【三一七《信頼の中の一点の曇り》】:二
木ノ実さんに見送られて席を立ち編集部を出てから、自販機で缶コーヒーを買って屋上へ向かう。
今日はいつも以上に頑張った。いや……ムキになってやり過ぎた。
昼に絵里香さんから言われた言葉に俺はムキになっていた。そのムキになった気持ちを全部仕事にぶつけた結果、仕事の進みは早かったが疲れはその分大きい。
「あら、多野も休憩?」
「家基さん、お疲れ様です」
先に屋上へ居た家基さんに挨拶をしてから缶コーヒーを開けて一口飲む。
「多野、この前はごめんなさい。無茶な仕事の振り方して」
「良いですよ。あの時は家基さんもいっぱいいっぱいだったんですし」
「謝るタイミングも遅くなってごめんなさい」
「家基さんは忙しいですし、そういう余裕もないでしょ。それと俺よりも――」
「平池と田畠にもちゃんと謝ったわ。向こうにも生意気言ってすみませんって謝られたけど」
「じゃあ、今日ですっきり手打ちになったんですね」
「そういうこと。今日まで色々気を遣わせて悪かったわ」
家基さんは手に持っていた炭酸ジュースの缶を呷って細長い息を吐く。
「古跡さんと話をして、多野に任せる仕事を今より減らすことにしたわ」
「俺は大丈夫ですよ」
「それが、古跡さんが人事部に怒られたらしいのよ。いくらアルバイトで経験してるからって、新入社員を働かせ過ぎだって。実際、多野の残業時間がヤバいことになってるらしくてさ」
肩をすくめて乾いた笑いを浮かべた家基さんは、深く長いため息を吐いた。
「確かに、平池と田畠が入って来た時は多野の時よりも勤務時間は短かった。まあ、二人の時は二人の出来る仕事が少なかったからってのもあるけど。多野は編集補佐の仕事は出来るし、編集の仕事も一通り知ってる。だから、普通の新入社員とは事情が違った。うちらとしてはめちゃくちゃ仕事が楽で、それに甘えてたのよね」
「編集さん達の仕事を楽にするのが俺の仕事ですから」
缶コーヒーを呷りながら答えると、横から家基さんに二の腕を拳で軽く小突かれた。
「何言ってるのよ。多野の仕事は私達を楽させるためなんかじゃないわ。多野の仕事は、レディーナリーの編集全般を効率化して、編集部の仕事が円滑に進むようにすることよ」
「それって同じじゃないですか?」
「違うわよ。多野が言ってる編集が楽になるのはただの副産物よ。多野が効率化して円滑に進むようにしてくれていることで、私達の仕事も効率化、円滑化して楽になってるだけ。多野は私達編集の小間使いじゃないんだから」
「ありがとうございます」
「すっきりしてない顔ね。仕事に対して何か悩みでもあるの?」
「実は……俺の仕事って意味あるのかなって、俺のやってることは別に俺じゃなくても良いんじゃないかって思うようになって」
「気付いてあげられなくてごめんなさい。多野の場合は特に成長実感がないからそういうことは感じ易いわね」
「成長実感ですか?」
「そう。新入社員は普通、全く仕事が出来ないものよ。それで日々の仕事で少しずつ仕事を覚えて、最初は教えながらしか出来なかった仕事が一人で出来るようになって、一時間掛かっていた仕事が三〇分で出来るようになっていく。そういう自分自身の成長を実感出来ると仕事が楽しくなったり仕事に対するモチベーションが上がったりする。でも、多野の場合は最初から全部出来るから、仕事が出来るようになったって成長実感がない。それなのに毎日泊まり込みで仕事をしていたら肉体的な疲労以上に精神的な疲労が溜まってしまう」
家基さんの言う通り、俺には仕事が出来るようになったという実感はない。アルバイトの時にやってた仕事の延長線上だという認識だった。
「先輩の私達が悪いわ。もっと多野のことを見て声を掛けるべきだった。多野が入社してから――いや、多野がインターンで入って来てから何度多野に助けられたことか分からないわ。もし多野が居なかったらって思うとゾッとする」
缶を持っていない左手で自分の体を抱いてわざとらしく身震いし、家基さんは屋上のフェンス越しに眼下の街を見下ろす。
「多野のインターンが打ち切られた後、うちの編集部は目に見えて仕事に遅れが出た。特に、まだ若手だった平池と田畠は締め切りを落とすことが増えたわ。当たり前だけど、それは多野が平池と田畠の仕事を自然にフォローしてくれてたのが無くなったからよ。それに私が一番思うのは、多野はうちの編集部で随一のアドリブ上手なところよ」
「アドリブ上手?」
俺が聞き返すと、俺に顔を向けた家基さんがニヤッと笑う。
「そこは多野の地頭の良さがあると思うけど、トラブった時の対応と適応が恐ろしく早いわ。それを言わせると、うちの編集部でアドリブに弱いのは帆仮と田畠ね。あの二人は真面目過ぎるのもあるし少し頭が堅いから。多野の凄いところは、特にライターが飛んだ時ね。ライターが飛ぶのは滅多にあることではないけど、真っ先に動いて飛んだライターが担当するはずだった記事の類似記事が書けるライターに連絡とって依頼出来るライターのリストとそのライターが書いた過去記事のサンプルを持って来るまでが早過ぎる。私や古跡さんが指示する前にやってる」
「え? でも、そういうのって編集補佐の仕事じゃ――」
「やっぱり忘れてる。多野がそれをやり始めたのはインターンで来てた時、初めてライターが飛ぶって状況を目の当たりにした時からなのよ。以前に、先輩社員が同じ状況に直面した時の対応を真似た訳じゃない。多野は自分で考えて自分で行動して対処した。しかも、自分だけで突っ走らずにゴーサインをもらえさえすればすぐに動ける準備だけ調えて、ゴーサインを出すか出さないかはきちんと責任が取れる人間に任せる。初めて見たトラブルにマニュアルも事前知識もないまま対応出来る大学生なんて日本に一握りも居ないわ。しかも焦った顔なんて全くせずに、これ必要ですか? ってボケーッとした顔で出して来て」
「ボケーッとした顔って……」
クスクスと思い出し笑いをしている家基さんに目を細めると、より家基さんは笑いを大きくして俺の肩を叩く。
「多野のやってる仕事はめちゃくちゃ意味がある。多野一人居るだけで、どれだけ人的コストが浮いてると思ってるのよ。その辺の新入社員を二、三人連れて来ても多野と同じことなんて出来る訳ないでしょ。それに古跡さんも困ってるのよ。多野の後継者はどうするんだって」
「後継者って、俺まだ入社一年目なんですけど……」
「多野は編集マネージャー第一号だけど、いずれ多野の勤続年数が重なれば部下は出来てくる。その部下達が多野と全く同じことが出来るかと言われたら、古跡さんも私も、他の誰も出来るなんて言えない。今の多野の仕事は多野しか出来ないのよ。それは相当マズい状況よ。多野と同等の人間を見付けるか、多野の仕事を多野以下の能力の人間で出来るように改善か簡略化しないと。ただでさえも出版不況で人員削減なんて言ってる時代だからね。多野みたいに一人で何人もの仕事効率上げられる人員は貴重なのよ」
家基さんに肩をグイグイ揉まれた後、思いっ切り頭をワシャワシャと撫でられた。
「多野の仕事に意味はあるのかとか、多野じゃなくても良いなんて思わないで。私も古跡さんも、編集の全員、多野が居ないと困るんだから。それに読者も毒舌編集のコーナー楽しみにしてるんだし」
「すみません。ありがとうございます」
「んじゃ、休憩が終わったらまた頼むわよ」
「はい」
家基さんがビルの中に戻って行くのを見送り、俺は街を見下ろしてため息を吐く。
家基さんの話を聞いて、俺は家基さんの気持ちも凄く嬉しかったし、家基さんのお陰で仕事に関しては安心出来た。でも、今の俺の心にある問題はそれだけじゃないんだから。
「やっぱり、凛恋に会いたい……」
会ったら聞かなければいけないことがある。
不安が丸っきりないかと言われればそうじゃない。理由はどうあれ、凛恋は家の用事があると言っていた日にショッピングモールに居て男と会ってた。
凛恋がどこでその男と知り合ったのかは分からない。でも、その男に会うために俺へ"嘘を吐いた"ことが俺に不安を残す。
嘘を吐いたということは、相手の男と会ってるのを俺に秘密にしたかったということだ。
凛恋のことは信じている。でも、今の凛恋は記憶を失う前と違い、男性に対する警戒心が薄い。記憶を失う前の方が警戒心が強過ぎたとも言えるが、それでも凛恋は男に対して前よりも好意的に接することが出来る。だからこそ、変な男が近付かないか不安なんだ。
やっぱり離れていて良いことなんて一つもない。ただ寂しくて、ちょっとしたことで――つまらないことで不安を募らせる。
きっと俺は凛恋より心が弱い。凛恋は少し離れていても平気だけど、俺は少し離れただけで途端に寂しくて辛くなる。
付き合い始めの頃より、少しは精神的にマシにはなってると思う。でも、根本的なものは何も変わってない。
凛恋が好きで好きで堪らなくて、好きで好きで堪らないからこそ、寂しくて寂しくて辛くて、些細なことで不安になってしまう。
空になった缶を右手で軽く振って、眼下に見える街から出入り口に視線を向ける。そして、小さく息を吐いてから仕事に戻るために歩き出した。
やっと週の中頃を過ぎて週末が見えてきた木曜。いつも通り週末を空けるために必死に仕事をした。
時計を見るともうすぐ昼休憩の時間が迫っていた。だけど、仕事の量を考えると昼飯を抜いて、その時間を仕事に当てたい。
「多野」
「はい」
休憩時間に仕事を片付けようか考えていると、後ろから古跡さんに声を掛けられる。こうなると、休憩時間に仕事を片付けるなと釘を刺されるに決まってる。
「今日はこれで終わりにしなさい」
「え?」
「午後休を取って金曜も休みなさい。今日まで新入社員の多野を働かせ過ぎたわ。多野が頑張ってくれたお陰で余裕が出来てるの。だから、明日から三日休んでゆっくり八戸さんに会って来なさい」
「古跡さん、ありがとうございます!」
「ほら、早く片付け済ませれば一番早い新幹線に乗れるんじゃない?」
「はい! 本当にありがとうございます!」
古跡さんが自分の席に戻るのを見送って、俺は大慌てで片付けを始める。そして、片付けを済ませるとすぐに椅子から立ち上がる。
「お疲れ様です! お先に失礼します!」
挨拶をしてから編集部を飛び出し、エレベーターのボタンを連打しながら新幹線の時間を調べる。
一番早い新幹線には確実に間に合う。それを確認してホッとしながら、そのまま凛恋へ電話を掛ける。
いきなり帰ることになってしまったが、今週こそは週末を確実に空けてもらっている。でも、今日帰れることになったのはすぐに伝えておきたい。
エレベーターが一階に下りてから、エレベーターの脇に立って凛恋が電話に出るのを待つ。
しばらく待ってはみたが、呼び出し音が繰り返されるだけで凛恋が出る気配はない。
「まあいいか。ちょっとしたサプライズになるし」
スマートフォンをポケットに仕舞い、俺は歩いても確実に間に合うのに本社ビルを出てから走り出す。
やっと凛恋に会える。話さないといけないこと、確かめないといけないことはある。でも何より、凛恋に会えることの嬉しさが俺の心を埋め尽くした。




