不意打ち
亘は体が大きく揺さぶられるのを感じて、うっすらと目を開けた。あと5分寝かせて--と思いながら眠りの淵に、再び手をかけようとした時に、夕の声が耳の中で大きく響く。
「起きて、お願い起きて! 早く逃げて!」
切迫した気迫のこもった声に亘は目を覚ました。
「もう朝なのか?」
「急いで、逃げて! お願いだから、話は後でするから」
夕の目を見ると、見開かれた大きな目に涙を溜めている。
何か起きたに違いない、亘は上体を起こして、夕に何があったのか尋ねようとしたが、夕は亘が起きたのを確認すると、亘の寝ていた穴から飛び出して行った。
後をついて、のっそりと亘が穴から這い出ると、昨日歩き回ったせいか足が痛む。筋肉痛になる手前のように感じる。
夕が身を潜め辺りをうかがっている。
亘には何が起きたのかわからなかったが、夕のただならぬ気配を察し、大人しく夕の傍へ行った。
「ここから急いで逃げて、走れる? そうだ、この草履履いて。」
夕は昨日この村へやってきた方向と逆の方の森の奥深い方を指差す。
「一体何が……。」
「詳しいことは後、走って!」
亘が夕からもらった草履を履くと、夕の指差した森の奥へ向かって走り出した。
どれくらい眠ったのかわからなかったが、昨日歩き回った足が、まだ痛む。
夕に亘はあれからどれくらい眠ったのか聞こうと振り返ると、夕は亘に指示をした場所から、動いていなかった。
どうしたんだ、と大声をあげそうになる。夕が潜めた声で亘に話していたのを思い出し、声をかけずに走って夕の傍へ戻る。
「どうしたんだ、逃げるんじゃ……。」
「逃げるのはあなただけだよ……。」
どうして、と聞こうと夕の顔を覗き込むと今まで見たことないような、険しい顔つきをしている。
「あなた、このままじゃ奴隷にされちゃう。」
「君は大丈夫なのか?」
「私はもう奴隷みたいなものだから‥‥。」
状況が全く理解できない亘は、昨日歓待された時のことを思い返した。だが、奴隷になんてされるような感じは、まるでなかった。
「吉田さんの機嫌を損ねたお客さんはみんな奴隷にされるの。いいから逃げて、走って逃げて! もうあまり時間がないの。」
亘は夕の手を掴み走り出した。
自分が何をしているのか、どうしてそうしたのかわからなかったが、こうしないと後悔しそうだと思った。
しばらく夕は手を引かれるまま、亘と走った。大木の裏に身を隠すと亘は止まって、夕の方を向いた。
夕は俯いたまま何も言わなかった。
「奴隷にされるって一体なんなんだ? 悪い冗談か? あんなに歓待してくれたのに、そんなはずないじゃないか。」
「……ここでは簡単に信用しちゃ駄目だよ。それにおじさんは吉田さんの一番触れられたくないことを訊いちゃったから。」
吉田の顔は、いつもニコニコしていたように気がする。
何か俺は触れらちゃいけないことを口走ったのか、と気落ちした。
「確かに、俺はちょっと興奮してた。そりゃそうだろ? 急に小さな体になって、ようやく三枝さん以外の小さくなった人に会えて、あんなに歓待されたら。」
そこまで言うと、そんなこと言ってる場合じゃない、と亘は夕の目を見て、改めて問い詰めた。
「奴隷ってなんなんだ? あそこにいた3人はみんな奴隷なのか?」
「奴隷は、あの村から離れた場所に監禁されてる。閉じ込められて、物を作らされたり、収穫とか肉体労働させられてる。それを監視するのが……私の役目。」
夕は悲しげな瞳で亘を仰ぎ見た。
「そんなことさせられてたのか。でもどうして……。」
君のような子が、と亘が言おうとした時に、空気を切り裂く、鋭い音が亘のすぐそばから聞こえてきた。
その音の先の地面には、矢が突き刺さっていた。
「いけませんね。朝までゆっくり眠らないと、明日からの労働についてこれませんよ。」
声の主が暗闇の中、月明かりに照らし出される。吉田だった。
「それに夕ちゃん、逃しちゃ駄目じゃない。せっかく夕ちゃんに新しい村人を連れてきてもらったのに。」
夕は毅然とした表情で吉田に顔を向けた。
「もう嫌なんです。いつもいつもお父さんのことを知ってるから言うことを聞きなさい、なんて言って……。私知ってた。本当は吉田さん、お父さんのことなんて、何も知らないって。私を利用してただけなんだ!」
夕が強気に出ても、吉田は平然としている。
「さぁ、こっちにおいで夕ちゃん。さもないと、この毒の矢でお友達を打っちゃうよ。」
吉田は弓に矢をつがえて、亘の方へ矢を向ける。
「やめて! 水谷さんは関係ないでしょ! 逃がしてあげて!」
悲鳴混じりの声で夕が叫ぶ。
「関係ないだって? その彼は、私のタブーに触れたんだよ。元に戻りたい、戻る気はないのか、だってさ。いいじゃないか、ここの生活は悪くないよ。奴隷も10人も集まった。この毒で脅せば言うことを聞く、無知蒙昧の奴隷がね。」
亘は吉田の言い分を聞いてて、吐き気がしてきた。
毒で脅して、自分たちだけがのんびり暮らす。ここの生活が悪くない、そりゃそうだろうな。
「わかったよ。悪かった、吉田さん。もう逃げません。その代わり三枝さんは許してあげてください。」
そう言うと、亘は夕の背中を叩き、吉田の方へと押し出した。
「いい心がけだ。でも、そんなこともう君には関係ないんだ。だって、君はこの毒矢で死ぬんだからね、ここで。反抗的な奴隷なんていらないんだ。」
吉田が亘に向けた矢を、強く引く。亘は諦めて目をつぶる。
毒矢って言ってたな、毒で苦しむのか。嫌だなぁと思った時だった。
吉田の悲鳴が聞こえた。
亘は目を開いて、声のする方に目をむけると、夕のそばに吉田が倒れ込んでいた。
吉田の腹めがけて、正拳突きを見舞うと、吉田はさらに呻き声をあげた。
亘は夕が何か格闘技を会得しているのか、夕方に手刀をくらいそうになったことを、思い出した。「私、強いんだよ」と言っていた。
吉田は知らなかったのだろう。
不意打ちを食らった吉田は、倒れ込んだまま呻いている。
夕は吉田の手から毒矢を取り上げ、その矢を吉田に向けた。
「止めるんだ! 君がそんなことしても何にもならない。」
そう亘が言うと夕は亘の方を向き悲しげな笑みを浮かべて、首を横に振る。
「どうしても許せない。私の弱みに付け込んで、いいなりにしていたことを。」
そう言うと、夕は矢を握った右手を、大きく振りかぶり、吉田に突き立てた。
亘が目を見開いて、吉田を見ると苦しげにもがいている。
だが、よく見ると吉田の体には、矢は突き刺さっていない。
夕は毒矢を捨て、素手で吉田を殴ったようだ。
「ふーっ、これですっきりした!」
夕の顔は言葉の通り、何かを吹っ切れたかのような笑顔になっていた。
そして亘は奴隷と呼ばれる人たちがいる場所へ、夕に案内させて連れて行ってもらった。
木製の頑丈そうな檻があり、その中で10人の吉田たちと大きさが同じくらいの若い男女が眠っていた。
目を覚ました10代前半の女の子の人影が、夕の顔を見ると怯え出した。
「三枝さん……。そんな酷いことをこの子にしてたの?」
「ち、違う! 私は監視してただけなんだから。」
「そうだよ、夕ちゃんは何もしてないよ。ただ吉田さんの言うことを聞いて、見張っていただけだからね。」
背後から声がする。亘が振り返ると、夕とよく一緒にいた、年配の女性が立っていた。
「私、おばあちゃんに言われて、おじさんを起こしに行ったの。」
そう言われた年配の女性は、微笑んで亘の方を見た。
「夕ちゃん、お兄さんのこと気に入ってるみたいだったからね。吉田さん怒ってるみたいだから、奴隷にしちゃうんじゃないかって、夕ちゃんに行ったら、泣いて飛び出して……。」
「ちょ、ちょっとそれ以上は!」
夕の顔が月明かりの下で赤く染まる。この年配の女性と夕に助けられたのか、と亘は感謝の言葉を伝えようと思ったが、妙に照れ臭い。
「そうだ、早くこの檻を開けてみんなを出してあげよう。」
亘は照れ隠しで、檻を開けることを、提案した。だが、どうやって檻を開けるのか、見当がつかなかった。
すると、夕が檻の扉をいとも簡単に開け放った。
鍵なんてついていなかったようだ。
「鍵、ついてなかったのか?」
亘は不思議に思った。なぜ、鍵のない檻から彼らは、逃げ出さなかったのか。
「恐怖だよ。吉田さんに散々痛めつけられて、毒の矢で狙ってるって、脅されていたから……。だから、誰も逃げ出そうとしなかったの。」
扉を開けても彼らは、出てこなかった。
夕の顔色を伺っているように、亘には見えた。
「三枝さん、みんなに、もう自由になったんだって、教えてあげて。」
夕は亘の言いたいことがわかったのか、優しい声音で檻の中の人々に伝えた。
「もうあなたたちは自由よ。早く檻から出て」
彼らは初めは、言葉の意味を理解しきれないようだったが、檻から出ろと言うところはわかったようだ。
おびえた様子を見せながら、そろそろと檻から順に出て行く。
そしてその中の1人の男、が亘に訊いてきた。
「あなたが新しい支配者様ですか?」
その言葉を聞いて、亘は驚いた。
「もう皆さん自由ですよ。」
「自由って……。これからどうやって生きていけばいいんですか。ご飯は? 眠るところは? 私たちこれからどうしたら……。」
亘は唖然とした。
この人たちは小さくなってしまってから、自分で生きる方法を知らないで、今まで吉田のいいなりにさえなっていれば、食事や寝床に困らなかったのか。
亘は人ごととは思えなかった。夕がいなければ、途方に暮れていたし、食べ物なんてどうやって手に入れたらいいのかわからないのは、亘も一緒だった。
「こ、これから考えていこう。」
「そんな無責任な! 前の支配者様はちゃんとご飯を食べさせてくださったぞ!」
夕が亘との間に、割って入った。
「これからは、自分でやるの。みんなで協力して、今までみたいに畑を耕して。獲物もとって。」
「それに料理の仕方なら私が教えましょう。」
年配の女性も口を開き、亘は助かったと冷や汗が引いていくのを感じた。
10人の男女と亘に夕。
それに年配の女性で登り始めた陽を見つめていた。
そこへ、もう1人の男性が穴から出てきた。
そして驚いたような顔で「あれ?吉田さんは?みんなどうしたの?」
奴隷にされていた10人が、出てきたことに驚いているようだった。
夕が昨夜の出来事を伝えると、さらに驚いたように「あれ〜へ〜」などと言っている。
「いやね、私も吉田さん、怖かったから何も言えなかったけど、奴隷なんて物騒で嫌だなぁ、と思ってたんだよ。でもねぇ、吉田さん優しい顔して、おっかないんだもんなぁ。そう言えば吉田さんはどこへ?」
そう言われて、亘は思い出した。そして吉田が倒れていた、大木の方へ歩き出すと夕もついてきた。
吉田が倒れていた辺りにその姿はなかった。
「きっとどこかへ行っちゃったんだね。」
夕のその言葉に亘は安堵しつつも、どこか不安が残った。