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小さな森の大きなユートピア〜或いはディストピアか?  作者: 清水 蒼
第1章 冒険の始まりは公園?
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小さな世界・大きな世界

第1章

「どうしてどこもかしこもオートロックなんだ。」


 高層マンションの入り口の前で、ふらふらと力なくしゃがみこんだ。盛夏の太陽の下、マンションの入り口に住人の出入りはない。膝を折った足元にアリが歩いている。


「アリでさえ真っ当に働いているのに、俺ときたら……。自ら命を絶つことさえできやしねーんだから。」と弱々しく女々しい泣き言が口から自然と出た。額から汗がだらだらと流れ落ちるのを手で拭った。


 そこへ自転車のブレーキの音が背後で響いた。

「君、こんなところで何しているの? ここの住人さん?」

 伏せていた頭を上げると、自転車に乗った警察官が不審げな眼差しで訊いてきた。

「あ、いや……。ちょっとそこのコンビニまで……。」

 おどおどしちゃいけない、と思いつつもつい目が泳いでしまう。身投げしようと思い、高いマンションを探して歩いてました、なんて言えるはずがない。


「どこに住んでるの? 身分証見せてもらえる?」

 警察官が自転車から降りた。じっくり話を訊くつもりのようだ。全てを話してしまいたい、泣きつきたい衝動にかられもしたが、警察官に話したところでこの苦しみから解放されるわけもない、と思い直し警察官に見えるように立ち上がり、おずおずと財布から免許証を出した。

 

 警察官は免許証を見ながら、

水谷亘みずたにわたるさんね、お仕事は? 今日は何をしてらっしゃるの?」

「会社員です……。」

 亘は嘘はついてない、と思いながらも後ろめたい気持ちになる。それを察したのか警察官は畳み掛けるように質問責めにしてくる。


「今日はお仕事は? お休み?」

 警察官の目つきが段々と険しくなってきているという強迫観念に囚われた。


「……今は休んでます。」


 これだけを口にするのがやっとだった。何かを察したのか、警察官の表情がやや緩み、ため息をついた。


「最近は、どの会社も忙しいようですからな。人手不足だって言っては、残業やら休日出勤やら……。私たちこうやって巡回してるんですが、夜中も日付が変わる頃に帰宅している若い女性なんかもよく見かけるようになりましてね。」


 警察官はまたため息をついて、入道雲が昇っている空を見つめて独り言のように言った。

「私の息子もね、体壊しちまって休んでるんですわ。」


 亘は、えっ、思わず口についた。心を見透かされた気持ちになり、顔が熱くなった。


 全てを知られている、飛び降りられそうな高層のマンションを何軒も廻ったこと、会社での酷い仕打ちと過重労働をせざるを得ない状況だったこと、全て見透かされた気がして逃げ出したくなった。


「バカなことは考えなさんなよ。やけになっちゃいけない。何かあったら、ショッピングセンターの交番、わかる? そこまでいらっしゃい。」


 そういうと警察官は、何かを思い出したような目つきで自転車の後ろの大きな弁当箱のような箱を開けて、1枚の紙を取り出し亘に手渡した。

 そこには、この男を探しています! と書かれている。その下には、顔写真と防犯カメラの映像と思しき、ややぼやけた全身が映った写真が載せられている。さらにその下には名前が記されていた。


「この男を探してるんだけどね、ご協力をお願いしますよ。似てる人知ってる?」


 亘は首を横に振った。見たことがない顔だし、最近は具合が悪くテレビもネットも見ていないから情報には疎かった。


「……何かあったんですか?」


 亘は僅かな好奇心から聞いていた。

「新聞もニュースも観てないか……。隣の町でね殺人事件が起きてね、その参考人なんだよ。」 


 殺人事件の参考人、犯人なんだろうか、それとも犯行の鍵を握る人物なのだろう。興味はわかなかったが、視線はその紙になぜか吸いつけられた。


「ほんと、何かあったらいつでも交番に来なさいね。くれぐれもバカなこと考えちゃ駄目だよ。」


 そういうと、警察官は自転車に跨り、ゆっくりとペダルに足を掛けると、ご協力ありがとう、と言いペダルを漕いで走っていく。

 亘はいつ間にか緊張していたことを自覚し、強張っていた体を脱力させた。


「殺人事件か。いっそ俺を襲ってくれないか。」


 亘は本音を呟いて、重く感じる体で、今日はもう死ぬのは辞めだと家路に付いた。


 亘は重い足取りで、だるさを感じる体をやっとの思いで引きずって歩いた。警察官から職務質問を受けた高層マンションの前から10分ほどで緑の多い公園に差し掛かった。


 仕事に追われる日々を過ごしていた亘は、この公園に入るのは初めてだった。

 強い日差しを避けるのに丁度いい木陰が多い公園だな、と吹き出る汗を手で拭いながら辺りを見回した。公園の入り口から反対側の出入り口は見当たらない。結構な広さの公園だ、と思いゆっくりと歩いていく。

 

 木陰を抜けると、濁ってはいるけれども涼しげな大きな池が目に入った。ハスの花が咲いている。--綺麗だ、と心を動かされることはなかった。

 

 亘は無感動になっていることに改めて気付かされた。美しい花を観ても動きを止めた自分の心。そのことを悲しいとも寂しいとも思わなかった。我ながら重症だな、と自分に毒づく。

 

 ぼんやりした感覚の中、公園を横切っていると背後から人の足音が聞こえてきた。走っている数人の足音。

 どこか遠くから、人の叫び声も聞こえてきた。背後を面倒臭い思いで振り返ると、1人の男が2人の警察官に追われている。

 

 亘は驚いて思わず声を挙げた。追ってくる男の手には、鋭く光る包丁が握られ、男はそれを振り回しながら、亘の方へ走ってきた。

 

 殺される、意図せず変な悲鳴が口からほとばしる。亘は慌てて走り出した。

 

 さっきまで死にたいと思っていたのに、今は恐怖が体中を支配していた。死にたいけど、こんなに急に、こんな形で殺されたくない、と必死に走った。

 

 だが、包丁を持った男の足音はどんどん近づいてくる。亘は自分の運動音痴と、体調を崩してからの自堕落な生活を呪った。そういえば、運動会、いつもビリだったな……。これが走馬灯ってやつか。

 

 亘は鼻に違和感を感じた。何か強烈な香りが鼻に纏わりつく。それがオレンジの香りだと気づくのにちょっとの間があった。強烈な香りはなかなか抜けない。

 

 亘が走っている粉砕石の砂利道は多少曲がっていたようで、気がつけば公園に隣接する何か工場の建物のような場所の隣を走っていた。オレンジの強い香りはこの辺りから漂っているようだった。

 

 くそ、匂いが酷いし、あいつはまだ追いかけてきてる、と首だけで振り向くと男は間近に迫ってきている。顔がはっきりと見える。こんな男に知り合いはいないぞ、おい、警察官どうしたんだよ、こいつめちゃくちゃ足早いじゃねーか、クソクソ、これで最後か。


 亘は腹の底で毒付けるだけ毒付いた。徐々に目の前が暗くなった。暗闇の中に倒れこむ感覚。亘は俺はもう死ぬのか、と徐々に力が入らなくなってきた体で走り続けようとしたが、芯から力が抜けてふわりと体が浮くような感覚に身を委ね、走るのを諦めた。


 亘が目を開くと、そこは天国でも地獄でもなかった。

 

 夏の草いきれを鼻で感じ、身体中には強い日差しが照りつけている。先ほどまでとさほど違いを感じなかったが違和感があった。


 草むらの中で倒れ込んでいる。包丁男に刺されて死んだんじゃないのか、それとも刺されてどこかに傷があるんじゃないのか、と体を起こして気づいた。

 

 全裸だった。

 

 はっ、と亘は思い返した。そういえば警察官が追いかけてきていた。このままじゃ猥褻物なんとか罪で即逮捕されるんじゃないか、と慌てたが、よくよく考えるとその前には包丁を持った男がいたはずだと恐怖が蘇り身体中に冷気が走った。

 

 だが、辺りを見回しても人の姿はない。何か変だ、記憶が跳んでいるのだろうか、とも思った。

 いや、いよいよ俺の体調不良が幻覚を見せるようになったのか、と深いため息をついた。


 ガサガサと草むらを揺らす音が聞こえてくる。包丁男が追ってきた、と逃げる体勢を取ろうと膝立ちになった。

 

 亘は我が目を疑った。いや、本当に幻覚が見えるようになったんだ、と思った。

 

 草むらの中、膝立ちで屈み込んだ目の前を、亘の視線の高さと同じくらいの大きさのアリが次から次へと走っていくのが見えた。

 

 幻覚か……。ついに俺の精神はここまで追い詰められたのか。そういえば、アルコール中毒の症状だとピンクの象の行列が見えると聞いたことがあったな、俺の場合はアリの行列か、と亘は泣きたい気分になった。

 

 すると、アリの1匹が亘に気づいて、頭を持ち上げ顎を大きく開いて亘に噛み付いた。反射的に亘は右手を揚げ、頭を守ろうとした。

 

 右手に激痛が走る。アリが右手に噛み付いている。そして痛みを感じる。幻覚で痛みを感じるものか、いやこの激痛は確かに俺の痛みだ。

 

 亘は無性に腹が立って、全裸のまま立ち上がり、右手を食いつくアリから力づくで振りほどいて、腰の高さほどにあるアリの頭に右腕で殴りかかった。アリはあっけないほど軽く吹き飛んで、倒れた。

 

 アリ1匹を吹き飛ばすと、他のアリたちも亘に気がついたのか、次々と群がってくる。また噛まれてたまるか、と先ほどの一発のパンチでアリを吹き飛ばせた喜びから気力が沸き立った。


 アリの群れを追い払うのに多少時間がかかった。亘はアリが突然大きくなったことに驚くものの、幻覚じゃないことに安堵した。この右腕はいつまでもヒリヒリと痛むのが証拠だ。


 だが、どうしてこんな大きなアリが日本国内にいるんだ、と驚きよりも不思議な感覚に襲われた。

 

 それから、亘は辺りを見回し、ことの重大さに気がついた。


 公園の街灯がとてつもなく巨大化している。街灯だけじゃない、草むらと思っていたのは大きな芝生だし、やや遠くに見えるベンチも石畳もモダンなデザインの石灯籠も目につくものは全て大きくなっていた。

 

 いや、違う、俺は小さくなったんだ。


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