第18話:戻りすぎた存在
軋みは、最初は小さな音だった。ガラスに爪を立てたような、不快で細い震え。しかしそれは、次の瞬間には空間そのものを歪ませる“圧”へと変わる。
夢見太郎の手は、まだ裂け目の中にあった。
引き抜こうと思えば、抜けるはずだった。だが、できなかった。
向こう側から、“掴まれている”。
「……っ」
指先に触れる感触は、冷たくて、そして確かに“人のもの”だった。
「太郎、離れて!」早乙女凛の声が鋭く飛ぶ。
しかし太郎は、動かない。
いや、動けない。
裂け目の奥で、形になりかけた存在が、はっきりと“意志”を持ち始めていた。
「――やっと」
声が、今度ははっきりと届いた。
ノイズはまだ混じっている。それでも、言葉として成立している。
リュミエラが息を止める。「……エルナ?」
その名に反応するように、裂け目の中の輪郭が歪む。
そして。
“こちら側”へ、一歩踏み出した。
床に、影が落ちる。
まだ完全じゃない。輪郭は揺れているし、存在は不安定だ。だが、それでも――
そこに、少女が立っていた。
「……思い出した」
その声は、静かだった。
だが、あまりにも重かった。
太郎の手を握ったまま、少女――エルナは、ゆっくりと顔を上げる。
その目は、リュミエラを見ていた。
「……遅いよ」
リュミエラの身体が揺れる。「ごめ……」
言葉は最後まで続かなかった。
エルナの視線が、鋭く変わる。
「どうして、忘れたの?」
空気が凍る。
「どうして、私を置いていったの?」
その声に、責める色はない。
ただ、“事実”を突きつけているだけだ。
それが、余計に重い。
リュミエラは一歩も動けない。「私は……」
「違う」
エルナは首を振る。
「あなたは、“選んだ”」
その言葉が落ちた瞬間、空間の歪みが一段階強くなる。
ミックー・マースが、わずかに眉を動かした。
「……予想より早いね」
早乙女が睨む。「何が起きてるの」
「“復元”じゃない」
ミックーは静かに答える。
「“再定義”だ」
太郎が振り返る。「どういう意味だ」
「彼女は、“消されたエルナ”じゃない」
ミックーの目が、細くなる。
「“戻ろうとしているエルナ”だ」
その違いは、決定的だった。
エルナはゆっくりと歩き出す。一歩、また一歩。
そのたびに、床がひび割れ、背景がノイズのように崩れる。
「ねえ、リュミエラ」
優しい声だった。
だからこそ、怖かった。
「今度は、私を選んでくれる?」
リュミエラの唇が震える。「……それは」
言えない。
どちらを選んでも、何かが壊れると分かっている。
太郎が前に出る。「待て」
エルナの視線が、ゆっくりと太郎に向く。
「あなたは……」
一瞬、柔らかくなる。
「思い出してくれた人だ」
その言葉に、太郎の胸が締め付けられる。
だが、次の瞬間。
エルナの足元から、黒いノイズが広がった。
「でも」
声の温度が、落ちる。
「遅すぎた」
空間が、裂ける。
天井が歪み、景色が崩れ、遠くで悲鳴のような音が響く。
“世界”が、耐えきれなくなっている。
ミックーが一歩前に出る。「ここで止める」
「止めるな!」
太郎が叫ぶ。
ミックーは、ゆっくりと首を振る。
「これ以上は、“全消去”になる」
その言葉に、全員の動きが止まる。
全消去。
それは、リセットとは違う。
“最初からなかったことになる”という意味だ。
エルナの姿が、さらに不安定になる。
「……また、消すの?」
その声は、小さかった。
だが、確かに震えていた。
リュミエラが、ようやく一歩踏み出す。
「違う!」
叫びだった。
「今度は違う!」
涙が零れる。
「私は、忘れたくなかった!」
その言葉に、世界が一瞬だけ静止する。
エルナの瞳が、揺れる。
「……じゃあ、証明して」
リュミエラは、迷わなかった。
「選ぶ」
その一言が、空間に響く。
「私は――あなたを選ぶ」
沈黙。
次の瞬間、裂け目が爆発するように広がった。
光とノイズが混ざり合い、世界が崩壊を始める。
ミックーが低く呟く。「……分岐した」
早乙女が叫ぶ。「太郎!」
太郎は動かない。
目の前で、二人の存在が重なり、衝突し、そして――
新しい“何か”に変わろうとしていた。
世界が、もう一度、書き換わる。
今度は、“誰かの選択”によって。




