初めての出会い
亘はただただ驚くばかりだった。遥か遠くをとてつもなく大きな自転車が走り抜けていく。その脇を歩く人の大きさ。
亘のいる場所は芝生が敷き詰められていて、人通りのある場所からはかなり離れている。だが、そこから見てもたまに通りかかる人や自転車がとても大きく見える。
助けを呼ぶべきか、でもどうやって? アリよりちょっと大きい今の自分が普通の大きさの人に見つけてもらうにはどうしたらいいのだろう?
それにしても疲れた、と亘はその場に座り込んだ。刃物男から走って逃げて、意識を失ったかと思ったら自分の腰くらいの高さの巨大アリにたかられるなんて。気がついた時には体がとんでもなっく小さくなってるし。
一体、自分は今どれくらいの大きさなんだろうか、と亘は思った。それに、どうしてこんなに小さくなってしまったのか。
まずは助けを呼ぶためにも今の自分の大きさを知りたいと思い、立ち上がり辺りを見回した。
芝の葉の高さは、亘の身長とちょうど同じくらい。身長171cmの亘は芝生にすっぽり隠れるくらいの大きさになっていた。他に身の丈を測れるような物は見当たらない。遥か遠くにベンチがあるがそこまでいく気は起こらなかった。
大体の自分の大きさがなんとなくわかってきたからだ。
アリの種類はわからないがアリよりは大きくて、芝生並みの大きさだということが。
それとどうしてこんな大きさになってしまったのだろうか? それに着ていた服はどこへ行ったんだ、と亘は不思議に思った。
もし体だけ小さくなったのなら、服は元の大きさのまま倒れていた辺りに落ちているだろう、と思って見回してもそれらしいものは見当たらない。
しばらく、亘は全裸で風を受けていた。まだ太陽の位置は高い。腕時計をする習慣のない亘にはズボンのポケットの中にあるスマートフォンが外出先で時間を知る方法なのだけれども、全裸の今は無理だった。
確か家を出たのが、午前9時過ぎくらいだったはずだ。それから高層マンションを目指して徘徊してたのが1時間ほどだろうか。
亘はおおよその今までの出来事と、太陽の位置から大体午後0時くらいだろう、と判断した。体調不良からくる食欲不振のため、腹がやや空いた感覚はあるものの、昼食を食べたいとは思わなかった。
亘は腰を下ろして、ため息をついた。これからどうしたらいいんだろうか。家まで元の大きさだったら徒歩で15分くらいだろうか。だけれども、今は家までどれくらいの時間がかかるか想像もつかない。それにどうやって家に入る? 家に入って何をしたらいい?
体で受ける風はとても熱いのだけど妙に心地よい。ここのところエアコンの効いた部屋にずっといたからかもしれないな、と亘は思った。
そういえば、包丁男はどうしたんだろう、となんとなく考えていた時だった。
背後の芝からガサガサと葉ずれの音がする。
またアリでも来たのか、と振り返り音を出さないように注意しつつ身構えた。徐々に近づく葉が擦れる物音。風のせいじゃなく、何かが近づいている刃物男かと亘は思い、中腰になった。
何かの物音が亘のすぐ前に来たところでピタリと止まった。
「フリーズ!」
そう言った声は女性のものだった。人間の声だ、と亘は嬉しくなり自分を見つけてくれた声の主にすぐ会いたいと、芝の波をかき分け歩み寄ろうと足を踏み出した。
その時、踏み出した足のすぐ先に、矢が飛んで来て地面に刺さった。
えっ、と亘の口から驚きの声が出た。亘は目を大きく見開き、矢を手に取ろうと屈みこもうとする。
「動くなって言ってるでしょう!」という声と共に矢がまた足元に突き刺さる。
亘は事態が飲み込めずにいた。人間の女性の声だと思ったのは先入観で、実はまた何かに襲われそうになっているのか、という思いが亘の頭に浮かんだ。
逃げなきゃまずい! 亘は声とは反対の方向へ走り出した。
「こら!待ちなさーい!」
背後からの声を無視して走り出した矢先に、亘は足がもつれ込んでその場に転倒した。
「世話をかけさせないでよ、まったく。」
声の主が姿を現し、亘を見下ろす。左手の弓には矢がつがえてある。
腰を地面について、両手で後ろ手に体を支える姿勢をとってなんとか擦りむいた膝の痛みに耐えようとしている亘の耳に悲鳴が響いた。
「な、なんであんた裸なのよ! ちょっとあっち向きなさい、向けっての!」
亘は自分が何も身に纏っていないのを思い出して恥ずかしくなり、反射的に手で隠し弁明する。
「いや、これはあのその、気がついたら裸で倒れてて、それで服がどっか行っちゃって、だから別にその痴漢とかじゃ……。」
「裸で倒れてた? それじゃ、ここへ来たばかりなの?」
すぐに亘の置かれた状況を理解してくれたのはありがたかったが、どうしてすぐに判ったのだろうか。
弓から矢を外して女性は言った。
「ようこそ、小さく大きな森へ! と、その前にその格好をどうにかしてもらわないと……。」
亘は女性の言う通りに、芝の葉を適度な大きさにちぎり腰にとりあえず巻きつけた。風呂上がりにバスタオルを巻きつけているようだな、とちょっとゴワつく芝の葉の腰巻をしっかり外れないようにと確認した。
そして亘は訊きたいことが沢山あることを思い出し、口を開こうと女性に向き直った。
「無駄よ、あなたが訊きたいことは私たちも何にも知らないもん。」
「……えーっと、でも服だって着てるし、弓矢まで持ってるから‥‥。」
「これは私も教わったの。作り方をね。あとは全部手作り。」
「この公園にずっといるんですか? その、ちっちゃくなったままで……。」
「そうね、みんな気がついたら小さくなってここに居た。私はこの夏で1年目。古い人はもういつからいるのかわからないって。」
そう言って彼女は笑い出した。そして目には涙が溢れていた。
亘はどうしていいのかわからなくなった。この涙はきっと笑いすぎてじゃない。悲しいのだ。次の言葉が見つからない亘は女性から目を外して適当な言葉を探していた。
「そういえば、みんないるって言ってましたよね。そんなに沢山小さくなった人がいるんですか?」
亘が聞くと、女性は涙を手で拭って答えた。
「……そんなに沢山じゃないみたい。私たちにもどれくらいの人がこの森にいるのかわからないの。あ、私たちはここを森って呼んでる。公園、って感じじゃもうないから、私たちの視線で見てると。」
亘は改めて女性の姿を見つめた。身長は亘よりも小さく、顔立ちにまだあどけなさが残っているような気がした。10代後半くらいだろうか、凛とした顔つきに優しげな大きな瞳が印象的だなと思った。
ポニーテールの髪がかなり長く、頭を振るたびに揺れる。子供っぽさが残る肢体だが、茶色の2ピースの着物は柔なか素材でできているようで、ちょっと涼しそうだ。その着衣から伸びる手足はやや浅黒く日焼けしていて健康的な印象を亘は受けた。
「いつまでもこんなところにいると熱中症になっちゃうよ。早く行きましょう!」
強い口調で女性は言った、そしてこう付け加えた。
「私は、三枝夕。あなたは?」
聞かれて亘は名乗った。すると亘のお腹が鳴った。
「お腹空いてるの? じゃあ、取り敢えず今日は、私たちの村にいらっしゃいよ。この森の事で聞きたいことがあったら、他の人に聞いた方がよく知ってるよ。ちょっと歩くけど、行きましょう!」
ちょっとどころじゃなかった、と亘は棒になった足を引きずり引きずり三枝夕についていくのがやっとだった。彼女は健脚だ。それにひきかえ、運動音痴でおまけに運動不足の俺には厳しい、悲鳴をあげそうだった。
しかも、亘は裸足だった。彼女は何かの草で編み上げた草履のようなものを履いているから、わからないのかもしれないが、夏の強い日差しに照りつけられた地面はものすごく熱い。
「ちょっと、待ってくれ。少し休まないか。」
年下のそれもまだ10代に見える女の子に泣き言を言うのは躊躇われたが、亘は無言で前をどんどん歩く夕についに根をあげた。
すると、彼女は歩みを止めた。やっと休めるのか、と亘は安堵しその場でしゃがみこんだ。夕もその場でしゃがみこむ。
「いつもこんなに歩いているのか?」
亘が息切れしながらやっとの思いで声をかけると、夕は亘の方へ振り向き口に指を当て「シー!」と強い口調で言った。
急に辺りを大きな影が横切り、空気を叩くような大きな柔らかい音が辺りに響き渡った。
その影はかなり離れた前方に着地すると、鋭く大きなチッチッと言う声を出した。巨大なスズメが降り立った。
「迂回しましょう。」
「スズメ……危険なのか?」
「彼らは雑食性なの。虫でも種でもなんでも食べるの。—私たちみたいな小さな人もね。」
亘は恐怖で言葉が出なかった。スズメに食われて死にたくはない、つい自分がついばまれ丸呑みされる姿を想像してしまった。
夕がじりじりと後退し、亘のところまでやってくると、ゴクリと喉を鳴らした。
「きっと美味しい種があるんだ。いいなぁ……。」
「美味しい種だって? そんなこと言ってる場合なのか?」
「だってしょうがないじゃない、私だってお腹減ってるんだから。」
そう言うと夕が何かを閃いたような目で亘に向かって小声で囁く。
「ちょっと危険だけど、試してみていい? もし失敗してもまだ走れるよね?」
いたずらっぽく夕は笑いながら、弓に矢をつがえ、力強く引いた。矢はスズメのいる方を向いている。
「おい、そんな小さな矢でスズメをどうにかできるのか?」
亘が焦りながら聞くと、夕はウインクをして矢を放った。
スズメの鋭い鳴き声と同時に羽音が辺りを満たした。亘は恐れのあまり後ずさりする。だが、夕はスズメの様子を伺っている。
「まずい、走って!」
夕はそう言うと2人が来た方向へ走り出した。
亘は、わからないまま夕の後を追って走り出すと、後ろから鋭い鳴き声が追って来た。
「失敗しちゃった!」
と笑いながら亘の前方を走る夕を、なんて危険なやつなんだ、夕に見つけてもらって失敗した、と亘は泣き出しそうになりながら、スズメから全力で走って逃げ続けた。