いち。
「いかないで」
ここに来る前に、そう言われた。
ぼくを引き留めたのは、朱莉さん。日野朱莉。麦わら帽子とワンピースが好きで。そして、――ぼくの大切なひとだ。
玄関扉、敷居をまたごうとするぼくを、何故か涙ぐんでまで引き留めた。顔はよく見えなかったけれど、声が震えていたからそうだったと思う。
彼女の長く、たおやかな黒髪は、ひまわりの匂いがして。うつむいたぼくの視線の先で揺れていた。
優しくて、明るくて、ぼくのそばでよく歌を歌ってくれた。離れるのは心苦しかったけれど。
もう、ぼくは、呼ばれている気がしたんだ。
「もう、時間なんだ」
ぼくは、唇を噛みしめながら、そう言った。言ったけど、彼女には聞こえていないようだった。
どんな表情をしていたか。結局、彼女の顔を、ぼくは直視できなかった。でもきっと、悲しい顔だ。
それから、随分と経った気がする。今、ぼくの周りを囲むのは、夜の帳だ。星々がきらきらと瞬いている。星の数は、今まで見てきた夜空の中でどれよりも、多く感じた。
「朱莉にも、見せたいなあ」
いつか、彼女に教えたカシオペア座をなぞりながら、ひっそりと呟く。
そこでふと、思うのである。ここは、どこなのだろうかと。そして、自分はどうやって、ここに来たのだろうかと。
ぼくは、身に覚えがない。分かっているのは、朱莉を置いてきたということくらい。あとは、今という唐突な状況が、与えられているのみだ。
今、踏みしめる大地は、灰色の砂と石に支配されている。遠い異国の砂漠だろうか。荒涼とした世界からは、命のざわめきは、感じ取れない。せっかく、彼女に見せたい星空なのに。随分と、遠くに離れたものだ。
やがて、ぼくは歩き始める。けれど、宛てなどない。
そもそも、彼女を置いて来てから、ここに来るまでが空白で。ここが、ぼくが目指していた場所なのか。それとも他に目指すべき場所があるのか。そんなことさえ、分からない。記憶を失ったぼくは、とりあえず今という状況を理解したいがために、彷徨うのみだ。
脆い砂は、ぼくの重みでへこんで足跡を作る。盛り上がった縁も、風にさらわれて形を変えることはない。その隣には先客が残したであろう足跡が残っている。きっと、ぼくが来る少し前に来たからとかそんな理由じゃない。ここには風が吹くことがないから、足跡が消えることはない。そういう理由だろうという気がした。だから、今この場所に星条旗を立てても、風になびくことはなく垂れ下がるのみだろう。
風さえも、吹くことはない。生命が居着くどころか、この大地さえ、息をしていない。そう思うと、夜空に輝く星々がよりいっそう、輝いて見えてくる。ぼくは灰色の砂を踏みしめて、彼らを眺める。
夜空に輝く星々は、恒星と言って、それぞれが太陽のように燃えているのだそうだ。まだ燃やすものがあるということは、生きているということ。途方もなく長いけれど、彼らにも寿命というものがある。小学校のころ、理科の先生が教えてくれたのを思い出した。ぼくが、星に興味を持った理由。
「じゃあ、星にも‘じゅみょう’があるの?」
変声期よりも前の、ボーイソプラノのかつてのぼくの声が頭の中に反響する。
「そうだよ、だから星は、生きているんだ」
そう言った、先生の低い声に憧れたんだっけ。
ぼくは、いつか教壇に立って同じように、星の寿命を教える。そう願っていたことを思いだした。
頬が少し熱い。何か熱いものが流れている。どうして、ぼくは泣いている。可笑しい話だけれども、今のぼくには夜空の星々さえ眩しく思えてくる。
だから目線を落とした。
今のぼくには、この灰色の地面の方が見ていて心地がいい。ぼくは俯いたまま、とぼとぼと歩き続けた。周りの景色は、変わり映えなどしない。
ここは、移ろい変わりゆくことを忘れた、死の大地。
「あれあれ。珍しい。こーんなところに人がやって来るだなんて」
だけど、そんな灰色の世界に、君が現れた。それは、輝く星々を眩しいと感じたぼくが、この灰色の世界を望んだからかもしれない。
君は、長い髪をきゅっとまとめて、左胸に垂らして。白いワンピースを着ている。声も格好もどことなく似ていた。
こんなところに、彼女がいるはずがない。ここは、彼女がいた場所とは遠く離れていて――だから、君は彼女なんかじゃない。
「あかり……?」
「――違うよ」
人違いをしでかしたぼくに、君は少し鼻にかけた笑みを投げかけた。線の細い、綺麗な左手で、まとめた髪のヘアバンドをほどく。手ぐしをさらりと通してから、首を左右に振って長い髪を両肩にかける格好になった。
「こうした方が、あのコに似ているかしら?」
君が言う通り。見間違えてもおかしくないくらいに、瓜ふたつだ。狼狽えて肩を震わせているぼくの瞳を、君は鋭いまなざしで覗き込む。
「――でも、あたしは違うの。あたしの名前は月浦望」
灰色の砂と石だけの世界の中に、ぽつんと生えた大樹。その幹の肌を、しなやかな手でさらりと撫でる君。
大樹は、株分けして生えていて、幹がいくつも分かれている。その先には、青々とした葉を携えた枝が伸びている。
この灰色の世界の中では、生き生きとしたその樹とも。そして、君の姿も不釣り合いだった。
そして、何よりも――ぼくは、君に引きよせられた。
君が彼女に似ているからか。
いいや、ぼくが君に引きよせられたから、君は彼女に似てしまったのかもしれない。