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+-∞  作者: チキンフライ
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【三六《失う不安》】

【失う不安】


『凡人! 凡人ッ!』『お願い凡人ッ! 目を覚ましてッ!』

『嫌だッ! 凡人の側に居るッ!』


 視界は真っ暗、今自分がどうなっているのかも判断出来ない。

 目を開こうとしても開けず、体を動かそうとしても言うことを聞かない。でも、すぐ側で痛々しく俺の名前を呼ぶ凛恋の声は聞こえた。


 そうか……俺は歩道橋の階段から落ちそうになった優愛ちゃんの代わりに落ちたんだ。

 その後どうなったのかは分からないが、無傷だったらこんな、自分の体が自分の言うことを聞かないなんて状況には陥っていないはずだ。だから、多少なりとも怪我をしたのだろう。

 でも、意識があるということは、そんな大した怪我でもなさそうだ。


『凡人……お願い……お願いだから、起きて……』


 凛恋の泣いた声が聞こえる。

 大丈夫だ凛恋。俺はちゃんと生きてるし、意識もある。ただ、上手く体が動かないだけだ。

 そう言ってやれば凛恋を安心させてやれるのだが、手はもちろん口も動かせない。


『凡人……凡人が居なくなったら、私……』


 凛恋は相当なパニックに陥っているのか、縁起でもないことを言う。安心しろ、俺は死なない。

 高一になってやっと大切な友達と大切な彼女が出来たんだ。このまま死ねるわけ無いだろう。

 それに、凛恋を泣かせたまま死ねない。


 暗い視界の中、俺は必死に力を体に入れる。しかし、入れてるつもりだが本当に力が入っているのかよく分からない。

 体の感覚が無い俺は、力を入れ続けることに精神が疲れて諦める。こんなことなら、もう少し精神を鍛えるようなことをしていれば良かった。


『凡人は大丈夫。凡人は絶対に目を覚ましてくれる。……凡人は、絶対に私を一人にしない』


 その凛恋の声が聞こえると同時に、俺の右手に包み込むような温かさを感じる。分かる、これは凛恋の手の温かさだ。


 凛恋と付き合えて、初めて手を繋いだ時から変わらない、優しくて安心出来る温かさ。隣に凛恋が居ることが確かに分かって、絶対に手放したくない温かさ。


「り……こ……」


 やっと喉から出た自分の声が自分の耳に聞こえた瞬間、俺の視界は眩しい白に埋め尽くされた。



 ボヤけた明るい世界を目にした直後、背中に激痛が入る。


「いっ、てぇ……」


 どうやら階段から落ちた時に背中を打ち付けたようで、体を動かすとヒリヒリとした痛みが背中から伝わってきた。

 首を動かして、ぬくもりに包まれる右手を見ると、俺の右手を両手で握った凛恋が見えた。


「お願い……お願い……起きて……」


 凛恋は手におでこを付けて祈るようにそう口にしている。その凛恋を見詰めて俺は声を発した。


「凛恋……もう起きてる」

「…………えっ?」


 俺の声を聞いた凛恋は、抜けた声を発してゆっくりと顔を上げた。ボケッとした顔で俺を見詰める凛恋は、急に顔を歪ませ俺に抱きついて来た。


「凡人ッ!」

「イタッ!」

「ご、ごめんッ! 大丈夫!?」


 凛恋が飛び付いてきた衝撃で、まるで背中に雷でも落とされたような、ビリビリと痺れるような痛みを感じる。

 俺からパッと離れた凛恋は、目から涙を流し唇はキュッと結ばれている。


「…………良かった」


 立ち上がっていた凛恋は、体の力が抜けたのかストンと丸椅子の上に腰を落とす。そして、両手で顔を覆って凛恋が声を押し殺して泣く。

 顔を凛恋に向けたまま、周囲を見渡して部屋に凛恋しか居ないことに気が付いた。

 一緒に帰っていたはずの優愛ちゃんが居ない。


「凛恋、優愛ちゃんは?」


 背中にゾッとした寒気が走る。

 大丈夫、優愛ちゃんは俺と入れ替わって階段の上に残ったはずだから、落ちて怪我はしていない。それに俺が落ちている時に、手を伸ばして俺の名前を優愛ちゃんが叫んだのも覚えている。

 恐る恐る凛恋の顔を見返すと、潤んだ瞳の凛恋が激しく首を振った。


「優愛は大丈夫。凡人のお陰で怪我一つない。お母さんが来てくれて家に連れて帰った」

「そっ、か……良かった~」


 はっきりとした凛恋の言葉を聞いてホッと安心する。

 優愛ちゃんが無事だった。それを聞けて、心に押し寄せた不安が一気に抜ける。


「ほんと……良かった……。凡人が歩道橋の階段から落ちて気を失って、救急車を呼んでる間は隣で優愛が泣いてて……」


 そう話す凛恋は口を歪ませた後、手の甲でゴシゴシと目を擦る。擦った後の凛恋の目は赤くなっていた。


「心配掛けてごめん」

「ううん。凡人は優愛のこと守ってくれたんだから謝らないで」

「凛恋、俺はどれくらい気を失ってた?」

「二時間くらい。でも先生が、怪我も打ち身だけだし、検査をしても脳に異常はないって」

「二時間か……凛恋と優愛ちゃんと飯食う予定だったのに……」

「バカ。ご飯なんてまた一緒に行けば良いじゃん」

「そりゃそうだけど」


 背中の痛み以外は、特に問題は感じない。しいて言えば、目が覚めたばかりで少し頭がボーッとするくらいだ。


「それにしても、爺ちゃんも婆ちゃんも居ないけど、やっぱり放っておけって言われたのか?」

「うん、お爺ちゃんに電話したら。橋から落っこちたくらいなら心配いらない。って言ってた」

「まあ、背中が痛いだけだしな。心配して帰って来るわけ無いだろ」


 どうやら爺ちゃんと婆ちゃんは温泉から帰って来ていないらしい。まあ、爺ちゃん婆ちゃんは孫の怪我くらいで飛んでくるような人達じゃないし、俺も背中を打ったくらいで飛んで来られても恥ずかしい。


「あっ、凡人が起きたらナースコールで知らせてって言われてるの忘れてた」


 少し慌てた様子で、凛恋が俺が寝ているベッドの頭側に設置されたナースコールのスイッチを押す。

 凛恋が動いて起きた風で、凛恋の甘い香りがフワリと漂う。その香りを嗅いだ瞬間、ホッという安堵感が心にストンと落ちる。


 俺は真っ暗な意識の中で、凛恋に名前を呼ばれているのが聞こえていた。あの凛恋の声が聞こえて、俺は必死だった。

 あんなに必死に名前を呼んでくれるのは凛恋だけだ。ちょっとした怪我でも泣いて心配してくれるのは凛恋くらいだ。


「凛恋」

「凡人?」

「ありがとう」


 ナースコールを終えた凛恋の横顔にそう言うと、俺に凛恋が顔を向ける。泣いて目を赤くした凛恋は、ニコッと笑って俺の頬をツンっと指先で突いた。


「うん。凡人もありがとう」



 医者が現れて軽い問診を受けた後、帰っていいと言われて俺はやっと開放された。病院なんて来慣れてないから気疲れした。明日が休みじゃなかったらと考えるとゾッとする。

 診察室から出ると、向かいのベンチに凛恋が座っていて、俺の姿を見て立ち上がった。


「軽い打撲、一週間くらいで治るってさ」

「良かった」


 凛恋は短い言葉を発して目を手の甲で擦る。その凛恋の頭を優しく撫でていると、病院の床を鳴らす足音が聞こえた。

 ツカツカと硬い床を打つその足音に視線を向けると、三人の人影が見えた。


「パパ、ママ!? それに優愛も!」


 凛恋の家に行くとよく会う、穏やかな雰囲気の凛恋と優愛ちゃんの母親。その母親の隣を俯いて歩いている優愛ちゃん。そして、その優愛ちゃんの隣には初めて見る、厳格そうな大人の男性が居た。

 凛恋と優愛ちゃんの父親。それは凛恋の反応で分かった。しかし、俺は背中にサッと寒気が走った。


 いきなり、彼女の父親が目の前に現れた時の感覚は、純粋な恐れだった。

 下手に動けば悪い印象を与えかねない。そんな恐れが俺の体をガチガチに硬くする。

 前もって分かっていれば、どう振る舞うか頭の中でシミュレーションが出来て心の準備が出来たのだが、今回はそんな余裕もない。


 歩いて来た三人のうち凛恋の母親が一歩前に出て、俺に深々と頭を下げた。


「凡人くん、本当にごめんなさい。優愛の不注意で怪我をさせてしまって」

「いや! 優愛ちゃんは人とぶつかって転びそうになっただけで何も悪くありません!」


 あの時に悪い人が居るとしたら、優愛ちゃんにぶつかった人だ。だから、優愛ちゃんが悪いことなんて何一つもない。むしろ、ぶつかられて落ちそうになった優愛ちゃんは被害者だ。


「いいえ、ちゃんと前を向いて階段を上っていたらこんなことにならなかったわ。優愛にはもう二度とこんなことがないように厳しく話をします」

「大丈夫です。俺も大した怪我ではないですし」


 母親の隣でシュンとしている優愛ちゃんの状態から察するに、かなり厳しく話をされた後に見える。この状態から更に、というのを考えると可哀想だ。


「初めまして、凛恋と優愛の父親です」

「は、初めまして! り、凛恋さんとお付き合いさせていただいています。多野凡人と言います! この度は優愛さんを危ない目に遭わせてしまい本当に申し訳ありませんでした! それに私のせいで大事な娘さんをこんな時間まで外出させて本当に申し訳――」


 完全にパニクった俺が深々と頭を下げた状態で矢継ぎ早に話していると、横からコツンと頭を叩かれる。そこにはニヤニヤした凛恋が立っていた。


「お父さんが固まってる」

「へっ?」


 凛恋の指摘に視線を前へ向けると、目を丸くした凛恋の父親が視線を凛恋の母親へ向ける。


「話した通り、真面目な子でしょう? 遊びに行った日は毎日家まで凛恋のことを送ってくれるのよ。それに優愛もよく凡人くんに遊んでもらってるの」


 クスクスと笑う凛恋の母親は、俺に視線を向けてその笑顔をニッコリと変えた。


「この人が仕事から帰って来た時に事情を説明したら、今から謝りに行くって聞かなくて。でも、自分の娘の彼氏に会うなんて初めてだから緊張してたの。だけど、先に謝られちゃったから困ったみたい」


 そう説明を受けて、どう反応していいか分からず、今度は俺の方が困ってしまう。

 俺が反応に困っていると、短い咳払いが聞こえた。


「話は妻から聞いています。多野くん、君には本当に感謝しています。優愛が怪我一つ無かったのは、君が優愛を庇ってくれたからです」

「い、いえ」

「改めて、今回は本当に申し訳ありませんでした。そして、本当にありがとうございます」

「あ、頭を上げてください!」


 彼女の父親に敬語を遣われ、その上に深々と頭を下げられて謝られる。俺が考えつく中でも、かなりインパクトの強い初対面だ。


「優愛」


 父親に優しく背中を押された優愛ちゃんは、少し顔を上げて俺と視線を合わせてすぐに視線を床に落とした。

 いつもの優愛ちゃんは明るくて、目はキラキラと輝いている。でも、今はウルウルと揺らめいているが、少し淀んでいた。


「凡人さん……ごめ――」

「優愛ちゃん、怪我は無かった?」

「えっ? は、はい。凡人さんが引っ張ってくれたから私は」

「じゃあ良かった」

「でも、私がちゃんと前を見てないせいで凡人さんが」

「俺は優愛ちゃんに謝られるようなことされてないよ」

「でも……」

「良いの良いの。もうお父さんとお母さんと話したんでしょ? それで十分。次はもっと自分のことに気を付ければいいんだから」


 この優愛ちゃんの落ち込み様から察するに、結構お父さんとお母さんから怒られたのだろう。

 優愛ちゃんがやったことに、俺に対して危ないことは何も無かった。

 優愛ちゃんを庇って落ちたのは俺の勝手だ。でも、もし俺が代わりに落ちなければ、優愛ちゃんが歩道橋から落ちていた。


 多少怪我したところでどうってことない俺に対して、優愛ちゃんは女の子だ。もし顔に怪我でもしたら大変だった。

 きっとそれを思ったお父さんお母さんに、ちゃんと話をしてもらったんだと思う。その上で俺が怒りでもしたら、もっと優愛ちゃんが落ち込んでしまう。

 やっぱり、優愛ちゃんは泣いているよりも笑っている方がいい。


「また優愛のこと甘やかして」


 腕を組んだ凛恋がジトっとした目を俺に向けた後、柔らかい表情で優愛ちゃんの頭を優しく撫でる。


「凡人、起きてすぐに優愛のことを私に聞いたのよ。真っ青な顔して凄く心配して。それで、優愛が怪我してないって聞いたら本当に安心してた。凡人は優愛のこと、全然怒ってないから大丈夫よ」

「お姉ちゃん……ごめんなさい。私のせいで、お姉ちゃんの大切な凡人さんが怪我をして」

「凡人が全然怒ってないことは私は怒れない。でも、次は気を付けるのよ。凡人が助けてくれなかったら、優愛が大怪我してたところなんだから」

「うん……」


 凛恋が優愛ちゃんを抱き締める。

 凛恋と優愛ちゃんを暖かい空気が包み、側で見ている俺の心も温かくなった。



 病院からの帰り道、俺の腕にガッチリ抱き付いた凛恋を連れながらすっかり暗くなった夜道を歩く。

 秋も半ばになり肌寒さを感じるようになった夜風が軽く吹いて、俺は隣の凛恋に視線を向ける。


 時間も遅いから、俺は凛恋に凛恋のお父さん達と一緒に帰るように言った。でも、凛恋はそれを拒否し、俺と一緒に帰ると言って聞かなかった。車で帰る凛恋のお父さん達と、徒歩で帰る俺を考えれば安全なのは車に決まってる。


 俺としては、暗い夜道を凛恋に歩かせるよりも、凛恋の家族と車で帰ってもらった方が安心出来た。だけど、凛恋が一緒に帰ると聞かなかった。


「凛恋、結局凛恋の家に行くんだから車で帰ればよかったのに」

「だって車は四人乗りだし、私が乗ったら凡人が乗れないじゃん。それに、二人きりになれないし」

「凛恋と二人きりは俺も嬉しいけど、もう暗いから」

「凡人が居れば大丈夫」


 俺のことを信頼してくれているのは嬉しいが、歩道橋から落っこちて気を失う俺がそんなに頼り甲斐があるとは思えない。

 でも、やっぱり嬉しかった。


 薄暗い住宅街の歩道を歩く俺と凛恋は、組んでいた腕をほどき、その手を堅くギュッと握る。そして、凛恋の手は僅かに震えていた。


「凡人……」

「り、こ……?」


 薄暗い住宅街でも特に薄暗くなったブロック塀の脇に立つ電柱の陰で、凛恋が俺をブロック塀に押しやって前からギュッと抱き締めてきた。俺はその凛恋の頭を撫でながら凛恋の様子を窺う。


「本当に、どうしようかと思った。凡人が階段から落ちて救急車を呼んで病院まで付いて行くのに必死で、病院に着いてからは、本当に……本当に……どうすれば良いのか分からなくて」

「凛恋……ごめん」


 凛恋の声は詰まり、途切れ途切れになって、そして震えていた。

 凛恋の頭を撫でていた手を凛恋の背中に回して、そっと凛恋の体を引き寄せる。


「そんなはずないって思ってても、凡人が居なくなっちゃったらって考えちゃって……そう考えると、凄く怖くて悲しくて……」

「大丈夫。俺はここに居るから」


 冷たい夜風に吹かれながら、俺はそう言って凛恋の体を強く抱き締める。俺がちゃんとここに居ることが分かるように強く抱き締める。そして、凛恋がちゃんとそこに居ることを確かめるために、強く抱き締めた。

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