第四話(後編) 大丈夫という記録
職員室は、静かだった。
紙の擦れる音と、端末の操作音だけがある。
「確認できました」
事務員は、画面から目を離さずに言った。
そこに感情はなかった。
「メアリー=アン・スミス。六歳。健康診断、学習状況、生活記録……いずれも基準内です」
教頭は頷いた。
この頷きは、判断ではない。ただの手順だった。
「包括同意書は?」
「提出済みです。有効期限内でした」
それで十分だった。
それ以上、見る必要はない。
教頭はやれやれと頭を振った。
「最近、同じケースが増えていますね」
「ええ。でも、どれも同じです」
事務員は淡々とそう言った。例外は、想定されていない。
チェック欄に印が付けられる。その動作は速く、迷いがなかった。
――これで処理は終わった。
以降、この件は「問題」として再び開かれることはない。
いつもと何も変わらない仕事だった。
*
昼過ぎ、父親の端末が震えた。学校からだった。
慌てて出ると、娘の担任の声が耳に響いた。
「はい、スミスです」
『夜分に申し訳ありません。エヴァンズです』
担任の声は落ち着いて、定型文を述べた。特段の謝罪も、戸惑いもない。
『確認が取れましたので、お伝えします』
「……確認、ですか」
『はい。現時点で、娘さんに問題は見られません』
父親は、無意識に頷いていた。相手には見えないのに。
『包括同意書の範囲内で、適切に処理されています』
「……処理」
『過度な心配は不要です、スミスさん。今後も通常通りで大丈夫ですよ』
大丈夫。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かになった。
疑問が、消えたわけではない。
ただ、置き場所がなくなった。
「……ありがとうございます」
『何かあれば、またご連絡ください』
通話は、それで終わった。
端末を伏せても、父親はすぐに動かなかった。
しばらくして、ようやく息を吐いた。
「……大丈夫だ」
それは確認ではなく、終了の言葉だった。
*
夜すらも正しくやってきた。
娘は、いつも通りの時間に布団に入った。
歯を磨く順番も、歩幅も、昨日と同じ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
娘は安心した顔で目を閉じた。
呼吸は、正確だった。
父親は部屋の灯りを消し、扉を閉めた。
リビングに戻ると、テーブルに置かれた書類が目に入る。
『初等教育過程における児童保護および将来適応性確保に関する包括同意書』
その華々しい題目の裏側に書かれた、極小の注釈を思い出す。
――《本同意は、対象者の個体差による不確実性を排除し、永続的な社会適合状態を維持することを目的とする》
「……守ったんだ」
掠れた声が、暗いリビングに虚しく響く。
失敗しないように。傷つかないように。その結果が、これだ。
「ごめん、ちょっと外に出てくる」
「はーい。あまり遅くならないでね」
妻の言葉を背に、男は逃げるようにして外に出た。
外の空気は冷たかった。
肺いっぱいに吸い込んでみるも、体の内側がすっきりしない。
少し散歩をしよう。
仕事で頭がいっぱいだから、妙に心配になってしまうのだ。
トボトボと、車だけが通る道を歩いていく。
空には綺麗な星が散っていて、導かれるように男は家族でよく行く惣菜屋の前を歩いた。
ふと視線を上げると、一台の車が停まっていた。薄汚れているが、昔流行ったスポーツカーで、男が二人、車にもたれかかって会話をしていた。一人のくすんだ茶色の髪が、街灯に照らされている。横の男はよく見えない。
こんな場所で何をしているのだろう。
男二人は何やらタブレット端末を覗き込み、難しい顔をして話し込んでいるようだった。
目が合って変に絡まれるのも嫌で、男はその横をそっと通り過ぎる。
彼らの横を通り過ぎる時に、二人の声が聞こえてしまった。
街灯の下、薄汚れたスポーツカーにもたれかかった男が、手元の端末を見つめて吐き捨てた。
「あまりにも綺麗ですね」
「……あぁ。判を押したみたいに綺麗すぎる。反吐が出るな」
「そうですね。この子の『時間』は、親の署名一筆で買い叩かれたわけだ」
冷ややかな、鈴の音のような声が夜気に混ざる。
茶色の髪の男――リーベスは、通り過ぎる父親の顔を見ることさえしなかった。ただ、彼が通り過ぎた後の空間を、まるでそこにはもう誰もいないかのような虚ろな目で見つめていた。
「……なるほど、完璧だ。この子供の時間は、署名一つで固定されたわけだ」
父親の心臓が、跳ねた。
自分の肺に冷たい棘が刺さったような気がして、彼は逃げるように足早に去った。
背後で、リーベスの静かな独白が追いかけてくる。
「……じゃあ、盗みに行きましょう。この子が捨ててしまった"明日"を」
*
児童状態確認:完了
保護者同意:有効
追加対応:不要
それ以上の言葉は、記載されなかった。




