11.眠らない山猫と電気兎は悲しい夢に涙ぐむか?
師、のたまわく……宿願、悲願の別なく一念発起、目的を果たす為には、メリット、デメリット、損得勘定や打算を抜きにして、潔く、そして決して賢くはなく、人間性を捨てなければならない場面が必ずある。
例え極悪非道、悪鬼羅刹と謗られようと、必要なことなら心を鬼にして形振り構わず修羅になり、最後まで断固遣り抜くのが漢というものだ。
……師匠、私ら女なんですけど。
――希代のサイコパス勇者、トーキョウ・トキオの名を冠する街に何某かの先入観はあったが、師匠の説明に依れば奴が生まれ育ったトーキョウとはまた別のトーキョウと言うことだった。
しかし、どんなに心を堅固にしていても、どんなに魂を頑健に鍛えても、トーキョウと言う言葉の響きには、未だにどろりとした真っ黒い澱の様な嫌悪感が滲み出る……そんな、拭えない悔しさを引き摺っている。
師匠が、蕎麦が食べたいと言うのでトーキョウと言う初めての街に来ていた。
知識はあったが、実際に摩天楼の林立する街の底を徘徊すると、見慣れぬ異世界は、人、人、人に溢れていた。
見たことも無い洒落のめしたキンキラの服に、赤や青、黄色い髪の毛や、ピンクの髪の毛、七色の髪の毛の歌舞いた大勢の女や子供でごった返している。何かの祭りか、仮装大会かと思ったら、これが普段の日常だと言う。
自動車と言うものを始めて見た。
エンジンと言う内燃機関は、異世界文化を学ぶうちに覚えたが、聞くと見るでは大違いだった。
巨大な家のように大きな車両は、記憶に依れば確かトレーラーとか言ったと思うが、一体タイヤが幾つ付いているのだろう?
街は何処も彼処も整然と舗装されていて、車道と言うのだろうか、車だけが通っていく専用道が何処までも敷設されていた。
エリスが信号機を渡るのに、戸惑っていた。下手をすると人の波に流されるので素早く瞬動で避けながら進む。
訪れた時間帯が夕暮れ時なので、通勤ラッシュと言うのだろう、その日の仕事を終え、帰宅を急ぐ人の群れが半端じゃない、さながら民族大移動か何かのように私達の眼には映っていた。
電飾と言うものも始めて見た。イルミネーションと言うのがとても綺麗に見えて仕舞ったのは、初めての爛熟文化の渦に巻き込まれて仕舞った動揺が収まらなかったからかもしれない。
実際に目にしてみれば、異文化の波に不図カルチャー・ショックを覚えた。
並行異世界に転移したのが丁度、壮麗なる大都市の上空2000メートル地点だったので、降下するに従って明らかになる構造物の塊が、人が住む街だと知ったときのショックは当分トラウマになりそうだった。兎に角とんでもない大きさだ。
「この場所じゃないと、美味い蕎麦屋が無くてな、猥雑な街が蕎麦屋を育てるとは思わないが、何故か田舎には切れのいい蕎麦が無い」
超高層ビルの天辺、強風の中に揺れるアンテナ群が束になっているフレームの縁に佇んで、眼下に蠢く人々の暮らしに唯々圧倒されていた。
びゅうびゅう吹き荒れる上空の気流に、思わず髪の毛を押さえた。
地表に降りても茫然となった。物凄い喧噪だ。
自動車の警笛の音、電車やその他の移動手段の走行音、巨大な建機で地面をほじくり返す工事や雑踏、人々の話声、何の店屋だか判然としないが、引っ切り無しにそれぞれがそれぞれの音楽を垂れ流している。機械文明恐るべしだが、どうもある種の拡声装置を使っているらしい。
耳の良いステラ姉は、眉間に皺を寄せていた。
店は、よく見ると雑貨屋、服屋、下着屋、本屋、靴屋、文房具屋、商業複合施設や雑多な専門店、大衆食堂のようなもの、何々料理といった店独自の特色を出しているのは、私達の国と同じ事情のようだ。
映画館とか百貨店と言うものも始めて見た。いや、知識としては知っているのでビジュアル的には見覚えはあるのだが、実際に見ると感激は一汐だった。ちょっと素見し程度に立ち寄ったが、目眩くような物量とエンターティメントの極致に目を奪われ、少しだけ気後れして仕舞った。
シネマ・コンプレックスとやら言う大きな劇場施設見学も全部見ると時間が無くなるので、最初から途中退席で切り上げる心算だったのに、巨大スクリーンに釘付けになったステラ姉が中々シートを立とうとしなかった。仕方がないので最後は無理矢理連れ出した。
この世界のファンタジー作品を映像化した内容だったが、本物のエルフと言うのはあんなに凡庸じゃない……能く知らんけど、多分。
エリスがシアターの売店で、ポップコーンなるものを買ってきて頬張っていた。この世界の通貨は持たされていないので、お金はどうしたのと問うと、師匠に買って貰ったと言う。
まったく、こう言う時のエリスは小さい子みたいに厚かましくて遠慮が無い。
他にも見た事もない派手な遊戯施設が沢山あり、パチンコ、ゲームセンターと言うものにはちょっと興味が湧いた……色々と目移りして仕舞う。
ステラ姉が、楽器店に寄りたいと言うので最寄りの大型楽器店に立ち寄る。
見るだけの積もりが、管楽器のコーナーで一目惚れしたらしいユーフォニアムと言う楽器がどうしても欲しくなって、師匠に御誣頼をしていた。
駄々っ子一歩手前の必死さからか、ちょっと油断した隙に認識阻害が緩んでステラ姉の類い稀なる美貌が素で晒されて、大変な人群集になって仕舞った。然して混み合った店内ではなかったが、何処から人が降って湧いたのだろう?
ギャン泣きでもされたら堪らないとでも思ったのか、師匠は匇々とクレジットカードで支払いを済ませて仕舞った。
急いでいたから能く確かめもしないで、多分一番高いのを購入している。
ユーフォニアムのケースを大事そうに抱えたステラ姉は、満足そうにニコニコ笑って師匠に礼を言っていた。
ちゃっかり、この世界のクレジットカードを手品か何かのように取り出す導師の正体は、相変わらず謎だった。
「ここだ、因果律を読み解いて、今日このときなら奇跡的にすいているのを計算してあるが、いつもは長蛇の列が出来る老舗だ」
何とか言うテンプルの袂にある小体な造りの東洋家屋風な店が、目指す蕎麦屋だった。竹で出来た犬矢来が、外壁を腰高で取り巻いていた。
植え込みには枝垂れ柳が、夕闇の風にそよいでいる。
畳の小上がりで、まずお銚子を頼み突き出しの蕎麦味噌を舐めながら、盃を酌み交わす。一家言のある導師は頑なに手酌だ。
仕方がないので、私達は3人で互いの猪口に注ぎ合った。
板山葵、鳥山葵、出汁巻き卵、箱で出される焼き海苔、天麩羅は空豆の掻き揚げと稚鮎、この店は泥鰌を出すらしく、柳川鍋と、師匠は次から次に頼み、お銚子はいつしか二合徳利になった。
そう言えば米の酒はミツコの村で飲んで以来だな………
ナンシーと宿命のコンタクトをしたときに、オケアノスの歓楽街から救い出したミツコは、今どうしてるだろう? 変わらずパートナーのホンゴウと幸せに暮らしているだろうか? 困ってはいないだろうか?
ちゃんと教えた通り、味噌汁は煮え端を出しているだろうか?
将来を語ったときに話していたように、もっと祖母の味を引き継ぐ為にと母親のシラセに料理や味付けを教わっているといいのだが……
何故かは分からないが、ミツコのことを思い出すと無性にお味噌汁が飲みたくなる。パブロフの犬染みた即物的な連鎖だが、この刷り込みは悪くない……ミツコに譲って貰ったタカサゴ家自慢の自家製鰹節の何本かは、吟味して最良の状態の一本を複製魔術で増やし、今もストレージの中に蓄えられている。
鰹節を削るのは、師匠に譲って貰った絶対に刃毀れしない剃刀、剃刀の癖に大層な銘を持つ逸品だったが(師匠はこれを髭剃りに使っていた)、これで掻くと信じられないぐらい薄い削り節が出来た。
但し気を付けないと、次元に裂け目が出来て仕舞う。
蕎麦屋では最後に鴨南蕎麦を頂いた。
蒸籠箱や粉にこだわり、通ぶってザルやモリを頼むのは愚の骨頂。蕎麦っ喰いの真髄は暖かい種物の汁蕎麦に限ると師匠が主張するものだから、私達も右へ倣えでこれにしたのだ。
柚子の皮を摺り下ろした薬味と相まって、更科系とか言う一番粉のみを使う白い蕎麦は、思った以上に上品な味がした。
湯桶で貰った蕎麦湯は、湯飲みで頂戴した。身体にいいぞ、と勧める発条髭はと言うと、自分のことは悉皆棚に上げて蕎麦ガキを肴に蕎麦焼酎を飲んでいた。
長っ尻の末にお勘定を済ませ、夜風に吹かれると歩道の街路樹がライトアップされていて、最高に心地良かった。こんな平和な晩は、いつ以来だろう。
偶には、こうやって師匠のお相伴に預かるのも悪くはないなと思えた。
「……久し振りに興奮(高揚)した、気持ちいいね!」
「ダっ、ダメだよドロシーっ、こんなところで一人エッチしちゃあっ!」、何を突拍子もない勘違いをするのか、ステラ姉が大きな声で恥ずかしいことを咎める。
盛大な不名誉極まる誤解に顔が赤くなるのが分かる。確かに最底辺の阿婆摺だったかもしれないが、今は真っ当な羞恥を知っている。
もう、誹謗中傷ぶっちぎりでしょっ!
「なっ、何いってんのおおぉぉっ、ステラのドスケベェっ、むっ、昔っから、そうだよねっ、何かっていえば直ぐにエッチなことばっかり考えて!」
「あたしは夜風が気持ち好いって、言ってんの!」
根も葉もない(いや、あるのか?)恥ずい冤罪は名誉毀損で訴えられてもおかしくないレベルだっちゅーの!
「えぇっ? それを言えば小さい頃、最初にお医者さんごっこ始めたのだって、ドロシーだったでしょっ!」
なんで、こんなところで昔の黒歴史を開帳しなければならないのか憤慨する私を取り囲んで、姦しい言い合いになった。エリスがステラ姉の豊満なお尻を必死にペシペシしていた。
村での懐かしい私達の関係が思い出され、無性に泣けてきた。
畜生道に堕ちた身なれば、人並みな喜怒哀楽を享受する資格など疾っくに自ら手放して仕舞ったと言うのに。
酔っ払いや、はしゃぐ若者達の団体を避けて歩くのにはちょっと閉口したが、師匠がもう一軒行くと言うので付き従った。
地下鉄と言うものに初めて乗車した。発券機で切符を買うのも戸惑ったが、師匠がカードで購入して呉れた。
改札機を通るときに、また戸惑った。ホームに車両が進入して来るのに驚き、自動ドアが開くと人々が素早く乗り降りするのに驚き、トンネルを走る車両に驚き、エスカレーターの乗り降りに戸惑った。
……エスカレーターは、さっきデパートや劇場でも乗ったのだが、両足を揃えて飛び乗ったら、エリス達に笑われた。
トーキョウと言う街で、見るもの聞くもの、全てが初めての体験で新鮮だった。
坂の多い地区にやってきた。異国風な一皿料理、タパスを出すバルや、渋い紅提灯に燻銀の縄暖簾の大衆酒場、格子戸と前庭、飛石をファサードに構えた懐石料理の店、ビストロと言う食事メインの洋風居酒屋、イートインと言う名目のサンドイッチ屋、スープ屋、中でも香りが素晴らしかったカレー屋の前ではちょっと立ち止まって仕舞った……兎に角、色々なタイプの飲食店が寄り集まっている。
トーキョウと言う街を一言で表現するなら、このごった煮のような“多様性”で出来上がっている、と言えると思う。
師匠の行き付けだと言う無国籍創作料理の店に入る。ムルギランチや河豚の唐揚げ、鱶鰭とセイコガニの蟹玉、ジャンルにこだわらないメニューも面白いが、味も折り紙付きと師匠は言う。
締めの鮎飯がまた絶品らしいが、もう最初の蕎麦屋で散々飲み食いして仕舞い、体格の割には大食漢のエリス以外は食傷気味だった。
店内は若いカップルや女性客なども多く、賑わっていた。
低く流れるボサノバと言うのだろうか、私達にとってはエキゾチックなメロディが心地良かった。
最近、ステラ姉が詰め込み式のレッスンで得た知識を得意げに披露していた。
生ビールを長いグラスで頂いた。この独特の澄んだ味と喉越しは、私達の世界には無いものだ。
師匠が頼んで呉れた鰻の白焼きを、山葵で頂戴している。
イタリアワインがお勧めだと言うのでキャンテイのお手頃価格の物をディキャンターで頼み、臘腸や大根餅、粽子などの中華点心盛り合わせを酒肴にワイングラスを傾けていた。
後から店に入ってきた中年の男が、気に掛かっていた。目立たない、目立たな過ぎる風体で、常人にしては気配が薄過ぎる。
見た目と違う、個としての攻撃ポテンシャルは瞠目に値するものだった。
私達もこの国、この世界では異邦人だが、この男は異質に過ぎる。
冴えない顔貌に、しょぼくれた背広が地味過ぎて、作った印象なのがバレバレだった。得体が知れないが、正体を隠して潜入してきた、何処かの工作員だろうか?
あろうことか、私達に探りの波動を向けている。
東洋の島国における先進技術都市まで、潜伏エリアを絞り込めた。
今は、2034年11月04日の22:17程だった。
華美で怠惰な時代だ。
平和ボケした人々は、福祉国家の恩恵の享受に気付けない……嫌な時代だ。
時限犯罪者達が呼び習わした通称だが、その通り名はいつしか伝説として語り継がれている……曰く、“電気兎”と。
全身をサイバネティクスで鎧い、犯罪者を駆り出すためのテクニックと武器、各種多重のセンサーを満載した装備は所属軍事機関部隊最強のものだ。
脱獄逃亡犯の手掛かりを追って、この時代まで来た。
全展開した“空間の揺らぎ”測定センサーは、確実に異端分子を暴き出す。
この時代の一般人に紛れようとしても、そうはいかない。
重大指名手配犯“山猫”は、自分の責任に置いて必ずや捕縛する。場合に依ってはその場での粛清もだ。
発見した。酒を売る店だ。
客として来店しているようだった。
この時代の猥雑な文化はあらかじめ学習済み……無難な目立たない中年男の姿に変わり、ダミーの人格を表面に張り付けて擬態する。
モンゴロイド特有の低い鼻、適度な不潔感を演出し、簾のような薄い頭髪をオプションで選ぶ。
おかしい? 相当の実力とスキルを秘めた対象が4体も存在する。リスト化されていない仲間が居るのだろうか?
センシングの技術は未だ時限生活安全課部隊の方が、軍事機密を漏洩させていない分、勝っている。技術の独占は、今のところ成功していた。
どんなにシールドで密閉しようとも、その正体を露呈させる。
「私にも、センスはあるよ、第六感って奴だけどね……」
唐突に対象から声が掛かり仰天した。高度なECMデコイと擬態術は今まで一度も見破られたことは無かったのに……
女は3人居たが、話し掛けてきた女がまず捜索対象で間違いなさそうだった。
それ程の覇気だったからだ。
姿を変え、顔を変え、声さえも変えた“メス山猫”は、人を喰ったような文句と共に、イミテーションのベールを取り払う。
綺麗だった。外に本当の見た目が漏れ出ないようにセーブされたベールが無くなると、真実が晒される。
特殊任務に明け暮れた日々の中で女性と触れ合うナンパな業務は数少ないが、そんな自分にも彼女が跳び抜けた美人なのが分かる程に、隔絶した美貌だ。
何というのだろう、歪んだ部分が何処にも無い。絶妙のバランスに破綻が無い。
まるでビーナス神だ。
「あんたねぇ、あたしを何だと思ってるの? ごく普通にトイレもするし、鼻毛は自然に伸ばすのが好きなんだ……ステラ姉達は、お手入れしてるようだけど」
この女、自分の考えている思考を読んでいる!
二重三重に防御されている筈の自分の絶対防御ともいえる思考を、読み取るのは精神感応以外の何かと思えたが、間違いない。
自分の幼馴染みは、こんなに高度な技を使える女だったのか?
今は、サイバネティック技術ですっかり面変わりし、昔の面影など無くした、コードネーム“メス山猫”こと、ミュージイ・ドレセフは、真っ直ぐに、こちらを射貫くように見詰めていた。
危険だ。部隊のデータベースが把握している以上の能力があるように思える対象に、補助脳がいち早く先制攻撃を仕掛けていた。
局地戦用に開発された極小核反応弾が放たれる。
超遅効性の核弾頭グレネードだ。
山猫が何か叫んでいたが、もう戻れない。
補助脳が状況判断したのだから、オーバーキルの嫌疑は発生しないが確実に人死にが出れば、大掛かりな歴史補正チームが編成され、昼夜突貫の綻び修復作業が始まる。別の軍事査問案件だった。
核爆発の閃光から視覚を守る為に、オーバーヘッドディスプレイを兼ねた瞬膜が閉じ、同時に自動防御機能のフォースシールドが放射線諸々を防ぐよう不透明化を伴う絶対硬化モードに入る。
お別れだ、ミュージィ、最後に何か話をしたかったが、自分は部隊の任務を優先するよ。今までの自分の在り方は捨てられない。
許してくれミュージィっ……俺のたった一人の!
人生は度々、誤解の上に成り立っているのではないかと思える瞬間がある。
どういう経緯か、どうやら犯罪者らしい他人に間違えられて、こちらの素性の裏取りも無く実力も推し量らないままに、捕縛対象にされていた。
今日この店に他に怪しげな女は見当たらないが、こう言う場合の調査のセオリーと言うか基本は、“自分の目で確かめよ”だ。
世界一間抜けな捜査官に、何をどう間違えれば私達に辿り着くのか、逆に教えて貰いたい程だ。
こちらの意識をなぞろうとする男に、逆に男の意識に侵入するが相手は気が付いていないようだ。どうも根拠が危殆だが、ここには居ないどっかの誰かと勘違いしているようだった。
揺さ振りを掛けるのに、“あんたのことなんてお見通しよ”風を装う。
何をどう状況判断したのか、どうやら遥か未来から来たらしいトチ狂った時空パトロールとでも言った相手は、大量殺戮も已む無しと結論したようだ……こんな至近距離で手投げ弾程の核弾道ミサイルを射出した。
直前、脳に埋め込まれている電子部品が、自律神経直結の火器管制システムに割り込んでいたようだ。屹度本人の意思に関係なく、瞬時にコントロールを奪う仕掛けなんだろう。
「周りを巻き込むのに寸分も躊躇しないとは、こちらも容赦しないよっ!」
広がる熱線と爆裂に、建物が吹っ飛ぶ刹那、私は師匠から預かる魔導クロノメーターを取り出していた。
最近開放出来た機能に、それほど広くないエリアであれば、時間を逆行させて望まぬ結果をキャンセル出来るものがある。師匠の所属機関、ミレニアム・ガーディアンでは“アクティブ・キャンセラー”と言う呼び方をする、一種の時間遡行と復元パッチの技術だ。
崩壊したビルは破壊前の状態へと修復され、一瞬で絶命した今夜の客や、店のスタッフ達、近隣の住民などが復活していた。
乱暴な時限取締官は、自分の為した結果が、逆転して巻き戻され、何も無かったことになっていることに対し、ただ茫然と見取れているしかなかった。
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持たざる者として貧民層出身の男は、必死に這い上がって危険手当を保障された特別公務員職に就いた。
“電気兎”と呼ばれ、タイムワープを乱用する多くの者達から恐れられ、蛇蝎の如く嫌われていたエージェントにして、遥か未来の時間法犯罪者捕縛部隊に所属した男は嘗ての幼馴染みだった女を捕える為、ここ二十一世紀に出張って来ていた。
絶対に脱出不可能と言われていた重犯罪者用の厳重な監獄、“時の牢獄”を破牢した女とは、幼い頃同じ孤児院で過ごした。
“メス山猫”と俗称された収監番号7834599番の女は時間犯罪者の組織を率いて、厳格なる時間法守護者達に一矢報いる為に立ち上がった。
絆を分かち、別々の人生を歩む道を選んだ男に取って広域手配になった女は、今となっては理解不能の汚点になった……“三重ラビリンス攻略事件”、“ハンター同盟王太子妃暗殺レイド”、“メルセゲル教団無差別粛清事件”など、彼女が関わった重大時空犯罪は枚挙に遑がない。時空パトロールエリア全域を震撼させた反社会過激派グループの象徴的存在、それが彼女だった。
斯くして稀代のテロリストは、世界転覆の為に暗躍し、手段を選ばない遣り口から危険視され、遂に時空警察の手に落ちた。
一度は官憲に捕縛された身だったが、何故か再び世に解き放たれる。
何があったと言うのだろう、幼い頃の娘は凡愚と言う程ではないにしろ、決してカリスマ性を以って組織を統率し犯罪者としての卓越した才能を開花させるような兆しは露ほども無かったのに………
残酷な運命が織りなす舞台は、反旗を翻した彼女を再び捕える為に、逃亡先のニホンと言う国に移されていた。
誤認?、……あってはならないことだった。
「貴女は誰ですか? この時代の、この国に、貴女のような存在がある筈は無い、あってはならない……脅威です」
「その局所的に時間を巻き戻すツールは、私達時間局でも完成していない」
偶然に邂逅した脅威だったが、見過ごせる筈もない案件対象だった。
単独任務の多い時間局員にはある程度現場の判断として、重要な局面を左右する決裁権を付与されている。但し、全ては記録されて後に問題化した時に証拠物件として提出する義務を負わされている……とんだ重責だったが、これも両刃の剣だ。
「排除対象と認定しますっ」、男は冴えない中年男の擬態を解くと、その姿は全身サイバネティクス技術の筐体だった。頭部からボディから、生物らしき部分は一切無い。人型をしたマシーンだった。
攻撃態勢に変形しようとする。
エリスが割って入る。
「いきなり出て来て失礼で非常識な奴、有無を言わさず無差別に殺そうとするなんて随分とイカれてるオジさんだね?」
「私の知ってる“不思議の国のアリス”ってお話じゃ三月兎は確か気が狂っていることの代名詞、電気仕掛けの兎なんて随分と洒落た呼び名だけど、ほんと私達には全然お呼びじゃないっ!」
エリスは変身の為に身に着けた第二種装備(ちゃんとしたアーマー装甲なのに見た目は下着みたいなんだけど)、になる為に、上に羽織ったウォームアップスーツをモソモソと脱ぎだした。
駄目だよ、エリス。それじゃ、唯の怪しい露出狂女みたいだものっ!
(なんだって? その長い耳、エルフ? お伽話に出てくるような長耳族なのか? 異星人の混血じゃないのか?)
最初のプラチナブロンドの女も綺麗だったが、少し小柄なこの女も絶世の美女だった。神秘的なエメラルド色の瞳など、薄い紗の阻害ベールが取り払われてから視認するに至ったが、最早これは自分の追い掛けている捜索対象案件どころではなさそうだった。優先事項がスウィッチする。
敵対意思すら確認していないが、寧ろ、こちらの方が潜在的危険度は高いとさえ言える。排除か一時撤退か瞬時に判断しなければならないが、無事に撤退出来るかさえ危ぶまれた。
剥き出しになったエルフの女の肌には、生きているように絶えず畝り続ける奇妙で不思議な入墨があった。
「対人モード、変身ジャバウオック……」
エリスと呼ばれた女が、見る間にその体躯を変形させていく。
額には2本の触角、口元にも2本の触手、首は細長く、体表は爬虫類状の鱗に覆われた異形のものだ。天井すれすれまでの体高に膨れ上がり、強靭な膂力を想起させる肩から背中への盛り上がりが奇形染みていた。
長い尾と背中に蝙蝠のような翼があり、ひとことで言うなら怪物だった。
そろそろ異変に気がついた周囲の客達が、悲鳴を上げ始める。
状況凍結のクロノス・フリーズを発動するが、難無く弾かれた。
続いて繰り出す時空間断層を選択的に固定してズラす武器、ホライズン・ディスコネクトは正確に相殺されて無効化される。
(ロジック・リムーバー!)
ピンポイントで次元間の論理を抹消する兵器が何百と言う座標を出現ポイントに捕らえるが、暴威を揮う前に霧散した。
こちらの攻撃が全く意味を為さない。こう迄苦もなく防がれては体勢を立て直す必要がある。
不利な状況と判断し、離脱を試みる。
360度、全方位照射の高集束レーザービームを放つ。
瞬間、すべてのビームが自分に跳ね返ってきた。表面装甲を失う。
「反射の術だよ、あんたのすべての光術は封じた」
驚嘆する疾さだった。どのような時間コーデック技術でも追い付けない。
この女は、十中八九、撃ったレーザーの光の速さよりも疾く反応したのだ。
見ると、自分は半透明の鏡面を持つ球体にくるまれていた。
補助脳が緊急退避用のコードを部隊の総合作戦室、タクティカル・シュミレーションの常時パッシブ・モード型起動装置に向けて発信する。タイムラグを極小まで削減した圧縮シグナルは時限を瞬時に伝わっていく。
時空間座標自動緊急退避システムが、ランダムに抽出された安全な場所、時間帯に自分を転送する。
「……何だったんだろうね、逃げちゃったよ」
「“メス山猫”って人を探してたみたいでした」
私とステラ姉で、目撃した人達の記憶操作や、とばっちりで負った怪我などの治療、割れた食器類や散乱した料理や飲み物、破損した内装などの復元やら、後片付けと、痕跡の抹消作業をしていた。結局、正味の戦闘は10分にも満たなかったんじゃないかと思う。却って後片付けの方が時間が掛かってる。
屹度魔物も魔族も居ない世界の人々は、こう言った残虐な暴力に慣れてない。精神的に疲弊するだろうから、何も起きなかった様にするのが一番良いと、その方向で色々と記憶改竄した。
エリスは、脱ぎ捨てた防寒ウインドブレイカーの上下に、再びもそもそと袖を通していた。今日はお出掛けと言うことで、戦闘装備は身に着けていない。
「任せて、バッチリ、相手の影に潜んで決して聰らせない私の従魔を憑けてある、何処に隠れても逃さない」、エリスがニパッと笑いながら、サムズアップの親指を突き出してきた。
「エリス、それはいいんだけど、そのぅ……肌を出すときは、もうちょっと颯爽と恰好良く出来ないの?」
「例えば?」
「う~ん、例えば、脱ぐ代わりに服が千切れて、粉々になってスポーツタイプのエッチじゃない下着姿、いや、アームド・スーツか……になるとか?」
「 “変身っ!”とか言っちゃって」
「却下!、痴女みたいでヤダっ!」
「いいから、追うぞ……」、私達の戦闘を傍らから見守るだけだった師匠が初めて行動を示唆した。
結局、締めの鮎飯は食べ損ねた。
コーキョと言う駄々っぴろい庭園の中、局地転移で忍び込んだ私達は遮蔽で身を隠すこともせず、“電気兎”と呼ばれる時間局の捕縛専門官だと思われる男と対峙していた。暫く互いに相手の出方を窺っている。
時間軸を逃げた男を追って、魔導クロノメーターの力を借り、30年程前の過去に時間転移してきた。
夏場の夕暮れ時なので、藪蚊が凄いことになっている。
「ステラ、練習の成果が見たい……」、黙って相手を射竦めるように睨み付けていた師匠が、不意に命じた。
「わかりました……」、承諾したステラ姉が、自分のストレージから、さっき買って貰ったばかりのユーフォニアムのケースを徐ろに取り出す。
ここに来る前に“ラバッツア”と言うチェーン店のトイレで、食後の歯磨きをさせられていた。導師はこういう緊急時でも習慣を崩すのを由としない。
お陰で本場のカプチーノを堪能出来たが、その際に奥のテーブル席で軽く打ち合わせを済ませていた。
ユーフォニアムと言う楽器は、普通チューバより高い音域、テナー系のパートを受け持つブラスバンドなどに使われる楽器で、当然ソロ演奏には向かない。製作者の意図する多彩な音色を奏でることが可能だとしても、音楽界では不遇だろう。
マウスピースを湿らせるステラ姉が何故この楽器に魅せられたのかは本人に訊いてみなければ分からないが、聞いたことがないから少なくともリサイタルクラスのソリストの演奏家は居ないんじゃないだろうか?
貨幣価値が把握出来ていないので能く分からないながら、師匠が買って呉れた最高級品はニホン円にして、800,000円以上していた筈だ。
決して安い買い物ではない。
「戸籍名、キャロルの名は、かの童話作家とは関係ないそうだが、何故“兎”に固執する? お前の固有楽器“ハンプティ・ダンプティ”もそうだ」
「…………」、事情を知り過ぎている師匠の問い掛けに、当然相手は当惑し、警戒しながらも黙秘だ。
「お前の部隊の現場執行官は、全員、固有楽器を所持しているそうだな?」
固有楽器……、固有楽器ってなんだろう?
「じゃあ、結論から言おう、お前の幼馴染みとやらは、実はもうこの世に存在していない……と言うか、その意識が時間軸に溶けて広範な時間に漂い、戻ってこれなくなって仕舞った、時間局員なら知っているだろう?」
「バックアップ装置無しのタイム・ワープが齎す、存在の希薄化だ」
えっ、じゃあ“メス山猫”って、もう死んじゃってるも同然てこと?
「取引をしよう、お前の幼馴染みの“メス山猫”こと、ミュージィ・ドレセフを今から呼び出す、魂を捕縛するなり、抹消するなり、好きにするがいい、代わりにこちらは情報をひとつ貰う」
「始めろ、ステラっ!」、相手の承諾も得ずに師匠が促す。
天上の音楽とはこれかという卓越した音色が紡ぎ出されていた。
実際に魔力が込められたステラ姉の演奏を聴くのはこれが初めてかも知れなかったが、最早神域だった。
金管楽器では、物理的に絶対再現出来ない筈の音色が混ざっているばかりか、複数の演者がいるのではないかと錯覚する演奏だった。
何より心を鷲掴みにされる。
(何だ、これは? こちらの知らない固有楽器なのか? いや、違う、これは……この女の能力だっ!)
対峙する時間局専門官が驚愕するのが分かった。
相手は聴き惚れていた。私達と同じように、いやそれ以上に屹度、心を鷲掴みにされているのだろう。
時間局員の固有楽器とやらは分からないが、ステラ姉が生み出す音色には何か絶大な理力を感じる。“電気兎”は、自分の胸に格納された自前の固有楽器、オカリナの姿を借りた“ハンプティ・ダンプティ”と命名された音響武器を取り出して対抗するかどうか、束の間逡巡している様子だった。
いや、無理だろう……この神の如き演奏の前では、到底自分は敵わないと、暫くして諦めた思念が読み取れた。
(思えば、この者達との会敵では何も彼も読み違えていたな、この女も綺麗だ、まるで女神様のようだ)
ひょっとすると、読み取れる意識からして、この時間局エージェントは物凄いセンチメンタルな奴なのかもしれない。
「来るぞ、ステラのユーフォニアムが選択的に散って仕舞った探し人の冗漫な意識を収束しているっ!」
男の言葉で、管楽器を演奏する眼前の女性が何をしているのかに思い至った。
時の狭間に溶け広がった意識を掻き集めて、一人のアイデンティティを再構築しようとしている。
やがて、物理的な肉体こそ持たないものの、在りし日のミュージィ・ドレセフの姿形をした女が目の前に立った。
いや、少し高い空中に浮いていた。霊魂の存在こそ信じてはいないが、これはなんだろう、アストラル体とでも言うべき何かが、確かに目の前に居た。
「久し振りだね、キャロル兄ちゃんっ、矢っ張り追い掛けてきたんだね、まさか逢えるとは思っていなかったけれど……」
「ミュージィ……」「ミューなのか?」
「うんっ、私だよ、面会以来だね」
てっきり逃亡用に見た目を変えているものだと思ったが、懐かしいミュージィの姿と声だった。
アストラル体だから、或いは生前の魂の形をしているのかも知れなかったが……
「何故、脱獄なんかしたんだ?」
「だってえ、こうでもしないと超忙しい兄ちゃんは中々逢いに来ても呉れないじゃん……あれだけ、逢いに来てって電子手紙を幾つも出してるのに」
「犯罪者との緊密な接触は禁止されている」
「だっかっら、私が何かして追われる、逃げる、兄ちゃんが捕まえに来る、この形がベストなんだって……もう、それも叶わなくなっちゃったけど」
「子供の頃、離れ々々にされて寂しかったよ、兄ちゃんと一緒の時は何も不安が無くて、施設の親無し子達の中でも生きていけた」
「あの孤児救済施設は最悪だった、兄ちゃんは早くに出て行っちゃたから知らないだろうけど、資金が不足すると子供達の腎臓を売っていた」
「兄ちゃんの読んで呉れた”鏡の国のアリス”も、小さい子に渡すからと、無理矢理取り上げられた」
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法人化されていない弱者救済施設は往々にして政府認可を受けていないことが多い。ここ5303年の無国籍外国人連邦中央アフリカ地下都市ジンバブエ・プラスの貧民街最下層にある“マザー・グース”もそんなひとつだった。
犯罪多発地域の常として、親が死亡して孤児になった子供達への手厚い保証は富裕層に限られる。中流階級以下の貧しい家庭では税金が払えず、介護他の福祉基金の恩恵には肖れない。
そんな施設に収容される子供達には職業選択の自由さえ与えられておらず、運が良ければ国家公務員への登用の道もあるが、それも政府が統括した有機コンピュータによる厳格な検査で犯罪係数が限り無くゼロに近い必要があり、そんな狭き登竜門を通れる者は事実上皆無に近かった。
後は犯罪者か、犯罪予備軍のような身分になるしかなかった。
兄弟で入所する者は特別に優遇するのも手間なので、片方……大抵は幼い方の記憶が改竄された。
これにより、兄弟が別々のグループに分けられてもグズることは無い。
キャロル兄妹が入所した際も規定通り、妹の方が記憶改竄処置を受けていた。
偽の戸籍がロシア系の家系として与えられた。
違ったのは、施設のソーシャルワーカーが善い人で二人がなるべく一緒に居られるよう取り計らって呉れたことだ。
本当は兄妹なのに、妹はそれを知らない。何処かの知らない兄ちゃんが、猫っ可愛いがりに優しくして呉れる。
優しくして貰うから、懐く、と言った奇妙な状況が出来上がる。
兄のロビンソンが10歳、妹のミュージィが7歳の頃だ。
兄ちゃん、兄ちゃんと懐いていた妹は、ロビンソンのことを赤の他人として認識しているが、認識しているが故に危うかった。
ロビンソンもはっきり意識していた訳ではないが、もし実の妹に異性として好かれて仕舞ったら……それが現実となって突き付けられると、危惧は本物になった。
能く妹に童話を語り聞かせることが多かった。“不思議の国のアリス”は妹のお気に入りだ。
二人部屋を充てがわれたロビンソンのベッドに、寂しがるミュージィが潜り込んでくるのは常のことだったが、現代語訳の絵本で、第六章の“豚と胡椒”のチェシャ猫が出てくるくだりを、読み聞かせていたときのことだ。
「ねぇ、キャロル兄ちゃんはおらのこと好きだか?」
「あぁ、ミュージィは可愛くて大好きだ」
「ほたらぁ、大きくなっだらぁ、おらのこと嫁さんに貰ってくれっか?」
「……あぁ、いいぞ、嫁でもなんでも、どんとこいだっ」
つい受け答えして仕舞ったが、子供ながら拙いと思った。小さな子の戯言で生育と共に忘れて仕舞う約束かも知れなかった。長じれば笑い話になる類いの軽い出来事……だが、ロビンソンには予感めいたものがあった。
一年後、ソーシャルワーカーに相談したロビンソンは、国家公務員登用の狭き門を目指して、訓練施設へ移って行った。
慟哭するミュージィには後ろ髪を引かれたが、数冊の童話と共に、児童福祉士とソーシャルワーカーさんに後を託し、たった一人の妹に別れを告げた。
訓練は過酷を極め、目鼻が付いた頃には5年の月日が過ぎていた。
会いに行くのは憚られたが、消息を確認したら、妹を残した施設は経営者が変わり、親切なソーシャルワーカーさんは解雇されていた。
肝心な妹は脱柵して、行方不明になっていた。
八方手を尽くして探したが、何の伝手とて持たないロビンソンには自ずと限界があった。キャッシュカードの利用履歴や監視カメラのログなどを公開請求する為には資格が要る……やがて採用試験に備えなければならない時期になり、已む無く捜索を一時断念した。
正式採用が決まった時は、刑事局からだったが、危険な任務を厭わないロビンソンは徐々にそういう部署に追いやられていった。
挙げ句の果ては、統一時間局の特殊捕縛部隊に推薦された。
給料はいいが、いつ死ぬかも知れない仕事など誰も遣りたがらないからだ。
現に、ロビンソンの人間としての肉体は全く残っていない。
先輩のミスから、ある現場で大怪我を負い、サイバネティクス体として生きている。脳でさえが人工的な有機質集積回路だ。
いつしか“電気兎”として頭角を現し始めた頃、成長した妹の顔を見ることが出来た。それは時間局の指名手配犯として、電脳データベースにあった。
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「寂しかったよ、捨てられたと分かっていても、兄ちゃんのことを探して、追い掛けたけど、兄ちゃんの勤め先はおいそれと会いに行ける場所じゃなかった」
「……時間局は、一種治外法権だからな」
「犯罪者になることにしたんだ、兄ちゃんに会うには、もうそれしかないと思ったから……“メス山猫”なんて大層な名前は欲しくなかったけど」
「俺だな、全ては、あの時に逃げ出した俺が悪い」
「最近、薄れいく意識の中でよく夢を見るんだ、小さかった頃、ベッドの傍で兄ちゃんが子守唄を歌ってくれた夢……」
「ミュージィ、聞いてくれ、お前は幼い頃に施設で記憶改竄の処置を受けている、本当は、ミュージィ、お前は俺の血を分けた、たった一人の実の妹なんだ!」
「実の妹なんだ……」、遂に真実を言わなければならないと、覚悟を決めたひとことだったが、今更に遅過ぎる告白だった。
「………………知ってたよ、兄ちゃんの情報を集めていた時に、正式な戸籍を見つけたからね、余計ショックだった、本当の家族なのに置いていかれたんだって思ったら凄く悲しかった」
意識体のミュージィは滂沱の涙を流していた。
「おらをっ、おらを嫁に貰って呉れるって、言ったでねえかっ!」
魂からの叫びを最後に、妹の意識体は薄れ、消えていった。
おそらく、もう二度と会えないのだと分かった。
気が付くと、管楽器を吹いていた美麗な女性がハンカチを差し出している。
女性も涙を流していた。
「今は訳あって離れ々々に暮らしていますが、私にもソランという弟がいます……だから、お察しします」
「ミュージィさんの魂が次に生まれ変わる時、幸多からんことを願って祈りました、このハンカチもお持ちください、幸運の加護が込められています」
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ステラ姉が引くと、その後ろには導師が、まるで阿漕な借金取りのように控えていた。思えば、この兄妹二人を出しにして目的を遂げようとする心根の師匠は、血も涙も無い鬼畜のように思えるのだが、私はまだ甘いということだろうか?
「ステラの音の魔術には実際の力がある、妹の魂はいつか救われるだろう」
「教えて呉れるか、お前達タイム・オペレーターの秘中の秘、“最高の楽器”の出現する瞬間がいつかを……」、師匠の要求は悪魔の囁きのようだった。
(456722……………)、ロビンソンと言う男は106桁の数字の羅列を心に思い浮かべていた。
矢っ張りそうか……、ただ蕎麦を食べに行くなんておかしいと思ったんだ。
鬼畜の目的は最初から、別にあったと。
段々と遣り方が分かってきた師匠の手練手管の先読みをするには、まだまだ経験が足りない。未熟さを痛感していた。
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「この世界で、随分先の、まあ未来の話だが、音響兵器開発が一時代を築いたことがあってな」
「最初は、音波や振動での破壊や人のストレスに負荷を掛けたり、逆に軽減したりと言った極初歩的な研究だったんだが、やがてナノマシン技術がどんどん軌道に乗りだすと、AIに目標を与えて、70台程の最初の意志ある楽器が製造された、楽器が勝手に音響兵器としての可能性を模索し、楽器自体に進化させることを思い付いた研究チームは当時、絶賛されたらしい」
「しかし、ことは兵器開発だ、一般にはこの研究の成果は知らされることのないまま幾世代かが過ぎた」
「最早、ナノマシーンが次々と次世代の楽器に進化していくプロセスは、誰にもコントロール出来ない迄になっていた」
「楽器兵器と言えるかどうか? 人心を音で操り、森羅万象の理に響きと旋律、波動と揺らぎの音で干渉する……それは魔術にも近く、或いは神の領域にさえ近いものだった」
「そして今、音楽兵器の系譜は時限生活安全課部隊に引き継がれている」
「永遠に連なる時の流れの中で、究極にして最高の一台が出現する瞬間がある……それを知っているのは、彼ら時間局員だけだ」
師匠の説明を聴きながら、魔導クロノメーターに106桁のコードを正確にセットする。ひとつでも間違えれば、最悪、永遠に時間の狭間に閉じ込められ、無色の混沌を彷徨うことになる。
3度も、4度も見直した。
師匠の合図で、時限移動実行。
成功した私達の目の前には、長い刻の流れの中で遂に生まれ落ちた最高の一台、唯一無二の最高峰が、静かに息衝いていた。
それは、竪琴とバグパイプと手風琴とパンフルートをごちゃ混ぜにしたような奇妙奇天烈な代物なのだが、不思議と洗練されたバランスは何処から見ても一部の隙も感じ取れなかった。
誰もが、神の威に跪き、額ずく……そんな神々しさに満ち溢れていた。
今日、ニホンの楽器店で買って貰ったばかりのユーフォニアムを手に、ステラ姉が前に出た。
「上手く弾けるかは自信がありません、でも日々精進したいと思います……どうか、どうか私だけの楽器になってくださいっ!」
願いは聞き届けられた。
神器はナノマシーンになって、新品のユーフォニアムに融合した。
ステラ姉が、ステラ姉の為だけに手に入れた最強最適解の神器。それは、ひとたび奏でれば、必ずや奇跡を起こさずにはおかない。
それは、そんな代物だった。
すっかり生きる意味を見失って仕舞った“電気兎”こと時間局特務部隊所属のロビンソン・キャロル特務執行官は、非番の日には必ず妹の、ミュージィ・キャロルの墓に花を添えた。
“最高の楽器”が何者かに奪取されたことに対する取り調べは、何故かキャロルにまでは及ばなかった。多分、邂逅して最高機密を持ち去った謎の存在が、捜査の手を断ち切るよう何かをしたのだろう。
墓に、妹の遺体は無い。
暫くして、キャロル特務官の手許に「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」のマクミラン社刊行による貴重で希少な、初版本が届いた。
裏表紙に、“魔宮図書館より寄贈”と記されていた。
てんこ盛りの話になって仕舞いました
グルメ紀行に始まり、SFテクノロジーと魔術が対決します
「不思議の国のアリス」は調べていくうちに、ナンセンス詩とか言葉遊びなど、とっても高尚なんで感心しました
当時のお子さんって頭良かったんですかね?
フィリップ・K・ディックのオマージュを演りたかった訳ではありません
ユーフォニアム=金管楽器の一種で一般的にB♭管で、幾重かに巻かれた円錐管と通常4つのバルブを持ち、音域はテナーやテナーバスのトロンボーンとほぼ同じであるがそれよりも幾分か柔らかく温かみのある音色を奏でる/セルパンやバスホルン、オフィクレイドの高音域を担うために生まれてきた楽器を元に、ゾンマーによる発案と彼自身の演奏活動をきっかけに「チェロのような、美しく優しい響きのソロ楽器」としてオーストリアで誕生し、またサクソルン一族のバスとして生まれた楽器を元にしてイギリスで発達した
犬矢来=建物の外壁と道路際や溝との間の細長い空間を犬走りと呼び いわゆる軒下部分の犬走りに設置して犬が近づき放尿するのを防ぐのが目的で造られた、和式建築が成熟すると共に様式化したが、その昔は馬の泥はねや牛車の接触による損傷からも壁や塀を守っていた
板山葵=蒲鉾を薄く切ってワサビと醤油を添えたもの/特に蕎麦屋での肴としてもお馴染みで、店によっては飾り切りがされていたり山葵や蒲鉾の質が異なるなど、ささやかながら特色がある
柳川鍋=泥鰌を使った江戸生まれの鍋料理で、どぜう鍋と同じく泥鰌の鍋料理であるが、開いた泥鰌を予め割下で煮こみ卵とじにしている点で一般的などぜう鍋と区別されることが多い/開いた泥鰌と笹掻きにした牛蒡を味醂と醤油の割下で煮て鶏卵で綴じる/バリエーションとして一緒にネギやミツバを用いる場合もある/江戸時代には泥鰌も牛蒡も精の付く食材とされていたため、柳川鍋は暑中に食べるものとされていた/俳句の世界では「泥鰌」は夏の季語となっている
湯桶=日本の伝統的な食器のひとつで、木製漆塗で注ぎ口と柄と蓋のある飲料容器のこと/湯や酒を注ぐための容器として至極一般的な物であったが、現代ではほとんど使われることのない道具となり、懐石料理のほかは蕎麦屋で蕎麦湯を入れるのに用いられる程度となっている
蕎麦ガキ=[そばがき、蕎麦掻き]は蕎麦粉を熱湯でこねて餅状にしたもので、蕎麦粉を使った初期の料理であり蕎麦切りが広がっている現在でも蕎麦屋で酒のつまみとするなど広く食されている
蕎麦切りのように細長い麺とはせず、塊状で食する点が特徴である
ムルギランチ=地鶏の腿肉を7時間煮込んだスパイシーなルウとイエローライス、キャベツの温野菜、マッシュポテト、グリーンピースが乗ったカレーで、全て混ぜてから食べるのが定番
キャンテイ=イタリア・トスカーナ州のキャンティ地方で生産されるワインで葡萄品種はサンジョヴェーゼを75〜100%と主体にしてカナイオーロ・ネーロやマルヴァジーア、トレッビアーノを混醸することが可能で伝統的な藁苞の瓶も有名であるが、今では少数派となっている/DOCGの認定を受けており、伝統的にキャンティワインを作りつづけてきた地域は黒い鶏の紋章を付けたキャンティ・クラッシコという名で区別する
大根餅=中国語:蘿蔔糕[ローポーガオ]は、飲茶の代表的な点心のひとつであり広東料理の一種で、広東茶屋で点心として使われるほか広東と香港では旧正月料理としても使われている
大根を細かく切って餅米粉とコーンスターチで作った小麦粉ペーストと混ぜて、微塵切りにした椎茸、干しエビ、ソーセージ、ベーコンを加えて蒸す
粽子=餅米や粳米、米粉などで作った餅、もしくは餅米を、三角形〈または円錐形〉に作り、笹などの「ちまきの葉」で包み、藺草などで縛った食品/葉ごと蒸したり茹でて加熱し、その葉を剥いて食べる/米と一緒に味付けした肉、塩漬け卵、棗、栗などの具や小豆餡などを加えることが多い/特別なものでは鮑や焼豚を包んだものもある/形は正四面体が多いが、直方体、円筒形のものもある
ジャバウオック=ルイス・キャロルによるイギリスの児童小説「鏡の国のアリス」にある架空の生物で同書の中に登場する詩「ジャバウォックの詩」の中で語られている/その形態は詩には明確な姿の描写がないが、「鏡の国のアリス」に挿絵を寄せたジョン・テニエルの画では、細い体格のドラゴンのような姿で描かれていて体高は人間の2倍から3倍程度で、頭は魚のようで額には2本の触角状のもの、口元にも2本の触手またはヒゲのようなもの、口の中には鋭い門歯が確認でき、首は細長く、体は爬虫類状の鱗に覆われており、直立歩行する恐竜のように腕と脚を2本ずつ、手足にそれぞれ3本と4本ずつの鋭い鉤爪を持ち、長い尾、背中に蝙蝠のような翼がある
ラバッツア=LAVAZZA はヨーロッパでよく飲まれているエスプレッソのブランドとして親しまれていて、ホテルリッツやフォーシーズンズホテルといったラグジュアリーホテルでも選ばれている
エスプレッソの本場イタリアで120年以上の伝統を誇るブランド……残念ながら私達の世界では、日本にはチェーン店は進出していない
ハンプティ・ダンプティ=イギリスの伝承童謡「マザー・グース」のひとつで、またその童謡に登場するキャラクターの名前/童謡の中ではっきり明示されているわけではないが、このキャラクターは一般に擬人化された卵の姿で親しまれており、英語圏では童謡自体とともに非常にポピュラーな存在である/もともとはなぞなぞ歌であったと考えられるこの童謡とキャラクターはルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」〈1872年〉をはじめとして、様々な文学作品や映画、演劇、音楽作品などにおいて引用や言及の対象とされてきた
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感想や批判もお待ちしております
私、漢字が苦手なもので誤字脱字報告もありましたらお願いします
別口でエッセイも載せましたので、ご興味のある方は一度ひやかしてみてください
短めですのでスマホで読むには最適かと……是非、通勤・通学のお供にどうぞ、一応R15です
https://ncode.syosetu.com/n9580he/
全編改稿作業で修正 2025.03.20
誰の視点で語られているのか書き分けが出来ていなかった点を反省し、全面的に手を入れました





