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+-∞  作者: チキンフライ
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【二五《甜い一日》】:二

「何かしたかった。でも何も出来ないのが分かってて、それで怖かった。何も出来ないのに何かをして、凡人を傷付けるのが怖かった。それで、距離を置いちゃった……」


 凛恋は遂に涙を流す。俺は堪らず立ち上がり、凛恋の隣に座って肩を抱いて引き寄せた。


「俺も、怖かった。俺が話すと、また凛恋を悲しませるんじゃないかと思って、連絡を取るのを怖がってた。だから、凛恋と同じだ」

「凡人も、怖かった?」

「ああ。俺が家族が居ることが羨ましいって伝えたら、何かズレてしまった気がしたんだ。俺と凛恋が立ってる場所とかこれから進もうとしてる道とか、そういう、一緒に居るために必要な大切なものが、ズレてしまった気がした。そのことで、俺と凛恋の心の距離が離れてしまった気がして、それで俺が何かしたらまた凛恋との距離が離れてしまう気がした。それが怖くて、何も出来なかった」


 凛恋を失う恐怖が襲って来て、俺は堪らず凛恋を真正面から抱き締めた。


「凛恋が切山さんに取られたかと思った」

「誤解させてごめんね。でも、萌夏には悪いけど、切山さんのこと……大嫌い」


 凛恋の言葉には明確な怒りが滲んていた。


「凡人のこと、小さい男って言ったの! 私の大好きな凡人をそんな風に言われたら頭にきてさッ!」

「凛恋とは話が合うって言ってた」

「はあっ? 合うんじゃなくて合わせてやってたのよ。意味分かんない専門用語をニコニコ聞きながら、ヘースゴイデスネーって言ってただけ」

「凛恋が……俺と別れたいって言ってたって」

「…………マジあいつ、最っ低ッ!」


 凛恋が俺を抱き締め返してくれて、凛恋の存在に包み込まれる。


「……凡人は、どう思った?」

「……凛恋が夏祭りの会場で、切山さんと一緒に歩いてるの見て、完全に振られたと思った。俺が何もしなかったせいで、凛恋に振られたと思った。それで切山さんに呼び出されて、凛恋が俺と別れたいって言ってたって聞いて。でも、信じたくなくて、信じられなくて……凛恋から直接言われるまで、俺は別れる気なんてなかった」

「そりゃあそうだよね。私もあの二年と凡人が一緒に居た時、もういっぱいいっぱいで何にも考えられなかったし。でも、凡人は私のことが好きで居てくれたんだ」

「好きに決まってる。凛恋は俺の掛け替えの無い大切な人なんだ」


 もう、そこが我慢の限界だった。



 凛恋をゼロ距離で感じる。

 抱き締める凛恋を他の誰にも見せたくなくて覆い隠し、凛恋を誰にも渡したくなくて強く抱き締めた。

 凛恋の熱を感じながら、俺は凛恋の名前を繰り返す。

 最初は囁くように、でもどんどん気持ちが膨れ上がって、叫ぶように凛恋を呼んでいた。そんな俺に、凛恋も俺を呼んでくれる。

 必死に手繰り寄せるようにしがみつき、何度も俺を呼んでくれた。それがどうしようもなく嬉しくて、狂おしいほど愛おしかった。


 俺が凛恋でいっぱいになるのが分かって、凛恋を俺でいっぱいにしたくて何度も何度も凛恋の名前を叫んだ。


 いつしか呼び合う、求め合う二人の声がピッタリと重なっていた。



 日が傾いた黄昏時。俺は凛恋と手を繋いで、黄昏ても暑さの残る道を歩く。

 でも、地面からの熱気よりも、隣から伝わる温もりの方が強く熱く感じる。


「かぁーずぅっととぉー、おっかいものー。かぁーずぅとわぁー、なぁーにたぁーべたい?」

「何の歌だよ」

「凡人とお買い物と凡人は何食べたいの歌!」


 俺の腕をギュッと抱き締める凛恋は、ニーッと笑ってそんなことを言う。他の奴が言えば、なんて頭の悪そうな歌だ。と思うところだが、凛恋が言うとどうしようもなく可愛かった。


 婆ちゃんに貰ったお金で今日の晩飯を凛恋が作ってくれるらしく、上機嫌な凛恋に隠れて俺もテンションが上がっていた。


 つい数時間前まで、俺は凛恋とのことを不安に思っていた。でも、今は凛恋とピッタリくっ付いて、一緒に買い物をしている。しかも、それが凛恋の手料理の材料を買うためというのだ。

 今までに起きた出来事を並べただけでは、展開が激動的過ぎて、他人が見れば話の繋がりがよく分からないだろう。でも、俺達が分かっていれば、繋がっていればそれでいいと思う。

 間に何があったとか、何を思ったとか、そういうのを互いが知ってさえいればいいと思う。


「でさ、凡人は何が食べたい?」

「え? 凛恋が作ってくれるなら何でも」

「何でもってのが一番困るのよ。お昼は肉だったし、夜は肉以外ね」

「俺は肉でもいいぞ。肉は好きだし」


 俺がそう言うと、凛恋がジトっとした目を俺に向ける。


「ダメよ。ちゃんと栄養のバランスを考えないと。凡人のお婆ちゃんに申し訳ないじゃない。……そうだ!」


 凛恋はポンっと手を叩きニッコリと笑う。どうやら何か思い付いたらしい。


「凛恋は本当に凄いな。俺は料理なんて出来ないから、何を作るか考えるのも無理だ」

「そこは旦那さんも考えな――」


 凛恋がハッとした表情をして顔を赤くし俯く。凛恋が途切れさせた言葉に『旦那さん』という言葉が入っていたことに、俺も何だか気恥ずかしさを感じた。


「えっと……何か、二人並んで夕飯の買い物って、新婚さんみたいだと思ってたらつい……」

「いや、確かにそう考えるよな! 新婚さんみたいだ! うん!」


 深く頷きながら凛恋の話に同意する。

 それにしても、凛恋が結婚したら本当に良い奥さんになると思う。炊事洗濯は出来るし明るいし優しいし、礼儀正しくて真面目で、それでとても可愛い。


「凡人が旦那さんだったら、私は凡人の奥さんね! アナタ? 今日の晩ご飯は何がいい?」

「さっき決まったんじゃなかったのか?」

「あっ……そうだった!」


 クスッと笑う凛恋と一緒に笑い合い、握った手を互いにギュッと強く握る。


 凛恋と歩いて家の近くにあるスーパーマーケットに入ると、買い物カゴを持って隣の凛恋を見る。すると、凛恋が真正面にあった野菜のコーナーへスタスタと歩いて行く。

 そしてニンジン、ホウレンソウ、タマネギを買い物カゴに入れる。料理の知識が無い俺は、その三種の野菜を見ても何を作るのかよく分からない。


「ラッキー! 卵が特売じゃん! お一人様一パック限りだけど、まあ仕方ないか」

「俺の家って、そんなに卵って使ってたっけ?」


 俺と凛恋の、二人分の卵のパックを買い物カゴに入れる凛恋に尋ねる。すると、凛恋はうーんと腕を組んで唸りながら答えた。


「結構、冷蔵庫見る度に卵の減りが早いの。この前お婆ちゃんが、お爺ちゃんは出汁巻き卵が好きだって言ってたからよく作るのかも」

「あー、確かに爺ちゃんは卵よく食べてる気がするな。それにしても、凛恋は俺よりも俺の家の食事情に詳しいな。卵の減り具合とか全く知らなかった」

「お婆ちゃんに色々と教えてもらってるからね。それに凡人のお昼を作る時、冷蔵庫を開けるから」

「俺はコンビニ弁当とかファミレスで十分なんだけどな。凛恋に作ってもらうのは申し訳ないし」

「いいのいいの。凡人に作った料理を食べてもらえるの嬉しいし」


 凛恋と話しながら歩いていると、凛恋は肉のコーナーを通り過ぎて行く。どうやら今日は魚料理らしい。

 鮮魚コーナーに差し掛かると、沢山の魚が並べられていて、俺は上から魚達を覗き込む。

 アジにサバ、鮭。他にはマグロの刺し身やタコ、それから何だか見慣れない字を見付ける。『九絵』と書かれているシールが貼ったパックには、二〇〇グラムで二五〇〇円と書かれている。他に並んでいる魚と比べて、明らかに高い。


「これは何だ?」

「ああ、それクエよ。めちゃくちゃ高い魚なの」

「美味いのか?」

「食べたことは無いけど、そんな高いのはダメよ。いくら一万円貰ったとしても」


 クエと呼ばれる謎魚から離れて再び歩き出すと、いつの間にか鮮魚コーナーも通り過ぎていた。俺は隣を歩く凛恋に後ろを指して尋ねた


「凛恋、肉も魚も通り過ぎたぞ?」


 凛恋は俺の方を見てニッコリ答える。


「今日は肉も魚も使わないから大丈夫よ」

「いや、肉も魚も使わないって、おかずが無いだろ」

「何言ってるのよ。ちゃんとおかずの材料は買ってるじゃん」


 凛恋は俺の持っている買い物カゴを指さす。中に入っているのは、ニンジン、ホウレンソウ、タマネギ、そして卵だけだ。これでどうやっておかずを作る気だろう。


「私に任せなさい!」


 ニッと笑う凛恋は自信たっぷりに、胸を軽く叩いてそう言った。



 家に戻って来て、早速凛恋が台所に立って調理を始める。そして、俺も横に立たされた。


「凡人はー、ニンジンの皮剥きね。ちゃんと水で洗ってピーラーを使って」

「何か家庭科の調理実習みたいだな」


 ニンジンを水で洗ってピーラーを使って皮を剥く。ピーラーの刃がニンジンに食い込みなかなか難しい。

 俺が悪戦苦闘していると、凛恋がニコニコ笑っていた。


「凛恋も笑ってないで手を動かしてくれよ。凛恋がやってくれないと俺は今日晩飯抜きなんだ」

「あーら、これを見てもそう言える?」


 凛恋がそう言いながら手で指す方を見ると、まな板の上に切られたホウレンソウとタマネギがあった。


「なっ! いつの間に!?」

「凡人がニンジンと遊んでる間に」


 ニヤニヤっと笑う凛恋に負けられないと、ニンジンの皮剥きを続けようとした時、横から凛恋の手にピーラーを奪われた。


「見てて、力を入れずに軽くサッサとやるのよ」


 凛恋が手本を見せるようにニンジンの皮剥きをする。手早くニンジンの皮が剥けていく様を見て、俺はポカーンと見詰めていた。


「やっぱり、凛恋は凄いな」

「いつもやってるじゃん。いつもは何見てたのよ」

「えっ!? そ、そりゃあ凛恋が料理してる姿を――」

「嘘吐かない。しょーじきに言ったら怒らないから」


 凛恋にそう言われて、俺は視線を逸らしながら呟く。


「胸とか、太ももとか……」


 そう言うと凛恋はニコニコしながら俺の脇腹に肘打ちをする。


「凡人の変態」

「し、仕方ないだろ!」

「でも嬉しい。今日はあんまり露出無くてごめんね」

「いや! そのワンピースは可愛い! 凄く良いと思う!」

「凡人、こういう可愛い系の方が好き?」

「いつもの感じも好きだけど、時々そういう感じの服を着ると、凄くドキドキする」

「ありがとう。凡人にドキドキしてもらえるなら嬉しい」


 凛恋がニンジンを切ろうとして手を止める。そして包丁を俺に手渡す。


「はい、いちょう切りね」

「了解」


 中学時代にやった家庭科の授業を思い出し、ニンジンを縦半分に切った後、更に縦に切ってそれから横に薄く切っていく。


「なんか、おっかなびっくり切ってる凡人が可愛い」

「からかうなよ」

「ごめんごめん。でも、凡人とまたこうやって話せるようになって良かった。しかも、晩ご飯一緒に作って一緒に食べられるなんて」


 凛恋に隣で見られ緊張しながらニンジンを切り終えると、凛恋はフライパンを取り出してヤカンで沸かしていたお湯を入れ、その中に野菜を入れて火に掛けながら砂糖と麺つゆを入れる。

 途中、味見をしながら味を調えていく凛恋は、卵をボウルに三つ割って溶き、フライパンに入れた。


「凛恋、結局これは何になるんだ?」

「ん? 卵とじ野菜丼よ。簡単だし、野菜も食べられるし、何より美味しいし。優愛が好きなのよ」

「へぇー、優愛ちゃんとも料理するのか」


 俺が何気なくそう呟くと、凛恋はプッと吹き出して首を振る。


「優愛は全然料理出来ないわよ。私の隣で騒いでるだけ。まだ、ニンジンの皮剥きといちょう切りが出来る凡人の方がマシね」

「まあ、これだけ料理の出来る姉が居たら仕方ないかもな」


 優愛ちゃんは年下だし、お姉ちゃん子だから凛恋に甘えているのだろう。

 凛恋は食器棚から深めの平皿を取り出すと、炊飯器からご飯を平皿に盛って、卵とじ野菜を上に載せる。だしの匂いが漂う凛恋特製の卵とじ野菜丼はもの凄く美味しそうだ。


「はい完成!」

「美味そうだな」

「じゃあ、食べよっか」

「ああ」


 俺の部屋に冷茶の入ったコップと箸と一緒に運びテーブルの上に置く。凛恋は向かい側ではなく隣に来るように自分の分を並べた。


「じゃあ、いただきます」

「いただきます」


 俺は挨拶を済ませて箸で卵とじ野菜を切り、ご飯と一緒に口へ運ぶ。甘辛く出汁の利いた卵とじ野菜に思わず唸る。


「めちゃくちゃ美味い!」

「ホント!? やった!」


 隣で凛恋が喜んで黄色い声を上げ、自分も食べて凛恋も唸り声を上げる。


「うーんっ! 上出来上出来!」


 美味しそうに食べる凛恋は嬉しそうに顔を綻ばせている。凛恋が隣でご飯を食べているだけなのに、ただそれだけのことが嬉しい。


 俺は人に興味を持たれるのは面倒くさいと思う。でも、凛恋には興味を持ってもらいたい。俺は他人に興味を持つことはない。でも、凛恋のことは気になって仕方が無い。


 俺のことを好きで居てくれる人が居る。

 それだけでも凄いことなのに、その好きで居てくれる人は俺の好きな人だ。

 それがとてつもなく貴重なことで、本当に幸運なことだというのは分かっている。そして、そんな幸せな思いをさせてくれている凛恋には、ちゃんとお礼を言わなきゃいけない。


 凛恋特製の野菜丼を食べ終わって、凛恋と一緒に食器を洗い、部屋で一緒にテレビを流しながら手を繋いでまったりとする。

 会話はないが沈黙も心地良く、かえってその沈黙が凛恋の存在を大きく強く感じさせてくれていた。しかし、凛恋と一緒に居られる時間には限りがある。

 それを感じて、俺はなかなか言い出せなかった言葉を口にした。


「ありがとう凛恋」

「どういたしまして。凡人のためならお安い御用よ」

「いや、晩飯もだけど、一緒に居てくれてありがとう。俺を好きで居てくれて、ありがとう」

「…………ヤバいって、そういうのいきなり言うのって」


 凛恋が正面から俺を抱き締め、軽くキスをした。すぐに離れた凛恋の顔は泣いていた。


「帰りたくない……」

「凛恋……」


 帰したくない。そう言いたかった。でも、俺にはそんなことは言えない。

 俺にはその言葉に対する責任を取れる資格が何も無いからだ。そんな奴が、安易に口にすれば、凛恋を傷付けるだけだ。


「帰ったら凡人と離れ離れになっちゃう……。分かってるの、そんな深刻に考える距離じゃないって。明日になればまた会える。私は凡人に会ってもいい人だって分かってる。だけど……まだ不安なの」


 凛恋は俺の体をゆっくり押して、敷きっぱなしだった布団の上に押し倒す。そして、凛恋は俺の横に寝転がり俺の胴に手を回して身を寄せる。


「凛恋。昨日、田丸先輩に告白されたんだ。でも、ちゃんと断った」

「…………」


 黙って凛恋は俺の体を強く抱き返した。僅かに震える凛恋の体は硬く強張っている。


「今日言ってないと、多分後々になってからは言い辛くなってたと思う。また間違ったかもしれない、言わなくてもいいことだったのかもしれない。でも凛恋なら、凛恋となら絶対に分かり合えると思ったから」

「…………よかった。あの人に凡人を盗られなくて」


 凛恋の震えた声を聞いて、俺は凛恋とキスをした。そして唇を離すと凛恋がシャツの胸を掴んで引き寄せる。


「凡人が足りない。だからもっと凡人でいっぱいにして。……私も、私で凡人をいっぱいにするから」

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