柳の根
地元の高校を出た盛江だが、如何せん、大学を卒業しないことには、ろくな就職ができないことを知る。彼の実家は農家だが、独り暮らしを楽しむため、適当に進学した。親元を離れ、自由に暮らすことを希望として。
居酒屋とは、個人営業でも、チェーン店とも変わらないような店だ。特に、大学生のように、小銭のためにアルバイトを探す人々にとっては。
「おい、手を動かせよ、バイト。」
「…あ、すみません。」
この怒られている男は、盛江。親元を進学で離れ、自由気ままに、そしてだらしなく日々を過ごしていた。煙草や酒に仕送りを使い切ってしまうような彼は、日の半分も働けばそれは十分と、バイトをしている。しかし、日頃のだらしなさから常に睡眠不足であり、ついに厨房から追い出され、盆を取り上げられ、レジ打ち専用機械となってしまった。
「時給は変わらないんでしょうね?」
「嫌ならやめてもいいぞ。うちのスタッフは優秀だから、お前なんぞ、いつでも追い出しても構わないからな。」
この時すでに、盛江は履歴書すら買う金が無い。実は、別の店の面接で何度も落ちており、最後に受けたこの主人に泣きつき、ようやく機会を得たのだ。
「わかりましたよ、わかりました。」
金がもらえるだけまし、そう考え彼はレジに着く。なんにせよ、確かにスタッフは優秀だ、会計を注文書上で済ませている。
「もらえる給金は半分ほど減ってしまったが、牛乳と食パンは買える。来月には仕送りが来るから、それまでの辛抱だ。」
盛江は日々自分に言い聞かせ、それから1週間がたった。
彼は、人を身なりで判断することを嫌っている。それでも、レジ前に立つ女性に見とれてしまった。
「あの、どうかしましたか。」
「いえ、少し眩暈がしたもので。すみません。」
と答えつつ、目線をしたへ移す。なるほど年は同じくらいか、と彼女を値踏んでいると、
「きっと貧血ですね。この近くに、いい漢方薬を売る薬屋がありますよ。」
好意でこう答える彼女に対し、この男は言い放った。
「漢方薬なんて迷信ですよ。」
これに対し、ムッとした彼女は、馬を引くように、彼の襟首をつかみ店の外へ引きずりだす。盛江は、今までこのように扱われることはなかったから、おとなしく引きずられていた。
「いいですか。漢方薬は、絶対に、効果があります。迷信でもなく、医学的な根拠としても―」
敵兵に槍を突き立てる兵士がごとく、正論を放つ彼女は、とても情熱的で、その瞳は、この愚か者をどうやって矯正させるか、熱意に満ちている。
肝心の盛江は、彼女の表情がとても好みだったから、あと十分は聞いておこうとしていたが、店内から怒声が聞こえた。
「あの大馬鹿はどこだ、そんなに首を切られたいか。」
これが聞こえたものだから、すぐさま彼女に対し頭を下げ
「すみません、本当にすみません。」
とそそくさ店に戻ってしまい、その動きがとてもこなれたものだから、彼女はあきれて立ち尽くしてしまった。
次の日、食い逃げをした、とあの女性が謝りに来た。
「別にいいんですよ、皆川さん。うちは、”常連さんなら”つけ払いできますから。」
というのはこの店の主人。この女性が、大手製薬会社の役員の娘だと知ってこの対応である。
「ありがとうございます、どうぞ、お代です。ところで彼はいますか。」
おい、と主人は奥へ声を掛け、盛江と入れ替わりに
「あまり仕事を増やすな。」
と残し、厨房へ去っていった。
「あの、昨日はすみません。少し、お酒を飲み過ぎたみたいです。」
「いえ、こちらこそ。」
どうにか、彼女へお近づきになりたい彼は少し考え、
「ところで、皆川さんは薬学に詳しいんですね。えっと良ければ、面白かったのでまた聞きたいです。」
「いいですよ。明日なんてどうです。」
と彼女は快諾した。
翌日、盛江は待ち合わせ場所の喫茶店へ、ほんの少し遅れて、その個室へ到着した。他愛のない会話を皆川と交わしつつ、なぜ漢方薬にこだわるか聞いてみると、皆川はニヤリと笑みを浮かべ、小声でこう述べた。
「なぜかっていうと、自然派な方々に高く売れるからです。少し前に、薬局で消費期限切れの医薬品を使い回ししてた事件があったでしょう。この事件のせいで、売上が落ちたんですよ。特に、美容用医薬品がね。」
この返答は彼の思っていたものではなく、当然うろたえる。しかし、彼女は気にも留めず続ける。
「一昨日、独りで居酒屋へ訪れたのは、薬屋の顧客を調べるついでです。貴方もどうですか、丁度、非正規の人出が足りなかったんですよ。…今のままだと、一日一食ぐらいですし。」
彼は、その時気付いてしまった。個室のある喫茶店は逃げ道が無いこと、注文書が自分の名前宛になっていること、彼女が自身のすべて把握していたことに。
盛江は、喫茶店代を建て替える代わりに、皆川からの仕事を受ける契約書を書いた。しかし、彼は違反を覚悟で、逃げてしまうことにした。居酒屋の電話を使い、親に泣きついたのだ。大学はあきらめて、農家を継いだ方がまだましだと思えるほど、彼女が怖かったらしい。
実家に逃げ帰ってしまったが最後、盛江は根性無しの烙印を親から与えられ、大学はやめさせられ、農家を継いだ。月日がたち、だらしない悪習は治り、あの恐ろしい体験は教訓へと変わった。農家としてある程度慣れてきたところ、それは突然やってきた。
「お久しぶりです、盛江さん。皆川です。今のあなたにピッタリなお仕事を、持ってきましたよ。」