196.忌み嫌う過去と慈しむ過去
ヒスイはサルスに滞在中、度々宿の老夫婦のもとを訪れている。
それは最近に限ってのことではない。老夫婦が冒険者を引退し、宿屋の営業を始めた頃からずっと、サルスを訪れるたびにヒスイは彼らのもとへと顔を出していた。
「まぁ、出会いはもっと前だけど」
そう語るヒスイに、リゼルは少しの好奇心から話の続きを待つ。
本巡りから宿へと戻ったリゼルを出迎えた相手こそ、宿の老夫婦ではなくヒスイだったのだ。買い出しに行きたいけど老輩がなかなか帰ってこない、冗談めかしてそう告げた老婦人に、留守番をしているから行ってこいと送り出したのだという。
玄関を潜ってすぐの椅子に座るヒスイに、リゼルが出迎えられたのはほんの数分前のこと。
そして退屈ならば本でもと、リゼルが本日の戦利品の中からヒスイが好みそうなものをプレゼンしようとして、すげなく断られてしまったのも数分前のことだった。いつかリベンジを果たしたい所存である。
その流れでなんとなしに雑談が始まり、今に至る。
「前のリーダーさんが、お二人にお世話になったんですよね」
「そう、駆け出しの頃に助けてもらったみたい」
「その時にはもう、お爺さまたちはSランクだったんですか?」
「それが分からないんだよね。詳しく聞こうとすると、恥ずかしいとか言われるし」
「ああ、失敗談ですしね」
「笑い話にできないほど恥ずかしい失敗って想像できないよね」
リゼルとヒスイは笑みを交わし合う。
ヒスイの前リーダーには、リゼルも一度だけ顔を合わせたことがあった。また同じ冒険者ギルドを利用していれば何度か見かける機会もあり、その度にパーティリーダーというのはかくあるべしと学ばせてもらったものだ。
謀を好まない実直さがあり、義理堅く、仲間たちへ全幅の信頼を抱き、また抱かれていた。ジルとはまた違った歴戦の戦士らしさがあり、揺るがぬ大地のような冒険者だったように思う。
「僕が拾われた時にはリーダーも姉さんも中堅だったから、余計に想像できないのかも」
「分かりますよ」
「ああ、一刀とかいるしね」
「ジルも聞いたら失敗談とか教えてくれるでしょうか」
「聞いたら教えて」
リゼルは頷き、そしてやや眉尻を下げて微笑んだ。
「なんだか、自分だけ駆け出しの頃を知られてるのは不公平な感じがしますね」
「それすっごい分かる」
ヒスイも心から同意を返した。
実際は不公平でもなんでもないが、自分の失敗ばかり知られているというのも複雑だ。
パーティメンバーとして対等であればあるほど、尚更のこと。
「お爺さまたちとは、その頃から?」
「そう。僕のギルド入りが渋られた時も後押ししてもらったって聞いたし」
「聞いた?」
「姉さんから。その時のことってあんま覚えてないんだよね」
あの頃は怒涛の日々だったのだとヒスイは言う。
もしや生家関係で何か、と気づかわしげな目を向けるリゼルに、彼は言葉を続けた。
「弓の訓練でそれどころじゃなかったし」
「訓練で」
何か違ったなとリゼルは一度だけ目を瞬かせる。
「僕に弓を教えてくれたの、爺さまのパーティの一人だったんだけど」
「ん、お爺さまたちは二人パーティじゃなかったんですね」
「そう。なんで?」
「ジルが現役時代のお二人に会ってるんです。その時は二人だったみたいなので」
「ああ、一刀も昔会ってるんだ? いつ?」
「かなり昔らしいですよ。ジルが冒険者になる前って聞いてます」
「へぇ」
ヒスイが驚いたように目を瞠った。
宿の老夫婦をとおして、己とジルの過去が繋がったことがよっぽど意外なのだろう。
さまざまな縁を紡いだSランク冒険者がいたからこその、不思議で奇妙な繋がりだ。
「まぁでも、多分だけど、その時は師匠だけ別行動だったんじゃないかな」
「師匠って呼んでるんですね」
「そうだけど……何?」
「いえ、何も」
思わず笑みを浮かべたリゼルを、揶揄われたと思ったヒスイがじろりと見る。
常の不貞腐れたような顔が更にそれを深めたのは、考えるまでもなく照れ隠しなのだろう。
それに対し、リゼルは見逃してほしいと小さく首を傾けてみせる。揶揄いたかった訳ではないのだ。子供の頃のヒスイが尊敬できる相手に恵まれたことを、ただ純粋に微笑ましく思っただけだった。
「まぁいいや。その師匠だけど、よく一人でうろつく人なんだよね」
「うろつく、というと」
「何日もふらっと消えて、ギルド資格が取り消されそうになると帰ってくる。それから何回かパーティで活動して、その内ふらっとまた消える。ひたすらそれの繰り返し。ああ、でも爺さまと婆さまとは普通に仲がいいよ」
「不思議なパーティですね」
ヒスイの師匠にとって、老夫婦のもとこそが帰る場所だったのだろう。
そして老夫婦もまた、いつでも相手を受け入れる。不思議だが、とても良い関係だ。
「リゼル君のところも大概だけど」
「えっ」
何故かヒスイに一言食らった。もしかしなくとも先程の反撃だ。
唇の端を吊り上げるようなヒスイの笑みに、リゼルも可笑しそうに頬を緩ませる。
「師匠は絵が趣味で、特に放浪しながら絵を描くのが好きなんだってさ」
「ああ、だから別行動が多かったんですね。どんな絵なんですか?」
「ん」
ヒスイがリゼルの後方を指さした。
振り返ると、そこには四枚の手のひらサイズの絵画が飾られている。リゼルが初めてこの宿を訪れた時からあるので、何度か眺めたことがあった。
「抽象画ですか」
「テーマは“旅の中で移り変わる自分の感情”らしいよ」
どれも目の覚めるような色使いと、吸い込まれそうな筆運びが印象的な絵画だ。
これらがすべて、画家の感情そのものだとするのなら。その画家にとっての旅とはきっと、どんな苦難が訪れようとも美しいものなのだろう。
もしかしたら老夫婦も、かつての冒険を思い出しながらこの絵を眺めるのかもしれない。
「綺麗な絵ですね」
「そうなの? ずっとヘタだと思ってた」
興味がなければ、抽象画などそんなものだ。
「今も時々、この宿に来てるらしいよ。あ、冒険者はもう引退してる」
「それでも流浪の絵描きは続けてるんですね」
「師匠が定住なんてしたらその国滅ぶんじゃない?」
それほどあり得ないということだろう。
旅をしていないと息ができない生き物のようだ。老夫婦の傍でだけ、歩みを止められる。
そこまで考え、ふとリゼルは疑問を抱いた。
「ヒスイさんの稽古をしている間は、旅を控えてくれたんですか?」
「まぁ、うん」
釈然としない返事に、リゼルは重ねて問いかける。
「時々いなくなったりしました?」
「それはなかったけど。……そもそも僕、剣が良かったんだよね」
「え?」
「リーダーと姉さんが使ってるから」
自身を救ってくれた相手に憧れ、背中を追おうとするのは当然のことだろう。
ならば何故、弓を使うようになったのか。気になったリゼルが話の続きを促せば、ヒスイは言いづらそうに口元を押さえて目を逸らす。
「弓はさ、最初からそれなりに使えたんだよね」
「冒険者になる前に、ですか?」
「そう。まぁ、何回か使ったことある程度だったけど」
それだけでそれなりに使えるのだから、もともと適正はあったのだろう。
話しながらやや眉をひそめたヒスイには、リゼルは気づかないふりをした。
「それで、師匠の前で弓を射る機会があって、あ、その時はまだ師匠じゃないか、まぁいいや。……え、その時に一射見せたら剣を取り上げられて、弓にしろってゴリ押しされた」
これは確かにヒスイの口からは話しにくかっただろうと、リゼルは再び絵を振り返る。
絵を描くのを好み、旅を好んだ冒険者は、恐らく一時でもそれを忘れた。圧倒的な才能を目の当たりにし、それを芽吹かせることが、きっと楽しくて仕方なかったのだろう。
己の感情を描く冒険者は、己の心を強く動かしたヒスイの才を眠らせなかった。
「それからひと月ぐらいかな。徹底的に弓の扱いを仕込まれたよ」
遠距離射撃から懐に入られた時の対処法、ありとあらゆる教えを受けたという。
その結果が、今やジルに「遠距離では分が悪い」と言わしめるほどの弓使いだ。
「熱心な方なんですね」
「基本は飄々としてたよ。いつも笑って鼻歌歌ってるような人だし」
「今も会ったりするんですか?」
「うん。この前、三年ぶりくらいに会った」
逸らされていたヒスイの目が、ちらりとリゼルを見る。
少し照れたように、けれど嬉しさを隠しきれないように、ヒスイの瞳が笑みを浮かべた。
「リーダー就任おめでとう、だってさ」
リゼルもまた、彼の受けた祝福を喜ぶかのように破顔した。
それから暫くして、老婦人が両手に食材を抱えて帰ってきた。
道中、お裾分けが相次いだらしい。すぐに荷物を受け取って食堂まで運んだリゼルとヒスイは、老婦人の「お留守番のお礼に、この食材でご馳走を作りましょうね」という言葉に二つ返事で頷いた。
「婆さまのご飯久しぶり。他の奴らに自慢してやろうかな」
「楽しみですね」
リゼルたちは今、のんびりと外をぶらついている。
夕食まで時間があるから散歩でもしてきたらどうか、という老婦人の提案に素直に従ったからだ。子供に向かって「外で遊んでおいで」と言うのと似たような感じで言われた。
じき夕暮れだが、まだまだ明るい時間帯だ。
暑くもなく寒くもなく、心地の良い陽気は散歩していて気持ちがいい。
「最近、晴れが続きますね」
「冒険者にとっては有難いよね。雨限定の依頼がないでもないけど」
「そうなんですか?」
「雨の日しか出ない魔物とか、あとそういう植物の採取とか。受けたことない?」
「はい、まだ。依頼ボードでも見たことない気がします」
「まぁ滅多に出ないしね。わざわざ雨の日限定とか書かない依頼人もいるし」
二人はあてどなく歩く。
とはいえ無意識に歩き慣れた道を選んでいたのか、このまま進めば冒険者ギルドに到着することになるだろう。それはつまらないなと、並んで脇道に逸れてみる。
「そういえば草むしり大会も晴れたらしいね」
「ヒスイさん、いなかったですよね」
「うん、依頼で王都行ってた。知らせが出た時にはもうサルス離れてたし」
「ああ、成程」
開催日の決定より前に不在が決まっていれば、強制招集から逃れられるようだ。
狙ってできることではない。何故なら冒険者ギルドは、もっとも冒険者の数が集められる日を綿密に見定め、開催日を決めるのだ。草むしりは人海戦術がもっとも有効であるので。
「俺たちが優勝したんですよ」
「へぇ、凄いね。一刀が鎌でも振り回した?」
「クァトが草刈り大臣になりました」
「ああ、確かにちょうどいいか。なんか生えるし」
「ヒスイさんは参加したことありますか?」
「何回かあるよ。優勝したことはないけど」
「周りも手ごわいですしね。うちもクァトが生まれ変わるまでは接戦でした」
「僕たちが参加した時にかぎって、なんかやけに強いパーティがいるんだよね。メンバーが全員農家出身で、クワだの鎌だのを武器にしてるBランクパーティなんだけど。知ってる?」
「いえ、先日の大会にもいなかったですし」
「あいつらなんで僕たちが出る時だけいるんだろ」
リゼルたちは徐々に細くなる路地を進んでいく。
二人はなんとなく南区に向かっていた。目的があってのことではないが、他と比べて商業がさかんな地域なので、それらを眺めながらあるくのも一興だろう。
「王都は変わりないですか?」
「うん。絶対零度も元気だったよ、多分」
「多分?」
「僕じゃそこの区別つかないから。いつもどおりギルドの窓口に立ってた」
「じゃあ元気ですね。安心しました……、わ」
「大丈夫?」
路地を曲がってすぐ、リゼルの顔面が何かに覆われた。
ずり落ちかけたそれを手に取って見れば、何の変哲もない厚手の布だった。真っ白のそれはいかにも洗い立ててであり、見上げれば布一枚分の隙間が空いた洗濯ロープがある。
あそこから落ちてきたのだろう。そよぐ風に、他の洗濯物がゆったりと揺れている。
「洗濯物が飛んでくるの、これで二回目です」
「僕もサルスでは結構あるよ。モノによっては困るよね」
「どうしましょう、元に戻してあげられるといいんですけど」
「戻してこようか?」
「良いんですか?」
快く引き受けてくれたヒスイに、リゼルは礼を告げながら布を手渡した。
とはいえ目標のロープは高い。三階建ての家屋の、二階の窓から向かいの壁へと伸びている。
弓に括りつけて良い具合に飛ばすのだろうかと、リゼルがのんびりと眺めていた時だ。
「よいしょ」
ヒスイが壁をよじ登り始めた。
時折煉瓦が張り出したデザインの壁ではある。だが、張り出すといってもほんの僅かだ。だがヒスイはそこに指をかけ、足を乗せ、あまりにも呆気なく目標の高さまで登ってしまった。
そしてロープに布を引っかける。干し方はやや雑だった。
「下りるよ」
「はい」
一歩後ろに下がったリゼルを確認し、ヒスイが空中に足を踏み出した。
彼は軽やかな着地を決め、そのまま何事もなかったかのように歩き出す。
「Sランクへの道のりは遠いです」
「何いきなり」
歩みを再開して早々に呟いたリゼルを、ヒスイが怪訝な顔で見つめていた。
南都は賑やかだ。
商売上手で賑やかというと、リゼルはマルケイドを思い出す。だが純粋な賑やかさでは、やはりマルケイドに軍配が上がるだろう。
ならば何が賑やかかといえば、サルスの誇る水路が賑やかだった。
「水路の小舟も棚なんですね」
「溢れてるよね」
水路沿いの店舗は、水路に小舟を浮かべて商品を積む。
もしくは使わない備品などを置いて倉庫代わりにする。
これでは折角の水路を船が行き交えないのではないかと思うが、そこは流石のサルス国民だ。小舟一層分の幅をうまく通り抜け、すれ違う際には片方が並んだ小舟、兼棚、兼倉庫の隙間にするりと入る。
「南都は良い書店があるんですよ」
「まだ買うの?」
「良い喫茶店もあるんです」
「そこで読むの?」
「時々ですよ。でも、良い書店を見つけたら入っていいですか?」
「いいけど」
リゼルとヒスイは、人の声に溢れた街並みを並んで歩く。
時々見かける路地裏には、壁に沿ってずらりと荷物が積み上げられていた。
「ジルは通り抜けられそうにないですね」
「そんな幅あるっけ」
「前に迷宮で、一人だけドアに挟まってました」
「一刀もそんなことあるんだ」
ヒスイが一瞬だけ意外そうにしながらも、すぐに受け入れる。
何故なら同じ冒険者だからだ。迷宮では誰がどんな目にあってもおかしくはない。
ヒスイ自身もSランクになって尚、穴には嵌るし弓を射つと変な音がなったりするのだ。
「あ、ちょっとそこ座ろうか」
ふと、何かに気づいたようにヒスイが水路を指さした。
その水路に特に変わった様子はない。疲れているようにも見えないがと、不思議に思っていたリゼルの耳が微かな優しい音色を拾う。
どうやら少し先で、旅芸人が演奏しているらしい。郷愁を誘う音色はバグパイプだろうか。
「そういえばリゼル君、“巨獣たちの国”踏破したんだって?」
「はい、少し前に」
二人はもう少し音の方角に歩き、小舟がある場所を避けて水路に腰を下ろす。
そうして座ると、水路に響くバグパイプの音がよく聞こえた。
「この前、ギルドの職員に聞かれたんだよね。リゼル君たちが踏破してるみたいだけど、何か知らなかって。ギルドカードの情報確認してて、たまたま気づいたみたいだったけど」
「そういえば伝えてなかったですね」
リゼルは思案する。
確かにボスの討伐後には踏破報酬が現れた。よって自身たちが初踏破だと分かってはいたのだが、迷宮の影響により疲れが酷すぎて一旦すべてを後回しにしたのだ。ボスの素材を回収するだけで手いっぱいだった。
つまり、完全にギルドへの情報提供のタイミングを逃していた。
ちなみに素材だが、本人たちの希望によりジルとイレヴンに分配されている。
戦闘中に比べてやや小型化したチャクラムをイレヴンが。ボスの眼窩から生えた枝、もとい金属光沢にも似た艶を持つ木材をジルが気に入って引き取ったのだ。
もうすでに、何かに使ってしまったかもしれないが。
「そもそも潜り始めは、とっくに踏破されてると思ってたんです」
「何それ、煽ってる?」
「違いますよ。ほら、この国はお爺さまとお婆さまがいるので」
「ああ、そういうこと」
老夫婦のパーティが踏破できないはずがないと、当然のように考えているだけだ。
それはヒスイもまた同じく。彼はリゼルの言葉に、よく分かっているではないかと笑みを浮かべる。余談ではあるがリゼルは勿論のこと、ヒスイも老夫婦らと共に依頼を受けたことがない。
「攻略を始めて暫くしてから、お二人が引退した後にできた迷宮だって聞いたんです。ただ、最初に踏破済みだって思い込んだせいか、まさか未踏破だとは思わなくて……」
「まぁ、未踏破の迷宮ってあんまりないし」
「それに未踏破の迷宮はもっと有名だと思ってたんです」
「どういうこと?」
「アスタルニアでは、踏破が冒険者ギルドの悲願だったというか」
「ああ、なんかあったね。なんだっけ、人魚姫?」
「そう、そこです。王族も協力してたくらいで」
「アスタルニアの王族って変なの多いよね」
冒険者ギルドは一般的に、迷宮の管理を主目的としている。
管理というのは大侵攻を起こさせないことであり、つまりは定期的に冒険者を送り込むことだ。大侵攻の発生に踏破・未踏破は関係がないというのが定説なので、ギルド側が迷宮踏破に意欲を見せることはあまりない。
つまり、アスタルニアが例外だっただけだ。
「だから、踏破報酬を見つけた時は驚きました」
「そのままギルドに踏破報告すれば良かったのに」
「あの時は疲れすぎていて、つい」
「で、今まで忘れてたんだ?」
「すみません。幾ら情報提供が任意とはいえ、初踏破は報告するべきでしたね」
「別に僕に謝らなくてもいいけど」
ヒスイは水路の流れの先を見る。
目を凝らしても、人だかりも何も見えない。ただ音色だけは響き続けている。
音楽を好む彼はそちらに耳を傾けつつ、真っすぐにリゼルを見据えた。
「リゼル君さ」
「はい」
「情報提供、あんまりしないの?」
「いえ、何度かありますよ」
「絶対じゃないんだ?」
「そうですね」
ヒスイは問いかける。
リゼルは情報提供を任意と言った。確かに、ギルド規約としては正しい。
だが冒険者として「しなくても構わない」と思っているのなら、それは間違っている。
情報提供は実績だ。ランクアップの糧となる。
情報提供を通じて、冒険者はギルドに己の功績を訴え、ギルドは冒険者の現在の実力を測る。
小遣い稼ぎという面もあるが、何よりそのために情報提供という制度が存在するのだ。
それを放棄することは、己を冒険者でないと認めるに等しい。
「リゼル君のそれって」
だがヒスイは、リゼルがそうでないことを知っている。
「一刀と獣人の影響?」
「俺が迷宮に潜るときは、二人のどちらかは絶対いるので。情報提供したほうが良いか聞くと、別にいらないって言われることが多いんですよね」
「だろうね」
そう、何事にも例外は存在するものだ。
凄まじいペースで迷宮を攻略するジルは、いちいち情報提供などしていられないだろう。他でランクアップに必要な有用性をアピールできる自信があれば、それは必要ないのだ。
事実ジルは圧倒的な実力をもって、職員からランクアップの申し出を引き出してきた。
それはイレヴンも同じくを言える。
ギルドはなるべく多くの高ランク冒険者が欲しい。つまり誰の目も惹くような突出した何かがあれば、職員から「ランクアップしてくださいませんか」と声がかかるのは当然のことだった。
「リゼル君の冒険者知識って、一刀と獣人からなんだよね」
「ほとんどそうですね」
「リゼル君はランクアップしたいんだよね」
「勿論です、冒険者なので」
リゼルは真面目に冒険者をしているし、真剣にランクアップを目指している。
にもかかわらず行動がそれに伴わない所以を垣間見て、ヒスイは複雑な心境になった。
「何かやり方を間違えてますか?」
「別に、問題ないんじゃない」
「良かった」
だがヒスイは何も言わない。
問題がないのは本当だ。ジルとイレヴンとパーティを組むかぎり、という前置きは必要だが。
あの二人が、この穏やかなヒスイの友人を手放すことなどないだろう。
「ヒスイさんも巨獣の迷宮って行きました?」
「うん、何年か前にね」
「リーダーとお姉さんがいた頃ですね」
「あそこやばくない? どうやって進んだの?」
「疲労感のことですか?」
「疲れはあんまりなかったかな。錯乱のほうがやばかった、精神汚染」
「ああ、あれは凄かったですね。基本は誰かがかかり次第、かかってない人が気付けに一発っていう方針でした。遠距離で戦えるので、俺がその担当になりやすかったです」
「へぇ、やっぱどこも変わらないんだ」
「ヒスイさんも気付け係でした?」
「うん」
だが何かがあって踏破を断念したからこそ、リゼルたちが初踏破だったのだ。
精神汚染とよっぽど相性の悪いメンバーがいたのか、それとも何か不測の事態が起こったのか。最悪の事態が起こったとまでは思わないが気になるなと、そんなことを考えるリゼルの隣で、ヒスイはあまりにもあっさりと理由を告げる。
「うちは気付けのたびに殴り合いになったから攻略中止になったんだよね」
青空と夕焼けを映す水路にバグパイプの音色が長く響き、消えていった。
バグパイプの郷愁を誘う音色に別れを告げ、二人は散歩を再開していた。
目的地はやはりあてどない。ならばとリゼルが問いかける。
「ヒスイさんは何か見たいものないんですか?」
「僕?」
ううん、とヒスイは考え込んだ。
道具の買い込みなど今はしたくない。いや、リゼルとならば楽しめそうな気もするが。
衣服に大したこだわりもなければ、何かを収集するような趣味もない。美味い酒は飲みたいが、それも酒場で十分なので自分用に買うことなどなかった。
「僕ってもしかして無趣味なのかも」
「そうなんですか?」
「欲しいもの浮かばないし」
「依頼を受けない日は何をしてるんですか?」
「そもそもそういう日があんまりないんだけど」
ヒスイは地面を転がってきたリンゴを拾い、ひょいと店先に投げ返した。
そして一つ一つ思い出すように、持ち上げていた手の指を折りたたんでいく。
「朝は大抵走ってるかな。道に人いないから走りやすいし」
「鍛えてるんですね」
「ていうか動いてないと落ち着かないんだよね」
「食事はどうしてるんですか?」
「宿で出る時は宿で食べるし、出なければ適当に買うよ。こだわりとか気分とかもないから、お腹空いた時に目についた店に入るだけ」
「好き嫌いもないんですか?」
「……あるから、それは避けるけど」
何が嫌いなんだろう、と思いながらリゼルは可笑しそうに笑う。
少なくとも、宿の老婦人が今日大量に貰ってきた食材の中にはないはずだ。夕食に誘われた時のヒスイは、一瞬の躊躇いもなく頷いていた。
「あとはギルド行ってみたり、こうして街中ぶらついたりしてるだけ」
「散策ではどこかで休憩したりもするんですか?」
「え? うん、なんか飲んだり昼寝したり」
「それ、王都だとどこでしょう」
「どこだろ、適当だからな。中心街の周りにある広場とか」
「アスタルニアだと?」
「あっち行ったの大分前なんだよね。港のほうにはよく行ってたかも」
「じゃあ、サルスは?」
「このあたりじゃない? あ、でも首都のほうも行くかも」
向かい側からやってきた通行人を、二人は左右に分かれるように避ける。
笑みを深めて隣に戻ってくるリゼルに、ヒスイもそうしながら戸惑ったように眉を寄せた。
「これ、何の質問?」
「ヒスイさんの欲しいもの探しです」
「ふぅん、何か分かった?」
「はい」
目元を細めたリゼルの歩調が、徐々に緩くなっていく。
ヒスイはその返答に驚きつつ、気になる店でも見つけたのかと歩みを合わせた。
「王都の中心街手前の広場は、旅芸人の方がよく来てましたね」
「いかにも稼ぎ場だしね」
「アスタルニアの港、午後になると若い人が集まって賑やかです」
「あの国の人ってなんか集まると踊りだすよね」
「サルスの首都にも王都と似たような広場がありますし、ここ南区にはさっきみたいな路上演奏とか」
リゼルの足が止まる。
「こういう店が多いです」
立ち止まったのは、とある店の前だった。
路地に無理やり建てたのかと思わせるほどに幅の狭い建物の、その一階にある小さな店だ。年季の入った丸いガラス窓が特徴的で、ガラス部分が枠で十字に仕切られている。
扉にかけられた木製の壁掛け看板は、木彫りのヴァイオリンが立体的に彫られていた。
窓を覗き込めば、狭い店内に所狭しと並べられている楽器を見ることができるだろう。
「……僕は、別に」
顔を顰めようとして、失敗したような顔でヒスイが呟く。
リゼルは以前に、ヒスイがピアノを弾く場面に立ち会った。むしろ演奏を共にしている。
演奏後、ヒスイがピアノを弾けることが心底くだらないと言っているのも聞いた。ピアノが、ではない。演奏が、でもない。ヒスイは、己がピアノを弾けるという事実そのものをくだらないと吐き捨てたのだ。
「楽器の演奏を聴くのが好きって言ってましたね」
「そうだっけ」
「だから散策中も、音楽のある場所に惹かれるんでしょう?」
「ああ、うん……そうかも」
ヒスイは返事を濁した。
確かに、どこかから演奏が聞こえれば足を止めることが多い。それについては自覚がある。
だが、それは偶然だと思っていた。自ら望んで、演奏に出会えそうな場所に足を運んでいたことには気づいていなかった。
なんだか恥ずかしくなり、ヒスイはしかめっ面で視線を外す。
少し曇った窓ガラスごしに、天井から吊り下げられたヴァイオリンの群れが見えた。
「どうでしょう。欲しいもの、当たりました?」
「……全然。僕は自分の演奏嫌いだし」
「どうしてですか?」
「冒険者があんな楽器弾けるとかあり得ないでしょ。気持ち悪くない?」
「えっ」
「リゼル君は例外」
ヒスイが己の失言に気づき、すぐさまフォローを入れる。
実際、ヒスイはリゼルがヴァイオリンを弾けることについては何も思っていない。むしろ素直に賞賛を送るし、なんならまた聞かせてほしいとも思っている。
だが、それでも。
忘れられないほど忌々しい己の過去。そこで身に着け、そこだけで必要とされる技術など、さっさと手放してしまいたかった。過去に帰属するものなどすべて捨ててしまいたかった。
今のヒスイは、ただ一人の冒険者でしかないのだから。
「あり得ないとか、気持ち悪いとかは分かりませんけど」
柔らかな声色でリゼルは告げる。
「俺はヒスイさんの演奏、好きですよ」
「は?」
ヒスイは湧き上がる激昂を、咄嗟に押さえ込む。
自らが憎んだ過去を、リゼルが肯定しているという事実が耐え難かった。反射的にリゼルへと伸びそうになった手で、怒鳴りそうになった口を覆い隠すことができたのは奇跡だった。
今日はもう解散しよう。
ヒスイはその言葉だけを絞り出すつもりで、震えそうになる唇を開いた。
「初めて聴いた時、まさにSランク冒険者の演奏だって感動したんです」
「……、……は?」
続くリゼルの言葉に、吐き出しかけた言葉が吐息と消える。
微かに震えた唇は、手で覆い隠されてリゼルにはバレていないはずだ。上手く回らない頭で、ヒスイはただそれだけを安堵した。
「冒険者……とか、何それ」
「なんていうんでしょう。芸術とかじゃくて、相手を叩き伏せるための演奏というか。強くて、緻密で、ヒスイさんが弓を使う時ってこんな感じなのかなと思いました」
「弓……?」
ヒスイの弓は師に鍛え上げられたものだ。
未熟な基礎こそ過去にあるが、そんなもの圧し潰すほど多くの教えを受けた。確信がある。
だからこそリゼルの言葉が強く刺さった。リゼルの言うヒスイらしさが、今の自分しか指していないのだと信じることができた。
途端、膨れ上がった歓喜にヒスイは声を上げて笑う。
「あはははっ」
「ヒスイさん?」
「ううん、なんでも。へぇ、そう、僕のは弓使いの演奏なんだ、あははっ」
ヒスイはひとしきり笑った後、すぐ隣にある楽器店を見た。
次にリゼルを見る。入らないのかと不思議そうな顔に、にんまりと笑みを深めてみせた。
「欲しいもの、外れたねリゼル君」
「え?」
「楽器、好きだし弾きたいけど欲しくはないよ。弾き語りの旅に出たくなったら困るから」
「似た者師弟ですね」
「でしょ?」
ヒスイは酷く上機嫌に、リゼルのポーチを摘まんでみせた。
「だから今日、晩御飯の後にリゼルくんのヴァイオリン貸してよ。聴かせてあげる」
「はい、ぜひ」
二人は和やかに帰路につく。
宿の夕食を楽しみに。そして、夕食後の演奏会を楽しみに。
その帰路のさなか、ヒスイは思い出したように告げた。
「そういえば知ってる?」
「何をですか?」
「近いうちにアスタルニアから使者が来るらしいよ。多分だけど——」
にわかに強い風が吹いた。
リゼルは搔き混ぜられた髪に目を伏せる。頬に張りついた髪を耳にかけ、瞼を持ち上げれば、視界の先にあった地面を何かの影が横切るのが見えた。
凄まじい速さで、何かが頭上を通り過ぎていったのだ。
「ああ、ほら」
ヒスイの声に顔を上げる。
彼は顎を持ち上げ、夕焼けに染まり始めた空をじっと見つめていた。
ヒスイだけではない。周囲を歩くサルスの人々もまた、足を止めて天へと目を凝らす。
「魔鳥騎兵団をサルスで見るの、リゼル君初めてじゃない?」
いまだ明るい空を、両翼を広げた魔鳥たちが羽ばたいていた。




