ビニ傘が売り切れたコンビニで
都内某所にある大学に通う学生、宇名氏はいつもと変わらない日常を過ごしていた。補足するなら、宇名氏とは彼の苗字である。そんな珍しい苗字の彼がこの物語の主人公となったわけだが、こんなことを言っては彼に失礼極まりないが、特に面白味のない毎日を過ごしているだけで到底誰かに話すような出来事など起きない。そんな彼にスポットを当てることになったある日の話を始めよう。
誰かが失礼なことを言った気がする。俺は朝起きてからカーテンを開け、窓から見える曇り空を見ながらそう思った。
一限から講義があるため悠長にしている暇はない。朝が得意とは言えない俺は、大学生らしい怠惰な生活も相まって、起きた頃には既に家を出るギリギリの時間となっていた。つまり寝坊したわけだが、特に問題は無い。最早いつも通り過ぎて問題とは捉えなくなっている。焦っても仕方が無いのだ。むしろここで焦る方が結果的に悪い方へと転んでしまう。これは二十年生きてきて身についた見解だ。
そんな達観している俺は、今日が終わるころには少し反省することになるとは思ってもいなかった。
大学から一人暮らしを始め、昼間は大学で講義を受け、夕方と休日の土日はバイトに勤しむと言ったごく普通の大学生活を送っている。一人暮らしをしているにも関わらず、住んでいる家から大学までは近くない。時間で言うなら四十分程だろうか。立地が好条件な駅前に住むわけに行かず、家から駅まで徒歩で二十分、電車で大学の最寄り駅まで二十分が俺の通学時間である。遠すぎず近すぎずと言ったところだろうか。一人暮らしをさせてくれている以上、何も文句は言えないし文句など言うつもりも無い。一つあるとすれば、駅前にしかコンビニがないことだろうか。
一限の講義が始まり始業の三分後に教室へと到着。五分までなら遅刻扱いされないこの仕様が俺を助けていると言っても過言ではない。むしろ五分の猶予が無ければ、単位を落としているかもしれない程、毎度ギリギリの出席だ。自分で言ってて恥ずかしい話だが。
遅刻ギリギリに教室に入ると、後ろを振り返る友人たちと目が合う。彼らが笑っているのは俺の噂話でもしていたからだろうか。静かに目立たない様に歩き、彼らの隣の席へと腰を落とす。鞄から筆記用具とノートを取り出し、いつものように板書を開始する。最近ではパソコンで講義を行うことも増えて来たが、俺には手で字を書く方が知識として身につくと思っている。それにどうもパソコンだと余計な情報が多い。インターネットで遊べてしまうのも悪い点だ。そんな誘惑に負けてしまう己の弱さがいけないことは重々承知の上だが、手が届く範囲の物は気軽に手に取ってしまうものだ。
午前の講義が終わり、友人たちと学食へと向かう。コンビニで買う者、学食で食べる者、自炊をして弁当を食べる者、様々だが俺はいつも学食だ。広いオープンスペースで友人たちと食事をしていると高校生とは違うなと感じる時がある。それは、周りの生徒が全く知らない人ということ。時には一度は見たことがある人な場合もあるが、基本全く知らない人、当然彼らが何年生なのか学部はどこなのかも分からない。大学四年間で一度も話すこと無く卒業していくのだと思うとどこか残念だ。
そんな感傷に浸っていると、友人の一人がこんなことを言い出す。
「今日、午後から雨らしいぜ。四限が終わるころには本降りかもなあ。」
誰一人傘を持ってきていないという話が出てこないのは何故だろうか。
四限の講義が終わり、帰り支度をしているとこんな言葉が聞こえてくる。
「あー、やっぱり雨降ってるよ。さっさと帰って家で遊ぶか。」
もしかしてと思い、俺は一つの不安を彼らに投げかける。
「みんな、傘持ってきた?」
そんな俺の疑問に、彼らは鞄から折り畳み傘を取り出して答えた。それも示し合わせたかのように同時に。どうやら持っていないのは俺だけの様だった。
「宇名氏、傘忘れたのかよー。じゃあ彼女と一緒に帰ったらどうだ?あっ。」
最後のわざとらしい、「あっ。」という言葉で彼らは笑い出す。その笑いに俺も苦笑いをして返すが、悲しいかな俺には彼女などいない。雨の日だから出来る相合傘というカップルお決まりの展開も俺には訪れないのだ。
彼らが笑うのは、俺以外彼女がいるという自慢からだろう。別に悔しくなんてない。ちょっとうらやましいだけだ。
ちょっとした彼らのからかいにも笑って返し、心優しい誰かの傘に入れて貰おうと思っていたのに、不運なことに同じ方面の友人は用事があるとのことで一緒に帰れないようだ。
傘の無い俺は、走って帰るしかないらしい。
お世辞にも足が速いとは言えない俺だが、駅までの近い距離ならそこまで濡れることは無く無事に駅まで着く。夏場と言うこともあり、走った後のムワッとした熱さが辛い。雨が降っているから太陽の日照りは影響ないが、風が無いせいで汗ばんだ身体を冷やすことが出来ずにいた。
暑さに冷静さを失い、大学のある駅前で傘を買うという考えには至らず、エアコンの聞いた車内へと足早に飛び込む。電車で涼み、何分か経った頃に傘がない事実を思い出した。
身体が濡れること自体は特に問題は無いが、靴が濡れるのとノートが濡れることはあまり好ましくない。むしろ不愉快に近い。高校時代に、何度も雨に濡れ教科書がふやける光景を不意に思い出す。ドライヤーで乾かしても後の祭りで、ほぼ効果が得られないことは体験済みなのだ。
なら答えは一つしかない。電車は家の最寄り駅まで着き、改札を出ると目当ての店が視界に入って来た。
そう、コンビニでビニール傘を買うことにしたのだ。
ビニール傘は大抵のコンビニで置いてあり、入り口付近に陳列されてあるであろうそれを手に取る。
しかし、それを握ろうとしても空を切るだけだった。
服は雨なのか汗なのか分からない濡れたままで、俺は立ち尽くすことになる。コンビニの店員の一言で俺は、途方に暮れた。
「すみません、傘売れ切れちゃったみたいで。」
自分が傘が無いこんな日に限って、目当ての傘が売り切れるはずが無い。そう誰しもが思うだろう。
店員の控えめな声が、俺の期待に沿うことはないようだった。
途方に暮れる俺は、ズボンのポケットからスマホを取り出す。アプリを起動し、俺はまたしても落胆する。
天気予報アプリを開いた俺は、ディスプレイに映る雨マークが今の時間から明日の朝まで続いていることを確認し、他には何も見ずにスマホをポケットにしまい直した。幸いなことはスマホが防水対応なことくらいか。
雑誌を立ち読みし、時間を潰しても意味は無いらしい。
時々、レジにいる店員と視線が合う。どこか気まずいこの空間に長居はできない。
かと言って、濡れて帰るのも嫌な俺は思考を巡らせる。
何か良い案は無いのかと。
都合よく案など思い付くことは無く、俺は雑誌コーナーの前で逃避を始めていた。長居は出来ないと思いつつもお構いなしに長居する気満々だ。
青春に憧れる中学生時代の俺。
なにがあったか聞きたいって?そう急かさなくても時間は逃げたりはしないさ。朝までゆっくりあるのだから。
雑誌も読まず立ち尽くす俺を、訝し気な目で見ている店員の視線などもう気に留めない。
俺の話を聞きたい聴衆がいるようだからな。
あの店員も実は聞きたがっているに違いない。俺の痛い話を。
今思えば、あの頃の俺の方がしっかりしていたかもしれない。なんといっても今と違い、折り畳み傘を下駄箱に入れておいてあったのだ。雨が降ればその傘を使えばいいし、下駄箱に置いておくことで荷物がかさばることも無い。不安材料を挙げるなら、傘を盗まれないかだけ少し心配していた。中学校でビニ傘を持って行った日には、いつの間にか無くなっているなんて日常茶飯事だったから。
ろくな生徒がいなかったなと我ながら思う。
雨が降った時の為に傘を置いてあるのだが、もう一つ理由があった。もう一つの理由こそ本命。
それは目当ての女子が傘を忘れた時に、さりげなく貸してあげられるという優れた作戦だ。
更に自分は走って帰ることにより、その後ろ姿を見ることにより「ああ、かっこいい。」となる訳だ・・。
なるわけない。今時の女の子がその程度で惚れてたら、クラス内の男女は全員カップルになっているだろう。
しかし、中学生男子の脳内は常にハッピーな世界が繰り広げられている。
あくまで俺だけじゃないと言っておこう。
俺だけじゃないよな・・?
そして念願のその場面がやってきたのだ。どの場面だって?下駄箱の前で傘を持たず途方に暮れているクラスメイトがいるという状況さ。
「あ、阿藤さん。今帰り?」
あくまで平然と、今来たかのように装う。実際は隠れて様子を伺っていたことは誰にも内緒だ。
「宇名氏くんも?」
「うん、ちょっと先生に呼ばれてて遅くなっちゃった。」
勿論、嘘だ。下駄箱にずっと潜んでいた。
彼女が傘を持っていないことは、見ていたから分かる。
だから俺は、彼女に傘を貸す。あくまで彼女に傘を貸すだけで、一緒に帰ろうとは言わない。
そこまで彼女と親密では無いから!
決して勇気が無いからではない。女性が嫌がることはしないのが紳士だ。
後は自分の下駄箱から傘を取り出し、さりげなく彼女に手渡すだけ。濡れて帰るのは、怪我同様男の勲章みたいなものに違いない。唾を飲み込み、いざ彼女の元へ。
「あれ。阿藤、まだ帰ってなかったんだ?良かったら傘入ってく?」
どこから奴は現れたんだ。
「イケメンは颯爽と現れ、彼女を連れて帰って行った。」とナレーションが流れるかのように一連の流れがスムーズ過ぎて、傘を渡そうとした右手が宙ぶらりんのまま、彼らは後ろにいる俺のことなんてお構いなしに本当に帰ってしまった。
オチも無い俺の過去の話。そんな純粋だった過去を思い出した俺だったが、前を見ると雨は降り続けていて、ガラスを打ちつける雨の音が次第に大きくなっている様な気がした。
何分程逃避していたか分からないが、状況は好転していないらしい。
ビニ傘は売り切れているし雨は止まないし今日はどうやらついていない。
雑誌に手を伸ばし、読むつもりも無いのにページをめくっていく。
そこにはビーチパラソルの下で微笑むアイドルの姿があった。
どうやら傘にまつわる話をしなきゃいけないようだ。
これは折り畳み傘を下駄箱では無く、鞄にしっかりと入れていた時の話だ。
中学の話の次と来れば、高校時代の話に決まっている。
雨の日、俺は帰り支度をするため机の上に鞄を置き、教科書やノートをしまってから、最後に鞄の中身を確認した。視界に映る傘を確認し、俺は下駄箱へと向かう。
「あ、伊藤さん。今帰り?」
「うん、宇名氏くんも?」
俺は彼女の言葉に返事する前に、鞄の中から傘を取り出し、さりげなく彼女へと差し出す。
「そうだよ。あ、良かったら傘使う?」
「え、でも宇名氏くんが困るんじゃ・・。」
「大丈夫。俺、折り畳み傘二つ持ってるから!」
「え・・?」
彼女の戸惑う声を気にせず、自信満々に俺は鞄からもう一つ傘を取り出し、笑顔で彼女に見せると何故か分からないけれど彼女の顔が少し引きつっているように見えた。
中学の頃の俺は甘かった。傘を貸して自分が濡れてしまうんじゃ本末転倒さ。だから俺は傘を二つ持ち歩くことにした。あくまでさりげなく彼女に傘を貸せるように。
あわよくば二人で並んで傘を差して帰れることを願って。
「あれ。伊藤、まだ帰ってなかったんだ?じゃあ一緒に帰るか。」
俺の居場所はどこに行ったんだ。
そう疑問を頭に浮かべている間に、彼らは帰って行った。伊藤さんは俺にお礼の言葉をいい、傘を借りるだけ借りて、俺は置いていかれた。
どうやら折り畳み傘はダメらしい。
つまり時代はビニ傘のようだ。透明で視界も良好、誰が使っても気にならないデザイン性。
コンビニで手軽に買えるということは、都心では二十四時間いつでも手に入る。
もう傘に困ることは無い。
俺は雑誌を元あった場所に戻し、家に帰るためにビニ傘を買って帰ることにした。
手を伸ばし、いつだって俺の相棒のビニ傘を手に取る。
ああ、このしっくりとくる持ち手。白色が清潔さを感じさせてくれる・・。
「ないんかーい。」
盛大に滑った一人ツッコミを終え、俺は背中に刺さる視線の主へと振り返る。
あの目を俺は見たことがある気がした。
折り畳み傘を二つ取り出した俺を見た時の伊藤さんの目とどこか似ていた。
まるで蔑む相手を見る様な目だ。
いくら待っても雨は止まないことは分かっていたが、俺は意を決して家までの二十分の距離を走って帰ることにする。誰が止めたって俺は行くぞ。出口へと向かい最後にもう一度だけ店員を見る。特に意味など無い。俺の懇願する視線を彼女がどう思うかは俺の知ったことじゃない。
「チラッ。」
おっと、思わず心の声が口から出てしまっていた。
「あの・・。」
帰ろうとする俺を呼び止める声がした。もしかすると雨の中帰ることを可哀想だなと感じた店員が、余っている傘を貸してくれるのかもしれない。そうだ、そうに違いない。何のために俺はコンビニに入ったと思っている。
傘を買うためだけにコンビニ入ったんだ。なら店員の言う言葉は決まってる。
「言いにくいことなんですが、ズボンのチャックが全開ですよ・・。」
彼女の二度目の控えめな声は、俺の期待を大きく下回り、何も言い返す事無く俺は飛び出した。
雨の中走り続け、ズボンのチャックに手をかけ、必死にチャックを上げようとするが雨で滑り思うように閉まらない。
俺は、家に帰るまでチャック全開で走り抜けることにした。
いつもと変わらない日常を送っていた彼。雨と傘が嫌いにならないことを祈るばかりだ。
後日談になるが、どうやらこの物語の主人公である彼は雨の日の出来事をきっかけに、早寝早起きと折り畳み傘を鞄に一つ入れることを徹底しているらしい。
あの店員のいるコンビニに行っているかは、定かではないが。
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