【三九《悲痛の対価》】:一
【悲痛の対価】
タクシーの後部座席に座り、俺は前の座席の背中を見詰めていた。隣では俯いてすすり泣く婆ちゃんが座り、助手席には爺ちゃんが座っている。
母親が逮捕された。
それを爺ちゃんの口から聞いて、俺は状況が飲み込めず今もまだ戸惑っている。
泣いている爺ちゃんと婆ちゃんに励ましの声を掛けることはおろか、虚栄を張って爺ちゃんと婆ちゃんに動揺を見せない、なんてことも出来ない。そんな余裕が無いほど戸惑っていた。
俺の親は、俺が物心付く前に爺ちゃんと婆ちゃんに俺を押し付けて姿を消した。有り体に言えば、俺は親から捨てられたのだ。
顔どころか面影さえも覚えていないくらい、俺には親の記憶がない。
だから今更、誰かが俺の親ですと名乗り出てきても、その人が俺の本当の親なのか確かめる術は俺には無い。
俺の中で、その程度の存在である親が、母親が見付かった。でも、ただ見付かったというわけではない。警察に逮捕されたのだ。
警察に逮捕されたということは、俺の母親は逮捕されるようなことをしたということになる。
母親が何をして警察に捕まったのかは聞いていない。それを聞く余裕も無く、俺と爺ちゃんと婆ちゃんの三人は警察署に向かっている。
田丸先輩は家で留守番をしてくれている。でも、それで良かったと思う。
こんな重い雰囲気の中に居るのは辛い。俺だって、こんな雰囲気で居たくはない。でも、俺にとって母親ということは、爺ちゃんと婆ちゃんにとっては娘だ。
その娘が警察に逮捕されたのだから、落ち込まない方がおかしい。
何か、爺ちゃんと婆ちゃんを励ます言葉を掛けなければいけない。でも、こんな時になんと言えばいいのかなんて分からない。それに、やっぱりそんな余裕は無かった。
タクシーがゆっくりスピードを落として見慣れない建物に近付いて行く。建物正面の大きな玄関の上にあるひさしに『警察署』という文字と、警察のシンボルマークである旭日章が見える。どうやら、もう目的地に着いたらしい。
まだ、心の整理は付いていない。今から実の母親と会うことになるということと、その母親が何か罪を犯して逮捕されたということ。その二つはどっちも、たった数一〇分で整理出来る出来事じゃない。
タクシーが警察署の玄関前で停まり、爺ちゃんが運転手に料金を払うのを見てから下車する。警察署の玄関に視線を向けると、背広を着た男性が二人立っていた。
「多野署長」
「元だろう。その呼び方は止めてくれ」
「す、すみません」
背広を着た男性の一人が爺ちゃんに頭を下げてそう話し掛ける。それに、爺ちゃんは落ち着いた声を返した。
爺ちゃんは警察OBだ。だから、もしかしたらこの人達は爺ちゃんの元部下だった人達なのかもしれない。
「娘が迷惑を掛けた。それに休みの日に無理を言って済まなかった」
「いえ、私は問題ありません。こちらへ」
俺はその爺ちゃんと男性の会話を聞いて察した。土日祝日は警察のような行政機関は休日だ。だから、本来なら日曜の今日は警察署も閉まっている。
でも、それでも面会が出来るというのは、爺ちゃんが無理を言ってお願いしたのかもしれない。
警察署の玄関から中に入ると、人気の少ない廊下を抜けて歩いていると、頭上の吊り下げ式のプレートに『留置管理課』という文字が見えた。そして『面会室』と書かれたプレートが貼ってあるドアの前に辿り着く。
「中でお待ち下さい」
「済まない」
頭を深々と下げた背広の男性が廊下の奥へ歩いて行く。それを見送った爺ちゃんはドアノブを捻って開けた。
中は、刑事ドラマでよく見る真っ白な空間だった。そして、その空間を真っ二つに区切るように透明なガラスが見える。
ガラスの中央部には会話するために音を通す穴がいくつか空いていて、その正面には三脚のパイプ椅子が置かれていた。
爺ちゃんはその椅子の中央に座り、婆ちゃんは爺ちゃんの右隣にゆっくり腰を下ろした。
「凡人」
「俺はここでいい」
椅子に座るように促した爺ちゃんに、俺はそう言う。椅子の遥か後ろの壁に背中を付けて俺は立つ。あの椅子に座るのが、なんとなく怖かった。
爺ちゃんと婆ちゃんが椅子に座ってしばらくすると、ガラスの向こう側にある真っ白なドアがゆっくりと開く。そして、制服を着た男性警察官の後から、中年の女性が入って来た。
胸元まである金髪は綺麗に手入れが行き届いているようではなく、ガラス越しに見ても痛んでいるように見えるし色だってくすんでいる。警察で用意されたくすんだグレーの服、いわゆる囚人服を着たその女性は、ガラスの向こう側に用意された椅子の上に腰を下ろした。
「……瞳」
椅子に座った女性を見て、婆ちゃんがそう弱々しく口にする。その時初めて、俺は自分の母親の名前を聞いた。
瞳と婆ちゃんに呼ばれた女性は、婆ちゃんと爺ちゃんを見てチラリと俺に目線を合わせた後に視線を横へ向けて椅子の背もたれに寄り掛かった。
「なんで架空請求なんてことをしたッ! お前は自分が何をやったのか分かっているのか! 人様を騙して、人様から金を騙し取るなんて恥ずかしいとは思わないのかッ!」
爺ちゃんが怒鳴り声を上げて勢いよく立ち上がる。その勢いで大きな音を立ててパイプ椅子が倒れ、面会室の中にさっきの背広の男性が飛び込んで来た。
「多野署長! 落ち着いて下さい!」
男性が爺ちゃんの両肩に手を置いて落ち着かせ、パイプ椅子を立てて爺ちゃんを座らせる。あれは、俺がやらなきゃいけないことだ。でも、怒った爺ちゃんの迫力に負けて一歩も動けなかった。
「関係ないでしょ」
「なんだとッ!?」
ガラスの向こう側から聞こえた声に、爺ちゃんはまた立ち上がろうとする。でも、今度は背広の男性に肩を押さえられて踏み留まった。
「話すことは無いわ」
そう言って立ち上がった女性は俺達に背を向けて奥のドアに向かって歩いて行く。しかし、それを婆ちゃんの声が止めた。
「瞳ッ! 私達には何も言わなくていい! でも、せめて凡人には言葉を掛けてあげて! あなたの、あなたの唯一の息子なのよっ!」
婆ちゃんの悲痛な声に立ち止まった女性は振り返り、椅子のすぐ後ろまで戻ってくる。そして、俺に視線を向けた。
その視線は、母親の愛情や優しさなんて感じられない、鋭く……背筋が凍るように冷たい視線だった。
「あんたが生まれたせいで男に捨てられて私の人生は滅茶苦茶になったのよッ! あんたなんか生まれてこなければよかったッ!」
分厚いガラス越しにその怒鳴り声を聞いた瞬間、俺の体からスッと力が抜けて、視界が真っ暗になった。
「凡人ッ!」
目を開いた瞬間、婆ちゃんが俺の名前を叫ぶ。その声を聞いて爺ちゃんが駆け寄ってきて、爺ちゃんはホッと息を吐き、婆ちゃんは隣に崩れ落ちた。
状況は……なんとなく分かる。俺は警察署の面会室で気を失ったのだ。理由は……あの女性の言葉。
『あんたなんか生まれてこなければよかったのよッ!』
その言葉を、その言葉を言った女性の顔を思い出した瞬間、吐き気をもよおして上体を起こす。とっさに、白いサイドボードに置かれた洗面器を手に取って、俺はそこへ向かって吐いた。
「凡人ッ! どうした!?」
洗面器を床に置いて、俺はベッドの上に体を横たえる。洗面器を取った時にナースコールが見えた。だから、ここは病院なんだろう。
「凡人、先生を呼んだからもう少し辛抱しろ」
後ろから、爺ちゃんの励ます声が聞こえる。でも、本当にこの場に凛恋が居なくて良かった。こんな情けない姿を凛恋に見せられるわけがない。
「多野さん、大丈夫ですか?」
後ろから男性の声が聞こえる。爺ちゃんが呼んでくれたお医者さんだろう。
「洗面器の片付けをお願い」
「はい」
男性医師は、起き上がった俺を見た後、ベッドの下に置いた洗面器を見て、一緒に付いてきた看護師に指示を出す。
シャツを捲り上げて聴診器を俺の胸に当てる。そして、目や喉を見られて俺の横で柔らかな笑みを浮かべた。
「特に異常は無いようだね。この点滴が終わったら帰っても大丈夫そうだ」
そりゃあそうだ。俺は精神的ショックで気を失っただけなのだ。何か体が悪くて倒れたわけじゃない。ただ俺の心が弱くて情けなかっただけだ。
俺は男性医師に「ありがとうございました」と声を掛けようとした。だが、口を開いて声を発そうとして、俺は思考が止まる。
視界には、俺に背を向けて病室を出て行こうとしている。男性医師の姿が見える。でも、その今まさに男性医師が病室を出て行こうとするのが見えているのに……声が出なかった。
「多野さん!? どうしました?」
ふと振り返った男性医師が、血相を変えて戻って来る。でも、俺はそれに構わず自分の喉を拳で叩いてむせ返った。
むせ返った時の咳は出る。でも掻きむしっても叩いても、何をやっても声が出ない。
「落ち着いて下さい、多野さん! 精密検査の準備をお願い!」
男性医師が俺の肩を掴んで焦った声で落ち着くように言い、焦った声で看護師さんに指示を出す。
嘘だ……嘘だウソだうそだ。ウソダウソダウソダウソダ、ウソダッ!
声に出せない心の声で何度も何度も嘘だと叫んで現実から逃避する。でも、何度心で叫んでも声は出ず、その受け入れ難い現実は変わらなかった。
失声症。ストレスやトラウマが原因で、喉になんの異常も無いのに声が出せない状態を言う、らしい。
その話を、男性医師から聞かされて以降、俺はそれ以上話をまともに聞くことは出来なかった。
声が出なくなった原因は分かっている。あの女性に、言われた言葉が原因だろう。でも、俺にとってあの人は母親じゃない。ただの中年の女性だ。
今日初めて見た顔の初めて知った名前の女性が、初めて聞いた声で言った言葉でしかなかった。でも、俺はそれのせいで声が出なくなった。
俺は心の何処かで、あの人のことを母親だと思っていたのかもしれない。初めて会う人でも、爺ちゃんと婆ちゃんにあの人が俺の母親だと言われ、二人はあの人を娘として接していた。だから、現実を整理出来なくても、俺は頭では分かっていたのかもしれない。
あの人が自分の母親であると。
その人から、その母親から向けられた明確な拒絶、否定に俺の弱い心が耐えられなかったのだ。
「先生、凡人は良くなるんですよね?」
隣に座る爺ちゃんが、正面に居る男性医師に落ち着いた声で尋ねる。男性医師は、カルテを机の上に置いて、姿勢を正して爺ちゃんの顔を真っ直ぐ見た。
「失声症は、受けたストレスやトラウマに心が対応出来るようになれば声が出るようになります。通常だと、一週間ほど掛かるでしょう」
「そうですか」
爺ちゃんはホッとした表情をして胸を撫で下ろす。しかし、男性医師は真剣な表情のまま話を続けた。
「ただ、ストレスやトラウマが常に掛かっていると症状の改善に時間が掛かります。そうなると半年以上掛かる場合もあります。凡人さんへのストレスには十分注意して下さい」
ストレスには十分注意する。でも、俺は大抵のストレスには慣れている。小学校から今までそれなりのストレスに曝されてきたつもりだ。
だから、男性医師の言った通り、一週間も経てば声も出るようになる。
病室を出ると、すぐに爺ちゃんが待っていた婆ちゃんに近寄って話をする。俺は近くのベンチに腰を下ろし、硬い床に視線を落とす。
爺ちゃんが落ち着いてゆっくり説明してくれているのか、婆ちゃんは動揺した様子は見せずに落ち着いた表情で話を聞いている。
逮捕されたということは、あの人はこれから裁判に掛けられるのだろう。それで罪状や量刑が決まって罪を償うことになる。
あの人が母親だという実感はやっぱり無い。だから、あの人に拒絶されたって、学校の奴らに陰口を叩かれるのと同じ、はずなのに……。
俺を怒鳴り付けたあの人の目は、今まで見たどんな目よりも恐ろしかった。だからなのかもしれない。
母親に拒絶されたということではなく、人に本当に冷たい憎しみを初めて向けられたから、その恐怖で声が出なくなったのかもしれない。いや、多分それが答えだ。
そうじゃないと、母親とも思っていないあの人から言われた言葉で、声が出なくなる理由がない。
でも、これ以上考えたって何も変わらない。だから、今まで通りの生き方で行くしかない。
俺は爺ちゃんの肩を叩いて病院の玄関を指す。これでも、帰ろうという意思は伝わるはずだ。
「そうだな……帰ろう」




