【一六《失うより》】:三
生徒会と引率の教師達の様子が変だということに気付いたのは、一八時半を過ぎた頃。
俺はハイキングの疲労も大分取れ、ボケッと凛恋が戻ってくるのを待っていた。
「ヤバイな、マジかよ」
そんな男子の声が聞こえてる。そして、決定的な言葉が聞こえた。
「まだ遭難と決まったわけじゃない。警察に連絡するのは待とう。トラブルが起きて大きな問題になるのはマズい」
俺は立ち上がって生徒会と教師が詰めている場所まで歩いて行く。そして、スポーツドリンクが入ったクーラーボックスからペットボトルを六本取り出してリュックサックに詰め込む。
ずっしりと重くなったリュックサックを背負って歩き出すと、後ろから腕を掴まれた。
振り返ると、引率の教師が俺の腕を掴んで引き止めている。
「何してるんだ」
「探しに行きます」
「素人が余計なことをすれば二次遭難に――」
「余計なこと? 大事なこともしない人間が説教しないで下さい」
俺は教師の手を振り払い歩き出す。
この教師は通報しないと言った。
それも帰ってくるという根拠があるわけじゃなく、トラブルになるのを避けるためだ。
そんな奴の話なんて聞いてやる必要はない。
「おい、多野! 待て待て! マジで暗くなってるから危ねえって」
「暗くて危ない所に凛恋をおいておけない!」
止めに来た横谷先輩を手で押し退ける。そして、横谷先輩を押し退けた先には、両手を広げて行く手を遮る田丸先輩の姿があった。
「凡人くん、冷静になって。ここでもし凡人くんに何かあったら八戸さんは――」
「凛恋の気持ちを考えて凛恋を失うくらいなら、俺は凛恋を悲しませて凛恋が無事な方を選びます」
俺は田丸先輩の横を通り過ぎて、早足だった足を走り出させた。
俺が助けに行ったって凛恋を助けられる保証はない。でも、凛恋の無事が分からないのにジッとしてられるわけない。
森の中に入った瞬間、俺はポケットから取り出したホイッスルを吹いた。
凛恋達が遭難したとしたら考えられるのは一つ、ハイキングコースに唯一ある分かれ道の進む方向を間違えたのだ。
高校生の集まりが、ましてや凛恋が道の続いてない方向に歩くわけがない。必ずなにかしらの道を辿っているはず。
ハイキングコースの分かれ道は、一つが少年自然の家に戻る道、もう一つが山を登って山頂に向かう道だ。
でも、山頂に向かう道は完全に上り坂になっているはずだから、途中で不審に思うはずだ。
それで元来た道を戻って正規なコースを歩いていればそれでいい。
あんなに長い道程に感じたハイキングコースもあっという間に分かれ道に着く。
俺はその分かれ道で目一杯息を吸い、思いっきりホイッスルを吹き鳴らした。
森の中に甲高いホイッスルの音色が響く。
その音が終わって、俺は走って切らした息を整えながら、周囲の音に耳を澄ませる。
「――ッ!? 上だ!」
ハッキリと、俺が鳴らしたホイッスルと同じ甲高い音が上から聞こえた。明らかに登山道の方向からだった。
俺は登山道のコースを進みながらホイッスルを吹く。
するとそれに応えるようにホイッスルの音が響く。そして、そのやり取りを何度か繰り返した時、俺はようやく見付けた。
登山道の平らになった場所で固まって座る六人。そのうちの一人が、俺の方に駆け出していた。
「凡人ッ!」
「凛恋ッ!」
俺もホイッスルから口を離して駆け出す。そして、駆け寄って来た凛恋の体を受け止めて抱き締めた。
凛恋は体を小刻みに震えさせ、俺の体を強く抱き締める。
俺はその震えを止めるために、凛恋が無事であるのを確認するために、強く強く抱き締めた。
「上っても上っても全然出口見えなくて、周りはどんどん暗くなって、怖くて心細くて……」
「凛恋、大丈夫だ。大丈夫! 大丈夫だから!」
凛恋の背中を擦り、必死に大丈夫を繰り返す。
大丈夫、大丈夫。ちゃんと見付けた。
大丈夫、施設に帰れる。
大丈夫、大丈夫……凛恋は無事だった。
凛恋と自分を安心させ、俺は他の五人に視線を向ける。
周囲が暗くなって、事態を悪化させないためにその場に留まることを選んだのだろう。
そのおかげか、全員に怪我をした様子はない。
俺はリュックサックからスポーツドリンクのペットボトルを取り出して全員に配る。
「完全に真っ暗になる前に下りる」
そう言って俺は凛恋の様子を改めて確認する。凛恋はずっと俺の手を握り、ずっと俺の側に居てくれる。
「凡人の笛、ちゃんと聞こえた」
「俺も、凛恋の笛の音、ちゃんと聞こえた」
凛恋は、怪我をしている様子はない。でも体を震えさせて怯えている。
班員に居る男子は逸島さんだけ。
唯一の男子だが、刻雨の生徒会長をやっているんだから、もっとしっかり出来なかったのかと思う。
もちろん、それで逸島さんが悪いわけではない。他の班員が悪いわけでもない。でも、凛恋がこんなにも怯えているのだ。
その怒りを何処にぶつければいいのか分からなかった。
正規のコースに戻って森を抜け出た頃にはすっかり日が沈んでいた。
そして、拓けた場所に丁度出た時、制服の警察官や消防士達が駆け寄って来る。
警察官や消防士に囲まれた時、後ろから安堵の声が聞こえる。
「お騒がせしました」
「いえ、大事に至らなくて本当に良かったです」
引率の教師が深々と頭を下げ謝り、警察官が返答している横を抜けて、凛恋の肩を抱いて施設内に入れる。
「凛恋、自然の家に着いた。着替え取ってきてゆっくりお風呂には入れ」
「凡人……」
「ロビーで待ってるから」
側に居てやりたい、でも流石に風呂の中まで付いていくわけにもいかない。だから、それが精一杯だった。
「同じ部屋の人とは仲良くなれたのか?」
「うん」
「そうか。じゃあ、女子と話して夜更かししろ。消灯時間も決まってないし、他校間交流になるだろうしな」
俺はそう言って凛恋の頭を撫でる。明るい雰囲気の作り方なんて分からない。
だから俺は普通に振る舞うしか出来なかった。
野外炊飯で凛恋は当然のように大活躍だった。
俺の隣で料理をしていた凛恋の顔には笑顔があって、それを見て心底安心した。
今頃、凛恋は同じ部屋の女子達と楽しい話をしているだろう。
対する俺は一人、談話室のソファーに腰掛けている。
あの後、警察官に平謝りしていた教師に「勝手な行動を取るな」と怒られて酷い目に遭った。
……でも、凛恋が無事だっただけで、その理不尽な説教も耐えられた。
「多野、こんな所で何してんだ?」
その声が後ろから聞こえて来て振り返ると、手に炭酸ジュースの缶を持った横谷先輩が、夜でも明るいテンションで話し掛けてくる。
「部屋に居ると雰囲気が悪いんで」
「多野は無愛想だしな。もっと笑えば良いと思うぞ」
隣に座り缶を開けた横谷先輩はフゥーっと息を吐く。どうやらここにしばらく居るらしい。
「多野って見た目に似合わず、意外と熱い男だったんだな」
「いえ」
「そう照れるなって」
横谷先輩がニヤッと笑いながら炭酸ジュースを飲む。
そして、俺の前にあるブラックコーヒーの缶を見てまたニヤッと笑った。
「ブラックコーヒーを飲みたいお年頃か?」
「いつもは甘いやつです」
「そうか。……いやー、マジでビックリしたわ。先生に嫌味言って止める先輩二人に構わず行くんだもんな。でも、ああいうのは嫌いじゃない。危ないことをした、とは思うけどな」
「俺は誰にも謝るつもりはありません」
悪いことをしたなんて思ってない。
あの教師の言っていた「二次遭難の危険が」という話も、赤の他人だから言えたことだ。
凛恋の彼氏である俺の立場では、そんな模範解答のような正論なんて関係ない。
重要なのは、凛恋が無事であるかどうかだけだ。
「謝る必要は俺も無いと思うぞ」
「そうですか」
俺はブラックコーヒーを飲んで一息吐く。
もうしばらくここで時間を潰したいのだが、何時まで横谷先輩は居るつもりなのだろう。
「全く、君にはしっかりしてもらわないと。何のための協力関係か分からないね」
「そうは言っても、あいつが助けに行くなんて分かるはずないだろ」
「分からなくても、どうにだって引き止める方法はあるだろう。せっかくもう少しで八戸さんを落とせたのに」
俺は立ち上がって会話の主の元に行こうとした。しかし、腕を思いっ切り掴まれてソファーに引き戻される。
俺は、腕を引っ張った横谷先輩に不満の視線を向ける。たが横谷先輩は黙って首を振った。
「君にも協力しただろう」
「協力? 俺の作ったビラを勝手に変えただろうが」
「彼女のことは余計なことだ。それに私は言ったはずだよ。彼女を貶めるようなことはするなと。彼女はあくまで悲劇のヒロインなんだ。関係ない個人の名前を流布するなんてあり得ない」
「そのせいで全然問題にならなかったじゃないか! 却って田丸はあいつなんかのことを心ぱ――」
「おい、田丸さんがどうしたって?」
俺のことを止めておいて、横谷先輩は自分から飛び出す。
俺も横谷先輩の後に続いてソファーから立ち上がる。
そして視線の先に居た人物を見て目を細める。
一人は刻季の生徒会役員の男子。もう一人は、刻雨高校生徒会会長の逸島さんだった。
「お前、うちの生徒会の奴だな。それと逸島。洗いざらい白状してもらおうか」
横谷先輩が二人に詰め寄ってそう言う。
それに刻季の生徒会役員の方は動揺した表情を浮かべるが、逸島さんは落ち着いているどころかフッと笑みを溢した。
「盗み聞きとは趣味が悪いね」
「お前らみたいな陰湿なことをやってる奴らに言われたくないな。ビラの件、お前らだったのか。それとてめえ、なんでビラの件で田丸さんの名前が出てくるんだ」
生徒会役員の方に視線を向けた横谷先輩の追究に答えたのは、生徒会役員ではなく逸島さんだった。
「彼が好きな女子生徒が、そこの冴えない男子に御執心らしくてね。彼の評判を落としたかったそうだよ。だから文面の校正とビラの印刷をうちで代行してあげたんだ」
逸島さんの方は、取り繕う気はさらさら無いようだ。
「お前等、本当にクズだな。好きな女子が居るなら正々堂々やれよ。裏でコソコソやりやがって。それに八戸さんはもう多野の彼女だろうが、人の幸せぶち壊して何が楽しいんだ」
横谷先輩が吐き捨てるように言う。それに逸島さんはフッとまた笑った。
「幸せ? こんな冴えない、人からいじめられるような男と付き合って、八戸さんが幸せだって? 笑わせないでくれるかな」
逸島さんは俺に視線を向け、口角を吊り上げてニヒルに笑う。その表情に真面目さや爽やかさは微塵もなかった。
「私は八戸さんが入学した時から知ってるんだよ。見た目は私の好みだし、家事全般が出来るのもポイントが高い。ただ、当然彼女は男子に人気が出た。でも、彼女は告白を断っていた。私からの告白を待っていたからね」
「多野、聞く耳持つな。こいつ頭イカれてるわ」
隣に居る横谷先輩が背中を叩く。今回は、痛くはなく少し心強かった。
「それなのにこんな男に騙されて、八戸さんが可哀想じゃないか。だから目を覚ませてあげようと思ってね。今回の研修にも私と一緒に居るために付いて来たんだよ。そこの男は自分のためだと勘違いしているようだけどね」
逸島さんのその言葉に、横谷先輩は「気持ちわりぃ」と声を漏らして顔をしかめる。
「八戸さんは私の気を引くためにお前なんかと付き合ってるんだ。だってそうだろう? 同級生から蔑視の目で見られる底辺の人間と、成績優秀で生徒会長の私。何処をどう比べたら私よりこんな男を好きになるって言うんだ。だから、わざと迷った様に装って、優しく八戸さんを助けるヒーローを演出し、最高の形で八戸さんに告白。と思っていたのに、全くバカ達のせいで台無しだ」
首を振って呆れた表情をする。そしてニヤニヤと不気味な笑みを浮かべる。
「今に見ていろ。八戸さんはすぐに私の物だ。あの形の良さそうな胸も、柔らかそうな太ももも、瑞々しい唇も、彼女を初めて女にするのだって僕のも――」
耐え切れず、俺は足を踏み出して体重を乗せた拳を突き出した。しかし、逸島の頬を狙った拳は空を切った。
バチンッと弾けるような大きな音が聞こえたと思ったら、逸島は硬い床の上に倒れ込んでいた。そして、俺の横には右手を振り抜いた凛恋の姿があった。
「マジで頭にきた! ふざけんな! 死ねッ!」
床に倒れ込む逸島を見下ろして、凛恋は腹の底から吐き出すような怒鳴り声を浴びせる。
「キモイキモイキモイキモイッ! ホンットあり得ないッ! あんた二度と私の視界に入んな! 何が私はあんたのことが好きよ! 今日まであんたの名前さえ知らなかったっての! あんたの告白なんて一ミリたりとも期待してないっての!」
「ガバッ!」
凛恋はスリッパを履いた右足で、追撃の蹴りをお見舞いする。腹にそれを受けた逸島は体をくの字に曲げて両手で腹を押さえて呻いた。
「私は頭のてっぺんから足の先まで凡人の物よ! マジでもう二度と私に関わるな! 死ね! 消えろ!」
今度はスリッパを履いた右足で思いっ切り踏み付ける。
逸島は床を這うように離れ、振り返ることも捨て台詞を吐くこともなく走り去って行った。
「俺はまだこいつに話がある。てめえ来い」
横谷先輩が生徒会役員の腕を引っ張って連れて行く。
それを立ち尽くしてボーッと見ていた俺に、凛恋がドンッと抱きつく。
すぐに凛恋の体が震えているのに気付き、俺は凛恋を強く抱き締めた。
「凡人……怖い……」
「凛恋」
「体中が気持ち悪い。あんな男に気持ち悪い目で見られてたなんて……怖くて気持ち悪くて嫌で……」
凛恋の腰に右手を添え、優しく引き寄せる。そして左手を凛恋の頬に添え、ゆっくり優しく唇を重ねた。
抱き締めることで、唇を重ねることで、凛恋の不安を取り除けるか分からない。でも、凛恋の体を隠したかった。
凛恋の柔らかい唇を俺の唇で覆って隠し、凛恋の体を抱き寄せて大きく柔らかい胸の膨らみを俺の胸で隠す。
腰に添えていた右手を下に伸ばし、柔らかく女性らしい太ももを手のひらで隠すようにする。
「んんっ……凡人、ヤバい……スイッチ入っちゃう」
「ご、ごめん」
凛恋に弱々しく言われ、俺はゆっくり体を離す。でも、凛恋は俺の胴に手を回して抱きつく。
「バカ、離れて良いなんて言ってないし」
「ごめん」
「……真っ暗な森の中でさ、笛の音聞こえて、泣いちゃった。迷って今どこに居るか分からないって、さっきのキモイ奴が先頭に立ってたのに言い出してさ。マジサイアクだった。あいつが凡人だったら絶対そんなことにならないのにって思った。でもさ……笛の音が聞こえてさ、チョーヤバかった。めっちゃ嬉しいし安心したしで、必死に笛吹いて私の居場所を凡人に伝えようとした。それで凡人の姿を見たら涙……我慢出来なかった」
ギュッと抱き締めて、俺の胸に耳を当てる凛恋は、ハアッと吐息を漏らす。
「ホントあり得ない。あいつが生徒会長ってのは知ってたけど、名前なんて知らなかった。だからあいつが言ってたようなことは一つも無いから。私の好きな人は凡人。私の唇も胸も太ももも凡人のもの。それに、私の初めてはちゃんと凡人にあげたから。分かってるでしょ?」
「ああ、ちゃんと信じてる」
「よかった。……凡人が殴る前に私が殴っちゃったね」
凛恋がクスッと笑う。俺は凛恋の背中を撫でながら一緒に笑う。
「殴るどころか蹴って踏み付けてたな」
「だって本当にキモかったんだもん。あれでもまだ足りないくらいよ。彼氏の前だからちょっと遠慮したの」
俺が居なかったら、あとは何をやったのかは気になるところではあるが、凛恋の行動で十分スッキリした。
「凡人」
「ん?」
「明日の帰り、駅の近くにある薬局寄って帰ろ」
「なんでわざわざそんなことを? 別に前もって言わなくても――」
「明日、お爺さんもお婆さんもお出掛して居ないって言ってたでしょ。それに、凡人はまだ心の準備が必要よね?」
凛恋は首を傾げながら、ニヤッと笑った。




