って何事も無かったかに振舞う夫が不気味だった。
日中は今まで通りの知っている夫だった。でも夜は、決してイリアを抱こうとはしなかった。
幾晩も、幾晩も、抱こうとはしなかった。
「……貴方、私のことを汚いとお思いですか?」
「ん、何故そんなことを訊く? 私は、昔と変わらず、お前のことを愛しているよ、共に白髪になるまで、もう少しだ」
柔和に笑う夫の張り付けたような笑顔が、ひどく薄寒く思えるイリアだった。
夫は私を許していない、そう確信したのはある日の深夜に妙に寝苦しくて目覚めた時、常夜灯に浮ぶ同衾する夫が、ニタニタ笑ってこちらを覗き込んでいたその目を見てしまったからだ。
その目は決して笑っておらず、闇い奈落のような真っ黒い深淵を見ているようだった。
私のせいで、私のことが好き過ぎた夫は壊れてしまったのだ。
翌日、イリア・コーネリアスは、書き置きひとつ残さず、何も持たずに家を出ていった。
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「夫婦の絆って、何だろうね?」
ポータブルプレイヤーのハイファイ・イヤホンを外しながら、ふと湧いた疑問を言葉にして二人に問うて見た。
外は相変わらずの雨で鬱陶しかったが、認識阻害の結界に乾燥の魔術をアレンジして快適さを保っていた。
あまりジメジメするようだと、天候操作をしてしまいそうになる気持ちを抑えられそうもないが、なるべく自然には干渉しないように心掛けている。
雨に烟る王都は、裏町のショットバーで黒酸塊の果実リキュールをスパークリングワインで割ったものを飲みながら、奥の部屋を見張っていた。
窓際の立ち飲み用の小さな丸テーブルに陣取っていたが、掃除の行き届いていない汚れた床は、ピーナッツの殻や煙草の吸殻、爪楊枝などが散乱していた。きっと夜中は鼠が出て来るんだろう。
私は携帯音楽プレイヤーのスイッチを切って、専用の異空間ストレージに仕舞う。
異世界は、2030年代のロンドンで“巻き髭”を脅してスカして、駄々を捏ね、手に入れた物のひとつだった。ハイレゾ音源用のプレイヤーで、MP3用に比べると少し大きいが、音の再生能力は段違いに優れている。
バッテリーの持ちが悪いので、ナンシーに改造して貰っている。
思えば、あの時は師匠に物凄い勢いで散財させてしまった。深く反省している。
最もそのお陰で、その後の特訓では心底死ぬような目にあった。
「相手を疎まないことかな……」、ステラ姉が遠い目をするような表情で答えた。
前以上に、何でも打ち明けられる仲になった私達は、今まで語られなかった秘密も少しずつ話せるようになっていた。
ステラとソランの母親だった人は、流行病で亡くなったと聞いていたが、実はご主人と別れてアンダーソン家を出て行ったらしい。ソランはそのことを知らされていない。
「……結婚したことないから、よくわからないよ」
「でも、何でイリアさんは、仲睦まじいって評判の旦那さんが居たのに勇者の館になんか勤めたのかな?」
エリスはレモンのグラニテを匙で突きながら、逆に疑問を呈する。
「子供の居なかったイリアさんは、貴族専門の家政婦斡旋所に登録してたんだけど、出仕先が勇者ハーレムだってのは本人には伏されてたらしいの」
「何で、働きに出ようと思ったんだろう? 旦那さんと一緒に床屋を営んでいれば良かったのに」
「んーっ、大人の女の気持ちの有り様は、私達にはまだ分からない機微とかあるのかな?」
「でも、ほら、ご主人ってイリアさんと一緒になる前の裏の顔があったじゃない?」
ステラ姉が私達で調べ上げてきた、ご主人という人の過去について触れた。
表向きは、鍛冶屋や鋳掛け屋、刃物の研ぎ師、ポーション屋、錬金術師向けの鉱物問屋、漢方薬本舗、絨毯工房、差物師、瑪瑙細工の職人、アクセサリー工房などの常連を相手にした小ぢんまりとした理髪店を営んでいる。
イリアさんと一緒になった時も、この地域の風習で盛大に特別性のコンフェッティ(紙吹雪)が職人達の手で巻かれたそうだ。
実は、二人が結婚しても夫婦別姓だったことを知り、怪しむと共に少し調べてわかったのだが、ご主人の姓名がはっきりしない。
戸籍もあやふやだった。
若い頃のご主人は、理髪店の店主は表の顔、本当はその筋では知らぬ者の居ない魔道具の製作者だった。
その筋というのは、人知れず暗殺を請け負う刺客人や、真っ当な商売の道を踏み外した裏街道を歩む者達のことだ。
研ぐ程に、必殺必中の精度が上がる油砥石や革砥ベルトはヒット商品だった。
裏の商売では順風満帆だったにもかかわらず、結婚と同時に、ご主人は裏の商売をぴったり止めてしまう……まるで、妻のために足を洗ったと言わんばかりに。
「私達の王宮での立ち居振る舞いを仕付けてくれたのは、間違いなくイリアさんに負うところが多かった」
「こんなことになっていて、残念だよ」
家出を重ねたイリアさんは、その度にご主人に連れ戻されたが、やがて蔭で間男を引き入れるようになる。
どうやら真心の離れてしまったご主人と一緒に居ることが、耐えられなかったのだろう。今は望んで、性的サービス染みた自由恋愛で客を取っている。
このショットバーは客と従業員の自由恋愛という形で、春をひさぐ女達を雇っていた。
店の奥に幾つか並ぶ小部屋のひとつで、今イリアさんは一回り以上歳の離れた男を相手に身も蓋もない嬌声を上げていた。
それこそクズ勇者ハーレムにいた頃と寸分違わぬまでに乱れた、家庭の主婦としては些か慎みの無さ過ぎるその媚態をこっそり透過スキルで覗いていたが、正直居た堪れぬ気持ちだった。
夫に済まないと思わないのだろうか?
生き抜くために身体を売っていた私達の過去を棚上げして、そんなことを思っていた。
「……私達もさ、あられもなく白目を剥いて失神するのが、日常茶飯事だったよね?」
エリスが自虐的にポツリと呟いた。
ソランを裏切り続けた私達に、人を非難する資格はないのだろうけれど、自分の妻に今でも裏切られ続ける、律儀にして平然と日々を過ごすご亭主が哀れでならなかった。
イリアさんの帰り道の、跡を付けていた。
職人街に向かっているようだから、家に戻るのだろう。
(ねぇ、どうする? 明らかに幸せとは言えない状況だけど、私達に何かできるかな?)
(夫婦の事情は、窺い知れぬ微妙なこともある、もう少し様子を見たいところだけど……、旦那さんが描いていた絵が気になる)
ここのところイリアさん夫妻の家を観察していた。
ご亭主は絵心のある人で、絵筆を執っては写実主義の素晴らしい作品を仕上げていた。知り合いに気前よく上げてしまうのだが、売ればそれなりに稼げそうな出来だった。
今、久し振りに手掛けているのは、イリアさんとご主人が並んだ夫婦の自画像だが、生写しのようなそれは、息を呑むような仕上がりだった。
雨上がりの夕方、すでに傾く薄い日差しが私達の白い巡礼マントから零れるプラチナ・プレートに照り映えて、石畳にできた水溜りに反射している。
ナンシーのフィッティングルームで誂えた私とステラ姉のライト・アーマーは、古代ヒュペリオン文明の遠い源流、メイオール銀河の知的生命体の奇跡的技術からなる、硬度無限大のプラチナ同位元素で出来ている。
おそらく私達の世界では最も硬く、傷付けられるのは師匠から譲り受けた黄金の戦闘ハンマーとか、特殊な物に限られる筈だ。
私達自身の姿は認識阻害で包んでいるが、映る水面や窓ガラスにも気を配っている。自動拡散阻害だ。
イリア・コーネリアスが侍女長だった頃、王室典礼の特別講座でカーテシィの特訓を受けたことがあった。
穿き慣れないパニエの踝丈のスカートで、如何に優雅に腰をかがめるかの研鑽だ。武技の身のこなしと違い、雅に嫋やかに所作を決めて見せるのはなかなかに難しかったが、イリアさんの厳しい指導の甲斐あってか、目の伏せ方、腰の沈み具合、僅かに腰を折って見せる角度とか、何とか及第点を頂いたのだった。
私は、顎の引き具合が美しいと褒められた。
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夫は、私が家出をしたその日から、私のことを見ようとはしない。
私に触れようともしない。
夫婦の情愛は身体の関係だけではないと、下級騎士の家とはいえ士道精神を尊ぶ家柄に育った私は、親にそう教えられて嫁になった。
夫は私を愛してくれた。幸せな私達に影が射したのは、私が自宅の地下に偶然隠された地下の作業工房を見つけてしまったからだ。
夫にその場で問い質すこともできた。
でもできなかった。工房に残された品々が、禁制の魔道具であることが素人の私にも理解できたからだ。
夫には私の知らない秘密がある。
そう知ったときに、私は夫と距離を取ってしまったのだ。
何か理由をつけて働きに出ようと思った私は、昔取った杵柄で家付きの女中の斡旋所を訪ねた。
礼儀作法を身に付ける花嫁修行を兼ねて、然るお屋敷に奉公していた経験のある私は、この手の仕事に多少の自負がある。
勤め先が勇者の館とは知らずに出仕した私に待っていたのは、恥辱の日々だった。熟女も愛でる勇者の毒牙に掛かり、その日のうちに私は夫を裏切った。
不思議なことに夫を裏切っている自覚が私にはあった。だが、その背徳的な喜びが却って甘美な絶頂を与えてくれた。
解放された私達はそれぞれに口封じの恩給を持たされて、戻るべき場所がある者は戻された。
夫は勤めに出る時も反対をしなかったばかりか、凌辱されて、長い間他の男の慰みものになり、日毎夜毎悦楽の虜になっていた自分の妻を迎え入れた。
夫婦の情愛は肉体の関係だけではない。
分かってはいるが、夫の私を見る目が穢らしい女を見ているそれだと、気がついてからは、もう身の置き所も無かった。
夫は私を抱こうとはしない。悦楽の行為で、もう何もかも忘れたくなった私は行きずりの男を家にあげ、夫の眼を盗んで昂りを貪った。
場末の街の裏通り、そういう店で働き出した私の再びの裏切りを知ってか知らずか、日々家に帰ってくることを条件に夫は私の自由を許した。
何が悪かったのか、今になって思い直してみると、全ては夫を信じ切れなかった私のせいではないかと遅過ぎる自戒に辿り着いてはみても、最早どうにもならない。あまりにも馬鹿みたいで、泣ける。
「お帰り、イリア……」
珍しく夫が私の帰宅を出迎えた。今では出掛ける時も、帰って来た時もほとんど顔を合わせることも無くなり、寝苦しさを理由に夫は寝屋も別にしていた。
「やっと私達の絵が完成したので、今日は二人でお祝いをしようと思ってね、お前を待っていたんだ」
夫が絵画の名手なのは知っていた。私と夫が昔のように二人並んだ油絵を、布地ではなく板絵にしているのも、複雑な気持ちで垣間見ていた。
「これでやっと、お前と永遠に一緒になれるんだ、嬉しいかい?」
いつになく興奮しているように見受けられる夫に、尋常じゃない気配を感じた私は、身を竦ませていた。
「怖がらずともいいさ、今まで黙っていたが私は闇の魔道具師の家系の出でね、少し世間知らずなのもそういった訳だが」
「闇の家系が信奉するのは、闇の使徒サタン、レビ記のアザゼルの流れを汲むものだ……私は魔道具を作るために、冥府の使徒サタンと契約している」
そうなのか、私は主人が何者なのかさえ知りもしなかった。
「お前が、余所の男にやられてしまったと知って私は頭をかかえ、腹の底から気が狂ったよ、でも心配要らない、伝え聞く秘伝のひとつにエンチャントの密儀がある、魂を器物に封じ込めて永遠を生きるんだ、この絵に私とお前の魂を封じ込めてひとつになる」
あぁ、この人は私のせいでここまで壊れてしまったんだ……
リビングは一変していた。祭壇が組まれ、悪魔降臨の儀式のための香炉や魔術具、禁断の外道護摩壇が設えられていた。
神事服に身をくるむ夫が、私を祭壇前に跪かせ、中央の護摩壇に焚かれた火に何かを投げ入れると、炎が天井まで噴き上がった。
まるで異端の夜宴、サバトのような供物は山羊の首だろうか、血の滴るそれを掲げた夫は、自らの頭に血糊を浴びるのだった。
すると、どうだ何かがやって来るのが私にも分かった。
「待った……イリアさん、貴女はそれでいいの?」
別に大音声で怒鳴られた訳でも、叫ばれた訳でも無かったが、あまりにもハッキリとした声音が、この場の空気を吹き飛ばしていた。
声の主は忽然と部屋の中に居た。燦然と輝く白金色の鎧に身を包んだ女性と、肌を露出する鎧の女性、3人が私達を取り囲むように見下ろしている。
見下ろしている? 3人の女性は宙に浮いた高みに居た。
「望みを言って、貴女の本当の望みを、ただご主人の方はもう救えない、悪魔に魂を通じてしまったから」
女神のように美しい女性の、プラチナブロンドに亜麻色が混じる独特の髪質に見覚えがある。あまりにも美し過ぎ、眩し過ぎるお顔にかつての面影が重なる。
「ド、ロシー様、か?」
掠れ気味にかろうじて絞り出す声は、自分でも分かるほどに震えていた。
そういえば風の噂で聞いたが、勇者のハーレムに居た女達を救って回る者達がいると……
「だっ、誰だ、邪魔するか!」
「黙って……」、見たことも無い高位の魔法使いが携えるであろう見事なスタッフを構えた、黒髪の女性の威に気圧され、夫は身動きができなくなってしまう。
ステラ様なのか?
「イリアさん、いや誇り高きグルーム・オブ・ザ・チェンバーズ、貴女はあの爛れた館の中でも女達や従僕のまとめ役だった、あの騒動のときも救われた者は少なくない、貴女をこのまま失くすのは忍びない、望みを言って!」
召喚された禍々しい何かを抑えるようにして、エリス様と思われる高貴な女性が私に重ねて問うてくる。
「いいのです、もういいのです、私は愛を間違えた……夫が来てくれというのなら、私は今度こそ夫に従いますっ!」
「もう、夫に見放されるのも、夫を裏切り続けるのもお仕舞いにしたいのです、どうか、どうかお願いですっ!」
「………分かったよ、基本無理強いはしないと決めている、悔しいけどお別れだ、ステラ姉、あれを」
「ご無沙汰しています、実はここ何週間かイリアさんの側におりました、こんな別れになるのなら、もっと早くにご挨拶すべきでした」
「ここへ来る道すがら、せめて贈り物だけでもと考えてこれを選びました、レース付きのホワイトブリムです、館ではずっとモスリン・キャップでしたが、イリアさんに似合う落ち着いたデザインだと思います、どうかお持ちください」
私は、ステラ様から受け取ったメイド用の髪飾りを押し頂いた。
「有難う御座います、今際のきわにお会い出来てイリアは嬉しゅう御座います、ドロシー様、ステラ様、エリス様、皆様ご立派になられて……」
「泣いてくれるのか? イリアさん、色々と狂った館だったが、貴女は間違いなく私達の淑女としての礼儀の先生だった、学んだ女の情緒と心構えは忘れないし、感謝している……それと、様は要らない、私達はもうそんな資格も身分も剥奪されてしまったのだから」
跪く私に合わせてかがまれるドロシー様が、私の頬に優しく触れられると、じっと私を見詰められた。
瑠璃色の瞳は神秘的な光を湛えて、吸い込まれそうだった。
「さらばだ、イリアさん」
それが、私が現世で聞いた最後の言葉になった。
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ナンシーに、ソード状に異空間を固定して、物質分解レベルの超振動を与えることが技術上可能か訊いて見たところ、出来るという。
で、作って貰ったのが腰に下げているディメンジョン・ソードだ。
徒労感を覚えた私はそれを構えて、残務処理のようにボタンに親指をあてがった。安全装置代わりの指紋認証が、即座に認識されると不可視の位相異空間が刀身のフォルムに形成され、超振動のブーンという微かな脈動音が唸る。
「失せろっ」
一刀のもとに斬り伏せられた悪魔とやらは、声にならない断末魔と共に消え失せた。世の中のサタニスト共は、これで自分達の崇拝すべき信仰の対象が無くなったことにいつか気がついて、大慌てすることだろう。
「ねぇ、夫婦の絆って何だろうね?」
私は、昼間と同じ質問を繰り返してみた。
今の私達には、答えの出ない問いだった。
ソランも、あのご主人のように狂人に堕するほど私のことを愛していてくれたりするのだろうか?
いや、きっと駄目だろうな。ソランは私のことを殺したいほど憎んでいると思う。
部屋には、一枚の絵画が残されているばかりで、イリアさんも、ご主人も、魂ごと、この絵画に封じ込められてしまった。
どうすれば二人の魂を救えたのか煩悶して、私達は暮なずむ部屋に立ち尽くし続けた。
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やがてシェスタ王立美術館に一枚の絵画が寄贈された。作者不明のままだが、素晴らしい出来栄えの板絵は、展示室の一部屋を独占するほど大切に扱われるまでになる。
それは庶民の男女を描いた、当時としては型破りな題材だったが、女の頭にはホワイトブリムが冠されていて、家政婦長のような役職の女性ではなかったかと美術評論家は言っている。
この、加護の籠もったホワイトブリムがある限り、夫婦の描かれた絵は永遠に存続し続ける。
しかしそのことを知っているのは、絵に閉じ込められた夫婦の他は当事者のたった3人だけだった。
アクション少なめな、お話になってしまいました
どうも寝取られハーレム前提ですと、エロ表現がオブラートにくるめなくて苦労します
皆さん、どうやって回避してるんですかね?
遂に頂いた運営様よりの指導で一部改稿いたしました 2021.01.09
コーン・ウイスキー=原料グレインとして80パーセント以上のトウモロコシを含むマッシュから造られ、80パーセント以下のアルコール濃度に蒸留したウイスキー
しばしば、「コーン・リカー」とも呼ばれ熟成させる義務はいのでそのまま出荷されることも多いが、この場合、液色は無色透明である
なお、もし熟成させる場合は新品の焼き焦がしを入れていないオーク〈ノンチャードオーク〉製の樽か中古の樽を使って熟成させねばならない、また熟成させたとしても、熟成期間は通常短く、6ヶ月程度のことが多い
トウモロコシの使用比率がバーボンは原料の51パーセント以上、コーン・ウイスキーは80パーセント以上と定められている
家令=ハウススチュワード:貴族の館で事務や会計を管理したり、他の雇い人を監督した執事
バトラー=家事使用人の中でも最上級の職種の一つでありフットマン〈従僕〉を勤め上げた者がバトラーに昇格した
上流階級か下層の上流家庭より裕福な中流最上層の家庭にのみ見られた雇用で、その名の通り酒類・食器を管理し主人の給仕をするという本来の職務に加え、主人の代わりに男性使用人全体を統括し、その雇用と解雇に関する責任と権限を持つ
多くの場合、ヴァレット〈従者〉を兼ね、主人の身の回りの世話をするとともに、私的な秘書として公私に渡り主人の補佐をした
シニョン=束ねた髪を横や後頭部でまとめた髪型のこと、動きやすさを重視した髪型として認知され清潔感やきちんとした印象を与えやすく、抜け毛が不要に落ちることも少ない
毛斯綸=モスリン:木綿や羊毛などの梳毛糸を平織りにした薄地の織物の総称で、名称はメソポタミアのモースルに由来するとも、そのふんわりとした風合いを示すフランス語のムースに由来するとも言う
はじめはペチコートやエプロン、カーチーフ等に用いられ、木綿が安価に供給されるようになったこともあって、次第に麻織物にとってかわっていった
モブキャップ=主にモスリンなどの柔らかい布製の頭部全体を覆うクラウンと同一素材のフリルのついたブリム〈庇〉で出来た帽子で蝶結びや薔薇結びなどの飾り結びを施したリボンがつくこともあった
プリエ=両脚、または片脚の膝を曲げていく動作、または曲げられた膝の状態を指す/バレエにおいてすべての動きに関係しジャンプや回転などさまざまな動作のプレパラシオンとして重要な技法である
コキュ=cocu フランス語/妻を他人に寝取られた夫のこと:一般に愚鈍なお人よしで妻が愛人と密通していることを知らず、その愛人とも親しい関係にある人物として形象化されることが多く、
大衆的なブールバール演劇の演目や風流滑稽譚、艶笑小咄の主人公としてしばしば登場する
グラニテ=意味はフランス語で「ざらざらした」:その名の通りソルベと比べて氷の粒が粗く、シャリシャリとした食感が特徴であり、口直し目的のグラニテはデザートとして供されるソルベよりも糖度が低い
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