第8話 「輪郭の中の誰か」
名前を呼んでしまった夜から、夢見太郎の中で何かが変わった。
眠れないわけではない。食事もできるし、仕事も普段通りこなしている。ただ一つだけ、はっきりと違うことがあった。“現実の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく”のだ。
最初に現れたのは、声だった。
誰もいない場所で、ふと聞こえる。
「……たろう……」
振り返っても誰もいない。それでも太郎には分かる。“そこにいる”。見えないのに、確かに存在しているという感覚だけが、はっきりと残る。
「……エルナ」
小さく呼ぶと、空気がわずかに揺れた。
「……うん」
かすれた声が返ってくる。まだ不安定で、消えそうなほど弱い声。それでも確かに、応答だった。
「どこにいるんだ」
問いかけると、少しの間のあとで「……ここ」と声がした。すぐ後ろ、息が触れるほどの距離。だが振り返っても、そこには何もいない。
「……見えないの?」
寂しそうなその声に、太郎は言葉を失う。見えない。けれど、確実にそこにいる。それが何よりも現実を侵食してくる。
変化は、次第に目に見える形で現れ始めた。
休憩室で、同僚の真壁陸がふと太郎の顔を覗き込む。
「夢見、お前……なんか雰囲気変わったな」
「え?」
「前より……軽いっていうか」
その一言に、嫌な感覚が走る。“軽い”。それは何かが減っている時に使う言葉だった。
午後、鏡の前に立つ。制服姿の自分はいつもと変わらない。だが、ほんの一瞬だけ違和感が走る。目を凝らした瞬間、自分の背後にもう一つの影が重なった。長い髪、細い輪郭。振り返ると誰もいない。もう一度鏡を見ると、そこにも何もない。
「……気のせいか」
そう呟いた直後、鏡の中の“自分ではない方”が先に口を開いた。
『……もう少し』
息が止まる。その声は、エルナだった。
夜。閉園後のパークで、太郎はあの広場に立っていた。“ELNA LUMINA”と削られたプレートの前。自然と足がそこへ向いていた。
「……来たよ」
呼びかけると、風ではない何かが揺れた。空気が濃くなり、光が歪み、そこに“形”が集まり始める。
やがて、ぼやけた人影が浮かび上がる。顔はまだ曖昧だが、確かに人の形をしていた。
「……見える?」
さっきより少しだけはっきりした声。
「……ああ」
答えると、その影は一歩近づいた。距離が縮まり、顔の輪郭がわずかに浮かび上がる。優しい目、どこか懐かしい表情。だが完全ではない。輪郭が揺れ、存在がまだ安定していない。
「……あと、少しで」
エルナが微笑む。
「ちゃんと、戻れる」
その言葉に、太郎の胸がざわつく。
「戻るって、どういう意味だ」
問いかけると、エルナは不思議そうに首を傾げた。
「私が、私になるだけ」
あまりにも自然な言い方だった。だからこそ、その意味が重くのしかかる。
「……その代わりに、何が起きるんだ」
太郎の問いに、エルナは少しだけ沈黙したあと、静かに答えた。
「……誰かが、少し軽くなる」
その瞬間、真壁の言葉が頭をよぎる。“前より軽い”。背筋に冷たいものが走った。
「それって……」
言いかけた太郎を、エルナは優しく遮る。
「大丈夫。全部、元に戻るだけだから」
その笑顔はあまりにも正しかった。整いすぎていて、疑う余地すら与えない。だからこそ、太郎は気づいてしまう。その表情が、リュミエラ・スノウとよく似ていることに。
「……なあ」
ゆっくりと問う。
「お前、どこまで“エルナ”なんだ」
一瞬、空気が止まる。エルナの輪郭がわずかに揺れ、笑顔がほんの少しだけズレた。
「……どういう意味?」
その声に、別の誰かが混ざった気がした。
ぞくりとした瞬間、背後から足音が響く。ゆっくりと、確実に近づいてくる。
「……そこまでにしておけ」
振り返ると、ミックー・マースが立っていた。笑っていない顔で、まっすぐエルナを見ている。
「それ以上、形を与えるな」
低い声は、明確な警告だった。
「……どうして?」
エルナが静かに問う。
「私、間違ってる?」
その言葉に、ミックーはわずかに目を細める。
「間違いじゃない」
そして、続けた。
「ただ――遅すぎた」
その一言で、空気が凍る。意味は分からない。だがエルナの輪郭が大きく揺れた。まるで、その言葉に心当たりがあるかのように。




