に。
君は彼女に似ている。
見れば見るほど、そう感じた。怖いと思ってしまえるくらいに。背後に伸びる、この死の大地でたった一本だけ、青々とした葉をつけている大樹。ハートの形をした葉っぱと株立ちした幹が特徴的だ。
「この樹が気になるの?」
そっと、指の腹で葉っぱの裏をなぞってみせる。その手つきと声はどこか妖艶だ。
「この樹は、桂の樹よ。あなたがもといたところにも生えているけれど。厳密に言うと、ちょっと違うわ」
彼女と似ているのは事実だけれど、少しだけ違うところはある。
彼女はワンピースが好きだけれど、彼女が好きだったのは白のワンピース。おしとやかで、悪く言えば奥手ともとれる彼女。君はそれとは対照的な、主張の強いビタミンカラーのワンピースで、胸元のボタンをいくつかわざと締めないままで、少しはだけさせている。正直、目のやり場に困る。決まり悪そうにすると、笑う。でも、その笑い方も彼女とは少し違う。彼女は太陽のように、見守り、慈しむように。静かに優しく微笑む。けれど君は、悪戯っぽく、まるでぼくを誘うかのように妖艶な笑みを漏らす。
彼女と似ているけど、少しずつ違う。その事実が、ぼくをさらに混乱させる。
「……、あのコと比較してるの?」
そして、どうして君は彼女のことを知っている。
「正直に言っていいよ。あなたがここに来て、あたしを見つけてくれたことは嬉しいけれど、それは同時に悲しいことなの。とても、悲しいこと」
「どういうことですか」
丁寧語で話すと、やわらかな唇の前に人差し指をあてて、「余計な気をつかわないの」と、こちらをあしらった。ぼくをからかうような仕草をするのも、彼女とは少し違うところだ。
咳払いをする。少し落ち着かない。
「どういうこと?」
「それでいい。――、あなたには叶えたい夢があったでしょう?」
叶えたい夢。どうして君はそんなことを知っているんだ。
「その夢を追いかけるあなたを、あのコは好きだった。でもね、あなたは……、夢を見るだけの存在になってしまった」
分らない。ぼくは記憶をどこかに落としてきたようで、今となっては、自分のことについてさえ、ぼく自身よりも君の方が知っているみたいだ。
でも待ってくれ。いったいぜんたい、君は誰なんだ。
それを問いかける間もなく、君は背伸びをして拳ひとつ分高いぼくの肩に抱き付いた。華奢な肩がはだけた襟元から覗いている。透き通るような白い肌の底から、血色のいい桜色が滲んでいる。この灰色の死の大地には似つかわしくない色だ。
数秒間、ぼくをきつく強く抱きしめて。上目づかいでぼくを見やる。その瞳は、なぜか潤んでいて、ぼくのシャツは君の涙で濡れていた。
ぼくのために泣いてくれたのか。
君にとって、ぼくはそれほど大切な存在なのか。
そう尋ねたかったが、どうしてだか憚られた。いや、混乱に次ぐ混乱で、ぼくはただただ、目の前の君に圧倒されるしかなかった。
「ねぇ、少しだけ歩いてみない? あなたも知りたいでしょ? ここがどんな場所なのか」
ぼくは黙って、静かにこくりと頷いた。
しばらく歩くと、砂と石が転がるだけの殺風景な砂漠が、起伏に富んだ地形を見せていた。それは、かつて河川が流れたような跡だった。その淵に君は腰かけて、脚を危なっかしくぷらぷらとさせる。
「地面に刻まれた涸れた川のようなものは、リルと呼ばれているわ。溶岩の導管で、この灰色の大地がもしかしたら息づいているかも知れないとか、でも……本当のことはよく分からない」
今度は、君は遥か向こうに見える、地面にぼっかと口を開けた穴とそれを縁取るように灰色の土が盛り上がった地形を指さした。
「あれがクレーター。大昔に彗星が落っこちた跡だって。ここにはプレートの動きも、空気も風もないから、大昔からずっと残ったままなの」
リルとクレーター。灰色の地面と眩しい星々の瞬く夜の空。ぼくは、はっとなった。この場所がどこなのか。その答えが分かってしまった。
「もう、分かった? ここは宇宙に浮かぶ月。あなたがいつも夢に見る月。いつか、あなたが行きたかった場所を、あなたは今その足で踏みしめている」
「でもね、――それはね、まやかしなの」
そんなことは、ぼくは分かっていた。今見ているこの世界は、今ぼくがいるこの世界は、まやかしだ。だって、もしそうでなかったら、月面に桂の木は生えないし。君もぼくも、息をして、地に足をつけて平然と歩いていることなんて出来ないはずだ。
「――まやかしが、自分の口から『あたしは、まやかしだ』なんて言うのはとっても辛いの。自分で自分の存在を否定することだから」
「でも大丈夫。今ならきっと、帰れるよ」
ぼくはこの世界が何なのか、今自分がどこにいるのか分かって、帰れるという言葉も聞けて、喜ばないといけなかったんだと思う。でもぼくは、喜べないでいた。夜空に煌めく星々を眩しいと感じるのと同じで、おかしな話だ。
喜ばないぼくに、君は怪訝な顔をして眉間にしわを寄せる。
「ここに来たのなら、船があるはずでしょ? それを動かせれば帰れるはずよ」
君は立ち上がって、俯いてうずくまるぼくの手を乱暴に引っ張った。ぼくは、その場から動きたくなかった。これ以上、真実は知りたくなかった。ぼくを、この世界から帰そうとする君。
でも気付いていたんだろう……?
「ほら、これがあなたが乗ってきたふね……」
この世界から、もとの所へと帰る方法。月浦さんじゃない、ぼくの大切な人のところへ。置いてきた彼女のもとへと帰る方法。
月に行くための、宇宙を泳ぐ船。
「うそ……、そ、そんな……」
君は、かつて船だったものを見つけて、灰色の地面に膝を折り、崩れ落ちた。ぼくはどこかで気づいていた。ぼくには帰る方法はない。
「そう、……じゃあもう、終わりなのね」
膝を折った君は、肩を震わせて灰色の砂を涙で濡らした。すすり泣く声はやがて、諦観に満ちた笑いのようなものに変わった。振り向いて、ぼくの肩を細い腕に似合わない力で羽交い絞めにして、灰色の地面に押し倒した。
君の背後で、ぼくが乗ってきた宇宙船が、壊れて崩れ行く。もとからコックピットがひび割れて、推進力を生み出すためのブースターが欠けていた。でもそんな壊れ方じゃない。まるで砂像がぼろぼろと崩れ落ちるように、ぼくの宇宙船は、跡形もなく消え去って、あとにはこんもりと灰色の砂が盛り上がるのみ。
そうなるころには、ぼくは帰れる方法があったということすら忘れていた。
なんで帰る方法を探していたんだっけ。
どこに帰るんだっけ。
「いいの、あなたは、何も考えないで。あたしに全てを委ねるの」
君ははだけさせていたビタミンカラーのワンピースのボタンをひとつひとつ、手繰り寄せるようにして外していく。君の白く透き通った艶やかな肢体が、ぼくに淡い吐息を吐きかけながら絡みついて来る。艶めかしい体温と感触に、ぼくの身体は包まれた。
「何も考えないで。すべて忘れて。ここは月の裏。世界の死角で、あなたが叶えられなかったすべてが今ここにある。時間がないの。あたしに出来ることは、すべてを忘れさせること。あなたに出来ることは、まやかしのあたしに溺れること」
柔らかな唇が、ぼくの無骨な唇に吸い付いた。
ぼくらは、世界の死角でひとつになった。君の望み通り、何もかも忘れて。君だけに溺れて。君だけを見つめて。
ぼくは君の願いに答えた。なのに、君の頬を伝う涙の河は止まることはなく、ぼくの身体に雨粒を降らせた。
「ねぇ……、忘れられた……?」
ぼくは君のその問いかけに答えられなかった。
本当に忘れていたはずなら、君でさえ彼女の姿じゃないはずなんだ。答えれないでいるぼくを、君は安心したような、嫉妬しているような。よく分らない表情で責め立てる。
「忘れて、あたしだけを見ていて」
「――でも、君は……」
「あたしは、あなたを苦しませないために生まれた、都合のいい存在なの。あたしには、あなたを苦しませないようにする義務がある」
「でもひとつだけ教えて欲しい。……彼女は、ぼくを愛していたか?」
「なんで、あたしなんかに聞くのっ?! そんなことしても、苦しくなるだけじゃないっ!」
君と、月の裏でぼくと交わる。それは、ぼくの叶わなかった夢。彼女と叶えることができなかった夢。そんなものを、こんなときに見るぼくは、意気地なしだった。
「もう時間なんてないのよ!」
君がそう言ってぼくに見せた泣き顔は、よりいっそう、彼女のものと重なって見えた。不甲斐ないぼくは、自分勝手な充足感をそっと噛みしめる。悔やんでも悔やみきれない後悔とともに。
「ほら……、余計なこと考えたから。あなた、泣いているじゃない」
「せめて、あたしをあのコだと思って、最期のときまで、叶えられなかった夢を抱いて――」
君の身体はぼくに覆いかぶさって、そのままふたりできつく抱き合った。互いに涙を流しながら。
君の涙がぼくに触れる度、臆病なぼくは君を介して、いつも一緒にいたけれど、ぼくは彼女のことが分からなかった。どこまでの存在としてぼくのことを思ってくれているのか。意気地なしのぼくは、怖かったんだ。彼女は、ぼくのために泣いてくれるだろうか。
『いかないで』
そのとき、彼女がぼくを引き留める声が脳裏によみがえってきた。その声色から、ぼくは悟った。そんなものは愚問だったと。思わず、唇の間から、ついに言えなかった言葉がこぼれ出る。あろうことか、ぼくはそれを君に向けて言ってしまった。
「朱莉、愛してるよ」
「――バカ。遅すぎるし、言うべき相手も違うじゃないのっ。あなたは、最初からなにもかも間違ってる。あたしは、ただの偶像」
そうか、そうだよな。月浦さんのことを‘君’というのは、おかしいよな。
月浦さんは失意に満ちた涙を流した。その泣き顔は、よりいっそう、朱莉のものと重なって見えた。
「いかないで」
朱莉の声が聞こえた気がした。
でもぼくの口はもう動きそうにない。仰向けになった視界に、落ち葉が飛び込んでくる。月の裏に生えていた桂の枯葉だ。ぼくは、おわりを悟った。
落ち葉は、ふぶきのようにはげしくふりそそいで、ぼくのしかいをうばった。やがて、ぼくのしかいをやみがとじた。すこしずつ、かんかくがうすれていく。
ぼくをくるしませたくない。
そういった、つきうらさん。かのじょがどこにいるのかはわからない。
いや、最初からかのじょは、どこにもいなかったのか。さいしょから、ぼくはこの、だれにも見えない月のうらで、かなわなかった夢をだいて、ひとりぼっちだったんだ。今さらわかっても、おそすぎるのだけれど。
あかり。きみをあいしてい――