プロローグ
もうどれ程の年月が流れたのか。
頭上から照りつける太陽を仰ぎ見て、栗木は額の汗を手の甲で拭った。
栗の樹の下で見つけられたから、栗木。安直な名前の付け方だと思うものの寄る辺もなく、また全裸だった自分に服と名前を与えてくれた老人には感謝している。
栗木には記憶がまるでなかった。自分の名前やどこに住んでいたのかさえ、真っ白なモヤの中に覆われている。もっとも、どこに住んでいたか、わかったところで帰るすべもないのだが、と苦笑した。
栗木は背の高さの2倍ほどの芝の林をかき分け、次の馬になりな獲物を探していた。そうこうして半日ほど経っただろうか、とすっかり短くなった自分の影を見る。程よい大きさで気性の大人しそうな獲物はなかなか見つからなかったし、かといってフェロモン袋を持って、巣のそばまで行くのは危険すぎると栗木は判断して、芝の影に隠れて寄ってくる獲物をじっと待っていた。
陽がわずかに動き、栗木の影が少し伸び始めた頃、餌団子を咥えた1匹のアリが現れた。
背丈は栗木の頭ほど、体の大きさはおおよそ栗木が横になった3倍にはなる。
アリの通り道、フェロモンの跡をたどって歩くアリが道を外れたようだった。疲れているのか動きがやや鈍い。
アリの足取りが重いのを見抜き、獲物と定めた栗木は、即座にアリの頭の前に飛び出した。
肩に背負っていた縄のついたフェロモン袋を片手で持ち、まずは地面にこすりつける。するとアリは触角で栗木がこすりつけた辺りをなぞろうと頭を下げた。
その瞬間、栗木は草の繊維を編み込み先が輪となっている縄をアリの片方の顎に引っ掛け、強く引っ張る。アリは抵抗し、頭で綱を引っ張った。
だが、栗木の力は強くアリの頭は栗木の目の前に無理やり向けられた。
もう1本の縄で反対側の顎にも引っ掛けると、栗木はアリの腹の方へ両方の縄を持って走り出した。
アリの足の1本に飛びついてしがみつくと、スルスルと頭の後ろにある背に腹ばいになった。両方の綱を片手に束ねて強く引っ張り、アリの頭が上がったところへ、フェロモン袋の縄を強く握りしめ、袋の部分を頭の前へと投げるとアリは袋の中を確かめるように触角をゆっくりと動かしてた。
栗木はアリの背に乗り、フェロモン袋を巧みに使って思うように乗りこなせることを確認しながら、アリを捕まえるのが上手くなったものだと、やや自嘲気味に小さく息をついた。
それにしても、自分が何者で何をしていたのか、それに自分が他の人間たちと違い、どうしてこんなにも小さくなってしまったのかという思いで顔がこわばっているのを自覚し、頬を緩めるために口笛を1つ吹いた。