君と五月と赤
とある田舎に男の子がいました。男の子はおっとりとした性格で、争いが嫌いでした。
高校に入って1ヶ月くらいのころ、彼が授業を終えて教室のベランダでぼんやりと流れる雲や、グラウンドで走っている陸上部を見ていると、いつの間にか夜の8時を回っていました。家までの電車は8時20分発が最終で、それを逃すと3時間かけて自転車で帰らないといけません。彼は急いで教室から出て3階分の階段を駆け下りると、下足室で靴を履き替え、駐輪場に向かいました。
空に満月が浮かんでいて、彼はとても綺麗だなと思うと同時に、なんだか冷たい布で身体中を覆われているような変な感じがしました。
その変な感じを引きずったまま自転車にまたがって校門まで進んで行く途中で、女の子がしゃがみこんでいます。彼は自転車を止めて、声を掛けました。大丈夫かい? と。
女の子は返事もせず胸元に抱えている猫を撫でています。どこにでもいるような茶色い猫ですが、きっと女の子が大好きなんでしょう、とても幸せそうな顔をしています。にゃあにゃあと鳴く猫を女の子も幸せそうな顔で見ています。すると、女の子が猫の耳をはむっ、と噛みました。灯りも付いていない夜の学校で、女の子とその猫の周りが、ふんわり、玉子色に光っているように彼には見えて、月の光が全部ここに集まっているんじゃないかと思いました。女の子も猫も、まだ彼に気付いていません。彼は時間も忘れて1人と1匹を見つめていました。
しばらくして猫が最初に彼に気づきました。にゃあにゃあという声を止めて、彼を睨んでいます。てめえ近寄んじゃねえぞ。そんな猫の様子に気付いて女の子も彼を見ました。
「猫、いかがですか?」にっこり微笑んでそう言う彼女は本当にきれいで、別の世界の人間みたいです。彼は頭にりんごがぽんっと落ちるような、不思議な感じがしました。
それから後の事を、彼はあまり思い出せません。女の子と少し会話をして、猫を抱いて、それから自転車で3時間かけて帰りました。覚えている会話の内容は、彼女も同じ1年生だという事と、彼女の名前だけ。自分がどんな話をしたかなんて全く覚えていません。彼は変な事を言ったんじゃないかと不安に感じながら、また会いたいなと思いました。
次の日も8時過ぎに学校を出ました、今度は彼女に会うために。今日も彼の期待通り彼女は猫を抱いていて、今度も彼は声を掛けました。こんばんは、と。
「猫好きなの?」と彼。
「うん、トマトよりも好き」
「よく分からないや」
「君は?」
「僕も猫は好きだよ」
「違うよ、君の名前。昨日は結局言ってくれなかったから」そう言われて彼は、やっぱり失礼な事をしていたんだなと少し後悔しながら名前を言いました。
「覚えとくね。じゃあ、また明日学校で」そういって彼女は歩いて帰っていきました。
彼は嬉しいようで恥ずかしいようで、ふわふわしていました。意味もなく猫を抱えたり降ろしたり。すると、猫の耳が欠けているのに気付きました。昨日彼女が甘噛みしたところです。
彼は彼女がこの傷を癒そうとして甘噛みしたんじゃないかと想像して、天使のような人だ! と勝手に興奮しました。そうして3時間ずっと彼女の事を考えながら自転車を走らせ、家に着いて母親に怒られながらも彼女の事を考え、きっとあの時、りんごが頭に落ちた時、自分は彼女に一目惚れしたのだと気付きました。
ついに僕も一目惚れか! 偉くなったものだな! 彼は月に向かって叫びました。
次の日から、彼女は彼の教室に来るようになりました。以前の休み時間は彼はほとんど寝ていましたが、今はずっと彼女と喋っています。内容はとりとめのないものですが、彼はとても幸せでした。
そうして時は過ぎてある月曜日。彼の中学からの親友が休み時間に彼と彼女のところに来ました。親友は休み時間に楽しそうにしている彼を見て少し驚きましたが、これで君もまともな人間に近づいたな、と言って笑いました。
彼女は人見知りのようで、くりくりした目を不安げに伏せながら彼に親友の事を尋ねましたが、彼がそれに答える間もなく、親友が大げさな自己紹介を始めました。私は地底より出でたるモグラの王であるだとか、野球を利用して世界を征服するだとか、意味も脈絡もない自己紹介ですが彼女には何かが伝わったようで、2人はシェイクハンドを交わしました。
そうして休み時間は2人の時間から3人の時間になりました。
それから3人はとても楽しい毎日を過ごしました。海に行ったり山に行ったり、夏休みには自転車で琵琶湖を一周してみたり、キャンプしてみたり。あっというまに半年が過ぎました。
そして11月のある月曜日、 親友から話があると言われました。親友はとても面白く、頭も良く、運動も出来て、彼には完璧な人間のように見えます。そんな彼に相談されるなんて、一体何があるのか。彼は頭の中に浮かぶ1つの考えを隅に追いやりながら、家で親友を待ちました。
ぴんぽーん。インターホンが泥の中でスキップしてるみたいな音で鳴りました。彼は2階の自分の部屋の窓から顔を出して、上に上がってくるように言いました。階段を登ってくる足音を聞きながら、彼はふと、そういえば最近あの猫を見ないな、と思いました。
彼は恐らく、話というのは親友が彼女の事を好きになったという相談だろうと予想していました。もう仲のいい3人のままではいられないのかと残念に思っていました。しかし、現実は想像を超えていました。親友がもう2ヶ月も前から彼女と付き合っていたこと。2人とも彼が彼女を好きなのに気付いているということ。彼女がこの事は彼には内緒にしようといったけど、親友は彼を騙すのが耐えられなくなったということ。いろいろな事を聞きました。
彼はまず、2人を何て酷いやつだろうと思いました。彼女が何故隠しておこうと言ったのか彼には分かりませんが、何かひどく惨めな気分になりました。そして、親友の気遣いさえも自分に対する嫌がらせなのではないかと思いました。自分の1番好きだった女性が、自分の1番好きだった男性と付き合っている。それだけの事実で彼はなにも分からなくなり、世界中から嘲笑されているような気分になりました。
彼は何も気にしていない振りをして、親友に笑いかけました。全然気づかなかったよ、おめでとう。早く言ってくれればよかったのに。出来るだけ自分の心を隠して笑いました。
親友は少し喜ぶような、肩の荷が下りたかのような表情を浮かべました。いやあ、君が自殺でもするんじゃないかと思って中々言い出せなかったよ。ま、彼女の事は幸せにするよ、君は黙って見ていたまえ。そういって、親友も笑いました。
何が幸せにするだこの野郎僕の気持ちを知っていたくせに何ぬけぬけと付き合ってやがるこの人でなしなんでお前なんだなんで僕じゃないんだなんで彼女はお前なんかを選んだんだ畜生こいつを殺せば彼女はどんな顔をするんだろう殺してやる殺して地獄の底に突き落としてやる地獄でもまた殺してやる生まれて来た事を後悔させてやる。彼はそう思いましたが表には出さず、ただ微笑を浮かべました。
それからの毎日は彼にとってはひたすら辛い日々でした。彼も親友も、何事もなかったように、楽しかった時のスケッチをするように、3人で遊んで日々を過ごしました。半年が過ぎると、彼はもうとっくに気付いてるよ、と彼女に言いました。恥ずかしいから言えなかったの、黙っててごめんね。彼女ははにかんで、ぺこりと頭を下げました。
親友と付き合ってるのが恥ずかしいのかい? 君は、人に付き合ってると言えないような恥ずかしい人が好きなのかい。そんな嫌味も浮かんできましたが、彼は口に出来ません。彼はまだ彼女が愛しくて、嫌いになれなくて、頭がおかしくなりそうでした。
さらに1年が過ぎて3年生の春、親友と彼女は3人でいる時も手を握ったりするようになりました。それでも彼は3人でいる事を選び続けました。どうしていいかわからなかったから、それと、彼女をずっと見ていたかったからです。彼女は魔女だと彼は確信しました。
そして、ある月曜日の事です。この日は祝日で、親友と彼女は2人でどこかに行くようでした。彼は家で一日中、2人が何をしているか考えながら、夜の6時までを過ごしました。
すると彼の携帯に電話がかかってきました。画面には親友の名前が表示されていて、彼は気怠く電話を取りました。
たすけて、家に来て。
返事をする間もなく、電話は切れました。ただ事ではない気配を感じました。祝日なので次の電車が来るのは50分後です。彼は5秒ほど考えてからすぐに自転車に乗って親友のいる学校の寮に向かいました。今夜は満月のようです。
急ぎに急いで、2時間で寮に到着しました。親友の部屋は2階の角で、隣りは空き部屋です暴れても多分、誰も気付かないでしょう。
親友の部屋の前に行くと、中から物音がします。なんの音かは分かりませんがその音を聞くと、1年の5月、満月を見た時のひやっとした感覚を思い出しました。
覚悟を決めて、彼は部屋のドアを開けました。生臭い、絡みつくような臭いが、奥のリビングから流れてきます。彼は屋内に足を踏み入れて、リビングへの扉を開きました。
そこは、一面が真っ赤でした。部屋の床は真っ赤、壁も真っ赤、そして、部屋の中央にいる彼女も、その前に横たわる、人の死体らしきものも、全て真っ赤です。
彼女はこちらに目も向けず、それに口を付けています。部屋には水音が響いていて、ぺちゃぺちゃと耳障りです。死体にはすでにぼこぼこと穴が空いていて、内臓がはみ出しています。そのうち、死体の首がごろんと転がり、こちらを向きました。そこにあったのは、見慣れた親友の、見た事のない恐怖に歪んだ醜い顔。その目は彼を睨んでいるようにも、ドアの外の満月を眺めているようにも見えます。彼は、頭の中に流れ込んでくる狂気を必死に振り払いながら、言いました。
「なんで、なんでこんなことを。君は、彼のことが」
「うん……好き……食べちゃいたいくらい、好き」全てを言い終わる前に彼女は答えて、こちらを見ました。身体中が血塗れでも、色褪せることのない、ふんわりとした笑顔。出会った時とそのまま同じに美しい彼女を見て、彼は全てを理解しました。ああ、彼女は食べる事でしか何かを愛せないんだ。食べる事は、彼女の愛情表現なんだ。親友は彼女を理解できなかったんだろう。僕なら彼女を幸せにできる。僕だけが彼女を理解できる。
「僕も、食べてくれ。大好きだから。僕も食べてくれ。お願いだから」そう言って、彼は床に転がっていた包丁を拾い、自分の胸を切り取ろうとしました。赤い線がまっすぐ、鎖骨からみぞおちの辺りまでにスッと浮かびましたが、幸か不幸か、骨が歯を食い止めて致命傷とはなりませんでした。
彼はもう1度、今度はお腹を切ろうとして包丁を強く握りました。すると、固く握られた右手の上に彼女が両手を添えました。彼女は彼の右手の指を優しく包丁からほどいていきます彼はなぜか抵抗できなくて、好きな人と自分の手が重なっているのをじっと見つめていました。
「ごめんね」にっこり笑って、彼女は呟きました。包丁は彼の右手から彼女の左手に移っています。そして、彼女は自分の首を裂きました。
彼だけを残して、2人は幸せな世界に行ってしまいました。後に残った彼は彼女の笑顔を見つめながら、いつまでもいつまでも、つぶやき続けました。
大好き、大すき、だいすき…………