第六話 名前のない契約
「それで、リーベス。キミが"原因"になれば、子供は助かるんだろ?」
客が誰もいないバーでカクテルを傾けながら、情報屋が唐突に切り込んできた。彼はこのバーのオーナーも兼任しているらしい。
グラスの氷が溶ける音だけが、やけに大きく響いた。
その音が、自分の名前が削れる音に似ている気がした。
「そうとは限らねぇよ」
「契約はそう書いてある。でもさ、キミ、本当に“原因”になれるの?」
「おい、やめろ」
情報屋の声に感情はなかった。ただ、確認事項を読み上げる調子だけがあった。
当の本人が静かにグラスを傾ける中、情報屋だけが饒舌だった。
「"原因"を作る側って、どんな顔して酒飲むの?」
横のルドルフのグラスから、ミシッと鈍い音が聞こえた。
リーベスはその音を聞きながら、ロックグラスを揺らして「そうですね……」と考える素振りをあえて見せた。
「勝手にデータを送りつけて来て商売人ヅラしている人と、同じ顔でしょうか」
そう言ったあと、リーベスは一度だけ目を伏せた。一瞬の沈黙が、やけに長く伸びた。
「……へぇ、それはそれは、さぞ美味そうに飲むだろうね」
どうやらこの商売人気取りは、リーベスの返事はお気に召さなかったようだ。横でルドルフが鼻で笑ったので、リーベスは更に「特に、十七年のマッカランなんかが、一番美味しいですね」と付け加えておいた。
コホン、と一つ咳払いをして、情報屋は早々にペースを取り戻した。
「キミが原因になれば助かる。それは事実さ。じゃあ、ならなかったら、どうする?」
情報屋がカウンターに片手をついて、フフンと得意げに笑って止まらない。リーベスは喉の奥で音が詰まる感覚を、酒で流し込んだ。
「それ、逃げなんじゃない?」
「……それで、あなたは今回何しに来られたんですか?」
リーベスの口から出る声は、思いの外低かった。出した本人が驚くほどで、リーベスはかすかに目を丸くしたが、すぐに居住まいを正した。
無理矢理話題を振ると、情報屋はカウンター下からタブレットを取り出して、とあるウェブサイトを見せてきた。
タイトルがやたら長く、慣れていないととても見にくい文章になっている。
「これは?」
「最近、子供たちの間で流行っている契約書さ。いや、親の間で、かな」
そのままタブレットをルドルフに渡し、彼が読み始めたのを見ながらリーベスはグラスを傾けた。
ルドルフの指の間から見えた文字は擦れていて、リーベスからはよく見えない。
「どうですか? ルド」
「……綺麗な契約書だ」
一言。それだけ。
ルドルフにしては珍しい。
先を促すと、ルドルフは渋々といった様子で、尻の座りを直した。
「綺麗すぎるんだよ。成績保証、精神安定、過度な競争や挫折からの保護……」
「良い内容ですね」
「良いわけあるか。デメリットが書いてないんだよ、これには」
「それでも、無駄な喧嘩が増えないのは、親として有難いのではないですか?」
「……まぁ、そうなんだろうが……」
ただ、と言ってルドルフは契約書の中の一文を指で軽く叩いた。
その一文は、他に比べてあまりにも小さい文字で書いてあり、リーベスが目をしょぼしょぼと瞬きさせてようやく読めたほどだ。
「ここ。ここだけが引っかかる」
「……本同意は、対象者の個体差による不確実性を排除し、永続的社会適合状態を維持することを目的とする……?」
ルドルフが言う引っかかりが分からず首を傾げると、ルドルフは「これは解釈の話だが」と前置きした。
「不確実性ってのは、失敗も含む。失敗が無いってことは、挑戦も無い。つまり、成績以外にも影響が出る」
それが、あの送りつけられたデータなのだと、ルドルフは言った。
情報屋は、ルドルフが言葉を続けるたびに、何やら嬉しそうに頷いている。
「普通の家庭の子供たちが、なんで空白の対象にされそうになっていたのか……不確実性を排除するってのは、“未来”を削るってことだ」
「なるほど。つまり我々への依頼は、人間らしさを求めているってことですね」
「……まぁ、そういうことだ」
雑なまとめに、ルドルフは力が抜けたようで、一口酒を飲んだ。「そういうところだぞ」という呟きが聞こえたような気がしたが、意識的に無視した。
唐突に高らかな拍手が目の前から上がり、そちらを見ると情報屋が「良い。すごく良いね」と言った。
「素晴らしい解釈だ。さすが、ちゃんと学んだ人間は違うね」
「うるせぇ」
「ふふ。さてさて、リーベス。今回のお仕事の詳細が分かったのだから、次はどこに行くか分かっているね?」
「……どこへ行かせようと?」
警戒の滲んだ声に、情報屋のテンションはうなぎ上りだった。ルドルフの手からサッとタブレットを抜き取ると、何やらベラベラ喋りながら、今度はどこかのウェブサイトを開いて渡してきた。
「この契約がどこから産まれ、どこから来たのか。きっと、キミの望む答えに出会えるはずだよ」
タブレットに表示されていたのは、セントラル地区にある役所のサイトだった。
規則正しく文字とボタンが配置され、一目見て「見づらい」と感じる最低なウェブサイトの下の方に、児童福祉課のリンクがあった。
情報屋の指がいくつかボタンをタップすると、一つのデータに辿り着く。
『初等教育過程における児童保護および将来適応性確保に関する包括同意書-A-24』
タイトルを読んで、二人は同時に首を傾げた。それを見て、情報屋は妙な空気を口から漏らしたものの、顔をキリッと元に戻した。
「これは、僕たちが見た同意書とは別のものですか?」
「あぁ、そうさ」
「署名も無いし、区長の押印が無い。担当者の名前は辛うじてあるが、更新日時まで入ってる……これ、なんだ?」
「同意書の、草案だよ」
「はぁ?!」
情報屋の言葉に、ルドルフがいち早く反応した。その声を聞きながら、トン、とリーベスがページを叩く。
「承認欄が空白なのに、番号は振られていますね」
難しい顔をして固まるリーベスに向かって、ルドルフは「これはまずいぞ」と言った。
「草案ってのは、正式な決定が下りる前の内部資料だろ? 普通は外に出ない。区長の押印すら無いってことは、誰も責任を負っていないってことだ」
署名欄は空欄。
担当者名として、「マックス・ムスターマン」とある。
だが、それだけだ。
リーベスはそのページを一度戻って、先ほどの手順通りにタップしていく。すると、リーベスは一度もIDカードを出さずとも元のページに辿り着いてしまった。
情報屋を見ると「偶然だよ」と、弁解するように手を振った。
「ただの偶然さ。ワタシも驚いた。だから、そんな目でこっちを見ないでくれ」
「偶然……」
妙な違和感が、背骨を伝って落ちた。
ルドルフに視線を送ると、彼は強い視線をこちらに投げてきた。
「stage=0……」
リーベスが呟いた。
横で、ルドルフが「なに?」と反応した。
「実行前段階の番号です」
「0?」
「正式承認は、1から始まるはずです」
ルドルフの視線が、より鋭くなった。
「つまりこれは……」
「まだ“始まっていないことになっている”、だね。うんうん、いい着眼点だ」
情報屋の投げやりな賛辞にリーベスが指だけで応えていると、ルドルフが腕を組んで言葉を漏らした。
「草案が公開されてる時点でおかしい。これが本物なら、区長は知らないことになる」
「でも、実際に動いてますよね、これ。URLは正規の、公開用のもの。でなければ、あのようなリストにはならないはずです。つまり……」
「つまり誰かが、先に始めた」
「えぇ。承認を得ず、勝手にね」
ピンと張り詰めた空気。
二人はどちらともなく、頷いた。
*
「息苦しい……」
「我慢しろ」
「タバコ吸いたい……」
「それ三回目だぞ。黙って待ってろ」
混雑しているのに、糸をピンと張ったように静まり返っている役所の中で、リーベスはソファの隅に縮こまって絶えず文句を垂れていた。
棒付き飴を舐めながら、文句だけは一丁前である。
タブレット端末の電源を、点けては消し、点けては消し、を繰り返している。
その横で、ルドルフはジッと行き交う人々を見つめている。
親に手を引かれている子供、手に全ての書類を持ってミリ単位で歩行する老人。仲睦まじく書類を書くカップル。
リーベスにとって役所は馴染みが無さすぎて、どう呼吸したら良いか分からずにいた。
「それで、どうですか?」
「……ここにはいない。子供も」
「あなたの"目"がそう言うのですから、そうなんでしょうね」
残念だが、リーベスからしたら、目の前を歩く幼児も、その横の背の高い子供も、全て「子供」にしか見えない。対象は六歳から八歳までと言われても、まったく分からなかった。
「はるか東にある国では、七歳までは神様のものなんだそうですよ」
「何だそれ。八歳からは手放すってか?」
「七歳まで生きて偉いねって祝うそうです」
リーベスの解説に、ルドルフは話半分にしておいた。彼の豆知識だけは、なぜかいつも真実がたったの1%しか入っていない。
ふとカウンターを見ると、書類を抱えた母親が窓口で丁寧に頭を下げていた。その横で、子供が大人しく椅子に座っている。
泣かない。
騒がない。
走らない。
手持ち無沙汰に足を揺らすこともない。
ルドルフが小さく言った。
「……静かすぎる」
「役所ですからね」
「違う。落ち着いてるんじゃない。均されてるんだ」
ルドルフの言葉に、リーベスは草案のページを思い出し、データを開いた。
署名欄は、空白だった。
誰の名前もない。責任もない。
だが、実行はされている。
「名前が無い契約は、便利ですね」
ぽつりと呟く。
「誰も悪者にならない。だから、誰も止めない」
吐き捨てるような声音に、ルドルフが横目で睨んでくる。
「じゃあ、どうする」
リーベスはタブレットを閉じた。ほのかに温かいはずのタブレットが、いやに冷たく指に引っかかる。
「マックス・ムスターマン」
ありふれた名前だ。どこにでもいる。
「彼は原因じゃない」
「断言するのか」
「ええ。彼を選べば、制度が守られます」
リーベスは静かに、息を吐いた。
「今回の"原因"は、人じゃない」
天井の監視カメラが、静かに角度を変える。
背後の椅子が、きしりと鳴った。
ルドルフが振り返ると、さきほど空いていたはずの席に、背筋を伸ばした子供が座っている。その隣は、空席だ。
「仕組みです」
リーベスは、監視カメラから視線を外さずに言った。
「なら、仕組みの中に入りましょう」
「潜るのか」
「ええ。名前の無い契約が、どこで承認されたのか――」
リーベスは立ち上がった。
背後の子供は、どこかにいなくなっていた。
「“誰が大丈夫だと言ったのか”を探しに」




